1956年当時、モンクはマイルス・バンドにいたジョン・コルトレーン(1926-67) に目をかけていたが、モンクのキャバレーカード問題、コルトレーンのヘロイン問題という両者の障害のために、共演の機会はなかなか訪れなかった。その後マイルス・バンドをクビになったコルトレーンを、モンクはメンターとして個人的に指導するようになり、コルトレーンはニカ邸に加え、モンクの自宅にまで毎日のように通って指導を受けている。そして、ようやく初共演の録音セッションとなった1曲が、1957年4月のモンクのソロ・アルバム『Thelonious Himself』(Riverside) でのウィルバー・ウェアとのトリオによる<モンクス・ムード>である。
Monk's Music (1957 Riverside) 第17章 p329- |
続いて4管セプテットの一人としてだが、本格的共演作『Monk’s Music』(Riverside) がその直後6月に録音されており、モンクはコルトレーンを自分のバンドで雇うという約束をようやく果たした。レイ・コープランド(tp)、ジジ・グライス(as)、コールマン・ホーキンズ(ts)、ウィルバー・ウェア(b)、アート・ブレイキー(ds)というメンバーによるこのアルバムは、「ブリリアント・コーナーズ」と並んでリバーサイド時代のモンクを代表する録音で、<オフ・マイナー>、<エピストロフィー>、<ウェル・ユー・ニードント>など久々に取り上げた曲など、モンクの自作曲のみ6曲を演奏している。アルバム冒頭の、ホーンセクションだけの短いが荘厳な<アバイド・ウィズ・ミー Abide with Me>は、幼少時代から愛した賛美歌(日暮れて四方は暗く)をモンクが編曲したもので、心に染み入るその演奏はモンクの葬儀の際に流れた。この録音は、モンクがコールマン・ホーキンズという恩人と10年ぶりに共演するという機会でもあり、ホーキンズは<ルビー・マイ・ディア>で芳醇で温かなソロを聞かせている。しかし、コルトレーンはホーキンズに気後れしたのか、セプテットという編成もあったのか、まだ新入りだったせいなのか、ここではまだ全体にあまり目立たない演奏が多い。苦労した録音時のいくつかの逸話は本書に詳しいが、特にアート・ブレイキーの語る、恩人ホーキンズ、当時弟子のようだったコルトレーンに対するモンクの説教の裏話は、作曲家モンクの面目躍如といった趣があり非常に面白い(どことなくおかしい)。作曲に何ヶ月もかかり、当時病床にあったネリー夫人に捧げた名曲<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>は、インプロヴィゼーションのない通作歌曲形式の作品で、これが初演である。<ウェル・ユー・ニードント>演奏中に「コルトレーン!」と叫ぶモンクの声も、2011年のリマスターされたOJCステレオ版のCDではよく聞こえる(このCDは非常に音がクリアだ)。疲れ切ったモンク、重鎮ホーキンズの存在、新米メンバーだったコルトレーン初の本格的共演、難曲録音時の裏話、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>の作曲と初演、ジャケット写真制作時の面白い逸話など、このアルバムは個々の演奏の完成度は別としても、何よりモンクらしい話題が豊富なので、それらを想像しながら聴くだけで十分楽しめる。
Thelonious Monk with John Coltrane (1957Rec. 1961 Jazzland) 第18章 p352 |
本書に詳しいように、ハリー・コロンビーやニカ夫人の尽力、テルミニ兄弟の支援によってキャバレーカードをようやく手に入れたモンクは、この翌月1957年7月4日からクラブ「ファイブ・スポット」にレギュラー出演し、コルトレーンも7月16日にモンク・カルテットのテナー奏者として同クラブに初登場する。ウィルバー・ウェア(b)(後にアーマッド・アブドゥルマリク)、シャドウ・ウィルソン(ds) を加えたコルトレーンのワンホーン・カルテットは、その後約半年間「ファイブ・スポット」に連続出演することになる。当時はまだ精神面に不安があったものの、長年の苦闘を終え、6年ぶりにやっとキャバレーカードを手にしてニューヨーク市内で仕事ができることに加えて、これはモンクにとって初の自分のレギュラー・バンドによるレギュラー・ギグであり、しかもそこでコルトレーンを擁して自作曲を演奏できるモンクが、どれだけ高揚した気分でいたかがわかろうというものだ。本書に詳しいように、当時「ファイブ・スポット」に日参した芸術家たちを中心とした聴衆側の熱気も伝説的なものだ。ところが返すがえすも残念なことに、この時期の伝説的カルテットの白熱のライヴ演奏を録音したレコードは存在しないのだ。