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2017/10/21

モンクを聴く #9:Big Band (1959 - 68)

モンクはビッグバンドのレコードを3作品残している。モンク本人ですら苦労したビッグバンドによる編曲と演奏は、いわば大キャンバスに描く抽象画と同じくらい難しいことだろう。しかし「メロディからハーモニーが聞こえて来る」というモンク作品を、大編成バンドのカラフルなサウンドで解釈するというこの試みは、今でも非常に魅力的だと個人的には思っている。これは現代のジャズにとっても、まだまだ掘り下げるに値する数少ない分野の一つではないだろうか。山中千尋や狭間美帆のような女性アーティストがチャレンジしているように、ジャズに限らず、モンクの音楽を現代の感覚で解釈、表現するという世界に挑戦するミュージシャンがこれからも現れて欲しい。

The Thelonious Monk
Orchestra at Town Hall
(1959 Riverside)
第20章 p393
モンク初のビッグバンド(テンテット:10重奏団)の公演と正式録音は、リバーサイド時代の1959228日の「タウンホール」コンサートである(『The Thelonious Monk Orchestra At Town Hall』)。これは1946年に、モンクがディジー・ガレスピーのバンドを遅刻が理由でクビになって以来のビッグバンド参加であり、しかもコンサートのすべてをモンクの自作曲で行なうという画期的な企画だった。ずっとモンクを尊敬し、モンクの音楽を深く理解していた当時ジュリアード音楽院教授だったホール・オヴァートンを編曲者としてモンクは指名する。この時ビッグバンドのリハーサルを行なっていたニューヨーク6番街のロフトにオヴァートンたちと住んでいたのが、写真集「水俣 MINAMATA」で知られる社会派の写真家W・ユージン・スミス(1918-78)だった。オーディオマニアでもあったスミスがロフトで録音していた貴重なテープから、ロビン・ケリーが本書中で一部を書き起こしたモンクとホール・オヴァートンの会話とリハーサルの模様は、モンクの思想と手法を語るものとして非常に興味深いものだ。またこのテープは、これまでオヴァートンが単独で編曲したと思われていたコンサートの音楽が、実はモンクと緊密なやり取りをしながら、いわば共同で書かれていたことを示す証拠となった。
カルテットとテンテットによる当日のメンバーとCD収録曲は以下の通り。
<メンバー> Donald Byrd (tp) Eddie Bert (tb) Bob Northern (fh) Jay McAllister (tuba) Phil  Woods (as) Charlie Rouse (ts) Pepper Adams (bs) Thelonious Monk (p) Sam Jones (b) Art Taylor (ds)
<CD収録曲> Thelonious/ Friday The 13th/ Monk's Mood/ Little Rootie Tootie/ Off Minor/ Crepuscule With Nellie/ In Walked Bud/ Blue Monk/ Rhythm-A-Ning

演奏内容と評価は本書に詳しいが、当日の会場の反応はすこぶる良かったものの、1952年のモンク初のピアノ・トリオの演奏をビッグバンドで再現し、高い評価を得た<リトル・ルーティ・トゥーティ>を除き、結果的に批判的なコンサート評が多かったために、リバーサイドはその後スポンサーも兼ねて予定していた8都市を巡るコンサート・ツアーを中止した。この予想外の判断によって、このコンサートに大きなエネルギーを注ぎ込んだばかりか、当時キャバレーカードがなく、ツアー公演に唯一の収入を見込んでいたモンクは落胆し、リバーサイドとの関係も決定的に悪化した。さらにモンクの精神状態もその後しばらくは不調となり、4月にはボストンの「ストーリーヴィル」出演後に行方不明になるという事件を起こす。ところが、このライヴ・アルバムは1959年のリリース後、非常に高い評価を得るようになるのである。ジャズ・コンサート批評の難しいところだが、これがジャズ、特にモンクのようなエモーション一発ではない複雑で高度な音楽を、ライヴで1回聞いただけの批評の危うさだと言える。一般的にジャズとはそういうもので、だからこそ録音とレコードの価値があるわけだが、中でもモンクのように、何度も繰り返して聴かないと、その本当の素晴らしさがわからないジャズというものはあるのだ、という実例の一つだろう。

Big Band and Quartet
in Concert
(1963 Columbia)
第25章 p515
モンク2度目のビッグバンド公演が、コロムビア時代19631230日の「フィルハーモニック・ホール」でのコンサートで(『Big Band and Quartet in Concert』)、ホール・オヴァートンが再び編曲を担当した。モンクがビッグバンドに求めていた理想は困難ではあるが明快なもので、単に楽器の数を増やしただけの定型的大編成バンドではなく、スモール・コンボと同じように自由な即興演奏に近いスウィングする音楽をラージ・アンサンブルで実現することだった。「タウンホール」での音調が低域部が重かったという反省から、メンバーにはサド・ジョーンズ(corn)とスティーヴ・レイシー(ss) を新たに加え準備を進めていたが、1122日のダラスでのケネディ大統領暗殺事件によって1129日に予定されていた公演日程が1ヶ月先送りとなった(タイム誌が予定していた、モンクの表紙とカバーストーリーを掲載した号も発売延期となった)。今回はモンク・カルテットを間に挟んだ3部構成とし、高域部の強化によって明るい響きになったビッグバンドは好評で、特に『At the Blackhawk』のソロを引用した<フォア・イン・ワン>が最も高い評価を得た。こちらは追加曲も収録した2CDで、録音が非常にクリアなので、各パートの音も明瞭で快適なサウンドだ。
カルテットとテンテットによる当日のメンバーとCD収録曲は以下の通り
<メンバー> Thad Jones (cort) Nick Travis (tp) Eddie Bert (tb) Steve Lacy (ss) Phil Woods (as,cl) Charlie Rouse (ts) Gene Allen (bs, cl, bcl) Thelonious Monk (p) Butch Warren (b) Frankie Dunlop (ds)
<CD収録曲> Bye-Ya/ I Mean You/ Evidence/ Epistrophy/ (When It's) Darkness On The Delta/ Oska T./ Misterioso/ Played Twice/ Four In One/ Light Blue 

