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2017/06/10

リー・コニッツを聴く #5:1960年代後期

Charlie Parker
10th Memorial Concert
1965 Limelight
「チャーリー・パーカー10thメモリアル・コンサート」(Limelight) は、1965年の327日にカーネギーホールで行われたチャーリー・パーカー没後10年の追悼記念コンサート・ライヴである。ディジー・ガレスピー、ジェイムズ・ムーディ、ケニー・バロン等によるクインテットの演奏、ロイ・エルドリッジ、コールマン・ホーキンズ等のスイング派セッション、デイヴ・ランバートのスキャット、リー・コニッツの無伴奏アルト・ソロ、最後にガレスピー、コニッツにJ.J.ジョンソン、ケニー・ドーハム、ハワード・マギー等も加わったジャム・セッションという構成だ。ソニー・ロリンズとソニー・スティットも登場したようだが、契約の関係でこのCDには収録されていないそうである。パーカー追悼記念にエルドリッジやホーキンズが何でいるの、ということもあるし、選曲もとりたててパーカーゆかりの、というわけでもない。1965年という時代を考えると、ガレスピーが中心になってスウィング、ビバップ時代のメンバーが集まって旧交を温める、といった趣もあったのだろう。それにしてはそこにリー・コニッツがなぜ、という疑問もあるが、私がこのCDを買ったのは、そのコニッツのアルト・ソロによるブルース<Blues for Bird>を聴くためだった。

エルヴィン・ジョーンズとのピアノレス・トリオ「Motion」(1961)、デュオのみの「Duets」(1967)のちょうど中間にこのソロ演奏がある。ネットでコニッツの昔のビデオ映像を見ると、いつも舞台でジョークを飛ばしていて、結構笑いを取っている(ただしアメリカ風の大笑いではなく、イギリス風のくすくす笑い系だが)。トリスターノ派の音楽から来る堅苦しい印象や人物像を想像していると肩透かしを食うが、この会場でも演奏の前にキリストとパーカーをひっかけた軽いジョークをかましてからスタートしている。1960年代はジャズが拡散して、自分の立ち位置を見失うミュージシャンが多かっただろうが、コニッツにとっても「内省」の時代だったと言える。そういう意味では無伴奏アルト・ソロというのは究極のフォームだろう
。また「リー・コニッツ」で述べているように、ブルースは黒人のものであり、ブルーノートの使用も含めて白人の自分たちに真のブルースは演奏できない、というのがトリスターノ派の思想だった。12小節のジャズ・フォームとして、ブルーノートのコンセプトには依らずに、どこまで音楽的に意味のある演奏ができるか、というのがトリスターノやコニッツの姿勢だった。レニー・トリスターノは「鬼才トリスターノ」(1955)で、<Requiem> というソロ・ピアノ(多重録音)による美しいブルースで、亡くなったパーカーへの弔辞を述べたが、おそらくその師にならって、コニッツはここで同じくソロのブルース <Blues for Bird> に挑戦したのだろう。理由は、パーカーだけがブルースの真髄を捉えていたと彼らは考えていたからだ。チャーリー・パーカーの音楽に本当に敬意を表していたのは、パーカーのエピゴーネンたちではなく、実は当時まったく違う音楽をやっていると思われていたトリスターノとコニッツだったのではないだろうか。

The Lee Konitz Duets
1967 Milestone
リー・コニッツが1960年代にリリースした記憶すべきアルバムの1枚が「Duets」(1967 Milestone)だ。コード楽器によるソロ空間の制約を嫌ったコニッツは、「Motion」の延長線上で更なる空間を求めて11のデュオによってインプロヴィゼーションの可能性をさらに探求しようした。このアルバムは自らリストアップした共演者に声を掛け、承諾した9人のプレイヤーが1日集まって交代で演奏し、わずか5時間で一気に完成させたものだという。1960年代後半という時代背景もあって、コニッツ的にはフリー指向が一番強かった時期と思われる。コニッツのアルトとテナーサックス(一部電気アルト)に対し、テナーサックス(ジョー・ヘンダーソン、リッチー・カミューカ))、ピアノ(ディック・カッツ)、ヴィヴラフォン(カール・ベルガー)、ベース(エディ・ゴメス)、ギター(ジム・ホール)、ヴァイオリン(レイ・ナンス)、ヴァルブ・トロンボーン(マーシャル・ブラウン)、ドラムス(エルヴィン・ジョーンズ)という9人のプレイヤーが対峙して、緊張感のあるアブストラクトなデュオ演奏を繰り広げている(一部コンボ含)。全8曲の内、スタンダード、オリジナル曲の他、ガンサー・シュラーがライナーノーツに記しているように、ルイ・アームストロングやレスター・ヤングへのトリビュートと思われる曲やテーマも取り上げられており、フリー・コンセプションによってジャズの伝統を解釈しようと試みた部分もある。コニッツはどういうフォームで演奏しても、共演相手を「聴く」ことと、楽器間の「対話」に強烈な信念を持った人であり、そういう意味でこのデュオ・アルバムは、その姿勢が最も典型的に表れたものと言えるだろう。この時代の空気が濃厚に感じられる作品だが、コードやリズムからは自由になっても、美しいメロディに対するコニッツの執着から、アブストラクト寄りと言えども、他のフリー・ジャズ作品とは違う独自の音世界をこのアルバムから聴き取ることができる。

European Episode
Impressive Rome
1968 CamJazz
この時代の作品をもう1枚挙げるとすれば、1968年にイタリアで行われたボローニャ・ジャズ・フェスティヴァルに参加していたコニッツを招聘して録音された、カルテットによる2枚のLP「European Episode」と「Impressive Rome」(Campi) をカップリングした同名の2枚組CD(CamJazz)である。コニッツの希望で集められたリズム・セクションのメンバーは、マーシャル・ソラール(p)、アンリ・テキシェ(ds) というフランス人、それにスイス人ドラマーのダニエル・ユメール(ds)だ。ソラールとユメールはコンビで数多く共演しており、アンリ・テキシェはこの当時23歳で、ソラール、ユメールとフランスで活動しており、ユメールと共にこの年にフィル・ウッズを迎えてヨーロッピアン・リズム・マシーンを結成している。コニッツにとって60年代は苦難の時代だったが、「デュエッツ」に見られるように、当時のいわゆるフリー・ジャズとは異なる内省的なアブストラクトの世界を追求していた。コード楽器を排除してできるだけ大きなインプロヴィゼーションのスペースを求めてきたコニッツだが、ここではマーシャル・ソラールという、どちらかと言えば「饒舌な」フランス人ピアニストをリーダーにしたリズム・セクションを相手にしながら、非常にリラックスして会話しているように聞こえる。ユメールも、若きテキシェも、自由奔放に反応して伸び伸びと演奏しており、適度なアブストラクトさも加わって、全体として多彩で躍動感に溢れたアルバムとなった。

スタンダード3曲(+2)、オリジナル4曲(+1)の全10トラックで、スロー、ミディアム、ファスト各テンポ共にどの演奏も気持ち良く聞け、また録音も良い。Anthropology>、<Lover Man> というおなじみのスタンダード、それに<Roman Blues>という3曲は、それぞれVer.1Ver.2が収録されている(計6トラック)。聴きどころは、インプロヴィゼーションにおいて「同じことはニ度とやらない」という信条を持つコニッツが、それぞれの曲/Versionをどう展開しているのかという点で、まさにジャズ・インプロヴィゼーションの本質を聴く楽しみを与えてくれる。またコニッツが彼らヨーロッパのリズム・セクションとの演奏(会話)を非常に楽しんでいることがどの曲からも感じられる。反応の良さを求めるコニッツにとって意外にも相性が良かったというこの体験が、その後70年代以降のソラールとの交流や、ヨーロッパのミュージシャンたちとの共演作へと続いたのだろう。このアルバムはそういう意味で、コニッツの70年代以降の活動を方向付けた出発点とも言うべき演奏記録であり、「Motion」、「Duets」に次ぐ、60年代コニッツの代表作と言えるだろう。

2017/06/08

リー・コニッツを聴く #4:Verve

Very Cool
1957 Verve
Tranquility
1957 Verve
50年代中期、Storyville時代の3作品は知性とエモーションのジャズ的バランスが見事で、私的にはコニッツの白眉だと思うが、Atlanticを経てさらにトリスターノの世界から解き放たれ、ジャズ的に寛容さが出て柔軟になっていった時代の演奏も、非常に心地良いジャズで私はこれも好きだ。Verveに移籍後初のアルバム「Very Cool」(1957)は、ドン・フェラーラ (tp) を加えた2管クインテット(サル・モスカ-p、ピーター・インド-b、シャドウ・ウィルソン-ds) による演奏で、ハードバップ的サウンドが強まるが、その中に依然コニッツ的クールさと斬新さが光る演奏だと思うし、それはまたコニッツの成熟と演奏家としての多様性の拡大とも言える。確かにテンションは往時に比べれば弱いが、その代りジャズ的リラクゼーションが増して上質な音楽として今聴いても古びず楽しめるアルバムだ。「Tranquility」(1957) はアルバム・タイトル(平穏)と脱力ジャケット写真が表している通り、ビリー・バウアーのギタートリオ(ヘンリー・グライムス-b, デイヴ・ベイリー-ds) をバックに、さらにリラックス度が増したコニッツが聞ける(このあたりで、おいおい大丈夫か…?と言いたくなるが)。

