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2017/12/07

映画館の音はなぜあんなに大きいのか

先日、新聞の投書欄で、今の映画館の音はどうしてあんなに大きいのかと、70歳の女性が投稿している記事を読んだ。アニメ映画なのに小さな子供は怖がり、途中で出てゆく子供もいて、自分も疲れて、あれでは難聴になりそうだと訴えていた。同感である。私は滅多に映画には行かないのだが、今年の初めに「ラ・ラ・ランド」の封切り上映を観るために久しぶりに映画館に行ったところ、そのあまりの爆音に耳が痛くなり、気持ちが悪くなるくらいだったからだ。後半はほとんど耳を半分塞いで見ていたが、あれでは興味も半減してしまう。コツコツという靴の足音が異様に大きな音で響きわたり、車のドアを閉める衝撃音の大きさにビクッとし、踊りや演奏の場面では耳をつんざくような音が流れている。いくら年寄は耳が遠くなるので丁度いいとか言われても、やり過ぎだろう。あの調子で昔のように何本も続けて見たら、それこそ耳がおかしくなる。たまたまその映画や映画館がそうだったのかと思い、ネットで調べてみたら、同じ疑問と悩みを訴えている人が実際にたくさんいるということがわかった。見に行きたくても、あれでは怖くて行けないという人もいる。小さな子供にとっては拷問に等しく、危険ですらある。日付を見ると、ずいぶん前からそういう訴えが出ているが、その後改善されたという話は掲載されていないし、現に私も今年になって体験しているので、あまり変わっていないということなのだろう。

昔のジャズ喫茶でも結構な大音量でレコードをかけていて(今でもそういう店はある)、一般の人がいきなり聞いたらびっくりするような音量ではあった。しかし、それはオーディオ的に配慮した「音質」が大前提であり、機器を選び、再生技術を磨き、耳を刺激する歪んだ爆音ではなく、再生が難しいドラムスやベースの音が明瞭かつリアルに聞こえる音質レベルと、家庭では再生できない音量レベルで、きちんと音楽が聴けることに価値があったわけで、「音がでかけりゃいい」というものではなかった。もちろん個人の爆音好きオーディオ・マニアは昔からいるし、一般にオーディオ好きは、普通の人たちに比べたら大音量には慣れているはずなのだが、一方で音質にも強いこだわりを持っている。そういう人間からみたら、今の映画館の、あのこけおどしのような音は、ひとことで言って異常である。マルチチャンネルやサラウンド効果を聞かせたいとかいう商業的理由もあるのだろうが、パチンコ屋やゲームセンターじゃあるまいし、静かに「映画」を見たい普通の人間にとってはそんなものは最低限でいい。密閉された空間では、爆音やそうした人工的なイフェクトはやり過ぎると聴覚や平衡感覚をおかしくするのだ。座る場所を選べ、とかいうアドバイスもあるが、そういうレベルではない。耳栓をしろ、とかいう意見もあるが、これもなんだかおかしいだろう(音に鈍感な人間からアドバイスなどされたくもないし)。とにかく空間に音が飽和していて、耳が圧迫されるレベルなのだ。大画面で迫力のある音を、という魅力があるので映画館に足を運ぶ人も多いのだろうが、大画面はいいとして、あの爆音は人間の聴力を越えた暴力的な音だ。だから映画を見たいときは、家の大画面テレビで、オーディオ装置につないでDVDやネット動画を見る方がよほど快適なので、今では大方の人がそうしているのだろうが、封切り映画だけはそうもいかないので、見に行くという人も多いのだと思う。

