この1-2年、腰の調子が悪く、都心へ出かけることもほとんどないので、東京都心の風景の変貌ぶりに驚いたが、もっと驚いたのはコンサートの客層だ。普通のジャズ・ライヴやコンサートではおよそ見かけない、若い観客、特に女性が多いのにびっくりした。私がこれまで出かけたジャズ・コンサートでは、中高年層、それもたぶん60代以上の人たち(ほとんどオッサン)が大半で、平均年齢も60から70歳くらいだった。今回は、満員(2000人?)の客層が老若男女万遍なくいることが何より驚きだった。都心の変貌と言い、まるで浦島太郎になったような気がした。コロナを境に(年寄りが減って) 客層が変わったということなのだろうか? 全体としてジャズ人気が高まったわけでもないだろうし、やはり「現役」メルドーの人気を反映しているのだろう。30年前の90年代キース・ジャレットの来日コンサートを思い出した。ビル・エヴァンス(70年代)→ジャレット→メルドー…と、特に女性は、やはりジャズと言えば白人ピアニストなのだと改めて実感した。
それとメルドーはクラシックの影響も濃く、しかもプログレッシヴ・ロック(プログレ)にも並々ならぬ愛着を抱いているので、普通のジャズ・ファンに加えて、クラシック・ファン、ロック・ファン層も相当来場していたと思われる。今回のトリオは東京で計4回(オペラシティ、紀尾井ホール2回、サントリーホール)、大阪(サンケイホール)で1回と、1週間で都合5回のコンサートをほぼ1000人以上収容の大ホールで開いたわけで、単純計算でもそれだけで五千人以上の観客を動員したことになる。1日で万単位のロックやポップスには到底及ばないが、ジャズでこの観客動員は異例だろう。まさに21世紀の多様性を象徴するジャズ界のスター、メルドーならではということだろう。5回のコンサート演目は後に発表された資料によると、各回9ー10曲だが、重複は数曲しかないので、このトリオは計50曲前後のレパートリーを準備していたことになる。
実は私はメルドーの「大ファン」とは言えない。90年代後半の初期のトリオ以降、出るCDはそこそこ購入してきたが、どうもこれまでロクに(真剣に)聴いて来なかったからだ。理由はおそらく、彼のバンドの特徴である独特のリズム(変拍子、複合拍子)のゆえに、メロディ重視のバラード曲を除くと、少なくともレコードでは20世紀のジャズ的グルーヴ、ジャズ的カタルシスがあまり感じられないからだった。クラシックも人並みには聴いているが、ファンというほどでもないし、ロック・ファンでもないし、当然プログレの特徴もよく知らないので、演奏の中に共感できる部分が少ないからだろう。総体としては、ウェイン・ショーターのモダンなサックスを聴いたときに感じたものと似ている。斬新で、すごいとは思うのだが、どうも没頭して聴く気が起きないのだ。やはり20世紀半ばのビバップ系モダン・ジャズ体験がデフォルトなので、少なくとも前進するリズムのメリハリが欲しいのだろう。とはいえ、今回のコンサートは久しぶりのライヴということもあって、もちろん楽しんだ。
「サントリーホール」のコンサートの演目(左表)で、いちばん気に入った曲は3曲目の "#26" という、メルドーのオリジナル曲だ。#26の意味はよくわからないし、まだ名前がない曲なのか?と思って調べたら、『Ode』(2012)というアルバムに収録されていた。曲の中盤で高速インプロに入ってからのトリオの疾走感は素晴らしかった。これはレコードでは決して味わえない快感で、ハイウェイ上を「地を這うように」疾走するかのような、重心の低い高速サウンドには興奮した。バラード以外のメルドーの演奏で初めてグッときた曲で、なるほどこういう魅力もあるのだと感心した。"East of the Sun" "The Nearness of You" などのジャズ・スタンダードは普通に楽しめた。アンコールでやったモンクの "Think of One" も意外で、よかった。
特に大ホールでのジャズのライヴ・コンサートというのは「夢」と似ている。聴いているときは結構盛り上がって、感激することもあるのだが、終わって時間が経つにつれて、いったい具体的に演奏のどこが、何が良かったのかよく覚えていないことが多いからだ。ライヴ録音CDなどを冷静に聴いていると、演奏後の聴衆の熱狂ぶりに「どこがそんなに良かったんだ?」と、思わず突っ込みたくなるようなケースが時どきあるが、あれも同時体験という現場の空気が生むものだろう。サウンドと時間が同時に流れているので、その最中には忘我の状態にすらなれるが、逆に後で思い出そうとしてもその流れそのものが思いだせないこともある。これは私が大雑把な人間なのと、多分歳のせいもあるが、ジャズの場合演奏する曲も、クラシックやポップスのように曲名がすぐに分かるとは限らないし、演奏自体もその場で生まれる即興演奏であり、音楽として複雑なので、素人は細部の記憶が曖昧になることが多い。それにレコードと異なり、ライヴの場合、見た目(ヴィジュアル情報)とサウンド両方を、同時に脳が追いかけて処理するので、メモリー上はインパクトが強いヴィジュアル情報が勝って、サウンド側の記憶が相対的に弱くなる。だから当日のステージ上の映像イメージは鮮明でも、演奏そのものの記憶が相対的に薄まるのではないか、という気がする。
昔のジャズファンは、いまほど潤沢に本物のサウンドに触れる機会もなかったので、それこそ真剣に「音そのもの」と対峙して聴いていた。あの1960/70年代のジャズ喫茶時代を生きた平岡正明氏などは、「ジャズは生がいちばんだが、ライヴは演奏している人間が邪魔、家で聴くと自分が邪魔だ。だからジャズ喫茶で聴け」という、名言(?)を残しているほどだ。だが普通の聴き手にとっては、ジャズのライヴ演奏はやはり、その場でパフォーマンス自体を楽しむもので、音や演奏内容の細部をあれこれ云々する場ではないのだろう。昔の山下洋輔Gのフリー・ジャズなどはその典型で、今でもサウンドを含めた「身体経験」として記憶している。これは観衆も受け身ではなく、奏者と共に場を構成するメンバーの一員だという意味でもあり、元々ロック・コンサートなどはまさにそういう場になっているが、日本の普通のジャズ・ライヴの場合、なかなかそこまで盛り上がるケースは少ないだろう。どうしても分析的に(頭で)聴く傾向が強いのが日本の伝統的ジャズファンで、そこがまたジャズの魅力でもあると思うのだが、今回のメルドーはそういう意味でも「観客」の反応がいつもと違い、スタンディング・オベーションもごく普通に自然に起きていた。