Meets Jimmy Guiffree
1959 Verve
You and Lee
1959 Verve
最初あまりピンと来なかったが、じっくり聴いてみるとなかなか楽しめる演奏だと思うようになったのが「Lee Konitz Meets Jimmy Guiffree」と「You and Lee」という1959年の2枚のアルバムだ。当時新進の若手奏者だったビル・エヴァンス(p)が前者の全曲、後者も4曲(残り4曲はジム・ホールのギター)参加している。ジミー・ジュフリーは映画「真夏の夜のジャズ」ではボブ・ブルックマイヤー、ジム・ホール と共にテナー・サックスで登場するが、当時は編曲者としてもモダンなジャズを手掛けていて、この後60年代初めには、ポール・ブレイ(p)、スティーヴ・スワロウ(b) と共にヨーロッパのフリー・インプロヴィゼーションに先駆ける内省的なフリー・ジャズの世界も追求していた。この2作品も当時としては非常にモダンなアレンジメントで、滑らかで、上品だが時にダンサブルとも言えるような演奏もあり、多彩な音楽を作りあげている。聴きなじむと、どの曲も高度だが実に気持ちのいい演奏で、ある種のノスタルジーも感じさせ、今の時代にイージー・リスニング的に聴くと非常にいい。コニッツはクロード・ソーンヒル楽団時代や、「クールの誕生」バンドなど、この種のアンサンブルは得意としてきた分野で、この頃は円熟の域に入りつつあって、どの演奏も余裕たっぷりで貫録さえ感じさせるほどだ。ビル・エヴァンスもまさに上昇期だったが、ここではソロをあまり取ることもなく、時々閃きを感じさせるフレッシュなバッキングでサポート役に徹している。全体的にハイレベルの演奏で、まさにあの時代の「スムース・ジャズ」とでも呼べるようなモダンで洗練されたアンサンブルである。

Motion
1961 Verve
1960年前後、オーネット・コールマンのような新世代フリー・ジャズ・ミュージシャンが台頭し、マイルスは「カインド・オブ・ブルー」でモードを手がけ、コルトレーンも「ジャイアント・ステップス」を経て徐々にフリーに向かっていく中、上記アルバムジャケットの変遷に見るように、益々リラックスした "ゆるい"(?)作品が増えていたVerve後半のコニッツは、おそらく「このままではいかん…」と危機感を募らせたのではないかと想像する(あくまで想像です)。そこで生まれたVerve時代最後の作品が、アルトサックス、ドラムス、ベースのピアノレス・トリオによる「モーション Motion(1961)である。このアルバムは間違いなく「Subconscious-Lee」と並ぶリー・コニッツの最高傑作だが、後者が師トリスターノの強い影響下にあった若い時期のものであるのに対し、「Motion」はコニッツがその後約10年間をかけて到達した自身の音楽の集大成とも言えるものだ。インプロヴィゼーションのための自由空間を制約するコード楽器との共演をコニッツは徐々に好まなくなり、60年代以降トリオやデュオでの演奏が増えて行くが、その方向を決定づけたのはこの「Motion」で得られた自信だろう。それくらいここでのコニッツは自信に満ち、豊かで伸びやかな演奏を展開している。「リー・コニッツ」で本人が述べているように、”知的でクール” と見られていたコニッツと、当時コルトレーンのグループにいた ”ホットでワイルド” なエルヴィン・ジョーンズ(ds)との初の組み合わせは、当時誰が見ても異質で意外なものだった。コルトレーンとの共演ぶりから相性面で不安を感じていたコニッツだったが、前日の夜「ヴィレッジ・ゲート」でコルトレーンとの激しいライヴ演奏をこなし、翌朝早くに録音現場に現れたエルヴィンの人柄と、予想外の驚くべき繊細さと絶妙なタイム感でリズムを繰り出すその演奏にすっかり感激したという。10年にわたり晩年のトリスターノの専属ベーシストだったソニー・ダラス(b)、エルヴィンともコニッツとも旧知で、そのベースワークは二人の間を取り持ちながら緊張感溢れる演奏を支えている。当日のこの3人の演奏技術と人間的コンビネーションが相まって、この傑作が生まれたのだろう。

収録全5曲ともスタンダードだが、コニッツの演奏から聞こえてくる原曲のメロディは、得意曲 <Foolin’ Myself> を除くとどれも希薄で、エルヴィンの繰り出すリズムに反応しながら冒頭からほぼ全編が緊迫した即興ラインの連続である。そこに聴ける創造力と音楽的テンションは、アルトサックスによるジャズ・インプロヴィゼーションの極致と言えるものだろう。ピアノのようなコード楽器のないことが、自由なインプロヴィゼーション空間を生み出すというコニッツの持論に頷かざるを得ないように、3つの楽器がそれぞれ独立したリズムとラインを刻みながら空間で見事に溶け合う、という最高度のジャズ的グルーヴを味あわせてくれる傑作だ。しかしながら、この久々の傑作を作ったにもかかわらず、この後60年代からのコニッツは、ジャズを取り巻く世界の変貌もあって、ジャズ・ミュージシャンとして最も厳しい時代を生きることになる。

2017/06/06

リー・コニッツを聴く #3:Atlantic

1950年代半ば以降の約10年間というのは文字通りモダン・ジャズ黄金期であり、特にその頂点と言えるのは50年代後期で、ハードバップ、ファンキー、モードなど、それぞれのスタイルや演奏コンセプトを持ったミュージシャンたちでまさに百花繚乱の時代だった。その間マイルス・デイヴィスはハードバップからモードへと舵を切り、セロニアス・モンクはようやく独自の音楽の認証を得て脚光を浴び始め、ジョン・コルトレーンはシーツ・オブ・サウンドの開発を始め、オーネット・コールマンは新たなフリー・ジャズを提案し、アート・ブレイキーはジャズ・メッセンジャーズでさらに大衆にアピールし…という具合に、誰もが新たなジャズの創造と、果実を手に入れることを目指して活発に活動していた時代だった。またモンクを除けば、当時のリーダーたちはみな30歳前後で、創造力も活力も溢れていた。そのジャズ全盛期にリー・コニッツはどうしていたのだろうか?

Lee Konitz with Warne Marsh
1955 Atlantic
自身の哲学に忠実で常にブレないコニッツは、その間も独自の道をひたすら歩んでいた。短かったStoryville時代を経て、コニッツはついにメジャー・レーベルであるAtlanticと契約する。その最初のアルバムが「リー・コニッツ・ウィズ・ウォーン・マーシュ Lee Konitz with Warne Marsh」(1955)だ。このアルバムは、コニッツにとって最も有名な録音の1枚だが、メンバーがウォーン・マーシュ(ts)、サル・モスカ(p)、ロニー・ボール(p)、ビリー・バウアー(g)、というトリスターノ派に加え、オスカー・ペティフォード(b)、ケニー・クラーク(ds) というバップ系の黒人リズム・セクションが参加したセクステットであるところが、それまでのコニッツのリーダー・アルバムとは異なる。コニッツのアルト、マーシュのテナーによる対位法を基調とした高度なユニゾンは、トリスターノのグループ発足後約7年を経ており、テナーの高域を多用するマーシュと、アルトをテナーのように吹くコニッツとの双子のような音楽的コンビネーションは既に完成の域に達していたはずで、ここでも全体に破綻のない見事な演奏を聴くことができる。しかしペティフォード、クラークという強力なリズム・セクションの参加が、トリスターノ派とは異なる肌合いを与えているせいなのか、当時の他のコニッツのワン・ホーン・アルバムに比べると、バランスはいいのだがどこか独特のシャープネスや閃きのようなものが欠けていて「重い」、という印象を以前から個人的に抱いていた。アンディ・ハミルトンの「Lee Konitz」を読むと、当時常用していたマリファナの影響で、リーダー録音であったにもかかわらず、実は録音当日の体調が思わしくなく、本人もこの録音における自分の演奏には満足しておらず、特にマーシュとの一体感に問題があったとコメントしている。自己評価が非常に厳しい人なので割り引いて考える必要もあるが、確かに名盤だが、何となく50年代の他のアルバムと違う印象を持った理由がわかった気がした。とは言え、飛翔しつつあったコニッツ、マーシュという、この時代のトリスターノ派の最盛期の共演を代表するアルバムであることは確かだ。

Lee Konitz Inside Hi-Fi
1956 Atlantic
その後コニッツは1956年に「Lee Konitz Inside Hi-Fi」、「Worthwhile Konitz」、さらに「Real Lee Konitz」という3枚のLPAtlanticに吹き込む。(正確に言えば、「Worhwhile Konitz」はAtlantic本社に残された未発表音源を日本のワーナー・パイオニアが1972年に編集したLPが原盤である。)「Inside Hi-Fi」はサル・モスカ(p)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド/アーノルド・フィシュキン(b)、ディック・スコット(ds)とのカルテットによる1956年の別々のセッションを収めたもので、コニッツはそこでテナーも吹いている。その時サル・モスカが参加した録音の残りのセッションと、同年のジミー・ロウルズ(p)、リロイ・ヴィネガー(b)、シェリー・マン(ds)という、珍しい西海岸のプレイヤーと有名曲を演奏したLA録音を組み合わせたのが日本編集の「Worthwhile」である。

Real Lee Konitz
1957 Atlantic
Real Lee Konitz」は1957年2月のピッツバーグでのクラブ・ライヴを、ベース奏者で録音技師でもあったピーター・インドが録音し、それをコニッツが後でテープ編集して仕上げたといういわくつきのレコードだが、完成した演奏は素晴らしい(ビリー・バウアー-g、ディック・スコット-ds、一部ドン・フェラーラ-tp)。テープ編集は今どきは当たり前に行なわれている録音方法だが、当時なぜコニッツがこの手法を取り入れたのかは調べたが不明だ。それ以前からテープ編集が得意だった師匠レニー・トリスターノの影響だったのかもしれない。”Real" の意味を考えたくなるが、これがAtlantic 最後の作品となった。


