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2022/06/21

(続)天才 !? 清水ミチコの世界

6月11日に東京・調布市グリーンホールで行なわれた「清水ミチコ Talk & Live」に出かけた。今回は、他の芸人との抱き合わせではない「単独」ライヴ公演だ。YouTubeの『シミチコチャンネル』でときどきフォローしているが、生(ナマ)清水ミチコは30年前の「渋谷ジァンジァン」以来である。自分でコンサート会場に出向くのも、コロナ前以来3年ぶりくらいで、最後に行ったコンサートが何だったのかも、もう忘れてしまったくらいだ(最近はもの忘れが激しい。どうでもいいことはほとんど覚えていないが、気にしないことにしている。そういえばコンサート以外のライヴだと、『稲川淳二の怪談ナイト』に去年行ったことを思い出した)。

1,300人収容の会場は満員御礼で、コロナのおかげで、長い間、外出もライヴ公演の機会にも飢えていた中高年でいっぱいだった。観客の中心年齢はたぶん60歳くらいで、そこに50代、70代が加わる、という感じだろうか。これは清水ミチコ本人、モノマネ対象を含めた世代を考えたら当然だろう(若い人にとっては、まず対象になる「本人」が誰なのか知らないことも多いので――政治家とか綾戸千絵とか――清水ミチコの芸のすごさも面白さも分からないだろうし、逆に、今回もOfficial髭男などの新ネタを取り入れていたが、会場の「??」という反応が……このあたりがモノマネ・ビジネスの難しいところだ)。男女比は、ざっとみたところ女性が7、8割くらいだったように思う。清水ミチコが、女性に人気のある人だということも分かる。適度に毒とスパイスが効いた唯一無二のあの芸もそうだが、彼女の姿勢や生き方が好きな女性もきっと多いのだろう。

それぞれ誰か?
1時間半の間、笑いっぱなしだったので、(歳のせいもあるが)内容をほとんど忘れてしまったくらいだ(マスクは全員装着していただろうが、どうしても声をあげて笑ってしまうので、これでいいのか…と思っていたが、お笑いショーなので仕方がない)。お馴染みのネタに加え、スクリーンを使ったオモシロ通販動画や、最新の時事ネタ(4,630万円誤送金、橋田壽賀子財団着服)など、かなりの新ネタも織り込んでいた。亡くなった瀬戸内寂聴さんも登場させるなど、常にネタや芸をアップデートしながら客を飽きさせない工夫をし、マンネリ化を防いでいるところも立派(?)だ。『シミチコチャンネル』では新ネタの創作過程まで、惜しげもなく(?)公開している。いずれにしろ、あの密室芸を、映像ではなく、こうして「生」で見られるライヴは実に貴重で楽しい。

会場で見ながら(聞きながら、笑いながら)つくづく思ったのは、ナマの清水ミチコのピアノと歌は本物(?)で、実に素晴らしいということだ。このすごさ、レベルの高さはテレビやネット動画を見ているだけでは、たぶん分からないだろう。大ホールいっぱいに響く彼女のピアノのサウンドと歌声は本当にすごい。下手をすれば(しなくても)、モノマネ対象の本人よりもずっと歌がうまいことだって多々あるだろう。(絶対音感の持ち主なので)とにかく音(原曲のメロディや、真似する歌手の声や音程)をまったくはずさないし、全体のデフォルメが半端ないほど高度なレベルに達しているので、とにかく、モノマネ以前に単独の音楽芸としての完成度が高いのである。実際これはジャズ・ミュージシャンのインプロヴィゼーションに匹敵するレベルの演奏と言えるだろう。

そして1時間半の間、たった一人で千人以上の観客を爆笑させ、乗せまくって、楽しませるエンタテイナーぶりも最高だ。今年は1月の武道館に始まり、今後もまだあちこちでライヴ開催の予定があるようなので、これまで未見の人は、ぜひ一度ライヴ会場に足を運んで、「生(ナマ)清水ミチコ」のすごさと面白さを実際に目にすることをお勧めします。特に先の短い人は、冥途の土産に、一度は見ておく価値のあるライヴです(料金もお安くなっています)。

(*)具体的に何が、どうすごいかは、2021年10月29日の本ブログ記事「天才 !? 清水ミチコの世界」で、長年の清水ファンとして勝手な私的分析を試みているので、興味のある人はそちらをご参照ください。

2021/12/06

追悼・中村吉右衛門

中村吉右衛門が11月28日に、77歳でついに亡くなってしまった。春先に倒れて救急搬送されて以来、なんとか回復して欲しいと、毎日テレビで『鬼平犯科帳』を見ながら祈っていた。その後ほとんど報道されて来なかったので心配していたが、先日も、その後容態はどうなのだろうかと案じていたばかりだった。

BSフジで毎週放映している二代目中村吉右衛門による『鬼平犯科帳』は、1989年に放送開始されて以降、2001年の第9シリーズまで放送され(以降はスペシャル版)、現在もたぶん何回目かの再放送中で、11月には第4シリーズ(1992- 93年)を放映中だった。これまで各シリーズ、スペシャル版含めてほとんど見てきたし、録画した放送を毎日見るのを楽しみにしてきた。私はとりたてて、いわゆる時代劇のファンでもないし、真面目に見てきた時代劇の番組は、NHKの大河ドラマや人情時代劇を除けば『鬼平犯科帳』だけだ。懐かしい松竹時代劇の、光と影のコントラスト、色彩の濃い独特の映像は、冒頭から一気に江戸時代の鬼平の世界へと引き込まれ、瞬く間に現世を忘れさせてくれる強烈な引力があり、毎週(毎日)見てもまったく飽きることがなかった。おそらく日本中に、私のように時代劇はあまり見ないが『鬼平』だけは別、というファンが数えきれないほどいることだろう。それほど、長谷川平蔵―鬼平は、中村吉右衛門と一体化していた。脇を固める他のキャストがまた素晴らしく、密偵役の江戸屋猫八、梶芽衣子の他、奥方の多岐川裕美、火付盗賊改方の与力、同心のメンバーなど、安心して見ていられる俳優ばかりで、毎回異なる、個性豊かな男女のゲスト出演者の演技も楽しめた。何より、鬼の平蔵の持つ江戸の粋と洒落っ気を、吉右衛門が見事に表現していた。春夏秋冬の江戸情緒あふれる景色(実際の映像は京都だが)を背景にして流れる、ジプシーキングスのギターによるエンディング曲「インスピレイション」が終わるまで、その回が「終わった」という気がしないので、ついつい最後の、雪の夜の立ち食い蕎麦屋のシーンまで見てしまうのだ。中村吉右衛門演ずる『鬼平犯科帳』は、そのヴィジュアル・インパクトが強烈で、はっきり言って池波正太郎の原作小説をはるかに超える面白さがあった。

「歌舞伎」の中村吉右衛門こそが本来の役者としての姿なのだろうが、残念ながら私はその世界をついに生で見ることはできなかった。だが、昔(1960年代末)から映画で知っていて、その当時は、実兄の6代目市川染五郎(現2代目白鷗)が、テレビのバラエティ番組出演、ブロードウェイ公演、大河ドラマなど、派手な活動で目立っていて、吉右衛門はどちらかと言えば地味で目立たない側だった。しかし映画で見た、長身痩躯で、男らしく、いかついのに優しい風情を全身から醸し出す吉右衛門が当時から私は大好きだった。大学入学後に見たATG映画、篠田正浩監督の『心中天網島』(1969)、新藤兼人監督の『藪の中の黒猫』(1968)という二本の映画で、初めて吉右衛門という役者を知った。岩下志麻と太地喜和子という名女優を相手に、片や大坂天満の情けない若旦那・紙屋治兵衛を、片や東国の夷敵征伐を終えて意気揚々と都へ帰還した源頼光配下の若侍・藪の銀時という対照的な役柄を演じた、まだ本当に若い20歳代前半の中村吉右衛門の姿が今も鮮明に瞼に焼き付いている。両映画ともに、後にDVDを購入して何度も見て来たので、リアルタイムで前後者どちらを先に見たのかはっきりとは覚えていないが、1970年あたりだったことは間違いない。両映画ともにモノクロームの時代劇だが、『心中天網島』は近松門左衛門の有名な人形浄瑠璃が原作の前衛的映画で、あの時代の傑作映画の一つだ(『心中天網島』については、本ブログ2020/2/7付けの記事「近松心中物傑作電視楽」で詳細を回想しているので、興味のある人はそちらをご参照ください)。

もう一作、新藤兼人監督の『藪の中の黒猫』は、1966年に2代目吉右衛門襲名後の初主演映画だった。カンヌ映画祭出品を意識して日本色を強く打ち出した怪異譚で、平安時代の源頼光配下の四天王の一人、渡辺綱(わたなべのつな)の「一条戻り橋」の鬼退治伝説を核に、「雨月物語」、「羅生門」の怪奇と悲哀、さらに野武士に殺され、その復讐ゆえに化け猫になった母娘という、ストーリー的には日本的情緒、妖怪、怪異伝説のてんこ盛りミックスの怪作(?)だ。見どころは、やはりモノクロの凝ったカメラワークと美しい映像、太地喜和子の妖艶な美しさ、まだ初々しささえ残る若き中村吉右衛門の演技だろう。特に化け猫になって、羅生門を通る武士を誘い込んで殺す太地喜和子が、漆黒の闇を背景にして、門の二階部分(実際の撮影地は、京都・東福寺の山門)に白く光る妖怪として右手から滑るように登場するシーンは、初めて見たときには本当にぞくっとするほど怖く美しかった。妖怪になった実母と妻の退治を命ぜられ、その運命を知って苦しむ当時20歳代前半の中村吉右衛門は、50年以上前のこの映画のときから、その後の鬼平役に通じる、男らしく朴訥でいながら色気のある風情をすでに醸し出している。その1年後の『心中天網島』では、正反対ともいえる、遊女(岩下志麻)に溺れる情けない大坂商人という、いわば非常にふり幅の広い両極の役柄だったが、あの若さでいずれの役も見事に演じていた。

『徹子の部屋』の追悼特番で、1970年代、30歳代から最近の70歳代までの吉右衛門出演の出演回を放映していた。黒柳徹子との対話を通して見る実際の吉右衛門は、言葉も喋りも滑らかで、とても軽やかに生きて来た人物のように見える。歌舞伎役者でありながら、幸か不幸か4人の娘に囲まれたが、やっと後継になれる男子の孫に恵まれて嬉しそうな表情の吉右衛門は、晩年は穏やかな人生を過ごしていたようだ。しかしそれにしても……本当に残念だ。中村吉右衛門さんのご冥福を心からお祈りしたい。

2021/10/29

天才 !? 清水ミチコの世界

【祝第13回 (2021年度) 伊丹十三賞・受賞  (7/28)  

都知事から祝辞も
《伊丹十三賞とはデザイナー、イラストレーター、俳優、エッセイスト、テレビマン、雑誌編集長、映画監督……さまざまな分野で才能を発揮し、つねに斬新、しかも本格的であった仕事によって、時代を切り拓く役割を果たした伊丹十三の遺業を記念し、「伊丹十三賞」を創設いたしました。

あらゆる文化活動に興味を持ちつづけ、新しい才能にも敏感であった伊丹十三が、「これはネ、たいしたもんだと唸りましたね」と呟きながら膝を叩いたであろう人と作品に「伊丹十三賞」は出会いたいと願っています》

…ということで(遅くなりましたが)、受賞の知らせに、「振り込め詐欺かと思った」とコメントした清水ミチコさん、おめでとうございます!

