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2020/09/04

あの頃のジャズを「読む」 #7:日本産フリー・ジャズ(山下洋輔)

ジャズ・ミュージシャン側が1970年代にどう考えていたのか、ということにも興味が湧くが、今と違って、当時はジャズを演奏する側が自分で書いたものを発表すること自体がほとんどなかった。つべこべ言わずに演奏家は音楽で勝負する、というのが暗黙のルールだったからなのだろう。その例外が山下洋輔と高柳昌行というフリー・ジャズの演奏家だ。しかし、アメリカではコルトレーンに続くアイラーの死(1970)でフリー・ジャズの時代がほぼ終わり、日米ともに商業音楽フュージョンがジャズ・マーケットの主流になり、ヒノテルやナベサダを除けばレコードを中心に1950/60年代のジャズがまだ人気だった当時の日本のジャズシーンで、「同時代のジャズ」と文字通り本気で格闘しながら、何か発信したいと思っていたのは、当時はジャズメディアからもほとんど無視されていた日本のフリー・ジャズ演奏家たちだけだったのかもしれない。

風雲ジャズ帖
山下洋輔
1975/1982 徳間文庫版
日本におけるフリー・ジャズの代表的演奏家の一人で、かつエッセイストが山下洋輔 (1942 -) だが、1960年代前半から、高柳昌行の「銀巴里」での実験的セッションに富樫雅彦たちと参加していた頃は、まだ主にバップ系の普通のジャズを演奏していた。60年代半ばにはフリー・ジャズ的演奏も始めるが、その後一時的に病気療養した後の1969年に、第1次山下トリオ(森山威男-ds、中村誠一-ts)を結成してフリー・ジャズ一本に転向し、演奏活動を続けながら、70年代半ば以降になって『風雲ジャズ帖』(1975 音楽之友社)、『ピアニストを笑え!』(1976 晶文社)他の本を矢継ぎ早に出版した。私はほぼ全部を読んでいたが、内容の面白さ、質の高さもさることながら、何よりその文才にびっくりした。本を書き、出版したジャズ・ミュージシャンは山下洋輔が初めてだと思うが、それまでのジャズ評論家と呼ばれる人たちが書いたものとはまったく違う、スピード感とジャズ的ビートに満ちた文章は読んでいて本当に面白かった。ジャズ・ミュージシャンとはエモーション一発で動く人たちばかりだと当時は思い込んでいたので(失礼)、ユーモアに満ちたエッセイと共に、知的で明晰な文章を書く山下洋輔を知って、まったくイメージが逆転したのを覚えている。海外のフリー・ジャズ・ミュージシャンたちを見てもそうだが、本物の知性と音楽的技量がないと、あの時代に本気でフリー・ジャズなどやれないのである。

初エッセイ集である『風雲ジャズ帖』は、1970年代はじめから山下が雑誌等に寄稿したエッセイや対談を編纂した本で、山下のエッセイの他に、グループのメンバーや、筒井康隆(作家)、菊地雅章(ジャズ・ピアニスト 1939-2015)などとの対談も収載されている。中でも文化人類学者の青木保 (1938-) との<表現>と題された長い対話(初出 1971年 社会思想社)では、あの時代のジャズが演奏者と聴き手にとってどういうものだったのかを語り、またジャズと祭事の文化的類似性について探るなど、非常に奥の深い議論を交わしている。昔から思っていることだが、ジャズ本でいちばん興味深く、読んで面白いのは、本音で自らの考えを語る知的なジャズ・ミュージシャンのインタビューである。またこの本には、当時進路に悩み、しかもピアノが弾けない病気療養中に山下が書いたという『ブルー・ノート研究』(初出 1969年 音楽芸術)という、ジャズにおける「ブルー・ノート」の真の意味を探る、彼の唯一の音楽研究論文も収載されている。これは、近代西洋音楽の音階と和声論だけで、ブルー・ノートを含むジャズという音楽を強引に析することには無理があり、ヨーロッパ的和声とアフリカ的音階・旋律の融和し得ないせめぎあい(アンビヴァレンス)にこそジャズの本質があるという、当時主流だったバークリーを筆頭とするコード(記号化)進行によるジャズの西洋的単純化(システム化)思想に一石を投じた本格的論文だ。そして退院後の1969年に、それまでのジャズ・ミュージシャンとしての悩みのあれこれを払拭すべく、山下は意を決して、ビバップから「ドシャメシャ」のフリー・ジャズの世界へと本気で向かうのである。

DANCING古事記
1969 at 早稲田大学
私は語れるほどフリー・ジャズを聴いたわけではないが(高度成長期の日本の普通のサラリーマンで、規則や秩序を無視、破壊するフリー・ジャズを好んで聴いていた人は少ないのではないかと思う)、個人的分類法だと、当時のフリー・ジャズには体験型の「体育会系」(タモさんは「スポーツ・ジャズ」と呼んでいた)と、観念型の「芸術系」と二通りあったように思う。ジャズは何といってもレコードよりもライヴが面白いのは事実だが、特に体育会系フリー・ジャズはそうだった。山下Gに代表される前者は音を「聴く」というよりも「体験する」、あれこれアタマで考えずに、音に身体を投げ出してその中で全身に音を浴びる、と形容した方が適切な音楽だった。まさに「祭り」に参加するのと同じなのだ。だからそのライヴはわけもなく盛り上がって楽しいときもあって、たまに聴くとスカッとして実に気分が良かった(ただし聴く気力、体力ともに必要だったが)。山下が発掘した若き日のタモリや坂田明が登場したライヴ・コンサートなどは、ハチャメチャでいながらジャズの神髄を感じさせ、本当に面白かった。山下Gの当時のフリー・ジャズの特徴は、フュージョンとは違った意味で、70年代的な「健全性」があり、音楽が明るいことだ。ある意味ロックに通じる高揚感と爽快感があったが、リズムとハーモニーの多彩さ、複雑さ、そして何が起こるか分からないという、パターン化とは無縁の演奏の自由さがジャズならではの魅力だった

