ページ

2025/05/31

ジャズ・バラードの森 (2)Soultrane

Mating Call
Dameron/Coltrane
(1957 Prestige)

日本語で「ソウルトレーン」 をネット検索すると、ジョン・コルトレーンJohn Coltrane が1958年2月にPrestigeレーベルに録音した初リーダー作のアルバム『Soultrane』がまず出て来る。だが、そのレコードにはここで言う曲・演奏 である "Soultrane" は収録されていない。また1970年代に日本でもTV放送されていた、米国のソウル・ダンス番組『ソウル・トレイン(こちらのスペルは "Soul Train")』とも関係ない。ややこしいが、これはピアニストで作曲家のタッド・ダメロン Tadd Dameron (1917-65) がリーダーのアルバム『Mating Call』(1957 Prestige) 中の1曲で、ダメロンが作曲し、カルテット(+ John Simmons-b, Philie Joe Jones-ds)で1956年にコルトレーンが初演した曲だと知ったのは、かなり後になってからのことだ。

"Soultrane" という曲名は、たぶん"Soul"と"Coltrane" からの合成語だろう(確認していないが)。アルバム『Mating Call』の録音は1956年11月なので、コルトレーンがドラッグ問題でフィリー・ジョーと共にマイルス・バンドをクビになった頃だろうが、いずれにしろ翌1957年7月から「ファイブ・スポット」で、モンクが初リーダーとなったカルテットの一員として誘われ、そこでモンクの下で修行・開眼する前、まだほぼ無名時代のトレーンの演奏だ。1956年と言えば、コルトレーンより一足早くドラッグを克服したソニー・ロリンズが『Saxophone Colossus』(Prestige) をはじめとして一気に何枚もレコーディングし、飛ぶ鳥を落とす勢いで台頭した年で、コルトレーンもロリンズの『Tenor Madness』(1956 Prestige) では一部共演しているが、当時ロリンズには大きく水をあけられていた。だからこの時代の演奏は、堂々としたロリンズに比べると、まだどこかぎこちない部分もあるが、逆にこの "Soultrane" などでは、後の名盤『Ballads』(1961 Impulse!) に通じる、飛躍前のコルトレーンの素朴で美しいバラード演奏が聴ける。

コルトレーンが吹く "Soultrane" を聴くと、半世紀以上前の学生時代、夜明け前の神戸の夜景を思い出す。大学の封鎖で授業もなく、やることもないので、毎晩、空がうっすらと明るくなるまで起きて本を読んだりしながら当時夢中になっていたジャズを聴いていたからだ。擦り切れるまで聴いたそのLPレコードは、ジャズ初心者だった自分で買ったばかりの、日本編集のコルトレーンのオムニバス盤(コンピレーション)で、コルトレーンの50年代の有名曲だけを集めたアルバムだった。"Soultrane" はその中の1曲で、たぶん私が初めて感動した「ジャズ・バラード」  だった。ジャズ・バラードの美しさというものを初めて感覚的に理解し、ジャズ全体への興味を深めるきっかけになった1曲だ。ダメロンの弾くシンプルで美しいピアノのイントロを聴いただけで、今でもじわりと懐かしさが込み上げてくる。続くコルトレーンのきしむような切ないテナーのサウンドも胸に沁みる。コルトレーンのバラード演奏は、いつ聞いても本当に素晴らしい。だから私にとってコルトレーンの吹くこの "Soultrane"こそが 「 ジャズ・バラード」 のデフォルトなのだ。

Plays Tadd Dameron
Barry Harris (1975 Xanadu)
1970年代半ばには、当時隆盛だったフリー・ジャズやフュージョンへの反動もあって、バップ・リヴァイバルというべき流れが生まれ、多くのベテラン・ジャズ・ミュージシャンたちがビバップ的ジャズを「新譜」で吹き込んでいた。『バリー・ハリス・プレイズ・タッド・ダメロン Barry Harris Plays Tadd Dameron』(1975 Xanadu) もそうしたアルバムの1枚で、多くのバップ曲を作ったダメロンの曲だけを演奏したピアノ・トリオ・アルバムだ(+ Gene Taylor-b、Leroy Williams-ds)。バリー・ハリス (1929-2021) はデトロイトのバド・パウエルと呼ばれていたほど、パウエルの影響を受けていたピアニストで、後進のピアニストたちを長年ニューヨークで指導してきた人としても有名だ。私はバリー・ハリスのファンだったので(本ブログ記事2017年4月「鈍色のピアノ」参照)、そのハリスの弾く "Soultrane"ときたら否も応もなく、当時すぐにこのレコードを入手した(Xanaduの質素なLPジャケットは、まあ置いておくとして…)。相変わらず渋く心に響くハリスのピアノから、ダメロンの美しく印象的なメロディが流れてくるのを聴いているときほど楽しい時間はなかった。このレコードは他にもバップ的名曲が並ぶので、ハリスのピアノが好きな人なら大いに楽しめる。