カー・オーディオを積んで、特にウーファーの低音をドスドス響かせながら爆音で走っている車を時々見かけるが、あれと似たようなものだ。あの狭い空間であの音量を出して、よく耳がおかしくならないものだといつも感心しているが、迷惑だし、公道を走っているとはいえ、車の中は一応個人の空間なので、耳を傷めようとどうしようと勝手だが、映画館は不特定多数の人たちがお金を払って集まるパブリック・スペースであり、全員があの拷問のような爆音を無理やり聞かされるいわれはないだろう。画面サイズと音量との適切なバランスについては、昔からAV界(オーディオ・ヴィジュアルの方だ)に通説があるが、そういうバランスをまったく無視したレベルの音量なのだ。いったい、いつからこんな音量になったのだろうか? なぜあれほどの音量が「必要」なのだろうか? ひょっとして、昔アメリカで流行った野外のドライブイン・シアター時代の音の効果の名残が基準にでもなっているのだろうか? 屋内の狭い空間であの異常な音量を出すのは、何か別の理由でもあるのだろうか? 誰があの音量を決めているのだろうか? 映画関係者に一度訊いてみたいものだ…と思って調べていたら、何と以前から「爆音上映」なるものがあって、むしろ爆音を楽しむ映画館や観客がいるらしい。家では楽しめない音量で、爆音愛好家(?)が映画館で身体に響くほどの音量を楽しむ企画ということのようだ。遊園地のジェット・コースターとか3Dアトラクション好きや、耳をつんざく大音量音楽ライヴが好きな人と一緒で、要は体感上の迫力と刺激を映画にも求めているのである。映画によってはそうした爆音が音響効果を生んで、リアルな体験が楽しめるという意見を否定するつもりはないが、それもあくまで映画の内容と音量の程度次第だろう。 

思うに、昔は「音に耳を澄ます」という表現(今や死語か?)にあるように、外部から聞こえる虫の声や微妙な音に、じっと感覚を研ぎ澄ます習性が日本人にはあった。虫の出す「音」を、「生き物の鳴き声」として認識するのは、日本を含めた限られた民族特有の感覚らしく、西洋人には単なる雑音としか聞こえないという。日本人の音に対するこの繊細な感覚は、音楽鑑賞においては世界に類をみないほどすぐれたものだった。ところがそれが仇になって、今の都会では近所の騒音とか、他人の出す音に対してみんなが神経質になっていて、近所迷惑にならないようにと誰もが気を使って毎日生きている。これが普通のスピーカーで音を出して聴くオーディオ衰退の理由の一つでもある。ところが、そういう環境で育った今の若者は、携帯オーディオの普及も一役買って、子供の頃から音楽をイヤフォンやヘッドフォンで聴く習慣ができてしまった。外部に気を使っている反動と、一方で外部の音を拾いやすいイヤフォンなどの機器の特性もあって、常時耳の中一杯に飽和する音(大音量)で思い切り音楽を聴きたいという願望が強くなり、おそらく彼らの耳がそうした聞こえ方と音量に慣れてしまったのだろう。要するに外部の微細な音を聞き取る聴覚が相対的に衰え、鈍感になったということである。映画館の大音量に変化がない、あるいはむしろ増えているのは、供給者側(製作、配給、上映)にそういう聴感覚を持つ人たちが増え、需要者(観客)側にもそういう人が増えたということなのだろう。感覚的刺激を求める人間の欲望には際限がないので、資本主義下では、脈があると見れば、それをさらに刺激してビジネスにしようとする人間も出て来る。最初は感動した夜間のLEDイルミネーションも、どこでもでやり始めて、もう見飽きた。プロジェクション・マッピングも、今は似たようなものになりつつある。テクノロジーを産み、利用するのも人間の性(さが)なので、これからも、いくらでも出て来るだろうし、そのつど最初は面白がり、やがて刺激に慣れ、飽き、次の刺激を求めることを繰り返すのだろう。こうして、かつて芸術と呼ばれた音楽も、映画も、あらゆるものがエンタテインメントという名のもとに、微妙な味や香りはどうでもいいが、大味で、瞬間の刺激だけは強烈な、味覚音痴の食事のような世界に呑み込まれつつある。これはつまり、文明のみならず、文化のアメリカ化がいよいよ深く進行していることを意味している、と言っても間違いではないような気がする。