サラリーマンNEO NHK (2006-11) |
生瀬勝久と池田鉄洋 (写真:逢坂 聡) |
しかし「コンとコトン」で、生瀬勝久のコント作りと芸に対する厳しさを、池田をはじめとする出演者の多くが口を揃えて語っていたのが印象的だった。生瀬は関西出身だが、アドリブよりも徹底して作り込むタイプの演劇人なのだということがよく分かった。他の番組のユルいコントとの違いは、作品としてのコントへの拘りと真剣さが生む演劇的緊張感の故なのだろう。第一、生瀬はどんなにおかしな役柄を演じても、目が決して笑っていないところがすごい(コワい。時には狂気さえ感じる)。この番組は、レギュラー男優陣も女優陣も、皆さん普通の俳優さんばかりなのに、本当によくぞやったという名演技ばかりで(演じていて、どこが面白いのかよくわからない、というコメントにも笑ったが)、コントというものの奥の深さを教えてもらった。いくつかのコントに代表される「サラリーマンNEO」は、手法や出演者の性格は違うが、個人的には、バブル末期(昭和ー平成)の「夢で逢えたら」(フジテレビ)以来の、斬新な傑作コント番組だったと思う
夢で逢えたら フジテレビ(1988-91) |
日本のコントには歴史的にいくつかの流れがあると思うが、吉本新喜劇や浅草演芸系の舞台もの (私はこれも結構好きだ)、クレイジーキャッツからドリフターズという元ミュージシャン系のコント、それにお笑い芸人によるテレビ番組ものが主流で、その大部分は老若男女を問わず、大衆受けを狙った分かりやすいコントだった。それに対して「シャボン玉ホリデイ」-「ゲバゲバ90分」-「夢で逢えたら」-「サラリーマンNEO」、と(勝手な私的印象で)つながる流れは、いわゆる関西系のお笑いではないこと、コントに斬新さとヒネリがあり、どれも作り込みが凝っていたところ、そして基本的に子供や一般大衆受けよりも、一部の大人層にしか受けないシュールな(時にシニカルな毒を含む)笑いを最初から目指していたところが違うように思う。漫才、漫談など、コメディアンの喋りの反射神経、即興性と、ジャズ・ミュージシャンのインプロヴィゼーション(アドリブ)の近似性は洋の東西を問わず昔から指摘されているが、コントの場合は、台本、演出など、より構造的に強固な枠組みと筋書きが前提としてまずあるので、その中で演者個人がどうやっておかしさを表現するかは、プロの役者や芸人といえども相当難易度が高い世界なのだろうと想像する。「サラリーマンNEO」は、そういう見方からすると非常に演劇的で、出演者もお笑い系の人ではなく、ほとんどが普通の俳優さんたちであり、生瀬勝久を中心に、アドリブなしで、台本に忠実なきっちりとした演技で笑わせることをポリシーとして徹底していたのだろう。「サラリーマン」と銘打ってはいるが、どんな日本人の組織にも「あるある」的エピソードをネタにしているところも面白かった理由の一つだ。
しかしながら2011年以降、テレビの笑いは、はっきりと変質したように思う。3.11以降のこの8年間とは、“世相が許さない笑い” というものを、無意識のうちに皆が避けてきた(自粛してきた)時代なのだと思う。「笑ってる場合か?」という意識の蔓延である。その結果、すべてがどことなく無難で窮屈な笑いになって、バカ笑い(=くだらないことで大笑いする)ができなくなった。それまでの社会の安定した枠組みが崩れ、今や現実そのものがブラックで不条理に満ちているので、リアル過ぎて、不条理をギャグや笑いにしにくくなったということもあるだろう。もう一つは、(NHKを除き)インターネットに押されて番組制作費の制約が強まり、金が回らなくなって時間も手間もかけられず、テレビの笑いが刹那的になり、小粒化して、内向きになった(コント制作は、当然ながら非常に時間と費用がかかるそうだ)。一方の視聴者側も、SNSによる仲間内意識が閉塞感とこじんまり感を増幅し、彼らのネット上の監視による炎上恐怖が、ますます表現者側の萎縮に拍車をかけている。そして、特に若者がネットに流れ、テレビを見なくなったことも、もちろん大いに関係しているだろう。
根本的な見方をすれば、大衆が求める「時代の笑い」とは、そのときの国の経済状況(景況感)によって深層でもっとも大きな影響を受けるものだと思う。世の中の空気によって、個々人の基本的な「日常の気分」がほぼ決まるからだ。高度成長期の「シャボン玉ホリデイ」や「ゲバゲバ」、バブル時代の「天才たけし」や「ひょうきん族」や「夢で逢えたら」、ITミニバブル時代の「サラリーマンNEO」など、いずれも景気の良いイケイケの時代には、その時代なりの斬新さがあり、多少の毒もあり、しかし視聴者が安心して心底笑える、お笑いやコント番組が登場している。そして、景気が良いときは人間の喜怒哀楽のレンジ、もっと言えば文化のダイナミックレンジが拡大し、バカ笑いもあるが同時に深い洞察も存在する、というように社会の感性も多様化し、寛容度も増し、大衆のニーズも多彩になる。しかし景気が悪いときの笑いは、当然だが、どこか湿っていて、はじけないし、文化的ダイナミックレンジ全体が狭まり、何もかもがこじんまりしてしまうものだ。事実2008年のリーマンショック後になると、「サラリーマンNEO」も初期(2006年 Season 1)のコントにあった大胆さ、チャレンジ精神が徐々に薄れたし、お笑い番組全体の勢い、面白さにも翳りが出始め、それが3.11後の自粛ムードで決定的になった。現在の、低コスト井戸端会議的な芸人内輪ネタや、素人イジリのお笑いやバラエティ番組全盛時代はこうして生まれた。
誰も傷つけない健全な笑いが、世の中的には一番無難なのだろうが、人間の笑いの世界とは、そもそも多少のトゲや毒を孕んだものだと思う。関西系の笑いの文化とは、歴史的にこれを洗練させてきたものだろう。東側も、ビートたけしや爆笑問題はもちろんのこと、あの欽ちゃんですら、デビュー当時は大いに過激な毒を吐いていたのだ。しかし、今のまま出口の見えない格差社会が定着し、国全体の景気の良し悪しにかかわらず、大衆(特に若い世代) の基本的気分が低調な状態が続けば、笑いの世界も窮屈なままでいることだろう。だが人間の生活に笑いはいつでも必要だ。今後、新たなコント番組や笑いの探求者が登場して、今の笑いの閉塞感を打破する時代はやって来るだろうか? 日本も、没落後の大英帝国的喜劇 (「空飛ぶモンティ・パイソン」や「Mr.Bean」)のように、過激でブラックで、突き抜けた自虐的笑いの方向に向かう可能性があるのだろうか? 同じフィクションでも、小説やコミックやアニメではなく、生身の人間が演じる、不特定マスを対象とした無防備なテレビ・コントの時代はもう平成で終わり、こうした笑いは、映画や、小劇場などの閉じられた空間でしか見られなくなる運命にあるのだろうか?
