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2020/12/29

スティーヴ・レイシーを聴く #3

1960年代初め、レイシーは同じようにフリー・ジャズへの指向を強めていたディキシー出身のトロンボーン奏者ラズウェル・ラッド Roswell Rudd (1935-2017) と二人で、モンク作品だけに集中して楽曲を研究していた。そこにドラムスのデニス・チャールズ、何人も入れ替わったベース奏者が加わって、1962年に ”2管ピアノレス” によるモンクのレパートリー・カルテットというユニークなバンドを結成した。しかし、何しろモンク作品という当時はほとんど誰も知らないような曲だけを演奏するフリー・ジャズまがいの過激なバンドだったので、レコーディングの機会はおろか(クリード・テイラーには、録音途中でダメ出しされた)、クラブでの演奏の場さえ見つからずにレイシーたちは苦闘していた。そこで現代のストリート・ミュージシャンと同じく、様々な場所で自前のギグを創り出していた。そうした時代だった1963年3月に、ヴィレッジのカフェで行なった演奏を非公式録音したものの、1975年まで12年間どこからも正式リリースされなかった伝説的レコードが、モンクの代表作7曲を演奏した習作『スクール・デイズ School Days』(Emanem)だ(このベースはヘンリー・グライムス)。

本書でレイシーが何度か言及しているように、レイシーの音楽が、いかに当時のニューヨークでは受け入れられず、彼がそこを去ることにしたのか、(いろいろな意味で)その理由が分かるような内容の演奏だ。このレコードはその後何度かリリースされ、ジャケットが変わるので注意が必要だが、私が持っているのはこのジャケット写真の現在のCD(Emanem)で、上記レイシーのピアノレス・カルテットの演奏7曲に加えて、あのモンク・クインテット(チャーリー・ラウズ-ts、ジョン・オア-b、ロイ・ヘインズ-ds)が、1960年8月にフィラデルフィアのクェーカーシティ・ジャズ祭に出演したときのブートレグ録音(CBSのラジオ放送)が2曲追加されている(<Evidence>と <Straight, No Chaser>)。「ジャズ・ギャラリー」で、発足したばかりのジョン・コルトレーン・カルテットとソプラノサックスで対峙していたレイシーが、モンク・クインテットに属していた4ヶ月間の演奏は、惜しいことにRiversideがまったく録音しなかったので、このフィリーでのジャズ祭録音が、唯一残されたレイシーとモンクのスモール・コンボ共演記録であり、しかも聞けばわかるが、Columbiaへ移籍直前だったモンクはこの当時は絶好調だった(おそらく未録音の背景には、当時のRiversideとモンクの関係悪化があった可能性もある)。この時まだ26歳だったレイシーが、憧れのモンクと共演できて、どれだけ張りきっていたか伝わってくるような演奏であり、モンクがいちばん難しいと言っていたユニゾンの完成バージョン(ラウズとの)もこの録音で聴ける。

『タウンホール・コンサート』(Riverside 1959) に続くセロニアス・モンク2度目のビッグバンド公演をライヴ録音したのが、Columbia移籍後の1963年12月30日の「フィルハーモニック・ホール」でのコンサート『Big Band and Quartet in Concert』(CBS)である。上記『School Days』と同じ年の演奏であり、レイシーもそこに参加し、Riverside盤と同じくホール・オヴァートンが再び編曲を担当した。直後は不評だった「タウンホール」でのコンサートの音調は、低域部が重かったという反省から、モンクとオヴァートンはチャーリー・ラウズ(ts)、ニック・トラヴィス(tp)、エディ・バート(tb)、フィル・ウッズ(as,cl)、ジーン・アレン(bs,cl/bcl)というホーンセクションのメンバーに、サド・ジョーンズ(corn) と、レイシー(ss) を新たに加えた。この高域部の強化によって明るい響きになったビッグバンドは前作と違って当初から好評だった。その演奏を収めたCD2枚組は録音が非常にクリアなので、各パートの音も明瞭で快適なサウンドを楽しめる。1961年の『Evidence』以降、ラズウェル・ラッド(tb)との上記非公式録音以外に演奏や録音の機会がほとんどなかったレイシーは、1963年末のモンクのこのアルバムの他、ギル・エヴァンスのマイルスとの共演盤『Quiet Night』(Columbia 1963)や、ケニー・バレルの『Guitar Forms』( Verve 1964)などのエヴァンス編曲のオーケストラ作品に時々参加している。おそらくモンクもエヴァンスも、苦闘しているレイシーに、何とか仕事の機会を与えたいと思っていたのではないだろうか。その後カーラ・ブレイ Carla Bley (1936-) 率いるJazz Composer’s Orchestra(JCO)の『Communication』(Fontana 1964/1965)への参加が、米国におけるレイシー最後の録音記録となったようだ。本書#4のインタビュー「さよならニューヨーク」は、その直後に行なわれたものであり、そこでレイシーは、1950年代初めにセシル・テイラーが挑戦していた音楽と似たようなものを、ほぼ15年後にフリーフォームのオーケストラで再演しているかのようなカーラ・ブレイたちの当時の音楽に対する印象を述べている。自分を受け入れてくれないニューヨークに苛立ち、愛想をつかしたレイシーは、30歳になったその年1965年にヨーロッパへと旅立つのである。

レイシーにとって初めてのヨーロッパは、デンマーク・コペンハーゲンのクラブ「カフェ・モンマルトル」でのドン・チェリー(tp)、既に現地移住していたケニー・ドリュー(p) たちとの仕事で始まった。その後チェリーや現地のミュージシャンたちとフリー・ジャズを追求していたローマ滞在中の1966年に、レイシーはやがて妻となるスイス人のチェロ奏者イレーヌ・エイビと出会う。イタリア人のエンリコ・ラヴァ(tp)、南アフリカからの亡命ミュージシャンだったジョニー・ディアニ(b)とルイス・モホーロ(ds) らとカルテットを結成したレイシーは、ラヴァの妻がアルゼンチン人だったことから、66年春に、本書で何度も言及しているアルゼンチンでの9ヶ月に及ぶ苦難のロードへと出かける。『森と動物園 The Forest and the Zoo』(ESP Disk 1967)は、9ヶ月にわたるブエノスアイレス滞在を終える直前に、レイシーが現地でライヴ録音した上記カルテット絶頂期のフリー・ジャズ演奏であり、二度とそれ以前に戻ることのできない「錬金術のフリー」とレイシー自身が語る、バンドが完全燃焼したアルバムだった(独特のジャケットの絵はボブ・トンプソン)。そしてこの演奏をもって、レイシーのフリー・ジャズ追及時代は頂点を迎え、その後は70年代のpost-free/poly-freeという、曲構造と自由な即興を同時に内包するというモンク作品に触発された、レイシー固有の音楽を創造する時代へと移行してゆく。

ところで、この話で思い出したのが、ナット・ヘントフが著書『ジャズ・イズ』(1976)で唯一の非アメリカ人ジャズマンとして取り上げたガトー・バルビエリ Gato Barbieri(1932-2016)で、レイシーと同世代で当時日本でも人気を集めたアルゼンチン人のテナーサックス奏者である。政変で混乱していたあの時代のブエノスアイレスには「ジャズのジャの字もなかった」かのように語っているレイシーと、その地で当時すでにジャズ・ミュージシャンとして活動していたバルビエリに、何か接点はなかったものか気になったので調べてみた。

そこで分かった驚きの事実とは……1947年にブエノスアイレスにやって来たバルビエリは、1953年にラロ・シフリン Lalo Schifrin (1932-) というクラシック畑出身の作曲家、ジャズ・ピアニスト兼指揮者のオーケストラに参加し(これはレイシーがセシル・テイラーと出会った年でもある)、その後イタリア人女性と結婚して1962年にアルゼンチンからローマへと活動拠点を移す(この時バリビエリも30歳だった)。その後レイシーの盟友で、パリにいたドン・チェリーと出会ってフリー・ジャズに傾倒し、なんとレイシーが米国を去った同じ年、1965年に逆にローマからニューヨークへ移住してチェリーのバンドに入る。さらにレイシーがアルゼンチンへの旅を終えて一度米国に戻った67年には、バルビエリは米国で初リーダー作となる『In Search of the Mystery』(ESP Disk) を発表し、翌68年にはレイシーも参加していたジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(JCO)に参加する。その後もチャーリー・ヘイデンの『Liberation Music Orchestra』(Impulse! 1969)、カーラ・ブレイの『Escalator Over The Hill』(JCOA 1971) といった、当時かなり話題を呼んだフリー・ジャズ系アルバムへ参加している。しかしレイシーとバルビエリの、この大西洋を横断する《ニューヨーク /ローマ /ブエノスアイレス》という3都市間の、まったく「逆方向の旅路」の不思議な巡り合わせをどう考えたらいいのだろうか? レイシーがニューヨークを去ったために、チェリーもJCOも後釜のようにバルビエリを採用したとも考えられるが、レイシーもバルビエリについては一言も言及していないので、実際はどうだったのかまったく分からないが、ドン・チェリーが媒介して、レイシーとバルビエリが接触した可能性はあるかもしれない(あるいは、すれ違いだったのか?)。

ガトー・バルビエリは、その後1972年にはベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の音楽監督を務めて一気にスターとなり、Flying Dutchmanや Impulse! といったレーベルに多くの録音を残しているが、1980年代以降は低迷していたようだ。一方のレイシーは、アルゼンチンの後エイビと共に1967年にいったんニューヨークへ戻るが、現地ではたいした仕事もなく、エイビのヴォーカルを初めて取り入れ、ポール・モチアンたちと作ったバンドで再度ヨーロッパへ向かったが、それも短命に終わる。やむなく1968年に再びローマへ活動の拠点を移し、現地にいたアメリカ人の現代音楽作曲家の集団ムジカ・エレットロニカ・ヴィヴァ(MEV)と共に、フリー・ジャズを超えた実験的音楽の世界を追及するようになる。

2020/12/13

スティーヴ・レイシーを聴く #2

スティーヴ・レイシーが1965年に米国を去る前に残した(正式にリリースされた)リーダー作は4枚で、その昔、私が聞いていたレイシーのレコードも、実を言えば、それらのアルバムだけだ。離米直前の本書#4のインタビュー(さよならニューヨーク)で「過去のレコードはもう聴きたくないし、これからも聴かないだろう」と語っているように、60年代に入ると、自分が今現在追及している音楽は見向きもされず、録音はおろか演奏の場さえなかった当時のレイシーは過去を振り返るような気分でもなく、またそんな余裕もなかったのだろう。50年代後半から60年代初めにかけての、当時レイシーが研究していたモンク作品を中心にしたこれら4枚のアルバムは、まだレイシー自身の音楽を確立していない習作というべきものだ。とはいえ、それだけに、ハードバップからモード、フリーへと急速に変化しつつあった当時のジャズを背景に、今は上掲の2枚のCDに収まっている、まだ発展途上にあった若きレイシーの瑞々しいソプラノサックスのサウンドの変化を聴くのは楽しい。またレイシー自身も後年のインタビューでは、こうした若い時代の演奏を肯定的に振り返るようになっている(たいていのジャズ・ミュージシャンは、年を経ることで自分の過去の演奏への見方を変えるようだ)。

1957年のギル・エヴァンス盤の録音(9, 10月)の翌11月にレコーディングされたのが、23歳のレイシーにとって初めてのリーダー作『ソプラノサックス Soprano Sax』(Prestige 1958) である。このメンバーはデニス・チャールズとビュエル・ネイドリンガーというセシル・テイラーのグループのメンバーに、ピアニストとしてウィントン・ケリーWynton Kelly (1931-71) が加わったカルテット編成で、モンク作の1曲(Work)を除き、エリントン(Day Dream他)、コール・ポーター(Easy to Love) の作品など、スタンダード曲を中心に演奏したアルバムだ。曲目に加え、初リーダー作の録音で緊張していたこともあって、セシル・テイラーやギル・エヴァンスとの前記2作品に比べてやや無難な演奏に終始している印象がある。レイシーのソプラノサウンドは相変わらず滑らかでメロウだが、とにかく全員が冒険していない普通のハードバップ時代の演奏のように聞こえる。サウンド的に、やはりウィントン・ケリーのピアノの影響が大きいのだろう。中ではモンク作<Work>のサウンドだけが異彩を放っていて、やはりいちばんレイシーらしさが感じられる演奏だ。とはいえ、1曲目の<Day Dream>のレトロなイントロとメロディが滑らかに流れてくると、どこか懐かしい音にホッとしてなごむ。ご本人は満足していなくとも、私的には十分楽しめるアルバムだ。

