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2017/12/22

時代を超える歌姫たち

年末になると、年寄り向けに昔の歌手や歌を特集したテレビ番組が増えるが、先日は今年亡くなった作曲家・船村徹(1932-2017) の特集をやっていたので、つい見てしまった。私は基本的にはジャズ中心に聴いているが、クラシックもJ-Popも、時には古い演歌や歌謡曲も聴く。我々の世代は、中学時代以降にプレスリーやビートルズによって洋楽の洗礼を受けた人がほとんどだと思うが(私はアストラッド・ジルベルトのボサノヴァも同時に聴いていたが)、それ以前は普通の家庭のラジオやテレビから流れていたのは大部分が演歌や歌謡曲だったので、幼少期に自然と脳に刷り込まれているそういう音楽には無意識のうちに反応してしまうのである。なので、ずいぶんとそのジャンルの曲も聴いてきたが、やはり作曲家・船村徹と作詞家・阿久悠は日本オリジンの歌謡曲史上でも別格の存在だと思う。船村徹は自作曲をギターを弾きながら自身でも歌っているが、哀感に満ちたその歌と歌唱は、どの曲も日本人中高年の心の琴線に触れる素晴らしさだ。(特に年末に聞く、高橋竹山を謳った「風雪ながれ旅」には痺れる。)

不死鳥 (DVD)
 美空ひばり
(1988 日本コロムビア)
その番組の最後の方で、星野哲郎・作詞、船村徹・作曲という黄金コンビによる「みだれ髪」を、1987年に闘病後復活した美空ひばり (1937-89) が レコーディングし、1988年の武道館コンサートで歌うまでの短いエピソードを紹介していたが、ひばりの歌にはあらためて感動した。実を言えば、若い時にはひばりにはまったく関心もなかったのだが、自分が年齢を重ねるにつれて徐々にその凄さがわかってきた。この映像もたぶん以前に見たり聞いたりしたことがあったのだろうが、なぜかこの時には、彼女の歌唱に思わず引き込まれてしまったのである。美空ひばりは戦後の復興昭和時代を象徴する歌手であり、数え切れないほどの名唱を残している人だが、絶唱とも言えるここでの歌唱には、ジャンルも時代も超えた圧倒的な存在感と心に深く響く美しさがあった(この曲は、後でYouTubeで聴いた藤圭子の歌も実に素晴らしかった。2大名唱と思う)。ひばり後、昭和後期の高度成長とバブル期の<表>を象徴する女性歌手・作曲家は松任谷由美であり、<裏>はたぶん中島みゆきだろう。そしてバブル後、混沌の平成の象徴は椎名林檎だろうと思う。これらの女性アーティストたちは、その音楽的スケール、独創性、作詩・作曲能力、性別・世代を超えたポピュラリティ、全ての点において傑出した才能を持っている。そして日本でその嚆矢となったのが、歌唱の世界のみだが、美空ひばりなのだ。彼女たちはそれぞれ幼少期に生きていた時代が違うので、体内に蓄積された音楽的要素の質・量が異なるだけで、持てる才能のレベルは同じだと思う。ひばり、ユーミン、中島みゆきの歌や曲はいまだに古びず、単なるナツメロではなく時代を超えて愛され続けている。だが椎名林檎は、音楽がモノと同じように日常の中で消費され、捨てられるようになった時代に現れたためにこの点で不利だ。歌におけるメロディの重要度が時代と共に薄れ、歌そのものが複雑になり、かつては人々の記憶にすぐに定着していたシンプルなメロディを持つ音楽が減ってきた時代背景もある。あらゆるものが断片化している現代では、音楽的成功の形も同じくマスから断片へと移行し続けるだろう。だから今後日本のポピュラー音楽の世界で、これらの女性たちと同等の音楽的スケールを持ち、かつ大きな成功を収める女性アーティストが現れるかどうかは疑問だ。

