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2021/07/28

英語とアメリカ(3)イノベーション

あくまで化学メーカーでの経験に基づく視点だが、日米の「ビジネス開発」の一般的手法を比較すると、限られた数の「重要顧客」に焦点を絞って、そこへピンポイントで集中的にリソース(営業、研究開発)を投入することで「新技術・新製品・新用途」等を開発し、次にそれを横に展開してゆくのが伝統的な日本の「戦術的営業」手法だ。そこでは昔から、目に見えている顧客と直接接触して具体的ニーズを掴み、それを掘り下げてゆく前線(ライン)こそビジネス開発の要であり、後方支援(スタッフ)はあくまで前線を支える縁の下の力持ち的役割だ、という思想が根強い。

一方アメリカは、需要の有無はまだ定かではないが、共通のニーズを持つ可能性がある「不特定の潜在顧客群」を新たな「市場 (Market)」と定義し、常にその市場に対して仕掛けることで需要を喚起しビジネスを開発する「マーケティング (Marketing) 」と、それに加えて、新たな発想で、これまでなかったまったく新しいビジネスを創出する 「イノベーション (Innovation) 」という、「戦略的ビジネス開発」の手法を両輪とする国だ。つまり人間の持つ「潜在的欲望」がどこにあるのかを探り、そこを常に刺激し続けることによって、新たな需要(市場)を生み出し経済を発展させるという、現代資本主義の典型モデルである。電話、自動車、テレビ、冷蔵庫……と20世紀にアメリカが開発し、世界に提供してきたモノは、最初「あればいいのに…」という素朴な願望に応えて作られ、次に「使ってみたら便利だった」という満足感を生み出し、さらに「これがないと困る」という欲望へと変化し、その後もコンピュータやスマホを始め、もう「これがないと、どうにもならない」という世界へ徐々に人間を導いてきたのである(このことの本質的問題はここでは問わない)。

したがってアメリカでは、まずマクロ市場分析を行ない、どこにビジネスの可能性がありそうか、そこをどう攻めて行くのか、という中長期的視点に基づく「基本戦略立案」こそが最重要で、そこから先の短期局地戦とその実行計画はラインの仕事だ、という思想が根本にある。だから米国企業では、日本とは反対に、普通は「市場戦略立案」を担当するマーケティング部門等のスタッフがもっとも重要で力を持っていて、「顧客」を担当する営業ライン職の地位が相対的に低い構造になっていることが多い。日本の営業手法は、いわば「頭脳と手足」が常に一体化していて、無駄がないので効率が良いが、どうしても短期的な目標中心になりやすい。一方アメリカでは、常に全体を見渡し、先を見通す「頭脳」と、既に見えているものに対して行動する「手足」の機能を分業で行なっている、という言い方もできる。あるいはまた、どちらかと言えば、限られた数の主要顧客層から成る川上市場(生産材)に重点を置く日本型と、不特定マス顧客から成る川下市場(消費材)に重点を置くアメリカ型のビジネス開発の特徴を表しているとも言える。こうした両国の思想、伝統の違いが、長期的なビジネス開発(技術だけではない)の成果に影響を及ぼすように思える。

日本の「短期戦術型」とアメリカの「長期戦略型」思考は、一般的な見方をすれば、国の成り立ち、地理的条件の違い、文化、国家観、価値観、国民性の違い等々、両国間に本質的に存在する相違点に由来するものだと言えるのだろう。とはいえ歴史的に見れば、日本にも戦国末期や幕末・明治初期には、全体的、長期的視野で状況を俯瞰できる優れた戦略的思想を持ったリーダーたちが実際にいたことを考えると、かならずしもそうとばかりとは言えない気もする。むしろ太平洋戦争を敗戦に導いた「大本営」の参謀たち――後方で机上の空論ばかり書いて前線部隊に指示するエリート集団――に対する、ある種のアレルギー反応というべきものが戦後の日本人に植え付けられたのかもしれない。あるいは戦後、「戦略的頭脳」を日本では育成しないという、進駐軍の深謀遠慮による国民洗脳策があったのか、それとも明治以来の、西洋に追いつけ、追い越せという性急な近代化思想が遠因となって、先のことよりまずは見えていること、目の前の問題解決を優先して、そこに集中するという思想と姿勢を日本人に定着させたのか――とか、様々な分析が可能な、興味深い比較文化論的テーマのように思える(誰か、もうこうした分析を行なった人はいるのだろうか?)。

