ところで、この話で思い出したのが、ナット・ヘントフが著書『ジャズ・イズ』(1976)で唯一の非アメリカ人ジャズマンとして取り上げたガトー・バルビエリ Gato Barbieri(1932-2016)で、レイシーと同世代で当時日本でも人気を集めたアルゼンチン人のテナーサックス奏者である。政変で混乱していたあの時代のブエノスアイレスには「ジャズのジャの字もなかった」かのように語っているレイシーと、その地で当時すでにジャズ・ミュージシャンとして活動していたバルビエリに、何か接点はなかったものか気になったので調べてみた。
そこで分かった驚きの事実とは……1947年にブエノスアイレスにやって来たバルビエリは、1953年にラロ・シフリン Lalo Schifrin (1932-) というクラシック畑出身の作曲家、ジャズ・ピアニスト兼指揮者のオーケストラに参加し(これはレイシーがセシル・テイラーと出会った年でもある)、その後イタリア人女性と結婚して1962年にアルゼンチンからローマへと活動拠点を移す(この時バリビエリも30歳だった)。その後レイシーの盟友で、パリにいたドン・チェリーと出会ってフリー・ジャズに傾倒し、なんとレイシーが米国を去った同じ年、1965年に逆にローマからニューヨークへ移住してチェリーのバンドに入る。さらにレイシーがアルゼンチンへの旅を終えて一度米国に戻った67年には、バルビエリは米国で初リーダー作となる『In Search of the Mystery』(ESP Disk) を発表し、翌68年にはレイシーも参加していたジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(JCO)に参加する。その後もチャーリー・ヘイデンの『Liberation Music Orchestra』(Impulse! 1969)、カーラ・ブレイの『Escalator Over The Hill』(JCOA 1971) といった、当時かなり話題を呼んだフリー・ジャズ系アルバムへ参加している。しかしレイシーとバルビエリの、この大西洋を横断する《ニューヨーク /ローマ /ブエノスアイレス》という3都市間の、まったく「逆方向の旅路」の不思議な巡り合わせをどう考えたらいいのだろうか? レイシーがニューヨークを去ったために、チェリーもJCOも後釜のようにバルビエリを採用したとも考えられるが、レイシーもバルビエリについては一言も言及していないので、実際はどうだったのかまったく分からないが、ドン・チェリーが媒介して、レイシーとバルビエリが接触した可能性はあるかもしれない(あるいは、すれ違いだったのか?)。2020/12/29
スティーヴ・レイシーを聴く #3
2020/12/13
スティーヴ・レイシーを聴く #2
米国でのレイシー最後のリーダー作となったのが、モンクの曲をタイトルにした1961年11月録音の『エヴィデンス Evidence』(Prestige 1962)だ。オーネット・コールマンのグループにいて、レイシーと個人的に親しかったトランペットのドン・チェリー Don Cherry(1936-95)、同じくオーネットのグループにいたビリー・ヒギンズ Billy Higgins (1936-2001) をドラムスに、モンク作品を4曲(<Evidence>, <Let’s Cool One>, <San Francisco Holiday>, <Who Knows>)、エリントンを2曲(<The Mystery Song>、<Something to Live for>) 選曲している。同世代のドン・チェリーは、レイシーが兄弟のようだったというほど一緒に自宅で練習した仲で、フリー・ジャズへ向かうレイシーに音楽的ショックと強い影響を与えたプレイヤーであり、レイシー同様チェリーも60年代からヨーロッパで活動し、70年代に移住した。当然ながら、このアルバムで聴けるのは、モンクの影響圏から脱出し、いよいよフリー・ジャズへ向かって飛び立とうと助走に入ったレイシーの音楽である。レイシー自身、米国時代のアルバムの中では、ギル・エヴァンスとの共演盤と並んで本作をもっとも評価している。
