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2017/10/10

モンクを聴く #4:with Miles Davis (1954 - 55)

1917年生まれのモンクは同世代のチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーと共に、いわばモダン・ジャズ界の先達だったが、若いミュージシャンたちに慕われ、方法はユニークではあっても、私塾を通じて後輩たちに常に「教える」という立場で接していた。本書にいくつも例が出て来るように、モンクを尊敬し、素直に教えに従い、多くを吸収した若いミュージシャンが多かったが、マイルス・デイヴィス1926-1991のように必ずしもそうでない人もいた。音楽家として苦闘したモンクが、ジョン・コルトレーンを擁して自分がリーダーのレギュラー・バンドを初めて持ったのは1957年、40歳の時である。それまで、あるいはそれ以降も、モンクはコンボで様々なホーン奏者と共演しているが、相手が誰であれ常にモンク流の音楽を貫き通した。だからモンクのコンボ演奏は、共演するホーン奏者がどうモンクの音楽と対峙し、反応するか、そして場合によっては変化、成長してゆくのかを聞くところに面白さがある。そして音楽だけでなく、背後にある人間関係まで知った上で演奏を聴くとその興味が倍化する。ジャズとは人間の音楽であり、その本当の面白さは譜面上にあるのではなく、人間と人間が接触することによって音楽上何が生まれるのか、というところにあるからだ。モンクの場合は、あまりに強烈な個性とその不変性ゆえに、相手がどう反応するかの方にどうしても興味が向うが、唯一人、音楽的にモンクと対等に渡り合っていたホーン奏者がマイルス・デイヴィスだった(ただし、モンクの自作曲だけではあるが)。

本書には、有名な195412月のプレスティッジのクリスマス・イブ・セッションを含めて、モンクとマイルス・デイヴィスとの口論や確執めいた話が何度か出て来る。これまでも色々な説があって、マイルス本人の談をはじめ、どれを信じていいのか未だによくわからないが、ロビン・ケリーの本はそれらの情報を仔細に検証した上で書いた最新の説なので、信頼性は高いと見ていいのだろう。マイルスはまだ若いジュリアード時代にモンク作の<ラウンド・(アバウト)・ミッドナイト>を研究し、モンクの演奏指導も受け、後に名演と、同曲名を冠したアルバム(Columbia 1957)まで残しているように、モンク固有の音楽そのものは当然リスペクトしてはいたが、本書にもあるように、モンクの「自作曲以外」では共演したいピアニストではない、と自伝やインタビューではっきり言っている。和声やリズムの感覚、ホーン奏者の伴奏の在り方など、モンクの個性が強烈でマイルスがやりにくかったことに加え、私にはマイルスの音楽が持つ、内へ内へと整然と収斂させてゆくような美意識に対して、モンクの音楽の外へ外へと自由に開いて行こうとする基本的性向が、結局のところ互いにどこか感覚的に相容れなかったのではないか、というように思える。ただモンクは基本的には寛容でおおらかなので、この違和感はやはり神経質なマイルス側がより強く感じていたのではないだろうか。しかし、残された2人の巨人の共演記録はやはりいずれも素晴らしく、ジャズ史に残る名演だと思うが、上記プレスティッジのセッション4曲の他は、翌年1955年のニューポート・ジャズ・フェスティバル出演時の3曲以外残されていない。つまり1954/55年にかけての3枚のアルバムだけである。

Miles Davis
Bag's Groove
(1954 Prestige)
第14章 p269-
1954年のクリスマス・イブ・セッションについては、本書で詳細に書かれている。この時の主役マイルス・デイヴィス(tp)に加えて、ピアノのジョン・ルイスを除くMJQのミルト・ジャクソン(vib)、パーシー・ヒース(b)、ケニー・クラーク(ds)という、これも売り出し中のグループとの共演に、自分をリーダーとする新録音の企画をほとんどしないプレスティッジから、いわばサイドマンとして参加要請されたモンクが内心面白いはずがなかったことは容易に想像できる。当日唯一取り上げたモンク作品は<ベムシャ・スウィング>だけで、これも常にモンクを支持していたプロデューサーのアイラ・ギトラーが、渋るボスのボブ・ワインストックを説得して曲目に入れたものだという。作曲家でもあり、当時は金が必要で、録音による印税も期待していたモンク的にはこれも面白くなかっただろう。本書に書かれているが、このセッションの前、同じ年の3月にブルックリンの「トニーズ」でチャールズ・ミンガス、マックス・ローチと出演した際、モンクの自宅でローチ、マイルスと3人でリハーサル中に、あわや喧嘩になりそうなほど衝突したという2人の前歴もあり、「自分のソロのバックでは弾くな」というマイルスの発言も事実のようなので、あれやこれやで、たぶん現場にかなり緊張した雰囲気があったことは確かだろう。しかし、個人的に何があろうと、いざ共演する場になると、常に素晴らしい音楽を生み出すところがこの二人の偉大さだ。