最近、自分があまりテレビを見なくなったせいだと思うが、清水ミチコは、森山良子との例の「ポン、ポン」というカツラのCMくらいしかテレビでは見かけない。しかし、特にモノマネファンでもない私だが、なぜか時々、禁断症状のように無性に清水ミチコの芸を見たくなることがある(濃い芸なので、たまに見る程度がちょうどよい)。今となっては、まさに夢のような伝説のバラエティ&コント番組『夢で逢えたら』(フジテレビ)で、売り出し中のダウンタウン、ウンナン、野沢直子という強力なギャグ芸人を相手に、30年前のバブルに浮かれる若い女性の一断面を活写(?)した、人格&顔面破壊キャラ「伊集院みどり」を創作。その強烈なコスプレを演じきって、女優としての才能の片鱗も示し、単なるモノマネ女芸人を超えた存在になって以来、私は清水ミチコの大ファンなのだ。当時「渋谷ジァンジァン」のライヴまで見に行ったくらいだ。

伊集院みどり嬢
こんな感じでした
そういうわけで、久々にネットであれこれ情報を見ていたら、清水ミチコが主催しているYouTube『シミチコチャンネル』を発見した。既に開設後1年以上経っているらしいが、即チャンネル登録もして、これでやっと、あの芸を見たくなったらいつでも見られるようになって安心した。『夢で逢えたら』も、以前ネットで探したときはまったく見当たらなかったので、動画ではもう見られないと思って諦めていた。ところが最近はもうYouTubeで一部の動画を見ることができる(著作権がどうなっているのか知らないが)。いや、30年ぶりにあの動く「みどり」と対面して感激(?)した。はちゃめちゃ傑作コント「いまどき下町物語」も見られるし(清水ミチコは母親役)、今見ても、どのコントも本当にワイルドで面白い。出演者もまだ全員が若くてエネルギッシュで、芝居のテンションも高いので、この番組は今の普通のテレビ放送ならそれこそNG連発だろうし、「みどり」のキャラ造形も、いかに面白くても今ならまずNGか、炎上必至だろう(女性蔑視とかで)。ただ、「みどり」のメイクが最初に登場したときから、どんどん変わって(激しくなって)行くのに気づいて、また笑ってしまった。

ショーグン様の某国アナも
(タモリとの共演熱望)
清水ミチコは巷間「女タモリ」と呼ばれているそうで、本人もタモリからの影響を広言しているが、確かにこの二人には共通点が多い。師匠もいないし弟子も取らない、というピン芸人としてのストイックな矜持が感じられるし、普通の芸人と違って媚びない自然体のキャラも、どんな相手でもフラットに受け入れる包容力と姿勢もそうだ。芸のインパクト、独創性という点で、ビッグになる前のタモリのデビュー芸「4ヶ国語麻雀」に匹敵するのが、清水ミチコの「伊集院みどり」になるのだろう。モノマネも声帯、形態、顔面模写に加え、創作キャラ造形(いかにも本人が喋りそうな言葉や歌などを、デフォルメしてパロディとして表現する)を面白おかしく加えるところが芸としてのオリジナリティの源で、単なるモノマネ芸人と違うところだ。タモリの、今や古典とも言える寺山修司や「一関ベイシー」のマスターがそうだが、清水ミチコも高校時代の「桃井かおり」から既に、マネではなく「本人に同化する、なり切る」というコンセプトで取り組んで(?)いたそうだ。それにしても、女ピン芸人がほとんどいなかった30年前の「渋谷ジァンジァン」時代から、ほとんどその種の演目(基本的にはテレビ放映できないような ”密室芸” )だけで構成して、今や「武道館」で単独ライヴ公演を毎年開催する清水ミチコの天才ぶり、躍進ぶりは本当にすごいと思う。

本当はこんな感じの人らしい
後ろのCD,LPの量がすごい
二人に共通のバックボーンはジャズだ。早稲田のモダンジャズ研究会に所属していたタモリのジャズ通は周知のことだし、一方清水ミチコも、父親が元ジャズベース奏者で、実家は飛騨高山でジャズ喫茶を経営しているという。タモリはトランペットを(ピアニカも!)、清水ミチコはピアノを演奏し、タモリが恩人・山下洋輔と共演すれば、清水ミチコは早くからファンだった矢野顕子と共演するなど、二人ともプロ並みの半端ない知識と技量を持っている。ジャズは素材となる楽曲がまずあり、それを即興的にデフォルメ(インプロヴァイズ)してゆき、そのデフォルメという行為の中でいかに自分の「個性」を表現するかという音楽だ。そして自分の「話し言葉」をそのまま「楽器の音」に変換した音楽である(語るように演奏する)。だからジャズ・ミュージシャンの究極の目標とは、誰が聞いても分かる「自分固有の声(voice)」 を楽器で表現できるようになることだ(タモさんの有名な早稲田時代のギャグ話「マイルスのトランペットは泣いているが、お前のトランペットは笑っている……と言われてMCに転向した」は、ある意味、実にこのジャズの真理をついた言葉なのだ)。だが実は昔から、どんなジャズマンであれ、最初は先人や自分の好きなアーティストなど、「他人のコピー」(マネ)から入るわけで(昔はもちろん耳コピ)、ジャズの巨人たち、パーカーであれマイルスであれ、そこはみな同じだ。ジャズ全体はいわば、そうして過去の名人たちから延々と連なるコピーの連鎖で出来上がった音楽なのである(モンクの音楽は極めて独自性が強いが、それはモンクが単なる奏者ではなく、デューク・エリントンと同じく、70曲ものオリジナル曲を創作したジャズ界では稀有な「作曲家」でもあったからだ)。

したがってジャズ・ミュージシャンは、まず耳がよくなければならないし、他人の音を聞き分ける能力が重要だ。ガチガチに決められた音楽ではなく、即興でやる以上、ある程度の適当さ、いい加減さ、ユルさも必要で、その芸能的「自由さ」と、その対極にある即興演奏を極めるという芸術的「厳しさ」、すなわち緊張 (tension)と弛緩 (relaxation) が常に同居しているところがジャズの魅力だが、タモリ、清水ミチコの芸には常にその両方が感じられる。また音であれ言語であれ、どんな場でも「即興で反応できる」という能力、デタラメ外国語などを「それらしく聞かせる」ための自在なリズム、イントネーション技術もジャズゆずりだ。加えて清水ミチコが、音を即座に正確にとらえる「絶対音感」を持っていることが、そこに生かされているのはもちろんで、そうでなければ、あの矢野顕子と一緒にピアノを弾いて歌は唄えないだろう(タモさんについては知らないが、当然すぐれた音感の持ち主のはずだろう)。ユーミンから美輪明宏まで、「様々な声を生み出す」 驚くべき発声法も、声楽のプロ並みの技術はもちろんだが、その基になる音を精密に聞き分ける(分析する)能力がまずあるから可能なのだ。

笑いのプロなのだが基本的に「真面目にふざける」素人的なところ、笑いが乾いていてカラッとしているところ、社会人としてきちんとしているが、家庭の匂いをまったく感じさせないところ、など他にも共通点は多い。だがやはり、いちばん大きな共通点は、タモリの名言「やる気のある者は去れ!」という、常に肩の力を抜いて力まない態度であり、そこから生み出す笑いの中に感じさせる「イヤミのない知性」だと思う(すぐれたジャズにも、知性とユーモアが共存しているものだ)。これは他の芸人の中にはあまり見られない種類の「笑いと知」のバランスなのである。たぶん二人の唯一の違いは、タモリの笑いには、ある種のユニヴァーサル性があって毒気がないが、清水ミチコの芸は一種の冷やかし芸というべきもので、乾いているが、ギリギリの線を超えないレベルで、その底に「女性特有の毒(意地悪)」があって、それが独特の笑いのスパイスとして効いているところだろう(ただしモノマネの対象はほとんど、自分が好きな人や、ある分野で既に権威を確立した、たとえからかっても問題ないような人たちを選んでいる)。

YouTube
『シミチコチャンネル』
『シミチコチャンネル』は百面相と言うべき傑作モノマネ動画でいっぱいで、見ていると止まらなくなって笑いっぱなしになるが、対談動画もおかしい。中でも私が好きなのは黒柳徹子との傑作トーク『師に学ぶ』と『大竹しのぶさん対談』だ(清水ミチコは非常に聞き上手でもある)。黒柳さんのエジプトの駱駝のモノマネとか、カンボジアの迎賓館(宿泊所)の部屋で体験したという、壁を這うヤモリ夫婦と殺虫剤で対決した話、そのときの黒柳流「ヤモリ語通訳」や、平野レミさんの結婚式キンカクシ談、哀しくもおかしいお父さんの葬式の話(お父さんの引き出し…)等は、何度見ても笑いすぎて涙が出る。黒柳さんは、タモリや、清水ミチコが相手のときは本当に楽しそうで、本来のお喋り全開のまま止まらないといった感じ(トットちゃん状態)になるところが面白い。大竹しのぶとは、どっちが本人か分からなくなるような「魔性の女・大竹しのぶ」のイジリ方、突っ込み方と、天才女優同士(?)の「絶妙な」駆け引きも楽しめ、これも名作だ(特に大竹しのぶの表情は必見。ラジオでやっていた桃井かおりと大竹しのぶの対決も傑作)。

モノマネ動画は、今や古典となったユーミ "ソ” に始まり、以前は歌手が多かったが、最近は「however=しかしながら」の小池百合子「で・ござ・い・ます」のヒット(?)以来、また自民党が豊富なネタを提供している昨今の政治状況を敏感に察知し、笑える政治家ネタが増えてきて、最近では安倍晋三以下、河野太郎や、麻生副総理、さらに高市早苗などの顔面模写入り新ネタも披露している(麻生氏の「な!」には笑った)。どれも相変わらずシャープなイジリと突っ込みぶりがすごい。『シミチコチャンネル』では、他にも清水ミチコがモンゴルへ行って、動物を癒すという本場の歌唱法「ホーミー」を習得して、それを現地の駱駝や羊に試すが逃げられるなど(動物園のアルパカとかカピバラは成功)、清水ミチコの過去の名人芸、名作も、これでもかというくらい楽しめるので、お好きな人はぜひ一度(たまに)視聴することをおすすめしたい。

清水ミチコ氏は、これからみんなが歳をとって、段々モノマネする対象がいなくなる…という懸念を表明しているが、個人的な願望として清水さんに何とかお願いできないかと思うのは、(過去にやっているのかもしれませんが)「黒柳徹子、平野レミ、清水ミチコ」という強力女性トリオで、延々と(たぶん止まらないので)トークバトルを繰り広げるという企画です(当然ながら話の内容は何でもいい)。もちろん仕切り役は清水ミチコで、そこに、桃井かおり、大竹しのぶ、室井佑月、デビ夫人、瀬戸内寂聴、美輪明宏、小池百合子等(某国の女性アナ、「みどり」も可)が次々に参入し、場がぐちゃぐちゃになったところに、イグアナならぬヤモリになったタモリ(本物)まで乱入してきて、カンボジアでの黒柳さんの蛮行を「ヤモリ語」で非難して口論になり、そのまま抱腹絶倒のめちゃめちゃトークとモノマネ合戦になって、最後はめでたく4人による、文字通りの「ほぼ4ヶ国語(全員が勝手に喋る)」麻雀大会に流れ込む……という非常に分かりやすい企画です。若者はともかく、少なくとも中高年層には受けること間違いなしの、これぞ天才芸の集大成というべき企画案だと思いますが、早くしないと、みなさん誰もいなくなる可能性があるので、元気でおられる(生きている)うちに、できればぜひとも実現していただけないかとお願いする次第です。

2021/05/14

井上陽水の50年

ジャズ以外の音楽を聴くとなると、年末に聴く演歌系とは別に、年に何回か集中して聴きたくなる日本人アーティストがいる。私の場合、長谷川きよしと並んで頻度が高いのはやはり井上陽水だ(他には、ほぼ夏限定だが山下達郎、大瀧詠一、サザン)。いつもはレコードを聴くのだが、たまには映像でもということで、先日は「陽水の50年」という、井上陽水のデビュー50周年となる2019年末にNHKが放送したテレビ番組の録画をしばらくぶりに見た。もちろん陽水の歌も久々に堪能したが、松任谷由実、玉置浩二、奥田民生、宇多田ヒカル、リリー・フランキーという陽水と交流のある5人のゲストが、旧友、師匠、弟子、同業者、先輩、ダチ…といった各視点で陽水を語る趣向も面白かった。玉置浩二、奥田民生との懐かしいデュエット、宇多田ヒカルの〈少年時代〉のカバー映像(一部だが)なども楽しめた。

ユーミンが「ヨースイ」と呼び捨てにしたり、奥さんの石川セリと親友だ…とかいう話も初めて聞いた(前に一度見たはずなのだが、演奏部分は記憶にあっても、このコメントは憶えていなかった…)。奥田民生の、陽水のカニ好きの話も面白かったが、興味深かったのは、宇多田ヒカルがソングライターとしての彼女との同質性を語った、特に歌詞に関する分析で、陽水の詩の本質を見事に捉えていたように思う(さすがに天才同士)。相変わらず掴みどころのない、陽水のシニカルでおネェな喋りも久々に楽しんだ。昔から、思い切り力の抜ける「みなさん、お元気ですかー」という日産セフィーロのバブル時代(1988年)のCMといい、時々テレビで見たタモリとのサングラス漫談のようなやり取りといい、最近では『ブラタモリ』の脱力系エンディング・テーマ〈女神〉といい、清水ミチコのモノマネのネタになるほどキャラの立った陽水には、唯一無二の存在感がある。今やユーミンも出ている年末の『紅白』には、「恥ずかしいから」という理由で出場しないところもおかしい。

