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2017/09/24

「作曲家」セロニアス・モンク(2)

Thelonious Himself
(1957 Riverside)
モンクは、自分が作った曲の解釈と演奏方法、とりわけ表現すべき「サウンド」に、作曲者として絶対的な確信を持っていたのだと思う昔から言われているように、一人で曲の全体像を表現できるピアノ・ソロがモンクの音楽にとって最善のフォーマットであり、一方バンドでモンクの曲を演奏するサイドマンたちへの要求が人一倍厳しかったのもそれが理由だろう。モンクの曲そのものが持つ難解さとは別に、異なる音楽思想を持ったマイルス・デイヴィスとの意見の衝突や、他のプレイヤーがモンクの曲を演奏するのがいかに難しかったかという多くの逸話も、自分の曲をきちんと演奏できる奏者がいないことをモンクがしばしば嘆いていたのも、そう考えるとよく理解できる。また本書に何度も出て来るように、モンクは自分が作った曲の楽譜を詳細に書き込んでいた。にもかかわらずエリントンやミンガスと同じく、ミュージシャンたちにその楽譜を見せずに、常に音だけ聞かせてメロディを習得させるという徒弟制度のような指導、共演方法を取っていた。その理由も、自分の曲は譜面を見てコード進行を覚えるように頭で理解するのではなく、まず曲のメロディをフィーリングで身体に浸み込ませて欲しい、でないとモンクが期待し、こうだとイメージしている「サウンド」が表現できないのだ、という強烈な自信と信念によるものだったのだろう。

ジャズの場合、既存の曲をモチーフにして曲を作ることも多いが、いずれにしろ「作曲」とはほとんどゼロから音楽を生み出すという創造行為である。ポピュラー曲のように、コード進行によって曲の基本的枠組みが決まっている既存の素材を、プレイヤーが独自に「料理」する伝統的なジャズ即興演奏とは違う想像力と創造力がそこでは必要とされる。メロディ、ハーモニー、リズムを周到に組み合わせて配置する作業(composition)から生まれた、曲のメロディとリズムへの強いこだわり、カウンターメロディの多用、音を間引いたオープン・ヴォイシング、半音階のコード進行、全音音階のランによる「不協和」な音の響き、ポリリズム的な多層リズムによるアクセントの「ずらし」感覚、長い休符(間)による「無音の効果」の強調、ぎざぎざした極端な音程の跳躍によって生み出すアブストラクト感と意外性、一貫性のある構築的な印象を与える演奏、等々……本書にも書かれているモンクの「演奏」に特有のものだと思われている数々の特長も、「作曲家が、自分の理想のサウンドを探求する過程から生まれた演奏上のアイデアであり技術だ」と解釈すれば、すべて納得がゆく。そして演奏技術においては、天性の音感とリズム感に加え、ストライド・ピアノの先達たちの持っていた左手の使い方と、コード進行ではなく「メロディを基にした無限の変奏」という即興コンセプトを継承したことによって、独自のパーカシブな奏法とヴァリエーションの展開という個性を開発し、ピアノの持てる機能を最大限に使って自らの「サウンド」を表現しようとしていた。モンクは、こうして作曲と演奏の両面で独創的世界を築き上げたのだ。しかも、その音楽が意図的に奇を衒って作られたようなものではなく、聴き手の感性をも開放する、あのモンクの持つ「自由」を指向する精神から自然に生まれているところが素晴らしいのである。批評家ポール・ベーコンが言ったように、まさに「それは、モンクが全体として普段からどういう物の考え方をしているのかという結果であって、小節がここで、ブリッジがそこで、とかいう問題ではないのだ」。

The Transformer
 (2002 Thelonious Records)
ビバップ、クール、ハードバップ、モード等々、流行したどんな「スタイル」のジャズにもモンクが同調せず、どんな共演相手であろうと、どんなスタンダード曲の演奏であろうと、常に自分の音楽を演奏し続けたのも、モンクが何より「作曲」という、音楽上もっとも知的で創造的な行為の真の遂行者だったからに他ならない。リバーサイドの『セロニアス・ヒムセルフ』における<ラウンド・ミッドナイト>のソロ演奏を仕上げる過程や、スタンダード曲をモンク流に解釈し再構成した演奏も、そのアプローチは直観による即興というより常に作曲的であり、本書に出て来る<I’m Getting Sentimental Over You>のモンク的解釈とアレンジの過程もその具体例である。その時(1957年春)ネリー夫人が自宅で録音した80分以上に及ぶソロによる試行のテープと、その後モンクがコンボによるコンサートの場で行なった演奏までの「変容」の記録を、ロビン・ケリーとThelonious RecordsCD化した2枚組アルバム『The Transformer』(2002年、ルディ・ヴァン・ゲルダーによるリマスター) を聞けば、その過程が一層はっきりとわかる。またネリー夫人に捧げた<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>を、数ヶ月かけて作曲する過程の逸話も同じだ。つまり初期のハーモニー解析へのアプローチがそうだったように、曲作りも、アレンジも、モンクは常に長い時間をかけ、何度も実験を重ね、練りに練った音を譜面上に一つ一つ置きながら、独自の音楽を作品として「凍結」していたのである。ホイットニー・バリエットの言葉を借りれば、モンクのインプロヴィゼーションとは、まさにその「解凍」作業だったのだ。しかも、その解凍の手法は毎回異なっていた。だから残されたレコードでの演奏は、数多いモンクの解凍作業の一つを「缶詰」にしたものに過ぎないとも言える。モンクの本当の仕事場だったクラブでのライヴ演奏は、当然ながらずっと鮮度も高く、味わいも深かったことだろう。コルトレーン、ロリンズ、グリフィンたちとの「ファイブ・スポット」における毎夜の「解凍作業」がどれだけエキサイティングなものだったかは想像もつかない(おまけにそこでは、モンクのアクション・パフォーマンスまで見られたのだ!)。一方、モンクの「作品凍結」作業の現場は、おそらくロスチャイルド家が保有している未公開のニカ夫人の録音テープの中に、まだ数多く残されていることだろう。