それはコルトレーンが当時プレスティッジとの契約下にあったためで、唯一記録として残されているのが、リバーサイドが7月にスタジオ録音したと言われている3曲で、これも交換条件を出したプレスティッジのボブ・ワインストックの案(コルトレーンのレコードに、モンクがサイドマンとして参加する)をモンクが拒否したために、その後リバーサイド系のJazzlandレーベルによって 1961年にリリースされるまでお蔵入りになっていた。その3曲とはモンク作の<ルビー・マイ・ディア>、<トリンクル・ティンクル>、<ナッティ>で、当時のレギュラーだったウィルバー・ウェア(b)とシャドウ・ウィルソン(ds ) が参加している。その3曲に、モンクの1957年4月の『ヒムセルフ』からソロ演奏の<ファンクショナル>、6月の『モンクス・ミュージック』から<エピストロフィー>(ホーキンズ抜き)と<オフ・マイナー>のそれぞれ別テイク計3曲を加えて、1961年になってからリリースされたのが『Thelonious Monk with John Coltrane』(Jazzland) である。<ルビー・マイ・ディア>に聞けるように、メロディからあまり遊離することなく、シンプルに美しく歌わせるコルトレーンのその後のバラード演奏は、明らかにこの時期のモンクの「指導」によって磨かれたものだろう。<トリンクル・ティンクル>と<ナッティ>は、コルトレーンがモンクと共演してから初めて思う存分吹いているようで、モーダルな初期のシーツ・オブ・サウンドがたびたび現れる。7月中旬の「ファイブ・スポット」出演当初はボロボロだったと言われるコルトレーンの演奏は、以降モンクとのリハーサル(?)を経て飛躍的に進化して行ったが、あの「神の啓示」を得たという有名な発言も、モンクと共演していたこの時期のことである。ついにヘロイン断ちをしたのも同じ時期であり、その後さらに強まるコルトレーンの求道的な姿勢も、この当時に形作られたものだろう。最後に1曲だけ入ったモンクのソロ、<ファンクショナル>の別テイクもやはり素晴らしい。
Thelonious Monk Quartet with John Coltrane Live at Carnegie Hall (1957 Rec. 2005 Blue Note) 第18章 p356 |
Thelonious Monk Quartet with John Coltrane Live at Five Spot (1958 Rec. 1993 Blue Note) 第19章 p376 |
モンクとコルトレーンのもう一つの共演記録としては、1957年末にバンドを去ったコルトレーンが、翌1958年9月11日にジョニー・グリフィンの代役として「ファイブ・スポット」に出演したときの録音が残されている。アーマッド・アブドゥルマリク(b)とロイ・ヘインズ(ds) によるカルテットで、これは当時コルトレーンの妻だったナイーマが、プライベート録音していた音源を1993年にブルーノートがCD化したものだ。家庭用のレコーダーだったために音質は良くないが、その時期のモンクとコルトレーンの「ファイブ・スポット」における共演を捉えた唯一の貴重な録音である。それまでモンクとたっぷりリハーサルを積み上げ、また自身もミュージシャンとして急上昇中のコルトレーンは、クラブライヴということもあって、ここでは余裕しゃくしゃくで吹きまくっているようだ。
これら残された録音を聴くと、ソニー・ロリンズと並んで、真面目なコルトレーンも当時モンクの良き生徒であり、2人の人間的、音楽的相性も良かったように思える。本書からわかるのは、モンクは基本的に「ジャズの先生」であり、ロリンズ、コルトレーン、チャーリー・ラウズも含めて、モンクが好んだのは、実力はもちろんだが、師匠の言うことに謙虚に耳を傾け、成長しようとする誠実なミュージシャンだったということだ。ロリンズと同じく、自らの道を選んで飛び立ったコルトレーンとモンクが、その後レコード上で共演することは二度となかった。それから9年後の1966年12月、コルトレーンが亡くなる7ヶ月前、真冬のデトロイトでのコンサートが二人の最後の共演の場となった。
これら残された録音を聴くと、ソニー・ロリンズと並んで、真面目なコルトレーンも当時モンクの良き生徒であり、2人の人間的、音楽的相性も良かったように思える。本書からわかるのは、モンクは基本的に「ジャズの先生」であり、ロリンズ、コルトレーン、チャーリー・ラウズも含めて、モンクが好んだのは、実力はもちろんだが、師匠の言うことに謙虚に耳を傾け、成長しようとする誠実なミュージシャンだったということだ。ロリンズと同じく、自らの道を選んで飛び立ったコルトレーンとモンクが、その後レコード上で共演することは二度となかった。それから9年後の1966年12月、コルトレーンが亡くなる7ヶ月前、真冬のデトロイトでのコンサートが二人の最後の共演の場となった。