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2025/08/15

あいみょん・ 考

なぜか今頃になって "あいみょん" にハマッている(年寄りなので反応が遅い)。きっかけは、6月のテレ東『モヤモヤさまぁ~ず2』の4代目アシスタント田中瞳アナのグアム卒業旅行だった。無目的に街をぶらぶらするユルい番組が昔から好きなので、『モヤさま』も初代大江アナの頃から見ていた。しょっちゅう放送時間が変わるので見たり見なかったりだったが、田中アナは賢く可愛いし、さまぁーずといちばん息が合っていたと思う。番組の最後にその田中アナが、たどたどしいウクレレ伴奏で弾き語りした「マリーゴールド」を聴いていた「さまぁーず三村」が大泣きした。私も、その歌と演奏が妙に心に沁みて、良い曲だなぁとしみじみ思った。もちろん"あいみょん"も「マリーゴールド」も以前からよく知っているのだが、これまでこの歌を聴いてそんなふうに感動したことはなかったのだ。三村、大竹氏の場合は、6年間一緒に番組を作ってきた彼女の最後の歌を聴いて、娘を送り出す父親と同じ感慨が込み上げてきたのだろう。この歌は何度も聞いてきたはずで、なぜ急に感動したのか自分でも分からないが、これが音楽の持つ不思議さなのだろう。おそらく、4弦のウクレレでも弾けるシンプルなコードときれいなメロディが、田中アナの素朴な歌と伴奏でより引き立てられたのだろうと思う。それ以来、あらためて、あいみょんの歌をあれこれ聴きまくってきた。以下はその感想である。

あいみょんは今やすっかりスターになったが、こうして聴き返してみると、その理由がよく分かる。日本人は昔から団体(グループ)で行動するのが好きだ。「傑出した個」を評価したがらず、誰がリーダー(責任者)なのかはっきりさせないまま皆で支え合い、同じ目標を目指すことが多い。音楽も同じ傾向があって、大昔(1960年代)のグループサウンズに始まり、最近のJ-POPなど歌もダンスもみんな団体ばかりで、いったい誰が誰なのか年寄りには皆目分からない。アコギ一本抱えて一人で登場したあいみょんの魅力は、まさにこの「個の力」であり、一言で言うと「いさぎよい(潔い)」のだ。作詞・作曲・歌唱という技術を独りでこなして、単独でオリジナルの楽曲を書き続け、しかもどの曲も現代の聴き手にアピールする力を持っているところがすごいのである。特に、ポップスで「おいてけぼり状態」になっている最近の中高年層にも、久々にアピールする音楽なのだ。私がJ-POPのアーティストにハマったのは90年代終わり頃の椎名林檎以来だが、椎名林檎もこの単独で道を切り開くタイプのアーティストだった。91年にマイルスも死んでジャズ終焉の気配が濃厚になり、一方バブル後の日本を席巻していた単調なリズムとメロディのデジタルサウンド系に飽きあきしていた時に、宇多田ヒカルとほぼ同時に登場した椎名林檎の、人間味と独創性あふれる斬新な歌とサウンドに衝撃を受けたのだ。あいみょんの音楽には、椎名林檎の時のような衝撃はないが、別の魅力がある。二人は音楽性に違いがあるが、いくつか共通点もある。

あいみょんで特に印象的なのは、ほとんどアコギ一本で作っているらしい曲に、どれも手作り感、アナログ感が溢れているところだ。1995年生まれというデジタル・ネイティヴ世代なのに昭和的で、最近の他の若いミュージシャンやグループの楽曲のような、デジタル臭さが少しも感じられない。アレンジされてバンド付きで録音されたものは、もちろん多少テイストが違ってくるが(それでも複雑さのない、シンプルなアレンジに留まっていることが多く、そこもいい)、アレンジする前の原曲は、シンプルなギターのリズムとコードだけで作られていて、まさに昭和のフォークソング時代の作曲法そのままだ。単独ライヴ演奏だとそれが濃厚で、曲の素性がよく分かる。これが現代のピアノ、キーボード系で作曲されると、たぶんもっと複雑なコード、転調、あちこち跳びはねるような落ち着きのないメロディとリズムになりがちだ。

