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2018/03/21

映画『坂道のアポロン』を見に行く(1)

昨年8月のブログで、漫画『坂道のアポロン』について書いたが、その映画版が今月ようやく公開されたので、出不精の重い腰を上げて見に行った。少し前にNHK BSで「長崎の教会」というドキュメンタリー番組を見たが、隠れキリシタンの伝統や、離島の教会で実際に牧師を目指す青年たちの話が取り上げられていた。キリスト教とのこうした独自の長い歴史が長崎にはある。原作で描かれている主人公の一人、千太郎と教会の関係も、もちろんこうした歴史的背景がモチーフになっている。そこに60年代後期という時代背景(1966年-)、米空母が入港していた軍港佐世保とジャズの関係、海を臨む坂と佐世保の風景など、原作者小玉ユキはこれらの要素を基に、佐世保の高校生を主役にして詩情豊かな昭和の青春ファンタジーとして作品を描いている。原作が名作で、ジャズ音を入れアニメ化されたこれも名作が既に発表されているので、さすがに実写の映画版は苦しいかと思っていた。短い時間内に登場人物の造形や物語の細部までは描き切れないので、どうしてもはしょった展開にはなるものの、それでもこの映画は、原作の持つ世界と透明感をきちんと描いていると思った。昭和40年代という物語の時代設定は古いが、大林宣彦監督の作品世界に通じるものがあって、あの時代を思って涙腺がゆるみがちな「老」も、その時代やジャズを知らない「若」も、青春時代を過ごした「男女」なら誰でも楽しめる永遠の青春映画である。とはいえ、まずは原作コミックを読み、アニメを見て、物語の流れと登場人物の魅力を知った上で、この実写映画を見た方が、佐世保の風景や若い俳優陣の演技、原作との違いなどを含めて、より一層楽しめることは間違いないだろう。

この映画の “星” は何と言っても川渕千太郎役の中川大志だ。千太郎が降臨したかのように、まさに原作通りのイメージで、混血のイケメンで不良だが、内面に人一倍の孤独と優しさを秘めた千太郎のキャラクターを見事に演じた演技は素晴らしい。彼はきっと原作を深く読み込んだに違いない。知念侑李演じる西見薫は最初、原作のイメージからすると都会的繊細さと身長が足らない気がするのと、高い声がどうしても萩原聖人を思い出させて、どうかなと思って見ているうちに、段々それが気にならなくなっていったので、やはり内面的演技力のある人なのだろう。小松菜奈は予想通り、原作の素朴で控えめな迎律子のイメージとは違って美しすぎて、どうしてもマドンナ的になってしまうが、共に両親のいない孤独な薫と千太郎の二人を、まさに聖母のように優しく見つめる律子の温かな視線と、微妙に揺れる乙女心をきちんと表現していて、こちらも見ているうちにまったく気にならなくなった。この主役3人は頑張ったことがこちらにも伝わってきた。ムカエレコード店主で律子の父、中村梅雀は得意のベースの演奏シーンが短くて残念。千太郎が兄のように慕う、ディーン・フジオカの桂木淳一(淳兄―ジュンニイ)は、さすがに大学生役はちと苦しいが、ムード、英語、トランペット、歌唱、どれをとってもまさにはまり役。この二人がからむジャズのセッションをもっと見たかった。

覚えている劇中曲は、この映画のテーマ曲でもあり、薫と千太郎のピアノとドラムスによるデュオ<モーニン Moanin’>(原曲アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ)、<マイ・フェイバリット・シングス My Favorite Things>(ジャズではジョン・コルトレ-ンが有名)の2曲が中心で、他に淳兄がクラブで唄う<バット・ノット・フォー・ミー But Not For Me>(チェット・ベイカーが有名でもちろん歌のモデルのはずだが、この曲だったかどうか記憶が曖昧)、薫のピアノ・ソロ<いつか王子様が Someday My Prince Will Come>(ピアノはビル・エヴァンスが有名)が少々流れた。他にも何曲かあったのだが、画面に集中していたのでよく覚えていない。中川はドラムスの心得が多少あるという話だが、知念はピアノの経験はまったくなく、譜面も読めないので、見よう見まねの特訓で習ったというから、まるで大昔のジャズマンの卵なみだ。しかし二人とも違和感なく、地下室でも、クラブでも、文化祭のシーンでも、ドラムスとピアノのデュオで目を合わせながら楽しそうに演奏していて(どこまで本人の音なのかは不明だが)、即興で互いの音とフィーリングを徐々に合わせて行くという、ジャズの醍醐味であり、大きな魅力の一つをよく表現できていると思った。ラストシーンとエンドロールは、あれはあれでありだろうが、せっかくジャズをモチーフにしてイントロからずっと流してきたのだから、小松菜奈の唄う<マイ・フェイバリット・シングス>で(下手でもいいから)、そのままエンドロールに入って、ジャズのセッションを続けて(吹き替えでOK)締めてもらいたかった。

ところで、時代設定とジャズという背景、主演陣がアイドルを含むメンバーということもあって、この映画の観客年齢層がいったいどういう構成になるのか、という個人的興味が実はあったのだが、映画を見に行ったのがたまたま月曜日の午後ということもあって、貸し切りか(!)と思えるほどの入りで、「層」を構成するほどの観客がいなかったのが残念だった。土日はもっといるのだろうと思うが、そもそも映画の宣伝が少ないような気もする。若い人がどう感じるかはよくわからないが、ジャズ好きだった中高年層に、原作と映画の存在自体をよく知られていないのではないだろうか。ジャズの演奏シーンを含めて、映画館で見る価値のある良い映画なので(見終わった後、誰でも温かい気持ちになります)、ぜひもっと多くの人に見てもらいたいと思う。ちなみに、今回初めて行った映画館では、セリフも音響も、画面と音量のバランスが良く取れていて、『ラ・ラ・ランド』の時のような異常な爆音ではなかったので、ジャズのセッションを含めて安心して最後まで楽しめた。これからはこちらの映画館にすることにした。

2017/12/07

映画館の音はなぜあんなに大きいのか

先日、新聞の投書欄で、今の映画館の音はどうしてあんなに大きいのかと、70歳の女性が投稿している記事を読んだ。アニメ映画なのに小さな子供は怖がり、途中で出てゆく子供もいて、自分も疲れて、あれでは難聴になりそうだと訴えていた。同感である。私は滅多に映画には行かないのだが、今年の初めに「ラ・ラ・ランド」の封切り上映を観るために久しぶりに映画館に行ったところ、そのあまりの爆音に耳が痛くなり、気持ちが悪くなるくらいだったからだ。後半はほとんど耳を半分塞いで見ていたが、あれでは興味も半減してしまう。コツコツという靴の足音が異様に大きな音で響きわたり、車のドアを閉める衝撃音の大きさにビクッとし、踊りや演奏の場面では耳をつんざくような音が流れている。いくら年寄は耳が遠くなるので丁度いいとか言われても、やり過ぎだろう。あの調子で昔のように何本も続けて見たら、それこそ耳がおかしくなる。たまたまその映画や映画館がそうだったのかと思い、ネットで調べてみたら、同じ疑問と悩みを訴えている人が実際にたくさんいるということがわかった。見に行きたくても、あれでは怖くて行けないという人もいる。小さな子供にとっては拷問に等しく、危険ですらある。日付を見ると、ずいぶん前からそういう訴えが出ているが、その後改善されたという話は掲載されていないし、現に私も今年になって体験しているので、あまり変わっていないということなのだろう。

