Solo on Vogue
(1954 Swing/Vogue)
第13章 p261
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このレコードには、その後リリースされたジャケットが何種類かあるが、いちばん有名なのはここに挙げたVogue盤のアルバム・ジャケットだ。気づく人がいるかどうかはわからないが、よく見ると、このジャケットのスペルが<THEOLONIOUS>となっていることがわかる。セロニアス<THELONIOUS>という名前の由来は本書に書いてあるが、この名前は発音もスペルも覚えにくいようで、モンクの甥も<セオロニアス THEOLONIOUS>という間違いスペルで名付けられ、LAのクラブオーナーだったビリー・バーグは<デロニアス DELONIOUS>とポスターで宣伝し、サンフランシスコのクラブオーナー、グイド・カチアンティは<フェロニアス FELONIOUS>と呼んだりしている。このジャケットも、多分最初のデザインだった<THEOLONIOUS>のままずっと流通しているのだろう。モンクの波瀾万丈の物語は基本的には悲劇だと思うが、こうしたどこか喜劇的な要素があちこち散りばめられているところがモンクらしくて何となくおかしい。
Thelonious Himself (1957 Riverside) 第17章 p325 |
モンクは次に、リバーサイドに『セロニアス・ヒムセルフ Thelonious Himself』(1957年4月12日、トリオのみ16日)という最も有名なソロ・アルバムを録音している。アルバム「ブリリアント・コーナーズ」録音時に、モンクのソロ<アイ・サレンダー・ディア>を聞いて触発されたオリン・キープニューズが提案したもので、モンクのソロ作品の中でも、最も深く、クールで、芸術的香気に満ちたソロ・アルバムだが、あらゆるジャズ・ピアノのソロ・アルバムの中でも最上の1枚に数えられるだろう。この時のモンクは、おそらく鬱症状のために自動車の接触事故を起こし、搬送されたベルビュー精神病院を退院して間もない時で、必ずしも精神的に安定した時期とは言えなかった。ここでの演奏は、そうしたモンクの心象風景を映し出しているかのようだ。自らと対話するように手探りで音を選びながら、どの曲も深く沈潜してゆく。アルバム全体を通じた静けさは、モンクの頭の中で鳴り響いている音を、聴き手にも想像させずにはおかないような不思議な共感を呼び起こす。いきなりモンク・ワールドに引き込まれるような冒頭の<パリの4月>から始まるすべての曲が、ゆったりとしたテンポで演奏され、モンクの注意深い音の選択一つ一つに緊張感すら漂っている。無駄な音を削ぎ落したその演奏は、どこまでも広がる深く静謐な空間を感じさせ、モンクはその空間にメロディを実に美しく浮かび上がらせている。何度もやり直した22分に及ぶ<ラウンド・ミッドナイト(イン・プログレス)>の「創作」過程は、聴き手にもある種の緊張を強いるほどだ。自作ブルースで、ストライドの聞こえる<ファンクショナル>、スタンダードの<ゴースト・オブ・ア・チャンス>、<アイ・シュッド・ケア>、<オール・アローン>、さらにCD「The Transformer」(2002) に聞ける自宅での試行の直後ではないかと思われる<アイム・ゲティング・センチメンタル・オーヴァー・ユー>などに加え、最後に1曲だけジョン・コルトレーン(ts)とウィルバー・ウェア(b)が参加したトリオ演奏、実にモンクらしいバラード<モンクス・ムード>が収録されている(ほとんどコルトレーンとのデュオだが)。しばらくの間「指導」してきたコルトレーンの曲の解釈を気に入ったモンクが、別途レコーディングの場に呼び寄せたということだが、長い時間をかけてきた2人の対話が、ここでようやく完結したかのように、静かに語り合う2人のプレイが印象的だ。マイルスのグループを離れたコルトレーンは、この直後6月に4管のアルバム「モンクス・ミュージック」に参加し、さらに翌7月に「ファイブ・スポット」でモンク・カルテットのテナー奏者として初登場して約半年間の伝説のクラブ・ギグで共演する。モンクの名声の高まりと、その後のコルトレーンの飛翔もそこから始まることになる。
