最近、YouTubeやインスタグラムなどを通じてヴィジュアル情報の発信がいとも簡単になって、素人が普通に「グローバルに」顔を晒すようになったが、それに伴ってますます外見の美醜が特に若者の関心ごとになっている。「外見至上主義(lookism)」は内外を問わずトレンド入りするほどのタームで、昔から整形が当たり前で、とにかく今や、誰が誰やら分からなくなるほど同じような顔の俳優やタレントばかりになった韓国がその代表だ。日本でも、少しの間見かけないと思ったら、顎を削ったりして、すっかり顔形が変った女優やタレントが普通にテレビに登場するようになっているが、昔のように「整形した!」と騒いだり、はやし立てるような雰囲気はもうない。化粧と同じになったわけである。美醜で差別するなという主張は、昔からあったミス何とかという美人コンテストを中止に追い込んだように、当然ながら世界的にあるが、世の中は美人、イケメンの方がやっぱり得だ、というのは誰もが生きていて実感している事実なので、いくら道徳的観点で批判したところで表面的なレベルではともかく、個人の内部の価値観は簡単には変わらないだろう。
男女を問わず美しい異性(とは最近は限らないが)には惹かれるものだ。特に男性にとって「美女を見る」というのは、正直言ってやはり単純に楽しいことなのだ(理由などない)。芸術や芸能でも、同じ歌や演奏を聴いても、美人のアーティストの方につい目が行ってしまうのは如何ともしがたい。昔は朝の通勤電車で美女を見かけただけで、なんだか得したような気分になったものだ。これは良いとか悪いとかいうモラルの問題を超えた、哲学的(生物学的?)問題なのだろう。ただ長年生きて来て、「天は二物を与えず」ということもまた真実であるように思うので(最近は、二物も三物も与えられている人も中にはいるが)、美人、イケメンでない人は、外見に無駄なエネルギーをあまり費やすのはやめて、早く自分の強みと価値を知り、それを生かして明るく生きる道を進む方がいいだろう(私の場合、もう遅いが)。
毎年、年末年始になると、昔の映画を見たり、日本の演歌を聞くのが恒例になっている(理由はよく分からないが、人生も残り少なくなって、そうした映像や歌が過ぎ行く年月を思い起こさせ、どこか郷愁を感じるからなのだろう)。昨年末はコロナのせいで、さすがにあまりそういう気分にはならなかったが、今年は録画を整理中に、夏のオリンピックの時期にNHK BSで放映した藤純子(現・富司純子)の『緋牡丹博徒』(1968年・第1作)をたまたま発見したので、初めて「女性の仁侠映画」を見たのだが、若き藤純子の美しさに驚嘆した。そこで、ついでに(?)今や説明不要の定番、オードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』も見て(何度目か)、加えてストーリーやギャグの面白さが好きだった、台湾の女優ジョイ・ウォンの香港映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』もDVDで見た(これも2度目か3度目)。年末らしく豪華に(?)、日本、イギリス、台湾産の3ヶ国美女3本立てである(国の選択に特別な意図はない)。それぞれの国の美女の風情や喋り、演技、動作などを比較して見ることで、国ごとの美意識や、文化的背景などもいろいろと感じるものがあって面白い。ただしこの3本ともに、女ヤクザ、王女様、幽霊という役回りで、リアルな世界とは異なるファンタジー中の美女であるところがミソだ。
スチャラカ社員 大坂朝日放送 |
鶴田浩二や高倉健の仁侠映画は、当時高校生くらいだった私は興味がなかったので(全共闘の大学生には人気だったらしい)、その後、藤を一躍有名にした『緋牡丹博徒』シリーズ(東映、全8作1968年ー72年製作)も見たことがなかった。今回初めてその第1作(1968年公開カラー映画)をテレビで見たわけだが、なるほど、ある意味でよくできた映画だと思った。ヤクザ映画といっても、後の『仁義なき戦い』や『極道の妻たち』のようにハードボイルドな実録ものではなく、テイスト的にはほぼ伝統的な「仇討ち時代劇」に近い仁侠ものだ。高倉健も友情出演している豪華キャストで、仁義を尊ぶストーリーは古風だが、昔の映画らしく作りが丁寧で映像が美しく、何より「緋牡丹のお竜」役の若き藤純子の物腰や表情などが日本的で、本当に奇麗なのだ(熊本弁というのもいい)。女性を主人公にした映画は、文芸ものなどで、それ以前にもあったのだろうが、こうしたキャラの立った女性主人公は、日本映画ではたぶん初めての例だったろうし、全共闘を筆頭に、既成のモノを何でもぶち壊す時代にあっては、大ヒットしたのも頷ける。藤純子は、その後東映の大スターになり、テレビ番組の司会の他、映画やテレビドラマにも数多く出演した。最近では2016年のNHKドラマ『ちかえもん』で見せた、近松門左衛門のとぼけた母親役が、何となく『スチャラカ社員』時代をほうふつとさせて私は好きだった。