昔のジャズ喫茶でも結構な大音量でレコードをかけていて(今でもそういう店はある)、一般の人がいきなり聞いたらびっくりするような音量ではあった。しかし、それはオーディオ的に配慮した「音質」が大前提であり、機器を選び、再生技術を磨き、耳を刺激する歪んだ爆音ではなく、再生が難しいドラムスやベースの音が明瞭かつリアルに聞こえる音質レベルと、家庭では再生できない音量レベルで、きちんと音楽が聴けることに価値があったわけで、「音がでかけりゃいい」というものではなかった。もちろん個人の爆音好きオーディオ・マニアは昔からいるし、一般にオーディオ好きは、普通の人たちに比べたら大音量には慣れているはずなのだが、一方で音質にも強いこだわりを持っている。そういう人間からみたら、今の映画館の、あのこけおどしのような音は、ひとことで言って異常である。マルチチャンネルやサラウンド効果を聞かせたいとかいう商業的理由もあるのだろうが、パチンコ屋やゲームセンターじゃあるまいし、静かに「映画」を見たい普通の人間にとってはそんなものは最低限でいい。密閉された空間では、爆音やそうした人工的なイフェクトはやり過ぎると聴覚や平衡感覚をおかしくするのだ。座る場所を選べ、とかいうアドバイスもあるが、そういうレベルではない。耳栓をしろ、とかいう意見もあるが、これもなんだかおかしいだろう(音に鈍感な人間からアドバイスなどされたくもないし)。とにかく空間に音が飽和していて、耳が圧迫されるレベルなのだ。大画面で迫力のある音を、という魅力があるので映画館に足を運ぶ人も多いのだろうが、大画面はいいとして、あの爆音は人間の聴力を越えた暴力的な音だ。だから映画を見たいときは、家の大画面テレビで、オーディオ装置につないでDVDやネット動画を見る方がよほど快適なので、今では大方の人がそうしているのだろうが、封切り映画だけはそうもいかないので、見に行くという人も多いのだと思う。

カー・オーディオを積んで、特にウーファーの低音をドスドス響かせながら爆音で走っている車を時々見かけるが、あれと似たようなものだ。あの狭い空間であの音量を出して、よく耳がおかしくならないものだといつも感心しているが、迷惑だし、公道を走っているとはいえ、車の中は一応個人の空間なので、耳を傷めようとどうしようと勝手だが、映画館は不特定多数の人たちがお金を払って集まるパブリック・スペースであり、全員があの拷問のような爆音を無理やり聞かされるいわれはないだろう。画面サイズと音量との適切なバランスについては、昔からAV界(オーディオ・ヴィジュアルの方だ)に通説があるが、そういうバランスをまったく無視したレベルの音量なのだ。いったい、いつからこんな音量になったのだろうか? なぜあれほどの音量が「必要」なのだろうか? ひょっとして、昔アメリカで流行った野外のドライブイン・シアター時代の音の効果の名残が基準にでもなっているのだろうか? 屋内の狭い空間であの異常な音量を出すのは、何か別の理由でもあるのだろうか? 誰があの音量を決めているのだろうか? 映画関係者に一度訊いてみたいものだ…と思って調べていたら、何と以前から「爆音上映」なるものがあって、むしろ爆音を楽しむ映画館や観客がいるらしい。家では楽しめない音量で、爆音愛好家(?)が映画館で身体に響くほどの音量を楽しむ企画ということのようだ。遊園地のジェット・コースターとか3Dアトラクション好きや、耳をつんざく大音量音楽ライヴが好きな人と一緒で、要は体感上の迫力と刺激を映画にも求めているのである。映画によってはそうした爆音が音響効果を生んで、リアルな体験が楽しめるという意見を否定するつもりはないが、それもあくまで映画の内容と音量の程度次第だろう。 

思うに、昔は「音に耳を澄ます」という表現(今や死語か?)にあるように、外部から聞こえる虫の声や微妙な音に、じっと感覚を研ぎ澄ます習性が日本人にはあった。虫の出す「音」を、「生き物の鳴き声」として認識するのは、日本を含めた限られた民族特有の感覚らしく、西洋人には単なる雑音としか聞こえないという。日本人の音に対するこの繊細な感覚は、音楽鑑賞においては世界に類をみないほどすぐれたものだった。ところがそれが仇になって、今の都会では近所の騒音とか、他人の出す音に対してみんなが神経質になっていて、近所迷惑にならないようにと誰もが気を使って毎日生きている。これが普通のスピーカーで音を出して聴くオーディオ衰退の理由の一つでもある。ところが、そういう環境で育った今の若者は、携帯オーディオの普及も一役買って、子供の頃から音楽をイヤフォンやヘッドフォンで聴く習慣ができてしまった。外部に気を使っている反動と、一方で外部の音を拾いやすいイヤフォンなどの機器の特性もあって、常時耳の中一杯に飽和する音(大音量)で思い切り音楽を聴きたいという願望が強くなり、おそらく彼らの耳がそうした聞こえ方と音量に慣れてしまったのだろう。要するに外部の微細な音を聞き取る聴覚が相対的に衰え、鈍感になったということである。映画館の大音量に変化がない、あるいはむしろ増えているのは、供給者側(製作、配給、上映)にそういう聴感覚を持つ人たちが増え、需要者(観客)側にもそういう人が増えたということなのだろう。感覚的刺激を求める人間の欲望には際限がないので、資本主義下では、脈があると見れば、それをさらに刺激してビジネスにしようとする人間も出て来る。最初は感動した夜間のLEDイルミネーションも、どこでもでやり始めて、もう見飽きた。プロジェクション・マッピングも、今は似たようなものになりつつある。テクノロジーを産み、利用するのも人間の性(さが)なので、これからも、いくらでも出て来るだろうし、そのつど最初は面白がり、やがて刺激に慣れ、飽き、次の刺激を求めることを繰り返すのだろう。こうして、かつて芸術と呼ばれた音楽も、映画も、あらゆるものがエンタテインメントという名のもとに、微妙な味や香りはどうでもいいが、大味で、瞬間の刺激だけは強烈な、味覚音痴の食事のような世界に呑み込まれつつある。これはつまり、文明のみならず、文化のアメリカ化がいよいよ深く進行していることを意味している、と言っても間違いではないような気がする。

2017/08/10

ジャズ映画を見る (2)

一般的にジャズ映画と呼ばれている中で一番多いのは、ジャズ・ミュージシャン本人を描いた伝記的映画だ。「グレン・ミラー物語」(1954や「ベニー・グッドマン物語」(1956など白人ビッグバンドのリーダーを描いた映画が古くからあって、私も昔テレビで見た程度だが、いかにも往時のハリウッド的な作りの映画だった記憶がある。我々の世代だと、一番記憶に残っているのは、やはり1980年代の「ラウンド・ミッドナイトRound Midnight」(1986年)と、「バードBird」(1988年)だろうか。(しかし、これらの映画も既に30年も前の作品だと思うと、つくづく時の流れを感じる。当時の日本はバブル真只中で、一方でアメリカはまだIT革命前の不況に喘いでいた時代だった。)