あいみょんは作曲するとき、ギターを弾いて唄いながら歌詞とメロディを「同時に」作ってゆくらしい。ギターコードもそれほど知識はないのだという。だからシンプルなコードとその進行と同時に、歌詞とメロディが無理なくごく自然につながっていて、どの曲も妙な飛躍やひっかかりがなく、「歌」がストレートにこちらに訴えかけてくる。大半の作品で、曲全体の構成の「起承転結」が明瞭で、ゆっくりとした独り言のような低域の導入部から徐々に盛り上げて高域側へと移行し、記憶に残るキャッチーなサビのメロディが必ずあり、最後も絶叫や、静かに落として終える、という安定したパターンが多い。また一部のラップ的な曲を除けば、テンポ(bpm)もゆったりした曲が多く、多少テンポが上がっても、発声がクリアなので歌詞やメロディが聴き取りやすく、かつ覚えやすい。だから聞き終わったあと、かならず歌詞とメロディが頭の中に何度も繰り返し浮かんで来る。最低5回は聴かないと(?)何を言っているのかさっぱり分からない歌詞と(歌詞が分かっても意味が分からない…)、メロディも覚えにくい最近の他の歌とはそこが違う。世代、年齢を超えて人気があり、特に中高年層にも人気があるのは、メロディ自体の魅力に加え、こうした伝統的な日本のポップス(大衆曲)の基本を備えているからだろう。そこに1970-80年代の日本のポップス黄金期の香りが加わっているので、どの曲も中高年にとっては懐かしく、抵抗なく覚えられ、自分でも「唄ってみたい」という気にさえなるのだ。ライヴ会場での「君はロックを聴かない」のように、大ホールの大観衆が一緒になって唄えるような楽曲は最近聴いたことがなかった。しかも単なるその場のノリだけではなく、会場全体に、聴衆の「この歌への共感」が溢れているところがすごい。感動的ですらある。

椎名林檎は、ユーミンが全盛期だった高度成長下1978年に生まれた団塊ジュニア世代、あいみょんはその椎名林檎が登場した時代、バブル崩壊後の不況下1995年という阪神大震災の年に生まれた世代だ。その後 9.11、リーマン、東日本大震災、コロナという厄災を経て日本経済が完全失速した「失われた30年」という時代を生きて来た。アーティストの作品が、音楽家としての個々の音楽性以外に、それぞれの世代の経験と、生きた時代の空気を映し出すのは当然だ。そしてそれは、後の時代になって振り返って見えて来るものだ。たとえばユーミンは「70年代的希望」、椎名林檎は「90年代的挫折」だったように思うが、あいみょんはどうなるだろうか。時代の空気は「沈滞とあきらめ」だが、あいみょんの音楽には、その時代背景から生まれる肩の力が抜けたクールネスと、逆境をバネにして反発するくじけない姿勢、かすかな希望が常に感じられる。つまり時代はネガティヴだが、彼女の音楽そのものは超ポジティヴなのだ。英語にheartful(心のこもった)とencourage(勇気づける)という単語があるが、あいみょんの歌にはheartfulな温かさと、聴き手をencourageするパワーが常に感じられるのである。だから聴くと元気が出る(私のような年寄りでさえも)。そこが彼女の音楽のいちばんの魅力であり、5年近い「コロナの鬱」を乗り切るのに、あいみょんの歌は日本中に癒しと力を与えたと思う。私の世代にとって明るい1970/80年代の音楽がそうだったように、あいみょんと同世代の若者にとっては、きっと生涯忘れられない音楽になることだろう。

椎名林檎もあいみょんも、深い意味を込めた歌詞を駆使して「物語を語る」達人である。ただし椎名林檎の歌詞が、文学的、詩的、高踏的、抽象的、サブカル的…つまり20世紀アート的なのに対して、あいみょんの歌詞はポップ、ストレート、散文的、日常言語的…つまり大衆的で普遍性がある。さばさばした媚びない本人のキャラに加えて、男性目線の曲が多いのもあいみょんの特徴だ(女性ファンが多い理由の一つだろうし、男でも唄える歌になる)。20歳前後のインディーズ時代に過激な歌(「貴方解剖純愛歌 〜死ね〜」「生きていたんだよな」)でデビューしたところも椎名林檎と同じで、その後はポップな歌を中心に、心に響くシリアスな歌から、ユーモラスな曲まで曲調の幅を広げてきた。MVは、パイオニアだった椎名林檎が映画的、演劇的なのに対して、あいみょんは時代と曲を反映してカジュアルでポップなものが多いが、どれも絵になり楽しめる(『タモリ倶楽部』の”空耳アワー”を思い起す、初期の「ナウなヤングにバカウケするのは当たり前ダのクラッ歌」のMVは笑える。一方で最近の「ざらめ」のMVでは、椎名林檎ばりの映像美と七変化ぶりを見せている)。サウンド作りの面では、椎名林檎が作詞・作曲に加えてプロデュース、編曲、バンドリーダー(東京事変)というマルチな才能を発揮した複雑な楽曲が多いのに対し、あいみょんは原曲の作詞、作曲のみでアレンジは複数のプロ・ミュージシャンたちに任せているらしい。音楽の敷居の高さで例えれば、椎名林檎の音楽は凝ったフランス料理店であり、客を選ぶが、あいみょんは誰もが好む気取らない町の洋食屋さんという印象だ。