初リーダー作の1年後、1958年10月に録音されたのが『リフレクションズ Reflections』(New Jazz 1959) である。当時モンク作品を演奏していた人間はほとんどいなかったそうで、アルバム・レベルでモンクの曲を複数取り上げた最初のミュージシャンは、実はフランスのバルネ・ウィランだった(『Tilt』1957)。レイシーのこのアルバムは全曲がセロニアス・モンク作品という世界初の試みであり、しかも<Four in One>、<Bye-Ya>、<Skippy>といった、モンクの中でも難しそうな曲ばかり取り上げているところにも、レイシーの意気込みが伺える。ここでは、ピアノに気心の知れたマル・ウォルドロン、ドラムスにまだコルトレーン・バンドで売り出し前のエルヴィン・ジョーンズというメンバーに声を掛けている。レイシーと音楽的相性の良さが感じられるこの二人が、本アルバムの出来に大きく寄与していることは間違いない(マル・ウォルドロンとレイシーは、ヨーロッパ移住後も親しく交流していた)。ところで本書のレイシーの話では、実はベースはネイドリンガーではなく、当時モンク・バンドのレギュラー・ベーシストだったウィルバー・ウェアの予定だったが、ウェアがリハーサルに現れなかったので(例によって飲み過ぎか?)、ピンチヒッターとして急遽ネイドリンガーを呼んだのだという(もしウェアが参加していたら、もっと良い作品になった可能性があるとレイシーは言っている……)。しかしモンク作品に集中し、その後のレイシーの音楽上の道筋を明確にしたという点からも、いずれにしろこのアルバムは50年代レイシーの記念碑と言うべき作品だろう。リズミカルな難曲に加え、<Reflections>と<Ask Me Now>というモンクの代表的バラードを2曲選んだところもいい。モンク自身でさえ、当時はあまり演奏しなくなったような曲まで選んだこのレコードをレイシーから献呈されて、モンクは喜び、演奏も褒めてくれたらしい。ついでに40年代末のブルーノート盤以来10年間演奏していなかった<Ask Me Now>を、その後は自分でもレパートリーとして取り上げるようになったのだという。

 1960年5月にジミー・ジュフリー Jimmy Giuffre (1921-2008) とカルテットを組んで、短期間「ファイブ・スポット」に出演したレイシーだったが、ジュフリーのコンセプトと折り合わず、そのグループは長続きしなかった。しかし、オーネット・コールマンの前座だった、わずか2週間のその出演時にレイシーを聴きに来たのがニカ夫人にけしかけられたモンクであり、もう一人がジョン・コルトレーンだった。その演奏を聴いたモンクは、(ジュフリーGの演奏は気に入らなかったようだが)その後自分のカルテット(チャーリー・ラウズ-ts、ジョン・オア-b、ロイ・ヘインズ-ds)にレイシーを加えて ”クインテット” を編成し、テルミニ兄弟が「ファイブ・スポット」に加えて出店したクラブ「ジャズ・ギャラリー」に、4ヶ月にわたって出演した。そして「ファイブ・スポット」でレイシーのソプラノサックスのサウンドを聴いたコルトレーンは、その後自分でもソプラノを吹き始めた。その年の11月に録音されたレイシー3作目のリーダー・アルバムが、『ザ・ストレート・ホーン・オブ・スティーヴ・レイシーThe Straight Horn of Steve Lacy』(Candid 1961) である。メンバーを一新して、チャールズ・デイヴィスのバリトンサックスとレイシーのソプラノの2管、ベースにはジョン・オア、ドラムスにはロイ・ヘインズという当時のモンク・バンドのリズムセクションという異色の編成で ”ピアノレス” カルテットに挑戦したレコードだ。これは2管のモンク・クインテットとして、「ジャズ・ギャラリー」で夏の4ヶ月間演奏した直後のタイミングなので、モンク直伝のサックス2管によるユニゾン・プレイなど、当然そのときのモンク・バンドの編成とメンバーから生まれたアイデアに基づくアルバムと考えていいのだろう。選曲は、相変わらずモンクの難曲3曲<Introspection>、<Played Twice>、<Criss Cross>を選び、セシル・テイラーの2曲<Louise>、<Air>と、1曲だけマイルスの<Donna Lee>(パーカー作という説もある)を取り上げているが、モンクのグループとの共演直後ということもあって、レイシーの創作意欲と挑戦的姿勢がとりわけ感じられる作品だ。オーネット・コールマンの登場後でもあり、レイシーが60年代フリー・ジャズへと向かう兆しがはっきりと聞き取れるのがこのアルバムでの演奏だ。

米国でのレイシー最後のリーダー作となったのが、モンクの曲をタイトルにした1961年11月録音の『エヴィデンス Evidence』(Prestige 1962)だ。オーネット・コールマンのグループにいて、レイシーと個人的に親しかったトランペットのドン・チェリー Don Cherry(1936-95)、同じくオーネットのグループにいたビリー・ヒギンズ Billy Higgins (1936-2001) をドラムスに、モンク作品を4曲(<Evidence>, <Let’s Cool One>, <San Francisco Holiday>, <Who Knows>)、エリントンを2曲(<The Mystery Song>、<Something to Live for>) 選曲している。同世代のドン・チェリーは、レイシーが兄弟のようだったというほど一緒に自宅で練習した仲で、フリー・ジャズへ向かうレイシーに音楽的ショックと強い影響を与えたプレイヤーであり、レイシー同様チェリーも60年代からヨーロッパで活動し、70年代に移住した。当然ながら、このアルバムで聴けるのは、モンクの影響圏から脱出し、いよいよフリー・ジャズへ向かって飛び立とうと助走に入ったレイシーの音楽である。レイシー自身、米国時代のアルバムの中では、ギル・エヴァンスとの共演盤と並んで本作をもっとも評価している。

ところで、他のメンバーに比してこのアルバムのベーシストが、「カール・ブラウン Carl Brown」というまったく聞いたことのない奏者なので、今回あらためて背景を調べてみた。アメリカのネット上のジャズ・フォーラムで、同じ質問をしている人がいて、何人かがコメントしている。これは当時オーネットと共演していたチャーリー・ヘイデン Charlie Haden (1937-2014)  が、何らかの理由で偽名で録音したのではないか、という意見もあって(ナット・ヘントフのライナーノーツに、ビリー・ヒギンズがレイシーに紹介したと書かれていることもあり)、関係者がいろいろ過去の話をしているのだが、結論はやはりヘイデンとは別人の実在したベーシストだったらしい。いくつか証拠(evidence) もあって、Atlantic向けにレイシーがヒギンズとトリオで録音した、以下の未発表音源3曲のメンバーにもカール・ブラウンの名前が記載されていることも、証拠の一つとしてあげられている。このときはAtlanticにドン・チェリーも録音していたそうだが、いずれもオクラ入りとなってリリースされなかったのだという。いずれにしろ、60年代に入ってからのレイシーの意欲的な2作は、当時は音楽的に過激すぎてまったく注目されずに終わったのだという。

[NYC, October 31, 1961 ; 5749/5752 Brilliant Corners Atlantic unissued;  Steve Lacy (ss), Carl Brown (b), Billy Higgins (ds) ; <Ruby, My Dear>, <Trinkle, Tinkle>, <Off Minor>]

2020/11/27

スティーヴ・レイシーを聴く #1

リー・コニッツとセロニアス・モンクの本を翻訳中は、ずっと二人のレコードを聴きながら作業していたが、今回出版した『スティーヴ・レイシーとの対話』(月曜社)も同じだ(左記イメージは、Jason Weiss編纂の原書)。そして、今はネット上でヴィジュアル情報へも簡単にアクセスできるので、YouTubeで映像を見たり、インタビューなどの音声記録を聞いたりして、生きて動いている彼らのイメージを把握することもできる。特に「声と喋り」は、インタビュー本の場合、翻訳した文章と実際の話し方のトーンやリズムを、できるだけ近いイメージにしたいので必須情報だ。だがレコードは、コニッツより多作なレイシーの場合、なんと200作近いアルバムをリリースしているそうなので、とても全部は聴けないし、70年代以降はフランスのSaravah、スイスのHat Hut、イタリアのSoul Noteなど、ヨーロッパのマイナー・レーベル録音中心なので、昔ほどではないにしても入手が難しい音源も結構多く、本当にコアなファン以外は聴いたことのないレコードがほとんどだろう。したがって手持ちの代表的音源をあらためて聴き直し、ほとんど知らなかった70年代以降の数多いCDのうちの何枚かを新たに入手し、それらを聴いていた。

セシル・テイラーとレイシー
Vitrolles jazz festival, France
July 1984. Photo: Guy Le Querrec
ジャズ・ミュージシャンに関する翻訳書を出版後、そうして自分で聴いたレコードを紹介するブログ記事を書いているのは、自分なりに音楽の印象を再確認する意味もあるが、むしろ本を購入していただいた読者への私なりのアフターサービスのつもりである。本当なら日本の読者向けに、訳書には(レコードのジャケット写真を含む)ディスコグラフィを掲載したいのだが、リー・コニッツ本だけは何とかそうできたものの、モンクもレイシーも、ページ数の制約もあってそれができなかった。今はネットで調べればレコード情報はすぐに分かるし、訳書の性格からしても、私がここで書くようなことは当然知っているコアなファンや読者も多いだろう。だが、そうではない人たちも当然いるはずなので、そういう読者向けに、訳書の進行に沿って代表的レコードに関する情報をブログで後追いする記事をこれまでも書いてきた。本には書いていないが、調べてみて初めて知ったトリヴィア的周辺情報もそこに加えている。絵画好きなスティーヴ・レイシーは好みの絵をジャケットによく使い、レコードのジャケットと収録曲とのイメージのつながりの大事さについて語っているが、私のようなオールド・ジャズファンも、読みながらレコード・ジャケットの絵柄イメージが湧き、そこから音が聞こえてくるような「ジャズ本」が本当は理想なので、そういう観点からも、このブログ記事が読者の参考になれば嬉しい。

同書の巻末に掲載しているSelected Discographyに沿って、レイシーがデビューした50年代から見て行くと、1950年代前半のディキシーランド時代に参加したレコードも何枚かあるが(『Progressive Dixieland ; Dick Sutton Sextet』, Jaguar 1954他)、今は一般CDでは入手できそうもないので、まず挙げられるのはピアニストで作曲家のセシル・テイラー Cecil Tailor (1929-2018) との共演盤だ。ディキシーという伝統的ジャズの世界から(モダンを飛び越して)その対極にあるアヴァンギャルドの大海に、レイシーをいきなり放り込んだのが5歳年長のテイラーである。そのテイラーのデビュー作がレイシーも参加した『ジャズ・アドヴァンス Jazz Advance』(Transition 1956、録音1955年12月)であり、このアルバムはモンクとデンジル・ベストの共作で、カリブ風のリズムを持つ<Bemsha Swing>で始まる。19歳だった1953年から6年間行動を共にし、モンクやその曲を知ったのもこのテイラー盤を通じてであり、レイシーの音楽人生の基本的方向を決定づけたのは間違いなくセシル・テイラーだろう。デニス・チャールズ Dennis Charles (ds) とビュエル・ネイドリンガーBuell Neidlinger (b)という、当時はほとんど需要(仕事)のなかった若きカルテットの演奏は、1970年代でもまだ前衛というイメージだったと記憶しているが、今の耳で聴くと適度なアヴァンギャルド感が新鮮で耳に心地良い。1956年11月から57年1月にかけて、「ファイブ・スポット」に初めて長期出演したのがセシル・テイラーのこのバンドで、レイシーは途中から加わっている。キャバレーカードをようやく取り戻した40歳のセロニアス・モンクが、7月にジョン・コルトレーンを擁して自身初のリーダーとなるカルテットで登場する半年前のことだ。前衛画家や、詩人や、作家たちが、彼らを聴きに「ファイブ・スポット」に毎夜集まっていた。

テイラーのカルテットは、その57年7月のニューポート・ジャズ祭にも出演して3曲約30分間の演奏をしている(『At Newport』Verve)。左の盤のジャケット写真に写っているのは、同じくジャズ祭に出演したドナルド・バード(tp)とジジ・グライス(p)で、こっちが主役扱いだ。これら3曲のトラックは、テイラーのコンピ盤等にも収録されているので、そちらで聴いてもいい。テイラーの下でまだ修業中だったレイシーは、テイラーとのこの時代の自分の演奏を気に入っていないようだが、ニューポート・ライヴは、Transition盤よりはバンドの一体感も出て、当然だがレイシーも明らかに腕が上がっている。1950年代のテイラーの「バド・パウエルと、エロル・ガーナーと、バルトークをミックスしたようなサウンド」(レイシー談)は、その独特のリズムと共に、実に魅力的なサウンドで、いつまでも聴いていたくなるほど個人的には好みだ。レイシーが何度も語っているように、モンクと同じく、当時はまったく受け入れられなかったテイラーだが、およそハードバップ時代の演奏とは思えない、これらの斬新な演奏を聴くと、50年代のセシル・テイラーは、まさに1940年代後半のビバップ時代におけるレニー・トリスターノと、ほぼ同じ立ち位置にいたのだということがよく分かる。

カナダ出身のギル・エヴァンスGil Evans (1912-88) は、1940年代後半にジェリー・マリガンやリー・コニッツと共に、クロード・ソーンヒル楽団のピアニスト兼首席編曲者として在籍していた。よく知られているように、その後40年代末に、このメンバーにマイルス・デイヴィス他が加わって、『クールの誕生』に代表される、ビバップとは対照的な抑制のきいた多人数アンサンブル(ノネット)からなる、いわゆるクール・ジャズを生み出す。エヴァンスは『Round Midnight』(CBS 1956)などで、その後もマイルスとのコラボレーションを続けながら、初のリーダー作『ギル・エヴァンス・アンド・テン Gil Evans & Ten』(Prestige 1957)をリリースするが、本書にあるように、このレコードが、ソプラノサックスを吹くレイシーを初めて全面的にフィーチャーした録音となり、レイシーをジャズ界に実質的にデビューさせ、また生涯続いたレイシーとエヴァンスの親しい交流のきっかけとなった。