「ラウンド・ミッドナイト」は、フランス人のベルトラン・タヴェルニエ (1941-) が監督・脚本、ハービー・ハンコック (1940-) が音楽を担当した米仏合作映画である。基本はピアニスト、バド・パウエル  (1924-66) がパリに移住していた時代 (1959-64) に、パトロンとしてパウエルを支え続けたフランス人、フランシス・ポードラ (1935-97) が書いた評伝 “Dance of The Infidels”(異教徒の踊り)で描かれたパウエルの物語だが、そこにテナーサックスのレスター・ヤング (1909-59) の生涯の逸話もミックスしている。この二人のジャズの巨人をモデルにした主人公、テナー奏者デイル・ターナー役を、パウエルと同時期にパリに住み、共演もしていたデクスター・ゴードン (1923-90) が演じている。ハンコック(p)とボビー・ハッチャーソン(vib)も実際に役を演じ、またフレディ・ハバード(tp)、ウェイン・ショーター(ts)、ロン・カーター(b)、ビリー・ヒギンズ(ds)、トニー・ウィリアムズ(ds)、ジョン・マクラフリン(g)、さらにチェット・ベイカー(tp)など、当時の錚々たる現役ジャズ・ミュージシャンたちが、ジャズクラブの演奏シーンに登場している。そしてもちろん、映画のタイトル「ラウンド・ミッドナイト」によって、この曲の作曲者であるもう一人のジャズの巨人で、パウエルを兄のように支え続けたセロニアス・モンクへのオマージュも表現している。フランス人監督が、落ちぶれた晩年のジャズの巨人を1960年前後のパリを舞台に描いた世界なので、ジャズ映画とはいえ、映像、演出ともに陰翳の濃い映画全体のトーンはやはりフランス映画的で、ほの暗く、しっとりしていて、アメリカ映画的な乾いた単純明快な描き方ではない。パリ時代のバド・パウエルは様々に語られてきたが、実際はこの映画で描かれた以上に悲惨な状態だったのだろう。しかし、その時代にパウエルが残したどのレコードからも、演奏技術の衰え云々を超えて、天才にしか表現できない味わいと寂寥感が伝わって来る。この映画で描かれているのも、まさに沈みゆく夕陽のような晩年の天才の最後の日々だ。主演のデクスター・ゴードンは、この映画での枯れた演技を高く評価されたが(地のままだという説もあるが)、ハッチャーソンやハンコックも含めて、即興で生きるジャズメンというのは、やはり演技力もたいしたものだと思う。なおデイル・ターナーが娘チャンに捧げた印象的なメロディを持つ曲は、ハンコックがこの映画のために書いた ”Chan’s Song (Never Sad)” という曲である。映画オープニングのモンクの曲 ”Round Midnight” と同じく、ミュート・トランペットのような音でこの曲がエンディングで流れるが、これは両方ともボビー・マクファーリンによる高音スキャット・ヴォーカルなのだそうである。この曲は今やジャズ・スタンダードになっていて、私が好きなのは、マイケル・ブレッカー(ts)のアルバム  ”Nearness of You:The Ballad Book” (2001 Verve) 冒頭の演奏で、ハンコック自身のピアノの他、パット・メセニー(g)、チャーリー・ヘイデン(b)、ジャック・デジョネット(ds)が参加している。この演奏は美しくまた素晴らしい。

映画「バード」は、言うまでもなく天才アルトサックス奏者チャーリー・パーカー (1920-55) の生涯を描いたもので、製作・監督は筋金入りのジャズファンであるクリント・イーストウッドだ。1930年サンフランシスコ生まれのイーストウッドは、少年時代に西海岸にやって来たパーカーの演奏を実際に聴いている。映画中の演奏シーンでは、パーカーの録音から、パーカーのソロ部分だけを抜き出し、その音(ライン)に合わせて、レッド・ロドニー(tp. 1927-94. 実際にパーカーと共演し、映画でも 南部ツアー時の “アルビノ・レッド” として描かれている)、チャールズ・マクファーソン(as)、ウォルター・デイヴィス・ジュニア (p)、ロン・カーター(b)などが実際に演奏した音楽を使うという凝りようである。したがってパーカーの演奏シーンの音楽はもちろん素晴らしい。物語はパーカーの少年時代からの多くの逸話や、相棒だったディジー・ガレスピー (1917-93) との交流も出て来るが、ほとんどはドラッグによって破滅に向かう天才パーカーの苦悩と、それを支えるチャン・パーカー夫人 (1925-99) との夫婦の情愛を描いたもので、映画は当時存命だった彼女の監修も経て制作している。パーカー役のフォレスト・ウィテカーは、演技はともかく、外見(顔や体型や仕草)がパーカーの私的イメージと違い過ぎて、正直どうもピンと来ない。鶴瓶に似ているとかいう話もあったが、実際のパーカーは、もっと凄みもあって(鶴瓶にもあるが)、もっとカッコ良かったんじゃなかろうか、と思う(ジャズに限らないが、いつの時代も人気の出るカリスマ的ミュージシャンは、何と言ってもカッコ良さが大事なはずなので)。それと、チャン夫人の回想が中心になっているためだと思うが、映画全体のムードと流れが暗く、重苦しい。パーカーがドラッグまみれだったのは確かだろうが、本当はもっとあっただろう、ジャズとパーカーの音楽の持つ明るく陽気な部分があまり描かれていないのが残念なところだ(印象に残ったのは、ユダヤ式結婚式のシーンくらいだ)。クリント・イーストウッドのジャズへの愛情の深さは伝わって来るものの、一方で彼の基本的ジャズ観が表れているのかもしれない。

同時期のもう一作は、スパイク・リー (1957-)監督・制作の「モ・ベター・ブルースMo’Better Blues(1990)で、実在のモデルはいないが、1960年代後半にニューヨーク・ブルックリンで生まれたジャズ・トランペッターとその仲間たちの音楽、友情、恋愛、挫折を描いた映画である。フランス人、白人アメリカ人による重厚な上記2本の映画とは違って、もっと若い(当時30歳代初め)アフリカ系アメリカ人の監督が、ジャズとミュージシャンたちをテンポ良く、比較的軽く明るく描いた作品だ(制作費も安かったらしい)。当時スパイク・リーが、クリント・イーストウッドの「バード」に刺激されて制作したという話もあって、リー監督本人も、主人公デンゼル・ワシントンの幼なじみの小男マネージャー役(ジャイアントというあだ名)で、準主役的に登場してコミカルな演技を披露している(田代まさし、みたいだが)。当時まだ30歳台の主役デンゼル・ワシントン (1954-) は実にセクシーでカッコ良く、ジョン・コルトレーンの風貌と、ソニー・ロリンズの外見を足して2で割ったような雰囲気があるし、特にトランペットの演奏シーンでの男っぽい立ち姿は若き日のロリンズのようで本当にサマになっている。音楽も、リー監督とほぼ同世代のブランフォード・マルサリス(sax)、テレンス・ブランチャード(tp)といった一流ミュージシャンが制作に関わっているので演奏シーンでは本格的なジャズが聞ける。クラブにジャズを聴きに来るのは今や(1980年代)日本人とドイツ人ばかりで、黒人はまったく来ないと主人公が嘆くセリフとか、ピアニストの面倒をあれこれと見るフランス人女性のパトロンがフランス語でまくしたてたり、ミンガスの自伝タイトルから取ったジャズクラブ名(Beneath the Underdog)が出て来たり、パーカーやコルトレーンのレコードを偏愛する姿、さらに後半からは疾走するコルトレーンの「至上の愛」をバックに物語が進み、最後に主人公がやっと結婚して、生まれた子供の名前をマイルスにするというオチもあって、ジャズへのオマージュが全編に溢れている。カラフルなエンドロールのバックに流れるジャズ讃歌のような(たぶん)ラップも非常に楽しい。話としては単純だが何よりテンポが軽快なこともあって、同時代の3本の映画の中で、私的に一番ジャズを感じさせたのはこの「モ・ベター・ブルース」だった(もちろん人それぞれの好みによると思うが)。やはり各監督の資質、ジャズ観に加え、過去を振り返るのと、今 (1980年代当時) を描こうとする作り手の姿勢が、映画全体の印象と関係しているのだろう。 