Miles Davis and
The Modern Jazz Giants
(1954 Prestige)
第14章 p269-
モンクが参加している演奏は、マイルスのアルバム『バグス・グルーヴ Bag’s Groove』冒頭のタイトル曲(ミルト・ジャクソン作)2テイクと、『マイルス・デイヴィス・アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ Miles Davis and The Modern Jazz Giants』の、<ベムシャ・スウィング>(モンクーデンジル・ベスト作)、<スウィング・スプリング>(マイルス作)および<ザ・マン・アイ・ラヴ>(ガーシュイン作)2テイクだけだ。録音時の状況は本書に詳しいが、モンクの曲<ベムシャ・スウィング>を除き、モンクはマイルスのソロのバックではピアノを弾いていない。演奏はいずれも素晴らしいが、特にミルト・ジャクソンとからむモンクのコンプやアブストラクトなソロの響きは、とても1950年代半ばの演奏とは思えない斬新さだ。他の曲でも、モンクのソロになると途端に「場の空気」が変わってしまうのだ。同じアルバム中のモンク抜きのマイルス・バンドの、いわゆるハードバップ的演奏と比較すると、そのコントラストが一層はっきりする。伝説となった<ザ・マン・アイ・ラヴ>テイク2は、テーマを吹くマイルスのイントロも、続くテンポを上げたミルト・ジャクソンの流れるようなヴァイブ・ソロも素晴らしい。モンクはその間ずっと控えめだがモンク的なコンプをしていて、ジャクソンのソロが終わった後、リズムセクションにかぶせて元のテンポでスローモーションのようにテーマを弾いているが、突然そこで長い休止に入る。マイルスの短いトランペットのフレーズで、はじかれたようにモンクがインプロヴィゼーションに突入する有名な瞬間とモンクのアブストラクトな短いソロは、何度聴いても鳥肌が立つほど素晴らしく、モダン・ジャズの最高の瞬間を捉えた録音だと思う。なおアルバム「・・・モダン・ジャズ・ジャイアンツ」には、<ラウンド・アバウト・ミッドナイト>も収録されているが、これは195610月のマイルスのマラソン・セッション時の録音であり、当然モンクは参加していない。

Miles Davis
Miscellaneous Davis
1955-1957
(Jazz Unlimted)
第15章 p280
その翌年、1955717日の第2回ニューポート・ジャズ・フェスティバル出演が、2人の最後の共演の場となった。これはモンクがリバーサイド移籍後の初アルバム「プレイズ・デューク・エリントン」を録音する4日前である。モンクは、ジェリー・マリガン(bs)、ズート・シムズ(ts)、パーシー・ヒース(b)、コニー・ケイ(ds)というオールスター・バンドのリーダーとして参加することになっていたが、そこへ直前に主催者ジョージ・ウィーンを説得して参加を決めたマイルスが急に加わったのだという。そこでの演奏の素晴らしさから、ヘロイン中毒を克服したマイルス復活の場として、これもジャズ史では伝説的な話だ。だがロビン・ケリーの本では、彼はこの話には終始懐疑的だ(つまりマイルスの話は誇張されており、それほどの演奏でも観客の反応でもなかった、という見方だ)。この時の模様は、『Miscellaneous Davis 1955-1957』Jazz Unlimited)というレコードに残されている。デューク・エリントンの司会で始まるこのアルバムでモンクが弾いているのは、<ハッケンサック>、<ラウンド・ミッドナイト>、<ナウ・ザ・タイム>(チャーリー・パーカー作)の3曲だけで、この時もマイルスの指示で、<ナウ・ザ・タイム>ではモンクはマイルスのソロのバックでは弾いていない。そして、この<ラウンド・ミッドナイト>の演奏を巡って、演奏後マイルスはモンクのコード進行はおかしいとジョージ・ウィーンに語り、コンサート後の帰りの車中で、マイルスの吹き方は正しくないとモンクが指摘したことで、二人はまたもや口論になって、怒ったモンクが車を降りて一人で歩いてフェリー乗り場に向かったという、これもまた伝説的な話がある。