それにしても70歳を越えてなお(1948年生まれだ)衰えを見せずにあの高音域を駆使し、しかも50年も前の自作曲を、まったく古臭さを感じさせずに唄いこなす井上陽水は間違いなく天才だが、その尋常ではない才能とバイタリティからして、「怪物」とさえ呼べそうな気がする。「アンドレ・カンドレ」 という、"いかにも" な芸名で陽水がデビューした1969年前後は、20歳前後になった団塊世代に支えられ、あらゆる新しい音楽が爆発的な勢いで出現した日本の音楽市場の「ビッグバン時代」だった。今はもう当たり前だが、自作自演の「シンガーソングライター」という言葉が生まれたその時代に、鮮烈なオリジナリティを持って現れ、その後半世紀にわたって楽曲創作を続け、唄い続け、しかも時代ごとに、誰もが今でも記憶している大ヒット曲をコンスタントにリリースしてきた陽水ほど、その呼称にふさわしい日本人歌手はいないだろう。吉田拓郎、小椋佳、小田和正、長谷川きよし…など、あの時代に現れた自作曲を唄う素晴らしい歌手はたくさんいるが、この50年をあらためて振り返ってみると、陽水はやはり別格のアーティストなのだということがよくわかる。

陽水の独創性をもっとも象徴しているのは、独特の歌声とメロディに加え、世代を超えて日本人の心の琴線に触れる「歌詞」であり、その言葉が喚起する文学的、詩的、哲学的イメージである。時に呪文のようにも、単なる語呂合わせ(?)とも聞こえることもあるが、ありきたりの言語表現が生む月並みな世界とは縁のない歌詞、そこから生まれるイメージの抽象性こそが、陽水の楽曲がいつまでも古びず、時代に縛られないオールタイム性を維持してきた最大の理由だろう。どこにでもありそうでいて実は存在しない世界を、日本的情緒と、時にシュールなイメージにくるんで描くファンタジーが陽水ワールドなのだ。ある意味で、これほど文学的、哲学的な雰囲気が濃厚な歌手、楽曲は、日本のポピュラー音楽界には他に存在しない。しかも、それでいながらほとんどの曲に、ヒットに必須の要素、日本の大衆にアピールする要素がかならずあるところが陽水の音楽の魅力だ。ただし、諧謔、言葉遊びの要素もあるその歌詞に、過剰に深い意味を見出そうとするのは、本人も本意ではない(恥ずかしい?)だろうという気がする。基本的に「はぐらかし」が好きなので、聴き手側が抱くイメージが(歌詞の抽象性ゆえに)多彩、多様であればあるほど、喜ぶ人ではないかと思う。

歴史の長い陽水のベストアルバム、ベスト曲は、人によって様々だろう。シングル盤の名曲もたくさんあるし、数多いヒット曲からセレクトしたベスト曲コンピ盤もある。ダウンロードやストリーミングという曲のバラ聞き時代には、「アルバム=作品」という意識も稀薄になって、今後はアルバム単位で歌手の世界を語ることもさらに減ってゆくだろう。しかしジャズがそうだが、陽水のように単発のヒット曲云々を超えて、時代を代表するような楽曲を数多く残してきた20世紀のポップ・アーティストは、やはり時代を切り取るようなアルバム単位で、いつまでも語る意味も価値もあると思う。古い時代のアルバムから順次聞き返すと分かるが、何より陽水のアルバムは、あたかも一人の作家が発表してきた詩や短編小説を集めた作品集のように、一作ごとにアルバム・コンセプトが背後にきちんと存在することを感じさせる。陽水の楽曲はそれぞれが一編の詩か小説(物語)であり、だから各アルバムには一つのムードを持った詩集あるいは短編小説集の趣がある。

ベストアルバムは初期3作を挙げる人が多いそうだが、やはり70年代のアルバムにある陽水的な斬新さこそがいちばん魅力的だ。デビュー盤『断絶』(1972) は、〈傘がない〉などまさに陽水を代表する歌もあるが、アルバム全体としてまだ60年代フォーク色が強く、さすがに今聴くと曲想もサウンドも多少古臭く感じる部分がある。『陽水IIセンチメンタル』(1972) は、タイトル通り、若さとメランコリー感に満ちた名曲、佳曲が並ぶ文字通りの名盤だが、中でも〈能古島の片思い〉などは、永遠の青春ラヴソングだ。アルバム全体の完成度という点からいえば、次の『氷の世界』(1973) が70年代と言わず、陽水の全作品の中でもダントツだろう。日本初のミリオンヒットとなったこのアルバムには、若き陽水のあふれるような才能が凝縮されている。タイトル曲の他、〈心もよう〉〈白い一日〉〈帰れない二人〉など名曲も満載であり、1970年代初頭の時代の風景と我々の記憶を、もっとも鮮明に甦らせるレコードだ。続く『二色の独楽』(1974) は結婚後のハッピー感とLA録音のせいもあったのか、陽水の作品ではもっとも「明るい」アルバムだ。ただし充実しているが、明る(軽)すぎて、どこか陽水的な深みや謎という「風味」が薄い気がする(この盤は録音もいまいちだ)。70年代で個人的に好きなもう1作は、フォーライフ設立後の初アルバム『招待状のないショー』(1976) だ。〈結詞〉(むすびことば) のような名曲の他、どの曲も編曲も、一皮むけたようなモダンさ、シンプルさ、味わいがある(以上、あくまで個人的感想です)。

陽水のアルバムのもう一つの特徴は、時代を問わず、どれも「録音」のクオリティが高いことだ。1970年代のレコードは、完成されたアナログ技術とそれに習熟した音響技術者が録音していることもあって、ニューミュージックと呼ばれていた当時の他のレコードも総じて録音は良いが、陽水のアルバムはそれらに比べてもサウンドのナチュラルさが際立っている。ヴォーカルも楽器の音もレンジが広く、非常に深みのある音で録られているので、オーディオ的にも再生する楽しみが大きい。上記の主要アルバムは、70年代発売当時に買ったLPと、80年代以降のリマスターCDの両方を持っているが、考えてみれば当時買ったLPなどは、ジャズで言えばオリジナル盤に相当するわけで、サウンドの鮮度が高いのも当然だ(だが、アルバムのCD版も音は非常に良い)。陽水自身が、どれだけ自作アルバムの録音クオリティにこだわりがあるのかは分からないが、「音楽耳」が異常に優れた人のはずなので、コンサートやテレビ番組でのサウンドから想像できるように、質の低いサウンドや録音を許すとは思えない。だから陽水自身が、作品の録音の質には相当深く関わっているのだろうと想像する。すべて好録音の70年代の陽水作品の中でも、私の装置で聴いた限りは『招待状のないショー』が最も音質的に優れた録音のように思う。これはLPでも、CD版で聴いても同じである。やはりオリジナル・アナログ録音そのものの質が高かったのだろう。1970年代の、特にアコースティック・サウンドをナチュラルに捉えたアナログ録音は、技術レベルの点でも、やはり日本の録音史の頂点だったのだろう。そしてほぼ同世代の大瀧詠一や山下達郎などもそうだが、音と響きへの繊細な感性を持ち、妥協せずに録音の質にこだわるアーティストは、当然だがヴォーカルだけでなくアルバム全体の「サウンド」も素晴らしいのである。

80年代以降で私が好きなアルバムの筆頭は『Lion & Pelican (ライオンとペリカン)』(1982)で、次に『ハンサム・ボーイ』(1990)、『アンダー・ザ・サン』(1993) という3枚だ。時代を超える陽水の楽曲だが、当然ながら創作行為はその時代の空気の中で行なっているわけで、これら3枚を<before/ mid/ after "バブル">という視点で聴いてみると、曲想と時代の関係も透けて見えてきて面白い。『ライオン…』は、タイトル曲の他、〈リバーサイド・ホテル〉〈背中まで45分〉、個人的に好きな〈チャイニーズ・フッド〉〈約束は0時〉他の名曲揃いの傑作アルバムで、30歳を過ぎた陽水による洗練された大人の音楽という印象だ。バブル全盛期の『ハンサム・ボーイ』には〈最後のニュース〉〈少年時代〉というメガヒット曲に加えて、個人的に大好きな〈自然に飾られて〉という名曲がある。そして『アンダー・ザ・サン』には、〈5月の別れ〉〈Make-up Shadow〉〈カナディアン・アコーディオン〉という、これも大ヒット曲が収録されている……が、こうしていくつか曲を挙げてみたところで、これらは陽水が書いた数多くの名曲のほんの一部にすぎないことをあらためて感じる。それほど陽水には名曲が多い。

そしてコンサート・ライヴに出かけると、陽水が唄うどの曲も、我々の世代の身体と心の奥底に深く沁みこんでいることがつくづく分かる。'00年代以降になってから、都内で行なわれた陽水のライヴ・コンサートに何度か出かけたが、それは陽水が60歳頃に行なった年齢を感じさせないコンサートの素晴らしさに感激して、つい何度も出かけるようになったからだ。テレビで見るより遥かにエネルギッシュで、しかも毎回アレンジに工夫を凝らしたサウンドをバックに唄いまくる陽水のステージは、その年齢を考えたらまさに驚異的だ。高域は徐々に苦しくなってはきたが、オリジナルのキーは維持しているし(たぶん)、声量はまだ十分で、ピッチは常に安定して決して音を外さず、リズムには融通無碍というべき柔らかさがあり、バックのサウンドも毎回シンプルでいながら新しい。天性の資質があるとはいえ、年齢的に見て、体力はもちろんのこと、事前に相当量のボイス・トレーニングをこなすことなしに、あの2時間近い濃密なパフォーマンスを維持することはできないだろう。そして何より、陽水がステージで唄う数多い曲のほとんどを、聴き手であるファンが鮮明に記憶しているという点にこそ、アーティストとしての井上陽水のすごさがある。

70歳を越えてなお現役で活動を続ける陽水は、時空を超えて、音楽の持つ不思議な力を実感させてくれる稀有なアーティストだ。どんなジャンルの音楽もそうだが、ライヴ・コンサートでは、その場にいるアーティストと聴衆だけが共有できる真に幸福な瞬間が時として生まれる。ジャズにもそういう瞬間はあるが、陽水のようなポピュラー歌手の場合は、聴衆のほとんどが名曲の記憶と共に生きる同時代人であることが聴く喜びを増幅するので、会場のボルテージがまったく違う。ステージ上の陽水も、そうした聴衆側の思いや感動を直接感じ取り、インスパイアされながら唄っているはずだ。昨年来のコロナ禍を最悪の厄災と呼ぶしかないのは、音楽産業や演奏活動への経済面の打撃ばかりでなく、アーティストと音楽ファンをつなぐ、人生におけるこうした至福の瞬間も奪ってしまったからである。

2021/02/14

冬ドラ『夢千代日記』

NHK 夢千代日記
吉永小百合

朝の連続テレビ小説は「朝ドラ」、近年、深夜に放送されている斬新なドラマを「よるドラ」とNHKでは呼んでいるが、「冬ドラ」という呼称はまだないようだ(聞いたことがないので)。なぜか年末になると聴きたくなる演歌や歌謡曲に加えて、私には冬がやって来ると見たくなるドラマがあって、それを「冬ドラ」と勝手に呼んでいる。気楽に流して見られるようなエンタメ系作品ではなく、「外は雪とか木枯らしの寒い冬の夜、炬燵に入って熱燗でちびちびやりつつ、しみじみと見るようなテレビドラマ」のことだ(あくまでイメージで、実際に炬燵で一杯やっているわけではない)。見るのはもちろん、CMのない、それも大昔のNHKドラマだ。最近のように、目まぐるしい展開や、ファンタジー色の強いドラマも面白いことは面白いのだが、やはりじっくりと楽しめるオーソドックスなドラマは落ち着くし、NHKは朝ドラや派手な大河ドラマとは別に、日本的情緒と文芸の香り漂う大人向けのドラマを昔は数多く制作していた。その代表的作品で、寒いこの時期になると、飽きずに何度も見てきたのが吉永小百合主演の『夢千代日記』である。今から40年も前に放送された、言わずもがなの名作だが、やはり「冬に見るからこその夢千代」であり、以前NHKが真夏に再放送していたときには、何を考えているのだと怒りさえ覚えたほどだ(大ゲサだが)。