この他、ジャズを取り上げた最近の洋画は、今年封切り時に映画館で見た「ラ・ラ・ランド」で、この映画についてはブログの別の記事で書いている。同じ監督の「セッション」や、一時引退時のマイルス・デイヴィスを描いた「マイルス・アヘッド」(2016)、チェット・ベイカーを描いた「ボーン・トゥー・ビー・ブルー」(2015) などはまだ見ていないが、いずれ機会があれば見てみたいと思う。ミュージシャンの伝記系以外の映画なら、日本でも上野樹里の「スウィング・ガールズ」(2004) があったし、先日テレビでは筒井康隆原作の「ジャズ大名」(1986)をやっていたが、時代劇とジャズという奇想天外な組み合わせ、お遊びたっぷりの演出で非常に面白かった。タモリや山下洋輔まで出演していたのでびっくりした(知らなかった)。こういうジャズを題材に取り上げた映画は、漫画「坂道のアポロン」もついに映画化されるように、すぐれた作者がいて、良いテーマがあれば、これからも作られてゆくだろう。

2017/08/04

ジャズ映画を見る (1)

私は映画ファンとは言えないのであまり詳しくは知らないのだが、ジャズを効果的BGMに使った映画は、MJQの「大運河」、マイルスの「死刑台のエレベーター」、モンクとアート・ブレイキーの「危険な関係」、マーシャル・ソラールの「勝手にしやがれ」など、1950年代のフランス映画の名作をはじめとして、古くから数多くあるのだろう。一方、ジャズそのものを題材にした映画もあって、それには「ドキュメンタリー」と、いわゆる「普通の映画」の2通りあり、さらに普通の映画にはおおまかに言えば、ジャズ・ミュージシャン個人を描いた伝記的映画と、ジャズという音楽を題材にしたフィクション映画の2種類がある。 

ドキュメンタリー映画は、ジャズの場合、ミュージシャンたちの古いテレビ番組他の映像記録を集めたものが大部分で、昔からミュージシャン別のそうしたビデオ映像は数多く残されているが、中にはそうではなく、最初から映像作品として制作されたものもある。そうしたドキュメンタリー映画として、古くからいちばん有名なのは「真夏の夜のジャズ」(公開1960年)だ。原題は‟Jazz On a Summer’s Day” (夏の日のジャズ)で、映画としては昼間の屋外シーンがほとんどなのだが、日本的にはこの邦題の方が「いかにも」という感じで受けると考えたのだろう。これはジャズ・プロモーターのジョージ・ウィーンGeorge Wein (1925-) が企画し、1954年から米国ロードアイランド州の保養地ニューポートで始めた野外ジャズ祭、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」の1958年のコンサートの模様を記録した映画である。ジョージ・ウィーンはその後ニューヨークに場所を移したり、世界各地で「ニューポート」と冠したバンドやジャズ祭を数多く企画しており、バブル時代の日本で流行った野外ジャズ・フェスも、ニューポート・ジャズ祭が基本モデルだ。この映画は、マリリン・モンローの写真などで有名なファッション・カメラマンで、映画監督に転じたバート・スターンBert Stern (1929-2013) が撮影した美しい映像と、登場する数々のジャズ・ミュージシャンたちの演奏、それを聞く聴衆の姿や表情を、ナレーションなしでクールに描いた斬新な演出が光るジャズ映画の傑作である。チコ・ハミルトン、エリック・ドルフィー、セロニアス・モンク、ジェリー・マリガン、ジミー・ジュフリー、ボブ・ブルックマイヤー、ソニー・スティット、ジョージ・シアリングなど当時の新進ジャズ・ミュージシャンに加え、アニタ・オデイ、ダイナ・ワシントン、マへリア・ジャクソンといった女性ジャズ・ヴォーカルやゴスペル歌手、さらにスウィング時代のベテラン大スター、ルイ・アームストロングや、当時人気が高まっていたロックンロールのチャック・ベリーまで登場する。

言うまでもなく、この時代はアメリカという国家の最盛期であり、それはつまり当時のアメリカを代表するハイカルチャーとしての音楽モダン・ジャズの最盛期でもあった。豊かな経済に支えられ、数多くの名盤と呼ばれるレコードが作られ、音楽的にも高度化し、多くのジャズ・ミュージシャンの創造力が最も高まっていた1950年代後半は、あらゆる意味でジャズの黄金時代だった。多くのジャズ・ミュージシャンが一堂に会した貴重なライヴ映像というだけでなく、この映画は、上流階級の保養地だったニューポートの美しい自然、豊かな聴衆の姿とファッション、そして当時最先端の音楽だったモダン・ジャズの3つを融合した、幸福なアメリカとその豊かな文化を象徴的に描いた作品でもある。まだ国外のベトナム戦争も、国内の公民権闘争も激化する前で、差別はあっても黒人と白人が分相応に棲み分け、白人中産階級がゆったりと暮らせ、少なくとも表面的にはまだ穏やかだった最も幸福な時代のアメリカの空気が、この映画の中に封じ込められているのである。映像の素晴らしさに加えて映画のハイライトはいくつもあるが、やはり一番人気はアニタ・オデイ(1919-2006)のヴォーカルだろう。衣装、仕草、表情、そしてもちろんその歌声も歌唱力も素晴らしく、まさにあの時代のアメリカを象徴する映像だ。おそらく当時世界中のジャズファンが、この映画でのアニタには痺れたことだろう。そしてもう一人は短い出演だがセロニアス・モンク(1917-82)だ。モンクは3年前の55年のニューポートに初出演してマイルス・デイヴィス他と共演していたが、この映画はようやくスターとして頭角を表し始めたモンクの実際の姿と音楽を初めて映像で捉えたものだ。特にモンク・グループが演奏する<ブルー・モンク>をBGMに、湾内を競走するアメリカズ・カップのヨットレースとラジオ実況放送、という映像、音楽、実況音声の組み合わせは、ドキュメンタリー映画史に残る斬新な演出であり、この印象的なシーンによってモンクもまた世界的に有名になった。 

ジャズ・ドキュメンタリー映画のもう一つの傑作が、そのセロニアス・モンクの生の姿を映像で捉えた「ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser」(1988年制作)である。ドイツ・ケルンの放送局に勤務していたブラックウッド兄弟が1967年にモンクの許可を得て、6ヶ月にわたって日常、クラブ・ライヴでの演奏、スタジオ録音、ヨーロッパ・ツアー時などにおけるモンクの姿を映像に記録し、それをその後ヨーロッパでテレビ放映した2本のモノクロ・フィルムを中心に編集したものだ。当時のモンク・カルテットのメンバーの他、ツアーに参加したジョニー・グリフィン、フィル・ウッズ、さらにネリー夫人やニカ男爵夫人、当時コロムビアのプロデューサーだったテオ・マセロなどの映像と肉声も記録されている。そこに、それ以外のモンクの記録映像や、モンクの死後80年代に新たに撮影したカラー映像を加えたもので、バンドメンバーだったチャーリー・ラウズ(ts)、モンクのマネージャーだったハリー・コロンビー、息子T.S.モンク等のインタビュー、モンク同様ニカ邸で当時暮らしていたバリー・ハリスがトミー・フラナガンとピアノ・デュオでモンクの曲を演奏する映像(その後ろにはアート・ファーマーとミルト・ジャクソンの姿も見える)、さらにウィーホーケンのニカ邸内のモンクの部屋とピアノ、そこからのマンハッタンの遠景、そして1982年のモンクの葬儀の模様などが追加されている。映画化はモンクの存命中から計画されていたようだが、紆余曲折あって、モンクの死後になって最終的にクリント・イーストウッド(1930-)が製作を引き受け、女性監督シャーロット・ズワーリン(1931-2004)が映画を完成させて配給にこぎつけたという。1967年のモンクは全盛期を過ぎ、肉体的、精神的にも苦しんでいた時期で、特にこの撮影は前年のバド・パウエルに続き、エルモ・ホープ、ジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失った直後であり、精神的には落ち込んでいたはずだが、ピアノを弾き、踊り、くるくる回り、喋り、歩くモンクの動く姿はとにかくファンにとっては面白く興味が尽きない。この映画の素晴らしさは、全編に流れるモンクの代表曲の演奏に加え、演奏中であれ、会話中であれ、街を歩く様子であれ、ほとんど演出、脚色なしの“素の”モンクが捉えられていることだ。ジャズ映画も様々だが、ジャズ・ミュージシャン、それも伝説の人物をこれほど身近な視点でストレートに捉えた映画は歴史上皆無だ。また80年代に撮影されたカラー映像でモンクを語る人たちのインタビューや演奏も、モンクという音楽家を理解するための貴重な証言になっている。モンクファンのみならず、ジャズファンすべてが楽しめる傑作ドキュメンタリー映画である。