Worthwhile Konitz
1956 Warner Pioneer(LP)
他の2枚のLPは今でもCDで入手可能だが、日本編集盤のLP「Worthwhile Konitz」は単体ではCDリリースされておらず、唯一これら3枚のAtlanticLP音源をまとめた2枚組コンピレーションCDで、私が保有しているThe Complete 1956 Quartets」(American Jazz Classics)でのみ聴けるが、このCDは今は入手困難のようだ(ただしMozaicのコンプリート版には収録されているだろう)。Atlantic時代は、言うまでもなくStoryvilleに続くコニッツの絶頂期であり、これらのアルバムにおける演奏はどれも高い水準を保ち、当時のコニッツの音世界が楽しめる。選曲もポピュラー曲が増え、アブストラクトさもさらに薄まり、一言で言えば聴きやすくわかりやすい演奏に変貌していることが明らかだ。

2017/06/04

リー・コニッツを聴く #2:Storyville

Jazz at Storyville
1954 Storyville
私的にはリー・コニッツ絶頂期と思えるのが、1950年代中期の Storyville レーベルの3部作で、いずれもワン・ホーン・カルテットである。1枚は、当時ボストンのコープリー・スクエア・ホテル内にあったジョージ・ウィーンが所有していたジャズクラブ「Storyville」でのライヴ録音「Jazz At Storyville」(1954)、もう1枚は同年のスタジオ録音「Konitz」、最後の1枚は「In Harvard Square」で1954/55年に録音されている。「Jazz At Storyville」は、絶頂期を迎えつつあったコニッツの演奏をライヴ録音したことに価値がある。ラジオ放送したものなので、冒頭、中程、最後とJohn McLellandMC3度入っているが、録音もクリアで、当時のジャズクラブの雰囲気が臨場感たっぷりに楽しめる(週末や翌週ライブの案内など)。ロニー・ボール (p)、パーシー・ヒース(b)、アル・レビット (ds)というカルテットで、自信に満ち、イマジネーション豊かな、まさに流れるようなアドリブで当時の持ち歌を演奏するコニッツのアルトは素晴らしい。

Konitz
1954 Storyville
スタジオ録音「Konitz」は、ロニー・ボールに加え、ピーター・インド (b)、ジェフ・モートン (ds)というトリスターノ派のメンバーで固めた演奏である。この時期のコニッツの音楽が素晴らしいのは、言わばクール・ジャズと当時主流だったハードバップのほぼ中間地点にいて、知的クールネスとジャズ的エモーションの音楽的バランスが見事なのだ。それはハードバップ系の他のどのジャズ、どのミュージシャンとも違う、コニッツだけが到達しえた独創的な世界だった。この後のAtlanticVerve時代は、よりハードバップに接近した演奏が増え、ウォーム・コニッツなどとも呼ばれることになるが、そこに奏者としてより円熟味も加わっているので、どちらがいいかは聴く人の好みによるだろう。いずれにしても、私が好きなStoryville時代は、若さ、技量、イマジネーションが3拍子揃った「旬の」 コニッツが聴ける。

In Harvard Square
1954/55 Storyville
グリーンの美しいLPジャケットもあるが、私は特に「In Harvard Square」が当時のコニッツの音楽的バランスが絶妙で好きだ(サポート・メンバーは「Konitz」と同じ)。どの演奏も難解でもないし、気疲れもしない、非常に心地良いジャズだが、音色、紡ぎ出すライン、時折のテンションにはクール・ジャズの魅力が溢れていて今聴いても新鮮だ。これら3枚のアルバムすべてに参加している、トリスターノ派の盟友であったロニー・ボールの軽快でよくスウィングするピアノも、コニッツの滑らかで高度なアドリブを見事にサポートしている。ロニー・ボールもトリスターノとバップ・ピアニストの中間にいて、冷たくもなく、熱すぎもせず、イギリス人らしい小気味の良いピアノを弾く人だ。これら3枚どのアルバムからも、即興演奏に命を懸けたようなストイックで切れ味鋭い1950年前後のコニッツの演奏から、クールネスを基本にしながらも、メロディを意識したより歌心に溢れた演奏に変貌していることがよくわかる。トリスターノの呪縛からようやく解き放たれて、リー・コニッツ自身のスタイルをほぼ築き上げつつあった時代だと言えるだろう。

コニッツのインタビュー本「Lee Konitz」でのこの時期についてのコメントは、プロモーターだったジョージ・ウィーンによる「コニッツLA置いてけぼり事件(LAギグの帰りの切符をウィーンが手配していなかった)」しか出て来ない。著者アンディ・ハミルトンに何故なのか質問してみたが、2人の間ではSroryville時代に限らず、50年代のレコードに関する話はほとんど出て来なかったということだ。著者自身が好きなこの時代のレコードがAtlanticの「ウィズ・ウォーン・マーシュ」で、その話が中心だったこと、それに何せ当時80歳近かったコニッツも、この時代の細かなことはもうほとんど忘れかけていたということらしい。

2017/06/02

リー・コニッツを聴く #1:1950年代初期

私は前記レニー・トリスターノのLP「鬼才トリスターノ」B面のリラックスしたライヴ録音を通じて、初めてリー・コニッツ Lee Konitz (1927-) を知り、その後コニッツのレコードを聴くようになった。だが最初に買ったコニッツのレコード「サブコンシャス・リー Subconscious-Lee(Prestige) は、トリスターノのA面と同じく、当時(1970年代)の私には、リズムも、音の連なりも、それまで聴いていたジャズとまったく違う不思議な印象で、最初はまるでピンと来なかった。それもそのはずで、「鬼才トリスターノ」B面のコニッツの演奏は1955年当時のもので、師の元を離れて3年後、既に自らのスタイルを確立しつつある時期の演奏であり、一方「サブコンシャス・リー」はその5年も前の1949/50年の録音で、まだトリスターノの下で「修行中」のコニッツの演奏が収録されたものだったからだ。

Subconscious-Lee
1949/50 Prestige
1940年代後半は、全盛だったビバップの気ぜわしい細切れコードチェンジとアドリブ、派手な喧騒に限界を感じたり、誰も彼もがパーカーやバド・パウエルの物真似のようになった状況に飽き足らなかったミュージシャンが、それぞれ次なるジャズを模索していた時代だった。マイルス・デイヴィス、ジェリー・マリガンやレニー・トリスターノもその中心にいたが、3人ともビバップの反動から、より構造を持ち、エモーションを抑えた、知的な音楽を指向していた。当時リー・コニッツもマイルス、マリガンと「クールの誕生」セッションに参加するなど、彼ら3人と密接に関わりつつ、レスター・ヤングとチャーリー・パーカーという巨人2人から継承したものを消化して、自らの音楽を創り出そうと修練している時期だった。Prestigeのボブ・ワインストックがリー・コニッツのリーダー・アルバムを作る提案をしたが、当初予定していたトニー・フラッセラ(tp) との共演話が流れ、結果としてコニッツがトリスターノやシェリー・マン(ds)に声をかけ、師匠とビリー・バウアー(g)、ウォーン・マーシュ(ts)等トリスターノ・スクールのメンバーも参加して、1949/1950年にSPで何度かに分散して吹き込まれた録音を集めたのがアルバム「Subconscious-Lee」である。またこれはPrestigeレーベルの最初のレコードとなった。そういうわけで当初はトリスターノのリーダー名で発表されたようだが、後年コニッツ名義に書き換えられたという話だ。

1950年前後に録音された他のジャズ・レコードを聴くと、このアルバムの演奏が、ビバップに慣れた当時の聴衆の耳に如何に新しく(奇異に)響いたかが想像できる。ここでのトリスターノ、コニッツとそのグループのサウンドと演奏は、今の耳で聴いてもまさに流麗で、スリリングで、かつ斬新だ。アルバム・タイトル曲で、コニッツが作曲した複雑なラインを持つ<Subconscious-Lee>は、今ではコニッツのテーマ曲であり、かつジャズ・スタンダードの1曲にもなっている。また得意としたユニゾンとシャープな高速インプロヴィゼーションのみならず、<Judy>や<Retrospection>のようなバラード演奏における陰翳に満ちたトリスターノのピアノも美しい。トリスターノ派の演奏は、その時代なかなか理解されず、難解だ、非商業的だ、ジャズではない等々ずっと言われ続けていたが、まさにアブストラクトなこれらの演奏を聴くとそれも当然かと思う。1950年という時代には、彼らの感覚が時代の先を行き過ぎているのだ。当時20代初めだったイマジネーション溢れるコニッツは、ここでは疑いなく天才である。彼の若さ、SPレコードを前提にした1曲わずか3分間という時間的制約、そしてトリスターノ派の即興に対する思想と音楽的鍛錬が、このような集中力と閃きを奇跡的に生んだのだろう。個人的感想を言えば、トリスターノとコニッツは、このアルバムで彼らの理想とするジャズを極めてしまったのではないか、という気さえする。

Conception
1949/50 Prestige
同時期1949年から51年にかけての録音を集めたPrestigeのコニッツ2枚目のアルバムが「コンセプション Conception」だ。オムニバスだが単なる寄せ集めというわけではなく、当時一般に ”クール・ジャズ” と呼ばれ、ビバップの次なるジャズを標榜して登場し、その後のハードバップにつながる、ある種の音楽的思想を持ったジャズを目指したプレイヤーの演奏を集めたものだ。リー・コニッツが6曲、マイルス・デイヴィスが2曲、スタン・ゲッツが2曲、ジェリー・マリガンが2曲、とそれぞれがリーダーのグループで演奏している。当時コニッツのサウンドを評価していたマイルスは「クールの誕生」でも共作・共演しており、コニッツ名義のこのレコーディングにマイルスも参加したもので、コニッツとマイルス唯一のコンボでの共演作だ。ジョージ・ラッセルが斬新な2曲を提供していて、名曲<Ezz-Thetic>はこれが初演である。コニッツはまだトリスターノの強い影響下にある時代で、師匠はいないがスクールのメンバーだったサル・モスカ (p)、ビリー・バウアー (g)、アーノルド・フィシュキン (ds) もここに参加している。サル・モスカなどトリスターノそのもののようだし、初期の独特の硬質感と透明感を持つ、シャープかつ流れるようななコニッツのアルト・サウンドも素晴らしい。マイルスの参加で、トリスターノ色が若干薄まってはいるが、それでもコニッツ・グループの6曲の演奏を聞いた後では、マイルス、ゲッツ、マリガンの他のグループの演奏が今となっては実に「普通のジャズ」に聞こえる(主流という意味)。こうして並べて聞くと、コニッツたちが「クール」という一緒くたの呼び名を嫌った理由もわかるが、しかし当時(昭和25年である)はここに収められたどのグループの演奏も非常に「モダン」であったはずで、コニッツがいささか(当時のジャズを)突き抜けた存在だったということだろう。どの演奏もとても良いので、そういう歴史的な視点も入れて聞くとより楽しめるアルバムだ。

