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2023/03/31

映画『BLUE GIANT』を見に行く

2月に封切りになったアニメ映画『BLUE GIANT』(石塚真一作、立川譲監督)を見て来た。原作漫画については、以前このブログで極私的感想文を書いている(2017年8月「ジャズ漫画を読む(2)ブルージャイアント考」)。主人公であるジャズに挑戦する若きサックス奏者の人物造形やストーリーはさすがによく描けているが、「ドドド…」とか「ブオー!」とか「ダダダ…」とか、ひたすら楽器の擬音と、動きを表す背景の線(「集中線」というらしい)が続く演奏場面ばかりで、登場人物がときどき口にする内面の独り言を除けば、セリフのまったくないコマだけが延々と何ページも続き、にもかかわらず、そこから「ジャズの音が聞こえてくる」(これは人によってまったく音のイメージが違うはずだが)という空前の「脳内ジャズ漫画」だ。アニメではその漫画の人物たちが動き出し、脳内ではなく、画面から実際にジャズのサウンドが聞こえて来る。

2013年に「ビッグコミック」で連載開始したこの漫画は、単行本シリーズ第1部全10巻(無印)、続編であるヨーロッパ編「Supreme」全11巻に続き、現在は第3部のアメリカ編「Explorer」連載中という、10年間も続いて累計1,000万部近くを売った大ベストセラー漫画である。漫画に加えてCDやLP他の関連グッズを含めれば、いかなる分野であれ昔から「カネにならない」と言われてきたジャズがらみで、こんなに売れた「コンテンツ」はないのではなかろうか。それほど面白く魅力ある作品だということだろうし、昔ながらのジャズという音楽の「イメージ」を変え、それを受け入れ、楽しむ「新しい層」を開拓した、まさに画期的な漫画である。いわば「古くて、新しい音楽」というイメージを、あらためてジャズに与えた作品と言えるだろう。

坂道のアポロン
とはいえ、「ジャズ漫画」と、そのアニメ化を含むマルチメディア化は『ブルージャイアント』が初めてではない。同作の連載が始まる前年の2012年に、『坂道のアポロン』(児玉ユキ原作)が既にTV版アニメ(フジテレビ /ノイタミナ)で、ジャズを取り入れた優れた映像作品として制作されている。クラシック音楽の世界では『のだめカンタービレ』や『ピアノの森』など、メジャーな漫画もアニメもドラマもいくつか制作されているし、クラシックは年齢、性別を問わず、音楽としての認知度が高く、市場に受け入れられやすいので、今後ともその手の作品は現れることだろう。しかしジャズはそうではない。近年大衆化が進んだとは言え、ロックやポップスのように分かりやすくはなく、日本に限らず、いまだに基本的には知る人ぞ知る(コア層しか聴かない)音楽なので、若者を含めた一般人にとっては敷居が高く、コマーシャル的な観点からの市場規模も小さい。「物語」としてのジャズ漫画(2008年)も、そのTVアニメ化(2012年)も、実写映画化(2018年)も、日本生まれの『坂道のアポロン』が世界初だろう。この作品は、’70年安保闘争に揺れる長崎県の軍港・佐世保を舞台にした1970年前後の高校生の青春を、ジャズを主題にして詩情とノスタルジーに満ちた表現で描いた少女漫画が原作だ。時代背景への共感もあって、少女漫画的なストーリーではあっても、ジャズが青春の音楽だった団塊世代や、ジャズ好き中高年層にも違和感なく受け入れられ、好評を博した。とりわけアニメ版で、原作では聞こえなかったジャズの「サウンド」が、テレビの映像と共に聞こえてきたときには、大袈裟だが本当に感動したものだ。しかも映像と音楽が物語の流れに沿って自然に気持ちよく組み合わされ、たとえば文化祭の体育館での「My Favorite Things」演奏シーンのように、有名なジャズ曲や演奏が作品中でBGMも含めて使われているので、ジャズファン的にも大いに楽しめる作品だった。