この他に、破滅的人生を送ったトランぺッターのチェット・ベイカーを描いた「Let’s Get Lost」(1988)というドキュメンタリー映画もあるが、音楽はともかくとして、人間チェット・ベイカー自身が個人的にあまり好きではないこともあって、私は見ていない。今やインターネット上で、多くの映像が自由に見られる時代となっている。作品としてのジャズ・ドキュメンタリー映画は、古い映像記録そのものに限りがあり、これからジャズを主題に描こうにも時代が違うし、材料(人材を含めて)が手に入らないなどの理由もあって、今後ここに挙げたような傑作映画が作られることは永遠にないだろう。

2017/04/18

フレンチの香り:バルネ・ウィラン

ジャズはアメリカの音楽と思われているが、実はその生い立ちにはフランスの血が混じっている。ジャズ発祥の地と言われるニューオリンズは、元はフランス植民地であり、移入されたヨーロッパの音楽と、そこで生まれたクリオールと呼ばれるフランス系移民と黒人との混血の人たちによってニューオリンズ・ジャズが生まれたとされている。アジアの植民地でもそうだったが、異人種の隔離にこだわるアングロサクソン系と異なり、植民地支配にあたって現地人と融合することを厭わないフランスは、結果としてジャズの生みの親の一人になったのである。ジャンゴ・ラインハルト(ベルギー人ギタリスト)に代表されるように20世紀前半からフランスでもジャズが盛んだったが、1950年代に入って,そのジャズが ”モダン” になって言わばフランスに里帰りした。

ジョン・ルイスやマイルス・デイヴィスなどのアメリカのジャズプレイヤーがフランスを訪れ、「死刑台のエレベーター」や、モンクとアート・ブレイキーの「危険な関係」など、映画音楽の世界を通じて折からのヌーベルバーグの文化、芸術活動とも大きく関わった。マイルスなどはシャンソン歌手ジュリエット・グレコとのロマンスまで残しているほどだ。1950年代以降ケニー・クラーク、バド・パウエル、デクスター・ゴードン等々、数多くのジャズ・ミュージシャンが、黒人差別が根強く、生きにくいアメリカを離れてパリに移住した。上に書いたようなジャズとの歴史的関係もあり、フランスは日本と同じく、ジャズとそのプレイヤーを差別なく受け入れ、芸術と認めた国と民族であり、だから彼らはこの二つの国が好きだったのである。サックス奏者バルネ・ウィラン Barney Wilen (1937-1996)も、実はアメリカ人(父)とフランス人(母)を両親に持つハーフということだ。20歳の時に「死刑台のエレベーター」(録音1957)の音楽でマイルス・デイヴィスと、22歳の時に「危険な関係」(1959)でセロニアス・モンク、アート・ブレイキーらと共演している。マーシャル・ソラール(p)やピエール・ミシュロ(b)のようなプレイヤーと並んで、ホーン奏者としてフランスでは当時もっともよく知られたジャズ・ミュージシャンだった。当時のウィランの映像を見ても、アメリカの一流ミュージシャンたちにまったく引けを取らず、堂々と渡り合ってプレイしている。

ウィランは1956年にジョン・ルイス(p)やMJQとの共演盤でメジャー・デビューしていたが、初リーダー・アルバムとなったのは翌1957年、19歳の時に出したLP「ティルト Tilt」(Swing/Vogue)である。このアルバムは別メンバーによる2回のセッションからなり、興味深いのは、ハードバップ・スタンダードの4曲(A面)に加え、セロニアス・モンク作の4曲(B面)を取り上げていることだ。その4曲とは〈ハッケンサック〉、〈ブルー・モンク〉、〈ミステリオーソ〉、〈シンク・オブ・ワン〉で、後にリリースされたCDには、さらに〈ウィ・シー〉、〈レッツ・コール・ディス〉という2曲のモンク作品が追加されている。さらに驚くのは、録音日時が1957年1月であり、ということはモンクが同年コルトレーンと「ファイブ・スポット」に登場する7月より前、また傑作「ブリリアント・コーナーズ」(Riverside)のリリース前、すなわちモンクがアメリカでもまだあまり注目を浴びていなかった時だったことだ。モンクは1954年にパリ・ジャズ祭に出演してヨーロッパ・デビューしていたものの、その時はフランスでも散々な評判で、唯一ソロ・ピアノを評価したVogueに非公式に録音した(ラジオ放送用。Prestigeと契約中だったため)ソロ・アルバムを残しただけだ(これは名盤)。ウィランがここでモンク作品を取り上げたということは、彼がその時点で既にモンクのことをよく知り、その作品を評価していた証であり、フランスでもモンクを評価する動きが既にあったことを意味している。これが、1959年の「危険な関係」サウンドトラックでのモンクとウィランの共演につながっていったと解釈するのが妥当だろう。同時に、フランスが当時いかにジャズに対する興味と慧眼を持つ国だったか、ということも意味している。確かにパリはジャズの似合う街なのだ。

1959年に「危険な関係」撮影のためにパリを訪問していたケニー・ドーハム(tp)、デューク・ジョーダン(p)他とのクインテットで、パリのジャズクラブ「クラブ・サンジェルマン」にウィランが出演したときのライヴ録音盤が「バルネ Barney」(RCA)というレコードだ。フレンチ・ハードバップの香りのする若きウィラン、躍動感に満ちたドーハムやジョーダンのプレイ、またウィランとジョーダンの歌心あふれるバラード〈Everything Happens to Me〉など、聴きどころ満載の素晴らしいレコードだ。モノラルではあるが、当時のパリのジャズクラブの空気まで感じられるようなクリアな録音が演奏を一層引き立てていて、まさに「危険な関係」の時代にタイムスリップしたかのようなライヴ感が味わえる。その後このライヴ録音からは、モンクの〈ラウウンド・ミドナイト〉を含む未発表曲を加えた「モア・フロム・バルネ」もリリースされている。