Gentle November
Kazunori Takeda (1979 Frasco)
もう1枚は、本ブログの別記事(2018年12月、「男のバラード」)でも紹介した日本のテナーサックス奏者で、早逝した武田和命(かずのり、1939-89)の最初にして最後のリーダー作『ジェントル・ノヴェンバー Gentle November』(1979 Frasco) だ。山下洋輔(p)、国仲勝男(b)、森山威男(ds) とのワンホーン・カルテットで、"Soul Trane"(このレコードでは、このスペルで表記されている)を含むコルトレーンにちなむ4曲と、武田の自作曲4曲からなるバラード集である。60年代には山下洋輔Gで活動し、フリー・ジャズの人と思われていた伝説のサックス奏者、武田和命が復帰し、予想を裏切る優しく穏やかなサウンドで演奏している。国や民族に関わらず人間の抱く感情に差はないと思うが、その「表現」の仕方はそれぞれ異なる。日本人奏者のジャズにおける感情表現も、当然日本的になるものだが、それを普遍的な表現にまで昇華させるのは簡単ではない。コルトレーンにはコルトレーンの美と素晴らしさがあるが、武田の吹く "Soul Trane"には、「日本人の男」にしか表現できない哀切さと抒情が満ちているのだ。カムバックした武田を支える山下トリオの控えめで友情に満ちたバッキングもそうだ。この演奏は、日本男児のバラードを見事に表現した名演である。その武田の死後、1989年に山下Gに加わったサックス奏者が菊地成孔だったというのも、今や有名な話だ。

Playin' Plain
Koichi Hiroki (1996 Biyuya)
"Soultrane" は、それほどポピュラーなジャズ曲ではないので、他の楽器で演奏したアルバムとして私が所有しているのは、廣木光一のギターソロ『Playin' Plain』(1996 Biyuya)だけだ。ガット(ナイロン弦)ギターによるジャズ・スタンダードのソロ演奏だけのレコードは、他にはジョー・パスしか私は知らない(ラルフ・タウナーが12弦ギターでやっている)。タイトル通り、原曲をシンプルに弾くというコンセプトを基本に、時に前衛的に、時にオーソドックスに、ガットギター一本だけで、ジャズ・スタンダードに挑戦するという姿勢が素晴らしい。さすがに師・高柳昌行の薫陶を受けた人だけのことはある。ここでの "Soultrane" も、シンプルに、スペースたっぷりの余韻を生かした個性的な演奏だ。他に"Everything Happens to Me", "Over the Rainbow", "Ruby, My Dear" などポピュラーなバラード曲も並ぶが、どれもユニークで聞き飽きない。武田和命と同じく、廣木光一のガット・ギター演奏からも、清々しい抒情という日本的な美が強く感じられる。このCDは私の30年来の愛聴盤だが、残念なことに今はもう入手できないようだ。中古CDのみになるが、探してみる価値はある。廣木光一は他にも、渋谷毅(p)との美しいデユオ・アルバムや、ボッサなどラテンの香りの強いユニークなアルバムも発表しているので、ガットギターのサウンドが好きな人は、是非これらの演奏を聴いてみることをお勧めしたい。

2025/05/11

映画『鑓の権三』を鑑賞する

昨年11月に火野正平が75歳で亡くなって、この4月からNHKの自転車旅『にっぽん縦断こころ旅』を田中美佐子が引き継いだ。私はその人選に大賛成だったが、あまりに自然な、違和感のないその引き継ぎぶりを見て嬉しくもあり、驚いてもいた。だが実は、その後継役が「あいつはいいよ。美佐子は女正平や」と、野生児ぶりが自分と似ているという正平氏の推薦でもあった、という経緯を最近の報道で知って、やっぱりそうだったのか、と納得した。二人の接点が今から約40年前、篠田正浩監督の『鑓の権三(やりのごんざ)』(1986年表現社/松竹)で、兄妹役で共演していたことも分かった。私は篠田監督の1969年の映画『心中天網島』(しんじゅう・てんのあみじま)が好きで、本ブログでもレビューを書いているが(2020年12月「近松心中物傑作電視楽」)、次の近松物でバブル期の『鑓の権三』は、当時まだアイドルだった郷ひろみ主演という派手なイメージもあって、これまであまり観たいという気が起きなかった。篠田正浩は同世代の大島渚、吉田喜重と並んで、1960年代の映画界では松竹ヌーベルバーグの旗手と呼ばれ、またそれぞれが岩下志麻、小山明子、岡田茉莉子という女優と結婚し、独立プロを設立して多くの作品を残している。その大島渚は2013年に、吉田喜重は2022年にそれぞれ亡くなったが、残された篠田正浩もこの3月末に94歳で亡くなってしまった。そこで今さらだが追悼の意も込めて、火野正平、田中美佐子が出演していた映画、『鑓の権三』を改めて観てみようと、ビデオでこの映画を鑑賞してみた。

