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2017/05/29

レニー・トリスターノの世界 #2

Lennie Tristano All Stars
(Rel. 2009 RLR)
前項のように、昔からAtlanticの「鬼才…」や「ソロ」ばかり紹介されるために、変人ぶりや難解で高踏的なイメージだけが定着してしまったが、限られてはいるものの、中には聴き手がリラックスしてトリスターノの名人ぶりを楽しめるレコードも残されている。Lennie Tristano All Stars」(RLR 2009)というCDは、トリスターノがシカゴからニューヨークに出てきた翌19478月にクラブ「Café Bohemia」(Pied Piper)で録音されたライヴ演奏と、19646月のクラブ「Half Note」でのTV中継ライヴ(Look Up & Live)からの3曲をカップリングした珍しいレコードだ。47年のライヴは、ビル・ハリス(tb)、フリップ・フィリップス(ts)、ビリー・バウアー(g)、チャビー・ジャクソン(b)、デンジル・ベスト(ds)という、ウッディ・ハーマン楽団のメンバーを中心にしたコンボにトリスターノが飛び入りしたもののようだ。未だスウィング色の強い、喧騒のビバップ・コンボに「潜入した」当時28歳のここでのトリスターノは、CMではないがまさに異星から来た「宇宙人トリスターノ」だ。ハリスやフィリップスの実にスウィンギングな熱演に客席から掛け声もかかり、ダンスも踊れそうな音楽に一応は合わせているが、リズム、ライン、コードとも時々周囲と全く違う異次元のサウンドを繰り出し、特にトリスターノのソロに入ると一気に場が冷え込み、演奏メンバーもクラブの客も面喰らっている様子が手に取るようにわかる。トリスターノがニューヨークのジャズシーンに突如出現した当時のインパクトが目に見えるようにわかって実におもしろい。このCDは録音もプアで基本的には好事家向けだが、トリスターノ・ファンなら初期のトリスターノと、当時のニューヨークのクラブでのビバップの雰囲気を知る貴重な記録として非常に楽しめる。それからワープして17年後、すっかりモダンになった1964年の「Half Note」ライヴ録音3曲は、リー・コニッツ、ウォーン・マーシュという弟子たちとトリスターノ最後の共演である(ソニー・ダラス-b、ニック・スタビュラス-ds)。このライヴ演奏翌年のヨーロッパ・ツアーを最後に、トリスターノはほぼ人前で演奏することはなくなる。

Lennie Tristano
Manhattan Studio
1955/56 Jazz Records
もう1枚は、ピアノ・トリオ「Manhattan Studio」(1955/56 Jazz Records)だ。'50年代初めにトリスターノは彼のジャズ教室のための練習と録音を目的にマンハッタンに小さなスタジオ(317 East 32nd)を作ったが、このレコードは1955/56年にかけて、そのスタジオで記録された演奏を集めた私家録音盤である。40年代の超革新的な姿勢も、このアルバムと同時期のAtlantic盤での録音ギミックもなく、ピーター・インド(b)、トム・ウェイバーン(ds)という二人の弟子をリズム・セクションに従えて、ごく当たり前のピアノ・トリオとして演奏している。コンボやソロが多く、またトリスターノのトリオと言えば50年代初めの数曲の演奏を除き、ビリー・バウアーのギターとベースによるものしかないので、ベースとドラムスによるトリオ演奏だけから成るアルバムはこの1枚だけだ。ここでは流れるようなスピードと美しさ溢れる「素顔の」トリスターノの素晴らしいピアノが堪能できる。9曲の内、自作2曲を除き、他7曲はトリスターノにしては珍しく全てスタンダードを弾いている。いつものようにいきなりくずさずに、どの曲もストレートにメロディを弾いていて、ごく普通の4ビートのピアノ・トリオとして構えずに聴け、トリスターノのインプロヴィゼーションの世界がわかりやすい。複雑さもなく、こんなにリラックスした雰囲気で、楽しそうに(たぶん)スウィングして弾いているトリスターノは他の録音では絶対に聴けない。弟子たちと自分のスタジオで、好きな曲を自由に弾いている様子が伝わってきて、他のアルバムで常につきまとう聴き手に強いる緊張感がここにはない。リズム・セクションも1950年代半ばの普通のピアノ・トリオのリラックスしたバッキングで、よく言われる正確で律儀なメトロノーム的な伴奏だけではない。しかしフォーマットは普通だが、演奏そのものはやはりトリスターノで、50年代半ばという時代を思えばその音世界の斬新さは相変わらずだが、同時にそのドライブ感と、次から次へ出てくる美しいフレーズとメロディ・ラインはまさにバド・パウエル並みで、これにはびっくりする。

