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ジャズの歴史物語 2018 角川ソフィア文庫 |
1970年代になると、安価な国産アナログLPレコードが大量に流通するようになり、オーディオもレコードも買えるようになったジャズファン層向け市場が大きく成長していた。ジャズ雑誌には「ジャズ評論家」と呼ばれた人たちが書いた、毎月各社から大量に発売される新譜レコード(復刻盤含)、名盤の解説やレコード評が掲載されていた。当時は他に情報源がなかったので、普通のジャズファンは、まずそれらのレビューを参考にして、気に入りそうなレコードを選んで購入していたわけである。当然だが、市場拡大につれ、レコードを売りたいレコード会社と、その広告を主たる収入源としていたジャズメディアとの間に、商業主義が忍び込む構造が益々強まった。1960/70年代の有名なジャズ評論家としては、野口久光、植草甚一、いソノてルヲ、大橋巨泉、油井正一、相倉久人、久保田二郎、粟村正昭、岩波洋三、大和明、佐藤秀樹、岡崎正通のような人たちがいた。これら評論家の中には、単なるレコード評、ミュージシャン評にとどまらず、ジャズという音楽全体を俯瞰する視点で書いた本格的な論稿、書籍を発表する人たちもいた。当時の「本流」と言うべき代表的批評家が、モンクやパーカーと同世代であり、同時代の音楽としてジャズと向き合ってきた油井正一(1918 - 98)である。ジャズの基本知識を分かりやすく軽妙に解説している油井の代表作で、今や古典と言うべきジャズ入門書『ジャズの歴史物語』(1972 スイングジャーナル社)は、3代目となる角川文庫版が2018年に出版され、半世紀近く読み続けられている名著だ。
一方、大正生まれの油井より一世代ほど後、昭和一桁生まれの相倉久人(あいくら・ひさと 1931 - 2015)は、1960年代の「前衛」を代表する批評家であり、単なる批評家に留まらず、日本独自のジャズ創出に注力した「ジャズ思想家」と呼ぶべき人物でもあった。当時のジャズ評論家が、レコード・コレクター、元ミュージシャン、デザイナー、作家、ジャズ誌編集者などの前歴や本業を持っていたのに対し、戦争末期(1945)の中学時代に難関だった陸軍幼年学校を受験し、合格、入学するも、わずか4ヶ月後に終戦を迎え、その後東大文学部美学科に入学したが、ジャズに夢中になってジャズ喫茶に入り浸って大学を中退、その後雑誌編集の手伝いをしたのがジャズ人生の始まり……という変わり種だった。楽器を演奏せず、レコードもレコードプレーヤーも持たず、当時有楽町にあった「コンボ」というジャズ喫茶だけが主な情報源で、大橋巨泉やいソノてルヲ、銀座のクラブへ出演する途中に同店へ立ち寄っていた秋吉敏子や渡辺貞夫をはじめとするジャズ・ミュージシャンたちとも交流していた。やがて60年代になると、高柳昌行たちの実験的ジャズ演奏現場に直接関わるようになり、そうした体験を通じて自らの目と耳を鍛えることで、独自のジャズ観と思想を作り上げていった。
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相倉久人ジャズ著作大全
上巻/2013 DU BOOKS |
前に触れたように、私が1970年頃に初めて買った相倉久人のジャズ本『現代ジャズの視点』(1967)は、ジャズ初心者には難しすぎて面白くも何ともなかったが、今は多少は分かるようになった同書と、初の単行本『モダン・ジャズ鑑賞』(1963) に加え、1954年の初の記名論稿を<上巻>に、『ジャズからの挨拶』(1968) と『ジャズからの出発』(1973) という後期2作を<下巻>に収め、1954年から70年代初めにかけて発表した単行本4部作を完全収載し、相倉の最晩年になって出版したのが『相倉久人ジャズ著作大全』(上/下巻、2013 DU BOOKS)である。ジャズをより深く理解したいという人向けの本であり、歯ごたえのない「薄い、軽い、速い」という本ばやりの昨今だが、相倉が20年近くにわたって様々な媒体に寄稿した文章を編纂した、この「分厚く、濃い」<上/下2巻>をじっくりと読めば、ジャズとは何か、日本のジャズ史がどのようなものだったのか、そのほぼすべてが表層ではなく「より深いレベルで」理解できる。