Konitz Meets Mulligan
1953 Pacific Jaz
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リー・コニッツとジェリー・マリガンGerry Mulligan (1927-96) は、ギル・エヴァンスと同じくコニッツが1947年にクロード・ソーヒル楽団に入ったとき以来の付き合いだ。マイルス・デイヴィスの「クールの誕生」バンドでの共同作業を経て、コニッツがスタン・ケントン楽団に入団してからも、マリガンは楽団へのアレンジメント楽曲の提供と共演を通じてコニッツと親しく交流していた。1953年、ケントン楽団在籍中のコニッツに、既にLA在住だったマリガンが、当時チェット・ベイカーChet Bakerと一緒に出演していたクラブ「Haig」へ出演しないかと声を掛け、3人を中心にしたピアノレス・コンボの活動を始めた。「コニッツ・ミーツ・マリガンKonitz Meets Mulligan」(1953 Pacific Jazz)は、この時の「Haig」でのライヴ演奏をPacific Jazzのリチャード・ボックとマリガンが録音したものに、他のスタジオ録音を加えてリリースされたものだ。3人の他にマリガンのレギュラー・リズム・セクションだったカーソン・スミス(b)、ラリー・バンカー(ds) が加わったクインテットによる演奏である。

コニッツはその前年にトリスターノの元を離れ、それまでとまったく肌合いの異なるコマーシャル・ビッグバンド、それも重量級のケントン楽団のサックス・セクションに所属していた。そこで強烈なブラス・セクションの音量と拮抗するという経験を経て、それまでの透明でシャープだが線の細い、コニッツ固有のアルトサックスの音色に力強さと豊かさを加えつつあった。トリスターノ伝来のインプロヴィゼーション技術に、ビル・ラッソらによるケントン楽団のモダンで大衆的なアレンジメントの演奏経験が加わり、さらにそこに力強さが加味されたわけで、そのサウンドの浸透力は一層高まっていた。このアルバムに聴ける、マリガンもベイカーの存在もかすむような、まさに自信に満ち溢れた切れ味鋭い、縦横無尽とも言うべきコニッツのソロは素晴らしいの一言だ。中でも <Too Marvelous for Words> と<Lover Man>における流麗でクールなソロは、コニッツのインプロヴィゼーション畢生の名演と言われている。またコニッツ生涯の愛奏曲となる <All the Things You Are>も、ここではおそらく最高度とも言える素晴らしい演奏だ。「Subconscious-Lee」の独創と瑞々しさに、その後につながる飛翔寸前の力強さが加わったのが、このアルバムでのコニッツと言えるだろう。この後50年代半ばまでコニッツは絶頂期とも言える時期を迎え、ジャズ誌のアルトサックス部門のポール・ウィナーをチャーリー・パーカーと争うまでに人気も高まり、初の自身のバンドを率い(Storyville時代)、さらにAtlanticというメジャー・レーベル時代に入ることになる。

2017/05/31

レニー・トリスターノの世界 #3

レニー・トリスターノの音楽コンセプトが、その後アメリカにおけるジャズの深層に様々な影響を与えていたことは事実だが、それを直接継承した音楽家はリー・コニッツやウォーン・マーシュのような弟子の他、一世代後のピアニストで同じく弟子だったコニー・クローザーズなどの限られた人たちだけだったようだ。しかし1970年代に入って、日本でそのコンセプトを継承し、自らのジャズとして追及し続けたミュージシャンが存在した。それがギタリストの高柳昌行 (1932-91) である。 

Cool Jo-Jo
高柳昌行
TBM 1978
「クール・ジョジョ Cool Jo-Jo」(1978 Three Blind Mice) は、弘勢憲二(p&ep)、井野信義(b)、山崎泰弘(ds)からなる高柳昌行のカルテット “セカンド・コンセプト”  がトリスターノ派ジャズに挑戦したアルバムである。選曲はレニー・トリスターノの<317 East 32nd>など2曲、リー・コニッツの<Subconscious-Lee>など3曲、ロニー・ボール作1曲、高柳自作曲が2曲という構成で、CDには4曲の別テイクが追加されている。高柳は当時、阿部薫(as)とのデュオ「解体的交感」(1970) や、“ニュー・ディレクション”という別グループによるフリー・ジャズ追求を経て、一方で伝統的4ビートによるトリスターノ派のクール・コンセプションをこのグループで追求していた。作品タイトル「クール・ジョジョ」(ジョジョは高柳の愛称)はそれを表している。このアルバムに聴ける演奏は、言うまでもなく日本におけるクール・コンセプションの最高峰の記録だろう。高柳のギターは、トリスターノのグループにおけるリー・コニッツの役割になるが、そのラインをコニッツのアルトサックスのラインと比較しながら聴くと実に興味深い。このグループではもう1枚、ライヴ録音として本作の1週間前に吹き込まれたアルバム「セカンド・コンセプト」(ライヴ・アット・タロー)が残されている(ベースは森泰人)。

Second Concept
Live at Taro
1978
高柳昌行の即興思想とアルバム・コンセプトについて、本作録音後の1980年のあるインタビューで、高柳自身がこう述べている。

『クールという言葉でたまたま呼ばれているが、あの音楽の内面は凄まじく熱いものだよ。外面的には冷たく見えても、精神的な部分は手がつけられないほど熱く燃えているんだ。日本でエネルギッシュだとかホットだとかいう言葉で表されるものは身体が燃え上がるような状態を言うようだが、本当は内面的に燃え上がっていなければ、熱いとは言えないと思うな。そして、その燃える部分はやはりアドリブだと思う。ジャズの命は何と言ってもアドリブなんだ。ミュージシャンが自身を最大限に表出できるクリエイティブな部分、アドリブが強烈な勢いを持っていなければだめだ、と今さらのように思うよ。
 トリスターノ楽派の音楽にはそれがあるんだ。平たく言えばジャズってのは、ニグロの腰ふりダンスだ。しかし、音楽として存在し続けるためには高度な内容を持たなければならない。そういう意味で、最も純粋なものを持っているのが、トリスターノだと思うわけ。音の羅列(られつ)の仕方だとか、ハ-モニ-など追求していくと、その高度な音楽性には脱帽するしかないよ。現時点で考えてみてもその音楽性は1歩以上進んでいるよ。建築の世界に移して考えてみればよくわかるが、パーカーは装飾過多のゴシック建築、トリスタ-ノの音楽は、シンプルで優美な直線と曲線を見事に組み合わせた近代建築なんだ。現代にも通じる美の極致だよ。シンプルなホリゾンタル・ライン、それでいて、信じられない程良く考え抜かれた曲線性、そして複雑この上ない音の羅列。<サブコンシャス・リ->なんて<恋とは何でしょう>のあんな簡単なコード進行からあれだけのリフ・メロディを生み出すなんて、ちょっと信じられないものがあるよ。こうして僕がしつこいまでにトリスターノを追う理由の一つがそれなんだ。僕はジャズの音楽家だし、そういうジャズの内面的な質の高さを伝えていきたいんだ。
 猿マネして黒人の雰囲気を伝えるのがジャズじゃないよ。自分の中で、自分なりに消化されたものをアドリブとして表出する。それこそが今僕がやり続けていきたいことなんだ。それを失っちゃったら全部白紙。これは最後の歯ドメでもあるわけ。でも、そういういいものはなかなか理解されないよね。これは明白な事実だから、あえて言う必要もないが、音楽的な純粋さとコマーシャル性は両立しないものなんだ。となれば、首のすげかえを心配してこうした音楽をとり上げようとするプロデューサーがいなくなるのも当然だよね。そこへいくとTBMの藤井(武社長)さんは大将なわけでね。ジャズの本当に熱い部分に真剣に取り組んでくれて、うれしいよね』
高柳昌行に師事していたギタリストには大友良英、廣木光一のような人たちがいるが、本コメントは、同じく一時期師事していたギタリスト、友寄隆哉氏のブログ内論稿から転載したものです。)

リー・コニッツ本人を除き、トリスターノ派の音楽の本質をこれほど正確に表現している言葉はこれまで聞いたことがない。”クール” については、「リー・コニッツ」のインタビューで後年コニッツが述べているのと同じ趣旨のことを語っているし、他のインタビューでのフリー・インプロヴィゼーションに対する思想も、「テーマも何もない白紙から始めるべきだ」というコニッツとほぼ同じことを言っている。2人はジャズ音楽家として共通する哲学を持っていたのだろう。高柳昌行という人は強烈な個性を持ったカリスマ的人物だったようだが、トリスターノ派の音楽を求道者とも言えるほどの情熱を持って理解し、尊敬し、しかも「日本人のジャズ」としてそれに挑戦しようとしていたジャズ・ミュージシャンが、当時の日本(フュージョン時代)にいたことに驚く。悠雅彦氏のライナーノーツによれば、この録音テープを児山紀芳氏が米国に持ち込み、リー・コニッツとテオ・マセロに聞かせたところ、その素晴らしさに二人ともびっくりし、コニッツは予定していた来日時に高柳と共演したいという提案までしたらしい。残念ながら来日がキャンセルになったために、共演はかなわなかったようだ。コニッツの演奏スタイルは、当時はかなり変貌してはいたものの、もし二人の共演が実現していたら、どんなに刺激的で興味深い演奏になっただろうかと想像せずにいられない。