ところで、他のメンバーに比してこのアルバムのベーシストが、「カール・ブラウン Carl Brown」というまったく聞いたことのない奏者なので、今回あらためて背景を調べてみた。アメリカのネット上のジャズ・フォーラムで、同じ質問をしている人がいて、何人かがコメントしている。これは当時オーネットと共演していたチャーリー・ヘイデン Charlie Haden (1937-2014) が、何らかの理由で偽名で録音したのではないか、という意見もあって(ナット・ヘントフのライナーノーツに、ビリー・ヒギンズがレイシーに紹介したと書かれていることもあり)、関係者がいろいろ過去の話をしているのだが、結論はやはりヘイデンとは別人の実在したベーシストだったらしい。いくつか証拠(evidence) もあって、Atlantic向けにレイシーがヒギンズとトリオで録音した、以下の未発表音源3曲のメンバーにもカール・ブラウンの名前が記載されていることも、証拠の一つとしてあげられている。このときはAtlanticにドン・チェリーも録音していたそうだが、いずれもオクラ入りとなってリリースされなかったのだという。いずれにしろ、60年代に入ってからのレイシーの意欲的な2作は、当時は音楽的に過激すぎてまったく注目されずに終わったのだという。
[NYC, October 31, 1961 ; 5749/5752 Brilliant Corners Atlantic unissued; Steve Lacy (ss), Carl Brown (b), Billy Higgins (ds) ; <Ruby, My Dear>, <Trinkle, Tinkle>, <Off Minor>]
2020/11/27
スティーヴ・レイシーを聴く #1
セシル・テイラーとレイシー Vitrolles jazz festival, France July 1984. Photo: Guy Le Querrec |
テイラーのカルテットは、その57年7月のニューポート・ジャズ祭にも出演して3曲約30分間の演奏をしている(『At Newport』Verve)。左の盤のジャケット写真に写っているのは、同じくジャズ祭に出演したドナルド・バード(tp)とジジ・グライス(p)で、こっちが主役扱いだ。これら3曲のトラックは、テイラーのコンピ盤等にも収録されているので、そちらで聴いてもいい。テイラーの下でまだ修業中だったレイシーは、テイラーとのこの時代の自分の演奏を気に入っていないようだが、ニューポート・ライヴは、Transition盤よりはバンドの一体感も出て、当然だがレイシーも明らかに腕が上がっている。1950年代のテイラーの「バド・パウエルと、エロル・ガーナーと、バルトークをミックスしたようなサウンド」(レイシー談)は、その独特のリズムと共に、実に魅力的なサウンドで、いつまでも聴いていたくなるほど個人的には好みだ。レイシーが何度も語っているように、モンクと同じく、当時はまったく受け入れられなかったテイラーだが、およそハードバップ時代の演奏とは思えない、これらの斬新な演奏を聴くと、50年代のセシル・テイラーは、まさに1940年代後半のビバップ時代におけるレニー・トリスターノと、ほぼ同じ立ち位置にいたのだということがよく分かる。
2020/10/25
訳書『スティーヴ・レイシーとの対話』出版
表題邦訳書が10月末に月曜社から出版されます。