一方の本作『BLUE GIANT』は、私のような年寄りのジャズ観からすると、想像すらしたことのない「熱血ジャズ漫画」という、ある意味で形容矛盾とさえ思える、あり得ないような設定の作品だ(ロックバンドの話じゃあるまいし…という)。ジャズへの情熱に駆られたド素人の高校生が、逆境をものともせず、しかも狭い日本の中に留まらず、「世界一のジャズ・プレイヤーになる」という夢に向かって世界を股にかけてチャレンジし、人生を切り開いてゆく――という、『坂道のアポロン』の穏やかで詩的、文学的世界とは正反対の、ダイナミックで、まさにスポ根的な成長物語だ。だが、たとえばセリフもそうだし、英語の各章タイトルも、『坂道のアポロン』では有名ジャズ・スタンダードの英語曲名だけだったが、本作では、その章の内容に沿った英語もタイトル名に選ばれている――など、作者の石塚真一氏の米国本土や海外での実体験と、そこで培った言語力を基にして描いているので、第2部以降のヨーロッパ編でもアメリカ編でも、相変わらず大胆で強引な主人公の行動とストーリー展開にもかかわらず、背景や人物描写にリアリティがあって、漫画的な荒唐無稽さがあまり感じられない。ヨーロッパ各国の人や価値観の多様性、ロックとジャズの対比、アメリカの文化的個性と各都市の人々の気風なども、「ユニバーサルな音楽」というジャズ最大の特性を通してよく表現されている。「前へ前へ」と常にドライヴをかけるようなストーリー展開が特徴で、また作者の人間観だと思われるが、主人公の人柄と熱意ゆえに、国や地域を問わず、かならず彼を理解し支える協力者が現れるなど、人物と人間関係の描写に常に温かみが感じられるので、どの章でもそれが心に響き、読んでいて気持ちが良い。

今回のアニメ映画版は、主人公・宮本大のジャズへの情熱、日本での成長と友情を中心に描く第1部を土台にしている。ジャズ・ピアニスト上原ひろみが演奏と作曲の他、音楽表現全体を監修していて、プロのジャズ・ミュージシャンたちが登場人物になりきって実際に演奏した「ナマ音」を録音し、そのサウンドに合わせて物語を展開させた、という本格的ジャズ・アニメ映画である。こちらも、当然ながら漫画では、いわば「空耳」でしか聞こえなかった「サウンド」が実際に映像に加わり、それが映画館のドルビー音響で、しかも大音量で聞けるのだから、ジャズファンなら楽しめないはずがない。それどころか、これまでジャズを聴いたことがない(or 原作すら読んでいない)、という若い観客層までが映画館に足を運び、ネット上で「ジャズ、カッケー!」とか言って感激している。私が行った映画館の客層も、若者もいれば、高齢者もいて、男女比も含めて幅広い層で構成されていたし、観客動員数も予想以上の大ヒット映画になっているらしい。原作もそうだが、音楽も入って、よりドラマチックな展開のアニメ版では、「泣ける」という声もさらに強まっているようだ。

これは原作者、制作者の期待(狙い)通りの反応と言えるだろう。原作者がインタビューで、この漫画を書き始めた動機について語っているように(私も上記ブログ記事で作品の背景を分析している)、ジャズ自体は今や普通にどこでも聞こえてくる音楽になっているが、その一方で、ジャズと真剣に向き合う演奏家は、この半世紀の間ジャズの「勉強と分析」に注力しすぎて、ある意味で複雑で頭でっかちな音楽にしてしまい、普通の聴き手の「エモーション(情感)」に理屈抜きで直接訴えかける、ジャズが本来持っていたはずの原初的「パワー」を失ってしまったかのように思える――という傾向に対するアンチテーゼとして、「ジャズを知らない若者にも、ジャズが持っている音楽としてのパワーと素晴らしさを、シンプルかつストレートに伝えたい」というのが、そもそもの作者の意図だった。その作者がイメージしているジャズの原点は、1950年から60年代にかけてのブルーノート・レーベルのサウンドのようだ。RVG録音に代表される当時のブルーノートのレコードと演奏は、(好きか嫌いかという次元を超えて)永遠に語り継がれる20世紀ジャズ・クラシックであり、まさにオールタイム・ジャズサウンドだからだ。作者がイメージしていたこうしたサウンドを、アニメでは上原ひろみの現代的アレンジで再現し、それを映像に加えることで若者の心を掴むことにも成功したようだ。