毎冬のように見てきたのはもちろん録画してあるからで(今はNHKオンデマンドでも見られる)、『夢千代日記(5話)』(1981)『続・夢千代日記(5話)』(1982)『新・夢千代日記(10話)』(1984) という3部作で、いずれもオリジナルはもちろん冬に放送された。原作・脚本が早坂暁、演出が深町幸男、音楽が武満徹という制作陣に加えて、主演が(たぶんいちばん奇麗だった頃の)吉永小百合という豪華な布陣のドラマだ。私は(タモさんのように)吉永小百合の熱烈なファンというわけではないが、夢千代役にはやはり吉永小百合以外の女優は思い浮かばない。実際、ドラマの夢千代の年齢設定と、当時の吉永小百合の実年齢はほぼ同じで、早坂は吉永を念頭にこの作品を書いている(しかしこのときの吉永が、今の綾瀬はるかとほぼ同年齢だった、というのは何となく意外な気がする)。

1985年の映画版も見たが、NHKドラマの方がずっと出来が良い。個人的には、林隆三、ケーシー高峰、楠木トシエなどが出演し、ドラマの基本的イメージを作った第1作目がやはりいちばん記憶に残る。山陰の小さな温泉町で夢千代が営む置屋「はる家」の芸者役、樹木希林(菊奴)、秋吉久美子(金魚)、中村久美(小夢)の他、夏川静江、中条静夫、加藤治子、佐々木すみ江、長門勇、緑魔子、あがた森魚などのレギュラー陣、さらに林隆三、石坂浩二、松田優作という1作ごとに変わる客演男優等、それぞれ味わいのある役柄キャラクターと物語をじっくりと楽しめる。しかし、今はもうこの名作ドラマのことさえ知らない人も多いらしい。制作陣もそうだが、画面の中にいるこれら出演者の約半数がもう故人なのだと思うと、なんだか寂しく、また時の流れをつくづく感じる。

NHK 夢千代日記
左から夢千代、小夢、金魚、菊奴
物語の主な舞台は山陰にある架空の温泉町「湯の里温泉」で、全編のドラマロケは鳥取県境に近い兵庫県の日本海側、山陰本線の浜坂駅から少し内陸部に入った「湯村温泉」(新温泉町)で行なわれた。しかし港が近かったり、海鳴りが聞こえるなど、ドラマの「湯の里温泉」はもっと海に近い設定になっていて、全体的にむしろ鳥取県のイメージが強い。実は最近ネットで読んで初めて知った話だが、当初早坂暁は、鳥取県の倉吉に近く、原稿を書くために滞在していた三朝温泉をドラマロケの舞台に考えていたが(実際「夢千代」という名前の芸者も三朝にいたらしい)、広島で胎内被曝した夢千代の原爆症が、イメージ的に三朝温泉の有名なラジウム泉に結びつけられる懸念があるという理由で断られ、それでは、と次に話を持ち掛けたのが民謡「貝殻節」で知られる同じ鳥取の浜村温泉だったが、今度は話が暗すぎると再び断られたのだそうだ。そこでやむなく、県境を東へ少し越えた兵庫県の湯村温泉に声を掛けたら、そこで快諾されたという。よく知られているように、ドラマが大ヒットしたおかげで、無名に近い温泉場だったロケ地湯村温泉は「夢千代の里」としてブレイクし、全国的に知られる観光地となって夢千代の銅像まで建てられた。というわけで、湯村は兵庫県なのになぜドラマの背景に「貝殻節」や鳥取砂丘が?という疑問もめでたく氷解した。ドラマでは、イメージとしての冬の山陰と日本海を全体として統合したということなのだろう。

夢千代日記、波の盆
岩城宏之指揮(JVC)
冬になると『夢千代日記』を見たくなる理由は他にもあって、一つは「夜…外は粉雪…」と、夢千代が静かに語る日記風のナレーション、そしてもう一つは音楽だ。ドラマのオープニングで、列車がトンネルを抜けて(旧)余部鉄橋を渡る映像のバックに、武満徹のテーマ曲が流れてきた途端に、気分はもう一気にどんよりと暗い冬の山陰だ(各作ともに、神戸の病院で半年ごとの定期検診を受けた夢千代が、帰路の山陰本線の列車の中で出会う人物から物語が始まる)。そして煙草屋旅館の宴席では吉永、秋吉、中村という3人の芸者が踊り(踊りの出来は、小夢>夢千代>金魚の順で、日舞>体操>ダンスか)、菊奴の弾く三味線(これは本物)で毎回唄われる鳥取民謡の「貝殻節」、スナック「白兎」(オーナー長門勇、ママ水原英子)の場面や、毎回登場する旅芸人一座の芝居とそのバックで聞こえる演歌など当時のヒット曲、うらぶれたヌード劇場のストリッパー緑魔子の踊りと(照明係)あがた森魚の独特の歌など――これでもかと、ドラマ全体にわたって「昭和」の懐かしさと哀感が漂う音楽が散りばめられている。印象的な武満の冒頭のテーマ曲は、ドラマでは小編成のアンサンブルがやや早めのテンポで演奏しているが、1998年に岩城宏之が金沢のオーケストラを指揮し、映画音楽やテレビドラマ向けに武満 徹が書いた曲を演奏した『夢千代日記、波の盆』(JVC) というCDでは、テレビ版よりもゆったりとしたテンポで、大編成アンサンブルが美しく流れるように、しみじみとこの名曲を演奏している。

学生だった1970年頃に、何度か山陰地方を旅行したことがあるが、「表日本」「裏日本」と呼んでいたあの時代の両地域の「差」に何度も驚いた経験がある(当時はとっくに硬貨に切り換わっていた「百円札」が、山陰ではまだ流通していた、など)。そうした旅行経験からすると、80年代バブルが到来する以前の山陰地方には、ドラマで描かれているような風情や情緒や人間関係が、実際にまだ色濃く残っていても不思議はないと思った。原爆症や中国残留孤児など、あの時代(1970年代)の日本には、戦争の影を引きずりながら生きている人たちが、まだたくさんいただろう。東京ですら、バブル前には文字通り昭和の風景や風情がまだたくさん残っていたし、人間関係ももっと密で濃いものだった。一方で、都会と地方との間には、地理的にも、心理的にも、また情報面でも容易には近づけないような距離があって、良きにつけ悪しきにつけ、両者を隔てる見えないバリアがまだ残されていた。だから夢千代ドラマの定番、訳あって雲隠れしたり警察から追われる逃避行なども、監視カメラやスマホ映像、ツイートですぐに見つかってしまう現代とは違って、まだまだ可能だった。逆に言うと、常にどこかで誰かから監視されている現代人は、現実からの逃げ場が物理的になくなりつつあるとも言える。ジャンルに関わらず、最近「ファンタジーもの」に人気が集まるのは、こうした現代日本人の心理を反映しているのかもしれない。

人生に疲れ、あるいは心や身体に傷を抱えたまま、人知れず「表日本」から日本海に面した小さな温泉町に流れ着き、そこで互いを気遣いながらひっそりと寄り添うように暮らしている人々を描くこのドラマは、余命短い原爆症の主人公も含めて、死をモチーフにしたやりきれないような物語が続く。しかし、ゆっくりと流れるドラマの時間と登場人物の造形には、昔の日本人が持っていたつつましさ、やさしさ、我慢強さ、運命に逆らわずに生きてゆくけなげさ――などへの、原作者・早坂 暁の郷愁と深い思いが込められている。そしてドラマの中で、夢千代他の登場人物たちが体現しているのが、そうした時代の懐かしい日本人像だ。『夢千代日記』は、今となっては、ロマンとメルヘンの香りさえ漂う懐かしき昭和の日本昔話なのである(ただし、男性向けではあるが)。

大人が楽しめる、こうした純文学的なドラマは、エンタメ全盛の現代ではもう望むべくもないが、『夢千代日記』を含むNHKのシリーズ「ドラマ人間模様」(1976 - 88)には、向田邦子の名作『あ・うん』や、大岡昇平原作で『夢千代日記』と同じく早坂暁、深町幸男コンビによる『事件』シリーズなど優れた作品がいくつもあった。これらはいずれも人生の深さと哀感をしみじみと感じさせる大人の「冬ドラ」だ。振り返ると、こうした名作ドラマはどれも、1970年代の日本列島改造論に始まり、日本がバブルに向かう途上にあった1980年前後に制作されたものが多い。現代の感覚からすれば、もちろん筋立ても構成もシンプルだが、昭和も終わりに近づく頃に作られた、どこか心の琴線に響くそれらの「冬ドラ」をじっと見ていると、その後80年代後半のバブルを通過し、グローバル化と情報革命に戸惑いながら必死に生きてきた日本人が、この30年間に失ったものが見えてくるような気がする。それに、最近の冬は昔ほど寒くない。真冬の日本海側に雪が降っても、さらさらと乾いた粉雪はめったになく、湿った重い雪ばかりになってしまった。こうして、昔の日本人を包んでいた冬の風情も徐々に失われてゆくのだろう。

2021/01/29

年末に聴く「永遠の嘘をついてくれ」

私はジャズ好きだが、ジャズしか聴かないゴリゴリのジャズファンというわけではない(今どき、そんな人がいるかどうかは知らないが)。昔からボサノヴァやシャンソン、クラシック音楽はもちろん、日本のフォークもJ-ポップも演歌も歌謡曲も自分が良いと思った音楽なら何でも聴いてきた。昔から椎名林檎のファンだったし、最近は米津玄師とかあいみょんもたまに聴く。良い音楽にジャンルも時代も関係ないからだ。最近の印象は、カラオケ文化のおかげで、どの歌手もみんな歌がうまいのと、たぶんアニソンの影響だろうが、全体的に感情を露わにする「絶叫型」の歌唱が増えたように思う。ロック系を除くと、日本人の歌い手は伝統的にあの種の唄い方はしていなかったような気がする。何だか、みんな何かを訴えかけるように、大声で叫んでいる歌ばかりのように聞こえるが、気のせいか。

つま恋 2006
youtube.com
例年、年末になると、なぜか昔聴いた演歌とか歌謡曲をずっとYouTubeで見聞きするのが恒例なのだが、コロナのせいかどうか分からないが、昨年末はどうもそういう気分にならなかった。代わりに聴いていたのが吉田拓郎、浜田省吾、中島みゆき…といった普段ほとんど聞いたことのないミュージシャン、つまり同世代のフォーク系ミュージシャンというべき人たちだった。きっかけは、たまたまYouTubeで吉田拓郎と中島みゆきの「2006年つま恋」での伝説的な歌と映像を、久しぶりにテレビ画面で見たことからだった。YouTubeというのは、こうして昔聴いた人たちが突然画面に現れて、それに引きずられるように、ずるずると芋づる式にその時代の歌や歌手をあれこれ思い出しては続けて聴いてしまう、というタイムスリップ起動作用がある。コロナ禍でもなければ、たぶんみんな我慢できずにカラオケ店へと急ぐことだろう。

2006年9月23日の「つま恋」野外コンサートは、1975年の「拓郎・かぐや姫」以来、31年ぶりのジョイント・コンサートとあって、3万5千人の中高年(!)が大挙してつめかけたという。3万5千人の中高年大集合という絵柄も想像を絶するが、そういえば1970年代という時代には、今と違って、若者はみんなで一緒に「同じ音楽」を聴いていたような気がするなあ、としみじみ思いだす(もちろん私のようにそうでない人間もいたが)。そして、同じ1975年に「つま恋」で行なわれた第10回のヤマハ・ポプコンで、「時代」を唄ってグランプリを獲得したのが中島みゆきだ。その同窓会的コンサートに、事前予告なしに中島みゆきが突如客演し、吉田拓郎と1曲だけ共演したのが「永遠の嘘をついてくれ」(中島みゆきが作詞・作曲して拓郎に提供した曲)で、その映像と歌を初めてテレビで見たときには、会場の異様な盛り上がりと共に、とにかくその歌と演奏の素晴らしさに完全にノックアウトされた。放映後の世の中の反応からも、いかに多くの人(中高年?)がこの演奏を見て、聴いて圧倒されたり、感動したのかが分かる。私のような取り立ててファンでもない人間が見てもそう感じたのだから、この音楽パフォーマンスには並外れたインパクトがあったということだろう。

