昔は雑誌を含めてジャズに関する本はたくさん出版されていた。大方のジャズファンは、ジャズのレコードを聴きながら、セットでそれらの本を読むのを楽しみにしていたので、私もそうだが、今でも本棚の中に雑誌の特集号を含めて数多くの昔のジャズ本が並んでいる人が多いのではないかと思う。これらは大ざっぱに分けると、(1)ジャズ史やミュージシャンの伝記類、(2)有名レコード(名盤)、有名ミュージシャン紹介と著者の分析・感想、(3)ジャズの「聴き方」の類、(4)ジャズという「音楽そのもの」について考え、語る評論、という4つの形態があったように思う。加えて、ここにジャズとオーディオ、録音との関係を語った本がある。当然だが、これは大体歴史順にもなっていて、まずは啓蒙書、教養書のような(1)で基本的なことを学習し(60-70年代)、実際のジャズを聴こうと(2)で数多くの音源、レコードの存在と内容を学び、聴き(主に70年代)、もっと深く楽しむために(3)でジャズとミュージシャンたちをどう聴いたらよいかを学び(70-80年代)、(4)でさらに深くジャズという音楽全体を理解し、考察する(80-90年代)というように、時代ごとの日本のジャズシーンと聴衆の在り方を反映したものになっている。(ただしジャズを政治思想と結びつけて語る本も70年代にはあったが、それらは音楽書としては除く。)こうして見ると、真面目な日本のジャズファン(聴き手)は、何十年もずっと知識を吸収し学習していたかのようである。つまり学習しないとよくわからないのが日本におけるジャズだった、とも言えるし、本来「場」の音楽だったジャズのライヴ演奏そのものが日本では少なかったために、演奏現場と乖離した、レコードを通した芸術論や抽象論が常に優位に立ってきた歴史を表しているとも言えるのだろう。
昨年2017年は「ジャズ(録音)100年」キャンペーンやモンク生誕100年ということもあって、私のモンク訳書を含めて、珍しく多くのジャズ本が出版されたようだ。モンク訳書は伝記だが、モダン・ジャズと人間としてのミュージシャンの真実と魅力を史実に即して描いたもので、他にいくつか出版された日本のジャズ史に関する本と共に(1)に該当するだろう。その他の何冊かの新刊書に共通しているのは、70年代のフュージョン以降混沌として連続性が失われ、わかりにくくなったジャズ史を一度整理し、現代のジャズの実態、今後のジャズの行方を知りたいという、ジャズに関心はあってもよく知らない若い人たちのニーズを特に見据えた企画だろう。これらは主として (2) のレコード情報 と、(3) のジャズの聴き方に分類できるだろうし、いつの時代にも一定数の読者が存在してきた分野である。一方、近年の売れ筋書籍の特徴はジャズ本というより「ジャズ教則本」の増加だ。アメリカでも日本のamazonでも、ジャズ関連書籍ランキング上位にはこうした教則本の類が並んでいる。前にも書いたが、今はジャズを “聴くだけ” の人が減り、“演奏もする” 人が非常に増えていることが背景にある。素人がカッコ良さと演奏技術の高度さを求めて、ポピュラー音楽の演奏自体を突き詰めて行くと、最後は結局、和声やコード進行で理論化されたジャズに行き着いて、“ジャズっぽい” 演奏を指向するものなので、これは当然の動きだろう。特にいちばんポピュラーで手っ取り早いギターにその傾向が強い。教則本もジャズ教室も昔は数が限られていたものだが、今は教える人や書く人も増えて、いくらでもあるし、ネット動画を併用した教則本も大人気だ。「みんなでジャズを演ろう」という時代である。
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東京大学の
アルバート・アイラー
2009 文芸春秋 |