この「独創を常に指向する作曲家」という資質をキーワードと考えれば、リー・コニッツがインタビューの中で述べている「チャーリー・パーカーは即興の名人というよりも、実はメロディ(フレーズ)を創り出す天才的作曲家だった」という趣旨の見解とも通じるものがある。そしてこれが、作曲家デューク・エリントン直系の系譜にモンクがいること、同じく作曲家だったチャールズ・ミンガスがモンクを崇拝していたこと、またセシル・テイラーやオーネット・コールマンのようなアヴァンギャルドの音楽家(彼らも作曲家=composerである)の始祖がモンクだとされる理由でもある。ということはつまり(今更だが)、モンクは時代ごとの演奏を記録したディスコグラフィーとその個々の評価以上に、生涯で70曲以上に及ぶ作品(曲)リストの方が、重要で意味がある音楽家だということである。そしてエリントン以降、モダン・ジャズの歴史上これほど多くの優れた、かつ独創的な作品、それもジャズ・スタンダード曲を作ってきた音楽家はいないのだ。モンクのレコード(「演奏」の記録である)に、マイルスやコルトレーンやエヴァンスのような「奏者」としての決定的とも言える名盤がないこと、その代わりどのレコードで、どんなフォーマットで、何を演奏しても、常にそれはモンクの音楽であり、かつモンク的水準を超えていて駄作や駄演がないことも、そう考えれば合点が行く。だから1960年代以降、新たな曲作りが徐々にできなくなったために、限りのある既存の自作曲の解釈がついにはマンネリ化し、批判されるようになったという理由もわかる。マイルス・デイヴィスのように、時代に合わせて演奏のスタイルを変化させながら音楽自体を大胆に変貌させてゆくことができなかったのも、頑固さや能力の問題ではなく、モンクが単なるアレンジャーでもインプロヴァイザーでもない、20世紀半ばを生きた自分自身の音楽を創造する作曲家だったからだ。

ジャズとは瞬間に生まれる「場と時間」の音楽であり、それゆえ素材である曲よりも、その場における奏者の解釈と即興演奏にこそ価値があるという暗黙の前提があるので、モンクに関するこれまでの一般的分析や評価も、残されたレコードによる演奏記録に偏ってきたという側面もある。しかしスティーヴ・レイシーに始まる一部のジャズ・ミュージシャンたちは、モンクをジャズのすべての要素を包含した大音楽家として捉え、モンク的世界をどう解釈し、いかにして自身の音楽として消化するか、という探求をこれまでも、そして現在でも行なっている。モンクとはそういう存在であり、またその音楽にはいかなる解釈をも許容する懐の深さと自由がある。モンクは単なるジャズ・ピアニストを遥かに超えたスケールを持つ音楽家だったのであり、米国におけるモンクの死後の評価も、当然ながらエリントンと並ぶ「ジャズ作曲家」としてのモンクである。

Monk's Music
(1957 Riverside)
1950年代に入っても<リトル・ルーティ・トゥーティ>、<ブルー・モンク>、<リフレクションズ>、<ブリリアント・コーナーズ>、<パノニカ>、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>、<リズマニング>、<ジャッキーイング>などの名曲をモンクは数多く書いている。しかし本書で描かれているように、1960年代になると、年齢のみならず、ドラッグと精神や肉体の病のために創作エネルギーが徐々に衰え、数曲を除き、40年代から50年代にかけてのような独創的な作品をモンクは生み出すことができなかった。したがって60年代に入ってから急に高まった世の中の認証とは別に、作曲家モンクの絶頂期と言えるのは、1941年のケニー・クラークとの共作<エピストロフィー>に始まる約20年間だったと言えるだろう。また「作曲と即興」というモンク独自の音楽が最高度の次元に達していたのが言うまでもなく1950年代後半だった。そして創作のインスピレーションと意欲がさらに衰え、曲作りがほとんどできなくなった1960年代後半からの時期は、「やむなく」奏者としての活動を続け、そこでは依然モンク的水準の演奏を維持してはいたものの、「作曲」という音楽家としてのモンクを支えてきた真の基盤をほぼ失っていたとも言える。その後1970年代初めにウィーホーケンのニカ邸に引きこもり、76年に完全に引退して82年に亡くなるまで、モンクが自分の分身のごとく愛したピアノに一切触れようともしなくなったのは、時代や、精神や肉体の病のために奏者としての演奏意欲がなくなったということ以上に、もはや曲を創作できなくなった「作曲家」としての自分自身に絶望していたことが最大の理由ではなかったのか、というのが本書を読んだ私の想像である。なぜなら、音楽家モンクの創造力のすべてを注ぎ込む容器だったピアノに注ぐべきものが、永遠に失われてしまったからだ。