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2024/08/30

SNSと悪意の民

SNSでの炎上や、ネット上の相手かまわぬ匿名の誹謗中傷コメントに関する最近の報道を読んだり、実際にヤフコメを覗いたりすると、いったい慎ましい「声なき民」はどこへ行ったのか…と思うほど、悪意に満ちた攻撃的なコメントと嫌味だらけで読むのもイヤになる。立て看板、目安箱、掲示板、便所の落書きに至るまで、政治や社会への批判、不満、要望など、大衆の「声なき声」を代弁し、匿名で権力や世間に訴える方法は大昔からこの国にもあった。しかし、形はどうあれ、自分の意見を書いたものを人前に晒すという行為には、それなりの勇気や決断、なにより共感を呼ぶだけの思想やそれを表現できる文章力が必要だった。さもなければ、無視されるかバカにされるのがオチだった。一歩踏み出すためには、それなりの「覚悟」が必要だったのだ。20世紀に入って、新聞や雑誌への投稿が、一般人が公にそうした意見や不満の表明をする唯一の場である時代が長く続いていた。

インターネットが普及し始めた1990年代から、それまでの新聞や月刊誌、週刊誌のような、内容やレベルの差はあっても、一応は素性や責任のはっきりした紙媒体(「購入」という、金と行為が必要)に代わって、ネット上で「タダで誰でも自由に発信できる」という場と環境が初めて人類に与えられた。しかし、そのときもまだ、PCや文章ソフトの知識と使い方の技術が最低限必要で、そういうスキルのある人間しか文章を発表したり投稿したりできなかった。つまりまだ限られた人たちの世界だった。その時代でも、人物を特定して名指しで批判したり、その行状を非難する「危ない匿名記事」が、ネット上ですでに結構出ていた記憶がある(それまでの三流新聞やゴシップ雑誌の系譜だ)。さらに2chに代表される「ネット掲示板」が登場して、ネット上で双方向の「匿名による意見交換」の場も現れ、これが現在のSNSにつながる「個人の」自由発信の萌芽だったのだろう。面白い記事や議論もあったが、時どき過熱して、相手を攻撃、罵倒する一部の暴力的言説、文章のあまりのひどさに、本当に吐き気をもよおしたことがある。よくそこまで「陰湿で悪辣な言葉」を思いつくものだとその才能(?)に感心するほどで、人間の悪意とはここまで成り下がるものなのかと、衝撃を受けたことを覚えている。

何物でもないただの一般人が書いた文章を、赤の他人が読む機会は昔はそうなかったはずだが、インターネット空間はそれを初めて解放し、個人情報や意見を自由に書き込める革命的な場を提供した。しかし、偉い人や、作家、芸術家のような20世紀的に格調高い文章を誰もが書けるはずもなく、量は増えても、やがて何でもありのゴミタメのようになったネット文章の質は、普及と比例して徐々に低下した。’00年代になって、ツイッター(X)やフェイスブック、LINE他の「SNS」というコミュニケーションツールと、個人所有の通信PCである「スマホ」が登場し、誰でも簡単に発信できるインフラがほぼ完全に整備された。そしてツイッターのような短文連絡ツールの出現は、通信言語の変質と日本語文章の劣化に拍車をかけた(今はもう文章ではなく、イイネ!とか、スタンプで何でも代用可だ)。2010年代に入ってからは日本でもそれが一気に普及し、完全に当たり前の通信用の道具となった。そこにYouTube、Instagramなどヴィジュアル情報通信の簡易化が加わり、情報網の拡大と拡散効果も極大化してゆき、この10年で日本は、いわば一億総発信者、総アーティスト、総評論家の国になった――というのが、ざっと見た歴史だろう。