翻訳に際しては、いつも通り、原文の意味が曖昧に思える箇所は著者にメールで質問して確認しています。ワイス氏によれば、本書は英語版原書と今回の日本語版の他は、数年前にイタリア語版が出版されただけで、オリジナル記事の半数がフランス語のインタビューであるにもかかわらず、フランス語版は出ていないそうです(イタリアのおおらかさと、フランス国内で芸術活動をする《アメリカ人》に対するフランス的反応のニュアンスの対比は、本書中のレイシーの発言からも想像できます)。
なお、この本はレイシーの音楽人生と思想に加え、フリー・ジャズを含めた曲の構造とインプロヴィゼーションの関係、またソプラノサックスとその演奏技術に関するレイシーの哲学や信念など、ジャズに関わる専門的なトピックもかなり具体的に語られています。そこで今回は、サックス奏者で批評家でもある大谷能生さんに、プロのミュージシャンの視点から、レイシーとその音楽に関する分析と考察を別途寄稿していただくことにしました。タイトルは『「レイシー・ミュージック」の複層性』です。どうぞ、こちらもお楽しみに。
(*) 月曜社のHP/ブログもご参照ください。https://urag.exblog.jp/240584499/
2020/10/15
あの頃のジャズを「読む」 #10 (完):されどジャズ
80年代バブル景気に沸く東京のジャズの中心は、70年代までのアングラ的新宿から、オシャレな六本木、青山方面へと移動し、難しい顔をして聞く前衛的音楽から、バブルを謳歌する小金持ちや、中堅の団塊世代が集まるジャズクラブで、ゆったりと酒を飲みながら聴く「大人の音楽」へと完全に変貌した。もう「反商業主義」などと面倒臭いことを唱える人も消えて、みんなで楽しく気楽に聴けるフュージョン全盛時代となり、大規模ジャズフェスなども盛況で、ミュージシャンの仕事の場も数多く提供されていた(たぶん音楽的進化や深化はほとんどなかっただろうが、ショウビズ的には大成功で、それはそれで大衆娯楽としての音楽の本来の役割を十分に果たしていた)。ライヴのみならず、日本伝統のオーディオとジャズも相変わらず元気で、高額なオーディオ機器が飛ぶよう売れていた時代だ。それから30年、今や日本中のどこでも(蕎麦屋でも、ラーメン屋でも、ショッピングモールのトイレでも、TVでも)何の違和感もなく普通にBGMとしてジャズが聞こえてくる時代となり、プロアマ問わずジャズを演奏する人の数も飛躍的に増えて、日本中で今や毎月のように開催されているジャズフェスに出演している(今年はコロナのせいで減ったが)。つまり相倉久人が1960年代に主張していた、日本における「ジャズの土着化」は、時間はかかったが(50年)、こうしてついに実現したと言えるのかもしれない(ある意味で)。
一方、ジャズの本場アメリカは常に日本より10年ほど先を進んでいて、1960年代にはベトナム反戦や公民権運動に呼応したフリー・ジャズが台頭したが、特に64年のビートルズの米国進出以降、若者音楽の中心は、完全にロック、フォーク、ポップスへと移行し、ジャズ市場は縮小する一方だった。そうした時代に反応したマイルスの電化ジャズが60年代末期に登場したものの、70年代はじめになると、そのコンセプトを分かりやすく商業化したファンクやフュージョン時代が既に到来していた。そして67年のコルトレーン、70年のアイラ―というフリー・ジャズのカリスマたちの死、続く74年の王様エリントンの死、75年の帝王マイルスの一時引退、76年の高僧モンクの引退…等々、20世紀ジャズ界の「巨人」たちが相次いでシーンから退場し、70年代半ばには戦後のビバップに始まる「モダン・ジャズ」は実質的にその30年の歴史を終える。その後も78年のトリスターノ、79年のミンガス、80年のビル・エヴァンス、82年のモンクの死と続き、日本のバブルとは対照的な不況の80年代を通過して世紀末の最後の10年に入ると、ジャズ・メッセンジャーズを率いて多くのスターを輩出してきたアート・ブレイキーが1990年に亡くなる。そして翌91年には、白人ジャズの巨匠スタン・ゲッツ、さらにマイルス・デイヴィスという残された最後の巨人たちもついにこの世を去って、1990年代初めには、「20世紀の音楽ジャズ」の主なアイコンはほぼ消滅する。こうして、いわゆるモダン・ジャズは文字通り「博物館」へと向かうべく、ウィントン・マルサリスによっておごそかに引導が渡されたのである。