「タウンホール」直後の不評とは違い、「フィルハーモニック・ホール」での公演は論評を含めて大成功となった。モンクは自分の功績の一つとして「インプロヴァイズするジャズを、ビッグバンドという形態で実現したことだ」と後年述べているが、確かにこれも、モンクとオヴァートンが共同で作り上げた独創的音楽の一つだったと言えるだろう。その後モンクは196710月の6度目のヨーロッパ・ツアー時にも、ジョージ・ウィーンの提案でオクテット、ノネットによるバンドを率いてイギリス、ドイツ、フランス他で演奏し好評を博しているが(ジョニー・グリフィンやフィル・ウッズを擁したこのバンドの映像の一部が、映画『ストレート・ノー・チェイサー』に残されている)、ドイツのベルリン・ジャズ祭では、ヨアヒム・ベーレントとテオ・マセロのレコーディング企画提案にもかかわらず、コロムビア上層部の支持が得られなかったためにこの企画はお流れとなった。ただし、ヨーロッパの現地放送局が録音したこの時の公演は、いくつかアルバムとなって後にリリースされている。

Monk's Blues
(1968 Columbia)
第27章 p585
モンク最後のビッグバンドのアルバムが、196811月にロサンゼルスでスタジオ録音された『モンクス・ブルース Monk’s Blues』で、前年のヨーロッパでのモンクのビッグバンドの演奏に触発されたテオ・マセロがプロデュースし、当時売れっ子アレンジャーだったオリヴァー・ネルソンを編曲者に指名したレコードだ。モンクのバンドに加え、LAの現地ミュージシャンを数多く起用した16人のオーケストラで、大編成の強力なバンドによる「ロックやR&Bの要素を取り入れたクロスオーバー的味付けの音楽」という、あの時代を感じさせるコンセプトだ。この録音では、モンクはピアニストとしてフィーチャーされただけで、曲の構成全体に関与していたわけではなく、モンクとオヴァートンの協働作業で作り上げた上記2つのビッグバンドとはまったくコンセプトが違うものだった。モンク自身は録音には協力的だったようだが(仕事として)、セロニアス・モンクの曲を「素材」にしただけで、モンク的音楽世界からはまったく乖離しているとして、このアルバムはプロデュサーのマセロ本人を含めて各メディアや批評家からは酷評された。今の耳でモンク入りの珍しいイージーリスニング・ジャズとして聞けば、なるほどと思えるが、それまで長年「モンク固有の音楽」を聴いてきた当時の批評家たちにとっては受け入れ難かったのだろう。CDの録音はエコーがかかったようで、ホーン群の高域も強調され過ぎて、若干うるさい。マネージャーのハリー・コロンビーが、モンクと一緒にLAのネルソンの豪邸を訪問した際の観察と、このレコードの感想が本書に書かれているが、まさに対照的な二人の音楽家の対比が非常に面白い。
収録曲は以下の通り(テオ・マセロ作の2曲がこっそり入っている)。
Let's Cool One/ Reflections/ Little Rootie Tootie/ Just a Glance at Love (Macero)/ Brilliant Corners/ Consecutive Seconds (Macero)/ Monk's Point/ Trinkle, Tinkle/ Straight, No Chaser/ Blue Monk/ Round Midnight

ところで、1960年代という時代背景もあるのだろうが、このアルバムも含めてコロムビア時代のモンク作品のジャケット・デザインはどれも薄味で、モンクの音楽世界を表現していないように個人的には思える(凝った「アンダーグラウンド」も)。テオ・マセロはプロデューサーとして、コロムビア時代のマイルス・デイヴィスを録音編集の技術を駆使して「創作」した功労者だったが、初期の頃からモンクのファンでもあった。だからモンクへの尊敬と愛情は持ち続けていたし、モンクの売り出しに大きな力を注いだのも事実だと思うが、レコード作りのコンセプトがモンクの音楽の本質と徐々にずれて行ったことと、それを加速した売り上げを至上命題としたコロムビアの商業主義によって、結局コロムビアという会社とアーティスト・モンクの板挟みのような状況に追い込まれて行ったのではないかと想像する。「聴き手が理解するまで、妥協せずに自分の信じる音楽をやり続けろ」と語っていたように、モンクは基本的に作曲家であり、マイルスのように時代や聴衆のニーズを見抜いて自分の音楽を変えることのできる器用な音楽家ではなかったからだ。モンクとコロムビアとの契約は1970年まで継続するが、結局この1968年の『Monk's Blues』が、モンクにとってコロムビアへの、またメジャー・レーベルへの最後の録音となった。