2017/05/29

レニー・トリスターノの世界 #2

Lennie Tristano All Stars
(Rel. 2009 RLR)
前項のように、昔からAtlanticの「鬼才…」や「ソロ」ばかり紹介されるために、変人ぶりや難解で高踏的なイメージだけが定着してしまったが、限られてはいるものの、中には聴き手がリラックスしてトリスターノの名人ぶりを楽しめるレコードも残されている。Lennie Tristano All Stars」(RLR 2009)というCDは、トリスターノがシカゴからニューヨークに出てきた翌19478月にクラブ「Café Bohemia」(Pied Piper)で録音されたライヴ演奏と、19646月のクラブ「Half Note」でのTV中継ライヴ(Look Up & Live)からの3曲をカップリングした珍しいレコードだ。47年のライヴは、ビル・ハリス(tb)、フリップ・フィリップス(ts)、ビリー・バウアー(g)、チャビー・ジャクソン(b)、デンジル・ベスト(ds)という、ウッディ・ハーマン楽団のメンバーを中心にしたコンボにトリスターノが飛び入りしたもののようだ。未だスウィング色の強い、喧騒のビバップ・コンボに「潜入した」当時28歳のここでのトリスターノは、CMではないがまさに異星から来た「宇宙人トリスターノ」だ。ハリスやフィリップスの実にスウィンギングな熱演に客席から掛け声もかかり、ダンスも踊れそうな音楽に一応は合わせているが、リズム、ライン、コードとも時々周囲と全く違う異次元のサウンドを繰り出し、特にトリスターノのソロに入ると一気に場が冷え込み、演奏メンバーもクラブの客も面喰らっている様子が手に取るようにわかる。トリスターノがニューヨークのジャズシーンに突如出現した当時のインパクトが目に見えるようにわかって実におもしろい。このCDは録音もプアで基本的には好事家向けだが、トリスターノ・ファンなら初期のトリスターノと、当時のニューヨークのクラブでのビバップの雰囲気を知る貴重な記録として非常に楽しめる。それからワープして17年後、すっかりモダンになった1964年の「Half Note」ライヴ録音3曲は、リー・コニッツ、ウォーン・マーシュという弟子たちとトリスターノ最後の共演である(ソニー・ダラス-b、ニック・スタビュラス-ds)。このライヴ演奏翌年のヨーロッパ・ツアーを最後に、トリスターノはほぼ人前で演奏することはなくなる。

Lennie Tristano
Manhattan Studio
1955/56 Jazz Records
もう1枚は、ピアノ・トリオ「Manhattan Studio」(1955/56 Jazz Records)だ。'50年代初めにトリスターノは彼のジャズ教室のための練習と録音を目的にマンハッタンに小さなスタジオ(317 East 32nd)を作ったが、このレコードは1955/56年にかけて、そのスタジオで記録された演奏を集めた私家録音盤である。40年代の超革新的な姿勢も、このアルバムと同時期のAtlantic盤での録音ギミックもなく、ピーター・インド(b)、トム・ウェイバーン(ds)という二人の弟子をリズム・セクションに従えて、ごく当たり前のピアノ・トリオとして演奏している。コンボやソロが多く、またトリスターノのトリオと言えば50年代初めの数曲の演奏を除き、ビリー・バウアーのギターとベースによるものしかないので、ベースとドラムスによるトリオ演奏だけから成るアルバムはこの1枚だけだ。ここでは流れるようなスピードと美しさ溢れる「素顔の」トリスターノの素晴らしいピアノが堪能できる。9曲の内、自作2曲を除き、他7曲はトリスターノにしては珍しく全てスタンダードを弾いている。いつものようにいきなりくずさずに、どの曲もストレートにメロディを弾いていて、ごく普通の4ビートのピアノ・トリオとして構えずに聴け、トリスターノのインプロヴィゼーションの世界がわかりやすい。複雑さもなく、こんなにリラックスした雰囲気で、楽しそうに(たぶん)スウィングして弾いているトリスターノは他の録音では絶対に聴けない。弟子たちと自分のスタジオで、好きな曲を自由に弾いている様子が伝わってきて、他のアルバムで常につきまとう聴き手に強いる緊張感がここにはない。リズム・セクションも1950年代半ばの普通のピアノ・トリオのリラックスしたバッキングで、よく言われる正確で律儀なメトロノーム的な伴奏だけではない。しかしフォーマットは普通だが、演奏そのものはやはりトリスターノで、50年代半ばという時代を思えばその音世界の斬新さは相変わらずだが、同時にそのドライブ感と、次から次へ出てくる美しいフレーズとメロディ・ラインはまさにバド・パウエル並みで、これにはびっくりする。

Lennie Tristano
Chicago in April 1951
(Uptown)
数は少ないがリラックスして楽しめるライヴ音源もまだ残されている。数年前に発掘されリリースされたCDだが、19514月に故郷のシカゴに帰って、「ブルー・ノート・クラブ」に出演したレニー・トリスターノ・セクステットの未発表ライヴ録音全14曲を収めた2枚組CD「Chicago in April 1951」Uptown)がそれだ。これまでトリスターノのライヴ音源はプアなものが多かったが、これはピアノとホーンの音について言えば予想以上にクリアで、おそらくこれまでのグループによるクラブ・ライヴ録音ではベストの音質だろう。しかもトリスターノが時々MCをやりながら演奏していて、その声もクリアで、これにも驚く(初めて彼の声を聞いた)。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)に、同じくトリスターノ門下だったウィリー・デニス(tb)が加わり、リズム・セクションにバディ・ジョーンズ(b)、ミッキー・シモネッタ(ds)を配した3管セクステットによる演奏である。このCDはトリスターノがまだ32歳の時の録音で、コニッツ、マーシュを含むグループとしての一体感も完成の域に達していた時期でもあり、おそらく音楽的には絶頂期にあっただろう。本作はプレイヤーとして全盛期のトリスターノの素晴らしいピアノと、グループのリラックスしたクラブ・ライヴ演奏が、初めてクリアな音で楽しめる貴重盤である。

Lennie Tristano Quintet
Live in Toronto 1952
Jazz Record
s
そしてもう1枚のライヴ録音は、翌1952年カナダ・トロント(UJPOホール)でのコンサート・ライヴ「Live in Toronto 1952(Jazz Records)で、こちらはリー・コニッツ (as)、ウォーン・マーシュ (ts)、ピーター・インド (b)、 アル・レヴィット (ds) というクインテットによる演奏。ビリー・バウアー (g) はツアーに参加しなかったものの、メンバーはいわば当時のトリスターノ派全員集合である。このトロントでのライヴは、当初実験的要素もあったコニッツ、マーシュを従えたバンドを立ち上げてから5年近く経っており、グループとしての音楽的コンセプトも各自の役割も全員に浸透し、互いの理解も深まった段階に達していたことだろう。一発勝負のライヴでありながら、6曲すべてにおいて全員その流れるようにスムースで切れ味の良いユニゾン、アドリブともに見事で、ビバップとは異なる手法によるジャズ史上最高レベルの集団即興演奏だと言われている。トリスターノが希求していた理想のジャズが、ある意味ここで完成されたとも言えるだろう。ところがコニッツはこの公演の翌月トリスターノの元を離れ、トリスターノが以前から評価していなかったスタン・ケントン楽団に入団し、結果このトリスターノ・バンドは実質的に解散することになるのである。

1940年代のシカゴ時代、コニッツが十代の時から師事していた師匠とその高弟は、ここについに袂を分かつ。音楽上よりも経済的な理由だったとは言え、このトロント直後の片腕リー・コニッツの離反がトリスターノに与えた衝撃がいかに大きかったかが想像できる。マーシュは ’55年まで留まったが、前項に記したように、1952年のこの一件後トリスターノは徐々に公の場に出なくなり、マンハッタンのスタジオにこもってフリー・ジャズや多重録音などのジャズ研究とジャズ教師に専念するようになる。トリスターノとコニッツはその後ついに完全には和解せず、時折の共演を除き、かつての師弟関係は失われる。1959年の「Half Note」で、トリスターノの代役として急遽参加したビル・エヴァンスと、コニッツ、マーシュが共演したライヴ演奏(Verve) にも、実はそうした師弟間の葛藤と裏事情が伺われる逸話が残されている。そして上記1964年の「Half Note」での共演を最後に、以後2人は二度と顔を合わせることはなかった。だが「リー・コニッツ」のインタビューで、70年代半ばになってから2人が交わした電話ごしの会話のことをコニッツが語っているが、久々の会話を終えたトリスターノの嬉しそうな姿を、当時の弟子コニー・クローザーズから後年伝え聞いたコニッツが、思わず落涙した話は胸を打つものがある。

トリスターノ派ミュージシャン以外にも、セシル・テイラーやチャールズ・ミンガス、ポール・ブレイ、ビル・エヴァンス等への影響を含めて、トリスターノの革新的コンセプトがその後のジャズに与えた音楽的影響は決して小さくはなかったが、アメリカではそれはずっと無視されるか、過小評価されてきた。彼は小さくてもいいので自分のジャズクラブが欲しいとずっと言っていたそうだ。大衆には受けなくとも、自分の音楽を理解してくれる聴衆が少しでもいれば、そこで思う存分演奏したいと考えたのだろう。商業主義への妥協を拒んだ人生ゆえに、’78年に59歳で亡くなるまでにその願いは結局かなわなかった。しかし20世紀半ばのアメリカという国には、このような「理念」を持つジャズ音楽家も存在したのである。