コロナ禍で時間があったこともあって、予想外に長引いたこの連載も区切りの良い#10となるので、(まだまだ面白い内外のジャズ本はあるが)とりあえず今回で終わりにしたい。最後に、「20世紀のジャズ」を心から愛し、ジャズと共に生きた日米の代表的批評家が書いた2冊の本を紹介したい。
ジャズ・イズ ナット・ヘントフ 1976/1982 白水社 |
されどスウィング 相倉久人 / 2015 青土社 |
2020/10/02
あの頃のジャズを「読む」 #9:間 章と阿部 薫
〈なしくずしの死> への覚書と断片 間章著作集Ⅱ / 2013 月曜社 |
解体的交感 高柳昌行 阿部薫 / 1970 |
完全版 東北セッションズ 1971 King International |
阿部薫と同じく「攻撃的で孤独な」音を出すギタリスト、高柳昌行との激しい上記デュオ・ライヴのタイトルを『解体的交感』と名付けたのは間章と阿部薫らしい。コンサートのサブタイトルが<ジャズ死滅への投射>であることから、要は1970年前後の時代的コンテキストや、60年代フリー・ジャズ末期という音楽情況を背景に、ジャズ的交感といった従来の概念を意図的に破壊すること、もしくはそれとの訣別宣言だったと解釈すべきなのだろう。「音で人を殺せる」と言っていたらしいが、実際には、阿部薫の音楽は「外部(聴き手)」へとは向かわず、ひたすら自己の内部にしかその音が向けられていないように聞こえる。自分の内奥深くに向けて、何かを語り、叫び、それを送り届けるためだけに吹いているようにしか聞こえない。おそらく、音楽の環が閉じられたそうした「極私的行為」そのものが彼の音楽なのだろう。しかし、阿部薫の「音楽」を理解できる、できないということとは別に、阿部の吹くアルトサックスの音の「速度」や「美しさ」や「叙情」など、彼の「サウンド」から感じる凄みと魅力は、多くの人が認めているし、録音された音源を聴いただけだが、私もそう思う。そこには言葉にできないような美を感じる瞬間があるし、心の奥底を揺り動かす何かが確かにある。阿部自身も、ジャズでも音楽でもなく、「音を出すこと」にしか興味はないという意味のことを語っているので、聴き手が抱くこの感覚はたぶん間違っていないのだろう。しかし残念だが、これも「生音」を聴かないと本当の凄さは分からないだろう。
阿部 薫 1949-1978 1994/2001 文遊社 |
なしくずしの死/ Mort A Credit 阿部薫 1975 |
「行為としてのジャズ」を信奉し、娯楽としての音楽を超えた何かを、フリー・ジャズあるいは自由な即興音楽の中に見出したり、求めていた当時の人たちには、激しい人生を送った人が多い。阿部薫、間章の二人も、まさに死に急ぐかのように1970年代を駆け抜けた。ジャズがまだパワーを持ち、フリー・ジャズが時代のBGMとしてもっともふさわしかった1960年代という激しい政治の季節が終り、穏やかな70年代になって穏やかなジャズが主流になると、大方のジャズファン(単なる音楽ファン)は難しいことは忘れて専ら快適なジャズや他の音楽を求め、それを楽しむようになった。そうした中で、よりマイナーな存在となった60年代のフリー・ジャズ的思想とパッションを持ち続けていた人たちの行動が、その反動として一層先鋭化したという時代的背景はあっただろう。