私はアニメーションの技術についてはまったくの門外漢なので、映像面に関して云々する立場にはないが、なめらかな線と動き、落ち着いた色彩で描かれた本作の映像は非常にきれいで楽しめた。しかしサウンド面に関しては、ジャズファン的見方からすると、映画で流れるジャズのサウンドを、漫画のイメージから予想していた通りだったという人もいれば、意外なサウンドに聞こえたという人もいるだろうと思う(私は後者だった)。アニメ『坂道のアポロン』では、いわゆる「スタンダード曲」という、ジャズファンなら誰でも知っている音楽と演奏が聞こえて来るし、時代的、ストーリー的にも当然そういう選曲になる。ビル・エヴァンスの弾く「いつか王子様が」とかジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」とかがそうで、それらがアニメ中でも違和感なく自然に耳に入って来る。しかし『BLUE GIANT』では、まず時代設定が「現代」であり、20歳前後の、ロクにジャズ理論や演奏のキャリアも積んでいない現代の若者が作曲したオリジナル曲や、彼らが演奏するジャズが、いったいどんな「サウンド」なのかは誰にも想像がつかないはずなのだ。実は、そこをアニメではどう表現するのか――制作者が、そこをどう解釈して実際のサウンドを作ったのかが、個人的にいちばん興味があったのだが、聞こえてきたのは、比較的「普通のサウンド」だったので私的には幾分拍子ヌケした(もっとフリーっぽい、ハチャメチャなサウンドを予想していたからだ)。しかし、原作者が好む上述のジャズ・サウンドの傾向と、このアニメ作品の企画意図からすると、おそらくいろいろ意見があったにしても、まずまず妥当なサウンドに直地したということなのだろう。ロックやポップスしか知らない日本の若者にアピールするためには、ある程度分かりやすい音楽でなければならないだろうし、いきなりハードでアヴァンギャルドなジャズというわけにもいかないからだ。上原ひろみが、そのバランスを考慮しながらサウンドをまとめていったのだろうと推察する。だが登場人物たちの「熱く燃え上がるような意欲」は、アニメによる動く映像の効果も併せて、サウンド的にもリアルに表現されていたと思う。

漫画『BLUE GIANT』はまだ連載中の作品でもあり、アニメ化をどこまでやるのかは分からないが、仮に今後も計画しているようなら、「旅立ち編」とも言える、日本を舞台にした今回の第1部から、いかにもヨーロッパ的な多国籍メンバーによる第2部「Supreme」、ジャズの「本場」アメリカ大陸を、冒険するかのように横断してゆく現在連載中の第3部「Explorer」――と、聞こえてくる宮本大のサックスとバンドのサウンドが、彼の人間的、音楽的成長と共に、どのように変化してゆくのかも「聞きどころ」になるだろう。ストーリー展開もさることながら、ジャズファンにとってはそれもまた、アニメ化した『BLUE GIANT』の大きな楽しみになった。

2023/03/04

BRUTUS「JAZZ is POP !」を読む

雑誌「BRUTUS」3月1日号の特集「JAZZ is POP!」を読んだ。良くも悪くも、まさに現代のジャズシーンをそのまま表しているタイトルで、新進からベテランのミュージシャン、批評家など多彩なメンバーが現代のジャズとポップスの関係を語っている。私の近刊訳書『カンバセーション・イン・ジャズ』の監修・解説をお願いしたミュージシャン&批評家の大谷能生さんも、興味深い一文を寄稿している(「JAZZの100年を一気読み。」)。19世紀西洋絵画の歴史と対比するという独自の視点で、ジャズの総体と、現代の「ポップ化」に至る歴史的変遷とその意味・背景を解説しているが、この号のタイトルからすると、マクロな視座でジャズの変容を分かりやすく伝えるこの一文こそ「巻頭」に置くべき文章ではないかと思った(ジャズ誌ではないので、仕方ないか)。分野によらず、重箱の隅をつつくような細かな断片情報ばかりが目立つ現代日本で、こうした視点でジャズという音楽全体を俯瞰し、相対化できる批評家はもう少ないと思う。私の訳書の監修・解説をお願いしたのもそれが理由である。

