〈なしくずしの死> への覚書と断片 間章著作集Ⅱ / 2013 月曜社 |
間章のフリー・ジャズのアイドルはエリック・ドルフィーで、60年代末頃から、フリー・ジャズのみならず、ロック、シャンソン、邦楽、現代音楽といった広汎な領域の音楽を対象とした批評活動を行なっていた。スティーヴ・レイシーなど、海外の即興音楽演奏家を日本に初招聘したり、阿部薫の他にも、国内ミュージシャン(近藤等則、坂本龍一など)を発掘、紹介し、演奏の場やイベントを積極的にアレンジするなど、多彩な活動を行なっていたマルチ・オルガナイザーというべき人物だった。間章が書いたテキストは膨大だが、2013年に『時代の未明から来たるべきものへ 間章著作集Ⅰ』(1982年のイザラ書房刊を復刊)と『〈なしくずしの死〉への覚書と断片 間章著作集Ⅱ』、2014年に『さらに冬へ旅立つために 間章著作集Ⅲ』という、計3巻の(真っ黒な)遺稿集が月曜社から出版されている(編集・須川善行)。
これらの本は間章が雑誌、機関紙他で発表した批評文、ライナーノーツ他の多岐にわたるテキストを編纂したもので、まさに間章の脳内世界を集大成したような本だ。音楽と政治、哲学、文学、芸術にまたがる思想が渾然一体となった、熱く重い60/70年代的アジテーション色の濃い文章が敷き詰められている。世界を凝視し、思索する、尋常ではない熱量は確かに伝わってくるが、全共闘世代に特有の文体と長尺な観念的文章を、実用短文SNS全盛時代に生きる現代人が果たして解読できるものか、とは思う。しかしそれらの文章を「じっくりと」読めば、当時の間章が音楽と世界を見つめていた視点と思想の深さが、私のような凡人でも何となく分かってくる部分もある。時代背景ゆえの過剰な表現を間引けば、「音楽」を評価する間章の鋭く的確な眼力も見えて来る。ドルフィー、セシル・テイラー、アルバート・アイラー、デレク・ベイリーなど、ジャズ関連の論稿を中心とした『間章著作集Ⅱ』に収載されている、70年代半ばのスティーヴ・レイシーとの何度かの対談は、穏やかで知的なレイシーが相手ということもあって、この時代のジャズと即興音楽が直面していた問題を語り合う、深く読みごたえのある対話である。
解体的交感 高柳昌行 阿部薫 / 1970 |
29歳で夭折した阿部薫は、もはや伝説となった天才アルトサックス奏者だが、脚光を浴びるようになったのは死後10年以上も経った90年代に入ってからで、その破滅型の人生と天才性に注目した各種メディアに取り上げられた。きっかけになったのは、1989年に出版された『阿部薫 覚書 1949-1978』(ランダムスケッチ) だろう。91年には、テレビ朝日の深夜対談番組『プレステージ』で、蓮舫を含む女性3人の司会という、いかにもバブル期らしい設定と演出で、異形の天才として阿部を振り返っている。制作の意図、背景は不明だが、バブル末期になって、70年代的純粋さ、反抗、退廃を懐かしむ風潮が出て来たのかもしれない。作家(五木寛之、芥正彦)、批評家(相倉久人、平岡正明)、ミュージシャン(三上寛、PANTA、山川健一)に加え、阿部薫が定期的に出演していた2軒のジャズ喫茶のママ(福島「パスタン」、東京・初台「騒 (GAYA)」)と、当時は陸前高田にあった「ジョニー」店主が出演している(この番組は、今でもYouTubeで視聴可能だ。30年も前の放送なので画面の出演者は全員まだ若いが、二人のママさんと相倉、平岡両氏はもう故人である)。番組中、当時は未発表だった、阿部薫が福島「パスタン」で演奏する貴重なライヴ映像も挿入されている。見るからに若い大友良英が、高校時代に初めて聴いたジャズライヴが「パスタン」のその阿部薫だった、と語るインタビュー映像もある。翌92年には、稲葉真弓 (1950-2014) が実名小説『エンドレス・ワルツ』で、阿部薫と作家兼女優だった妻の鈴木いづみ(1949-86)との激しい関係を描き、95年には若松孝二 (1936-2012) が、町田康と広田玲央名の主演でその小説を同名映画化している。
完全版 東北セッションズ 1971 King International |
阿部薫と同じく「攻撃的で孤独な」音を出すギタリスト、高柳昌行との激しい上記デュオ・ライヴのタイトルを『解体的交感』と名付けたのは間章と阿部薫らしい。コンサートのサブタイトルが<ジャズ死滅への投射>であることから、要は1970年前後の時代的コンテキストや、60年代フリー・ジャズ末期という音楽情況を背景に、ジャズ的交感といった従来の概念を意図的に破壊すること、もしくはそれとの訣別宣言だったと解釈すべきなのだろう。「音で人を殺せる」と言っていたらしいが、実際には、阿部薫の音楽は「外部(聴き手)」へとは向かわず、ひたすら自己の内部にしかその音が向けられていないように聞こえる。自分の内奥深くに向けて、何かを語り、叫び、それを送り届けるためだけに吹いているようにしか聞こえない。おそらく、音楽の環が閉じられたそうした「極私的行為」そのものが彼の音楽なのだろう。しかし、阿部薫の「音楽」を理解できる、できないということとは別に、阿部の吹くアルトサックスの音の「速度」や「美しさ」や「叙情」など、彼の「サウンド」から感じる凄みと魅力は、多くの人が認めているし、録音された音源を聴いただけだが、私もそう思う。そこには言葉にできないような美を感じる瞬間があるし、心の奥底を揺り動かす何かが確かにある。阿部自身も、ジャズでも音楽でもなく、「音を出すこと」にしか興味はないという意味のことを語っているので、聴き手が抱くこの感覚はたぶん間違っていないのだろう。しかし残念だが、これも「生音」を聴かないと本当の凄さは分からないだろう。