『Gil Evans & Ten』は、セシル・テイラーとのアヴァンギャルドな響きの共演盤とは異なり、スタンダード曲を中心に、全編エヴァンスらしいスムースでメロウな演奏が続くが、レイシーの繊細かつ滑らかなソプラノプレイは曲想にぴたりと合ってすばらしい。たぶんこれは、エヴァンスが思い描いていた通りのサウンドだったのだろう。このときは譜読み技術がまだ未熟で、バンドの他のメンバーに大変な迷惑をかけたとレイシーは述懐しているが、このエヴァンス盤での演奏自体は本人も気に入っているという。ギル・エヴァンスは、その後しばらくして、自身のアルバム『Into the Hot』(Impulse! 1961)でセシル・テイラーのユニットのプロデュースをしている。レイシーが作曲面で大きな影響を受けた素晴らしい作品だ、と本書中で言及しているテイラーの3曲、<Pots>, <Bulbs>, <Mixed>は、エヴァンスのこのアルバムに収録されている(他の3曲はジョニー・カリシ作品)。レイシーが言うように、確かにこれらはいずれもすごい曲と演奏であり、60年代に入って、テイラーがさらに進化し続けていることを如実に示している。

2020/10/25

訳書『スティーヴ・レイシーとの対話』出版

表題邦訳書が10月末に月曜社から出版されます。

20世紀に生まれ、100歳を越えた音楽ジャズの歴史は、これまでに様々な視点や切り口で描かれ、もはや語り尽くされた感があります。しかし「即興 (improvisation)」 こそが音楽上の生命線であるジャズは、つまるところ、限られた数の優れた能力と個性を持つ「個人」が実質的に先導し、進化させてきた音楽です。こうした見方からすると、ジャズ史とは、ある意味でそれらのジャズ・ミュージシャンの「個人史」の総体であると言うこともできます。大部分がミュージシャン固有の知られざる実体験の集積である個人史は、その人の人生で実際に起きたことであり、ジャズの巨人と呼ばれた人たちに限らず、多くのジャズ・ミュージシャンの人生には、これまで語られたことのない逸話がまだ数限りなくあります。そこから伝わって来るのは、抽象的な、いわゆるジャズ史からは決して見えてこない事実と、時代を超えて現代の我々にも響く、普遍的な意味と価値を持つ物語やメッセージです。変容を続けた20世紀後半のジャズの世界を生き抜いた一人の音楽家に対して、半世紀にわたって断続的に行なわれたインタビューだけで構成した本書は、まさにそうした物語の一つと言えます。

スティーヴ・レイシー (Steve Lacy 1934-2004) は、スウィング・ジャズ時代以降ほとんど忘れられていた楽器、「ソプラノサックス」をモダン・ジャズ史上初めて取り上げ、生涯ソプラノサックスだけを演奏し続けたサックス奏者 / 作曲家です。また「自由と革新」こそがジャズの本質であるという音楽哲学を生涯貫き、常に未踏の領域を切り拓くことに挑戦し続けたジャズ音楽家でもあります。1950年代半ば、モダン・ジャズが既に全盛期を迎えていた時代にデビューしたレイシーは、ジャズを巡る大きな時代の波の中で苦闘します。そして1965年に30歳で故郷ニューヨークを捨ててヨーロッパへと向かい、その後1970年から2002年に帰国するまで、33年間パリに住んで音楽活動を続けました。本書は、そのスティーヴ・レイシーが米国、フランス、イギリス、カナダ他の音楽誌や芸術誌等で、1959年から2004年に亡くなるまでの45年間に受けた34編のインタビューを選び、それらを年代順に配列することによって、レイシーが歩んだジャズ人生の足跡を辿りつつ、その音楽思想と人物像を明らかにしようとしたユニークな書籍です。本書の核となるPART1は、不屈の音楽哲学と音楽家魂を語るレイシーの名言が散りばめられた34編の対話集、PART2は、ほとんどが未発表のレイシー自筆の短いノート13編、PART3には3曲の自作曲楽譜、また巻末には厳選ディスコグラフィも収載されており、文字通りスティーヴ・レイシーの音楽人生の集大成と言うべき本となっています。

原書は『Steve Lacy; Conversations』(2006 Duke University Press) で、パリから帰国してボストンのニューイングランド音楽院で教職に就いたレイシーが2004年に亡くなった後、ジェイソン・ワイス Jason Weiss が編纂して米国で出版した本です。編者であるワイスは、1980年代初めから10年間パリで暮らし、当時レイシーとも親しく交流していたラテンアメリカ文学やフリー・ジャズに詳しい米国人作家、翻訳家です。本書中の何編かの記事のインタビュアーでもあり、また全体の半数がフランス語で行なわれたインタビュー記事の仏英翻訳も行なっています。「編者まえがき」に加え、各インタビューには、レイシーのその当時の音楽活動を要約したワイス執筆の導入部があり、全体として一種のレイシー伝記として読むことができます。

一人のジャズ・ミュージシャンの生涯を、ほぼ「インタビュー」だけで構成するという形式の書籍は、知る限り、私が訳した『リー・コニッツ』だけのようです。しかしそれも、数年間にわたって一人の著者が、「一対一の対話で」集中的に聞き取ったことを書き起こしたもので、本の形式は違いますがマイルス・デイヴィスの自叙伝もそこは同じです。それに対し本書がユニークなのは、45年もの長期間にわたって断続的に行なわれたインタビュー記事だけで構成していることに加え、インタビュアーがほぼ毎回異なり、媒体や属する分野、職種が多岐にわたり(ジャズ誌、芸術誌、作家、詩人、音楽家、彫刻家…他)、しかも国籍も多様であるところです。このインタビュアー側の多彩な構成そのものが、結果的にスティーヴ・レイシーという類例のないジャズ音楽家を象徴しており、それによって本書では、レイシーの人物とその思想を様々な角度から探り、多面的に掘り下げることが可能となったと言えます。ただし、それには聞き手はもちろんのこと、インタビューの受け手の資質も重要であり、その音楽哲学と並んで、レイシーが鋭敏な知性と感性、さらに高い言語能力を備えたミュージシャンであることが、本書の価値と魅力を一層高めています。

本書のもう一つの魅力は、レイシーとセロニアス・モンクとの音楽上の関係が具体的に描かれていることです。モンクの音楽を誰よりも深く研究し、その真価を理解し、生涯モンク作品を演奏し続け、それらを世に知らしめた唯一の「ジャズ・ミュージシャン」がスティーヴ・レイシーです。私の訳書『セロニアス・モンク』(ロビン・ケリー)は、モンク本人を主人公として彼の人生を描いた初の詳細な伝記であり、『パノニカ』(ハナ・ロスチャイルド)では、パトロンとしてモンクに半生を捧げ、彼を支え続けたニカ男爵夫人の生涯と、彼女の視点から見たモンク像が描かれています。そして本書にあるのが三番目の視点――モンクに私淑して師を身近に見ながら、その音楽と、音楽家としての真の姿を捉えていたジャズ・ミュージシャン――というモンク像を描くもう一つの視点です。レイシーのこの「三番目の視点」が加わることで、謎多き音楽家、人物としてのモンク像がもっと立体的に見えて来るのではないか、という期待がありました。そしてその期待通り、本書ではレイシーがかなりの回数、具体的にモンクの音楽と哲学について語っており、モンクの楽曲構造の分析とその裏付けとなるレイシーの体験、レイシー自身の演奏と作曲に与えたモンクの影響も明らかにされています。ニューヨークのジャズクラブ「ファイブ・スポット」と「ジャズ・ギャラリー」を舞台にした、ニカ夫人とモンク、レイシーの逸話、またソプラノサックスを巡るレイシーとジョン・コルトレーンの関係など、1950年代後半から60年代初頭にかけてのジャズシーンをリアルに彷彿とさせるジャズ史的に貴重な逸話も語られています。そして何より、モンクについて語るレイシーの言葉には常に温かみがあり、レイシーがいかにモンクを敬愛していたのかが読んでいてよく分かります。

本書で描かれているのは、ジャズの伝統を継承しつつ、常にジャズそのものを乗り越えて新たな世界へ向かおうとしたスティーヴ・レイシーの音楽の旅路と、その挑戦を支えた音楽哲学です。20世紀後半、世界とジャズが変容する中で苦闘し、そこで生き抜いたレイシーの音楽形成の足跡と、独自の思想、哲学が生まれた背景が様々な角度から語られています。レイシーが生来、音楽だけでなく写真、絵画、演劇などの視覚芸術、文学作品や詩など言語芸術への深い関心と知識を有するきわめて知的な人物であったこと、それら異分野芸術と自らの音楽をミックスすることに常に関心を持ち続けていた音楽家であったことも分かります。後年のレイシー作品や演奏の中に徐々に反映されゆくそうした関心や嗜好の源は、レイシーにとってのジャズ原体験だったデューク・エリントンに加え、セシル・テイラー、ギル・エヴァンス、セロニアス・モンクという、レイシーにとってモダン・ジャズのメンターとなった3人の巨匠たちで、彼らとの前半生での邂逅と交流が、その後のレイシーの音楽形成に決定的な影響を与えます。

さらにマル・ウォルドロン、ドン・チェリー、ラズウェル・ラッドなど初期フリー・ジャズ時代からの盟友たち、テキストと声というレイシー作品にとって重要な要素を提供した妻イレーヌ・エイビ、フリー・コンセプトを共同で追求したヨーロッパのフリー・ジャズ・ミュージシャンや現代音楽家たち、テキストやダンスをミックスした芸術歌曲(art song)や文芸ジャズ(lit-jazz) を共作したブライオン・ガイシン他の20世紀の詩人たち、ジュディス・マリナや大門四郎等の俳優・ダンサーたち、富樫雅彦や吉沢元治のような日本人前衛ミュージシャン――等々、スティーヴ・レイシーが単なるジャズ即興演奏家ではなく、芸術上、地理上のあらゆる境界線を越えて様々なアーティストたちと交流し、常にそこで得られたインスピレーションと人的関係を基盤にしながら、独自の芸術を形成してゆく多面的な音楽家だったこともよく分かります。

翻訳に際しては、いつも通り、原文の意味が曖昧に思える箇所は著者にメールで質問して確認しています。ワイス氏によれば、本書は英語版原書と今回の日本語版の他は、数年前にイタリア語版が出版されただけで、オリジナル記事の半数がフランス語のインタビューであるにもかかわらず、フランス語版は出ていないそうです(イタリアのおおらかさと、フランス国内で芸術活動をする《アメリカ人》に対するフランス的反応のニュアンスの対比は、本書中のレイシーの発言からも想像できます)。

なお、この本はレイシーの音楽人生と思想に加え、フリー・ジャズを含めた曲の構造とインプロヴィゼーションの関係、またソプラノサックスとその演奏技術に関するレイシーの哲学や信念など、ジャズに関わる専門的なトピックもかなり具体的に語られています。そこで今回は、サックス奏者で批評家でもある大谷能生さんに、プロのミュージシャンの視点から、レイシーとその音楽に関する分析と考察を別途寄稿していただくことにしました。タイトルは『「レイシー・ミュージック」の複層性』です。どうぞ、こちらもお楽しみに。

(*) 月曜社のHP/ブログもご参照ください。https://urag.exblog.jp/240584499/

2020/10/15

あの頃のジャズを「読む」 #10 (完):されどジャズ

80年代バブル景気に沸く東京のジャズの中心は、70年代までのアングラ的新宿から、オシャレな六本木、青山方面へと移動し、難しい顔をして聞く前衛的音楽から、バブルを謳歌する小金持ちや、中堅の団塊世代が集まるジャズクラブで、ゆったりと酒を飲みながら聴く「大人の音楽」へと完全に変貌した。もう「反商業主義」などと面倒臭いことを唱える人も消えて、みんなで楽しく気楽に聴けるフュージョン全盛時代となり、大規模ジャズフェスなども盛況で、ミュージシャンの仕事の場も数多く提供されていた(たぶん音楽的進化や深化はほとんどなかっただろうが、ショウビズ的には大成功で、それはそれで大衆娯楽としての音楽の本来の役割を十分に果たしていた)。ライヴのみならず、日本伝統のオーディオとジャズも相変わらず元気で、高額なオーディオ機器が飛ぶよう売れていた時代だ。それから30年、今や日本中のどこでも(蕎麦屋でも、ラーメン屋でも、ショッピングモールのトイレでも、TVでも)何の違和感もなく普通にBGMとしてジャズが聞こえてくる時代となり、プロアマ問わずジャズを演奏する人の数も飛躍的に増えて、日本中で今や毎月のように開催されているジャズフェスに出演している(今年はコロナのせいで減ったが)。つまり相倉久人が1960年代に主張していた、日本における「ジャズの土着化」は、時間はかかったが(50年)、こうしてついに実現したと言えるのかもしれない(ある意味で)。