とはいえ多少の希望がないこともない。最近のNHKは、ドラマでも昔では考えられないような意欲的かつ斬新な作品を送り出しているし(「トクサツガガガ」、「ゾンビが来た…」、「スローな武士に…」など、どれも面白かった)、コムアイとスーパー・ササダンゴ・マシンというよく分からないコンビのユルいナビで進行していた「コンとコトン」をはじめ、お笑いやコントの振り返り番組もいくつか制作しているので、ひょっとしたら何か新しい企画を練っているのかもしれない。来年はオリンピック・イヤーで、世相も多少はポジティブになっているので、期待できるのかもしれない……というか、21世紀資本主義下の日本における革新的、挑戦的なテレビ番組は、BBCと同じく、もうスポンサー・フリーのNHKにしか期待できないのではなかろうか(今はネットを見ても、企業でも個人のページでも、宣伝だらけーしかも最近は動画だーで、うるさくて仕方ないので、自局の番組PR以外に宣伝のないNHKを見ていると、ほっとして気分が落ち着く)。「サラリーマンNEO」を生み出したYプロデューサーに続く、新しい感性を持った若い作家や演出家、あるいは堤幸彦やバカリズムのような才人が手がける、映画でもネット上でも見られない、シュールで笑える、大人向け深夜枠のドラマやコントをぜひ見てみたいものだ。
(追)…と書いていたら、連休中にそのバカリズムが、平成をネタにしたショート・コント的ドラマを本当にNHKでやっていた。喋りはともかく(?)、ドラマはやはり面白かった。
誰も傷つけない健全な笑いが、世の中的には一番無難なのだろうが、人間の笑いの世界とは、そもそも多少のトゲや毒を孕んだものだと思う。関西系の笑いの文化とは、歴史的にこれを洗練させてきたものだろう。東側も、ビートたけしや爆笑問題はもちろんのこと、あの欽ちゃんですら、デビュー当時は大いに過激な毒を吐いていたのだ。しかし、今のまま出口の見えない格差社会が定着し、国全体の景気の良し悪しにかかわらず、大衆(特に若い世代) の基本的気分が低調な状態が続けば、笑いの世界も窮屈なままでいることだろう。だが人間の生活に笑いはいつでも必要だ。今後、新たなコント番組や笑いの探求者が登場して、今の笑いの閉塞感を打破する時代はやって来るだろうか? 日本も、没落後の大英帝国的喜劇 (「空飛ぶモンティ・パイソン」や「Mr.Bean」)のように、過激でブラックで、突き抜けた自虐的笑いの方向に向かう可能性があるのだろうか? 同じフィクションでも、小説やコミックやアニメではなく、生身の人間が演じる、不特定マスを対象とした無防備なテレビ・コントの時代はもう平成で終わり、こうした笑いは、映画や、小劇場などの閉じられた空間でしか見られなくなる運命にあるのだろうか?
とはいえ多少の希望がないこともない。最近のNHKは、ドラマでも昔では考えられないような意欲的かつ斬新な作品を送り出しているし(「トクサツガガガ」、「ゾンビが来た…」、「スローな武士に…」など、どれも面白かった)、コムアイとスーパー・ササダンゴ・マシンというよく分からないコンビのユルいナビで進行していた「コンとコトン」をはじめ、お笑いやコントの振り返り番組もいくつか制作しているので、ひょっとしたら何か新しい企画を練っているのかもしれない。来年はオリンピック・イヤーで、世相も多少はポジティブになっているので、期待できるのかもしれない……というか、21世紀資本主義下の日本における革新的、挑戦的なテレビ番組は、BBCと同じく、もうスポンサー・フリーのNHKにしか期待できないのではなかろうか(今はネットを見ても、企業でも個人のページでも、宣伝だらけーしかも最近は動画だーで、うるさくて仕方ないので、自局の番組PR以外に宣伝のないNHKを見ていると、ほっとして気分が落ち着く)。「サラリーマンNEO」を生み出したYプロデューサーに続く、新しい感性を持った若い作家や演出家、あるいは堤幸彦やバカリズムのような才人が手がける、映画でもネット上でも見られない、シュールで笑える、大人向け深夜枠のドラマやコントをぜひ見てみたいものだ。
(追)…と書いていたら、連休中にそのバカリズムが、平成をネタにしたショート・コント的ドラマを本当にNHKでやっていた。喋りはともかく(?)、ドラマはやはり面白かった。