ジャズという音楽の歴史、ジャズをどう聴くか、なども通り一遍の解説ではないし、相倉がほぼリアルタイムで聴いていた60年代のコルトレーン、マイルス、ロリンズ、ミンガス、ドルフィー他に関する分析と批評も実に深く鋭い。さらに当時は誤った、あるいは曖昧な理解が多かったレニー・トリスターノ、セロニアス・モンク、セシル・テイラー等に関する論稿などは、あの時代の日本に、ここまで深く、的確に彼らの音楽の本質を理解していた批評家がいたのか、と驚くほど洞察力に富むものだ。
私がジャズに熱中した70年代には、相倉久人という名前をメディア上で聞くことはほとんどなくなっていた。理由は1971年に相倉が完全にジャズ界を去り、しかも60年代半ばに思想対立のために絶縁した「スイングジャーナル」誌が完全に相倉の存在を無視していたからだろう。しかし、1960年代という「政治とジャズの時代」に、もっとも熱くジャズと向き合い、独自の批評を展開していたのは相倉久人だった。ただし、その主対象は海外ミュージシャンのレコードや、50年代から既に表舞台にいた有名日本人ジャズマンというよりも、当時、日本独自のジャズを創造すべく地道に挑戦していた一群の若いジャズ・ミュージシャンと彼らの演奏活動にあった。自分でもジャズを演奏したかったが、楽器ができないので、やむなく「言葉」でジャズに関わった、と繰り返し述べているように、相倉にとってのジャズは娯楽ではなく、本ブログ#4までに書いたようなジャズレコードを集め、それを再生して楽しむ普通のジャズの聴き手の世界とは無縁だ。ジャズとは、レコードの音溝に記録された死んだ音楽ではなく、常に生きて動いている「行為」そのもののことであり、聴き手も鑑賞ではなく同時に参加する音楽だと捉えていた。60年代の著作を読めば分かるが、当時の相倉久人ほどストイックな深い視点で「ジャズとは何か?」という問いに対峙した「批評家」は、後にも先にも日本にはいないと思う。
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相倉久人ジャズ著作大全
下巻/2013 DU BOOKS |
1950年代から続く、アメリカのコピーが主流だった日本の商業的ジャズに飽き足らず、60年代初めにシャンソン喫茶「銀巴里」を拠点に、日本独自のジャズを生み出そうと模索し始めていた高柳昌行(g) や金井英人(b) 等の実験的ミュージシャンたちに加わった相倉が、やがて銀座「ジャズギャラリー8」や新宿「ピットイン」などのクラブで司会を務めつつ、山下洋輔、富樫雅彦といった当時新進のジャズ・ミュージシャンたちと交流し、彼らを理論的に導き、精神的に支えながら現場に関わり続けた経緯も本書に詳しい。「司会とは<言葉>によるジャズ演奏行為だ」というのが持論で、セロニアス・モンク(1963年)やジョン・コルトレーン(1966年)、さらにオーネット・コールマン(1967年)の初来日公演という、日本ジャズ史に残る記念すべき大イベントの司会進行も、30代の若さでいながら当意即妙の話術(インプロ)でこなした(全東京公演の司会をしたモンクを銀座に案内したが、予想通りほとんど会話はなく、その代りに一緒に来日していたネリー夫人、ニカ夫人と楽屋で会話したらしい)。加えて<下巻>には、相倉がジャズから離れていった70年代初めの、ロックやフォーク、演歌や歌謡曲というジャンルへの関心の高まりを示す初期の批評文も収められている。特に日本の歌謡曲の歌詞とメロディ、それを唄う青江三奈、北島三郎、藤圭子といった名歌手の「うた」とは何かに触れた文章は非常に興味深く、「日本のうた」の世界を、ジャズの理解と同じく原点から見直し、独自の視点で観察、分析する音楽評論はそれまでの日本にはなかっただろう。そこに洋の東西を問わない相倉の音楽思想の根幹が見えるようだ。そしてこれらが、70年代以降ジャズを離れた相倉のポピュラー音楽批評活動の出発点となった。
自らを「宇宙人」(!