一方、ジャズの本場アメリカは常に日本より10年ほど先を進んでいて、1960年代にはベトナム反戦や公民権運動に呼応したフリー・ジャズが台頭したが、特に64年のビートルズの米国進出以降、若者音楽の中心は、完全にロック、フォーク、ポップスへと移行し、ジャズ市場は縮小する一方だった。そうした時代に反応したマイルスの電化ジャズが60年代末期に登場したものの、70年代はじめになると、そのコンセプトを分かりやすく商業化したファンクやフュージョン時代が既に到来していた。そして67年のコルトレーン、70年のアイラ―というフリー・ジャズのカリスマたちの死、続く74年の王様エリントンの死、75年の帝王マイルスの一時引退、76年の高僧モンクの引退…等々、20世紀ジャズ界の「巨人」たちが相次いでシーンから退場し、70年代半ばには戦後のビバップに始まる「モダン・ジャズ」は実質的にその30年の歴史を終える。その後も78年のトリスターノ、79年のミンガス、80年のビル・エヴァンス、82年のモンクの死と続き、日本のバブルとは対照的な不況の80年代を通過して世紀末の最後の10年に入ると、ジャズ・メッセンジャーズを率いて多くのスターを輩出してきたアート・ブレイキーが1990年に亡くなる。そして翌91年には、白人ジャズの巨匠スタン・ゲッツ、さらにマイルス・デイヴィスという残された最後の巨人たちもついにこの世を去って、1990年代初めには、「20世紀の音楽ジャズ」の主なアイコンはほぼ消滅する。こうして、いわゆるモダン・ジャズは文字通り「博物館」へと向かうべく、ウィントン・マルサリスによっておごそかに引導が渡されたのである。

コロナ禍で時間があったこともあって、予想外に長引いたこの連載も区切りの良い#10となるので、(まだまだ面白い内外のジャズ本はあるが)とりあえず今回で終わりにしたい。最後に、「20世紀のジャズ」を心から愛し、ジャズと共に生きた日米の代表的批評家が書いた2冊の本を紹介したい。

ジャズ・イズ
ナット・ヘントフ
1976/1982 白水社
昔は、飽きずに擦り切れるほど繰り返し聴いたジャズ・レコード(LP)が何枚かあったものだが、ナット・ヘントフ Nat Hentoff (1925 - 2017) の『ジャズ・イズ (Jazz Is)』(1976 / 1982 白水社 /志村正雄訳) は、そうしたレコードと同種の魅力を持ち、年齢を重ねて読むたびに新たな面白さを発見するという名著だ。11人のジャズの巨人たちの肖像をヘントフ独自の視点で描いたものだが、ジャズという音楽と、ジャズ・ミュージシャンという人種を、ここまで味わい深く描いたジャズ本はない。ナット・ヘントフはジャズ評論家として有名だったが、同時に小説家、歴史学者、政治評論家でもあった。だから社会やアーティストを見る視線の角度と、深さが、他の普通のジャズ批評家たちとは違う。大手新聞や「ダウンビート」誌等の主要雑誌のコラムニストの他に、ジャズ・レーベル創設(Candid)、ジャズ作品のプロデュース(セシル・テイラー)など、全盛期のジャズ界で多彩な活動を行なっていた。特に50年代のモダン・ジャズ黄金期を牽引した世代、マイルス、コルトレーン、マリガン、コニッツなど1920年代半ば生まれのジャズ・ミュージシャンとヘントフは同世代であり、故郷ボストンでの少年期から同時代の音楽としてジャズに触れ、ジャズを愛し、その発展、変化と共に生きてきた、いわば「モダン・ジャズ史の目撃者」である。それゆえ、本作を含めてジャズ現場における実体験に裏付けられたヘントフの本は、どれも陰翳と示唆に富み、ジャズの世界を内側から見るその分析と洞察は常に深く、また鋭い。

『Jazz is (ジャズとは)』の後に続く「…である、…のことだ、…ものだ」といった部分には、一言では語り尽くせないジャズを巡る様々な文言が入るだろう。この本では、スウィング時代のルイ・アームストロング、テディ・ウィルソン、デューク・エリントン、ビバップ時代のパーカー、ミンガス、マイルス、前衛からはコルトレーン、セシル・テイラー、女性ボーカルはビリー・ホリデイ、白人からはジェリー・マリガン、そして唯一の非アメリカ人ミュージシャンであるアルゼンチンのガトー・バルビエリというように、一読してジャズ史とジャズの持つ多様性を俯瞰できる人選になっている(ただしモンクがいないが)。また政治や社会に対して発言し続けたヘントフ独自の視点で、ジャズやジャズ・ミュージシャンと社会・経済との関わりについて随所で触れているのも、単なるアーティスト評伝や一般的なジャズ本にはあまり見られない部分だ。読むたびに、本書で描かれた11人のジャズの巨人たちの知られざる部分を発見するような新鮮な感覚を持つので、何度読み返しても飽きない。何というか、マクロレンズで近接撮影したかのように、彼らの人間としての内面が、著者の目を通して独自の角度から鋭く切り取られているので、文章は短いのに、彼らの存在がリアルに感じられるのである。ジャズ・エッセイと言うべき読み物だが、このような深さでジャズとジャズ・ミュージシャンを語った本は、やはりこれまで読んだことがない。

上述したように、原書が出版された1976年という時点で、本書で描かれた11人の巨人たちのうち6人が既に故人となり、一方でジャズのポップ化もますます進行し、その未来には疑問符が付けられていた。そうした時代に書かれたこの本は、ジャズの本質と魅力をあらためて探ると同時に、ヘントフが体験した最もジャズが幸福だった時代へのオマージュとも、彼のジャズへの別れの挨拶とも読める(ヘントフは、これ以降ジャズ関連の本は書いていない)。私が買った版の帯に書かれている本文中の記述「根本的な意味で、ジャズとは不屈の個性派たちの歴史である」という短く鋭いフレーズも、今となっては懐かしい。歴史を継ぐべき《不屈の個性派》は、その後のジャズ界に登場しただろうか。

されどスウィング
相倉久人 / 2015 青土社
ジャズの歴史と厚みにおいて、日米間には埋めがたい差があるので、ナット・ヘントフに匹敵するような経験と視点を持つ日本人ジャズ批評家が見当たらないのは仕方がないだろう。しかしただ一人、かなり近いスケールと眼力を持っていたと思える存在を挙げるなら、やはりそれは相倉久人だ。ヘントフがアメリカなら、同じように常に現場に関わってきた相倉は「戦後日本ジャズ史の目撃者」と言えるだろう。相倉久人の批評家としての素晴らしさと名著については#5で詳述したので繰り返さないが、ヘントフの本から40年後の2015年に出版し、著者の遺作となったのが『されどスウィング』(青土社)である。ジャズへの深い愛情と哀惜がにじむヘントフの『Jazz is』と、どこか似たニュアンスが感じられる『されどスウィング』という絶妙なタイトルが私は好きだ。著者最後の書き下ろしとなった本書中の短いエッセイ、《たかが0秒1、されど0秒1》(2015年)は、「スウィング(ゆらぎ)」という、ジャズの持つリズムの神髄について語ったもので、まさに相倉久人の遺言と呼ぶにふさわしい文章である。

『されどスウィング』は、一部を除き、1970年代初めにジャズ界を離れた後に発表してきた代表的な文章を、著者自身が選んだ「自選集」である。主に80年代以降にジャズを回顧し語った文章と、その後手掛けたポピュラー音楽に関する批評から成り、随所にジャンルを超えた著者の音楽哲学が垣間見え、全体として相倉の遺書というべき本だろう。細野晴臣、サディスティック・ミカ・バンド、はっぴーえんど、桑田佳祐、吉田拓郎、坂本龍一、町田康、上々颱風、菊地成孔等々…さらにはアイドルや浅川マキに至るまでの幅広いジャンルのアーティストを対象に、独自の視点で興味深い観察と批評を展開している。60年代の新宿時代からの知己で、2010年に亡くなった浅川マキについて、「変わらずにいること」の難しさと価値を語り、アーティストとしての浅川マキの姿勢に深い敬意を表している。相倉久人の思想と批評は一見クールだが、表面的な分析や印象論だけではなく、深い部分でアーティスト個人に対する人間観と敬意が常に感じられる。そこが音楽批評家として、ナット・ヘントフやラルフ・J・グリーソン、ホイットニー・バリエットのような優れた米国人批評家に通じる部分なのだ。

20世紀初めから、アメリカという特異な場所で異種混淆を繰り返しながら進化した「雑種」音楽であるジャズは、誕生後半世紀足らずの1950年代から60年代にかけて、芸術的にも商業的にもその頂点に達した。いろいろな見方があるが、1970年代以降、現在までの半世紀に及ぶジャズシーンの変化もその延長線上にあって、60年代まではジャズの強い音楽的影響下にあった他の大衆音楽であるR&B、ロック、ポップスなどとの混淆が更に多彩に、複雑に進行し、特に90年代以降「xxx ジャズ」と呼ばれる様々な形態を持つ音楽が世界中で登場し、それらが同時併行的に存在してきたと言える。それをジャズ側から見ると「ジャズが多彩になった」という言い方になるが、むしろ、総体としてのジャズが、アメーバのように境界線を越えて、様々な音楽ジャンルの中に「薄く広く拡散してきた」、あるいは「徐々に吸収されてきた」過程だったと言えるのではないかと(ド素人ながら)私は思う。つまりジャズと他のポピュラー音楽との主客が、1970年代を境に逆転した、あるいは各ジャンルがそれ以降横並びになって、互いに混淆を続け、20世紀半ばまでに出来上がっていたポピュラー音楽のヒエラルキーが、徐々に解体してゆく過程だったとも言える。

マクロで見れば、20世紀の前半に芸術として創造面での進化がほぼ止まった西洋クラシック音楽が、和声やモード他のコンセプトや理論を介して、発展する新世界アメリカで生まれたジャズという新たなポピュラー音楽の中に、半世紀にわたって溶け込み生き続けてきたように、次にはそのジャズ自身が、即興音楽としての急速で短期間の芸術的進化を20世紀半ばすぎには終え、その後世界の多様な音楽の中に徐々に拡散し、溶け込んできた過程が、1970年代に始まり現在までの半世紀に起きてきたことではないだろうか。それを加速した社会的背景は、言うまでもなく、同期間に急速に進展した資本主義経済のグローバル化と、それに伴う文化・芸術の大衆化(商業化)である。そこで新たに生まれた音楽の需要者、消費者としての「大衆」が、新たな感覚を持った「聴き手」として「21世紀のジャズ」の形と針路を決めてゆくことになるのだろう。

こうした見方からすると、1971年に「狭いジャズ界」に見切りをつけ、ロック、ポップス、フォーク、歌謡曲など、ジャズの外側に開かれ発展していた日本のポピュラー音楽全体へと目を向けた70年代以降の相倉久人の足取りは、まさにこの半世紀のジャズの歩みと変化をそのまま映し出しているようにも見える。40歳までの前半生を振り返って、「自分の生き方がジャズだった」と言ってジャズ界を去った男にまさにふさわしい後半生である。相倉久人は2015年、ナット・ヘントフは2017年と、ジャズを愛し、日米のジャズ史の目撃者だった二人の代表的批評家は、ほぼ同時期に亡くなったが、1970年代の前半に、この二人が見ていたジャズの未来のイメージは、おそらく同じものだったのだろう。
(完)

2020/10/02

あの頃のジャズを「読む」 #9:間 章と阿部 薫

山下洋輔や高柳昌行と並んで、1970年代のフリー・ジャズを語る際に外せないのは、やはり阿部薫 (1949 - 78) と、その阿部をシーンに紹介した音楽批評家/プロデューサーの間章 (あいだ・あきら 1946 - 78) だろう。ただし、私は二人ともリアルタイムでは見聞きしていない。

〈なしくずしの死>
への覚書と断片  
間章著作集Ⅱ / 2013 月曜社
間章のフリー・ジャズのアイドルはエリック・ドルフィーで、60年代末頃から、フリー・ジャズのみならず、ロック、シャンソン、邦楽、現代音楽といった広汎な領域の音楽を対象とした批評活動を行なっていた。スティーヴ・レイシーなど、海外の即興音楽演奏家を日本に初招聘したり、阿部薫の他にも、国内ミュージシャン(近藤等則、坂本龍一など)を発掘、紹介し、演奏の場やイベントを積極的にアレンジするなど、多彩な活動を行なっていたマルチ・オルガナイザーというべき人物だった。間章が書いたテキストは膨大だが、2013年に『時代の未明から来たるべきものへ  間章著作集Ⅰ』(1982年のイザラ書房刊を復刊)と『〈なしくずしの死〉への覚書と断片  間章著作集Ⅱ』、2014年に『さらに冬へ旅立つために  間章著作集Ⅲ』という、計3巻の(真っ黒な)遺稿集が月曜社から出版されている(編集・須川善行)。