1960年代にモードを手にして芸術の域に達し、一方、当時の政治状況を反映して難解さと抽象度を増したフリージャズで自己解体してしまったかのようなジャズが、その「反動」で、最初に「ポップ化(=大衆化)」したのは世の中が穏やかになった1970年代である。主導したのはもちろん60年代末のマイルス・デイヴィスの電化ジャズであり、その弟子筋のハービー・ハンコックのファンクや、チック・コリア、ウェザーリポートなど、ジャンルをミックスしたようなジャズが続々登場し、その後70年代半ばから「フュージョン」として本格的に大衆化した時期がそれだ。同じ頃デューク・エリントンが亡くなり、マイルスが一時引退し、モンクも引退し…という史実が象徴するように、それまで隆盛だった「モダン・ジャズ」は、ここでほぼ30年の進化の歴史を終える。しかし、この時点から80年代末までは、それまでの余韻とウィントン・マルサリスの登場などもあって、ポップ化したものの、まだ主がジャズであり従がポップス側という「イメージ」が世の中的にも成り立っていた。特に日本では、バブルに向かっていた好景気が、ジャズ=高級=大人の音楽という従来のイメージを支え、ジャズクラブの隆盛に見られたように、聴き手も音楽市場もそれをエンジョイしていたからだ。

Roy Hargrove
The Vibe (Novus, 1992)
しかし日本のバブル崩壊と時を同じくして、1990年前後にマイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、スタン・ゲッツなど、20世紀最後のジャズアイコンが相次いで消え、それと共にジャズとポップスが主客転倒してゆくのが90年代からである。ロイ・ハーグローヴという人は、ちょうどその端境期に登場したトランぺッターで、彼を見出したウィントン・マルサリスがモダン・ジャズに引導を渡し、どっぷりと古いジャズ側(博物館)に回帰して行ったのに対し、ハーグローヴはモダン・ジャズの香りをまだ残しつつ、重心はR&B、ヒップホップなど、既に21世紀のジャズ側に移行している非常にイキのいい斬新なアーティストだった。だから私にとって「20世紀最後のジャズマン」は、ロイ・ハーグローヴであり(もう一人はサックスのジェイムズ・カーターだった)、「ブルーノート東京」で90年代に見た、まだ20歳代のやんちゃなハーグローヴのライヴの記憶は、今思えば、あたかもモダン・ジャズの「フィナーレ」のようだった。現代のジャズを代表するアーティストの一人であるロバート・グラスパーと、そのハーグローヴの関係を今号の「BRUTUS」で知って、なるほど、と合点がいった。しかし、そのハーグローヴも2018年に49歳という若さであっさり亡くなってしまった。

現代は、20世紀のようにジャズが越境してポップス側を徐々に「侵食している」という構図ではなく(これは昔ながらのジャズ側からの視点だ)、資本の論理がより強まって、巨大化したビジネスになったポップス市場全体にジャズが呑み込まれ、その内部で攪拌され、希釈され、分解し、細かな「ジャズ粒子」となって拡散しながら、現代のポップス全体に溶け込みつつある、というイメージではないかと思う。20世紀はじめに音楽的進化をほぼ終えた西洋クラシック音楽が、完成されていた和声の基本体系を提供して、100年前にジャズの生みの親の一人になったわけだが、これを歴史的に見れば、ジャズとは「クラシックのポップ化」の一環として生まれた音楽だった、とも言えるだろう。近年のクラシック音楽のさらなるポップ化ぶりはすさまじいものがあるが、続いてその子供であるジャズもまったく同じ道を歩んでいるとも言える。21世紀における音楽のポップ化とは、ある意味で、現代資本主義が20世紀までの芸術を食いつぶす過程、すなわち20世紀までの純粋芸術解体プロセスの一環なのである。