たとえば、私はジャズ好きで自分でも訳書を出版しているので、時どき目を通しているが、この10年くらいのAmazonの書籍や、映画、レコードといった文化ソフトのレビュー欄を、時系列で追って読めば、この「ネット言説の普及と劣化」が大衆レベルで如何にして起きてきたかがよく分かる。10年ほど前までは、素人ながら、みな、まともに読める質と批評内容を持った真面目な文章が多かった。中には素晴らしい批評文もたまにあった。一応の知識と関心を持つ、それなりの人間だけが投稿していたからだ。ところが、今や「五つ星!」だけとか、言いがかりとしか言えないひどいレビュー、そんなことを人前で言っちゃだめだろう的な文章ばかりである。この傾向は当然ながら日本も米国も同じだが、日本の劣化が特にひどいように思える(元々日本の「批評」はレベルが低い)。誰もが匿名で自由に書け、投稿できるようになって、知識、能力や人格にかかわらず「どんな人間でも」勝手に意見を言えるようになった結果、きちんと考え、それをまとめ、真面目に意見を述べてきた人たちは、とっくにそういう場から去って行った。つまり、いつの時代も、制約のない完全に解放された場では、悪貨が良貨を駆逐するのである。以前は、各レビューに対して第三者がコメントできる場も用意されていたのだが、SNSの影響もあって、レビュー/コメント者の間のやり取りが過熱、炎上するようになり、数年前にAmazonはこの仕組みを止めている。しかし逆に、どんなにいい加減なレビューに対しても、出品者側は何もコメントできないのが現在のシステムで、今はレビュー者側の言いたい放題の場に近い。

いずれにしろ、この「スマホとSNSの登場」は、ある意味で人類が「パンドラの箱」を開けたことになるのだろう。隣のおっさんやおばさんから、米国大統領まで、これまで聞こえなかった「個人の声」が、仲間内ばかりか、いとも簡単にグローバルネット空間に、本名、匿名を問わず、24時間途切れることなく発信されているのである。独り言や、(このブログもそうだが)どうでもいい通信、便所の落書き程度の内容に至るまでの「夥しい言葉」が、電波に乗って、地球上を飛び交っている光景(?)を想像するだけで、何だか頭が痛くなりそうだ。最近では、何も音が聞こえているわけではないのに、時どき「うるさい!」と感じるようになった。人間に聞こえるはずのない、MHz、GHzレベルの電波が、常に頭上を飛び交っているせいではないか?(そう感じるのは私だけか?)。

こうした文明の利器をもっとも素早く、かつ有効に使うのは、昔も今も「悪人」と相場が決まっている(TVの『鬼平犯科帳』を観ていればよくわかるが、これは世界共通だ)。賢い悪人ほどタチの悪い連中はいないが、賢くない悪人(?)も、毎日のように、全国至る所で「盗撮」で捕まっている。昔は男の妄想で済んでいたのに、最新技術のおかげで、我慢できずに犯罪の実行におよんでいるわけである。日々増える、毎日山のように送られてくる詐欺メールも、その処理だけでイヤになるが(ある時点から急激に増えた。メアドがワルのルートで拡散されたからだろう。毎日メールを削除するだけでも本当に面倒くさい)、これがきっと、日本中の情弱高齢者たちを狙った膨大な数の詐欺メールとなって送られているに違いない(「重要。お支払いに問題があります…」と、やれAmazonだ、やれヤマト運輸だ、東京電力だ、三井住友だ、えきねっとだ、イオンカードだ…とキリがない)。最近、ネットの「コタツ記事」という語をよく見かける。ネットとかTVで「適当に」集めた情報を使った、誰でも書ける、内容のない空っぽ記事のことだが、これからは「コタツ詐欺」とか「コタツ犯罪」の時代だろう。手足を一切使わずに、スマホ片手に寝っ転がっていても、指先ひとつで人をだまして金が詐取できる時代である(総称すれば「コタツ・ビジネス」か)。しかもルフィのように、海外からリモコンで指示する国際犯罪組織にまでに拡大している。ネット記事や動画で、見る者に「クリック(閲覧)さえさせれば金が入る」という仕組みが、そもそもの元凶だが、それも元をただせば、どうせどこかの賢いワルが思いついたのだろう。個人レベルだけではなく、その情報を利用、引用して、コタツ記事で増幅し、拡散して、意図的に炎上騒ぎの片棒を担いでいるのは、言うまでもなく大手を含むネットメディアである。つまり今や、個人からメディアまでいわば一蓮托生なのだ。

SNSの誹謗中傷の源流は、上に書いたようなネットの匿名掲示板の罵詈雑言合戦なのだろう。だが時代や、世代、世の東西を問わず、人間社会で決してなくならない陰湿な「イジメ」を見れば分かるように、世の中には、どうしょうもない「ワル」だけでなく、一見普通の顔をして暮らしているが、人を傷つけることを楽しむ、どうしようもなく「底意地の悪い」人間が、いつの時代も一定の比率でかならず存在しているのである。どんなに社会が良くなろうと、それは変わらない。そういう人間も親から子へと常に再生産されているので、世の中から消えることはないし、ネット空間では彼らも平等に権利を行使する。むしろ、顔の見えないネット空間だからこそ、なおさら狡猾に手加減せずに実行する。非ネット時代には表面に出てこなかった(陰に隠れていた)、そういう人間の「悪意」が、デジタルによる新しい環境と道具によって解放され、一斉に顕在化しつつあるのが今のSNSで起きていることなのだと思う。