『鑓の権三』の原作は、近松門左衛門の世話物・人形浄瑠璃『鑓の権三重帷子(やりのごんざ・かさねかたびら)』(1717年初演)で、これは『心中天網島』より3年早い作品だ。篠田監督としては、岩下志麻と中村吉右衛門を起用した『心中天網島』(1969年表現社/ATG)に次ぐ近松もので、スタッフも富岡多恵子(脚本)、武満徹/琵琶・鶴田錦史(音楽)、粟津潔(美術)と『天網島』と同じで、『天網島』が成島東一郎のモノクロ、『権三』が宮川一夫のカラーという撮影(カメラ)だけが違う。主役「鑓の(笹野)権三」は郷ひろみで、火野正平、田中美佐子に加えて岩下志麻、大滝秀治、河原崎長一郎、加藤治子などそうそうたる俳優が出演している。

『天網島』もそうだが、『権三』も享保時代の実話を元にして、近松が書き下ろした作品。実際の事件は、松江・松平家の茶道役・正井宗味が江戸詰中に、小姓役・池田文次(24歳)が妻のとよ(36歳)と密通し、享保2年(1717年)6月に駆け落ちした。正井が二人を追跡し、7月に大坂高麗橋上で「妻敵討」(めがたきうち:姦通相手の男を殺すことは公認されていた)したというもの。翌8月には、近松の作品を竹本座で初演したというから、デジタル時代も顔負けのものすごいスピード制作と上演だ。

原作は実話に沿い、映画も『天網島』と同様、ほぼ近松の原作に沿って作られている。戦のない開幕後100余年間に、武士の出世競争もすっかり様変わりして、武芸のうち茶道もその有力な要素となっていた。出雲の国・松江藩を舞台に、鑓の名手で、茶道にも通じ、しかも城下の俗謡で唄われるほど美男子で有名だった「笹野権三」を郷ひろみが演じ、出世争いのライバルだった「川側伴之丞」(かわづらばんのじょう)を火野正平が、その妹で、兄に内緒で権三と言い交わしていた「お雪」役を田中美佐子が演じている。権三と伴之丞の茶道の師で、松江藩の茶道の筆頭師範・浅香市之進(津村隆)が藩主と共に江戸詰の留守中であり、藩主の世継ぎ誕生を祝う殿中饗応の席で披露する「真の台子(だいす)」という最高峰の茶の作法を弟子の誰かに努めさせよと指示し、市之進の妻おさゐ(おさい、岩下志麻)を仲立ちに、その役目と秘伝の伝授を巡って郷と火野が争う。一方、女として権三に惹かれていたおさゐは、伴之丞(火野)から何度も色仕掛けで迫られていたが断り続けていた。だが自分の娘を権三がめとれば秘伝も家中のものとして自然に授与できると考えていた。

ところが、お雪の乳母(加藤治子)のおさゐへの仲人依頼の訪問で、実は…と二人の仲を知ったおさゐは嫉妬に狂い……と、そこから先の展開は近松独特のお家と武士の体面、義理の世界がややこしくて現代人にはよく分からない。懲りずにおさゐに近づこうと、夜半こっそりと浅香邸の庭に忍び込んだ火野正平が、秘伝の伝授のために、真夜中におさゐを訪れていた権三の二人を盗み見して誤解する。一方の二人もあれこれ嫉妬と誤解が元で争い、カッとしてほどいて庭に投げ捨てた二人の帯を、その正平が奪って、不義密通の証拠だとして城下中で大声で触れ回る。ついに二人は出奔せざるを得なくなり、誤解から生じたその逃避行の途上、晴れて(?)夫婦となる。二人は追っ手に京の伏見で見つけられ、最後は京橋上で(実際は岩国・錦帯橋)「女敵(めがたき)」として両人ともに市之進に切られる……とまあ、そういう話である。

