ド素人ながら長年ジャズを聴いてきたので、内外の「ジャズ本」の類もたくさん読んできた。今はインターネットで調べれば、「事実」に関してはほぼ何でも分かる時代だが、それらは出所不明の情報も多く、また所詮は断片情報なので、何かをまとめたり、ある観点で理解しようとすると、結局のところかなりの時間と労力を要することが多い。その点「本」というのは初めから、あるコンセプトに基づいて情報を集め、整理した知的パッケージになっているわけで、信頼できる著者や出版社が手掛けた良書なら、一読しただけで、著者や編者の観点でまとめた情報なり思想なりが読者に正確に伝わってくる。椅子に座っても読めるし、寝る前にベッドに寝転んで読み続けることもできる。電気もいらず省エネだし、PCやスマホの明るいディスプレイより目も疲れない。長い歴史のある紙媒体の本は、いくら電子情報時代になっても、やはり捨てがたい有効性と魅力を持っている。
もっとも、ジャズに限らず、音楽に関する本など読む必要はないし、音楽について考えたり語ったりする必要もない、ただ聴いて楽しめばいいという意見の人もいることだろう。音楽が日常の消耗品となり、まともに本も読まなくなった現代では、むしろそういう考えが主流なのかもしれない。しかしジャズは、「聴く」と知り(読み)たくなる、「知る(読む)」と考えたくなる、「考える」とまた聴きたくなる……という不思議な魅力を備えている音楽で、ジャズファンは昔から、自然にこの「聴くー読むー考えるー(また聴く)」というループにはまり、またそれを楽しんできたのではないだろうか(3回楽しめる)……というより、むしろ話は逆で、「そうなりやすいタイプの人」がジャズを好きになる、と言ったほうがいいのかもしれない。音楽は聴いて楽しけりゃそれでいい、というこだわりのない人は、たぶんジャズ好きにはならないからだ。
以前「ジャズを考えるジャズ本」というタイトルのブログ記事を書いたことがある(2018年2月)。そのときは (1) ジャズ史や伝記類(2) 有名レコード等の解説情報 (3) ジャズの聴き方の類、という一般的なジャズ本の私的分類に加えて、(4)番目として、「ジャズという音楽そのものを考える」、というコンセプトで、1990年代以降に出版された興味深い本を何冊か取り上げた。コロナ騒ぎのおかげで時間がたっぷりあるので、最近手持ちのジャズ本を読み返す機会があったが、そこで少々古い本を含めて何冊か面白い本をまた「発見」したので(歳のせいで、以前読んだ内容を忘れているのだ)、あらためてそれらを紹介してみたい。今回の選択コンセプトも前回と同じで、基本的には回想や、聞き書きではなく、あくまでその時代に書き手がリアルタイムで観察し、思考し、書いた文章で、いずれもジャズの面白さや奥深さを感じさせる本を中心にしている。
ところでタイトルの「あの頃の」とはいつ頃のことだ?と疑問を持つ人もいると思うが、本記事でいう「あの頃のジャズ」とは、日本でジャズがもっとも熱かった1960年代後半から、私が個人的にもっともジャズに熱中した1970年代を指す。それも単なるド素人ジャズファンという立場から見た状況と実体験をもとにしている。1960年代から70年代にかけて、ジャズについて日本で書かれた一部の本や文章には、当時は前衛芸術だったジャズに対する熱意と理解が想像以上に深いレベルにあったことを示すものがたくさんある。また様々な視点、角度からジャズやジャズ・ミュージシャンを描いた興味深い読み物も数多く、それらもまた捨てがたいので、今回は少々長いシリーズ記事になるが、そうした本も紹介してみたい。(ただし、どんな話をしたところで、所詮は「むかし話」になるので、これ以降は興味のある人だけ読んでください)。
戦後日本のジャズ文化 マイク・モラスキー 2005/17 岩波現代文庫 |
米国では1950年代に、ビバップをさらに先鋭化したアヴァンギャルド(前衛)ジャズに触発された 「ビートニク (Beatnik)」 と呼ばれる一群の作家、詩人、画家、ダンサーなどの前衛芸術家が現れ、斬新な文学、美術、演劇等が誕生した(ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグなどの作家や詩人がその代表。その当時、前衛ジャズ側の中心にいたのがセロニアス・モンクとセシル・テイラーである)。その時代のジャズには、異分野の芸術家さえ触発し、作品への創作意欲を喚起するパワーが確実にあった。戦後の復興期を経て経済成長を始めた日本でも、50年代末のフランス・ヌーベルバーグ映画で使われたジャズと、61年(昭和36年)のアート・ブレイキーの来日に始まる本場のジャズ・ミュージシャンの来日ラッシュで、ダンスの伴奏音楽だったそれまでのスウィング・ジャズとは違う、(座って聴く)知的な「モダン・ジャズ」への関心がインテリ層や芸術家の間で一気に高まり、米国と似た文化現象が1960年代前半から遅れて起きた。モラスキーの本が普通のジャズ本と異なるのは、音楽やミュージシャンだけでなく、批評家(相倉久人、平岡正明)、作家(石原慎太郎、五木寛之、倉橋由美子、大江健三郎、中上健次、村上春樹等)、映画人 (黒澤明、足立正生、若松孝二)、詩人(白石かずこ他)、演劇人(唐十郎)たちが、当時ジャズに対してどのような反応を示し、行動したのか、その実例を挙げながら、ジャズが戦後の日本文化に与えた直接的、間接的影響も射程に入れて分析しているところだ。
日本人には当たり前すぎて、あるいは内部にどっぷりと浸りすぎて気づかない文化面での特徴を、外国人が外部からの視点で指摘するのは比較文化論の古典的手法であり、日本人はまた、昔からそれを好んできた(今や、テレビでもそうした番組だらけである)。しかしジャズという「米国原産の音楽」の日本における特殊な受容史を対象にして、自らジャズピアノも弾くアメリカ人学者が文化論として考察し、それを日本語で発表したところに、何よりも本書のユニークさと価値があるのだろう(サントリー学芸賞受賞)。この本を読んで「先を越された」と嘆いた人もいるそうだが、これは、日本人にも書けそうでいて、なかなかできないことなのだ。普通のアメリカ人には、米国文化の特質が実はよく見えていないのと同じことである。分かっていると思っている人が、実はいちばん分かっていないということはよくある。文化的事象の客体化、相対化は難しい。既に自分の身に起きてしまった変化、血肉として既に自分の一部となってしまった文化的影響を抽出し、本人がそれを上手に説明するのは想像以上に難しいことだからだ。その意味で、日本のジャズ受容史とその特殊性を、たぶん初めて可視化してくれたモラスキー氏の仕事には大いに感謝すべきだろう。