Forever Young
私が見たYouTubeの画質があまりにひどかったので、ネットでDVD情報を調べてみたら、確か当初はかなり高額で販売されていた2枚組Blu-rayディスク『Forever Young』(すごいタイトルだ…) が、Amazon特価でだいぶ安くなっていたので、正月だし、この際だから(?)と購入した。さすがにこちらは、美しい映像と音声を安心して最後まで楽しめるので、こうした音楽が好きな人にはお勧めだ。スマホやPCで見るYouTubeも結構だが、素晴らしい音楽や演奏は、きちんとしたソースを、きちんとした装置で再生すると、楽しみや感動が何倍にもなって味わえる。自宅のテレビとオーディオシステムで再生したこのBDの映像と音声では、まず拓郎のソロによるサビのワンコーラスに続き、バンドのイントロが始まって少しすると、薄暗いステージの左手奥から、白いシャツと青いジーンズ姿の中島みゆきが、ゆっくりと、かつ颯爽と登場し、スポットライトが彼女を照らし出す。それに気づいた聴衆の数が徐々に増えていって、「ウォー!」という驚いたようなどよめきが会場全体に段々と広がってゆく。そしてマイクに向かった中島みゆきが、3万人を超える大観衆を前にして、まさに巫女的としか言いようのない強烈なオーラを全身から発しながら前半部を堂々と唄う。それに負けじと吉田拓郎が、完全に自分の持ち歌として男らしくパワフルに後半部を唄い切り、続く二人のハモリでエンディング…と、息もつかせずに聴衆を一気に引き込む両者の魅力はまさに圧倒的だ。そして、歌い終わった中島みゆきが、拓郎と、まだ演奏を続けているバンドに一礼して舞台から去ってゆく後ろ姿はまさに千両役者で、思わず声を上げたくなるほどだ。

このBDには「南こうせつとかぐや姫」やかまやつひろし等、他のメンバーの歌や演奏も収められており、吉田拓郎が唄う他のヒット曲ももちろん収録されているが、映像を見ていると、この日の他の出演者も、歌も、何もかもが、同夜の拓郎・みゆきのこの1曲、特に中島みゆきの登場で完全にかすんでしまったかのように見える(もちろん好みの問題もあるので、そう思わない人もいるだろうが)。バックバンドもバックコーラスも、会場の聴衆も、彼ら二人と完全に一体となったこの演奏には、聴く者を高揚させ感動させる強力な何かがあり、何度見ても聴いても素晴らしい。しかもこの曲が1970年代懐メロではなく、中島みゆきの1995年の作品であるところも、様々な解釈を呼んだ謎めいたタイトルも、歌詞も、印象的なメロディも、すべてが実に興味深い。そこから二人の関係をあれこれ憶測する説も飛び交ったりしていたのも、聴いた人たちの想像力(妄想力?)を否応なく喚起する並外れたパワーがこの演奏にあったという証だろう。そして、そのパワーの源の一つと考えられるのは、2006年当時、吉田拓郎は90年代後半のキンキキッズのテレビ番組出演、中島みゆきは2000年のNHKの「地上の星」の大ヒット等で、二人ともミュージシャンとして再び全国的脚光を浴びた時期を経て、おそらく精神的にも非常に充実していたことだろう。

ジャズもそうだが、素晴らしい演奏を聴いていると、この奏者はなぜこういうサウンドの音楽を作り、こういう演奏をするのだろうか――と、私はすぐに演奏の背後にあるそのミュージシャンの思想や人生に興味を引かれ、人間としてのミュージシャンのことをもっと深く知りたくなる。だから、魅力的な音楽だけが持っている、聴く人間のインスピレーションを強烈に刺激する力の存在はよく分かる。藤圭子が唄った「みだれ髪」の短い傑作テレビ映像も、その種の想像を呼び起こされた体験だったが、そのとき、その場でしか聴けない音楽ライヴでは、時として聴き手がまったく予期しない一期一会の劇的パフォーマンスが現出することがある。「つま恋」におけるこの曲も、まさしく奇跡の1曲、永遠の1曲だ。

中島みゆきがステージを去った後もしばらく続いたバンドの演奏がようやく終わり、まだ興奮冷めやらぬ聴衆を前にして、共演してくれた中島みゆきに感謝する弁を述べつつ、吉田拓郎が「驚いたね…(共演してくれた、かまやつひろしも、中島みゆきもいい人たちだが)二人とも歳を経てきたからいい人になったんだよね。若いころはイヤな奴だったんだ、きっと…」とコメントしたのも、(たぶん本音と思うが)何度聞いても結構笑える。素晴らしい演奏の直後に、こういうコメントをする吉田拓郎という人物にも妙に感心するし、出演したミュージシャンたちそれぞれの人間性や、過去からの彼らの人間関係も透けて見えてくるようなコメントで、そこから様々な想像もできて非常に面白い。その後ラジオ番組で、後日談として吉田拓郎が「あの時は自分のステージだったのに、完全にみゆきに持っていかれた」と発言していたのも本音と思え、おかしかった。実際に当日はリハもなく、中島みゆきの衣装や登場のタイミングなども、打ち合わせなしだったので、舞台にいた拓郎も不意をつかれたようで本当に驚いたらしい。すべてきっちり演出した舞台かと思っていたのだが、中島みゆきが仕組んだ演劇的サプライズもあったたわけで、ミュージシャンという人種は、どんなに親しい間柄でも、舞台の上ではやはり互いにライバルなのだと思った。

イメージの詩
浜田省吾
中島みゆきの個性の強い歌も、以前はほとんど聴かなかったのだが、当時このステージ映像を見てからベスト盤CDを買ったり、ときどき聴くようになった。ユーミンの音楽世界が全体として映画的で、ソフトな物語なら、中島みゆきの曲と歌詞はまさに演劇的で、暗く奥深い。吉田拓郎と同じく、どの曲もあっさりしたおしゃれ系ではなく、人の心の中にずいずいと裸足で侵入してくるような独特の力強さがあり、歌詞も含めてこの種の音楽が好きな人には、やはりたまらない魅力があるのだろう。心に響くようなエールを送る歌が得意なところも同じで、「ファイト!」も中島みゆき作で拓郎が唄った曲だが、やはりよく似合っている。年末はYouTubeの再生につられて、吉田拓郎のバックバンドにいた浜田省吾もずっと聴いていた。拓郎と同じ男性的歌唱が魅力のミュージシャンで、二人とも男っぽいバラードの歌唱が素晴らしいと思うが、浜田省吾の歌にはブルース的というか、常にそこはかとない哀愁がある。拓郎作の「イメージの詩」などはまさしく本家取のようで、この曲を歌う浜田省吾の哀愁の滲む男性的な歌唱は、私的には拓郎よりも素晴らしいと思うくらいで、私はこの歌と浜田省吾の声が大好きだ。

普段はあまり聞かない、こうしたどちらかといえば男臭い、あるいは素朴でパワフルなミュージシャンのヴォーカルが、昨年末にかぎって急に聴きたくなったのは、やはり演歌や歌謡曲と同じく、年の終わりに感じる過去への無意識の郷愁のなせるわざなのか、それとも、鬱々としたコロナ禍の世界に負けまいとするパワフルな歌への、これも無意識の共感というべきものなのだろうか。あるいは単に、スティーヴ・レイシーの抽象度の高い複雑な音楽を、翻訳作業中、ここしばらくの間ずっと聴き続けていた反動なのか。

2020/02/07

近松心中物傑作電視楽

年末年始は、どうしても「何か日本的なもの」をゆっくりと見たり聞いたりしたくなるのだが、今年は近松門左衛門 (1653 - 1725) に関する作品(DVD、録画)をテレビで見ていた。近松といえばやはり「心中物」が有名だが、近頃は「心中」というと、高齢者夫婦とか、老々親子の無理心中とかいった救いのない悲惨な事件ばかりで、近松が描いたような「現世で無理なら来世で添い遂げよう」という相思相愛の男女の心中事件(情死。本来の心中)などほとんど聞いたことがない。300年前とは時代が違いすぎることもあるが、心中はもはや男女の愛のテーマにはなり得ないのかとも思う。しかし近松は、町民を主人公として書いた「世話物」人形浄瑠璃24編の中で、当時の実話に基づく「心中物」と呼ばれる作品を11作も書いている。いかに当時心中事件が多かったかということだろうが(遊女がらみの話が多い)、近松作品に刺激されて心中事件が増えたために、江戸幕府は「心中」という言葉を禁止し、実行者を罪人扱いし、『心中天網島』(しんじゅうてんのあみじま)発表の2年後には、ついに「心中物」浄瑠璃の上演も禁止したという。

心中天網島
2005 東宝DVD
『心中天網島』は、今からちょうど300年前 (1720) に実際に起きた、大坂・天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女・小春の心中事件を元に、晩年の近松が書き下ろした「心中物」の最高傑作と言われている作品だ。事件からわずか2ヶ月後には上演されたというから、ものすごいスピードである。今から半世紀前の1969年に、その『心中天網島』を人形浄瑠璃以外の手法で描くことに挑戦したのが、篠田正浩監督の同名の傑作映画(表現社/ATG)である。この映画は学生時代にATG系封切り館で何度か見て、その後もテレビ放送やDVDで繰り返し見てきた。最近の映画は1回見れば十分なものばかりだが、何度見ても飽きず、毎回何かを感じる作品こそを名画と呼ぶのだろう。金と時間をたっぷりかけたというような即物的な理由ではなく、原作の質に加えて、才能ある制作者のアイデアと、作品を作り込むために注いだ情熱、エネルギーが、画面を通して観客に自然と伝わってくる作品のことだ。今回この映画を久々に見直してみたが、当然ながら往時の前衛的衝撃度は薄れてはいても、映画全体から伝わってくるエネルギーは今も変わらないことを再確認した。

篠田監督の映画化コンセプトは、近松の描いた男女の古典的悲劇に忠実に、人形による浄瑠璃劇を実際の人間が演じる映画で表現する、というものだ。制作資金の制約もあって、結果的に舞台演劇のようなミニマルかつ抽象的なセットと演出手法を用い、また役者の運命を操るかのような「黒子(黒衣)」を実際に画面に登場させるなど、当時としてはきわめて前衛的な手法を大胆に用いている。しかし篠田正浩(監督)、富岡多恵子(台詞)、武満徹(音楽)、粟津潔(美術)、篠田桃紅(書画)、成島東一郎(撮影)という錚々たる制作スタッフが目指したのは、あの時代に流行った目新しさを狙っただけの実験的な作品ではなく、また近松の傑作古典の単なる映画版でもなく、日本の伝統美を表現するまったく新しい映像作品を創造することだった。才気溢れる上記スタッフにとっては、制約がむしろ創造への挑戦意欲を一層掻き立てたことだろう。舞台のようにシンプルな画面構成、ハイコントラスト・モノクロによる光と影が圧倒的に美しい映像美に加え、斬新な美術、音楽、演出、さらに各役者の演技と細かい所作、台詞(せりふ) 回し等々、この映画を構成するあらゆる要素が実に綿密に考えられていることが分かる

映画のストーリーとシナリオは、「河庄」、「時雨の炬燵」、「大和屋」、「道行」の各段に沿って、近松の原作をほぼ忠実になぞっている。近松の浄瑠璃原本による 「太夫の語り」の美しい語感とリズムを、作家・富岡多恵子が “口語変換” した台詞も違和感がなく、それを喋る役者陣の登場人物 (人形?) へのなりきり振りも驚くほどだ。特に紙屋治兵衛役・中村吉右衛門が演じる情けない男ぶりも、女の持つ二面性と女同士の義理の真情を、遊女・小春と女房・おさんという二役で演じ分ける若き岩下志麻の美しさと演技も素晴らしい。三味線の使用をあえて控えめにし、代って琵琶、ガムラン、トルコ笛を用いて汎アジア的音空間を生み出した武満の音楽、浮世絵や書をデフォルメした背景やセットを用いた粟津の美術、モノトーンの究極美を追求した成島のカメラワーク、そして終始物語を先導する「黒子」の存在など、すべてに人形浄瑠璃とは異なる映像表現としての独創性と前衛性が顕著に見られる。人形浄瑠璃(文楽)は、じっと見ていると操る黒子が徐々に気にならなくなり、人形がまるで人間のように見えてくる。この映画では逆で、最初控え目だった黒子が物語の進行につれて徐々にその出番と存在感を増していき、それにつれて役者が段々と操られる人形のように見えてくる。あたかも情感と意志を持つかのように、二人を死へと導くこの黒子は、篠田によれば、原作者である近松自身だという。確かに近松の原作通り、世間の義理に背く者たちへの当然の報いだとする冷めた視点と、恋に溺れる心中者への憐憫が交錯する作者の心情が、各場面における黒子の「所作」から同時に表現されている。