これらの本は間章が雑誌、機関紙他で発表した批評文、ライナーノーツ他の多岐にわたるテキストを編纂したもので、まさに間章の脳内世界を集大成したような本だ。音楽と政治、哲学、文学、芸術にまたがる思想が渾然一体となった、熱く重い60/70年代的アジテーション色の濃い文章が敷き詰められている。世界を凝視し、思索する、尋常ではない熱量は確かに伝わってくるが、全共闘世代に特有の文体と長尺な観念的文章を、実用短文SNS全盛時代に生きる現代人が果たして解読できるものか、とは思う。しかしそれらの文章を「じっくりと」読めば、当時の間章が音楽と世界を見つめていた視点と思想の深さが、私のような凡人でも何となく分かってくる部分もある。時代背景ゆえの過剰な表現を間引けば、「音楽」を評価する間章の鋭く的確な眼力も見えて来る。ドルフィー、セシル・テイラー、アルバート・アイラー、デレク・ベイリーなど、ジャズ関連の論稿を中心とした『間章著作集Ⅱ』に収載されている、70年代半ばのスティーヴ・レイシーとの何度かの対談は、穏やかで知的なレイシーが相手ということもあって、この時代のジャズと即興音楽が直面していた問題を語り合う、深く読みごたえのある対話である。

解体的交感
高柳昌行 阿部薫 / 1970
「ニュー・ディレクション」と称する高柳昌行のフリー・ジャズ・マルチ・ユニットの一つとして、1970年に新宿で行なわれた阿部薫との「デュオ」コンサートとそのライヴ録音『解体的交感』は、タイトルからして時代を象徴するようなイベントで、演奏もサウンドも、まさに攻撃的でアナーキーだが、それをプロデューサーとしての初仕事にしたのが間章である。「産業(ビジネス)から音楽家の側へ音楽の主導権を取り戻す」という反商業主義が間章の基本思想で、同じ思想を持っていた高柳昌行と間章は、阿部薫、吉沢元治、高木元輝、豊住芳三郎等のメンバーと共に、1969年に「闘争組織」JRJE(日本リアル・ジャズ集団)を結成して、自主コンサートを開催するなど共同で活動していた。高柳に阿部薫を紹介したのは間章で、めったに人を誉めない高柳が阿部薫のことは称賛している。1年ほど続いた活動では、ジョイント・コンサート(間のアジ演説 + 演奏)が何度か開催されたが、『解体的交感』の後、まもなくして何らかの内部衝突が理由で間章と高柳が訣別したためにJRJEも解散し、間はその後しばらくはジャズから離れ、阿部薫ともその後の5年間は疎遠になる

29歳で夭折した阿部薫は、もはや伝説となった天才アルトサックス奏者だが、脚光を浴びるようになったのは死後10年以上も経った90年代に入ってからで、その破滅型の人生と天才性に注目した各種メディアに取り上げられた。きっかけになったのは、1989年に出版された『阿部薫 覚書 1949-1978』(ランダムスケッチ) だろう。91年には、テレビ朝日の深夜対談番組『プレステージ』で、蓮舫を含む女性3人の司会という、いかにもバブル期らしい設定と演出で、異形の天才として阿部を振り返っている。制作の意図、背景は不明だが、バブル末期になって、70年代的純粋さ、反抗、退廃を懐かしむ風潮が出て来たのかもしれない。作家(五木寛之、芥正彦)、批評家(相倉久人、平岡正明)、ミュージシャン(三上寛、PANTA、山川健一)に加え、阿部薫が定期的に出演していた2軒のジャズ喫茶のママ(福島「パスタン」、東京・初台「騒 (GAYA)」)と、当時は陸前高田にあった「ジョニー」店主が出演している(この番組は、今でもYouTubeで視聴可能だ。30年も前の放送なので画面の出演者は全員まだ若いが、二人のママさんと相倉、平岡両氏はもう故人である)。番組中、当時は未発表だった、阿部薫が福島「パスタン」で演奏する貴重なライヴ映像も挿入されている。見るからに若い大友良英が、高校時代に初めて聴いたジャズライヴが「パスタン」のその阿部薫だった、と語るインタビュー映像もある。翌92年には、稲葉真弓 (1950-2014) が実名小説『エンドレス・ワルツ』で、阿部薫と作家兼女優だった妻の鈴木いづみ(1949-86)との激しい関係を描き、95年には若松孝二 (1936-2012) が、町田康と広田玲央名の主演でその小説を同名映画化している。

完全版 東北セッションズ 1971
King International
阿部薫のミュージシャンとしての活動期間は、60年代末から1978年に亡くなるまでの約10年間と短い
。生前の正式レコードは間章がプロデュースした2作品だけだったが、90年代以降、小野好恵がプロデュースした東北での1971年の演奏(つい最近、
完全版で再リリースされた)や、他のジャズ喫茶でのライヴなど、多くの未発表音源がCDでリリースされてきたので、今はかなりの数の演奏が聴ける。「父親はエリック・ドルフィー、母親はビリー・ホリデイ」で、「ぼくは誰よりも速くなりたい」と語っていた阿部薫の音楽は、その発言からも一般的には「フリー・ジャズ」に分類されているが、その音楽を「ジャズ」と呼ぶにはあまりに孤独で、アヴァンギャルドと呼ぶにはあまりにナイーブで、むしろ所属ジャンルなど不要な「阿部薫の即興音楽」と呼ぶべき固有の音楽ではないかと個人的には思う。そもそも阿部の音楽は、ソロでしか成立しえないものではないかという気がする。内部を流れている時間と、音空間が独特すぎて、他の演奏者と音楽的にシンクロする必要がないように感じる。「何がジャズか」に定義はないが、演奏フォーマットとは関わりなく、特定の場で、即興を通じて聴き手(共演者 and/or 聴衆)と時間/空間を共有し、交感(シンクロ)するという、ジャズにとってもっとも重要な音楽的要件の一つを欠いているように思えるからだ(ただし、その行き場のない「孤独」に共鳴する聴き手はもちろんいると思う)。

阿部薫と同じく「攻撃的で孤独な」音を出すギタリスト、高柳昌行との激しい上記デュオ・ライヴのタイトルを『解体的交感』と名付けたのは間章と阿部薫らしい。コンサートのサブタイトルが<ジャズ死滅への投射>であることから、要は1970年前後の時代的コンテキストや、60年代フリー・ジャズ末期という音楽情況を背景に、ジャズ的交感といった従来の概念を意図的に破壊すること、もしくはそれとの訣別宣言だったと解釈すべきなのだろう。「音で人を殺せる」と言っていたらしいが、実際には、阿部薫の音楽は「外部(聴き手)」へとは向かわず、ひたすら自己の内部にしかその音が向けられていないように聞こえる。自分の内奥深くに向けて、何かを語り、叫び、それを送り届けるためだけに吹いているようにしか聞こえない。おそらく、音楽の環が閉じられたそうした「極私的行為」そのものが彼の音楽なのだろう。しかし、阿部薫の「音楽」を理解できる、できないということとは別に、阿部の吹くアルトサックスの音の「速度」や「美しさ」や「叙情」など、彼の「サウンド」から感じる凄みと魅力は、多くの人が認めているし、録音された音源を聴いただけだが、私もそう思う。そこには言葉にできないような美を感じる瞬間があるし、心の奥底を揺り動かす何かが確かにある。阿部自身も、ジャズでも音楽でもなく、「音を出すこと」にしか興味はないという意味のことを語っているので、聴き手が抱くこの感覚はたぶん間違っていないのだろう。しかし残念だが、これも「生音」を聴かないと本当の凄さは分からないだろう。

阿部 薫 1949-1978
1994/2001 文遊社
私が持っている本『阿部薫 1949-1978』(2001 文遊社) は、ミュージシャン、作家、肉親その他、阿部と接触のあった様々な人たちが、それぞれ阿部薫とその音楽を語った言葉(談)や文章を集めたアンソロジーで、1989年の『阿部薫 覚書』を原本にして再編纂した本だ(増補改訂版)。私的には、この本には数ある音楽書の中でも屈指の面白さを感じた(謎多き音楽家を語り、理解しようとすることは、音楽を楽しむことの一部だ)。間章の文を別とすれば、数多いコメントの中で、阿部薫への同志的愛を感じさせ、かつ音楽家としての彼の苦悩を理解していると思えたのは、やはり坂田明(as) 、近藤等則(tp) 、吉沢元治(b)、浅川マキというミュージシャンたちと、批評家で阿部の友人でもあった小野好恵が語った文だ。また、特殊な病気で生死の境を何度も彷徨った阿部薫の幼児期の体験が、ある種の精神的トラウマを生み、彼の音楽につきまとった出口の見えない「生と死の往来」の遠因だったのではないか、という肉親と思われる人の分析も印象に残った。

しかしながら、この本を読み通して真っ先に感じたのは、「阿部薫の真実」をもっとも深く理解していたのは、 実は彼を支援し続け、定期的に演奏する場を提供していた東京、福島、札幌、大阪などの「ジャズ喫茶のママたち」ではなかったかということだ。この本にも対談の一部が転載されている30年前の上記テレビ番組をYouTubeで見たときも、まったく同じ印象を抱いた。この番組でも、「男たち」はほぼ全員が「頭や観念」で何とか阿部薫を理解し、語ろうとするが、話がかみ合わず、阿部の本質を掴み切れないようなもどかしさが感じられる(メンバー選定の問題もあるが)。それに対して、出演したジャズ喫茶のママさん二人は、生前の阿部やその演奏から自分がほぼ本能的に感じ取ったことを「自信満々に」語っている。上掲の本に掲載された彼女たちの言葉も、他の店のママさんたちもそこは同じだ。実際に阿部と何度も身近に接してその演奏を生で聴いているし、阿部も彼女たちの前では無防備に、つい本音を漏らしたこともあっただろう。だから説明は必ずしも論理的ではないが、彼女たちが言わんとしていることは何となく分かる。正直言って、「(サックスからは)聞こえない音が聞こえるかどうか…」というような阿部の「シャーマン的」レベルの音と表現による音楽に、頭だけで考えがちな男が「感応」できるわけはないと思った。「言葉で音楽は語れない」とは真実だが、阿部薫の「音楽」は、まさしくそういう次元のものだったのだと思う。だからこそジャンルも時代も超越して、人の心に響く何かがあるのだろう。

阿部薫は、男友だちにとっては面倒で厄介な人物だったかもしれないが、彼の母親や妹(文章に愛情があふれている)、同じく早逝した妻の鈴木いづみ、上記のママさんたちを含めた「女性たち(女神)」からは無条件に愛され、庇護されていた存在だったのだと思う。セロニアス・モンクがそうだったように、世の中には「そういう男」がいるのだ。ブルーノートのロレイン・ライオンやニカ夫人が、誰も見向きもしなかった当時のモンクを即座に理解したように、彼女たちには阿部が自分の音楽を通じて「本当に言いたかったこと」が伝わってきたのだろう。そういう男は無口で謎も多いし、その音楽も簡単には理解されない。だから私は、あり余る知性を持ちながら、無駄なことはあまり口にせず、「音」だけにすべてを託そうとした孤高の音楽家・阿部薫にどこかモンクに通じる何かを感じる。

なしくずしの死/ Mort A Credit
阿部薫 1975
阿部薫とその音楽をいちばん深く理解していた「男」はやはり、「阿部には未来がない」と、その音楽から阿部の死を予感していた間章だったのだろう。しばらくジャズを離れていた間は、1975年にスティーヴ・レイシーを初めて日本に招聘し、富樫雅彦や吉沢元治たちとの共演の場をアレンジし、同じ年に70年以来疎遠だった阿部薫のソロコンサート『なしくずしの死』(Mort A Credit)を5年ぶりにプロデュースし、レコード化する。その後77年にはドラマー、ミルフォード・グレイヴスを、さらに78年4月には、イギリスのフリー・インプロヴィゼーションのギタリスト、デレク・ベイリーも日本へ初招聘し、阿部薫、近藤等則他の前衛ミュージシャンたちとの共演を含めて各地で公演し、即興音楽の世界をさらに深く追求しようとしていた。ところが同年9月9日に、阿部薫が睡眠薬過剰摂取のために29歳で急死し、さらにその3ヶ月後の12月12日に、後を追うようにして間章も脳出血のためにわずか32歳で急逝するのである。

「行為としてのジャズ」を信奉し、娯楽としての音楽を超えた何かを、フリー・ジャズあるいは自由な即興音楽の中に見出したり、求めていた当時の人たちには、激しい人生を送った人が多い。阿部薫、間章の二人も、まさに死に急ぐかのように1970年代を駆け抜けた。ジャズがまだパワーを持ち、フリー・ジャズが時代のBGMとしてもっともふさわしかった1960年代という激しい政治の季節が終り、穏やかな70年代になって穏やかなジャズが主流になると、大方のジャズファン(単なる音楽ファン)は難しいことは忘れて専ら快適なジャズや他の音楽を求め、それを楽しむようになった。そうした中で、よりマイナーな存在となった60年代のフリー・ジャズ的思想とパッションを持ち続けていた人たちの行動が、その反動として一層先鋭化したという時代的背景はあっただろう。しかし続く80年代になると、バブル景気に向かった日本では、当然のようにジャズを含む音楽の商業化(大衆化)が益々強まり、70年代までわずかに残されていた、シリアスな芸術を指向する思想や行動には、ほとんど関心が持たれなくなった。しかし商業的隆盛とは無関係に、日本のジャズが米国のモノマネから脱し、真にオリジナリティのある音楽へと進化したのは、70年代の山下洋輔G、富樫雅彦、高柳昌行、阿部薫などに代表されるフリー・ジャズやフリー・インプロヴィゼーションの個性的ミュージシャンたちの音楽的挑戦の結果である。だから日本のジャズが、音楽としてその「内部」で真に熱く燃えた時代は、逆説的だが「フュージョンの70年代」だったと言えるだろうそして、1978年の阿部薫と間章の死は戦後日本における「ムーヴメントとしてのジャズの時代」が、実質的に終焉を迎えたことを象徴する出来事だったのだろう