Lady in Satin
Billie Holiday
 (1958 Columbia)
さて、その美空ひばりの「みだれ髪」を聴いていて否応なく思い起こしたのがビリー・ホリデイ Billie Holiday (1915-59) である(私の訳書に出て来るが、セロニアス・モンクが、若い時に寝室の天井にホリデイの写真をテープで留めて貼っていた、という話は面白かった)。昔からホリデイを聴くとひばりを思い出し、逆もまたしかりだったが、この二人は本質的な部分で実によく似ているのである(二人は顔の骨格もよく似ているように思う。なので発声も声質も似ているように私には感じられる)。ひばりは若い時からジャズを歌っているし、影響を受けたかどうかはよくわからないが、当然ホリデイも好きだったという。しかし、ひばりの歌は洋楽も含めて、どんな曲を歌っても「借り物」という感じがせず、完全にその曲を自分のものとして消化し、自分の世界で歌ってしまうところが非凡なのだ。ビリー・ホリデイもまったく同じで、何を歌ってもホリデイのメロディ、リズムの世界にしてしまう。通常の、歌がうまいとか下手だとか、ピッチやディクションがどうだとかいうレベルの評価とはまったく無縁の存在なのだ。そして二人に共通しているもう一つの点は、万人の心に訴えかける「歌の力」だ。つまり、二人とも歌謡曲やジャズといった商業ジャンルなどは遥かに超えた、そしてその比類のない個性ゆえに時代さえも超えた大天才歌手なのである。とはいえ、個人的な好みを言えば、二人とも若い時の歌よりも、夕陽が沈みかけ、消えかかるときのような晩年の歌唱により惹かれるものがある。体力や技術、声の瑞々しさに頼って楽々と歌った若い時期よりも、それができなくなって、やむなく全身から絞り出すように、天才が魂を込めて歌うヴォーカルに感動するのだ。モンクやパウエルの晩年のピアノ演奏にも同じことを感じるので、これは自分が年を取ったという証かもしれないが、音楽にはそういう美の世界というものがあると思う。だから晩年のひばりの「みだれ髪」に感動したように、昔から私のいちばん好きなビリー・ホリデイのレコードは、絶頂期の若い時の録音ではなく、亡くなる前年19582月にストリングスをバックに録音した『Lady in Satin』Columbia)である。<I’m a Fool to Want You>を筆頭に、肉体の衰えが表現の一部となって昇華したかのような曲と歌が、どれも心に染みる素晴らしいアルバムだ。ホリデイの苦難の生涯のことは様々に語られて来たが、ここで聞けるのは、これまでの自分の人生をゆっくりと振り返りながら、同時に彼岸を見ているかのような、諦観と愛と静けさに満ちたホリデイの絶唱である。

The First Recording
Nina Simone
 (1958 Bethlehem)
音楽ジャンルも時代も超えて人の心に訴えかける歌姫は、クラシックでもシャンソンでも、民俗音楽の世界にもそれぞれいるが、ジャズ・ヴォーカルではホリデイと並んで、そうした魅力と能力を感じさせるもう一人の天才女性歌手がニーナ・シモン Nina Simone (1933-2003) だ。上記ホリデイのアルバムと同じ1958年に録音されたシモンのデビュー作『The First Recording (Little Girl Blue)』(Bethlehem)も、そうした普遍的価値を持つ傑作アルバムである。ここで聞けるシモンの歌は、まだ若い25歳くらいのときのものだが、どの歌唱も本当に素晴らしい。<Little Girl Blue>、<I Loves You Porgy>などの名曲の他、全てが名唱であり、クラシック・ピアノの訓練を積んだシモンの端正なピアノと、ゴスペルやブルースを身体深く浸みこませた彼女の歌が、絶妙にバランスした唯一無二の歌の世界を聞くことができる。シモンはそもそもジャズというジャンルにこだわった歌手ではなく、60年代以降はより広い音楽ジャンルと公民権運動に活動のベクトルが向かい、様々な問題を抱えた70年代以降、2003年にフランスで亡くなるまで厳しい人生を送ったようだ。しかし、ホリデイの<I'm a Fool to Want to You>と同じく、冒頭のスピリチュアルのごとき<Little Girl Blue>1曲が象徴するように、今から60年も前のモダン・ジャズ全盛期に吹き込まれた、このデビューアルバムから聞こえる魂の歌には永遠の価値がある。 