映画の終盤、女房・おさんを義父に連れ去られた治兵衛は絶望のうちに心中を決意し、それまでの舞台のような抽象的セットを破壊する。場面が変わり実際の夜の屋外ロケで撮られた、美しくまた凄惨な夜半の道行(名残の橋づくし)はこの映画の白眉であり、吉右衛門、岩下の迫真の演技で描かれる ”彼岸への旅” の、日本的エロスと無常感が漂うリアルな映像美は日本映画史に残るものだ。この時代の日本には活力がみなぎり、内側から何かを変革しようとするエネルギーに満ちた若き才能が溢れていた。制作当時、篠田も武満も粟津もみな30歳台後半である。この映画が放つ時代を超えた芸術的芳香と力は、それらの才能とエネルギーが奇跡的に一つに集結できた時代の産物である。いくら金をつぎ込みCGを駆使しても、もはやこのように濃密な作品が生まれることはないだろう。

ちかえもん
2016 DVD-Box
ポニーキャニオン
もう一つの「近松心中物」の現代版傑作は、半世紀前に作られた芸術指向のシリアスな上記映画とは対照的なコンセプトで、NHK2016年上半期に放送した木曜時代劇『ちかえもん』(全8回) である。こちらは大坂の遊女・お初と商家平野屋の手代・徳兵衛の心中実話を描き、「世話物」初の作品となった『曽根崎心中』(1703) の誕生秘話をデフォルメした現代流パロディである。作者の近松門左衛門を主役(妻に逃げられ、スランプ中のさえない作家)として描いた「創作時代劇」なので、筋立てや登場人物の役柄は一部変えているが、ギャグ満載のコメディでもあり、ファンタジーでもあり、ミュージカル的でもあり、落語的でもある、という「笑いと涙と芸」が混然一体となった上方芸能の真髄が、見事に伝わってくる大傑作ドラマだ。近松の「虚実皮膜論」をドラマという場で試みたとも言える。タイトルの『ちかえもん』からして『ドラえもん』的だし、各回には「近松優柔不断極(ちかまつゆうじゅうふだんのきわみ)」(第1回) といった浄瑠璃風タイトルが付けられているななど、遊びごころで一杯だ(このブログ記事のタイトルも、それに倣って「ちかまつしんじゅうものけっさくをテレビで楽しむ」と読む。ただし、いいかげんだが)。本格的セットと衣装で演技する時代劇でありながら、毎回近松 (松尾スズキ) による現代関西弁の独り言と、有名フォークソングなどの替え歌が挿入されたり、アニメーションが入ったりと、とにかく意表を突く演出の連続で、毎回大笑いさせられる。悪役も登場するにはするが (黒田屋九平治を演じる山崎銀之丞がうまい)、悲劇ではなくハートウォームな結末にしたことを含めて、物語全体が終始コミカルかつ温かいトーンで満たされているところが素晴らしい。

「ちかえもん」役の松尾スズキ(リアクション芸、顔芸に注目)、謎の ”不幸糖売り”  万吉」役の青木崇高 (憑依芸に注目)に加え、早見あかりの「お初」(顔が洋風だがうまい)小池徹平の「あほぼん徳兵衛」(意外と適役)のカップル、岸部一徳(平野屋主人役はこの人しかいない)と徳井優(引っ越しのxxx風番頭がハマり役)の旦さん/番頭コンビ芸といい、その他の出演者も全員が素晴らしい。ちかえもんの母親役・富司純子のボケの名演技に、大昔(1960年代)の舞台コメディ『スチャラカ社員』(藤田まこと主演) に出演していた美人OL「ふじクーン!」(藤純子時代)を懐かしく思い出すのは私だけではないだろう。劇中に、当時の竹本座による人形浄瑠璃『曾根崎心中』の上演を再現したシーンもあるし (北村有起哉による「大夫の語り」が本職並みだ)、ドラえもんのように、主人公ちかえもんをいつも窮地から救う万吉が、(人形に魂が宿るという)人形浄瑠璃へのオマージュともなる涙々のファンタジックなオチも素晴らしい。「楽しめる」テレビドラマという観点からは、おそらくこの作品はこれまでの人生で私的ベストワンだ。

今や、新たにテレビ時代劇を手掛けるのはNHKのみといった状態だが、現代劇に新味が欠ける現状からすると、CGが使えるようになって、想像力次第でどんな物語も映像化が可能な時代劇は新鮮でもあり、テレビにとって益々有望なジャンルになるだろう (NHKもAIひばりとかに余計な金を使っていないで、もっと予算対象を絞るべきだろう)。この作品も今回録画を見返したが、演技や言葉遊びの洒落と面白さは何度見てもまったく変わらず、むしろ台詞や所作の細部の面白さにあらためて気づいて、毎回さらに楽しめるという驚くべき完成度を持ったドラマだ。これも傑作の朝ドラ『ちりとてちん』を書いた脚本の藤本有紀は、この作品で同年の「向田邦子賞」を受賞している。ストーリーの面白さもそうだが、“江戸の粋” と “上方の情” という違いはあっても、二人はユーモアのセンスでも肩を並べると思うし、藤本有紀が翌2017年にNHKで書いた、上方と江戸を結ぶ人情時代劇『みをつくし料理帖』も、とてもよくできたドラマだった。彼女はまさに向田邦子の世界を引き継ぐドラマ界の才人だ。

映画化、テレビドラマ化の他にも、これも名作『冥途の飛脚』他を題材にした秋元松代・作、蜷川幸雄・演出の『近松心中物語』という演劇が1979年の初演以来ロングランを続け、スタッフ、キャストを変えながら今も上演されているという(私はまだ見たことがないが)。男女の実際の心中事件はもはや絶滅しかかっていても、300年も前に書かれた古典的心中物語が、こうして未だに取り上げられ、現代の作家や表現者を触発して新しい作品を生み出し続けているのは、近松門左衛門の作品に、やはり時代を超えて日本人の心に訴える何かがあるからなのだろう。

2020/01/25

水木しげる先生のこと

昨年秋口から年初にかけての夕方、NHKの地デジで、水木しげる夫妻を描いた2010年放送の朝ドラ『ゲゲゲの女房』(原作は、奥さん武良布枝さんの同名の本)を再放送していたのでずっと見ていた。放送は10年前だが今見てもよくできたドラマで、原作の持つ温かみを生かした脚本もいいし、まだ若かった主演の松下奈緒も向井理も、夫妻の両親役の風間杜夫、竹下景子、大杉漣、古手川祐子といったベテランの役者さんたちも、みなさんとてもいい味を出している。特に、主人公の娘を思いやる、素朴で昔気質の父親役を演じた今は亡き大杉漣の演技が印象に残った。このドラマはずっと穏やかな気持ちで見ていられるが、いちばんの理由は、主人公の水木しげる夫妻とその家族が醸し出す自然な人間味が伝わって来るからだろう。いきものがかりの主題歌「ありがとう」も、ドラマのテーマ、雰囲気とよく合っている。加えて、放送が2011年の東日本大震災の前年だったということも、このどことなく “のどかで懐かしい” ドラマの雰囲気を楽しめる理由の一つかもしれない。震災後はずっと、こうしたなごやかなドラマを作ったり、のんびりそれを見たりできないような、重い空気が世の中全体にあったからだ。それから、今や中堅俳優になっている若き柄本佑や斎藤工、窪田正孝、星野源などが出演しているのにも驚いた。NHKの朝ドラには、こうして今は有名になったいろんな役者が若い頃から出演していたんだ、ということも分かってびっくりする。

私は昔から漫画好きで、好きな作家や作品も多いが、その中でも「先生」と呼ばなくては……と個人的に尊敬してきた漫画家が3人いる。命を削るようにして紙の上で独創的なキャラクターを生み出し、愉快な世界を描き出すという才能への畏敬と、それを読者に提供して楽しませてくれることへの感謝のゆえである。もう一つは、一歩間違えば貧乏神に取り憑かれるというハイリスクな世界へ、人生を賭けて挑戦する勇気に対するものだ。その3人とは「水木しげる」先生、「赤塚不二夫」先生、そして「中川いさみ」先生である。もちろん作風、画風はそれぞれまったく違うが、共通点は登場するキャラクターの造形とユーモアの圧倒的な独創性、加えて笑いが下品ではないことだ。そもそもストーリー漫画よりもギャグ漫画系が好きなので、主としてその視点から3人を「先生」と呼ばせていただいている。ギャグ漫画は、展開のスピードと即興性(アイデアの閃き)、ユーモアの質という点で、何となくジャズの世界と相通じるものがあるように思う。何より「閃き」が大事なので、作者の年齢と共に作品の質を維持してゆくのが難しくなるリスクが高いところもそうだ。ギャグ漫画の開祖である天才・赤塚先生は、『天才バカボン』や『おそ松くん』を筆頭に数々の独創的キャラ創出はもちろんのこと、突き抜けたユーモアの次元が違うし、それに作品の根底にいつも温かな人間観が流れているところがいい。『クマのプー太郎』に代表される中川先生の作品もほとんど読んでいるが、主人公であるクマ、サル、ウサギといった動物キャラ造形のユニークさと共に、独特のシニカルでシュールな現代的ギャグセンスが最高だ。

一方の水木先生はもちろん、いわゆるギャグ漫画とはまったく違うジャンルに属する作家だ。まず、3人の中ではいちばん年長だったので1922年生まれ)、生きた時代が違う。しかしストーリーや登場キャラクター(異界の住人)の独創性に加えて、達観したような何とも言えない巧まざるユーモアとペーソスが、どの作品にも共通して感じられるところが素晴らしい。飄々としているが、意外にクールで毒もあり(ニヒルとも言える)、哲学的でもあり、懐かしい昭和のレトロさと、その独特のユーモアが絶妙にブレンドされた作品世界が個人的に好きなのだ。先生本人が言うところの座右の銘「楽をして、ぐうたらに生きる」も、赤塚先生の「これでいいのだ!」、タモさんの「やる気のアルものは去れ!」と並んで、個人的に非常に気に入っているフレーズだ。数々の登場キャラの中では、ご本人が好きだとコメントしていたように、たぶん「ねずみ男」が水木先生の思想を代弁している存在なのだろう(私も「ねずみ男」のファンだ。実写映画の大泉洋は、はまり役だった)。このあたりの世界は、ドラマ『ゲゲゲの女房』の中でもよく表現されていると思う。

水木サンの「幸福論」
(角川文庫)
日経新聞でかつて連載していた「私の履歴書(水木しげる)」を、毎朝笑いながら読んでいた。今は『水木サンの幸福論』と題した文庫本で読めるが、これを読むと水木先生の大物ぶり、まさに “悠揚迫らざる” 人間性というものが実によくわかって面白い。戦争で所属部隊が全滅し、ニューギニアのジャングルをたった一人で彷徨い、マラリアにかかって治療中に爆撃で左腕を失いながら、かろうじて戦争を生き延び、その間に現地の人々と友だちになり、戦後は残された右腕一本で紙芝居、貸本漫画の業界でゼロから始め、その後ようやく人気漫画家への道を切り開く……という波乱の人生を生き抜くことができたのも、破格ともいえるその人格上のスケールの大きさがあったからだろう。小学校に入る前から、朝は目が覚めるまで好きなだけ寝ていて(起きない)、学校は毎日2時間目から行ったとか(もちろん遅刻)、その他にも世の中の常識や約束事に縛られない自由な発想を持って生きてきたというところが、(若いときに自堕落な生活を送っていた私には)個人的に大いに共感できた。こういう人は、たぶん今だと発達障害だとかいろんな病名を付けられてしまうのだろうが、昔は世の中も鷹揚だったので単なる変わり者ですんだし、その代わり好きなことには徹底して打ち込むなど、普通の人間にはないユニークな才能を持っている人が多かったのだろうと思う。しかしドラマを見たり、こうした本を読んで思うのは、間違いなく、布枝さんという、あの大らかな奥さんの存在なくして「漫画家・水木しげる」はなかっただろうということだ。もう一つ強く印象に残ったのは、両親や兄弟を含めた親族、家族に対する水木先生の深い愛情だ。