阿部 薫 1949-1978 1994/2001 文遊社 |
しかしながら、この本を読み通して真っ先に感じたのは、「阿部薫の真実」をもっとも深く理解していたのは、 実は彼を支援し続け、定期的に演奏する場を提供していた東京、福島、札幌、大阪などの「ジャズ喫茶のママたち」ではなかったかということだ。この本にも対談の一部が転載されている30年前の上記テレビ番組をYouTubeで見たときも、まったく同じ印象を抱いた。この番組でも、「男たち」はほぼ全員が「頭や観念」で何とか阿部薫を理解し、語ろうとするが、話がかみ合わず、阿部の本質を掴み切れないようなもどかしさが感じられる(メンバー選定の問題もあるが)。それに対して、出演したジャズ喫茶のママさん二人は、生前の阿部やその演奏から自分がほぼ本能的に感じ取ったことを「自信満々に」語っている。上掲の本に掲載された彼女たちの言葉も、他の店のママさんたちもそこは同じだ。実際に阿部と何度も身近に接してその演奏を生で聴いているし、阿部も彼女たちの前では無防備に、つい本音を漏らしたこともあっただろう。だから説明は必ずしも論理的ではないが、彼女たちが言わんとしていることは何となく分かる。正直言って、「(サックスからは)聞こえない音が聞こえるかどうか…」というような阿部の「シャーマン的」レベルの音と表現による音楽に、頭だけで考えがちな男が「感応」できるわけはないと思った。「言葉で音楽は語れない」とは真実だが、阿部薫の「音楽」は、まさしくそういう次元のものだったのだと思う。だからこそジャンルも時代も超越して、人の心に響く何かがあるのだろう。
阿部薫は、男友だちにとっては面倒で厄介な人物だったかもしれないが、彼の母親や妹(文章に愛情があふれている)、同じく早逝した妻の鈴木いづみ、上記のママさんたちを含めた「女性たち(女神)」からは無条件に愛され、庇護されていた存在だったのだと思う。セロニアス・モンクがそうだったように、世の中には「そういう男」がいるのだ。ブルーノートのロレイン・ライオンやニカ夫人が、誰も見向きもしなかった当時のモンクを即座に理解したように、彼女たちには阿部が自分の音楽を通じて「本当に言いたかったこと」が伝わってきたのだろう。そういう男は無口で謎も多いし、その音楽も簡単には理解されない。だから私は、あり余る知性を持ちながら、無駄なことはあまり口にせず、「音」だけにすべてを託そうとした孤高の音楽家・阿部薫にどこかモンクに通じる何かを感じる。
なしくずしの死/ Mort A Credit 阿部薫 1975 |
「行為としてのジャズ」を信奉し、娯楽としての音楽を超えた何かを、フリー・ジャズあるいは自由な即興音楽の中に見出したり、求めていた当時の人たちには、激しい人生を送った人が多い。阿部薫、間章の二人も、まさに死に急ぐかのように1970年代を駆け抜けた。ジャズがまだパワーを持ち、フリー・ジャズが時代のBGMとしてもっともふさわしかった1960年代という激しい政治の季節が終り、穏やかな70年代になって穏やかなジャズが主流になると、大方のジャズファン(単なる音楽ファン)は難しいことは忘れて専ら快適なジャズや他の音楽を求め、それを楽しむようになった。そうした中で、よりマイナーな存在となった60年代のフリー・ジャズ的思想とパッションを持ち続けていた人たちの行動が、その反動として一層先鋭化したという時代的背景はあっただろう。しかし続く80年代になると、バブル景気に向かった日本では、当然のようにジャズを含む音楽の商業化(大衆化)が益々強まり、70年代までわずかに残されていた、シリアスな芸術を指向する思想や行動には、ほとんど関心が持たれなくなった。しかし商業的隆盛とは無関係に、日本のジャズが米国のモノマネから脱し、真にオリジナリティのある音楽へと進化したのは、70年代の山下洋輔G、富樫雅彦、高柳昌行、阿部薫などに代表されるフリー・ジャズやフリー・インプロヴィゼーションの個性的ミュージシャンたちの音楽的挑戦の結果である。だから日本のジャズが、音楽としてその「内部」で真に熱く燃えた時代は、逆説的だが「フュージョンの70年代」だったと言えるだろう。そして、1978年の阿部薫と間章の死は、戦後日本における「ムーヴメントとしてのジャズの時代」が、実質的に終焉を迎えたことを象徴する出来事だったのだろう。