2017/12/07

映画館の音はなぜあんなに大きいのか

先日、新聞の投書欄で、今の映画館の音はどうしてあんなに大きいのかと、70歳の女性が投稿している記事を読んだ。アニメ映画なのに小さな子供は怖がり、途中で出てゆく子供もいて、自分も疲れて、あれでは難聴になりそうだと訴えていた。同感である。私は滅多に映画には行かないのだが、今年の初めに「ラ・ラ・ランド」の封切り上映を観るために久しぶりに映画館に行ったところ、そのあまりの爆音に耳が痛くなり、気持ちが悪くなるくらいだったからだ。後半はほとんど耳を半分塞いで見ていたが、あれでは興味も半減してしまう。コツコツという靴の足音が異様に大きな音で響きわたり、車のドアを閉める衝撃音の大きさにビクッとし、踊りや演奏の場面では耳をつんざくような音が流れている。いくら年寄は耳が遠くなるので丁度いいとか言われても、やり過ぎだろう。あの調子で昔のように何本も続けて見たら、それこそ耳がおかしくなる。たまたまその映画や映画館がそうだったのかと思い、ネットで調べてみたら、同じ疑問と悩みを訴えている人が実際にたくさんいるということがわかった。見に行きたくても、あれでは怖くて行けないという人もいる。小さな子供にとっては拷問に等しく、危険ですらある。日付を見ると、ずいぶん前からそういう訴えが出ているが、その後改善されたという話は掲載されていないし、現に私も今年になって体験しているので、あまり変わっていないということなのだろう。

昔のジャズ喫茶でも結構な大音量でレコードをかけていて(今でもそういう店はある)、一般の人がいきなり聞いたらびっくりするような音量ではあった。しかし、それはオーディオ的に配慮した「音質」が大前提であり、機器を選び、再生技術を磨き、耳を刺激する歪んだ爆音ではなく、再生が難しいドラムスやベースの音が明瞭かつリアルに聞こえる音質レベルと、家庭では再生できない音量レベルで、きちんと音楽が聴けることに価値があったわけで、「音がでかけりゃいい」というものではなかった。もちろん個人の爆音好きオーディオ・マニアは昔からいるし、一般にオーディオ好きは、普通の人たちに比べたら大音量には慣れているはずなのだが、一方で音質にも強いこだわりを持っている。そういう人間からみたら、今の映画館の、あのこけおどしのような音は、ひとことで言って異常である。マルチチャンネルやサラウンド効果を聞かせたいとかいう商業的理由もあるのだろうが、パチンコ屋やゲームセンターじゃあるまいし、静かに「映画」を見たい普通の人間にとってはそんなものは最低限でいい。密閉された空間では、爆音やそうした人工的なイフェクトはやり過ぎると聴覚や平衡感覚をおかしくするのだ。座る場所を選べ、とかいうアドバイスもあるが、そういうレベルではない。耳栓をしろ、とかいう意見もあるが、これもなんだかおかしいだろう(音に鈍感な人間からアドバイスなどされたくもないし)。とにかく空間に音が飽和していて、耳が圧迫されるレベルなのだ。大画面で迫力のある音を、という魅力があるので映画館に足を運ぶ人も多いのだろうが、大画面はいいとして、あの爆音は人間の聴力を越えた暴力的な音だ。だから映画を見たいときは、家の大画面テレビで、オーディオ装置につないでDVDやネット動画を見る方がよほど快適なので、今では大方の人がそうしているのだろうが、封切り映画だけはそうもいかないので、見に行くという人も多いのだと思う。