ウィランは60年代にはフリー・ジャズに接近したり、一時演奏活動を休止した時期もあったようだが、その後復活し、90年代には日本のレーベルにも多くの録音を残していて、それらはいずれも評価が高い作品だ。「フレンチ・バラッズ French Ballads」(1987 IDA)は、復活後のバルネ・ウィラン50歳の時のフランス録音で、フランス人ミュージシャンとフランスの歌曲を演奏したレコードだが、ここではテナーとソプラノを吹いている。ウィランの演奏には太くハード・ボイルド的にブローする部分と、包み込むような柔らかい音色による陰翳の深い表現が混在している。若い時から彼のバラード演奏にはフランス風のある種独特の香気・味わいが備わっていた。その演奏にはやはりアメリカのジャズ・ミュージシャンとはどこか違うテイスト、フランス風の抒情と男性的色気のようなものが漂っていて、バラード演奏にそれが顕著だ。このアルバムでも〈詩人の魂〉,〈パリの空の下で〉,〈枯葉〉 などの有名なシャンソン、あるいはミッシェル・ルグランの作品を演奏しているが、いずれも本場ならではの解釈と、フランス風の香気に満ちた演奏である。

2017/04/14

仏映画「危険な関係」サウンドトラックの謎

ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(1957)にはマイルス・デイヴィス、ロジェ・ヴァディム監督の「大運河」(1957)にはMJQ、エドゥアール・モリナロ監督の「殺られる」(1959)にはアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズというように、当時ヌーベルバーグと呼ばれた新潮流の象徴だったフランス映画には盛んにジャズが使われていた。映画「危険な関係」は、ロジェ・ヴァディム監督による1959年制作の作品である。フランスの貴族を描いた18世紀の官能小説が原作で、舞台を20世紀のパリに置き換え、退廃的な上流階級の恋愛模様をジェラール・フィリップとジャンヌ・モローが演じている映画だ(後年何度かリメイク映画化されている)。小説と同じく映画も反社会的だと物議をかもし、フランスやイギリスでは当初上映禁止になったらしい。ロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に、この「危険な関係」のサウンドトラックとモンクにまつわる面白い裏話が出て来る。私は映画そのものを見ておらず、映画にモンクが関係していることも知らず、この映画に関係する所有ジャズ・レコードは、デューク・ジョーダン(p)がリーダーの「危険な関係のブルース」(1962) だけだったこともあり、この話は意外だった。そこで、この映画と音楽の背景について調べたのだが、映画、音楽ともにネット上でも様々な説明があって、どこにもはっきりしたことが書いていないので、自分でさらに詳細な情報に当たり整理してみた。すると驚くような事実(おそらくだが)が浮かび上がったのである。

「死刑台のエレベーター」にマイルス・デイヴィスを起用した音楽監督、マルセル・ロマーノからモンクに打診があったのは1958年である。モンクは不評だったヨーロッパ・デビュー(1954年のパリ・ジャズ祭に出演した)後はヨーロッパを訪問していなかったが、1957年夏に「ファイブ・スポット」にジョン・コルトレーンと共に登場し、ようやく注目を浴び始めていた当時のモンクをニューヨークで直接見たロマーノが、モンクの音楽をサウンドトラックとして使いたいと申し入れてきたのだ。しかし当時ボストンのクラブ「ストーリーヴィル」出演時に奇妙な行動をし、その後一時行方不明になったりしていたモンクは情緒不安定な状態にあり、なかなかその申し入れを受諾しなかった。ロジェ・ヴァディムもニューヨークまでやって来て、何とかモンクの了承を取り付けようとしたが、モンクはなお首を縦に振らなかった。1959年の夏、映画が完成した後にモンクはやっと承諾したものの、映画のサウンドトラックための新曲は結局書けず、その代わりに当時アメリカ・デビューをしたばかりのフランス人テナー奏者バルネ・ウィランを自分のカルテットに加えて、〈オフ・マイナー〉、〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉、〈パノニカ〉など、当時リバーサイドに吹き込んでいた既存曲をあらためて映画用に録音した。ところがロマーノは、万が一モンクがダメだった場合に備えて、デューク・ジョーダン(p)にも作曲を依頼しておいたのである。そこでモンクのグループ(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)と同じ時に同じスタジオで、バルネ・ウィランを加えたアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによるジョーダン作の曲も録音したのだ。

この映画の音楽担当は確かにセロニアス・モンクとクレジットされているのだが、上映後大ヒットしたのは、当時人気絶頂だったアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのサウンドトラック・レコード「危険な関係」(1960 Fontana)であり、しかも作曲者名としてクレジットされているのは、デューク・ジョーダンではなく全曲ジャック・マーレイ(Jaques Marray)という人物だった。一説によれば、映画中に出て来るナイトクラブでの演奏シーンには、デューク・ジョーダン(p)、ケニー・ドーハム(tp)、バルネ・ウィラン(ts)、ポール・ロベール(b)、ケニー・クラーク(ds)が登場するが、実はそのシーンの音楽は、アート・ブレイキー(ds)、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)にバルネ・ウィラン(ts)が加わった演奏で置き換えられているというのだ。それはニューヨークで、モンクのカルテットと同じ時に録音された演奏ということである。つまりドーハム、ジョーダンやクラークは映画に顔だけは出したが彼らの演奏は使われず、一方ブレイキーのグループは映画には登場しなかったが演奏は使われ、かつそのサウンドトラック・レコードは大ヒットしたというわけである。そしてフランスの当時の新人スタープレイヤー、バルネ・ウィランは3つのセッションいずれにも参加しているのである。

ジャック・マーレイという人物はデューク・ジョーダンの仮名だという説もあるが、ジョーダンは1962年になって「危険な関係のブルース」という映画で使用された曲 ("No Problem")を演奏したレコードを出している(私が持っているもの)。そしてそれはチャーリー・パーカー夫人だったドリス・パーカー所有のパーカー・レコードがリリースしたもので、夫人自身が書いたそのライナー・ノーツには、ブレイキーのオリジナル・サウンドトラックにはジョーダンの作曲にもかかわらず別人の名前が誤って使われており、このレコードこそ本当の作曲者による演奏だとはっきり書いてある。このレコードのメンバーは、ソニー・コーン(tp)、チャーリー・ラウズ(ts)、エディ・カーン(b)、アート・テイラー(ds)である。ジャック・マーレイは確かに実在の作曲家らしく、この映画の音楽も一部担当していたようだが、なぜジョーダンではなく彼の曲としてクレジットされていたのかは調べたがわからなかった。パーカーが可愛がっていたジョーダンを、夫人が当時の経済的苦境から救うためにリリースしたものだと言われているので、この話が真実だった可能性は高い。

ところでモンクの音楽は実際にどう使われたのだろうか? オリジナル映画を確認したところ、映画冒頭のチェスの盤面を使ったタイトルバックの音楽はモンクの〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉である。音楽担当としてのモンク、ジャック・マーレイ、バルネ・ウィラン、モンクのグループ、ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダン、ケニー・クラークの名前は全員が出て来る。だがケニー・ドーハム他の名前はない。バルネ・ウィランを加えたモンク・グループの演奏が〈パノニカ〉他計7曲と、モンクによるゴスペル聖歌のピアノ・ソロ1曲で、これらが映画のほぼ全編に使われている。特に〈クレパスキュール…〉と〈パノニカ〉がメインテーマ曲で、この2曲は何度も聞こえてくる。ブレイキーのグループの演奏が主としてパーティやクラブなど華やかな場面で使用されているのに対して、モンクの音楽は大部分が男女間の微妙な情景の背景音楽として挿入されている。アブストラクトでどことなく不安なムードを醸し出すモンクのサウンドが、このフランス映画のアンニュイで危なげなムードにぴたりとはまって、ロジェ・ヴァディムがなぜモンクの音楽を使いたかったのかがよくわかる。一方ケニー・ドーハム、バルネ・ウィラン、ケニー・クラーク、デューク・ジョーダン(背中だけ?)は確かに画面に登場している。その演奏は明らかにボビー・ティモンズのピアノやリー・モーガンのトランペットなどメッセンジャーズ側のものだが、そこでの音楽「全部」がアート・ブレイキー側の音源なのかどうかはわからなかった(ケニー・ドーハムの顔とトランペット・プレイは何度かアップになっているので、一部はその音をそのまま使っている可能性もある。それが全部リー・モーガンの音だとしたらひどい話なので…)。またモンクが演奏したサウンドトラックは映画中だけで使われ、レコード化されなかった(おそらく映画用新曲が書けなかったために、当時リバーサイドに吹き込んだばかりの曲だけを使ったからだろう)。

