ページ

2017/05/12

Bossa Nova #4:バーデン・パウエル

いわゆる穏やかなボサノヴァとは対極にあるのが、ギタリストのバーデン・パウエル Baden Powell (1937-2000) の音楽だ。ここに挙げた邦題「黒いオルフェーベスト・オブ・ボサノヴァ・ギター」というCDは、1960年代に演奏されたバーデンの代表曲を集めたベスト・アルバムで、昔から何度もタイトル名やジャケット・デザインを変えて再発されている。今や古典だが、彼が最も脂の乗った時期の演奏であり、どの曲も演奏も素晴らしいので、いつになっても再発されるのだろう。ここでは<悲しみのサンバ Samba Triste>などバーデンの代表曲の他に、<イパネマの娘>などボサノヴァの名曲もカバーしているが(タイトルもそうだが)、彼のギターの本質はいわゆるボサノヴァではない。アフロ・サンバと呼ばれる、アフリカ起源のサンバのリズムを基調としたより土着的なブラジル音楽がそのルーツであり、ボサノヴァのリズムと響きを最も感じさせるジョアン・ジルベルトが弾くギターのコードとシンコペーションと比べれば、その違いは明らかだ。だからサンバがジャズと直接結びついて生まれたボサノヴァと違い、バーデンの音楽からはあまりジャズの匂いはしない。このアルバムで聴けるように、彼のギターは力強く情熱的で、圧倒的な歯切れの良さとブラジル独特のサウダージ(哀感)のミックスがその身上だ。特にコードを超高速で刻む強烈なギター奏法は、40年以上前のガット・ギター音楽に前人未踏の独創的世界を切り開いた。もちろんバーデンもボサノヴァから影響を受け、またボサノヴァに影響を与えた。だからその後のブラジル音楽系のギタリストは、ジョアン・ジルベルトと並び、多かれ少なかれバーデン・パウエルの影響を受けている。

60年代全盛期のバーデン・パウエルは世界中で支持されたが、当時のその神がかったすごさは、1967年にドイツで開催された「Berlin Festival Guitar Workshop」(MPS) という、ブルース奏者(バディ・ガイ)やジャズ・ギター奏者(バーニー・ケッセル、ジム・ホール)等と共に参加したコンサート・ライヴ・アルバムで聞くことができる(このコンサートをプロデュースしたのはヨアヒム・ベーレントとジョージ・ウィーン)。ここでは <イパネマの娘> 、<悲しみのサンバ>、 <ビリンバウ> の3曲をリズム・セクションをバックに演奏しているが、いくらかスタティックな他のスタジオ録音盤とは大違いの、迫力とスピード、ドライブ感溢れる超高速の圧倒的演奏で会場を熱狂させている(CDではMCがカットされたりしていて、LPほどはこの熱狂が伝わってこないが)。この時代1960年代後半は、バーデンは特にヨーロッパで圧倒的な支持を得ていたが、ベトナム反戦、学生運動、公民権闘争など当時の激動の世界が、フリー・ジャズやバーデンのギターから聞こえる既成の枠を突き破ろうとする新しさと激しさに共感していたのだろう。バーデンはセロニアス・モンクやジョアン・ジルベルトと同様に、その奇行や変人ぶりでも有名だったが、こうした素晴らしい音楽を創造した天才たちというのは、いわば神からの贈り物であり、常人が作った人間世界の決まり事を尺度にあれこれ言っても仕方がない人たちであって、正直そんなことはどうでもいいのである。

バーデン・パウエルは、映画「男と女」(1966) にも出演したフランス人俳優、歌手、詩人、またフランス初のインディ・レーベル 「サラヴァ Saravah」主宰者としても知られる文字通りの自由人ピエール・バルー Pierre Barouh (1934-2016)との親交を通じて、フランスにブラジル音楽を広めた一人でもあった。バルーも、バーデンの協力を得ながら曲を作り、自らブラジル音楽をフランス語で歌い、フランスにボサノヴァを広めた。彼はまた日本人ミュージシャンたちとの親交でも有名な人だが、Saravah創設50周年を迎えた昨年12月末に82歳で急死した。そのバルー追悼として最近再発されたDVDサラヴァ- 時空を越えた散歩、または出会い」(ピエール・バルーとブラジル音楽1969~2003)は、1969年のブラジル訪問以降、バーデン・パウエル他のブラジル人ミュージシャンたちとの交流を通じて、バルーがどのようにブラジル音楽を理解していったのか、その旅路を自ら記録した映像作品だ。若きバルーやバーデンと、ピシンギーニャ他のブラジル人ミュージシャンたちが居酒屋に集まって即興で演奏する様子(ギターはもちろんすごいが、歌うバーデンの声の高さが意外だ)などを収めた貴重なドキュメンタリー・フィルムは、バルーのブラジル音楽への愛情と尊敬が込められた素晴らしい作品だ

バーデン・パウエルは1970年に初来日して、その驚異的なギターで日本の人々を感激させている(ジョージ・ウィーンがアレンジしたこの時のツアーには、セロニアス・モンクもカーメン・マクレー等と参加していた)。日本でそのバーデン・パウエルのギター奏法から大きな影響を受けたと思われるのが、歌手の長谷川きよし(1949-)やギタリストの佐藤正美(1952-2015)だ。長谷川きよしのデビューは1969年で、<別れのサンバ>に代表される初期の曲で聴けるサンバやボサノヴァ風ギターには、バーデンのギターの影響が濃厚だ。バーデンを敬愛していた佐藤正美はより明快に影響を受けていて、1990年のCD「テンポ・フェリス Tempo Feliz」(EMI)は、バーデンへのオマージュとして聞くことのできる優れたアルバムだが、ここでの演奏はボサノヴァ色をより強めたものだ。背景に海辺の波の音を入れた録音には賛否があったようだが、これはこれで非常にブラジル的なムードが出ていて、リラックスして聴けるので私は好きだ。昔、渡辺香津美との共演ライヴで聴いた佐藤正美のギターも実に素晴らしかった。その後、独自のコンセプトで様々な演奏と多くのアルバムを残した佐藤正美氏は、残念ながら2015年にバーデン・パウエルと同じ享年63歳で亡くなった。