2017/05/27

レニー・トリスターノの世界 #1

「ジャズにも色々あるのだ」ということを初めて知ったのが、1970年代に盲目のピアニスト、レニー・トリスターノ  (1919-1978) の「 Lennie Tristano(邦題:鬼才トリスターノ) (1955 Atlantic) というレコードを聴いたときだった。それまで聴いていた "普通の" ジャズ・レコードとはまったく肌合いの違う音楽で、クールで、無機的で、構築的な美しさがあり、ある種クラシックの現代音楽のような雰囲気があったからで、ジャズ初心者には衝撃的なものだった。しかし、それ以来この独特の世界を持ったアルバムは私の愛聴盤となった。

Tristano
1955 Atlantic
1954/55年に録音されたLP時代のA面4曲の内の2曲<Line Up>と<East 32nd Street>は、ピーター・インド(b)、ジェフ・モートン(ds)というトリスターノ派リズム・セクションの録音テープを半分の速度にして再生しながら、その上にトリスターノがピアノのラインをかぶせて録音し、最後にそれを倍速にして仕上げたものだとされている(ただし諸説ある)。<Line Up>は、<All of Me>のコード進行を元にして、4/4と7/4という2つの拍子を用いたインプロヴィゼーションで、初めて聴いたときには思わずのけぞりそうになったほどだが、この緊張感に満ちた演奏は今聴いても実に刺激的だ。他のA面2曲<Turkish Mambo>とRequiem>は、トリスターノのピアノ・ソロによる多重録音である。<Turkish Mambo>4/45/812/87/8という4層の拍子が同時進行する複雑なポリリズム構造を持つ演奏だという(音楽学者Yunmi Shimによる分析)。もう1曲の<Requiem>は、音楽家として互いに深く尊敬し合っていたチャーリー・パーカー(1955年没)を追悼した自作ブルースで、トリスターノのブルース演奏は極めて珍しいものだが、これも素晴らしい1曲だ。武満徹の「弦楽のためのレクィエム」は、トリスターノのこの曲に触発されたものだと言われている。また後年トリスターノの弟子となる女性ピアニスト、コニー・クローザーズもこの曲を聴いてクラシックからジャズに転向したという。2人ともトリスターノの音楽の中に、ジャズとクラシック現代音楽を繋ぐ何かを見出したということだろう。このA面で聴ける構造美とテンション、深い陰翳に満ちた演奏は、トリスターノの天才を示す最高度の質と斬新さを持つ、ジャンルを超えた素晴らしい「音楽」だと思う。

LP時代のB5曲はうって変わって、リー・コニッツ(as)が加わったカルテットが、スタンダード曲をごく普通のミディアム・テンポで演奏しており、1955年6月にニューヨークの中華レストラン内の一室でライヴ録音されたものだ。(コニッツはこの数日後に、「Lee Konitz with Warne Marsh」をAtlanticに吹き込んでいる。)スタン・ケントン楽団を離れたコニッツが自己のカルテットを率いていた絶頂期だったが、ここではリズム・セクションにアート・テイラー(ds)、ジーン・ラメイ(b)というトリスターノ派ではないバップ奏者を起用していることからも、A面のトリスターノの「本音」とも言える音楽世界との差が歴然としている。しかし、この最高にリラックスした演奏もまた、ピアニストとしてのトリスターノの一面である。実は本来は、このカルテットのライヴ演奏のみでアルバムを制作する予定だったが、満足できない演奏があったコニッツの意見で、5曲だけが選ばれ、代わってトリスターノのスタジオ内に眠っていた上記4曲を「発見」したAtlanticが、それらをA面として収録してリリースした、ということだ(その後このライヴ演奏のみを全曲収録したCDも発表された)。アルバムの最終コンセプトはたぶんトリスターノが考えたのだろうが、A面はトリスターノの「本音」、B面は「こわもて」だけじゃないんですよ、という自身のコインの両面を伝えたかった彼のメッセージのようにも聞こえる(勝手な想像です)。ただしそれはあくまでLPアルバム時代の話であり、CDやバラ聴きネット音源ではこうした作品意図や意味はもはや存在しない。残念なことである。

Crosscurrent
1949 Capital
トリスターノは、チャーリー・パーカーと同年1919年にシカゴで生まれた。9歳の時には全盲となり、シカゴのアメリカ音楽院入学後はジャズだけでなくクラシック音楽の基礎も身に付け、20代初めから既に教師として教えるようになっていた。1946年にビバップが盛況となっていたニューヨークに進出し、シカゴ時代からの弟子だったリー・コニッツも間もなく師の後を追った。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド(b)、アル・レヴィット(ds)というトリスターノのグループは、既に1948年頃からフリー・ジャズの実験を初めており、1949年のアルバム「Crosscurrents」(Capitol)で、<Intuition>、<Digression>というジャズ史上初の集団即興による2曲のフリー・ジャズ曲を録音している。当時彼らはクラブ・ギグやコンサートでも実際に演奏している。ただしそれらは対位法を意識していたために、曲想としてはクラシック音楽に近いものだった。当然ながらクラブなどでは受けないので、その後グループとしてのフリー演奏は止めたが、1951年にマンハッタンに開設した自身のスタジオで、トリスターノはフリー・ジャズ、多重録音の実験を続けていたのだ。(多重録音は今では普通に行なわれているが、70年近く前にこんな演奏を自分で録音して、テープ編集していた人間がいたとは信じられない。テオ・マセロがマイルスの録音編集作業をする15年以上も前である。)

メエルストルムの渦
1975 East Wind
亡くなる2年前、1976年に日本のEast WindからLPでリリースされたレニー・トリスターノ最後のアルバムが「メエルストルムの渦 Descent into the Maelstrom」だ1975年に、当時スイング・ジャーナル誌編集長だった児山紀芳氏とEast Windが、隠遁生活に入っていたトリスターノと直接交渉して、過去の録音記録からトリスターノ自身が選んだ音源をまとめたものだそうだ。ただし音源は1952年から1966年にかけての5つのセッションを取り上げていて、中に1950年代前半(上記「鬼才トリスターノ」音源より前である)に録音したこうした多重録音の演奏が3曲収録されている。アルバム・タイトル曲<メエルストルムの渦>はエドガ・アラン・ポーの同名小説から取ったもので、録音されたのは1953年であり、当時としては驚異的なトリスターノのフリー演奏が聞ける。一人多重録音による無調のフリー・ジャズ・ピアノで、重層化したリズムとメロディがうねるように進行してゆく、まさにタイトル通りの謎と驚きに満ちた演奏だ。セシル・テイラー、ボラー・バーグマンなどのアヴァンギャルド・ジャズ・ピアニスト登場の何年も前に、トリスターノは既にこうした演奏に挑戦していたのである。1952年(195110月という記録もある)のピーター・インド(b)、ロイ・ヘインズ(ds)との2曲のトリオ演奏(Pastime、Ju-Ju)もピアノ部分が多重録音である。他の演奏は “普通の” トリスターノ・ジャズであり、1965年のパリでの録音を含めてピアノソロが5曲、1966年当時のレギュラー・メンバーだったソニー・ダラス(b)、ニック・スタビュラス(ds)とのトリオが同じく2曲収録されている。本人がセレクトした音源だけで構成されていることもあり、Atlantic2作品と共に、このアルバムはトリスターノの音楽的メッセージが最も強く込められた作品と言えるだろう。

The New Tristano
1962 Atlantic
1950年前後、トリスターノはインプロヴィゼーション追求の過程で、微妙に変化する複雑な「リズム」と、ホリゾンタルな長く強靭な「ライン」を組み合わせることによって、ビバップの延長線上に新しいジャズを創造しようとしていた。特に強い関心を持っていたのはポリリズムを用いた重層的なリズム構造だ。そのためリズム・セクションに対する要求水準は非常に高く、当時彼の要求に応えられるドラマーやベーシストはほとんどおらず、ケニー・クラークなどわずかなミュージシャンだけだったと言われている。よく指摘されるメトロノームのように変化のないリズムセクションも、その帰結だったという説もある。要するに、上記多重録音のレコードは、「それなら自分一人で作ってしまおう」と考えたのではなかったかと想像する。だからある意味で、これらの多重録音による演奏はトリスターノの理想のジャズを具体化したものだったとも言える。だが多重録音と速度調整という「操作」をしたことで、ジャズ即興演奏の即時性に反するという理由だと思うが、当時彼のAtlantic盤は批評家などから酷評された。その後しばらく経った1962年に、これらの演奏の延長線として、録音操作無しの完全ソロ・ピアノによるアルバム「ザ・ニュー・トリスターノThe New Tristano」(Atlantic)を発表して、自らの芸術的理想をついに実現したのである。

前作の演奏加工への批判に対する挑戦もあり、1曲を除き、完全なソロ・ピアノである。疾走する左手のベースラインと右手の分厚いブロック・コードを駆使して、複雑なリズム、メロディ、ハーモニーを一体化させてスウィングすべく、一人ピアノに向かって「自ら信じるジャズ」を演奏する姿には鬼気迫るものがあっただろうと想像する。盲目だったが彼の上半身は強靭で(ゴリラのようだったと言われている)、その強力なタッチと高速で左右両手を縦横に使う奏法を可能にしていた。収録された7曲のうち<You Don’t Know What Love Is>以外は「自作曲」だが、このアルバムに限らずトリスターノは、既成曲のコード進行に乗せてインプロヴァイズした別のLine(メロディ)に別タイトルをつけるので、原曲はほとんどスタンダード曲である。この姿勢が彼のジャズに対する思想(「即興」こそがジャズ)を表している。たとえば <Becoming>は<What Is This Thing Called Love>,<Love Lines>は<Foolin’ Myself>,<G Minor Complex>は<You’d Be So Nice To Come Home To> などだ。原曲がわかりやすいものもあれば、最初からインプロヴァイズしていて曲名を知らなければわからないものもある。同じく<Scene And Variations>の原曲は <My Melancholy Baby> で、<Carol>、<Tania>、<Bud>という3つのサブタイトルは彼の3人の子供の名前だ。Budは当然ながら、崇拝していたバド・パウエルにちなんで名づけたものだ。クールでこわもて風トリスターノの人間味を感じる部分である。

