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2017/04/18

フレンチの香り:バルネ・ウィラン

ジャズはアメリカの音楽と思われているが、実はその生い立ちにはフランスの血が混じっている。ジャズ発祥の地と言われるニューオリンズは、元はフランス植民地であり、移入されたヨーロッパの音楽と、そこで生まれたクリオールと呼ばれるフランス系移民と黒人との混血の人たちによってニューオリンズ・ジャズが生まれたとされている。アジアの植民地でもそうだったが、異人種の隔離にこだわるアングロサクソン系と異なり、植民地支配にあたって現地人と融合することを厭わないフランスは、結果としてジャズの生みの親の一人になったのである。ジャンゴ・ラインハルト(ベルギー人ギタリスト)に代表されるように20世紀前半からフランスでもジャズが盛んだったが、1950年代に入って,そのジャズが ”モダン” になって言わばフランスに里帰りした。

ジョン・ルイスやマイルス・デイヴィスなどのアメリカのジャズプレイヤーがフランスを訪れ、「死刑台のエレベーター」や、モンクとアート・ブレイキーの「危険な関係」など、映画音楽の世界を通じて折からのヌーベルバーグの文化、芸術活動とも大きく関わった。マイルスなどはシャンソン歌手ジュリエット・グレコとのロマンスまで残しているほどだ。1950年代以降ケニー・クラーク、バド・パウエル、デクスター・ゴードン等々、数多くのジャズ・ミュージシャンが、黒人差別が根強く、生きにくいアメリカを離れてパリに移住した。上に書いたようなジャズとの歴史的関係もあり、フランスは日本と同じく、ジャズとそのプレイヤーを差別なく受け入れ、芸術と認めた国と民族であり、だから彼らはこの二つの国が好きだったのである。サックス奏者バルネ・ウィラン Barney Wilen (1937-1996)も、実はアメリカ人(父)とフランス人(母)を両親に持つハーフということだ。20歳の時に「死刑台のエレベーター」(録音1957)の音楽でマイルス・デイヴィスと、22歳の時に「危険な関係」(1959)でセロニアス・モンク、アート・ブレイキーらと共演している。マーシャル・ソラール(p)やピエール・ミシュロ(b)のようなプレイヤーと並んで、ホーン奏者としてフランスでは当時もっともよく知られたジャズ・ミュージシャンだった。当時のウィランの映像を見ても、アメリカの一流ミュージシャンたちにまったく引けを取らず、堂々と渡り合ってプレイしている。

ウィランは1956年にジョン・ルイス(p)やMJQとの共演盤でメジャー・デビューしていたが、初リーダー・アルバムとなったのは翌1957年、19歳の時に出したLP「ティルト Tilt」(Swing/Vogue)である。このアルバムは別メンバーによる2回のセッションからなり、興味深いのは、ハードバップ・スタンダードの4曲(A面)に加え、セロニアス・モンク作の4曲(B面)を取り上げていることだ。その4曲とは〈ハッケンサック〉、〈ブルー・モンク〉、〈ミステリオーソ〉、〈シンク・オブ・ワン〉で、後にリリースされたCDには、さらに〈ウィ・シー〉、〈レッツ・コール・ディス〉という2曲のモンク作品が追加されている。さらに驚くのは、録音日時が1957年1月であり、ということはモンクが同年コルトレーンと「ファイブ・スポット」に登場する7月より前、また傑作「ブリリアント・コーナーズ」(Riverside)のリリース前、すなわちモンクがアメリカでもまだあまり注目を浴びていなかった時だったことだ。モンクは1954年にパリ・ジャズ祭に出演してヨーロッパ・デビューしていたものの、その時はフランスでも散々な評判で、唯一ソロ・ピアノを評価したVogueに非公式に録音した(ラジオ放送用。Prestigeと契約中だったため)ソロ・アルバムを残しただけだ(これは名盤)。ウィランがここでモンク作品を取り上げたということは、彼がその時点で既にモンクのことをよく知り、その作品を評価していた証であり、フランスでもモンクを評価する動きが既にあったことを意味している。これが、1959年の「危険な関係」サウンドトラックでのモンクとウィランの共演につながっていったと解釈するのが妥当だろう。同時に、フランスが当時いかにジャズに対する興味と慧眼を持つ国だったか、ということも意味している。確かにパリはジャズの似合う街なのだ。

1959年に「危険な関係」撮影のためにパリを訪問していたケニー・ドーハム(tp)、デューク・ジョーダン(p)他とのクインテットで、パリのジャズクラブ「クラブ・サンジェルマン」にウィランが出演したときのライヴ録音盤が「バルネ Barney」(RCA)というレコードだ。フレンチ・ハードバップの香りのする若きウィラン、躍動感に満ちたドーハムやジョーダンのプレイ、またウィランとジョーダンの歌心あふれるバラード〈Everything Happens to Me〉など、聴きどころ満載の素晴らしいレコードだ。モノラルではあるが、当時のパリのジャズクラブの空気まで感じられるようなクリアな録音が演奏を一層引き立てていて、まさに「危険な関係」の時代にタイムスリップしたかのようなライヴ感が味わえる。その後このライヴ録音からは、モンクの〈ラウウンド・ミドナイト〉を含む未発表曲を加えた「モア・フロム・バルネ」もリリースされている。

ウィランは60年代にはフリー・ジャズに接近したり、一時演奏活動を休止した時期もあったようだが、その後復活し、90年代には日本のレーベルにも多くの録音を残していて、それらはいずれも評価が高い作品だ。「フレンチ・バラッズ French Ballads」(1987 IDA)は、復活後のバルネ・ウィラン50歳の時のフランス録音で、フランス人ミュージシャンとフランスの歌曲を演奏したレコードだが、ここではテナーとソプラノを吹いている。ウィランの演奏には太くハード・ボイルド的にブローする部分と、包み込むような柔らかい音色による陰翳の深い表現が混在している。若い時から彼のバラード演奏にはフランス風のある種独特の香気・味わいが備わっていた。その演奏にはやはりアメリカのジャズ・ミュージシャンとはどこか違うテイスト、フランス風の抒情と男性的色気のようなものが漂っていて、バラード演奏にそれが顕著だ。このアルバムでも〈詩人の魂〉,〈パリの空の下で〉,〈枯葉〉 などの有名なシャンソン、あるいはミッシェル・ルグランの作品を演奏しているが、いずれも本場ならではの解釈と、フランス風の香気に満ちた演奏である。