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2023/05/31

『グレースの履歴』

最近のTVドラマは、マンガやアニメの実写版のように、早いテンポの荒唐無稽なストーリーや、軽い人物描写ばかりで、元来そういうドラマを面白がって、結構好きだった私でもいささか食傷気味だ。21世紀に入ってから、音楽、映像、テキストすべてが「アートからエンタメ」に変容して、今や面白くないと、後の配信市場でも稼げない。その方向に行かざるを得ない作り手側も、それを好む視聴者側も、ほぼ同世代が世の中の中心になっているので、需要・供給両面で軽くて面白いエンタメ作品ばかりが増えることになる。消えつつある団塊世代や年配者も楽しめ、じっくりと味わえる、昔の文芸作品的なドラマはほぼ消えたと言っていい。現在、それに唯一挑戦できるドラマ供給者が、スポンサーフリーのNHKなのである。

この3月から5月にかけて放映されたNHK BSのプレミアムドラマ『グレースの履歴』(全8回)は、そういう風潮の中で、久々に物語そのものと、映像、音楽、登場人物の演技等、全盛期のテレビ作品にしか見られなかった丁寧な作りと高い質を持った大人のドラマだった。ヨーロッパの一人旅の途上、事故で急逝した妻の遺した車(グレース)のカーナビに導かれて、二人の過去を辿ることになる夫の旅路を繊細に描く物語だ。

脚本・演出を手掛けたのは源 孝志で、『京都人の密かな愉しみ』(2014~21)、『平成細雪』(2018)、『スローな武士にしてくれ』(2019)、『怪談牡丹灯籠』(2019) など、多くの大人のドラマをNHKで制作してきた人だ。音楽担当の阿部海太郎と組んだNHKドラマは、おそらく二人の美意識に共通したものがあるからだと思うが、丁寧に作られた映像と音楽が共に繊細で、美しく、格調の高さがあって、どの作品も何度でも見たくなる奥行と魅力がある。配役も、おそらく源 孝志の世界観と美意識に共感する俳優が選ばれているので、どの役者も今風の大袈裟な無理やり感が皆無で、登場人物として物語の中に自然に溶け込んで演じている。

最新作『グレースの履歴』でも、尾野真千子、滝藤賢一という夫婦の両主役に加え、源作品では欠かせない柄本 佑の自然な演技が光っていた。尾野真千子は、時おり関西風味が強すぎると感じることもあるが、やはりさすがの演技力で、物語の主人公・美奈子の独特の存在感をここまで表現できる女優はなかなかいないだろう。夫の希久夫役の滝藤賢一はTBSの『半沢直樹』で初めて知った人だが、様々な役柄がこなせる幅のある役者だ。近年では、広瀬アリスとの日テレのコメディ『探偵が早すぎる』で大いに笑わせてもらった。本作『グレースの履歴』では、真面目な、理系の「受け身の男」を演じて、実に良い味を出していた。その他、伊藤英明、宇崎竜童もよかったが、意外にも(?)広末涼子が希久夫の元恋人役を好演していたと思う。

映像美は源 孝志作品の要であり、本作でも3人目(?)の主人公「HONDA S800(エスハチ)」の深紅の車体の美しさを存分に生かして、湘南、信州、琵琶湖、瀬戸内、四国松山を巡る主人公のドライブと共に、各地の海、森、農道、並木、高原、湖などの背景にエスハチを溶け込ませた映像がふんだんに見られる。特に冒頭やエンディングで、尾野真千子の運転するS800がメタセコイアの並木道(滋賀県高島市らしい)を走る画、滝藤が信州の長い一本道の農道を走る画は美しい。クルマ好きにはたまらないドラマでもあるが、NHK制作なので社名「HONDA」への言及は控え目だ。しかし作者の「HONDA」への思い入れは、原作の小説を読むと非常に深いものがあることが分かる。今は消えてしまったが、20世紀の日本の夢を乗せた、この初の日本製ライトウェイト・スポーツカーの持つ、どこへでも身軽に飛んで行ける軽快さ、自由さが、主人公二人を結びつけ、人生を導く鍵なのだ。

ドラマを見てから『グレースの履歴』の原作小説を読んでみた。この本は源 孝志自身が2010年に『グレース』というタイトルで出版し(文芸社)、2018年に文庫本で『グレースの履歴』と改題して改めて発行されている(河出文庫)。著者がまだテレビ界でブレイクする以前に書かれた小説のようだが、やはり「脚本」を読んでいるように映像が目に浮かんで来る、非常にヴィジュアル・イメージを喚起する語り口の作家だということが分かる。ただし、ドラマを先に見ているので、登場人物のイメージがどうしてもテレビの印象に引っ張られ、テレビの俳優がそのまま浮かんでくる。ヴィジュアル情報が与える強烈さを再認識したが、先に小説を読んでいたら、どんな俳優がテレビ版には合っているのか想像できたか――と考えてみたのだが、もうイメージが湧いて来ない。

原作の登場人物は、それぞれ複雑な過去を背負っているが、8回連続とはいえ、TVドラマでは細かな情報をすべてカバーすることはできないし、(歳のせいか)こちらが見落とすこともあるので、見ていてときどき「??」と思う場面があった。また今回は前半録画もし損ねた。そこで、原作を読んでみることにしたのだが(TVドラマを見てから原作を読んだのは私的には初めてだ)、多少ストーリーがドラマ版と違うところもあるが(林遣都のエピソードなど)、なるほどそうだったのか、と納得できた場面も結構あった。この作者の作品は、非常に緻密に組み立てられているので、ドラマでも、何度も見ると毎回新たな発見がある。ただしエンディングは、「グレース」という車名の由来に回帰する小説版の方がしゃれていると思った。

ドラマは、10年以上構想を温めてきた源 孝志自身が、原作から脚本・演出のすべてを手掛けているわけで、その完成度の高さも分かろうというものだ。つい最近、2026年からのF1復帰を発表したホンダだが、2輪から始めて、世界の4輪市場に挑戦し、1964年に初参戦したF1で、80年代にはついに数多くのタイトルを制覇するという偉業を成し遂げた。ホンダは、戦後世界における日本の復興という夢と、日本ブランドの新たな価値を象徴する会社の一つだった。その夢を実現させたホンダと、創業者で生涯一人の技術者でもあった本田宗一郎氏への、著者の尊敬と愛が溢れるオマージュである原作小説には、同じく昔のホンダと創業者が好きだった私も、何度か胸に込み上げて来る部分があった。劇中、元ホンダ・レーシングチームのメカニックで、今は信州・岡谷でバイク修理店を営んでいる宇崎竜童演じる仁科 征二郎が、S800(グレース)を巡る物語の鍵を握っている設定がその象徴だ。薄っぺらなエンタメを遥かに凌ぐ、ノンフィクションの重みと歴史的背景に支えられた『グレースの履歴』は、大人が真に楽しめる良質な小説であり、TVドラマである。おそらく既に要望が急増しているとは思うが、NHKには、ぜひ地上波で本ドラマを再放送することをお願いしたい。