?) と称し、鋼鉄のようにクールで強靭な思想と理論で武装し、既成概念にとらわれず、権威に媚びず、徒党を組まず、60年代を通じてブレることなく独自のジャズ批評の世界を追求したのが相倉久人だった。血気盛んだった60年代半ばには、権威を振りかざす当時の「スイングジャーナル」編集部と喧嘩別れし、その後も武田和命や日本のフリー・ジャズに批判的な同誌の姿勢と対決するなど、権威や商業主義とは常に一線を画して批評活動を続けた。ジャズとは、あくまで「奏者と聴衆による共同行為」であると捉え、その「場」から生じる音楽エネルギーが相互にどう伝達され、そこに何が生じるのかという「力学」をチャート化し、物理学者のようにクールに分析する60年代の相倉久人のジャズ論は観念的かつ抽象的で難解だ。レコードや紙上の情報だけではなく、実際の演奏現場で鍛えた「プロの聴き手」相倉の思想を、ポピュラー音楽として、あるいはレコードで聴くジャズが一般的だった当時のメディアや普通のジャズファンがどこまで理解し、共感できたかは確かに疑問だ。当時ジャズ演奏の楽理やメソッドを真に理解していたのは、限られた数のプロ・ミュージシャンたちだけだった時代である。娯楽として「レコードを聴くだけ」の素人に至っては、素晴らしいジャズの即興演奏が、まるでマジックとしか思えないように聞こえた時代なのだ(私もその一人だった)。「音楽を語る」と言えば、ほとんどテクニカルな分析ばかりになった現代から見たら、信じ難いほどディープな議論を当時の相倉は提示していたわけである。
しかし「言葉による批評」をジャズ演奏行為と同一視する相倉の文章を今になって読むと、当時の時代背景や文脈なしには理解できないような言説を唱える人間が多かった中で、相倉の言葉には、それらを捨象しても何の問題もなく理解できる、時代を超えた普遍性があるのだ。現代の感覚からすると、政治の時代だった60年代的左翼フレーバーが濃厚に感じられることは否定できないし、一部論稿には「革命云々」といった過激な60年代的タームも多用されているが、当時の相倉に自ら政治活動に関与する意図はなく、ジャズという音楽がその出自のゆえに本質的に内包する属性(反体制的精神)が、ブラック・パワーやスチューデント・パワーが噴出していたあの時代の精神と激しく反応し共鳴している、ということを指摘しているだけだ。(そして、時代を先導し、時代の気分を象徴する音楽と言われていたジャズを、時代がついに追い越してしまったと相倉が感じたのが1970年前後だった。)ジャズという音楽の表層ではなく、歴史的視野を踏まえてその本質を捉えるという点で、相倉久人に並ぶ論客はいなかった。常に音楽社会学、音楽文化論的視点でジャズを見渡し、独自の美学と理論で貫かれた知的で骨のある文章を読み通すのは簡単ではないが、こうした論理的で硬質な文章を書くジャズ批評家は当時の日本には他に存在しなかったし、今もいない。相倉久人の60年代ジャズ思想を網羅した「ジャズ著作大全」は、油井正一の名著と並んで、日本のジャズ書アーカイブの筆頭に置かれるべき本だろう。
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至高の日本ジャズ全史
2012 集英社新書 |
ジャズを離れた相倉久人は、晩年の2000年代になってから、何冊か回顧録的なジャズ本を出版している。ほとんどは上記「大全」からのダイジェスト的内容で、その一冊『至高の日本ジャズ全史』(2012 集英社新書)は、特に戦後から1960年代にかけての日本独自のジャズ形成史に焦点を当てて、批評家としての相倉の視点からあらためて振り返ったものだ。オビの文言は大仰だが、日本ならではの「国産ジャズ創出」への当時の熱気が伝わってくるような裏話がたくさん書かれている。有楽町「コンボ」と横浜「モカンボ」を結ぶ、ビバップ時代の守安祥太郎、秋吉敏子、ハンプトン・ホーズ他、もう名前も知らない人が大部分だと思われる実に多彩なジャズ・ミュージシャンたちの逸話と、その後60年代に日本産のジャズ創出を目指した前衛的ミュージシャンたちの活動など、その渦中にいた相倉ならではの観察と分析が興味深い。巻末には、山下洋輔を挟んで相倉の孫弟子のような存在でもある菊地成孔との、お喋りな自称・死神同士(?)による70年代以降のジャズを俯瞰する面白い対談も掲載されている。