あいみょんが素晴らしいのは歌唱力と表現力だ。単に唄うのがうまいだけの歌手は今はいくらでもいるが、「表現力」はポップス系アーティストの中では群を抜いている。基本的に地声、声質が良いし(心地よい中低音+高域の裏声、ファルセット、伸び)、路上ライヴで鍛えた明瞭な発声、声の強さ・浸透力、音程の確かさに加えて、声に様々な「色彩」がある。バラードからアップテンポの曲までその色あいを使い分け、そこに独特のくるくるとした「こぶし」を随所にからめている。これも日本的、昭和的な印象を強め、中高年層にある種の既視感を与える理由だろう(歌謡曲など「昭和の空気」を濃厚に感じさせるのは、実は椎名林檎も同じである)。サウンド的には、本人も公言している先輩アーティストたちの影響があちこちに感じられる。私的に感じる要素を挙げれば、吉田拓郎の喋り言葉を使った字余り的歌詞、浜田省吾の曲の底に流れる哀愁、明るさの中に常に陰翳を感じさせるスピッツのサウンド、矢井田瞳の裏声、こぶし、高域へ上昇してゆく歌唱、などだ。父方の血筋だという沖縄風節回しの影響もかなり聞こえてくるように思う。

あいみょんはギターコードもその進行も、それほど詳しくなくて、あくまで浮かんでくるメロディライン優先の作曲のようだ。「マリーゴールド」や「愛を伝えたいだとか」が何かのパクリだとかいう説が、ネットの一部で取り上げられているが、最近ポップスの定型コード進行と、メロディの近似についてやたらと吹聴する人間が多い。だが、そんなことを言い出したら、ジャズなどどうなるのか…という話だ。メロディとコード進行に基づく即興演奏(変奏)がジャズの基本なので、同じコード進行を基にしたメロディなどいくらでもできる。だから、そのジャズを片親にした洋楽(ロック、ポップス)など昔から、いわばパクりのオンパレードだ。12音を使ったメロディは無限に作れるはずだが、コード解析が進んだ21世紀の今はもう出尽くした感があるのと、1990年代以降のデジタル音楽時代になってから、20世紀の人間が個人として持っていた素朴な音楽的感性と創造力が、世界的に衰えてしまったのではないかと私は思っている。昔からポップスにはクラシックのカノン進行など、近代の人間が「心地よく感じる和声の動き」を応用した例がたくさんあるのは事実だ。しかし、その和声を基にして本当に素晴らしい「メロディ」を新たに生み出す才能はまた別なのである。人を気持ちよく感じさせるそうしたコード進行は、料理にたとえれば「上質な出汁(だし、スープ)」みたいなものだ。その出汁を使って、「うまい料理」をいかに作るかは、料理人の創造力と腕なのだ。あいみょんの音楽には、そういう出汁をベースにしながらも、どの曲にも名料理人的な確かな腕と、発想のオリジナリティを感じる。そして味を仕上げるリズムとメロディの引き出しが多彩で、しかも、完成した料理の味は大多数の人が好むものだ。1曲や2曲だけならまだしも、味付けの異なる上質な曲を何十曲も創作する彼女の才能は本当にすごいと思う。「おいしい街の洋食屋さん」という所以である。

あいみょんのもう一つの個性は地域性だ。関西人だが、ど真ん中の大阪ではなく神戸に近い西宮市出身なのでアクは強くない。だが当然ながらネイティヴ関西女子特有のユーモアとウィットがあり、ラジオの『オールナイトニッポンGOLD』を聞けば分かるように、喋りも明るく、親しみやすく、何と言ってもとにかく面白い。コンサートで客席と楽しくやり取りするMCぶり、エンタテイナーぶりも素晴らしい。しかし一方で、路上ミュージシャン時代からグループに属さず、ギター一本で自分の道を独りで切り拓いてきた「孤高の人」が持つ体育会系の強靭さも感じる(映像で見ても、ライヴのステージ上ではすごいオーラを感じさせる)。人格は(想像だが)、潔く、さっぱりしていて男前、ストイックかつ真面目で、常に冷静に自分のことを見ている。年上、先輩の人たちに対する態度も控え目で、礼儀正しい。幸福な家庭で育ったことを伺わせるように、両親や家族への愛を、常におおらかにあけっぴろげに語っているところも関西人らしい。彼女に直接会った年長の芸能人たちがみなファンになるのは、曲もさることながら、こうした礼儀正しさと、バリアを感じさせない、おおらかな関西風キャラのせいだろう。

というわけで、今さらながらの私的感想だが、あいみょんは「女性シンガーソングライター」として、間違いなく1970年代のユーミン、中島みゆき、1990年代の椎名林檎、宇多田ヒカルに続く才能だと思う。ちなみに今の私(後期高齢者)の愛聴曲は……特に独自の選曲はなく全部気に入っているが、中でも特に好きなのは「ハルノヒ」「愛を伝えたいだとか」「君はロックを聴かない」「今夜このまま」「ラッキーカラー」「あのね」…等々だ。椎名林檎と同じで、こうした名曲群をほぼ20代前半までに作っているところもすごい。椎名林檎は、サブカル的あぶない少女歌手のイメージから、セクシーでゴージャスな大人の女性アーティストへと変身していったが、今年30歳になったあいみょんが、音楽家として今後どういう道を歩んで行くのか興味深い。個人的希望を言えば、ありきたりのデジタル音楽やAIに負けず、今の手作り的、アナログ的で、シンプルでストレートというオリジナルな音楽世界を、今後もアコギで追及していって欲しいと思う。