本来なら、新曲によるサウンドトラックはもちろん、ナイトクラブでの演奏シーンにはモンクが登場したはずで、また撮影に合わせてパリでのコンサート、クラブ・ライヴも別途企画されていたのだが、モンクの不調でこうした企画はすべてお流れとなってしまったのだ。どうなるかはっきりしなかった当時のモンクを不安視したヴァディムとロマーノが、とにかくバルネ・ウィランをフィーチャーして企画を練り直し、結果として安全策として準備していたジョーダンの曲と、ブレイキーのグループの演奏が脚光を浴びたということなのだろう。この映画の日本公開は1962年で、モンクの初来日は翌1963年だった。映画と完全に一体化したマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」とは対照的に、「危険な関係」の音楽として普通に思い浮かべるのは華々しいブレイキーかジョーダンであり、この映画をモンクの音楽と共に記憶しているジャズファンもほとんどいないのではないだろうか(少なくとも私の世代では)。しかしこのエピソードも、いかにもモンクらしいと言うべきか。

(追記 2017 7/5)
知らなかったのだが、気が付いたら、何とこのとき以降お蔵入りになっていたと思われる、モンクのカルテットにバルネ・ウィランが加わった上記演奏(1959) が、今年になってCD/LP「Les Liaisons Dangereuses 1960」(SAM RECORDS/SAGA) として発売されていた。映画中で聞こえるモンクの演奏はこれが音源である。

2017/03/25

映画「ラ・ラ・ランド」にモンクが・・・

Straight No Chaser
1966/67 CBS
映画は最近ほとんど見ていないし、そもそもミュージカルもあまり興味はないのだが、観に行った妻の「モンクが出てたわよ・・・」という一言で、久々に重い腰を上げて評判の映画「ラ・ラ・ランド La La Land」を観に映画館まで出かけた。正確にはモンクが出ていたわけではなく、映画の冒頭でジャズ・ピアニストを目指す主人公(ライアン・ゴズリング)が、レコード(LP)に合わせてピアノを練習しているシーンが出て来るのだが、その曲というのがセロニアス・モンクが弾く〈荒城の月〉だったのだ。1966年のモンク2度目の日本ツアーで、日本人の誰かが教えた滝廉太郎のこの曲(*)の持つマイナーな曲想をモンクが気に入り、日本公演で披露したところ大受けし、帰国後のニューポート・ジャズ・フェスティバルで初演し、そこでも喝采を浴びたので、その後モンク・カルテットのレパートリーに加えたという話がロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に出て来る。(当時のモンクは曲作りに苦労するようになっていて、新曲がなかなか書けなかったことも背景にある。)

(*追記4/7: 先日Webを見ていたら、ANAの広報ページ<Sky Web 2007年>のインタビューで、1966年のモンク来日時に写真を撮っていた「新宿DUG」のオーナー中平穂積氏が、お礼としてモンクにあげたオルゴールの曲が「荒城の月」だったと語っている。この演奏アイデアの源は中平氏のオルゴールだったようだ。ニューポートで初演したときに中平氏は現地にいて感激して泣いた、という話もしている。)

その後、この曲はモンクのアルバム「ストレート・ノー・チェイサーStraight, No Chaser」(CBS 1966/67)に〈Japanese Folk Song〉という(大雑把な)曲名で収録されているので、主人公が聞いていたのはたぶんこのレコードだろう。妻がなぜモンクの演奏だと気づいたかというと、家で私がずっとかけていたモンクの音源の中にこの〈荒城の月〉があり、妻もそれを何度も耳にしていて覚えてしまったからだ。このアルバムは、モンクの有名なブルースであるアルバム・タイトル曲や、冒頭のいかにもモンク的な〈ロコモーティヴ〉、デューク・エリントンのバラードをチャーリー・ラウズ(ts)が美しく演奏した〈I Didn’t Know About You〉、モンクのピアノ・ソロによる賛美歌など、全体として非常にリラックスした演奏が楽しめるレコードだ。監督のデミアン・チャゼルが、なぜその場面で「モンクの荒城の月」をあえて選んだのか、その意味や意図は不明だ(日本の観客に受けると思ったのだろうか?)。

A Celebration of
Hoagy Carmichael
1982 Concord
 
同じく映画の最初のところで、主人公のアパートを訪ねた姉が椅子に座っていると、帰宅した主人公が「その椅子は(ホーギー)カーマイケルが座った貴重な椅子なんだから・・・」と言って、姉から椅子を取り上げるシーンがある。たぶんカーマイケルが何者なのか知らない人がほとんどだと思うが、Hoagy Carmichael1899年生まれの白人のジャズ・ピアニスト、歌手で(デューク・エリントンと同じ生年)、ビックス・バイダーベック(白人でクール・ジャズの始祖と言われている)、ルイ・アームストロングなどと共演したが、何より作曲家として有名な人だ。〈Stardust〉,〈Georgia On My Mind〉,Slylark〉など、どことなく哀愁のある数々の名曲を作曲しており、これらはジャズ・スタンダードとして、白人、黒人を問わず多くのミュージシャンに取り上げられている。私は彼のレコードそのものは持っていないのだが、その名曲をデイヴ・マッケンナDave Mckennaという白人ピアニスト(ソロピアノの名人)が、ピアノソロでライヴ録音したレコードは持っている。それがConcordレーベルの「Celebration of Hoagy Chamichael」(1982)というレコードである。

このレコードは私の愛聴盤でもあり、マッケンナがとにかくゆったりと、次々に奏でるカーマイケルの名曲は、目の前で演奏されているような臨場感のある録音の生々しさもあって、1人でじっくり聴いていると本当にリラックスして聴き入ってしまう素晴らしいレコードだ。その中でも特に好きな曲は、1938年作曲の〈ザ・ニアネス・オブ・ユーThe Nearness Of You〉で、ネド・ワシントンによる歌詞を含めて原曲はいかにもアメリカを感じさせる甘いバラードだが、枯れた風情のマッケンナのピアノが実にしみじみとして味わい深いのだ。マイケル・ブレッカーの文字通りの「ニアネス・オブ・ユー」(2001 Verve)というアルバムで、ジェイムズ・テイラーがこれも味のある歌を聞かせるヴォーカル・バージョンもあり、他にもノラ・ジョーンズやダイアナ・クラールもカバーしている。映画「ラ・ラ・ランド」中のオリジナル曲は、冒頭の〈Another Day of Sun〉 や、主演女優エマ・ストーンがシャンソン風に歌う〈Audition(夢追い人)〉など、全体として優れた楽曲が多いとは思うが、主役の2人を結ぶロマンスの鍵となる肝心のソロ・ピアノ〈Mia & Sebastian’s Themeという曲らしい〉が、ジャズでもなければクラシックでもないような中途半端な曲で、これだけは「何だかなあ・・・」と思った。私なら、ここにマッケンナがソロで演奏する〈ザ・ニアネス・オブ・ユー〉をかぶせるのになあ、とつくづく思った。こちらは正真正銘のジャズ・ピアノであり、しかもアメリカ的ロマンチシズムに溢れる美曲だからだ。(映画を見た人は、騙されたと思って、ぜひこのレコードのこの曲を一度聴いて比較してみてください。)

