Rolling 70s (1994) |
真冬に聴く演歌もそうだが、ポピュラー音楽にはどれも、その出自から来る「いちばん似合う場 (situation)」というものがある。明るい南国行きの船の上ではなく、雪の舞う北国へ向かう暗い冬の船や列車の中だからこそ、演歌は一層しみじみと心に響く。同様に、ジャズをさわやかな高原で、真っ昼間に聴きたいとはあまり思わない。ジャズは基本的には「都会の」「夜の」音楽だからだ。ブルース(Blues:英語の発音では「ブルーズ」と濁る)も、秋とか冬の澄み切った青空の下で聴きたいとは思わない。アメリカ深南部 (Deep South) の、ミシシッピ・デルタあたりのジトーッと重い湿った空気の中で生まれたブルースも、底に流れる黒人音楽特有の哀しみや嘆きに加え、その出自の一部である「風土」が、サウンドの中に色濃く反映されている。日本の気候とはまったく違うだろうが、強いてあげれば、日本では6月から7月のじめじめした蒸し暑い季節が、いちばんブルースには似合うように思う。
熱心なファンを除けば、今やどれくらいの人が「憂歌団」のことを知っているのか分からないが、ジャズ、ロックに加えフォーク、ニューミュージック、演歌、歌謡曲…と、何でもありで、ほとんど「ビッグバン」状態だった日本の1970年代の音楽界で、ひときわ異彩を放っていたのが「憂歌団」(Blues Band=ブルース・バンド=憂歌・楽団=憂歌団)だ。あの時代ブルースをやっていたバンドは、憂歌団も影響を受け、曲提供も受けた名古屋の「尾関ブラザース」や、京都の「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」など、結構あったようだが、もっともインパクトがあり、メジャーな存在になったのは、やはり当時の「アコースティック・ブルース・バンド」憂歌団だっただろう。内田勘太郎のギター、木村充揮(きむら・あつき)のヴォーカルを核にして、花岡献治(b)、島田和夫(ds-故人)を加えた4人の音楽は、「憂歌団」という素晴らしいネーミングと共に、私的にはとにかく衝撃的だった。
17/18 oz (1991) |
ブルースの日本土着化を可能にした「要因」はいくつかあるだろうが、その一つは、間違いなく憂歌団の本拠地である「大阪」という土地柄、風土だ。東京でも京都でもなく、日本で大阪ほどブルースの似合う街はない。昔(50年前)に比べると、今は大阪もすっかりモダンに様変わりしたようにも見えるが、その根底に、気取らず、飾らず、泥臭く、人間味があって、「本音」で生きることにいちばんの価値を置く、という長い「文化」がある大阪こそ、日本にブルースが根付く土壌をもっとも豊かに備えている街だ。憂歌団のオリジナル・メンバーの出身地であり、彼らの音楽が持つサウンドと歌詞のメッセージに共感し、それを支持する「聴衆」が多いこともその条件の一つだろう。そして「日本語のブルース」を可能にしたのが、上記文化を象徴する言語である「大阪弁」の持つ独特の語感とリズムだ。そしてもちろん、その大阪弁をあやつる木村充揮の、「天使のだみ声」と呼ばれる超個性的なヴォイスと歌唱が決定的な要因だ。内田勘太郎のブルージーだが、同時に非常にモダンなブルース・ギターと木村の味のあるヴォーカルは、もうこれ以上の組み合わせはないというほど素晴らしかった。とりわけ木村充揮は、ブルースを唄うために生まれてきたのか…と思えるほどで、ブルースとは何かとか考える必要もなく、木村が唄えばそれがブルースであり、どんな楽曲も「ブルースになる」と言ってもいいほどだ。
私が持っている憂歌団のレコードは『17/18 oz』(1991)と、2枚組『憂歌団 Rolling 70s』(1994)というベスト盤CDだけだったが、彼らの名曲をほとんどカバーしているこの40曲ほどを、何度も繰り返し聴いてきた。今はこれらをまとめた新しいベスト盤も、DVDも何枚か出ているし、木村充揮のソロ・アルバムも何枚かリリースされている。それにYouTubeでも過去のライヴ演奏など、かなり昔の記録までアップされていて、映像では内田勘太郎の見事なギタープレイもたっぷりと楽しめる。憂歌団のレパートリーは、ブルース原曲や、アメリカのスタンダード曲に加え、オリジナル曲の「おそうじオバチャン」、「当たれ!宝くじ」、「パチンコ」、「嫌んなった」など、70年代憂歌団の超パワフルで、いかにも大阪的なパンチのきいた楽曲が最高だ。しかしシャウトする曲だけではなく、木村がブルージーかつ、しみじみと唄う「胸が痛い」「夜明けのララバイ」「けだるい二人」のようなバラード曲や、「夢」「サンセット理髪店」など、ほのぼの系の歌も絶品だ。ただし、バンドとしての憂歌団の素晴らしさをいちばん味わえるのは、何といってもライヴ演奏だろう。それも大阪でやったライヴが特に楽しめる(聴衆のノリが違う)。ライヴで唄う定番曲「恋のバカンス」や「君といつまでも」他の、日本のポップスの木村流カバーも非常に楽しめる(時々、森進一みたいに聞こえるときもあるが)。団塊の若者が主導し、1960年代的「混沌」を半分引きずりながら、同時に高度経済成長に支えられた未来への「希望」が入り混じった1970年代のカオス的でパワフルなカルチャーには、商業的成功だけではない、サブカル的音楽の存在と価値を認め、それを楽しむ度量というものがあった。それに当時は老いも若きも、まだ国民の半分くらいは「自分は貧乏だ」という意識があって、それを別に恥じることもなく、かつ「権力には媚びない」という60年代的美意識がまだ残っていた。この70時代から80年代にかけてのポピュラー音楽からは、音楽的な洗練度とは別に、「生身の人間」が作っているというパワーと手作り感が強烈に感じられるのだ。ところが80年代に入って日本がバブルへと向かい、みんながそこそこ裕福になり、世の中も人間もオシャレになってくると、音楽も徐々に洗練されるのと同時に、80年代末頃からは、デジタル技術が音楽の作り方そのものを変え始める(生身の人間による音楽の「総本家」たる即興音楽ジャズさえも、80年代以降は明らかに変質してゆく)。聴き手側でも、「おそうじオバチャン」的世界を共感を持って面白がり、支持する層も徐々に減って行っただろう。憂歌団にはブルースという普遍的な音楽バックボーンがあり、決して流行り歌を唄うだけのバンドではなかったが、こうして社会と人間の音楽への嗜好が変わって行くと、バンドの立ち位置も微妙に変化せざるを得なかっただろう。
20世紀後半は日本に限らず、世界中でありとあらゆる種類のポピュラー音楽が爆発的に発展した時代だ。その時代に生まれた様々な、しかも個性豊かな音楽に囲まれて青春時代を送り、生きた我々の世代は本当に幸運だったと思う。その世代には、この世に音楽がなかったら、人生がどんなにつまらないものになるか、と本気で思っている人が大勢いることだろう。しかし、この20世紀後半のような幸福な時代――次々に新たな大衆音楽が生まれ、それを創造する才能が続々と登場し、それらを聴き楽しむ人が爆発的に増え、音楽と人が真剣に向き合い、感応し合い、楽しく共存した時代――は、もう二度とやって来ないだろう。あの半世紀は「特別な時代」だったのだ。この夏も、こうして70年代「憂歌団」の超個性的な演奏を聴きながら思うのは、そのことだ。