印象に残ったのは、モノクロの『心中天網島』では、ほとんどがスタジオ内での制作で、屋外ロケは最後の道行場面だけだったのに対し、『権三』では、各地のロケ(出雲、松江、萩、彦根、奈良、京都、岩国…)を含めて、絵葉書のような美しいカラー映像と豪華な衣装美がこれでもか、と続くことで、鑑賞上これは文句ない。ロケだけでも大変なコストがかかっただろうが、これはバブル期ならではだろう。また乗馬シーンでの郷ひろみの馬さばきも見事だ。ダンスもそうだが、この人は本当に運動神経がいいのだと思う。ただし美男を強調するために、眉を含めて「化粧」が濃すぎではないか?(火野正平がよけいにウスく見えてしまう)。海岸を馬で走るシーンはおそらく萩の菊ヶ浜で、田中美佐子が先週くらいの「こころ旅山口編」で訪れていたはずだが、番組中では特にコメントはなかった。

当時40代の岩下志麻は容姿、所作、台詞ともに相変わらずの美しさで(監督もそこだけは手抜きがない…どころか一番力が入っている)、夫の留守を守るその岩下志麻に言い寄る火野正平の女好きぶりは、まあお約束かもしれないが、ライバルの権三には嫁がせまいと反対しつつ、自分の妹にまであわや手を出そうとするあぶないシーンがある。あれは台本なのか、アドリブなのか、演技の勢いなのか? あげく、二人の密通(濡れ衣)を城下に言いふらしたために、最後はおさゐの兄(河原崎長一郎)に討たれて、生首(これがよくできている?)になって戻ってくる。火野正平は侍よりも、やはりひとクセある町人とかワル役が似合いそうだが、正平氏自身は『権三』の役どころをどう思っていたのだろうか? 田中美佐子はたまたまこの映画の舞台だった(隠岐の島生まれ)松江が出身だそうで、40年前(20代半ば)は当然若くてきれいだが、郷ひろみとの濡れ場での大胆な演技には驚いた。それと竹中直人がちょい役で出ていたが、いつものギャグがなくて残念だった。

『心中天網島』は、いわば市井の商人と遊女の不義の物語で、ある意味普遍的なテーマなので、義理人情の部分を含めて、まだ現代人にも分からないことはない。だが『鑓の権三』は戦のない日本の武家社会が舞台で、しかも茶道の伝統とその価値がわからないと皆目話の道筋が見えない……2回見てやっとある程度理解したくらいだ。相当の予備知識がないと、話の筋も面白さも分からないだろう。この映画はベルリン国際映画祭で「銀熊賞」を受賞したそうだが、日本人ですらよく分からない、この大昔、封建時代の日本的価値観と倫理(論理)を、本当に西洋人が映画を観て分かるものなのだろうか? おそらく映像から見えて来る侍と日本的情緒、その美が、選考の一番の理由ではないかという気がする。

1969年の『心中天網島』は、リアルタイムで観たせいもあって、私は心底感動して何度も観た。ほぼ同じスタッフで制作した17年後の本作と何が違うのか、考えてみたが、やはり時代だろう。1969年の日本は高度成長下とはいえまだ貧しく、全共闘運動をはじめ社会は騒然として緊張感が高かったが、一方で、不確かとはいえ、まだ「未来」に対する希望もあった。戦後生まれの世代が20歳を過ぎ、そのエネルギーが音楽や映画など芸術の世界でも爆発的な勢いで創造的な作品を生んでいた。そうした社会状況の下で、ほぼ全員30代の若いスタッフが、制作資金の制約のために、あえてミニマルな表現を目指した実験的な構成、展開と、モノクロによる映像を駆使した『天網島』からは、若さと熱意と創意、芸術性があふれている。一方、高度成長後の熟れ切った日本のバブル最盛期に、功成り名を遂げたスタッフが、たっぷり金と時間をかけて制作したエンタメ的なこの映画の質と出来は、やはり前作とは比較にならない。『天網島』から17年後の日本は豊かになったが、映画を取り巻く状況も変化していたし、69年の制作者たちが持っていたエネルギー、渇望、表現意欲…そういうものも間違いなく変貌していただろう。

ただし、火野正平と田中美佐子が、この映画の兄妹役を通じて親しくなったことはよく分かった。再スタート後1ヶ月を過ぎた今は、もう完全に田中美佐子の「こころ旅」になっているが、自転車で毎朝出発する時に、空に向かって「行ってきまーす!」と、手を挙げて明るく大声で叫ぶ田中美佐子の「兄」火野正平への挨拶がとてもいい。従来からの撮影スタッフも、やさしく彼女を支えているのがよく分かる。春に続いて「秋の旅」も田中美佐子がやることが決まったようでよかった。火野ー田中と「兄妹バトン」でつないだこの番組が、今後も長く続くことを願っている。(ただし、いくら電動アシストでも、65歳の女性に長い山登りルートはきつすぎる。難しいだろうが、ほどほどにしておかないと、正平氏のように腰を痛めますよ。)