不特定の客が集まる酒を扱うクラブでの演奏を嫌がり、売上至上主義の商売に批判的で、その手助けをしたくない、というトリスターノの姿勢は若い頃シカゴ時代から基本的に変わらなかった。未開の領域で、自身の信じるビバップの次なるジャズを創造するという姿勢がより強固になっていった40年代後半以降、この傾向はさらに強まる。ジャズという音楽、アメリカという国の成り立ちを考えると、これが如何に当時の音楽ビジネスの常識からかけ離れていたかは明らかだろう。ニューポート・ジャズ祭への出演要請も事前の手続き上のトラブルから断ったりしているが、60年代のヨーロッパでのライヴなど、コンサート形式ならたとえpayが低くても基本的に参加する意志はあったようだ。しかし、クラブでも、コンサート・ホールでもその数少ないライヴ演奏記録は常に新鮮でスリリングな最高のジャズである。ただし、その音楽が本質的に内包する高い緊張感と非エモーショナルな性格から、ジャズにリラクゼーションを求める層に受けないのは昔も今も同じだろう

2017/05/24

ジャズ・レコードから聞こえてくるもの

アンディ・ハミルトンの「Lee Konitz」を翻訳しながら、レニー・トリスターノやリー・コニッツ、ウォーン・マーシュ他のトリスターノ派のミュージシャンたちのレコードをずっと聴いていた(私の場合、手持ちのCD音源を取り込んだPCオーディオなので、好きな部分だけを何回でも繰り返し聴ける)。文章の意味がはっきりしない部分は著者にメールで問い合わせて確認していたが、本文中で録音記録に触れる部分があると、その音楽的背景を知るにはネット情報などの説明だけでなく、実際にそれらの音源を自分の耳で聴いたり、可能ならネット動画で確かめるのがいちばん確実で、それによって翻訳表現もより正確なものになるからだ。半分趣味とはいえ、ジャズ伝記類の翻訳は報われることの少ない仕事だと思うが、一ジャズファンという立場からすると、ジャズという音楽やミュージシャンの人生に関して知らなかったことを新たに発見してゆく楽しみだけでなく、これまで聴いたこともなかったような音源を聴く楽しみも与えてくれるので、苦労も相殺されるように感じている。今現在のジャズを聴く楽しみももちろん捨てがたいのだが、何せ、死ぬまでかかっても聴ききれないほどの膨大な音源が、モダン・ジャズにはまだまだ残されているのだ。それらの中には自分にとって決してカビのはえた骨董などでない、未知の宝物が眠っている可能性もある。その宝の山を掘り返す楽しみは何物にも代えがたいもので、歳を重ね、先が短くなるほど尚更そう感じるようになる。私にとってはジャズに古いも新しいもなく、良いものは良い、ということだけだ。

翻訳中には、こうして聴いていたレコードの情報を確認するために、
信頼性の高い海外のジャズ音楽家別ディスコグラフィー(discography) をいくつかネットで探して参照し、それらのデータを手持ちのLPCDの記載情報や、ネット上のレコード情報と照合する作業も並行して行なっていた。今はネットで個別レコード情報はかなり手に入るが、ミュージシャン別にまとまったものが意外に少ないし、そうした情報には結構いい加減なものも多い。結果として、何となく自分でトリスターノ派ミュージシャンのディスコグラフィー(英語版)を作ることになり、現在入手可能な150件近いトリスターノやコニッツ他の音源情報(LPCD)を表にまとめてみた(下表)。<録音年/アルバム・カバー/タイトル/録音日時・場所/演奏メンバー/演奏曲名/レーベル>をExcelを使って一覧表にしただけのものだが、これはたぶん日本初の試みだろう(今どき、そういうモノ好きな人がいるとも思えないので)。ジャズに興味のない人から見たら、いったい何をやっているのかと思うだろうが、これは、レコードや音源をたくさん所有していた昔のジャズマニアやレコードコレクターなら、たぶん一度は自分で作ってみたり、購入したりしたことがある類のレコード・リストである。私はそこまでのマニアでもコレクターでもないのでやったことはないが、昔なら大変な時間と労力を必要とする作業だっただろう。しかし今の時代は、インターネットとコンピュータを駆使すればあっという間に…とまでは言えないまでも、それほどの時間をかけずとも、そこそこのものを作成することが可能だ。ただし、それはネット上に公開された英語の原データとテキストを使い、そのほとんどを英語のままコピペ、再配列して作成したからで、これを日本語化(カタカナ表記)しようと思ったらさらにどれだけの労力が必要になるか想像したくもない。(これは趣味の世界なので別にどうということもないのだが、こうしたことからも、分野を問わず、ネット上に膨大な言語情報アーカイブを持つ英語圏の国々や人々が、どれだけ情報量も、情報処理速度上も、優位に立っているかよくわかる。つまり、誰でもいつでも参照可能な知的蓄積が他言語とは比較にならないほど膨大だということで、残念ながらこの点で日本語は圧倒的に不利なのだ。)やる以上は、ということで当初は完全ディスコグラフィーを訳書に掲載することを目指していたのだが、最終的には完成本のページ数制約のために、アルバム数を相当削り、また字数の多い演奏曲名部分を割愛せざるを得なかったので、イメージは原リストとは大分違うものになった。

トリスターノ派の音楽や人物に関しては、日本国内の公開情報はもちろんのこと、翻訳を開始した2013年頃にはネット上で公開されていた英語情報さえ非常に限られていた(今は格段に情報量が増えているが)。マイルスやコルトレーンなどの情報は、微に入り細にわたってそれこそ腐るほどあるのに、他にもたくさんいたジャズの天才や素晴らしいミュージシャンたちの音楽や人生の話は、日本ではほとんど表面的で断片的な紹介か、神話や伝説の次元に留まったままなのだ。今のように誰もがネットで情報を入手したり自分から発信できる時代と違い、昔は出版メディアが力を持っており、特に80年代バブル以降は、商業性を優先したメディアが限られた情報だけをあたかもジャズの全てであるかのよう伝えてきたこともあって、70年代までコアなジャズファンが楽しんできたマイナーなジャズやミュージシャンの情報は徐々に忘れ去られていった。パーカーとマイルスだけ聴いていればあとはどうでもいい、というような乱暴なことを言う人たちがいたせいもあるだろう。義憤というほどではないが、「リー・コニッツ」の翻訳を思い立ち、出版にこぎつけたモチベーションの一つは、本の内容の面白さもさることながら、そうした日本のジャズ文化に挑戦しようと思ったことだ。上述した自前のトリスターノ派ディスコグラフィーも、これまで日本では見たこともないものだが、もちろん日本のファンの中には数多くの彼らのレコードを所有し、場合によっては自分でディスコグラフィーを作成したりしている人もいることだろう。しかし訳書「リー・コニッツ」では、何としても、簡略版でもいいから、彼らの音楽の足跡をひと目で辿れるようなわかりやすいディスコグラフィーを併載し、それによって、一人でも多くの人に彼らの音楽にもっと興味を持ってもらいたかった(原著にこの資料はなく、また著者のハミルトン氏は哲学の人なので、コニッツの音楽思想への関心はあっても、そういういかにも日本的なアプローチに興味はないようだったが、提案は快諾してくれた)。信頼性にも問題がある断片ネット情報を読者が個別に見に行くのではなく、ミュージシャンの物語と、信頼できる音楽情報が一体となった「本」というパッケージで読めば、彼らの世界が一目瞭然で、読者としては単純に便利であり、しかもその方が楽しめるからだ。そこに実際の演奏記録(レコード)を聴く機会が加われば、さらに楽しみが深まると思う。

1970年代以降のジャズは、「ビッチェズ・ブリュー Bitches Brew(1970 CBS) に象徴されるマイルス・デイヴィスのコンセプトの支配的影響もあって、演奏家個人の技術や魅力よりも、一言で言えば全体としてコントロールされた集団即興に音楽の重心がシフトした。個性の出しにくいエレクトリック楽器の普及と、演奏後の録音編集という新技術がそこに加わったために、結果として、演奏現場で独自のサウンドで瞬間に感応する即興演奏で生きていた個々のジャズ演奏家の存在感が相対的に薄まって行くことになった。ロックやポップスの台頭、社会と聴衆の変化などが背景にあるのはもちろんだが、その後のジャズにカリスマ的ミュージシャンが現れにくくなったのも、個人から制御された集団へのシフトというジャズの基本的フォーマットの変化が主因の一つだろう。本来モダン・ジャズは、強力な個人が互いに個性と創造性をぶつけ合いながら作り上げた自由な音楽というところに最大の魅力があった。だからジャズ全盛期の真に創造的なミュージシャンの音楽からは、何物にも制約されない個人の強烈な創造エネルギーが今でも感じられるのだ。それはパーカーも、トリスターノも、コニッツも、モンクも同じである。そういう音楽家には人間としてもユニークな個性と魅力があり、彼らが送った人生にもまた不思議な引力がある。「出て来た音がすべてだ」という考え方も一方にあるが、私が個人的に興味を引かれるのは、単なるジャズ史的な位置づけや残された音源の音楽的評価ではなく、彼らの音楽と、それを生み出した人間との関係だ。ジャズ演奏家としての音楽哲学と思想を存命の本人が語った「リー・コニッツ」は、その意味で私にとっては実に刺激的な本だった。