のんのんばあとオレ
(講談社)
数年前に、11月解禁の松葉ガニも目当てに松江や出雲地方の旅行に出かけた。そのとき安来の足立美術館に寄り、それから当然のように、米子から「鬼太郎列車」に乗って、境港の「水木しげるロード」に行ってきた。どこを見ても鬼太郎キャラでいっぱいの列車も、境港の街も、本当に楽しかった。その旅で、水木先生が育った土地、その雰囲気、周囲の環境がどういうものかがよく分かった。出雲大社周辺はもちろんだが、境港(鳥取県)の前に広がる境水道の向こう側、島根県の島根半島東端近くにある美保神社のあたりへ行くと、あの『のんのんばあ』のいた世界がどういうものだったのか何となく想像できる。鳥取や島根の日本海沿岸は半世紀前の学生時代に旅行に行ったことがあり、隠岐島へ行く途中に境港や美保関にも立ち寄った記憶があるが、当時はまだ水木マンガと境港はイメージ的に結びついていなかった。あの大きくて高い境大橋ももちろんまだなくて、境港から美保関港までは船で行ったように思うが、本当に神話や伝説や妖怪がよく似合う風景と雰囲気が濃厚だったことを鮮明に覚えている。もちろん、今はずいぶん変わったが、それでも当時の雰囲気はまだどことなく残されていて、水木先生や「鬼太郎」を生んだのもそうした風土だったということが、現地へ行ってみるとよく分かる。

ところで、私は個人的にも何となく水木先生と不思議な縁があるのだ。学生時代を過ごした神戸という接点がまずあって、「水木」というペンネームが、実は貸本漫画家時代に住んでいた神戸市兵庫区の ”水木通り” から取られたという意外な話がそうだ(まったく知らなかった)。時代は違うが、私は家庭教師のアルバイトで地下鉄の新開地駅に近い水木通りあたりまで毎週通っていたことがあり、「水木」という地名を何となく覚えていたのだ。その話は単なる偶然だが、その後1970年代半ばに東京で結婚して、最初に入居した杉並の賃貸マンションのオーナーが武良(むら)さんという人だった。最初変わった名字だなと思ったが、なんとそれが水木先生の実の弟さん(水木プロのマネージャーだった)だと知って驚き、しかも入居したエレベーターなしの5階の部屋が、それまで水木プロが使っていた部屋だと聞いてさらに驚いた(オーナー家族は5階が入り口で、6階に住居があった)。

水木先生の本、奥さんの『ゲゲゲの女房』や、NHKドラマなどから推察すると、貧乏神に取り憑かれていた赤貧時代の後、60年代後半の「鬼太郎」のテレビアニメ化などで、当時ようやく金銭面で余裕ができてマンションを建てたということなのだろうか(神戸の水木通り時代にもアパートを経営していたようなので、弟さんも含めて安定した収入確保の手段だったのだろう)。入居後しばらくの間、元の部屋に設置されていた電話をそのまま借りていたら、「水木プロですか…」という電話が何本もかかってきたのを覚えている。7年間ほどそのマンションでお世話になり、子供たちもそこで生まれた。その間、マンションの管理をしていた弟さんの奥さんとは何度も会話していたが(玄関が隣だったので)、今はどうしておられるだろうか。そういうわけで、調布に住んでいた水木先生ご本人や、奥さんの布枝さんと実際にお会いすることはなかったが、本やテレビドラマに登場する弟さんやその奥さんは、なんだかまったくの他人のようには思えないのである。

2015年に亡くなった水木先生の第2の故郷で、鬼太郎にちなんだモニュメントやスポットがある調布市内は、なぜかこれまで歩いたことがない。今は、先生の命日11月30日に「ゲゲゲ忌」というイベントも開催しているらしいので、今年は先生が好きだった「ねずみ男」の年でもあるし、是非調布へ出かけて、生前に建てたという鬼太郎キャラたちに囲まれているお墓にお参りしたいと思っている。

2019/12/09

京都晩秋行

赤山禅院
例年通り、11月末に京都へ出かけた。去年は11月中旬に行って、まだ紅葉には早すぎたので、今年は半月ほど遅らせてみた(遅らせすぎた、と言えるだろう)。最近はずっと春と秋の年2回、3泊4日と決めている。ほぼ3日間は目いっぱい使えるからだ。京都のホテルは最近予約しにくく値上がりが激しいが、リーズナブルな料金で、JRや地下鉄の駅に近く、便利で、かつできるだけ新しいホテルを選んでいる。歩き疲れて帰って寝るだけなので、高級ホテルは必要ないが、ホテルはやはり水回り、遮音など、できるだけ新しい方が一般的には快適に過ごせる。ただし時間も節約したいので、朝食付きが望ましいし、静かさという点からは、今だとアジア系観光客のできるだけ少ないホテルというのも要件だ。今回は初めて、京都駅八条口側の開業してまだ半年のホテルに宿泊したが、上記条件をほぼ満たした良いホテルだった。京都駅の南側はだいぶ開発されて昔のうらぶれた感じがなくなり、今はホテルラッシュですっかり様変わりしていた。変化から取り残されていた駅東側の崇仁地区も、京都市芸大が2023年に移転して来るということで、大掛かりな区画整備が進行中で、移行をスムースにするために、”崇仁新町” という期間限定の簡易屋台街が、行列で有名なラーメン店の向かい側に出現している。

石山寺
初日は関西在住の会社時代の先輩たちと会って、大津の石山寺に出かけ紅葉を楽しみ、瀬田川沿いを散策し、夜は近江牛料理で会食した。皆さん10歳も年長だが、まだまだお元気だ。石山寺は初めて行ったが、西国三十三所第13番札所という奈良時代創建の観音霊場で、紅葉のきれいなお寺だ。瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の自然河川で、この辺りは大学のボート部などの漕艇場になっていて、広くゆったりとした穏やかな流れと周囲の景観が非常に美しい。この瀬田川がやがて宇治まで流れ下って、宇治川になるということを初めて知った(その後鴨川と合流して淀川)。関西人ではないので、地理的に琵琶湖と京都の南にある宇治という2地点が、これまでまったく結びつかなかったのだ。紫式部が『源氏物語』を起筆したのが石山寺だと言われているので、なるほど最後に宇治(十帖)ともつながっているのだ、と感心した。しかし、昨年の鞍馬寺、神護寺でも感じたが、平地は何でもないのだが、階段の多いこうした寺院は特に下りの足下が最近あやういと感じる。高所恐怖症のせいもあるが、高低差の大きな寺院巡りは、これからは遠慮することになりそうだ(先輩方のほうが、ずっとしっかりしているようで、我ながら情けない)。

実相院
2日目は洛北を目指した。まず出町柳から叡山電車で岩倉駅まで行って、そこから実相院(門跡)まで20分ほど歩いた。小さな川沿いのゆるい登りで、のんびりした良い道だ。ここは岩倉具視も一時居住していたことや、庭の紅葉が床に映る「床もみじ」で有名で、確かに美しいが、今は残念ながら内部からの写真撮影は禁止されている。それでも、やや遅い感もある紅葉と庭のたたずまいは美しい。それから修学院駅まで戻って、赤山禅院、修学院離宮(前のみ)、曼殊院という、お気に入りのコースを歩いて巡った。曼殊院(門跡)は昨秋も今春も行ったが、内部ももちろんだが、特にその外壁周りは、もみじが緑でも黄でも赤のときでも、苔の緑と調和していて、いつ訪れてもたたずまいが本当に美しい。ここは比叡山へと続く京都の東北の方角(鬼門)にあたり、高台なので風通しがよく、また京都市街の眺望や周囲の景色も良い。まだ自然も残されていて、何より春も秋も人が少なくひっそりとしているところがいい。観光客で一年中ごったがえしている嵯峨野あたりとは違い、家は増えたのだろうが、まだ昔の京都郊外のひなびた感じが味わえる場所だ。

曼殊院・外壁
周囲は他に圓光寺、詩仙堂など紅葉の見どころも多いが、今回は歩き疲れたのでスキップした。昼食は乗寺にある “ラーメン街道” と呼ばれる通り(なぜそうなったのかは不明)の某有名ラーメン店に行ってみた。生来、行列というものが大嫌いで、昔は並んで順番を待って食べるなどもってのほかだったのだが、最近は年のせいで多少気も長くなったのか、あまり苦にならなくなった(ヒマなこともある)。30分くらい並んでやっと食べたのが、ラーメンとカレー風味の鳥のから揚げという、人気のある微妙なセットメニューだったが、食べてみると、これが意外にうまくてあっさり完食してしまった。しかし、京料理の高級イメージに反して、京都には行列のできるラーメン店が昔からあちこちにあるようだが、いったいどういう歴史や背景があるのか不思議だ。「餃子の王将」も京都が発祥だし、よく言われるように、商人が多くて忙しいのでファストフードのニーズが昔からあったからなのか、貧乏学生が多いせいなのか。加えて最近は、行列に外国人観光客の姿もかなり見かけるので、安くて “ハズレのない” 食事として彼らの間で流行っていることも理由の一部なのかもしれない。

恵文社・一乗寺店
昼食後、一度行ってみたかった書店、恵文社・一乗寺店に寄ってみた。目利きのスタッフが厳選した本を並べ、小物類も販売しているというユニークな哲学で有名な書店だが、確かに外も内も個性的なたたずまいと味わいのある書店で、本好きにはたまらない雰囲気を持っている。ネットや今どきの巨大書店では絶対に味わえない、昔、街の書店に入るときに感じた、あの妙に胸がわくわくするような独特の気分を懐かしく思い出した。おまけに、そう多くはない音楽書コーナーに、私の訳書『セロニアス・モンク』と『パノニカ』の2冊が置いてあった(正直言って、これは単純に嬉しかった)。夜は、祇園の某有名居酒屋に偶然に入店できたのでそこで食事した。確かに料理も酒も旨い店だが、外国人が多いこともあって、常にわさわさして落ち着けないところと、客あしらいに多少の問題ありか(これは、まったくの個人的好みだが)。

京都市立植物園にて
翌日は、地下鉄で北山にある京都市立植物園へと向かった。ここも以前から一度行こうと思っていた場所で、紅葉もイチョウも、やや時期が遅いがきれいだった。ここは珍しい植物もたくさんあるし、何より広々していて開放的で、あまり京都らしくないところが逆にいい。流行っているのか、両手にストックを持った中高年がやたらと園内を歩いていた。健康増進のためらしいが、平地なのに妙な光景だった。

賀茂川の京都育ち(?) のサギ
北山通の進々堂で昼食をとり、植物園裏手の賀茂川沿いを歩いて南に下った。しかし大津の瀬田川もそうだったが、京都の高野川、賀茂川や鴨川は、どこも土手や河床がきれいに整備されて芝や桜や樹木が植えられ、広々とした公園のようでのんびりと散策できる。私の自宅近くを流れている川とは大違いだ。シラサギ、アオサギ、カワウ、セキレイなどは普段自宅くの川でよく見かけるので珍しくはないが、京都の池や川の水辺にいるサギたちは、サギにも京都ブランド(?)があるかのように、どういうわけか、そのたたずまいや動きまで、どこか上品で優雅に見えるから不思議だ(もちろん思い込み、なのだろうが)。それから、楽しみにしていた今宮神社名物の “あぶり餅” を久々に賞味しようと行ってみたのだが、なんと昔から向かい合わせで営業している店が2軒とも休日でがっかりした。他にもがっかりして帰る人たちを何人も見かけた。同じ日に休まず、別々の曜日を休日にしたらお互い商売的にもいいと思うのだが、なぜ同じ曜日なんだろうか? 仕方がないので、久々に隣の大徳寺の中をぶらつくことにしたが、その途中で、石田三成の墓所がある三玄院という塔頭を知った。帰りに千本通りの某有名居酒屋に寄りたかったが、予約なしでは入れそうもないので今回はあきらめた。

三十三間堂 長い…
翌日は東山方面に向かい、ずっと見損なっていた三十三間堂の内部を高校時代以来半世紀ぶりに見学した。昔のことは覚えていないが、あらためて観察すると、確かに一体一体表情の異なる千手観音像がずらりと並んだ内部の様子は壮観かつ荘厳で、本家の風神、雷神の彫像も含めて何かものすごいエネルギーというものを感じる。内部見学してみたかった隣の京都国立博物館はその週から公開は休止中で、入館できず。やむなく秀吉の大仏殿跡、方広寺の鐘、豊国神社(骨董市を開催)を見学し、甘春堂でぜんざいを食べ、六波羅蜜寺を通過、有名な幽霊飴屋で飴を買い(500円。これはナチュラルでうまい)、建仁寺の中を通って、花見小路、四条通を越え、最後に祇園の有名うどん店で柔らかめの ”京うどん” なるものを食べてから帰ろうと思ったら、なんとそこも休日で、仕方なく別の店へ入った(ツイていないが、店の休日が何曜日かは、よく確認しておくべきだったと反省)。