ところで、元々はアメリカ生まれのジャズだが、「アメリカのモノマネではないジャズを」、「純国産かつ本物のジャズを」という、相倉久人や高柳昌行といった前衛指向の人たちが1960年代になって描いたという「ジャズの土着化」ヴィジョンが、当時のソニーやホンダのような日本企業が掲げていた目標と「同質」であるところが個人的には非常に興味深い。これもまた、60年代の進歩的、左翼的政治思想と共に、当時の日本全体を覆っていた「時代の空気」の一部だったのだろう。この本の中で、共同で演劇とジャズの融合を試みていた紅テントの唐十郎が、相倉久人のことを、先頭に立って組織を引っ張るタイプではなく、組織形成を促す「触媒のような人物」だと評した、という話が出て来る。相倉久人の本質は、自由を好み、あらゆる権威や支配/被支配を嫌うアナーキストであり、人を巻き込むオルガナイザーというよりも、新たな「こと」や「人」を生み出す環境を醸成し、そこに創造の喜びを見出すインキュベーターだったのだと思う。つまり人物そのものが「ジャズ的」だった。相倉を師匠と呼んだ山下洋輔が、その後の日本ジャズ界でどのような役割を演じてきたのかを見れば、アーティストを見極める相倉のインキュベーターとしての先見性がよく分かる。
60年代を通じてジャズ批評家として行動していた相倉だったが、もっとも期待をかけていた山下洋輔が1969年にフリー・ジャズのトリオを発足させ、目指していた日本オリジンのジャズを実現し、活動が軌道に乗りかけたと判断すると、「言葉」によって日本のジャズを孵化(incubate) させ、テイクオフさせるという自分の役目はもう終わった、と語って1971年にジャズ界からさっさと足を洗う(理由はもちろんそれだけではない)。その後は前衛映画制作に関わったり、ロック、ポップス、歌謡曲という異ジャンル音楽の批評家へと転身し、レコード大賞審査員やヤマハのコンテストの審査委員長を務める……など、あくまで「単独で」音楽ジャンルをクロスオーヴァーしてゆくこの軽快な足取りは、どう見てもアナーキストである。しかし相倉の盟友でもあった平岡正明のような政治的匂いがせず、しかし単なる批評家でもなく、常に「創作現場」の情況を見渡し、興味を持つと、そこに「行動する批評家」として自ら関わってゆくところが相倉久人なのである。
油井正一と相倉久人という私が好きな二人のジャズ批評家は、60年代から70年代初めにかけて「保守本流」と「前衛」という、いわば対照的な批評活動をしていたが、両者ともに魅力的な人物だった。単なるモノ書きではなく、油井はラジオ放送で、相倉は様々なイベント司会(MC)で、「言葉」を操って場を仕切ってゆくパフォーマーとしての優れた能力があった。しかも二人とも、本やラジオでの対談で分かるように、深い知識と教養がありながら偉ぶらず、飄々としていて会話が実に面白いのだ(これらも非常に大事なジャズ的要素だ)。ジャズに関する幅広く深い知識を有し、有力メディアを通じて分かりやすい語り口で大衆を啓蒙したモダニストが油井正一だとすれば、独自のジャズ美学を構築し、日本人のジャズ創作現場と常に密着しながら、彼らを鼓舞、扇動した一匹狼のアナーキストが相倉久人だった――とも言えようか。しかし、この二人の代表的批評家が「1970年頃までのジャズ」を語った本が、今も十分読むに値するという事実こそ、その後の半世紀、追記すべきほどの大きな歴史的進化がジャズにはなかった、ということの証左なのだろう。