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2017/10/01

セロニアス・モンクの音楽

Wassily Kandinsky
Composition VIII (1923)
モンクの音楽は優れた抽象画と同じだ。ありきたりの具体的イメージを喚起しないので、聴き手の自由な感性と想像力を刺激する。ジャズの本質から逸脱はしないが、ジャズの既成の枠組みをわざと踏み外したり、あるいはそれを飛び越えようとする試みにモンクの音楽の面白さがある。そして何より抽象芸術にありがちな冷たさがなく音楽が温かい。だからジャズのセオリーなどまったく知らなくても、誰でも構えずに入り込み楽しめる懐の深さがモンクの音楽にはある。作曲家としてデューク・エリントンの影響も指摘されるが、エリントンは重くベクトルが底に向かい、モンクの音楽は軽やかに高く飛翔する。モンクの音楽は開かれているのだ。モンクを聴くと自分が解放され、心が自由になるのを感じるのはこのためだ……という個人的感想を、某サイトのディスク・レビューに書き込んだのは今から5年前である。この印象は今でも変わっていない。ジャズ好きは何であれ抽象的なものを好む人が多いが、中でもモンクは絵画で言うならまさしく抽象絵画だ。1950-60年代の米国の抽象表現主義の画家、作家、詩人、ダンサーといったアーティストたちが、モンクを好んだのは当然だろう。そして同じ抽象画でも、同時代のアブストラクト感の強いジャズを比較すると、私にはトリスターノ派の音楽はパウル・クレーを、モンクはもっと温度感のあるカンディンスキーを連想させる。(これは人によって違うだろうと思う。テオ・マセロはピカソと対比し、ポール・ベーコンは、1957年の「ファイブ・スポット」におけるモンクのライヴ・アルバム『ミステリオーソ』に、ジョルジョ・デ・キリコの「予言者」を使った。)だから絵画で言えば具象画のように、ヴィジュアル的にわかりやすい絵を好む人は、モンクの音楽は苦手かもしれない。

Misterioso
(1957 Riverside)
モンクの音楽に「自由」を感じる、というこの印象は今でも変わっていないが、自分がそう感じる真の理由は、これまでにどんなモンク論(ほとんどが奏法や楽理的分析)を読んでもずっとしっくりこなかった。しかし『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』を読んで(訳して)、自分が長年感じていたモンクの音楽についての印象がようやく腑に落ちた。それは「人間モンク」が音楽を通じて発していた「自由」という普遍的メッセージだったのである。前項に書いたように、モンクが作曲にどれだけのエネルギーをつぎ込んでいたにしても、モンクが同じ苦労を聴き手に強いることはないし、ニカ夫人が言ったように、モンクの音楽を分析することも「不遜であるばかりか、無意味だ」ということだろう。半世紀前の聴き手には奇妙に聞こえた音も、現代の耳にはむしろ心地よく、しかも少なくとも私には未だに斬新に響く演奏がたくさんある。優れた抽象絵画がそうであるように、モンクは誰も拒絶しないし、どんな解釈も許容する。聴き手は自分の感性に従って、その音世界を自由に楽しめばいいのである。だから、モンクの音楽はいつまでも古びることなく、ジャンルも、時も超えて生き続けるだろうと私は思う。

前項の、サウンドを探求し続けた作曲家セロニアス・モンクという視点から、本書『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』に出て来る主要なレコードのうち、読者の参考になりそうなものを、『モンクを聴く』と題して、次項以下に演奏フォーマットと共演者という切り口から紹介したいと思う。とは言っても、モンクはそれほど録音数も多くなく、またブートレグを除けば特に目新しいディスクがあるわけでもなく、ジャズ好きやモンク好きの人たちなら誰でも知っているようなものばかりだ。しかもド素人なので、技法や楽理に踏み込んだ説明はできないし、結局は好みのレコードに関する印象論になる。ただ私は人間としてのジャズ・ミュージシャンに興味があるので、本書を読んで初めて知った事実や情報を加えて、「人間モンク」の物語という観点から、よく知られたディスクの背景を含めて改めてレビューしてみたいと思う(各アルバム下部には、本書で触れている章とページを記しています)。