amazonジャズ書籍の
独走ベストセラー本

「ジャズのポップ化」を牽引しているのは消費側(聴く側)だけではない。ジャズ誌「スイングジャーナル」が休刊して10年以上経つが、今やジャズ界で隆盛なのは「聴き手側」の情報誌よりも「演奏者側の本」で、ジャズ理論だけでなく、ギターを筆頭に、ピアノ、サックス、ドラムス、ベースなどの教則本、楽譜、奏法解説など、昔は考えられなかったほど多種多様な楽器別のジャズ誌や本が増殖している。この基調を形成し、それまでの「聴くだけ」のファンでなく、ジャズを「演る」ことの面白さに若者を目覚めさせたきっかけの一つが、出版物にまだ力があった15年ほど前、’00年代半ばの菊地成孔、大谷能生両氏による、ジャズの歴史と理論を「ジャズ演奏者側」の視点で初めて語った一連の著作(マイルス、バークリー、東大アイラ―本)にあることは間違いないだろう。その後2013年から連載が始まり、「BRUTUS」今号にも特別掲載されている、若き主人公がミュージシャンとして成長する姿を熱く描く、ジャズ系スポ根(?)漫画『ブルージャイアント』も、その流れを強めたことだろう。つまり、ジャズを演奏する側の数が昔に比べて圧倒的に増えたが、彼らは当然ながら聴く側の人でもあり、結果として、聴き手のジャズや楽理に関する知識も昔とは比べられないほど高度化しているということでもある。毎年日本各地で開催される「ジャズフェス」の数の多さには本当にびっくりするが、加えて、蕎麦屋やラーメン屋やファミレスやショッピングセンターで、BGMとして流れる「匿名ジャズ」が当たり前になったように、ジャズの音楽としての垣根も低くなり、日常生活の中で普通に聞こえてくる音楽になった。こうして感覚的にも、日本人全体のジャズ・リテラシーが大幅に高まって、ポップ化を加速しているのだろう。

今や何をもって「ジャズ」と呼ぶのかもはっきりしなくなり、そう呼ぶことにいったい意味があるのか、という疑問さえ湧いてくるのが現代の日本の音楽シーンだ。印象からすれば、「ジャズ」とも呼べるし「ポップス」とも呼べるような「ジャズっぽい音楽」が急増している、という表現がいちばんしっくりと来るが、それをジャズ目線で俯瞰的に見れば、常に時代と共に変容してゆくジャズという音楽の、「現時点の姿」にすぎないとも言える。とはいえ、たとえジャズそのものがどう変化しようと、聴き手側 も「同時に」変化してゆくのは困難なのだ。たとえば、20世紀半ばの「黄金期のモダン・ジャズ」(=ジャズという音楽の基本モデル)を同時代の音楽として聴きながら青春時代を送った人たちにとっては、それがデフォルトであり、「ジャズ」とは今でもその時代における意味、感覚、体験を喚起する具体的言語であり音楽なのだ。それ以前のスウィング・ジャズも、後のフュージョン世代もそこは同じだ。これは、「生きた時代」 が違うのだから仕方がない。音楽を聴くということはきわめて個人的な体験であり、いつの時代も、感受性がいちばん豊かな青年期に、いちばん感銘を受けた音楽は無意識のうちにその人の身体の奥深くまで浸透し、人は生涯それを忘れることができないからだ。それが音楽の持つ力であり、音楽と人間との関係というものだろう。つまり、音楽は「その時代の聴き手」を選ぶということである。