2020/09/18

あの頃のジャズを「読む」 #8:日本産リアル・ジャズ(高柳昌行)

日本初の「モノ言うジャズ・ミュージシャン」は、孤高のジャズ・ギタリスト高柳昌行(1932 - 1991)だろう。音楽家は音だけで勝負しろと言われていた時代に、ミュージシャンが語ること、書くことは、演奏することと等価だと主張し、本こそ出版していないが、ジャズ誌などで独自の強烈なジャズ観に基づく評論やコメントを発信していた。また1960年代初め頃に、日本で初めてフリー・フォーム的演奏を提案し、またジャズ・ミュージシャンによる組織的な音楽活動も主導していたその後70年代から80年代にかけては、アヴァンギャルド芸術系と言うべき独自のフリー・インプロヴィゼーションの世界を追求し続けた。

汎音楽論集
高柳昌行 / 2006 月曜社
高柳はクラシック・ギターからスタートしているが、様々な音楽を熱心に研究し、音楽全体への射程範囲が、当時の普通のジャズ・ミュージシャンと比べて桁違いに広い。元来が現代音楽や実験的ジャズにも関心が深い前衛指向のアーティストだったようで、ジャズでは特にレニー・トリスターノの音楽を初期の頃から研究していた。1960年前後に全盛だったファンキー等大衆受けするジャズとは対極にある芸術指向のジャズを追求すべく「ニュー・ディレクション」というユニットを編成し(形態は様々)、フリー・フォームのジャズを演奏し始めていた。1960年代初め頃に金井英人(b) たちと「新世紀音楽研究所」を組織し、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を金曜日の昼間だけ借りて、商業目的ではない前衛ジャズ試行の場にするなど、先進的ジャズ演奏家たちを理論、行動面において主導していた。山下洋輔、富樫雅彦、菊地雅章などの若手ミュージシャンたちや、批評家・相倉久人なども、そうした実験的演奏の場に加わっていた。ジャズ・ミュージシャンによるこの種の組織形成は、米国で1960年代半ばにビル・ディクソンたちが行なった作曲家集団の活動(Jazz Composer's Guild) の何年も先を行く画期的な動きだった。1969年には、批評家・間章たちと闘争組織JRJE(日本リアル・ジャズ集団)を設立して、日本独自のフリー・ジャズを本格的に追求し始める2006年に曜社から出版された、高柳が書いた主要な文章や発言を編纂した『汎音楽論集』という本は、1950年代半ばから80年代にかけて、一人の前衛的日本人ジャズ・ミュージシャンが何を考え、何を目指して行動していたのか、その個人史をほぼ時系列で辿ることのできる貴重な本だ。それを読むと、高柳昌行という人が、自身の厳格なジャズ哲学を誰よりも「声高に発信」し続けた、日本人としては非常に珍しいタイプの音楽家であったことがよく分かる。

1968 「スイングジャーナル」広告
『汎音楽論集』より
高柳がまだ23歳だった1955年(昭和30年)の、いソノてルヲとのインタビュー記事から始まり(その年のチャーリー・パーカーの死去にも触れている)、1984年までの30年間に「スイングジャーナル」、「ジャズ批評」、「ジャズライフ」などのジャズ雑誌や音楽誌に掲載された記事、インタビュー、ディスク・レビュー、教則本解説その他のテキストからなるこの本では、最初から最後まで高柳の強烈な音楽観、ジャズ観に基づく「正論」が続く。一貫して伝わってくるのは「反商業主義」というべき音楽思想である(エンタメ全盛の現代ではもはや想像しにくいが、芸術を利用してビジネス=金儲けをするなという思想で、70年代までの音楽の世界では、一定の支持を得ていた)。時に激しい語調で、また(昭和一桁生まれなので)古風な文体でジャズの本質を語り、まさに「武士道」を思わせる「ジャズ道」のごとき厳格な哲学と思想が述べられている1960年代から主催していたギター私塾には、渡辺香津美や廣木光一などのジャズ・ギタリストも通っていて(どれくらいの期間かは不明)、1979年にその一人となった大友良英が、当時の高柳の印象や指導方法を振り返る記事を読んだことがあるが、まさにこの本で語られている通りの内容だ。フュージョン全盛の70年代後半あたりだと、師と弟子たちの実際の音楽観は相当かけ離れていたのではないだろうか。高柳的見地からすると、「楽しけりゃいいじゃん」とかいうような浅薄な音楽の世界など論外で、語る価値すらないと問答無用に切り捨てられたことだろう。

Not Blues
1969 Jinya
私が高柳昌行を知ったのは、ギター音楽が好きだったことと、70年代のトリスターノの音楽渉猟を通じてだ。だから持っている高柳のレコードも、60年代末と70年代末のトリスターノ的演奏を収めたレコードだけで、70年代以降のノイズやフリーの大半の録音もライヴ演奏もほとんど聴いていないので、高柳の音楽全体を語れるような立場ではない。しかし1969年の『Jazzy Profile of JoJo』、『Not Blues』、79年の『Cool-JoJo』、『Second Concept』など(JoJoは高柳のニックネーム)、トリスターノ的(ビリー・バウアー的)フレイバーを持ったレコードは、実にモダンでクールなジャズギターで、当時の一般的ジャズギターとは違った味わいがあるので今でも愛聴している。高柳はジャズのみならず、あらゆるギター奏者のレコードを聴き、サウンド、リズム、フレージング、左手運指、ピッキング、右手指弾などの奏法を分析(アナリゼ)しており、ジャズでは、チャーリー・クリスチャンは別格として、ガボール・ザボ、ジミー・レイニー、ジム・ホール等を高く評価している一方、ウェス・モンゴメリーやジョージ・ベンソンのように、ポップやフュージョン系に移行した奏者は、当然ながらこきおろしている。ブルースに依拠していない非黒人で、独自のサウンド・アイデンティティを持つ奏者(つまりは自分が目指していたギタリスト像)を評価していたのだろう。

April is the Cruelest Month
1975
本書を読んだ限り、高柳昌行という人は、基本的に出自が芸能であるにもかかわらず、ビバップ以降「芸能と芸術」という2面性を持つようになり、だがそのアンビバレンスこそが西洋音楽にはない魅力だったジャズという音楽の芸能的側面は一切評価せず、芸術面にしか価値を置かなかったようだ(それを「リアル・ジャズ」と呼んだ)。芸能とは所詮は商業主義と同根であり、金儲けばかりを考えている「思想なき音楽」など音楽ではないと断じ、大衆的な音楽(演歌や民謡も)を見下し、芸術を至上のものとする思想を徹底していた(ある意味、唯我独尊オレ様系ジャズの信奉者だったと言える)。だから自分のジャズ思想とは相容れない、あるいはそれが理解できない音楽界の他の立場(レコード会社、演奏者、批評家、聴衆など)に対しては、かなり激烈な批判を繰り返していたようだ。たとえば、本書に掲載されている70年代初め頃の高柳の歯に衣を着せないディスク・レビュー(「スイングジャーナル」誌)は、まさに文体、内容共に他に類を見ない読み物になっていて、ある意味で痛快だが、すべてその独自の音楽観、ジャズ観をモノサシにして容赦なくレビューしている。いくつかの海外有名ミュージシャンのレコードも一刀両断に切り捨てており、当時よく雑誌掲載できたものだとびっくりする(あるいは当時だからこそ、まだ掲載できたのか)

しかしながら、あの当時の高柳昌行の主張の根底にあったのは、そもそも黒人でもない(=ジャズに何らのルーツも持たない=ブルース衝動を欠いた=Not Blues)日本人が、「プロフェッショナル音楽家」として真摯にジャズに取り組むとしたら、スタイルや雰囲気といった表層的な「モノマネ(芸能)」ではなく、全人的鍛錬を通して芸術としての音楽足りうる独自のジャズを極めることに挑戦する以外に方法がないではないか――というプロ演奏家としてのアイデンティティを問う、きわめてストイックな哲学だろう。そしてもう一つは、「芸術としてのジャズ」の根幹とその優劣は「インプロヴィゼーション」そのものの質にしかない、という強固なヴィジョンだ(この点では、演奏者の人種も国籍も問わない)。ジャズの存在意義も、音楽として目指すべき究極の目標と価値も最高度のインプロヴィゼーションにある、というこの芸術至上主義的思想は、同じくジャズに直接的ルーツを持たない白人だったレニー・トリスターノ(や初期のリー・コニッツ)が抱いていたジャズ観と実は同じであり、畢竟、商業主義とは無縁の音楽に価値を置き、自らもそれを追求することになる。

Lennie Tristano
1956 Atlantic
高柳はジャズのみならずあらゆる音楽に精通し、詳細に研究していたが、セシル・テイラーにも影響を与えた初のフリー・ジャズ実験者ということも含めて、初期の頃から芸術家としてのレニー・トリスターノとその音楽を高く評価していた(心酔していた、に近い)。本書収載の1975年の「スイングジャーナル」誌レビューでも、<20年先を思索する音楽家>として、その20年前のトリスターノのレコード『Lennie Tristano』(1956) の演奏をレビューし、トリスターノ派ミュージシャンたちの音楽造形と高度なインプロヴィゼーションを称賛しているまた「ニュー・ディレクション」というフリー・ジャズ系ユニットとは別に、70年代末にはトリスターノ派の音楽を追求する「セカンド・コンセプト」というカルテットを立ち上げ、『Cool JoJo』など上記2枚のレコードも録音している1975年になってから発掘された、1953年録音の演奏<メエルストルムの渦>で、既に完全な無調フリー・ジャズを、ピアノによる「一人多重録音」で挑戦していたトリスターノが高柳に与えた影響も大きかったように思う。晩年に一人で挑戦したメタ・インプロヴィゼーションも、このトリスターノの実験からインスパイアされた可能性があるだろう。(高柳昌行のトリスターノについてのコメントと演奏レコードは、2017年5月のブログ記事「レニー・トリスターノの世界#3」もご参照)

「モダン・ジャズ」が、芸能 / 芸術、情動 / 理性、アフリカ的 / 西洋的、土着的 / 都会的……という「融和しえない2面性」を宿命的に内包し、だがそのアンビバレンスこそが魅力の音楽だと仮定するなら、それら両面を高度にバランスさせた音楽こそが真にすぐれたジャズだろうと私は考えているが、一方で、ひたすら芸能側に走る立場(商業主義)もあれば、その対極の芸術至上主義というもう一つの究極の立場も当然あるだろう。とはいえ70年代前半までのジャズと、当時は一見反体制的だったロックを含めた他のポピュラー音楽とのいちばんの違いは、「金の匂いがしない音楽」という、ある種ストイックなイメージをジャズが持っていた点にあったことも確かだ(フュージョン、バブル以降はそれも失う)。その実態がどうだったかはともかく、私がジャズという音楽を好ましく思ったのも、金にならない音楽に人生を捧げるジャズ・ミュージシャンたちをずっと尊敬してきたのも、それが理由の一つだ(反商業主義とは、いわば音楽への「ロマン」がまだ存在していた時代の産物である)。だが、いつの時代も、普通のジャズ音楽家はそれでは生きていけないので、この中間のどこかで現実と折り合いをつけて妥協するか、あるいは山下洋輔のように、意を決してそれを止揚すべく、ジャズ固有のコンテキストの中で「自分たちのジャズ」というアイデンティティをとことん追求するかなのだろうが、高柳が選んだ道は、最後まで自らの信じる「芸術としてのリアル・ジャズ」を極めることだったようだ。

1980年代初めに高柳は一度病に倒れ、ジャズそのものを取り巻く状況の変化もあって、インタビューでの発言なども多少ボルテージが下がり、当然だが70年代までのような過激さも薄まっている。その頃には、黒人、白人、日本人といったエスニシティを一切捨象し、ジャズというジャンルすら超えた純粋芸術としてのインプロヴィゼーションを追求するコンセプトがより濃厚となっていたようだ。そして晩年には、テーブル上に横に寝かせた数台のギターと音響機器を組み合わせて、ソロ演奏で電気的大音響(轟音)を発生させる「メタ・インプロヴィゼーション」、さらに「ヘヴィー・ノイジック・インプロヴィゼーション」という形態にまで到達する。こうして1991年に亡くなるまで、生涯をインプロヴィゼーションに捧げた高柳昌行は、日本の音楽界では終生アウトサイダーのままだったが、その死後、日本における真の「前衛アーティスト」として海外では高く評価され、高柳によるノイズ・ミュージックに対して「ジャパン・ノイズ」という呼称まで提唱されたということだ