「声なき民の声」とは、昔は救済すべく善意に解釈するのが当たり前の対象だったが、今はステルス化した「悪意の民の声」として捉えるべき時代になってしまった。顔も名前も出さずに、他人を言葉の暴力で傷つける卑怯な連中のことである。「イジメ」がそうであるように、これは日本社会だけの問題ではなく、程度の差こそあれデジタル通信化が進む世界中の国々で起きていることだろう。弱い者や、劣位の者、あるいは単に自分が気に食わない人間をいじめたい、他人の幸福が許せない、他人と少しでも差をつけないと(自分を向上させるのではなく、他人の足を引っ張って、下にひきずり降ろして相対的に優位に立たないと)安心して生きていけない…――そうした類の人間は、いつの時代も、社会のどこにでも常にいる。その種の人間による誹謗中傷の対象は、あるときは身近な人間、知っている人間で、別の時は自分とは何の関係もない、芸能人や有名人を叩いて憂さ晴らしすることである。これはある意味で、いわば人間の業とも言えるが、そういう人間も以前は、自分自身とも、社会とも、何とか折り合いをつけて、そうした悪意や葛藤を自分の内部に留めてきた(もちろん投書とか、他の嫌がらせ方法もあっただろうが)。それが「SNS・スマホ時代」になって、いつでも自由に、躊躇することなく、それを外部(世界中である)に向けて発散できる環境ができてしまった。またそれを読んで一緒になって騒ぐ人間もいるので、そこで承認欲求も満たされ、ますます発信したくなる。「パンドラの箱」とはそういう意味であり、これを開けてしまった以上、もう元には戻せないのである。

それを教育や善意だけで、なくすことは不可能だと思う。個人的防御策は、見ない、聞かない、無視する、ことくらいしかないが、デジタル・タトゥーと言われるように、デジタル通信時代の誹謗中傷の言説が持つ寿命と、その拡散力の強大さの前には、個人は無力である。しかも、個人が受けた精神的苦痛は簡単には消えずに、いつまでも残る。被害をゼロにできない以上、次善の策を講じるべく、「善意の」最新技術、法規制の再構築で、被害を防いだり、最小化する以外に方法はあるまい。有名人などの場合、これは精神的苦痛や名誉棄損に加えて、れっきとした「営業妨害」でもある。当然、相応の損害賠償を請求できる権利があるべきだ。法律が常に現実の後追いになるのはやむを得ないが、ほとんど無法地帯化し、さらに拡大の一途をたどるたネット空間言説における「倫理」「犯罪の定義」と「社会的制裁」の構築とその明文化、実行は、今や喫緊の課題だ。

この30年間、技術(モノ)開発から情報処理へと舵を切り、ネット空間、情報検索技術、ソフトウェア、新通信技術、クラウド…等々、様々な「新プラットフォーム」を次々に開発し、世界に提供し、人類にかつてない利便性を提供してきた一方で、国境を越えて世界中から独占的に利益を吸い上げて成長を続けてきた米国のGAFAM企業群に、この「無法地帯を制御する」技術開発の責任と、何らかの社会的・法的責任を負わせる方策を早く講じるべきだ。これは知財問題を含む生成AI制御と並ぶ大問題であり、人類の哲学と叡智が試される最重要課題だ。こうした大企業群が自らの責任において何らかの根本的対策を講じない限り、その利便性を享受してきただけで、何らの技術力、影響力を持たない日本のような国一国だけではどうにもならない問題なのである。たとえローカル一国内で問題提起しても、当然だが私企業内では、グローバル優先順位が常に低いので、すぐに対策し、改善するはずもない。現在のEUの姿勢は、この解決策を示唆している。国境を越えて、ネット空間の倫理・哲学ヴィジョンに基づく、グローバル私企業に対する世界的な提案、要求が必要な段階に入っているが、日本は相変わらず蚊帳の外のようだ。それどころか、デジタル音痴の老人たちがいまだに金と力を持って、古臭い政権を昔ながらの手法で運営している。日本人として、このデジタル資本主義時代に感じる無力感は、何とも例えようがない――いまさらながら、この30年間の日本政府とその主導者たちの無為無策に憤りを覚える今日この頃だ。