実質3日間の行程で、朝から晩まで1日平均2万歩近く歩いたのでかなりの距離だろう(歩き過ぎか)。今回は、できるだけこれまで行けなかった場所を訪ねる、というコンセプトだったはずだが、結局行ったのはいつもの場所が多く、まだまだ行っていない場所がかなりある。とはいえ、これまでに大方の場所には行ったはずなので、もうこれでいいかと毎回思うのだが、翌年の春や秋がやってくると、また行きたくなるのが京都の不思議だ(そういえば今回、来年流行りそうな明智光秀がらみの場所にいくのも忘れていたし…)。

2019/09/07

京都を「読む」(2)

8月の『京都人の密かな愉しみーBlue修業中』の新作(#3.祇園さんの来はる夏)は、「1,200年早いわ!」と有名陶芸家の父にいつも怒鳴られ、その父親をオッサン呼ばわりする結構強烈なキャラだった見習い中の娘役が交代していた(結婚・出産のためらしい)。それに、大原で京野菜を作っていた江波杏子が昨年秋に急逝したために、劇中の設定でも亡くなっていた。たぶん微妙な物語がこれから展開するはずだった、同居する死んだ孫の友人との関係も、説明的になってしまった。両方とも突然のことなので、脚本を元から練り直したり大変だったと思うが、個性的な役者が急にいなくなると、ドラマ全体として、バランスや展開上どうしても違和感があるのは仕方がないだろう。新しい陣容と設定で2作目となる回に期待したい。

ところで第1シリーズは常盤貴子と団時朗主演の主軸ドラマと併行して、毎回短いオムニバス・ドラマが挿入されていた。8月の再放送では、その中から「私の大黒さん」、「桐たんすの恋文」、「逢瀬の桜」など京都らしいしっとりした作品が放映されていた。これらの中で、個人的に特によくできていると思ったドラマは、夏向きの異色編「眞名井の女」だ。豊かで良質な京都の「水」と、「井戸」にまつわる伝説(能、謡曲になっている)をモチーフにしたファンタジック・ホラーで、貴船神社への7日間の丑の刻参りで浮気夫を呪い殺そうとして果たせず、満願前日に井戸(鉄輪-かなわーの井)の前で死んだ女の幽霊が憑りついた井戸掘り業の青年を、名水・天之眞名井(あめのまない、市比賣神社)の女神が救う、という筋立ても各出演者の演技もとても良かった。この伝説の両井戸は、五条通りをはさんで南北に今も実在している。

1,200年の歴史を持つ古都に、因縁やいわれのある場所が多いのは当然だ。そもそも京都は ”怨霊” の都市なのである。なにしろ平安京そのものが、弟・早良親王の怨霊の祟りを恐れた桓武天皇が長岡京から再遷都した都市であり、よく知られているように、厄災から都を守るべく風水思想を導入して秦氏に設計させたものだ。菅原道真を祀った北野天満宮、崇徳天皇の白峯神社、あちこちにある御霊(ごりょう)神社も、元はと言えば、ほとんどが非業の死を遂げた人物を祀ったものであり、その祟りを鎮めるために、怨霊を御霊と読み替えて創建されたようなものだ。厄災をもたらす祟りという<負>のパワーを封じ込め、手厚い信仰によって祀り上げ、ご利益をもたらす<正>のパワーに転化させてきたわけである(祇園祭など、多くのの由緒もそうだ)。そうした歴史から生まれ、支配者から重用されてきたのが陰陽師であり、24節気のような京都独自の年中行事と約束事の起源もそういうことだろう。したがって、1,000年以上にわたって時代ごとに堆積してきた伝説や因縁話が街じゅう散在する京都は、魔界、心霊、パワースポットと呼ばれる不思議な場所には事欠かないし、それぞれの伝承が持つ歴史的背景のリアリティと重さという点で、他所の怪しげな因縁話とはわけが違うのだ。だから、そういう世界が好きな人にとっては、まさしくワンダーランドである。それらを解説した本は、それこそピンからキリまであるが、中では今やこのジャンルの古典とも言うべき『京都魔界案内』(2002 小松和彦 知恵の森文庫)が、写真や詳細な解説もあって、怖いこわい京都』(2007 入江敦彦 新潮文庫)と並んで、読んで面白くまた信頼感がある本だ。その後もたくさん出ているこの種の本は、だいたいは似たような内容なので、この2冊を読めば、有名どころと有名話のあらすじはほぼわかる。

こうしたスポットを訪ねることも含めて、昼の京都の街歩きには、やはり喫茶店(カフェ)での休憩が欠かせない楽しみだ。安価だが、狭くて、こ忙しくて、落ち着かないコーヒーチェーン店ばかりになった東京ではほとんど絶滅したかに思える 「昔ながらの喫茶店」 も、京都をはじめとする関西圏ではまだまだ生き残っているように思う。関西人はまず人と喋ることが好きだし、多少価格が高くても時間を気にせずに会話を楽しめ、飲み、食す場所として、「喫茶店」 という空間への社会的・文化的ニーズが今も高いのだと思う。'70年代に私が学生時代を過ごした神戸にも、”にしむら” や ”茜屋” といった珈琲名店が当時からあったが、クラシック音楽をカーテン越しのステレオで聞かせる “ランブル” というゆったりとした、こぎれいな音楽喫茶がトア・ロードにあって、そこへよく行った。三宮の ”そごう” で買った ”ドンク” のフランスパンを、昼食がわりに友人とその店に持ち込んで、コーヒーだけ注文してテーブルをパンかすだらけにして、長時間名曲を聴きながら食べていたが、店の経営者だったお姉さんは、常連だった我々には文句も言わず、いつもにこにこと笑って迎えてくれた(あの時代の日本は、街も人も、何だかもっとずっとやさしかったような気がする)。今の京都でも、”イノダ” の本店や三条店、”前田珈琲” など有名な喫茶店には何度も行ったし、京大前の ”進々堂” や、京大構内のレストランにも、山中伸弥教授に会えるかと思って(?)行ってみたが、どこも良い雰囲気だ。『京都カフェ散歩―喫茶都市をめぐる』(2009 川口葉子 祥伝社黄金文庫)で紹介されているように、レトロな雰囲気を持った名店、ユニークな哲学のある喫茶店、斬新な発想のカフェが京都にはまだまだたくさんある。この本は著者による写真に加え、地図もあるので、これからも探して訪ねてみたいと思う。ただし、喫茶店や飲み屋の寿命は一般的には短いので、中にはもう閉店してしまった店もあるかもしれない。京都にも昔('70年代まで)は本格的ジャズ喫茶がたくさんあって、マイルス・デイヴィスやセロニアス・モンクまで顔を出したらしい、名物マダムのいた ”しあんくれーる”(荒神口)のような有名店もあったが、今はほぼ普通のカフェになった “YAMATOYA” など数軒だけになってしまったようだ。神戸元町の “jamjam” のような、伝統的かつ本格的ジャズ喫茶はもうなさそうなのが残念だ。この街は、学生が多いこともあって新しいもの好きなので、”流行りもの” の盛衰には敏感なのである。

夜の京都もゆっくり楽しみたい。京都通いの最初のころは、名店と言われる何軒かの料亭にうれしそうに行ってみたが、すぐに、その世界はもう十分だという気がした(何せ高いし)。もっとリーズナブルな値段で、うまい料理や酒を味わいたいと思うのが人情だろう。今は情報としてのグルメ本は山ほどあるが、『ひとり飲む、京都』(2011 太田和彦 新潮文庫)は、そうした世界を文章でじっくり語っているので、読んで楽しい本だ。それも年に2回、各1週間だけ、京都に一人で住み、暮らすように毎晩気に入った店を何軒かはしごして酒を飲む、というコンセプトである。実は私も数年前に、真面目に移住を検討していて、下調べもかねて1ヶ月ほど京都に滞在する計画を立てたことがある(この本を読む前だ)。京都で暮らすようにして、観光客の少ない真冬の京都をじっくり歩いて楽しもうという魂胆だった。ウィークリーマンションとかも検討したが、根が面倒くさがりなので、結局は駅近くの手ごろなビジネスホテルに、一人でとりあえず2週間滞在することにした。だが真冬の京都の寒さは想像以上で、あっという間に風邪をひいて高熱を出してしまい、情けないことに1週間ももたずにあえなく撤退した。そのとき思ったのは、昼はともかく夜の食事の大変さ(と寂しさ)だ。ろくに下調べもしなかったこと、また真冬ということもあって、わざわざ外に出かけて一人で飲んだり食べたりする気にならないのだ。一人暮らしをしていたり、一人飲みに慣れていたり、あるいはそれが好きな人はいいが、自分には不向きだということがよくわかった。考えてみたら、相手もなく外で一人酒を飲む、という習慣がそもそもない。というわけで移住計画も頓挫し、その代わりJRの宣伝通り、「そうだ…」と、思ったときに行くことにした(やっぱり、それが正解だった)。

太田和彦の盟友・角野卓造(近藤春奈ではない)も、『予約一名、角野卓造でございます。【京都編】』(2017 京阪神エルマガジン社)という本を出していて、そこでも同様の店を紹介している。この人も相当な京都好きらしく、しかも夜だけでなく、洋食、中華も含めた朝、昼食も楽しむグルメでもある。二人の対談も収録されていて、これも楽しい。ただ、この人たちは名前も顔も知られている有名人であることに加え、いわば一人飲みの達人でもあり、それに京都でこうした楽しみ方をするには、事前に相当の下ごしらえ(時間をかけ、金をかけ、人間関係を作る)をしておかなければ無理である。したがってこの種の本の一般人(たぶん男だけだろうが)の楽しみ方は、「読んで、ただ妄想する」ことである。写真も使わずに文字だけで、目に浮かぶように(すぐにでも行きたくなるように)酒や料理のうまさ、店のムードを描写する太田和彦の文才はさすがだ。角野卓造の大きめの本には地図に加えカラー写真が載っているので、こうした世界の雰囲気を実際に垣間見ることができる。また人物としての味わいもある人のようなので、こちらもやはり楽しそうだし、かつ食事はどれもうまそうだ

ここに挙げてきたような京都本をより楽しむためにも、都市としての京都の歴史を解説した信頼できる本を読んで、正確な基礎知識を身に付けておいた方がいいと思って何冊か読んでみた。京都〈千年の都〉の歴史』(2014 高橋昌明 岩波新書) はその中の1冊だ。この本は京都研究の学術書ではないが、遜色のない厳選情報を格調のある文体で綴った都市の歴史書であり、新書という限られたヴォリュームの中でコンパクトに京都の歴史をまとめている。ただし平安京から幕末まで約1,000年にわたる都市設計、支配者、社会制度、文化、宗教、民衆などの歴史的変遷を網羅しているので、どうしても浅く広く、かつ急ぎ足になるのと、次々に登場する固有名詞の数が多いので、歴史の苦手な人には読むのが大変かもしれない。私は元々歴史好きなので、高校時代以来忘れていた日本史を復習するいい機会になった(ただし読むそばからまた忘れているが)。特に平安京以来の洛中都市域が、支配者(藤原氏、平家、源氏、足利氏、秀吉など)によって本拠地、町割り、町名などが変遷する様が面白かった。また現在我々が目にしている京都の街並みや寺社の姿が、ほとんど豊臣秀吉、江戸幕府以降の改造、投資、整備、保護によって形成されたものであることもあらためて理解した。それ以外にも、たとえば京野菜の名高さと、その味の秘密が、大都市としての京都の糞尿処理の歴史と深く関わりがあること、パリやロンドン市中の道路が、18世紀ですらまだ糞尿にまみれていたのに対し、京都ではその何百年も前から肥料を通した循環処理プロセスがほぼ機能していたことなど、日本社会や文化の源泉を見るような目からうろこのトリビアもある。著者も硬い話におり混ぜて、時々息抜きのような個人的コメントを入れたりして、読みやすく工夫しているところも良い。大都市として1,000年以上の歴史を持ち、かつ首都として幕末まで天皇が居住し、20世紀には、米軍の原爆投下の第一候補地だったにもかかわらず、それを免れた強運を持つ京都は、やはり奇跡の都市と言うしかない。