しかし続く80年代になると、バブル景気に向かった日本では、当然のようにジャズを含む音楽の商業化(大衆化)が益々強まり、70年代までわずかに残されていた、シリアスな芸術を指向する思想や行動には、ほとんど関心が持たれなくなった。しかし商業的隆盛とは無関係に、日本のジャズが米国のモノマネから脱し、真にオリジナリティのある音楽へと進化したのは、70年代の山下洋輔G、富樫雅彦、高柳昌行、阿部薫などに代表されるフリー・ジャズやフリー・インプロヴィゼーションの個性的ミュージシャンたちの音楽的挑戦の結果である。だから日本のジャズが、音楽としてその「内部」で真に熱く燃えた時代は、逆説的だが「フュージョンの70年代」だったと言えるだろう。そして、1978年の阿部薫と間章の死は、戦後日本における「ムーヴメントとしてのジャズの時代」が、実質的に終焉を迎えたことを象徴する出来事だったのだろう。
2020/09/18
あの頃のジャズを「読む」 #8:日本産リアル・ジャズ(高柳昌行)
汎音楽論集 高柳昌行 / 2006 月曜社 |
1968 「スイングジャーナル」広告 『汎音楽論集』より |
Not Blues 1969 Jinya |
April is the Cruelest Month 1975 |
Lennie Tristano 1956 Atlantic |
「モダン・ジャズ」が、芸能 / 芸術、情動 / 理性、アフリカ的 / 西洋的、土着的 / 都会的……という「融和しえない2面性」を宿命的に内包し、だがそのアンビバレンスこそが魅力の音楽だと仮定するなら、それら両面を高度にバランスさせた音楽こそが真にすぐれたジャズだろうと私は考えているが、一方で、ひたすら芸能側に走る立場(商業主義)もあれば、その対極の芸術至上主義というもう一つの究極の立場も当然あるだろう。とはいえ70年代前半までのジャズと、当時は一見反体制的だったロックを含めた他のポピュラー音楽とのいちばんの違いは、「金の匂いがしない音楽」という、ある種ストイックなイメージをジャズが持っていた点にあったことも確かだ(フュージョン、バブル以降はそれも失う)。その実態がどうだったかはともかく、私がジャズという音楽を好ましく思ったのも、金にならない音楽に人生を捧げるジャズ・ミュージシャンたちをずっと尊敬してきたのも、それが理由の一つだ(反商業主義とは、いわば音楽への「ロマン」がまだ存在していた時代の産物である)。だが、いつの時代も、普通のジャズ音楽家はそれでは生きていけないので、この中間のどこかで現実と折り合いをつけて妥協するか、あるいは山下洋輔のように、意を決してそれを止揚すべく、ジャズ固有のコンテキストの中で「自分たちのジャズ」というアイデンティティをとことん追求するかなのだろうが、高柳が選んだ道は、最後まで自らの信じる「芸術としてのリアル・ジャズ」を極めることだったようだ。
1980年代初めに高柳は一度病に倒れ、ジャズそのものを取り巻く状況の変化もあって、インタビューでの発言なども多少ボルテージが下がり、当然だが70年代までのような過激さも薄まっている。その頃には、黒人、白人、日本人といったエスニシティを一切捨象し、ジャズというジャンルすら超えた純粋芸術としてのインプロヴィゼーションを追求するコンセプトがより濃厚となっていたようだ。そして晩年には、テーブル上に横に寝かせた数台のギターと音響機器を組み合わせて、ソロ演奏で電気的大音響(轟音)を発生させる「メタ・インプロヴィゼーション」、さらに「ヘヴィー・ノイジック・インプロヴィゼーション」という形態にまで到達する。こうして1991年に亡くなるまで、生涯をインプロヴィゼーションに捧げた高柳昌行は、日本の音楽界では終生アウトサイダーのままだったが、その死後、日本における真の「前衛アーティスト」として海外では高く評価され、高柳によるノイズ・ミュージックに対して「ジャパン・ノイズ」という呼称まで提唱されたということだ。