Miles davis
Round About Midnight
(1957 Columbia)
ところがこれもジャズ史では有名な話だが、このコンサートの場にいた大会社コロムビア・レコードのジョージ・アヴァキャンがマイルスに目を付け、プレスティッジと契約下にあったマイルスを引き抜いて録音したために(195510月から569月にかけて)、マイルスはコルトレーンを擁した第一次クインテットによる有名な195610月のマラソン・セッションで、契約上プレスティッジ向けに一気にLP4枚分の録音をすることになった。コロムビアでの<ラウンド・アバウト・ミドナイト>(曲)の録音は1956910日に行なわれているが(つまり上記プレスティッジ盤収録演奏の1ヶ月前である)、マイルスがスターとして飛躍するきっかけとなったコロムビア初のアルバム『ラウンド・アバウト・ミッドナイトRound About Midnight』(リリースは1957年)のタイトルが、ニューポートでその演奏をめぐって大喧嘩した相手のモンク作の名曲で、アルバムはモダン・ジャズの名盤となり、しかもアルバム冒頭のマイルスの同名曲の演奏(ギル・エヴァンス編曲)も名演と評価されるなど、なんとも皮肉な巡り合わせというしかない。本書にはこの後日談は書かれておらず、モンクの反応については想像するしかないが、モンクにしてみれば、内心きっと面白くないどころの話ではなかったのではないだろうか(ただしモンクに入ることになる作曲者印税の恩恵は別にして。しかし、本書にあるように、これも3分の1だけなのだ)。

さらに本書によれば、その後ずいぶん経った1969年に、コンサートの場で一緒になった二人は、新たな方向に向かい出したマイルス・グループの音楽を巡って、またもや激しく口論している(きっとそれまでも、他にも色々あったのだろう)。マイルスは後年の自伝などでは常にモンクに対する敬意を表明しているのだが、この二人は、両者ともに独自の音楽哲学と美学を持ったお山の大将なので、両雄相並び立たずという譬えの通り、互いに譲らなかったということもあったのだろうが、やはりよくよく人間的相性が悪かったのかもしれない。マイルスは知的、論理的な合理主義者で、一方のモンクは天才だが、ある意味で論理を超えた哲学者のようでもあったからだ。ただし二人とも黒人として警察にひどい差別的暴力を受けているが、マイルスはリー・コニッツ、ギル・エヴァンス、ビル・エヴァンスたちと共演し、モンクはマネージャーのハリー・コロンビーをはじめ、デヴィッド・アムラム、ホール・オヴァートン、ジェリー・マリガン、ラン・ブレイクらと共演したり親交を結ぶなど、両者ともに白人に対する逆差別はせずに個人の能力や人格を認める人間的度量を持っていた。また公民権闘争の時代にあっても、チャールズ・ミンガスやマックス・ローチのように直接的政治行動には関与しない ”純粋な芸術家” だったというところも共通している。そして、奇しくも1976年のモンク引退と同じ年にマイルスも病気で一時引退し、この2人の巨人がほぼ同時にジャズ・シーンから消えることで、いわゆる「モダン・ジャズの時代」はここに文字通り終焉を迎えるのである。

ちなみに、本日10月10日はセロニアス・モンク100歳の誕生日である(生きていれば)。偶然だが、モンク(1982年没)もマイルス(1991年没)も64歳という同年齢で亡くなっている。あの時代のジャズ・ミュージシャンとしては、2人とも長生きの方だったと言える。もしもこの2人がチャーリー・パーカーと同じように短命(34歳)だったとしたら、おそらくモダン・ジャズという音楽そのものも、ずっと短命だったことだろう。