高柳昌行の音楽思想と人生は、ピアノとギターという違い、トリスターノが盲目だったという身体的違いを除けば、私にはトリスターノのそれとまさにダブって見える。モダン・ジャズは、音楽的緊張(テンション)と弛緩(リラクゼーション)の双方が感じられるのが魅力の音楽であり、聴衆側の嗜好もそのバランスに依るとも言えるが、トリスターノの音楽も高柳の音楽も、その多くが聴き手にもっぱら緊張を強いるという点で同質だろう。調律の狂ったピアノが置いてあり、高度な芸術を理解も評価もできない酒飲みの客だけが集まる享楽的なクラブでの演奏を嫌がり、ジャズ業界の商業主義や他のミュージシャンに対する厳しい批判を繰り返し、自らは高踏的な音楽を追求し続た結果、実人生では音楽家として生涯報われなかったトリスターノの人生のことも高柳はよく承知していた。トリスターノ自身やトリスターノ派のミュージシャンたちと同じように「私塾教師」という仕事を続けたのも、その「覚悟」があったからなのだろう。大友良英は、晩年の高柳と衝突して1986年にの元を去ったということだが、これなども、まさにトリスターノとリー・コニッツという師弟訣別のエピソードを彷彿とさせるような逸話である。


夫唱婦随と言うべきか、高柳夫人による『汎音楽論集』巻末の「あとがき」は、まるで高柳昌行自身が語る言葉をそのまま代弁しているかのようである。夫を最後まで支え続けた数少ない盟友への謝辞中で、たとえば支持者だった内田修医師やフリー・ジャズ・ライターの副島輝人は分かるが、渡辺貞夫の名前も挙げられているのが(素人目には)意外だった。目指した音楽の方向は途中で分かれても、同世代であり、長い年月にわたり、互いに日本のジャズ界を背負ってきた同志ということなのであろう。 

2020/09/04

あの頃のジャズを「読む」 #7:日本産フリー・ジャズ(山下洋輔)

ジャズ・ミュージシャン側が1970年代にどう考えていたのか、ということにも興味が湧くが、今と違って、当時はジャズを演奏する側が自分で書いたものを発表すること自体がほとんどなかった。つべこべ言わずに演奏家は音楽で勝負する、というのが暗黙のルールだったからなのだろう。その例外が山下洋輔と高柳昌行というフリー・ジャズの演奏家だ。しかし、アメリカではコルトレーンに続くアイラーの死(1970)でフリー・ジャズの時代がほぼ終わり、日米ともに商業音楽フュージョンがジャズ・マーケットの主流になり、ヒノテルやナベサダを除けばレコードを中心に1950/60年代のジャズがまだ人気だった当時の日本のジャズシーンで、「同時代のジャズ」と文字通り本気で格闘しながら、何か発信したいと思っていたのは、当時はジャズメディアからもほとんど無視されていた日本のフリー・ジャズ演奏家たちだけだったのかもしれない。

風雲ジャズ帖
山下洋輔
1975/1982 徳間文庫版
日本におけるフリー・ジャズの代表的演奏家の一人で、かつエッセイストが山下洋輔 (1942 -) だが、1960年代前半から、高柳昌行の「銀巴里」での実験的セッションに富樫雅彦たちと参加していた頃は、まだ主にバップ系の普通のジャズを演奏していた。60年代半ばにはフリー・ジャズ的演奏も始めるが、その後一時的に病気療養した後の1969年に、第1次山下トリオ(森山威男-ds、中村誠一-ts)を結成してフリー・ジャズ一本に転向し、演奏活動を続けながら、70年代半ば以降になって『風雲ジャズ帖』(1975 音楽之友社)、『ピアニストを笑え!』(1976 晶文社)他の本を矢継ぎ早に出版した。私はほぼ全部を読んでいたが、内容の面白さ、質の高さもさることながら、何よりその文才にびっくりした。本を書き、出版したジャズ・ミュージシャンは山下洋輔が初めてだと思うが、それまでのジャズ評論家と呼ばれる人たちが書いたものとはまったく違う、スピード感とジャズ的ビートに満ちた文章は読んでいて本当に面白かった。ジャズ・ミュージシャンとはエモーション一発で動く人たちばかりだと当時は思い込んでいたので(失礼)、ユーモアに満ちたエッセイと共に、知的で明晰な文章を書く山下洋輔を知って、まったくイメージが逆転したのを覚えている。海外のフリー・ジャズ・ミュージシャンたちを見てもそうだが、本物の知性と音楽的技量がないと、あの時代に本気でフリー・ジャズなどやれないのである。

初エッセイ集である『風雲ジャズ帖』は、1970年代はじめから山下が雑誌等に寄稿したエッセイや対談を編纂した本で、山下のエッセイの他に、グループのメンバーや、筒井康隆(作家)、菊地雅章(ジャズ・ピアニスト 1939-2015)などとの対談も収載されている。中でも文化人類学者の青木保 (1938-) との<表現>と題された長い対話(初出 1971年 社会思想社)では、あの時代のジャズが演奏者と聴き手にとってどういうものだったのかを語り、またジャズと祭事の文化的類似性について探るなど、非常に奥の深い議論を交わしている。昔から思っていることだが、ジャズ本でいちばん興味深く、読んで面白いのは、本音で自らの考えを語る知的なジャズ・ミュージシャンのインタビューである。またこの本には、当時進路に悩み、しかもピアノが弾けない病気療養中に山下が書いたという『ブルー・ノート研究』(初出 1969年 音楽芸術)という、ジャズにおける「ブルー・ノート」の真の意味を探る、彼の唯一の音楽研究論文も収載されている。これは、近代西洋音楽の音階と和声論だけで、ブルー・ノートを含むジャズという音楽を強引に析することには無理があり、ヨーロッパ的和声とアフリカ的音階・旋律の融和し得ないせめぎあい(アンビヴァレンス)にこそジャズの本質があるという、当時主流だったバークリーを筆頭とするコード(記号化)進行によるジャズの西洋的単純化(システム化)思想に一石を投じた本格的論文だ。そして退院後の1969年に、それまでのジャズ・ミュージシャンとしての悩みのあれこれを払拭すべく、山下は意を決して、ビバップから「ドシャメシャ」のフリー・ジャズの世界へと本気で向かうのである。

DANCING古事記
1969 at 早稲田大学
私は語れるほどフリー・ジャズを聴いたわけではないが(高度成長期の日本の普通のサラリーマンで、規則や秩序を無視、破壊するフリー・ジャズを好んで聴いていた人は少ないのではないかと思う)、個人的分類法だと、当時のフリー・ジャズには体験型の「体育会系」(タモさんは「スポーツ・ジャズ」と呼んでいた)と、観念型の「芸術系」と二通りあったように思う。ジャズは何といってもレコードよりもライヴが面白いのは事実だが、特に体育会系フリー・ジャズはそうだった。山下Gに代表される前者は音を「聴く」というよりも「体験する」、あれこれアタマで考えずに、音に身体を投げ出してその中で全身に音を浴びる、と形容した方が適切な音楽だった。まさに「祭り」に参加するのと同じなのだ。だからそのライヴはわけもなく盛り上がって楽しいときもあって、たまに聴くとスカッとして実に気分が良かった(ただし聴く気力、体力ともに必要だったが)。山下が発掘した若き日のタモリや坂田明が登場したライヴ・コンサートなどは、ハチャメチャでいながらジャズの神髄を感じさせ、本当に面白かった。山下Gの当時のフリー・ジャズの特徴は、フュージョンとは違った意味で、70年代的な「健全性」があり、音楽が明るいことだ。ある意味ロックに通じる高揚感と爽快感があったが、リズムとハーモニーの多彩さ、複雑さ、そして何が起こるか分からないという、パターン化とは無縁の演奏の自由さがジャズならではの魅力だった

ジャズとは「集団による行為」であり、プレイヤー同士が瞬間に反応し、応酬し合う運動競技と同じで、プレイの結果が美や芸術として昇華するならともかく、最初から「芸術」や「作品」を作ろうなどとするジャズはだめだと山下は繰り返し発言し、芸術指向のジャズを否定している。だから「現代音楽的」なジャズになることだけは避ける、というのが全員が音大出のフリー・ジャズ・トリオの約束事だったという。電気の力ではなくアコースティック楽器にこだわり、奏者が生身の行為を通じて楽器を鳴らし、出した音に対して相手も瞬時に即興の音で応じるという「フリー・ジャズ」を思想としてではなく、ジャズが原初的に持っていた肉体を用いた演奏技法(Proto-Jazz)として追求する、というのが山下トリオの基本コンセプトだった。TV番組(田原総一朗・演出)で早稲田全共闘の拠点で学生たちを前にして演奏したり(『Dancing古事記』1969)、防火服を着たまま燃え上がるピアノを演奏したり(『ピアノ炎上』粟津潔 1973) するなど、激しい時代の激しい(?)演奏体験を通して、3人が結果的に到達した表現が、それまでのジャズにはなかった「日本的祝祭空間」だった。そしてこれは、#6で述べたように、70年代のフュージョンの台頭で失われつつあったジャズ本来の始原的パワーの復権という意味もあった。

キアズマ Live in Germany
1975 MPS
第二次山下トリオ(中村→坂田明-as)が1970年代半ばからヨーロッパのジャズ祭に出演し、特にドイツで評価された理由は、(クラシック音楽の伝統という重い足かせから逃れようとしていた現代音楽に、限りなく近づきつつああった)頭でっかちで芸術指向のヨーロッパのフリー・ジャズとは異なる、自由と解放感に満ちた日本的祝祭」という表現上のシンプルさとパワーが、それまでになかった高揚感をドイツの聴衆に喚起し、同時に「日本人のジャズ」という音楽上のオリジナリティ、アイデンティティが、その演奏の中に紛れもなく存在していたからだろう。山下洋輔トリオによる「日本オリジン」のフリー・ジャズは、70年代を通じて、メンバーを変えながら異種格闘技やアメリカ乱入などの欧米訪問を含めて1983年まで14年間も続き、初めて「日本人のジャズ」を世界に認知させた。これは山下Gだけが成し得た功績である。山下トリオの音楽は、その演奏コンセプトからしても、基本的に現場で聴くライヴだからこそ価値があるものと言えるが、ドイツでの『キアズマ』など、当時のその「音」を捉えた記録としてのレコードも、2次的な体験になるがやはり一聴に値する。

ジャズの証言
山下洋輔 相倉久人
2017 新潮新書
その山下洋輔が「師匠」と呼ぶ相倉久人と何度か行なった未発表の対談記録を、2015年に相倉が亡くなった後、書き起こして発表したのが『ジャズの証言』(2017 新潮新書)だ。山下の音楽とその思想の背景を幼少期から辿りつつ、日本のジャズ黎明期から70年代の独自のフリー・フォーム形成に至った経緯を中心に、相倉の質問に山下が答える形式で構成した対談である。60年代の初期の活動に始まり、70年代から80年代初めにかけてのフリー、トリオ解散後のソロ活動、80年代末から現在まで続くニューヨーク・トリオ、その間のクラシック音楽との接近、さらには2007年の日本におけるセシル・テイラーとの共演に至る、山下洋輔のジャズ思想形成と実践の経緯が、様々な角度から述べられている。本書で山下は、1960年代初めからの相倉の言辞が、ジャズ・ミュージシャンとして進むべき道を決めるための刺激となり、指針にもなったと繰り返し語っている。この対談を読んで感じたのは、二人が知性、生き方、美意識、表現手法という点で、そもそも共通の資質、価値観というものを持っていたように思えることだ。だから二人の出会いは、双方の人生にとって幸運なものだったのだろう。

また当時、日本的な空間美を意識した「芸術系」フリー・ジャズの最重要ミュージシャンだったのが天才ドラマーの富樫雅彦(1940 -2007)だ。「銀巴里」セッションをはじめ、相倉久人と一緒に行動していた1960年代の富樫雅彦と山下洋輔の関係はあまり知らなかったのだが、本書には同じようにフリー・ジャズの世界を指向しながら、二人が結果的に別々の道を歩むことになった経緯も書かれている。富樫は佐藤允彦(p) と共演するなど絶頂期だった1970年に不幸な事故に会い、下半身不随という後遺症と向き合いながら、その後パーカッショニストとして復活して数多くの名演を残した。また70年代半ばからは間章 (あいだ・あきら)の仲介を経て、スティーヴ・レイシーなど多くの海外ミュージシャンとも共演してその音楽世界を拡大し、2007年に亡くなるまで演奏活動を続けた。いずれにしろ、相倉の目指した、アメリカのモノマネを越えて、(世界に通用する)日本独自のジャズを創造するというヴィジョンは、表現手法は異なっても、山下洋輔と富樫雅彦という二人の日本人ミュージシャンによって実現したと言えるだろう。近年「和ジャズ」がブームになっているが、日本ならではのオリジナリティを持ち、しかもメジャーな存在として世界に認知された「正真正銘の和ジャズ」と呼べる音楽を創造したのは、間違いなく50年前の山下洋輔と富樫雅彦であり、また当時二人と共演した日本人ミュージシャンたちだったと思う。