アメリカ生まれの "リストラ" (restructuring=事業再構築、再編成) という言葉が、今や日本では「人員整理=クビ切り」と解釈されているように、 ”イノベーション"(innovation)という言葉も、日本では、(誰が使い出したかは知らないが)いまだに判で押したように「技術革新」という「訳語」で解説している大手新聞の記事や雑誌等を時々見かける。これは誤訳とは言えなくとも、一部の意味しか伝えていない、読者をミスリードする危険がある訳語だ。きちんと辞書で調べれば「新機軸、刷新」という訳語表現が多いように、「新たな発想で、制度や仕組みを変えること」が本来の意味であり、たとえ既存の技術やアイデアであっても、それらの「組み合わせ方」次第で新たな市場や価値が生み出せる、という発想がその本質だ。日本のモノ作りの伝統に見られる、特定の技術をより深く追求すべく、手の内にあるアイデアを活用しながら川上→川下へと垂直統合的に製品開発を進める(閉じられた)思想に対し、横に幅広く展開する市場を視野に入れながら、水平分業的にアイデアを柔軟に取り入れて仕事を進める(開かれた)アメリカ型思想、という両者の特徴を反映しているとも言えるだろう。

21世紀に入ったわずか20年で急成長し、今や独占による弊害が指摘されているアメリカの「GAFA」はどれも、Intel や Microsoft が先鞭をつけたデジタル技術(ハード&ソフト)の持つ潜在能力を長期的視点で掘り下げ、「インターネット空間におけるサービス」という新しい概念を、デジタル技術の外縁に位置付けるという発想で、新たな市場を生みだしたビジネス・イノベーションと言えるだろう(Googleはグローバル情報検索と広告、Appleはモバイル機器と音楽情報の組み合わせ、Facebookは個人の情報発信とコミュニケーション、Amazonはネット空間スーパーマーケットと宅配サービス、というように)。20世紀の「テクノロジー(モノ)」が、世界共通の普遍的需要(欲望)に応えたものだったように、21世紀には、ネット空間におけるデジタル技術をベースにした「サービス」にも同じ機能と価値、すなわちビジネスチャンスがあるという、1990年代の米国による「先駆的市場概念」が、21世紀のイノベーションを先取りしていたと言える。このビジネスモデルのコンセプトを、最初から「グローバル市場(世界)」を射程に入れてデファクト・スタンダード化すべく、技術だけではなく「政治力」と (英語という)「言語支配力」を利用しながら、他国に先駆けて戦略的に推進したアメリカが主導権を握ったのは当然だ(いずれも日本が、グローバル的に見てもっとも相対的に弱い能力である)。

最近NHKが『プロジェクトX』を再放送している。主に、20世紀に日本がどれだけ優れた技術や製品を世界に先駆けて生み出したかを見直すことで、バブル以降低迷していた20年ほど前の日本を、中島みゆきの応援歌「地上の星」と共に元気づけようと企画された番組だ(当時のカラオケバーを思い出す…)。その後も一向に浮上する気配が見えないどころか、さらに沈み続け、すっかり自信をなくした今の日本を再び元気づけようとするのが番組の意図なのかもしれないが、今見ても確かに感動的なエピソードが多く、昔の日本人の「生真面目さ」を懐かしく思い出す(バブル時代を経た価値観の転換で、日本人が失った最大の財産がこの属性だ。その後の「志」なき日本人リーダー層の人材劣化はここから始まった)。しかし上記の「イノベーション=技術革新」という図式と同じく、こうしたメディアの感覚も、デジタル革命に乗り遅れただけでなく、その後も過去の成功体験に縛られたまま、無意識のうちに「技術(=モノ)の革新」にばかりこだわり、デジタル技術を利用した情報(ソフト)やサービス、制度の改革に目を向けてこなかった日本人の発想をさらに狭めて「技術のガラパゴス化」へと向かわせ、本来の「イノベーション」を生まれにくくしてきた遠因とも言えるだろう。

コロナ禍で街中を走りまわる宅配員の背中の "Uber" のロゴを見るにつけ、「これって日本の蕎麦屋が昔からやってきたことだよな…アート・ブレイキーの 〈Moanin'〉 を口ずさみながら…(古いが)」と思う。調べてみると、アメリカでもっとも一般的な出前である「宅配ピザ」は1960年(昭和35年)創業のドミノ・ピザらしいし(〈Moanin'〉の頃だ)、海外で一般的な「ケータリング・サービス」も明治時代のイギリス発生らしいので、いずれも江戸時代からあったという日本の「蕎麦屋の出前」や「京都の仕出し」の歴史とは比較にならない。その「出前サービス業務」の対象食品の種類を拡大し、ネットでの受注を前提に "Food Delivery Service" という一括外注ビジネスにしたのが Uber Eats (2014年創業)なわけで、発想の転換でビジネスを創出すること(=innovation) が、アメリカ人は本当に上手だとつくづく思う。新しいビジネスのネタは日本にだっていくらでも転がっているはずだが、それを見つける視点、視角がどこか違うのだ。(続く)