カー・オーディオを積んで、特にウーファーの低音をドスドス響かせながら爆音で走っている車を時々見かけるが、あれと似たようなものだ。あの狭い空間であの音量を出して、よく耳がおかしくならないものだといつも感心しているが、迷惑だし、公道を走っているとはいえ、車の中は一応個人の空間なので、耳を傷めようとどうしようと勝手だが、映画館は不特定多数の人たちがお金を払って集まるパブリック・スペースであり、全員があの拷問のような爆音を無理やり聞かされるいわれはないだろう。画面サイズと音量との適切なバランスについては、昔からAV界(オーディオ・ヴィジュアルの方だ)に通説があるが、そういうバランスをまったく無視したレベルの音量なのだ。いったい、いつからこんな音量になったのだろうか? なぜあれほどの音量が「必要」なのだろうか? ひょっとして、昔アメリカで流行った野外のドライブイン・シアター時代の音の効果の名残が基準にでもなっているのだろうか? 屋内の狭い空間であの異常な音量を出すのは、何か別の理由でもあるのだろうか? 誰があの音量を決めているのだろうか? 映画関係者に一度訊いてみたいものだ…と思って調べていたら、何と以前から「爆音上映」なるものがあって、むしろ爆音を楽しむ映画館や観客がいるらしい。家では楽しめない音量で、爆音愛好家(?)が映画館で身体に響くほどの音量を楽しむ企画ということのようだ。遊園地のジェット・コースターとか3Dアトラクション好きや、耳をつんざく大音量音楽ライヴが好きな人と一緒で、要は体感上の迫力と刺激を映画にも求めているのである。映画によってはそうした爆音が音響効果を生んで、リアルな体験が楽しめるという意見を否定するつもりはないが、それもあくまで映画の内容と音量の程度次第だろう。 

思うに、昔は「音に耳を澄ます」という表現(今や死語か?)にあるように、外部から聞こえる虫の声や微妙な音に、じっと感覚を研ぎ澄ます習性が日本人にはあった。虫の出す「音」を、「生き物の鳴き声」として認識するのは、日本を含めた限られた民族特有の感覚らしく、西洋人には単なる雑音としか聞こえないという。日本人の音に対するこの繊細な感覚は、音楽鑑賞においては世界に類をみないほどすぐれたものだった。ところがそれが仇になって、今の都会では近所の騒音とか、他人の出す音に対してみんなが神経質になっていて、近所迷惑にならないようにと誰もが気を使って毎日生きている。これが普通のスピーカーで音を出して聴くオーディオ衰退の理由の一つでもある。ところが、そういう環境で育った今の若者は、携帯オーディオの普及も一役買って、子供の頃から音楽をイヤフォンやヘッドフォンで聴く習慣ができてしまった。外部に気を使っている反動と、一方で外部の音を拾いやすいイヤフォンなどの機器の特性もあって、常時耳の中一杯に飽和する音(大音量)で思い切り音楽を聴きたいという願望が強くなり、おそらく彼らの耳がそうした聞こえ方と音量に慣れてしまったのだろう。要するに外部の微細な音を聞き取る聴覚が相対的に衰え、鈍感になったということである。映画館の大音量に変化がない、あるいはむしろ増えているのは、供給者側(製作、配給、上映)にそういう聴感覚を持つ人たちが増え、需要者(観客)側にもそういう人が増えたということなのだろう。感覚的刺激を求める人間の欲望には際限がないので、資本主義下では、脈があると見れば、それをさらに刺激してビジネスにしようとする人間も出て来る。最初は感動した夜間のLEDイルミネーションも、どこでもでやり始めて、もう見飽きた。プロジェクション・マッピングも、今は似たようなものになりつつある。テクノロジーを産み、利用するのも人間の性(さが)なので、これからも、いくらでも出て来るだろうし、そのつど最初は面白がり、やがて刺激に慣れ、飽き、次の刺激を求めることを繰り返すのだろう。こうして、かつて芸術と呼ばれた音楽も、映画も、あらゆるものがエンタテインメントという名のもとに、微妙な味や香りはどうでもいいが、大味で、瞬間の刺激だけは強烈な、味覚音痴の食事のような世界に呑み込まれつつある。これはつまり、文明のみならず、文化のアメリカ化がいよいよ深く進行していることを意味している、と言っても間違いではないような気がする。