Lennie Tristano
Chicago in April 1951
(Uptown)
数は少ないがリラックスして楽しめるライヴ音源もまだ残されている。数年前に発掘されリリースされたCDだが、19514月に故郷のシカゴに帰って、「ブルー・ノート・クラブ」に出演したレニー・トリスターノ・セクステットの未発表ライヴ録音全14曲を収めた2枚組CD「Chicago in April 1951」Uptown)がそれだ。これまでトリスターノのライヴ音源はプアなものが多かったが、これはピアノとホーンの音について言えば予想以上にクリアで、おそらくこれまでのグループによるクラブ・ライヴ録音ではベストの音質だろう。しかもトリスターノが時々MCをやりながら演奏していて、その声もクリアで、これにも驚く(初めて彼の声を聞いた)。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)に、同じくトリスターノ門下だったウィリー・デニス(tb)が加わり、リズム・セクションにバディ・ジョーンズ(b)、ミッキー・シモネッタ(ds)を配した3管セクステットによる演奏である。このCDはトリスターノがまだ32歳の時の録音で、コニッツ、マーシュを含むグループとしての一体感も完成の域に達していた時期でもあり、おそらく音楽的には絶頂期にあっただろう。本作はプレイヤーとして全盛期のトリスターノの素晴らしいピアノと、グループのリラックスしたクラブ・ライヴ演奏が、初めてクリアな音で楽しめる貴重盤である。

Lennie Tristano Quintet
Live in Toronto 1952
Jazz Record
s
そしてもう1枚のライヴ録音は、翌1952年カナダ・トロント(UJPOホール)でのコンサート・ライヴ「Live in Toronto 1952(Jazz Records)で、こちらはリー・コニッツ (as)、ウォーン・マーシュ (ts)、ピーター・インド (b)、 アル・レヴィット (ds) というクインテットによる演奏。ビリー・バウアー (g) はツアーに参加しなかったものの、メンバーはいわば当時のトリスターノ派全員集合である。このトロントでのライヴは、当初実験的要素もあったコニッツ、マーシュを従えたバンドを立ち上げてから5年近く経っており、グループとしての音楽的コンセプトも各自の役割も全員に浸透し、互いの理解も深まった段階に達していたことだろう。一発勝負のライヴでありながら、6曲すべてにおいて全員その流れるようにスムースで切れ味の良いユニゾン、アドリブともに見事で、ビバップとは異なる手法によるジャズ史上最高レベルの集団即興演奏だと言われている。トリスターノが希求していた理想のジャズが、ある意味ここで完成されたとも言えるだろう。ところがコニッツはこの公演の翌月トリスターノの元を離れ、トリスターノが以前から評価していなかったスタン・ケントン楽団に入団し、結果このトリスターノ・バンドは実質的に解散することになるのである。

1940年代のシカゴ時代、コニッツが十代の時から師事していた師匠とその高弟は、ここについに袂を分かつ。音楽上よりも経済的な理由だったとは言え、このトロント直後の片腕リー・コニッツの離反がトリスターノに与えた衝撃がいかに大きかったかが想像できる。マーシュは ’55年まで留まったが、前項に記したように、1952年のこの一件後トリスターノは徐々に公の場に出なくなり、マンハッタンのスタジオにこもってフリー・ジャズや多重録音などのジャズ研究とジャズ教師に専念するようになる。トリスターノとコニッツはその後ついに完全には和解せず、時折の共演を除き、かつての師弟関係は失われる。1959年の「Half Note」で、トリスターノの代役として急遽参加したビル・エヴァンスと、コニッツ、マーシュが共演したライヴ演奏(Verve) にも、実はそうした師弟間の葛藤と裏事情が伺われる逸話が残されている。そして上記1964年の「Half Note」での共演を最後に、以後2人は二度と顔を合わせることはなかった。だが「リー・コニッツ」のインタビューで、70年代半ばになってから2人が交わした電話ごしの会話のことをコニッツが語っているが、久々の会話を終えたトリスターノの嬉しそうな姿を、当時の弟子コニー・クローザーズから後年伝え聞いたコニッツが、思わず落涙した話は胸を打つものがある。

トリスターノ派ミュージシャン以外にも、セシル・テイラーやチャールズ・ミンガス、ポール・ブレイ、ビル・エヴァンス等への影響を含めて、トリスターノの革新的コンセプトがその後のジャズに与えた音楽的影響は決して小さくはなかったが、アメリカではそれはずっと無視されるか、過小評価されてきた。彼は小さくてもいいので自分のジャズクラブが欲しいとずっと言っていたそうだ。大衆には受けなくとも、自分の音楽を理解してくれる聴衆が少しでもいれば、そこで思う存分演奏したいと考えたのだろう。商業主義への妥協を拒んだ人生ゆえに、’78年に59歳で亡くなるまでにその願いは結局かなわなかった。しかし20世紀半ばのアメリカという国には、このような「理念」を持つジャズ音楽家も存在したのである。