高柳昌行の音楽思想と人生は、ピアノとギターという違い、トリスターノが盲目だったという身体的違いを除けば、私にはトリスターノのそれとまさにダブって見える。モダン・ジャズは、音楽的緊張(テンション)と弛緩(リラクゼーション)の双方が感じられるのが魅力の音楽であり、聴衆側の嗜好もそのバランスに依るとも言えるが、トリスターノの音楽も高柳の音楽も、その多くが聴き手にもっぱら緊張を強いるという点で同質だろう。調律の狂ったピアノが置いてあり、高度な芸術を理解も評価もできない酒飲みの客だけが集まる享楽的なクラブでの演奏を嫌がり、ジャズ業界の商業主義や他のミュージシャンに対する厳しい批判を繰り返し、自らは高踏的な音楽を追求し続た結果、実人生では音楽家として生涯報われなかったトリスターノの人生のことも高柳はよく承知していた。トリスターノ自身やトリスターノ派のミュージシャンたちと同じように「私塾教師」という仕事を続けたのも、その「覚悟」があったからなのだろう。大友良英は、晩年の高柳と衝突して1986年に師の元を去ったということだが、これなども、まさにトリスターノとリー・コニッツという師弟訣別のエピソードを彷彿とさせるような逸話である。
夫唱婦随と言うべきか、高柳夫人による『汎音楽論集』巻末の「あとがき」は、まるで高柳昌行自身が語る言葉をそのまま代弁しているかのようである。夫を最後まで支え続けた数少ない盟友への謝辞中で、たとえば支持者だった内田修医師やフリー・ジャズ・ライターの副島輝人は分かるが、渡辺貞夫の名前も挙げられているのが(素人目には)意外だった。目指した音楽の方向は途中で分かれても、同世代であり、長い年月にわたり、互いに日本のジャズ界を背負ってきた同志ということなのであろう。
2020/09/04
あの頃のジャズを「読む」 #7:日本産フリー・ジャズ(山下洋輔)
風雲ジャズ帖 山下洋輔 1975/1982 徳間文庫版 |
初エッセイ集である『風雲ジャズ帖』は、1970年代はじめから山下が雑誌等に寄稿したエッセイや対談を編纂した本で、山下のエッセイの他に、グループのメンバーや、筒井康隆(作家)、菊地雅章(ジャズ・ピアニスト 1939-2015)などとの対談も収載されている。中でも文化人類学者の青木保 (1938-) との<表現>と題された長い対話(初出 1971年 社会思想社)では、あの時代のジャズが演奏者と聴き手にとってどういうものだったのかを語り、またジャズと祭事の文化的類似性について探るなど、非常に奥の深い議論を交わしている。昔から思っていることだが、ジャズ本でいちばん興味深く、読んで面白いのは、本音で自らの考えを語る知的なジャズ・ミュージシャンのインタビューである。またこの本には、当時進路に悩み、しかもピアノが弾けない病気療養中に山下が書いたという『ブルー・ノート研究』(初出 1969年 音楽芸術)という、ジャズにおける「ブルー・ノート」の真の意味を探る、彼の唯一の音楽研究論文も収載されている。これは、近代西洋音楽の音階と和声論だけで、ブルー・ノートを含むジャズという音楽を強引に解析することには無理があり、ヨーロッパ的和声とアフリカ的音階・旋律の融和し得ないせめぎあい(アンビヴァレンス)にこそジャズの本質があるという、当時主流だったバークリーを筆頭とするコード(記号化)進行によるジャズの西洋的単純化(システム化)思想に一石を投じた本格的論文だ。そして退院後の1969年に、それまでのジャズ・ミュージシャンとしての悩みのあれこれを払拭すべく、山下は意を決して、ビバップから「ドシャメシャ」のフリー・ジャズの世界へと本気で向かうのである。
DANCING古事記 1969 at 早稲田大学 |
キアズマ Live in Germany 1975 MPS |
ジャズの証言 山下洋輔 相倉久人 2017 新潮新書 |