『緋牡丹博徒』の15年も前のアメリカ映画、『ローマの休日』(1953年製作ウィリアム・ワイラー監督作品)は言うまでもなく、何度見てもほのぼのとして、どうしても泣ける永遠の名画だが、とにかくオードリー・ヘプバーン (1929-93) の一挙手、一投足の可憐さ、気品、凛々しさが半端なく、このシンプルなおとぎ話に、これ以上似合う女優はいないだろう。当初はエリザベス・テイラー主演で検討されていたらしいが、グレゴリー・ペックが相手役に決まったことで、当時ほとんど無名だったイギリス人女優ヘプバーンが初主演することになったという。ローマの名所めぐりのようなこの映画で、本国アメリカだけでなく、世界中にローマという都市の素晴らしさを映像で知らしめたのも大きな功績だったろう(私も初めてローマへ行ったとき、2千年も前の石造建築物が、普通に現代の街中のあちこちに残されているのを見て、話には聞いてはいたものの、本当にびっくりした)。その名所の一つ「真実の口」にペックが手を突っ込むあの有名なシーンは、ペックのアドリブ演技にヘプバーンが本気でびっくりした「素の反応」だったという。予算の制約でモノクロ映像になって、カラーで撮れなかったことをワイルダー監督はずっと悔やんでいたらしい。確かにあの美しいオードリー・ヘプバーンがローマ中を動き回る数多くの名シーンをカラー映像で撮っていたら……とは思うが、むしろモノクロの画面が、逆に作品にある種の懐かしさと温かみを与えていると言えるのかもしれない。それほどこの映画には、あの時代のアメリカ映画なのに、どのシーンにも、どこかイタリア映画的な懐かしさと温かみが感じられて、心が癒される。
ちなみに今はすっかり有名になっている話で、普通の辞書にも書いてあるが、原題『Roman Holiday』とは、「ローマ人の」休日であり――奴隷たちを戦わせて見世物にし、それを見物していた古代ローマ人の娯楽、という意味だという(文字通りの「ローマの休日」なら、たとえば「A Holiday in Roma」)。このタイトルは、真の原作者で、当時マッカーシーの赤狩りの標的にされて投獄された共産主義者の作家ダルトン・トランボ(1905-76)という人の脚本に込められた、アメリカという享楽的な資本主義国家に対する皮肉だったと言われている。しかし、恋をあきらめて国家への忠誠を選んだ王女ヘップバーン、恋を餌にスクープを取ろうとしたものの、王女の純真さと可憐さに、その野心を捨てた男らしい新聞記者ペック、というある意味、実にアメリカ的な純愛エンディングが、この作品を永遠の名画にしたのだろう。この映画でアカデミー主演女優賞を獲得したヘプバーンは、その後『麗しのサブリナ』(1954)、『ティファニーで朝食を』(1961)などのヒット作を連発して、その美しさに一層磨きをかけた。
『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』は上記2作とはまったく時代が違い、1987年に公開された香港映画で(原題:倩女幽魂、英題:A Chinese Ghost Story)、主役のレスリー・チャンと共演したジョイ・ウォン (王祖賢 Joey Wong) は台湾出身の女優だ。中国怪異文学の最高峰と言われる、清朝時代の小説集『聊斎志異』(りょうさいしい)中の一編『聶小倩』が原作で、1960年に香港で映画化されたが、それをリメイクしたものだという。集金の仕事で旅をする書生が、一夜の旅の宿にした古寺に出没する女幽霊と恋に落ちて――という話で、その後続編や、再リメイク作品が数多く作られるなど、大ヒットした映画だった。香港映画はどれも経費はあまりかけていないが、スピード感があって軽やかで、ユーモアがあり、金より知恵を絞ったエンタメ映画を作るのが得意だった。この映画も香港映画ならではのアクション場面や、全編に散りばめられた小ギャグが笑えて私は好きだ。古寺のゾンビのギャグや、前年のエイリアン2へのオマージュ(パクリ?)のような妖怪SFXも楽しめて、かつ大いに笑える。女幽霊役の当時20歳くらいだったジョイ・ウォンは、美人なだけでなく、妖艶でありながら、日本的な “はかなげな” 風情が普通の中国系女優にはない魅力だ。ジョイ・ウォンも、藤純子やオードリー・ヘプバーンと同じく、この映画の大ヒットでアジアでも有数の女優になった。彼女自身は引退して今はカナダへ移住しているらしいが、香港そのものが変わってしまった今、自由で独創的なアイデアで、こういう面白い映画をたくさん作って一時代を築いた香港映画人たちはどうしているのだろうか?