ジャズとは「集団による行為」であり、プレイヤー同士が瞬間に反応し、応酬し合う運動競技と同じで、プレイの結果が美や芸術として昇華するならともかく、最初から「芸術」や「作品」を作ろうなどとするジャズはだめだと山下は繰り返し発言し、芸術指向のジャズを否定している。だから「現代音楽的」なジャズになることだけは避ける、というのが全員が音大出のフリー・ジャズ・トリオの約束事だったという。電気の力ではなくアコースティック楽器にこだわり、奏者が生身の行為を通じて楽器を鳴らし、出した音に対して相手も瞬時に即興の音で応じるという「フリー・ジャズ」を思想としてではなく、ジャズが原初的に持っていた肉体を用いた演奏技法(Proto-Jazz)として追求する、というのが山下トリオの基本コンセプトだった。TV番組(田原総一朗・演出)で早稲田全共闘の拠点で学生たちを前にして演奏したり(『Dancing古事記』1969)、防火服を着たまま燃え上がるピアノを演奏したり(『ピアノ炎上』粟津潔 1973) するなど、激しい時代の激しい(?)演奏体験を通して、3人が結果的に到達した表現が、それまでのジャズにはなかった「日本的祝祭空間」だった。そしてこれは、#6で述べたように、70年代のフュージョンの台頭で失われつつあったジャズ本来の始原的パワーの復権という意味もあった。

キアズマ Live in Germany
1975 MPS
第二次山下トリオ(中村→坂田明-as)が1970年代半ばからヨーロッパのジャズ祭に出演し、特にドイツで評価された理由は、(クラシック音楽の伝統という重い足かせから逃れようとしていた現代音楽に、限りなく近づきつつああった)頭でっかちで芸術指向のヨーロッパのフリー・ジャズとは異なる、自由と解放感に満ちた日本的祝祭」という表現上のシンプルさとパワーが、それまでになかった高揚感をドイツの聴衆に喚起し、同時に「日本人のジャズ」という音楽上のオリジナリティ、アイデンティティが、その演奏の中に紛れもなく存在していたからだろう。山下洋輔トリオによる「日本オリジン」のフリー・ジャズは、70年代を通じて、メンバーを変えながら異種格闘技やアメリカ乱入などの欧米訪問を含めて1983年まで14年間も続き、初めて「日本人のジャズ」を世界に認知させた。これは山下Gだけが成し得た功績である。山下トリオの音楽は、その演奏コンセプトからしても、基本的に現場で聴くライヴだからこそ価値があるものと言えるが、ドイツでの『キアズマ』など、当時のその「音」を捉えた記録としてのレコードも、2次的な体験になるがやはり一聴に値する。

ジャズの証言
山下洋輔 相倉久人
2017 新潮新書
その山下洋輔が「師匠」と呼ぶ相倉久人と何度か行なった未発表の対談記録を、2015年に相倉が亡くなった後、書き起こして発表したのが『ジャズの証言』(2017 新潮新書)だ。山下の音楽とその思想の背景を幼少期から辿りつつ、日本のジャズ黎明期から70年代の独自のフリー・フォーム形成に至った経緯を中心に、相倉の質問に山下が答える形式で構成した対談である。60年代の初期の活動に始まり、70年代から80年代初めにかけてのフリー、トリオ解散後のソロ活動、80年代末から現在まで続くニューヨーク・トリオ、その間のクラシック音楽との接近、さらには2007年の日本におけるセシル・テイラーとの共演に至る、山下洋輔のジャズ思想形成と実践の経緯が、様々な角度から述べられている。本書で山下は、1960年代初めからの相倉の言辞が、ジャズ・ミュージシャンとして進むべき道を決めるための刺激となり、指針にもなったと繰り返し語っている。この対談を読んで感じたのは、二人が知性、生き方、美意識、表現手法という点で、そもそも共通の資質、価値観というものを持っていたように思えることだ。だから二人の出会いは、双方の人生にとって幸運なものだったのだろう。

また当時、日本的な空間美を意識した「芸術系」フリー・ジャズの最重要ミュージシャンだったのが天才ドラマーの富樫雅彦(1940 -2007)だ。「銀巴里」セッションをはじめ、相倉久人と一緒に行動していた1960年代の富樫雅彦と山下洋輔の関係はあまり知らなかったのだが、本書には同じようにフリー・ジャズの世界を指向しながら、二人が結果的に別々の道を歩むことになった経緯も書かれている。富樫は佐藤允彦(p) と共演するなど絶頂期だった1970年に不幸な事故に会い、下半身不随という後遺症と向き合いながら、その後パーカッショニストとして復活して数多くの名演を残した。また70年代半ばからは間章 (あいだ・あきら)の仲介を経て、スティーヴ・レイシーなど多くの海外ミュージシャンとも共演してその音楽世界を拡大し、2007年に亡くなるまで演奏活動を続けた。いずれにしろ、相倉の目指した、アメリカのモノマネを越えて、(世界に通用する)日本独自のジャズを創造するというヴィジョンは、表現手法は異なっても、山下洋輔と富樫雅彦という二人の日本人ミュージシャンによって実現したと言えるだろう。近年「和ジャズ」がブームになっているが、日本ならではのオリジナリティを持ち、しかもメジャーな存在として世界に認知された「正真正銘の和ジャズ」と呼べる音楽を創造したのは、間違いなく50年前の山下洋輔と富樫雅彦であり、また当時二人と共演した日本人ミュージシャンたちだったと思う。