また当時、日本的な空間美を意識した「芸術系」フリー・ジャズの最重要ミュージシャンだったのが天才ドラマーの富樫雅彦(1940 -2007)だ。「銀巴里」セッションをはじめ、相倉久人と一緒に行動していた1960年代の富樫雅彦と山下洋輔の関係はあまり知らなかったのだが、本書には同じようにフリー・ジャズの世界を指向しながら、二人が結果的に別々の道を歩むことになった経緯も書かれている。富樫は佐藤允彦(p) と共演するなど絶頂期だった1970年に不幸な事故に会い、下半身不随という後遺症と向き合いながら、その後パーカッショニストとして復活して数多くの名演を残した。また70年代半ばからは間章 (あいだ・あきら)の仲介を経て、スティーヴ・レイシーなど多くの海外ミュージシャンとも共演してその音楽世界を拡大し、2007年に亡くなるまで演奏活動を続けた。いずれにしろ、相倉の目指した、アメリカのモノマネを越えて、(世界に通用する)日本独自のジャズを創造するというヴィジョンは、表現手法は異なっても、山下洋輔と富樫雅彦という二人の日本人ミュージシャンによって実現したと言えるだろう。近年「和ジャズ」がブームになっているが、日本ならではのオリジナリティを持ち、しかもメジャーな存在として世界に認知された「正真正銘の和ジャズ」と呼べる音楽を創造したのは、間違いなく50年前の山下洋輔と富樫雅彦であり、また当時二人と共演した日本人ミュージシャンたちだったと思う。
2020/08/15
あの頃のジャズを「読む」 #6:ジャズと文学
「ジャズはかつてジャズであった。」 中野宏昭 / 1977 音楽之友社 |
モード後の1960年代、フリー・ジャズへは向かわなかったマイルス・デイヴィスは、67年のコルトレーンの死後、ロックとエレクトリック楽器にアフリカ的リズムを融合した『ビッチェズ・ブリュー Bitches Brew』(1970) に代表される一連のアルバムを発表する。まったく新しいコンセプトによって、次なるジャズ・サウンドを創出したマイルスの支配的影響もあって、それ以降のジャズは、演奏家個人の技術や魅力よりも、「全体として制御された集団即興」へと音楽の重心がシフトした。電気増幅によってサウンドが大音量化し、個性の出しにくいギターとキーボードというコード楽器の比重が増したために、それまで主楽器だったサックスなど単音のホーン系アコースティック楽器の存在感が相対的に低下した。さらに「演奏後の録音編集」という新技術がそこに加わったために、結果として、演奏現場で、独自のサウンドで瞬間に感応する即興演奏で生きていた個々の演奏家の存在感が薄まって行くことになった。中野宏昭は書名にもなった表題エッセイで、70年代フュージョンの先駆となるこうした集団即興に舵を切ったマイルスのエレクトリック・ジャズを取り上げ、一方でコルトレーンの死後も、演奏者個人のインプロヴィゼーションを追求するアコースティック・ジャズの伝統を受け継いできたキャノンボール・アダレイの死(1975年)が意味するものと対比し、かつてのジャズが持っていた、演奏家が身を削って瞬間的に生み出す「一回性の始原的創造行為」という特性をもはや失った、と70年代のジャズの変化を捉えている(それでもなお、彼はマイルスの新しい音楽にジャズの未来を託している)。これは、60年代までのシリアスでラディカルなジャズを「同時代の音楽」として聴いてきた多くのジャズの聴き手に共通する感覚でもあった。マイルスのコンセプトをいわば商業化したバージョンであり、エレクトリック楽器を多用した70年代の「フュージョン」隆盛は、単にジャズの「サウンド」を変化させただけでなく、音楽としてのジャズの「本質」を変えたと感じる人が多かったのである。
ユリイカ(青土社) 1976年1月号 特集<ジャズは燃え尽きたか> |
ジャズ最終章 小野好恵 / 1997 深夜叢書社 |