翻訳中に自分で作ったディスコグラフィーを眺めながらレコードを聴いていると、彼らが送った時代や人生が何となく見えてくる。本に書かれた時代背景や人生だけでなく、彼らの音楽的個性や、音楽的に目指していたものが何だったのかということが、ド素人のジャズファンと言えどもおぼろげながら見えてくるのである。いつの時代も、優れた音楽家は一つの場所にじっとしているわけではない。常に進化しようとしているし、自らの目標に向かって努力し、変化してゆくものだ。また音楽的に一直線に上昇してゆくわけでもなく、調子の良い時も、悪い時期もあるし、場合によっては最初に録音したレコードを超えられずに一生を終える人もいる。出会った師や仲間に大きな影響を受け、音楽が次々と変遷する人もいる。生きている人間ならみな当然のことであり、私にはそこが面白いのだ。そうして作られたレコードから聞こえてくるのは抽象的な音に過ぎないのだが、そこに至るまでのジャズ音楽家の思想や、生き方や、苦悩を知ると、1枚のレコードがまったく違うものに聞こえてくる。今や手に負えないほど拡散しているジャズという音楽のフラグメントを追うのではなく、ミュージシャン個人や、時間軸というテーマで切り取る聴き方は、音源が昔とは比較にならないほど豊富で入手しやすい現代においては、ジャズを楽しむ良い方法の一つだと思う。それはまた日本人ならではの、レコードによる緻密で、繊細で、感覚的なジャズ鑑賞術をさらに掘り下げたジャズの楽しみ方にもなると思う。ジャズは何よりも自由な音楽なのであり、だからその聴き方もまた自由であるべきだ。様々なミュージシャンの名前やレコード名、楽理、ジャズ演奏技術の詳細を知らなくても、ジャズを楽しむ方法はいくらでもあるのだ。

基本的素材がほぼ出尽くしたと思われる20世紀に続く今は、現代の感覚でそれらをいかに変化させ、組み合わせ、あるいは新技術を駆使して、新しいフォーマットを創造するかがジャズに限らずあらゆるアーティストの宿命と言えるだろう。それが現代のアーティストにとって最大の命題であり、決して簡単なことではないだろうが、いずれそこから真に新しいアートが創造されることを期待もしている。だが一方で、今や過去の素材の一つにすぎないモダン・ジャズ黄金期の優れたミュージシャンの音源を聴くと、現代の音楽には望むべくもない、未来を信じ、ゼロから何かを生み出した行為にしか存在しないような強烈なエネルギーと創造性を感じることも事実だ。当時録音されたジャズ・レコードからは、我々を触発するそうした時代の空気と音楽家の精神が伝わってくる。私がレコードを聴くのは単なる<ド>ジャズ回顧ではなく、当時のレコードの音から今でもそれが聞こえてくるからだ。レコードという記録媒体に残されたモダン・ジャズは、20世紀半ばという時代と、アメリカという特殊な国を象徴する音楽だが、間違いなく現代世界の音楽の底流を作ったグローバルな音楽でもあり、今や時代を超えた価値を持つ古典だ。いまさら必要以上に持ち上げたり、貶めるようなことを言う対象でもなく、個々人が自由に聴いて、自由に想像し、自由に楽しむべき音楽遺産なのである。

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「リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡」を翻訳しながら、備忘録のように書き留めてきたトリスターノやコニッツのレコードに関するメモを基に、彼らの主要レコードを次回から紹介したいと思います。これらの音源が、本書に書かれたトリスターノやコニッツの音楽と思想を理解する手助けとなること、それによって本書を読む楽しみが一層深まることを願っています1枚の有名レコードを聴いただけではわからない、ミュージシャン像や音楽が見えてくるようなものにしたいと思いますが、何度も言うようですが、基本的にド素人の感想文なので、できれば細部への突っ込みはご遠慮いただくようお願いします。私が知る限り、コニッツをはじめとするトリスターノ派の音楽思想や演奏技術の分析は、本書を高く評価していただいている名古屋の鈴木学氏(「鈴木サキソフォンスクール」主宰)が長年研究されてきたので、そうした分野に関心のある方は、鈴木先生のホームページにアクセスしていただければ、参考になる情報がきっと得られると思います。

2017/05/15

Bossa Nova(番外編): ボサノヴァ・コニッツ

ボサノヴァ特集(?)の最後を飾るのは、やや好事家向けになるがジャズ・アルトサックス奏者リー・コニッツのボサノヴァだ。コニッツはブラジル音楽、とりわけアントニオ・カルロス・ジョビンのファンだったが、同業者のスタン・ゲッツが1960年代初めにテナーでボサノヴァを取り上げて大ヒットさせたこともあって、以来自分では手をつけてこなかったそうである(自伝での本人談。悔しかったのか?)。しかし1980年代から第2期黄金期を迎えていた(と私は思う)コニッツは、60歳を過ぎた1989年にブラジル人ミュージシャンと作った「リー・コニッツ・イン・リオ」(M.A.Music)を皮切りに、そのスタン・ゲッツの葬儀(1991年)で出会ったラテン音楽好きの女性ピアニスト、ペギー・スターン Peggy Stern (1948-) と活動を開始したこともあって、90年代に入ってからブラジル音楽を取り上げた作品を積極的にリリースした。ただし、それらはいずれもジャズ・ミュージシャン、リー・コニッツ流解釈によるブラジル音楽であり、”普通の” ボサノヴァを期待すると面食らうこともある。

ペギー・スターン(p, synt)とのデュオ「ジョビン・コレクションThe Jobim Collection」(1993 Philology)は、アントニオ・カルロス・ジョビンの作品のみを演奏したアルバムだ。非常に評判が良かったらしいが、Philologyというイタリアのマイナー・レーベルでの録音だったこともあって発売枚数が少なく、今は入手しにくいようだ(私も中古を手に入れた)。ゲッツから遅れること30年、ようやく手掛けたボサノヴァとジョビンの名曲の一つひとつを楽しむかのように、コニッツにしてはアブストラクトさを控え、珍しく感傷と抒情を衒いなく表した演奏が多い (本人もそう認めている)。コニッツならではの語り口による陰翳に富んだボサノヴァは、これはこれで非常に魅力的である。またデュオということもあって、各曲ともほとんど3分から5分程度で、ブラジル音楽を取り上げた他のバンドによるアルバムに比べ、メロディを大事にしながらどの曲もストレートに歌わせているところも良い。ペギー・スターンはピアノとシンセサイザーを弾いているが、どの曲でも非常に美しくモダンで、かつ息の合ったサポートでコニッツと対話している。馴染み深いジョビンの有名曲が並びどれも良い演奏だが、ここではメロディのきれいな<Zingaro>、<Dindi>、コニッツ本人も好きだと言う<Luiza>での両者のデュオが特に美しい。

その後コニッツは、日本のヴィーナス・レーベルからボサノヴァのアルバム「ブラジリアン・ラプソディ」(1995)と「ブラジリアン・セレナーデ」(1996)という2枚のレコードをリリースしている。「ラプソディ」にはペギー・スターンがピアノで参加し、「セレナーデ」はトランペットのトム・ハレル、ブラジル人ギタリストのホメロ・ルバンボ、ピアノのデヴィッド・キコスキー他を加えた2管セクステットによるジャズ・ボッサで、こちらも8曲中5曲がアントニオ・カルロス・ジョビンの有名作品だ。ジョビンの曲は、基本的にジャズ・スタンダードのコード進行を元にしているので、ジャズ・ミュージシャンにとっては非常に馴染みやすいのだという。だが、そのメロディはやはりどの曲もブラジルらしい美しさに満ちている。他の3曲は、<リカード・ボサ・ノヴァ>、トム・ハレルとコニッツのタイトル曲がそれぞれ1曲で、このレコードではいずれもオーソドックスなジャズ・ボッサを演奏している。

もう1枚はマイナー盤だが、コニッツが ”イタリア人” のボサノヴァ歌手兼ギタリストのバーバラ・カシーニ Barbara Casini (1954-)と、ボサノヴァの名曲をカバーしたトリオによるアルバム「Outra Vez」(2001 Philology)だ。ギターに同じくイタリア人のサンドロ・ジベリーニ Sandro Gibelini がガットとエレクトリック・ギター両方で参加している。バーバラ・カシーニは初めて聴いたが、コニッツがそのタイム・フィーリングの素晴らしさを称賛しているだけあって非常に良い歌手だ。声はジョイス Joyce (1948-)に似ているが、かすかにかすれていて、しかし良く通るきれいな歌声だ。小編成のボサノヴァ演奏ではガット・ギターが普通で、エレクトリック・ギターは珍しいと思うが、ジベリーニはまったく違和感なくこなしていて、ジム・ホールを彷彿とさせる柔らかく広がる音色が全体を支え、カシーニの歌声、コニッツのアルトサックスの音色ともよく調和している。このCDではコニッツがアルトに加えて、なんと2曲スキャットで(!)参加している。このコニッツのヴォーカルをクサしているネット記事を見かけたことがあるが(このCDを聴いていた人がいるのにも驚いたが)、私は「悪くない」と思う。うまいかどうかは別にして、録音当時73歳にしてリズム、ラインとも実に味のある ジャズ” ヴォーカルを聞かせていると思う。まず「歌う」ことがコニッツのインプロヴィゼーションの源なので(自伝によれば)、歌のラインは彼のサックスのラインと同じなのだ。半世紀前のカミソリのように鋭いアルトサウンドを思い浮かべて、カシーニをサポートするたゆたうような優しいサックスとヴォーカルを聴いていると、過ぎ去った月日を思い、まさにサウダージを感じる。