だがこの傾向に “はずみ” を付けたのは、2000年代に入ってからだが、10年ほど前に書かれた菊地成孔・大谷能生両氏によるジャズ生成の歴史と基本体系を、具体例を入れながら語った一連の著作(『東京大学のアルバート・アイラー』他)ではないかと思う。ジャズ理論や楽譜による講義ではなく、プロのジャズ奏者の立場から音楽としての “ジャズの総体” を語った初めての本格的ジャズ本であり、上記(1)から(4)のジャズ本にはなかった視点で興味深く、かつわかりやすく書かれている。「聴く」ジャズから「演る」ジャズに潮流を変えた転機となったとも言える本であり、この本に触発され、ジャズをずっと身近に感じ、演奏することに向かった人たちも多かったのではないだろうか。それと同時に聴く側ではなく、ジャズ・ミュージシャン側がモノを書き、発信するという流れの始まりでもあった。山下洋輔氏の著作は別として、それ以前は、プロ・ミュージシャンとは音で勝負する存在であり、言葉や文章ではない、という暗黙の前提が世の中にあったからだろう(だが、彼らは本来、概してお喋りな人たちなのだ)。それから10年、今やレコード情報はもちろんのこと、ネット上では私のようなド素人の駄文からプロのジャズ・ミュージシャンまで、世界中であらゆる言説やコメントが洪水のように日夜乱れ飛ぶ時代となった。単行本、雑誌、ネットという伝達形態にもはや境界はなく、今や情報それ自体には大して価値も希少性もない。処理し切れないほどの大量の情報がネットを中心にしたあらゆる媒体に溢れ、コピペとリツイートの氾濫で同じ情報があちこちで飛び交い、その場限りの気の利いた刹那のコメントと、その反応だけにみんなが一喜一憂している。まるで「洞察」や「思考」という言葉があることすら知らないかのようだ(本当に知らないような気もする)。ついには字を読むのすら面倒になって、今は写真や動画など、ひと目でわかるヴィジュアル情報全盛である。何でも早くて短けりゃ良い、というものでもなかろうと思うが、しかしこうなった以上、もう後戻りはできないのが人間だ。
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ジャズを放つ
細川周平・編
1990 洋泉社 |
一方、もっと昔のジャズ本の中には、今となっては知識情報以上の価値がないものもあるが、特に(4)の「ジャズを考える」というジャンルには、今読んでも興味深く優れた内容の本もある。というか、今では到底書くのが無理だろうという内容の本だ。これは情報の量やその新旧とかいう問題ではなく、思考の量と質の問題だ。いくら新情報を積み上げたところで、思考の深度を補うことはできない。特にバブルの終わり頃からその崩壊後に出版されたジャズ本は、瀕死の状態にあった古典的ジャズへの郷愁と諦観、ジャズの未来の可能性を見つけたいという希望、ジャズシーンに喝(カツ)を入れたいという願望がない混ぜになった、非常に微妙で複雑な当時の状況がよく表れている。今や古典だろうが、『ジャズを放つ』(細川周平・編 洋泉社 1990)はその代表とも言える本で、ミュージシャン(クラシックを含む)、音楽学者、批評家、ライター等、20名の各論者の文章を集めたアンソロジーだが、当時のジャズを取り巻く状況が、ジャズの歴史を遡ることを含めて多面的に描かれた、深みがあり、また非常に読んで面白い本だ。私が持っているのは1990年の初版だが、1997年に新版が出ている。やっつけ仕事のような “ムック本” 全盛の今、これだけの陣容で一冊の本をまとめようとしても、もはやライターそのものの数が足らないだろう。もうジャズを、というより、音楽を聴いて、理屈をこねまわすような面倒くさいことをする人も、それを読む人もいなくなってしまったのだろうと推察する。
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ジャズ・ストレート・アヘッド
加藤総夫
1993 講談社 |