2020/08/15

あの頃のジャズを「読む」 #6:ジャズと文学

1960/70年代のジャズ評論の主な場は、ジャズ雑誌や音楽雑誌にあった。だがポピュラー音楽のジャンルの一つであると同時に、当時のジャズは芸術や思想の潮流にも影響を及ぼす前衛芸術だとも見られていたので、硬派だった季刊誌「ジャズ批評」に加え、文芸誌「ユリイカ」、「文学界」などでも、芸術、文学、思想という観点から「ジャズ特集」が組まれ、ジャズ全体の動向、芸術や思想との関係について「非商業的な」レビューや批評文が掲載されていた。そこでは、主に雑誌のレコード評などを担当していた前掲のジャズ評論家群とは異なる視点でジャズを捉えた文章を書く作家や批評家たちが寄稿していた。ジャズに関心の高かった作家も、60年代前半の大江健三郎や五木寛之の世代に、フリー・ジャズに傾倒した中上健次や、ジャズバーまで開いた村上春樹など団塊世代が加わるようになった。しかし世界中が騒然としていた激動の60年代が過ぎ去り、世の中全体が平和と安定を求めるようになった70年代になると、常に時代に敏感に反応するジャズも同時に変貌していったが、そこにジャズから失われてゆくものを痛切に感じ取っていた人たちもいた。

「ジャズはかつてジャズであった。」
中野宏昭  / 
1977 音楽之友社
当時読んだ本の中でもいちばん記憶に残っているのが、中野宏昭(1945-76)という人の『ジャズはかつてジャズであった。』(1977) という本で、2017年3月にもこのブログで一度紹介している。中野氏は1968年にスイングジャーナル社に入社後、体調を崩して72年に同社を辞めた後もフリーで評論活動を続けていたが、76年に病気のために31歳で亡くなっている。この本は、その70年代前半の短い期間に中野氏が雑誌などに寄稿した何編かの評論と、ビル・エヴァンスの『Explorations』など、当時のレコードのライナーノーツとして書いた代表的文章を選んで、野口久光、鍵谷幸信、悠雅彦氏ら有志が故人を偲んで出版した遺稿集である。ジャズへの深い思いに貫かれた若き中野宏明の詩的で瑞々しい文章は、日本のジャズ批評史上もっとも高い文学的香りを放っている。

モード後の1960年代、フリー・ジャズへは向かわなかったマイルス・デイヴィスは、67年のコルトレーンの死後、ロックとエレクトリック楽器にアフリカ的リズムを融合した『ビッチェズ・ブリュー Bitches Brew』(1970) に代表される一連のアルバムを発表する。まったく新しいコンセプトによって、次なるジャズ・サウンドを創出したマイルスの支配的影響もあって、それ以降のジャズは、演奏家個人の技術や魅力よりも、「全体として制御された集団即興」へと音楽の重心がシフトした。電気増幅によってサウンドが大音量化し、個性の出しにくいギターとキーボードというコード楽器の比重が増したために、それまで主楽器だったサックスなど単音のホーン系アコースティック楽器の存在感が相対的に低下した。さらに「演奏後の録音編集」という新技術がそこに加わったために、結果として、演奏現場で、独自のサウンドで瞬間に感応する即興演奏で生きていた個々の演奏家の存在感が薄まって行くことになった。中野宏昭は書名にもなった表題エッセイで、70年代フュージョンの先駆となるこうした集団即興に舵を切ったマイルスのエレクトリック・ジャズを取り上げ、一方でコルトレーンの死後も、演奏者個人のインプロヴィゼーションを追求するアコースティック・ジャズの伝統を受け継いできたキャノンボール・アダレイの死(1975年)が意味するものと対比し、かつてのジャズが持っていた、演奏家が身を削って瞬間的に生み出す「一回性の始原的創造行為」という特性をもはや失った、と70年代のジャズの変化を捉えている(それでもなお、彼はマイルスの新しい音楽にジャズの未来を託している)。これは、60年代までのシリアスでラディカルなジャズを「同時代の音楽」として聴いてきた多くのジャズの聴き手に共通する感覚でもあった。マイルスのコンセプトをいわば商業化したバージョンであり、エレクトリック楽器を多用した70年代の「フュージョン」隆盛は、単にジャズの「サウンド」を変化させただけでなく、音楽としてのジャズの「本質」を変えたと感じる人が多かったのである。

ユリイカ(青土社)
1976年1月号
特集<ジャズは燃え尽きたか>
こうした70年代のジャズの変容を意味する『ジャズはかつてジャズであった』という詩的なタイトルは、中野宏昭が雑誌「ユリイカ」(青土社) 1976年1月号の特集<ジャズは燃え尽きたか>へ寄稿したエッセイのタイトルから引用したもので、当時の同誌編集長が小野好恵(おの・よしえ、男性、1947-96)だった小野は1970年代に「ユリイカ」と、自身が創刊した「カイエ」(冬樹社) の編集長を務めた後、80年代にフリーランスのジャズ(かつプロレス)評論家になった人だが、彼もまた病気のために1996年に48歳で早逝する。その小野好恵を追悼する遺稿集として、川本三郎氏が中心となって翌97年に編集・出版した本が『ジャズ最終章』(深夜叢書社) である。1970年代以降、小野が編集者として、あるいはジャズ批評家として雑誌や新聞等に寄稿した評論やエッセイから選んだ論稿をまとめたもので、70年代の「ユリイカ」と「カイエ」の編集後記、80年代以降に批評家に転じてから各種媒体に寄稿した文章から選ばれている。

ジャズ最終章
小野好恵 / 1997 深夜叢書
したがって本書も、ジャズ界と直接的な関わりはないが、ジャズと併走しながらあの時代を生きていた「非商業的な」批評家が、当時どんなふうにジャズシーンを見ていたのかという、もう一つの具体例である。フリー・ジャズに傾倒していた小野好恵は、1960年代末の新宿のジャズ喫茶で出会って以来、サックス奏者の阿部薫と個人的に親しく交流していた。破滅的で、孤高の音楽家ではあるが、その才能の素晴らしさを確信していた小野は、阿部の絶頂期と言われる1971年にコンサートの企画と録音を自ら手掛ける(東北大、秋田大、一関「ベイシー」で録音されたライヴ演奏が、小野の死後『アカシアの雨がやむとき』など3枚のCDで発表されている)。一方1974年に国分寺で開店し、フリー・ジャズに背を向け、50年代ジャズしか流さないと明言していたジャズ喫茶「ピーター・キャット」の常連客として、店主だった無名時代の村上春樹(1949 -)やそこに来ていた村上龍(1952-)とも知り合いだったり、当時ジャズに熱中していた中上健次(1946 - 92)とも親しく、またプロレス好きの仲間として村松友視(1940 -)とも接点があるなど、仕事がら文学関係者と幅広い交流があった。中でも親しかったのが、フリー・ジャズを自らの創作手法のバックボーンとして吸収し、『破壊せよ、とアイラーは言った』(1979) を書いた同世代の中上健次だった

1965年に高校を卒業すると、紀州(新宮)から上京してそのまま向かった新宿のジャズ喫茶で、いきなり 「重く黒い」 フリー・ジャズを全身に浴び、未体験のその音に圧倒され触発されて、ジャズそのものを創作手法に取り入れた小説を書くようになったのが中上健次だ。対照的に、60年代からジャズとアメリカン・ポップスを聴きながら都会で育ち、柔らかで軽い白人ジャズ(特にスタン・ゲッツ)を好み、ついにジャズ喫茶まで開く人並みはずれたジャズ・フリークでありながら(あるがゆえに)、多くの作品中で小道具的に触れることはあっても、創作上のテーマや技法においてはジャズと一定の距離を置いていたのが村上春樹である。小野好恵は同書で、ほぼ同世代のこの二人の作家のジャズに対するスタンス、美意識と作品を比較、考察している(「二つのJAZZ・二つのアメリカ―中上健次と村上春樹(1985年)」)。1960年代半ばの新宿で、突然「ジャズにカブれた田舎者」と、ほぼプロ並みの知識を持つ「都会人ジャズおたく」の対比という見方もできるが、中上健次の、ジャズのパワーに対する一見して雑だがピュアでストレートな反応と、対照的に、あからさまな主張や表現を嫌い、寓意と細部の洗練にこだわる村上春樹の都会人らしいジャズへの嗜好、その両方が、ある意味で当時のジャズの中にあった「土着性 / 暴力性」と「洗練 / 退廃」という2つの魅力を象徴しているとも言える。

路上のジャズ
中上健次 / 2016 中公文庫
『路上のジャズ』(2016) は、中上健次のジャズ・エッセイ集『破壊せよ、とアイラーは言った』と小野好恵による「解説」中上の他のジャズ・エッセイと初期の短編小説、さらに中上と小野の対談(1981) など、ジャズ関連の文章だけを収載している文庫本だ。本書のエッセイや小説では、若き中上健次の目に映った1960年代後半の新宿とジャズの風景が生々しく描かれている。全共闘時代よりも少し前の新宿の街頭で、コルトレーン、アイラー、アーチー・シェップのフリー・ジャズは20歳の中上健次と共鳴し一体化していた。同世代の小野好恵も、阿部薫も、ビートたけしも、永山則夫も、同じ時に同じ空間にいた。近くの「ピットイン」では若き日本人ジャズ・ミュージシャンたちが、独自のジャズ創出に毎夜挑戦していた。日本における60年代フリー・ジャズは、まさしくパワーとカオスに満ちた当時の「新宿」という街、そしてそこで生きる若者にこそふさわしい音楽だったのだろう。逃れ難い制度(code/chord) との葛藤、そこからの自由を求める闘いという点で、自身の出自とも複雑につながる中上のフリー・ジャズ体験は、音楽的知識や演奏技術の理解云々を超えた衝撃をこの若い作家にもたらし、「ジャズとは言語である」とわずかな期間でジャズの本質を見抜いたその鋭敏な感性を基に、ジャズ的構造、文体、語法を後年の『岬』(1976)や『枯木灘』(1977) 等の作品に投影したと小野好恵は指摘する。テーマやメタファーではなく、「ジャズそのもの」を小説技法の中で具現化した日本人作家は中上健次だけだと小野は考えていた(海外ではパーカーを描いた『追い求める男』のフリオ・コルタサル)。不幸な出自を持ち、どことなく「無頼」を感じさせる小野好恵は、中上健次の中に自分と通じる何かを感じ取っていたのだろう。「ジャズを通して世界を感知する」という、強烈な同時代体験を60年代に共有した二人による、20世紀の世界文学とジャズとの関係を巡る対話も深い。

『ジャズ最終章』には他にも、フリー・ジャズを60/70年代固有の一過性フォーマットとして捉えず、メソッドとして「意識的に選択」し、その後も10年以上にわたって一貫して「冷静に挑戦」し続けた山下洋輔のジャズ・ミュージシャンとしての矜持と真価を讃える「破壊するジャズの荒神 山下洋輔(1980年)」、フュージョン全盛時代にあって、ロック、ポップス、現代音楽など、世界中のあらゆる異ジャンルの音楽、ミュージシャンたちと共演し、そこで圧倒的な存在感を発揮する渡辺香津美のジャズ・ギタリストとしてのアナーキーさとスケールに感嘆する「渡辺香津美 あるいはテクニックのアナーキズム(1980年)」、さらに小野が寄稿したコルトレーン、ドルフィー、阿部薫、富樫雅彦他の内外ミュージシャンに関する論稿やディスクレビュー等も併せて収載されている。60年代末から80年代にかけてのジャズシーンの変容とその意味を、深く静かに見つめていた小野好恵の文章は、中野宏昭と同じく、全編に著者のジャズへの愛が感じられ、鋭くかつニュートラルなその批評の質の高さが際立っている。しかし、中上健次がそうだったように、ドルフィー、コルトレーン、アイラ―に代表される60年代フリー・ジャズこそが、ジャズという音楽の本質をもっともラディカルに体現していたフォーマットだと信じていた小野好恵の70年代半ば以降の論稿の基調は商業音楽フュージョンに埋め尽くされ、息絶えてしまったフリー・ジャズと、失われてしまった「行為としてのジャズ」そのものに対する絶望と諦念だ。

1992年に46歳で亡くなった中上健次の後を追うように、96年に病に倒れた小野好恵に捧げられた村上龍、高瀬アキ、清水俊彦、山口昌夫氏他の各分野の知人、友人たちからの心のこもった巻末の追悼文が、著者の人柄と業績をよく表している。同時に、1977年の『ジャズはかつて…』からちょうど20年後の1997年に出版された『ジャズ最終章』というタイトルが、時の流れとあの時代のジャズの変容を物語っている。偶然とはいえ、ここに挙げた中野宏昭、小野好恵、中上健次というほぼ同世代の3人は、不幸にも全員が早逝してしまった。しかし、「音楽」が消耗品のように日常に溢れ、すべてがエンタメ化し、もはや個々の音楽に特別な感慨を抱くことが難しくなってしまった現代から振り返ってみると、豊かな知性と感性を持ちつつジャズと真摯に向き合い、ジャズを語り、ジャズを心から愛し慈しむことのできた彼らは、短いながらも幸福な時代を生きたと言えるのかもしれない。