1965年に高校を卒業すると、紀州(新宮)から上京してそのまま向かった新宿のジャズ喫茶で、いきなり 「重く黒い」 フリー・ジャズを全身に浴び、未体験のその音に圧倒され触発されて、ジャズそのものを創作手法に取り入れた小説を書くようになったのが中上健次だ。対照的に、60年代からジャズとアメリカン・ポップスを聴きながら都会で育ち、柔らかで軽い白人ジャズ(特にスタン・ゲッツ)を好み、ついにジャズ喫茶まで開く人並みはずれたジャズ・フリークでありながら(あるがゆえに)、多くの作品中で小道具的に触れることはあっても、創作上のテーマや技法においてはジャズと一定の距離を置いていたのが村上春樹である。小野好恵は同書で、ほぼ同世代のこの二人の作家のジャズに対するスタンス、美意識と作品を比較、考察している(「二つのJAZZ・二つのアメリカ―中上健次と村上春樹(1985年)」)。1960年代半ばの新宿で、突然「ジャズにカブれた田舎者」と、ほぼプロ並みの知識を持つ「都会人ジャズおたく」の対比という見方もできるが、中上健次の、ジャズのパワーに対する一見して雑だがピュアでストレートな反応と、対照的に、あからさまな主張や表現を嫌い、寓意と細部の洗練にこだわる村上春樹の都会人らしいジャズへの嗜好、その両方が、ある意味で当時のジャズの中にあった「土着性 / 暴力性」と「洗練 / 退廃」という2つの魅力を象徴しているとも言える。
路上のジャズ 中上健次 / 2016 中公文庫 |
『ジャズ最終章』には他にも、フリー・ジャズを60/70年代固有の一過性フォーマットとして捉えず、メソッドとして「意識的に選択」し、その後も10年以上にわたって一貫して「冷静に挑戦」し続けた山下洋輔のジャズ・ミュージシャンとしての矜持と真価を讃える「破壊するジャズの荒神 山下洋輔(1980年)」、フュージョン全盛時代にあって、ロック、ポップス、現代音楽など、世界中のあらゆる異ジャンルの音楽、ミュージシャンたちと共演し、そこで圧倒的な存在感を発揮する渡辺香津美のジャズ・ギタリストとしてのアナーキーさとスケールに感嘆する「渡辺香津美 あるいはテクニックのアナーキズム(1980年)」、さらに小野が寄稿したコルトレーン、ドルフィー、阿部薫、富樫雅彦他の内外ミュージシャンに関する論稿やディスクレビュー等も併せて収載されている。60年代末から80年代にかけてのジャズシーンの変容とその意味を、深く静かに見つめていた小野好恵の文章は、中野宏昭と同じく、全編に著者のジャズへの愛が感じられ、鋭くかつニュートラルなその批評の質の高さが際立っている。しかし、中上健次がそうだったように、ドルフィー、コルトレーン、アイラ―に代表される60年代フリー・ジャズこそが、ジャズという音楽の本質をもっともラディカルに体現していたフォーマットだと信じていた小野好恵の70年代半ば以降の論稿の基調は、商業音楽フュージョンに埋め尽くされ、息絶えてしまったフリー・ジャズと、失われてしまった「行為としてのジャズ」そのものに対する絶望と諦念だ。
1992年に46歳で亡くなった中上健次の後を追うように、96年に病に倒れた小野好恵に捧げられた村上龍、高瀬アキ、清水俊彦、山口昌夫氏他の各分野の知人、友人たちからの心のこもった巻末の追悼文が、著者の人柄と業績をよく表している。同時に、1977年の『ジャズはかつて…』からちょうど20年後の1997年に出版された『ジャズ最終章』というタイトルが、時の流れとあの時代のジャズの変容を物語っている。偶然とはいえ、ここに挙げた中野宏昭、小野好恵、中上健次というほぼ同世代の3人は、不幸にも全員が早逝してしまった。しかし、「音楽」が消耗品のように日常に溢れ、すべてがエンタメ化し、もはや個々の音楽に特別な感慨を抱くことが難しくなってしまった現代から振り返ってみると、豊かな知性と感性を持ちつつジャズと真摯に向き合い、ジャズを語り、ジャズを心から愛し慈しむことのできた彼らは、短いながらも幸福な時代を生きたと言えるのかもしれない。