『ジャズ・ストレート・アヘッド』(加藤総夫 講談社1993)は、アマチュアだがビッグバンドでピアノを弾き、編曲も担当していたという加藤氏が雑誌等に書いた80年代後半からの論稿を集めた本で、「奏者」という視点を入れて書かれた初のジャズ本かもしれない。それ以前は、ジャズ批評は主に聴き手側の印象論だけで書かれていたものだが、楽理や演奏体験を踏まえた奏者の側からの視点でジャズの限界と可能性を論じたもので、特にデューク・エリントンの深い研究から生まれたモンク論を含めた独自のジャズ解析と言説は、当時は非常に新鮮で刺激的だった。氏は同時期にもう一冊『ジャズ最後の日』(洋泉社 1993)という同種の本も出していて、こちらも面白い。ただ難点は、従来の印象論を打ち砕こうとする意識が強かったのかどうかはわからないが、あまりに明晰で、独特の屈折した文体は(バブル時代の風潮とも関係しているのか?)、読んでいるうちに段々と追い詰められて、“ジャズ・アンドロイド” に上から説教されているような気がしてくるところだろう(私だけかもしれないが)。加藤氏はその後ジャズからは足を洗い、現在は本業であるお医者さんに専念しているようだが、この30年近く前のジャズの限界と近未来の姿を予見した論稿と、現在のジャズの姿を見比べて、どう思われているだろうか。
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ジャズ解体新書
後藤雅洋対談集
1992 JICC |
もう1冊は、今やジャズ界の重鎮とまで言われているジャズ喫茶「いーぐる」店主の後藤雅洋氏の対談集『ジャズ解体新書』(JICC 1992)だ。ジャズ喫茶店主の書いた本は後藤氏を含めて当時たくさん出版されていて、私も大部分読んでいたと思うが、ほとんどは基本的知識、レコードとミュージシャンに関する個人的感慨や意見を述べたものだった。とはいえ、聴き込んだジャズレコードの枚数は、みなさん全員が一般のジャズファンの比ではないし、宣伝臭いジャズ雑誌の論評とは違う、それぞれ個性的な聴き方は大いに参考になり、また楽しんだ記憶がある。後藤氏のこの対談本は、油井正一氏、ピーター・バラカン氏、上記の加藤氏、細川周平氏の他、佐藤允彦氏のようなジャズ・ミュージシャンなど、対談相手が多彩で、ジャズを巡るそれぞれの対話の内容が非常に面白い。油井氏との話も傑作だが、特に加藤氏や佐藤允彦氏などの奏者側と、聴き手側のプロとも言える後藤氏とのやり取りが興味深い。加藤氏とはすれ違ったままで終わった感があるが、奏者側と聴き手との対峙という見方もできるし、ある意味ジャズの本質と深く関りのある問題を論じている。またピアニスト佐藤允彦氏とのインプロヴィゼーションを巡る対話は、よくある来日ジャズ・ミュージシャンとの軽いインタビューとは異なる深みと面白さがあり、私の訳書「リー・コニッツ」の対話世界とも通じるものがあって、もっと長い二人の対話が読みたかったほどだ。日本には、こうしたジャズ演奏者の内面に切り込むような内容を持った本や対談は、この本以前も、後もないように思う。
一つ残念に思うのは、たとえば米国のナット・ヘントフや、ラルフ・J・グリーソン、ホイットニー・バリエットのように、音楽としてのジャズ批評眼だけでなく、人間としてのミュージシャンに対する愛を感じさせ、演奏の背後にある社会や人間の深い世界を読み解く力と、それを読者に伝える能力を有する批評家やライターが、日本にはついに現れなかったように思えることだ(私が知らないだけかもしれないが)。音楽としての歴史の長さと厚みの違いと言ってしまえばそれまでだが、演奏現場と聴き手が、歴史的にも文化的にも密接に結びつくという伝統が浅く、輸入音楽をレコードを通じて理解・吸収するのがまずは第一という、日本古来の海外文化受容の形態から来る特性でもあり、ジャズ・メディアの性格ともども宿命的なものなのだろう。しかしどの国であろうと、良い聴き手のいない音楽は、結局良い音楽とはならない。時々勘違いしている人がいるが、ジャズ演奏ができる人が必ずしもジャズの良い聴き手とは限らないのだ。ジャズに限らず、あらゆる芸術がそうだが、鑑賞・批評は創作とは別の感性と能力を必要とするからだ。だから演奏現場と音楽情報双方でジャズがかつてなく拡散し、音楽としての垣根も低くなり、さらに演奏者の裾野さえも広がってきたこれからは、ジャズの歴史を知り、理論と技術を理解し、かつ優れた感性と分析力を備えた新しい時代の作家や批評家が出現して、ジャズの本当の魅力を広く、わかりやすく伝えていって欲しいものだと思う。(ただし、その音楽をずっと ”ジャズ” と呼ぶかどうかはまた別の話だろうが。)