映画<La La Land>
Soundtrack
ハリウッドで作り、しかもロサンジェルスを舞台にしたミュージカル映画なので、「ジャズ」がモチーフになってはいても、その扱いが浅く、全体として「白人が作りました感」は否めない。しかし私には、(そんなもんだと思っているので)そこは別に気にならない。「ラウンド・ミドナイト」も「バード」も見たが、何せ映画でジャズをテーマにして描くのは難しいのだ。ジャズの演奏をうまく使った古いフランス映画(「死刑台のエレベーター」とか「危険な関係」)もあるが、最高の「ジャズ映画」と言えばやはり「真夏の夜のジャズ」(1958)と、セロニアス・モンクの「ストレート・ノー・チェイサー」(1988)という2つのドキュメンタリー映画だろう。とはいえ、私はミュージカルについてはたいした知識もなく、過去の作品へのオマージュやパロディと思われる部分の面白さ等が理解できたわけではないが、主役は男女ともに良かったし、踊りも楽曲も良く(上記ソロピアノを除き)、映画としては十分に楽しめた。

この映画の主題を簡単に言うと、「常に進化しなければ」という脅迫観念に捉われているアメリカ人が、絶え間ない進化の陰で捨ててきた「古き良きもの」(映画では、ジャズはその象徴として描かれているにすぎない)に対してどことなく感じているある種の罪悪感と、「頑張れば夢はいつか叶うものだ」という、楽天的な古来のアメリカン・ドリームの2つを組み合わせたごく月並みなものだと思う。アメリカ人が無意識のうちに共有しているこの2つの要素を、これもアメリカ伝統のロマンスを軸にしたミュージカル映画というパッケージにくるんだ見事な3点セットになっているからこそ、多くの「アメリカ人」の心の琴線に触れ、支持されたのだろう。グローバリゼーション(アメリカ化)によって、今やその2つとも世界共通の普遍的なモチーフなので世界中で受け入れられているのだろうが、この映画を称賛する他の国の人たちが、アメリカ人ほど「切実に」そこに共感しているのかどうか、それはわからない。

2017/02/26

モンク考 (4) 米国黒人史他について

著者ロビン・D・Gケリー氏はニューヨーク・ハーレム生まれで、現在カリフォルニア大学教授を務める歴史学者である。米国黒人史を専門とし、これまでに同分野の多くの著書も発表していて、2冊の邦訳版もある。(自ら楽器も演奏し、またジャズを中心としたブラック・ミュージックについての造詣も深く、関連誌に多くの論稿も寄稿している。)著者はモンクの物語を貫く縦糸として、米国黒人史を織り込むことを最初から意図して本書を執筆しており、その点があくまで音楽を主体とした従来のジャズマン個人史や評伝との違いだろう。ノースカロライナ州における19世紀奴隷制時代の米国の状況と、そこで生きたモンクの曽祖父から物語を始め、セロニアス・モンクという姓名の由来、少年時代からの逸話、伝聞、発言等を整理し、そこにモンクの演奏記録、また当時の様々なレビュー等を引用した上で、それぞれの情報を徹底的に検証している。そしてその作業から得られた「事実」として確度の高い情報を、いわばジグソーパズルのように時系列に沿って丹念に配置してゆくことによってモンクの実像に迫ろうとしている。

したがって、物語の途上では米国黒人史で起きた悲惨な事件や政治的事例が数多く挿入されている。モンク自身は、共感するところはあったにしても政治活動には直接関与しなかった純粋な音楽家だったことが本書からわかるが、日本人が知らない、あるいはよく理解していない、そうした歴史的背景とジャズという音楽は不可分なのだという思想はもちろん理解できる。実際モンクを始め、多くのジャズ・ミュージシャンが警察の暴力の被害に会っており、そして近年のアメリカにおける、一世紀前と変わらぬ警察による黒人への暴力事件の報道を見聞きすると、残念ながら本書に書かれているエピソードが一層リアリティを増して感じられることも確かだ。数多いそれらの事例と、長期にわたって収集された膨大な資料に拠る克明な記述とが相まって、結果的に原著は長大な本となった。

しかし著者は、敢えてそうした手法を取り入れることで、これまでのジャズ評論やジャズ個人史の問題でもあった主観とイメージ(想像、時に妄想)、間接情報中心の記述をできるだけ排し、より客観的な視点で事実を積み上げることによってリアルなモンク像を描くことに挑戦している。「リー・コニッツ」の著者アンディ・.ハミルトンの場合は、存命の人物への直接インタビューによって、コニッツの演奏思想、哲学とジャズ即興演奏の本質を明らかにしようというアプローチだったが、両著者ともに曖昧な間接情報と脚色を排し、事実に重きを置くという点でまったく同じ姿勢だと言える(二人とも大学教授という共通の職業柄もある)。その点が、ジャズ・ミュージシャンの伝記として本書がアメリカで数々の賞を受賞し高く評価された理由の一つだろう。結果として非常に長い本となったが、細部の事実を含めてこれまで日本では知られていない情報も多く、何よりもジャズ好きであれば、1930年代以降のアメリカとモダン・ジャズ史を新たな視点で俯瞰するノンフィクション読み物としても非常に面白く読める。 

記録映画
<Straight No Chaser>
1988
おそらくモンク・ファンの多くは既に見ておられると思うが、本書中に出て来るドイツのブラックウッド兄弟が1967年に撮影したドキュメンタリー・フィルムを中心にして、1988年に再編集された傑作記録映画がある。それが「ストレート・ノー・チェイサー」(クリント・イーストウッド総指揮、シャーロット・ズワーリン監督――この人も女性である)で、あの 動くモンク“――ピアノを弾き(あるいはピアノにアタックし)、踊り、くるくるつま先立ちで回り、煙草を吸い(時にピアノや床を灰皿代わりにしながら)、話し、道を歩くモンクの姿が捉えられている。ネリー夫人も、ニカ男爵夫人も、息子トゥートも、マネージャーのハリー・コロンビーも、チャーリー・ラウズも、テオ・マセロも、その他本書に登場する多くの人たちの映像と肉声の記録もそこに残されている。そして1960年代後半のニューヨーク、アムステルダム・アベニューも、ヨーロッパ・ツアー中のモンク一行も、モンクが晩年のほとんどを過ごしたウィーホーケンのニカ邸内部のモンクの部屋とピアノ、そこから見えるハドソン川とマンハッタンの遠景、おまけに ”キャットハウス” ニカ邸の住人だった多数の猫たちも登場する。モンクが晩年を過ごし、最後を迎えたニカ邸で当時暮らしていたバリー・ハリスが、トミー・フラナガンとピアノ・デュオでモンクの曲を弾くシーンもある。そして最後に、正装で棺に納められたモンクの葬儀の模様も挿入されている。ジャズ・ファンにとっては幸福なことに、今やインターネット動画でさらに多くの動くモンクの映像記録も見ることができる。この本を読み、モンクのレコードや音源をあらためて聴き、さらにこれらの映像を見ることで、モダン・ジャズの歴史と、セロニアス・モンクという唯一無二の天才ジャズ音楽家を再発見する楽しみを、多くの人にぜひ味わっていただきたいと思う。