60歳、70歳になっても、現在進行形の新しい音楽に関心を持ち、それを鑑賞し批評できる感性を持ったスーパー中高年(&老人)も中にはいるだろうが、基本的に 「contemporary (同時代の)音楽」 の主役は常に若者であり、いつの時代も若者の感性だけが新たな魅力を持ったその時代のアートを 「発見」 してきたわけで、年寄りにはその能力も出番もないと思った方が賢明だろう。若者は今現在と未来に生き、先の短い年寄りが過去を振り返るのは人間として当たり前のことであり、世の中はそれがうまくバランスすることで健全さを維持してきた。だから、一時期のように(「ど・ジャズ」と呼んで過去の音楽をバカにしたり、反対に(「あんなモノはジャズじゃない」と言って)現代の音楽に価値を認めないといった、世代を対立させ分断するような不毛な議論ではなく、ジャズという、ひと繋がりの長く、深く、幅広い歴史を持った音楽を愛する聴き手として、互いに補完し合い棲み分けることが可能なのだ、という認識が大事だと思う。

「21世紀のポップス」とは、ある意味で、クラシックやジャズという近代芸術音楽の集大成ともいうべき要素と構造と技術から成る非常に「高度な音楽」であり、21世紀のポップスの聴衆も、それらを苦も無く楽しめるほどの音楽的感性とリテラシーを備えた人たちだと言うこともできるだろう。音楽を構成する素材とアイデアは、20世紀までに、もうあらかた出尽くした感があるので、たとえテクノロジー面での 「進化」 は続いても(AIやコンピュータが生み出す音楽なども含め)、21世紀の音楽そのものにあるのは 、 完成した部品の新たな組み合わせで得られる「変化ないし多様化」 だけではないだろうか(大谷さんは、それを「リ・デザイン」と呼んでいる)。伝統的に、外国からやって来たものを何でも取り込んで「日本化」 してしまうのが得意な我が国でも、現在のJ-POPの音楽的進化(作曲者、演奏者、聴衆)を見ていると、ジャズ側の延長線上というよりも、むしろ大衆音楽としての 「J-POPという総体」の中から、やがて日本独自の音楽とジャズが融合した、真の「J-JAZZ」と呼ぶべき新たな音楽ジャンルが生まれて来るのではないか、という予感さえする。今号の「BRUTUS」にはそれを感じさせる星野原さんも登場しているが、ジャズの技術や要素を自然に取り入れた近年のJ-POPのサウンド、それを演奏する一部アーティストの洗練ぶりは、まさに世界レベルだと思う。むしろJ-POPこそが、日本ジャズ独自の進化系だと思えるほどで、この音楽は21世紀の今後に向かってさらに進化してゆく可能性を秘めていると思う。

100年前にアフリカ、ヨーロッパ、カリブ海からの様々に異なる音楽的、文化的、社会的要素が混淆、融合して北米のニューオーリンズという場所で偶然生まれ、その後米国の発展と繁栄を背景に世界中へと拡散していった「 JAZZ と呼ばれてきた音楽」が持っている最大の特質は、やはり「雑種のDNA」なのだろう(つまり、この音楽はアメリカという国家そのものだ)。「ジャズは死んだ」と何べん宣告されても、どっこいどこかでしぶとく生き残っていく強靭さがその象徴なので、以前は「ゾンビ」 のような音楽だと思っていたが、最近はやはり「雑種」という出自が、その生命力の源なのだとあらためて思うようになった。アメリカ生まれのどんな音楽も、ある意味で雑種と言えるが、ジャズの持つ「雑種性」 はそのスケールと深度と多様性が違う。それゆえその本質が固定した枠組みに縛られず(自由)、一箇所、一ジャンルに留まらず(越境)、状況 に応じて自在に変化し、膨張を続ける(変容)――という類を見ない音楽になったのだろう。今や空気のように当たり前に存在し、時代に応じて変化し続けるこの音楽がこれからも「JAZZ/ジャズ」と呼ばれるのかどうかは分からない。しかし、20世紀に北米の一地方で起きた音楽上の化学反応と同様のことが、21世紀にはおそらく世界的規模で、地球上のどの地域でも起こり得る、あるいは既にそれが起きつつあるのは確かだと思う。その音楽が、名称はともかく、やがて「21世紀のジャズ」となるのだろう。