Alone in San Francisco (1959 Riverside) 第20章 p416 |
リバーサイド録音のもう1枚は『アローン・イン・サンフランシスコ Alone In San Francisco』(1959年10月20、21日)だ。『ヒムセルフ』の2年半後、既に名声を確立した時期に西海岸へのツアーに赴いていたモンクを、キャノンボール・アダレイを録音するためにSFにいたオリン・キープニューズがたまたま捉えて、地元民のための公会堂で音響の素晴らしい「フガジ・ホール」を手配して録音したアルバムだ。『ヒムセルフ』には入れなかった<ブルー・モンク>、<パノニカ>、<ルビー・マイ・ディア>、<リフレクションズ>というモンクの自作4曲の他6曲を演奏しているが、モンクは用意した10曲を2日間で録音し、そのうち9曲はワンテイクで済ませたということなので、おそらくクラブ「ブラックホーク」での2週間のギグを終えたこの時は、精神面も体調も安定していたのだろう。というのは、本書で書かれているように、その数週間前のロサンゼルス公演では精神面の不調から惨憺たる演奏で不評をかこち、またネリー夫人も現地で手術のために入院するなど散々な目に合っていたからだ。ここでは一人で落ち着いてピアノに向かい、美しい響きのホールで気持ち良さそうに弾いているモンクが聞こえて来るようだ。どことなくリラックスしたこの演奏は、著者の言うある種の懐かしさと共に、「ヒムセルフ」の持つ近寄りがたいほどの緊張感とは別の、ソロ表現におけるモンクの柔らかな一面を見せている。
Solo Monk (1965 Columbia) 第26章 p547 |
モンク最後のソロ・アルバムとなったのは、コロムビア時代の『ソロ・モンク Solo Monk』(1965)だ。現CDは1964年10月LAから翌年3月NYにかけて、断続的に録音されたソロ演奏(alt.take含)をまとめたアルバムで、オリジナルLPの曲数はもっと少ない。コロムビア(テオ・マセロ)のこの時代のレコード制作手法は、リバーサイドのようにアルバム・コンセプトを決めて、それに沿った曲と演奏を短期間に録音するというやり方ではなく、基本的にバラバラに録音作業だけを進めて、後でそれらの演奏からセレクトしたものだけをまとめて1枚のアルバムに仕上げるという方法だった。本書におけるプロデューサー、テオ・マセロの役割と功罪の描き方は玉虫色のように思えるが、コロムビア時代のモンクのレコードが、徐々にどこか精彩を欠いて行くように感じられるのは、時代や本人の体調もあるのだろうが、一つには明快な作品コンセプトなきこの手法が、アーティスト・モンクの創作へのモチベーションと集中力を削いでいたという側面もあるように私には思える。ただ、本書によれば、この時期のモンク自身が、精神的な病やドラッグの影響で決して良い状態だったとは言えないことも事実のようだ。このソロ演奏から聞こえてくるのは、ヴォーグ盤やリバーサイド時代の録音に聞ける、注意深く音を選んで置いてゆく、研ぎ澄まされたようなモンク独特のソロとは違うもので、テーマとして選んだ意図的なストライド・ピアノが頻繁に聞こえ、どことなく角の取れた、スムースでこなれたような演奏である。録音が非常に良いのと、選曲も<ルビー・マイ・ディア>、<アスク・ミー・ナウ>などを除きほとんどがスタンダード曲で、モンク的個性が相対的に薄いがゆえに、逆に言えば聞きやすく ”普通の” ジャズ・ピアノに近いので、モンクのソロ入門にはむしろお勧めのレコードだろう。
なおモンクは、1950年代のリバーサイドのコンボ演奏や、ピアノ・トリオのアルバム中でもいくつか優れたソロを録音している。また最後のスタジオ録音になった1971年の『ロンドン・コレクション London Collection Vol.1,3』(Black Lion)でも、ほぼアルバム1枚分のソロ演奏を残している。