100年以上の歴史を持つジャズは多彩で奥の深い音楽だ。熱くハードでストレートなジャズもあれば、クールでソフトだが複雑なジャズもあり、また枠に囚われないフリージャズもあるように、様々なスタイルがあって、それぞれ好む聴き手もいる。ジャズの魅力は、エモーション一発ではなく、冷静さ、知性、知識、技術という多面的要素を持った即興演奏が要となった高度で複雑な音楽であるというところにある。時代と共にジャズ演奏のイディオムも、流行も、奏者と聴き手の感性も変わるので、表層的な部分は変化してきたが、優れたジャズに古いも新しいもなく、ジャズが持つ音楽としての本質に変わりはない。ジャズのバンドもメンバーを固定して活動するケースが多いが、通常は短命であり、メンバーは頻繁に入れ替わるのが普通だ。なぜなら、「みんなで仲良く一緒に」ではなく、つまるところジャズが「個人」の音楽だからだ。あくまで独立した「個」と「個」が演奏を通じて互いを理解し、刺激し合い、時には挑戦しながら、より高い次元で他者と音楽的に繋がる瞬間にこそジャズの醍醐味があるわけで、何よりも、それを支える「自由な精神」をリスペクトすることがジャズという音楽の最大の魅力なのだ。何をどう演奏しようが聞こうが基本的には自由であり、演るのも聞くのも行き着く先はあくまで個々人の自由な価値観と嗜好である。こうあらねばならない、こうすべきだ、という硬直した思想は最もジャズから遠いものだ。だから一般的に言って、真のジャズ好きが単一価値観のスポ根風を嫌うのは当然であり、当初「ブルージャイアント」にどことなく感じた違和感は、たぶんそのあたりが理由だと思う。
ところが読み進めるうちに、作者の強引なストーリー展開と、これまた主人公の強引な行動(と人間味)につい感情移入して引き込まれてしまい、徐々になかなか面白いと思うようになってしまった(ただしジャズ云々よりも人間ドラマとしてなのだが、自分が意外に単純な人間だということもわかった)。ほとんどセリフのない場面とコマが延々と続いたり、もちろん絵から音は出ないので、楽器の音を表現する擬音とスピード感や迫力を伝える線のオンパレードで、こちら側で想像するしかないのに、なぜか「ジャズ」が聞こえて来るような気がするから不思議だ。演奏中のジャズ・ミュージシャンの一瞬の姿や表情を捉えた昔のスティル写真と同じで、写真を見ただけでその人の音が聞こえて来る、あの感覚と同じなのだろうが、この場合は、そのミュージシャンの演奏を実際にレコードなどで聞いた記憶があって、そこから音楽が脳内イメージとして聞こえて来るわけである。「アポロン」でも同じように、有名なジャズ・スタンダード曲の記憶から湧いてくるイメージがあったのだが、「ブルージャイアント」では、若いミュージシャンの卵たちがオリジナル曲をただひたすら熱く演奏している画が延々と続くだけで、それが具体的にどういう演奏なのかは誰にも想像がつかないはずなのだ。たぶん読者全員がそれぞれ勝手なジャズのイメージを思い浮かべているのだろうが、それでも聞こえて来るイメージは確かにジャズである(私の場合、どちらかと言えばフリー系だが)。
ダンスの伴奏が主だった1940年代半ばまでのジャズを別にすれば、即興演奏の技術が高度化し、多様化したビバップ以降のモダン・ジャズには「万人が楽しめるジャズ」というものはなく、ジャズは本質的に自由な個人の音楽となり、また「知と情」を併せ持つ独特の音楽となった。他のポピュラー音楽と違うジャズだけが持つ魅力と深みは、単に聴き手の感情に訴えるだけではなく、同時に知性を刺激し、知的な美しさを感じさせるという「知と情」の独自の音楽的バランスにある。ロックやポップスなどのポピュラー音楽にも「知」の要素はあるが、それは主として言語(歌詞)から想起されるものであり、楽器演奏による音だけで「知」を感じさせる音楽は、クラシックとジャズだけだ。マイルス・デイヴィスの音楽は、この「知と情」が高度にバランスしたジャズの代表である。また後期コルトレーンのように、考え抜いた末に行き着いた熱狂的でエモーション全開の演奏もあれば、一方、頭で考えたジャズの典型のごとくかつて批判されたアルト奏者リー・コニッツのようなクールな演奏もある。だがコニッツが自伝の中で述べているように、出て来た音がいかに頭で考えたようなクールで複雑な音楽に聞こえても、演奏している奏者をつき動かしているのはあくまで自身の内部から湧き出るエモーションであり、彼の内側は熱く燃えたぎっているのである。
第10巻で少年期を終えて、物語のベクトルは徐々に「個人」と「自由」というジャズのキーワードに向かいつつあるように思える。「世界一」のサックス奏者を目指す主人公が、「個人」と「自由」に常に見えない足枷をはめようとするローカル日本を離れて、まずは一人でグローバルな世界に向かうという展開は当然のことだろう。最初の行き先がジャズの本場アメリカではなく、クラシック音楽の厚い土壌を持ち、ジャズを芸術と認め、様々な音楽を受け入れる知性と懐の深さがあり、歴史的に独自のジャズ、フリージャズ、さらにはジャズを超えたフリー・インプロヴィゼーションの世界を生んで来たヨーロッパ、中でもドイツを選んだことに、主人公が今後体験する「知」の部分に関する何がしかの意味があるのかもしれない。そしてもう一つのキーワードは、アーティストとしてのジャズ・ミュージシャンにとって究極の目標であり、主人公が物語の最初からその片鱗を見せている「独創」(originality) だろう。続編「SUPREME」(2017-) の中で、今後これらをどう描いてゆくのか興味深いが、物語の最後には、様々な体験を経てミュージシャンとして成長しながら自己表現の手法を確立し、真に「独創的な」ジャズテナー奏者となった主人公が、本場アメリカで勝負する舞台が当然用意されているのだろう。いずれにしろ、今までのところ、この作品がジャズの魅力の一面を描いていることは確かで、これまでジャズにあまり馴染みのなかった人たちにも支持されているなら、それはとても良いことだと思う。私的には、今後の展開の中で、作者が考えるジャズの真の魅力を描き切ってくれることを期待したい。

