ジャズ以外の音楽を聴くとなると、年末に聴く演歌系とは別に、年に何回か集中して聴きたくなる日本人アーティストがいる。私の場合、長谷川きよしと並んで頻度が高いのはやはり井上陽水だ(他には、ほぼ夏限定だが山下達郎、大瀧詠一、サザン)。いつもはレコードを聴くのだが、たまには映像でもということで、先日は「陽水の50年」という、井上陽水のデビュー50周年となる2019年末にNHKが放送したテレビ番組の録画をしばらくぶりに見た。もちろん陽水の歌も久々に堪能したが、松任谷由実、玉置浩二、奥田民生、宇多田ヒカル、リリー・フランキーという陽水と交流のある5人のゲストが、旧友、師匠、弟子、同業者、先輩、ダチ…といった各視点で陽水を語る趣向も面白かった。玉置浩二、奥田民生との懐かしいデュエット、宇多田ヒカルの〈少年時代〉のカバー映像(一部だが)なども楽しめた。
ユーミンが「ヨースイ」と呼び捨てにしたり、奥さんの石川セリと親友だ…とかいう話も初めて聞いた(前に一度見たはずなのだが、演奏部分は記憶にあっても、このコメントは憶えていなかった…)。奥田民生の、陽水のカニ好きの話も面白かったが、興味深かったのは、宇多田ヒカルがソングライターとしての彼女との同質性を語った、特に歌詞に関する分析で、陽水の詩の本質を見事に捉えていたように思う(さすがに天才同士)。相変わらず掴みどころのない、陽水のシニカルでおネェな喋りも久々に楽しんだ。昔から、思い切り力の抜ける「みなさん、お元気ですかー」という日産セフィーロのバブル時代(1988年)のCMといい、時々テレビで見たタモリとのサングラス漫談のようなやり取りといい、最近では『ブラタモリ』の脱力系エンディング・テーマ〈女神〉といい、清水ミチコのモノマネのネタになるほどキャラの立った陽水には、唯一無二の存在感がある。今やユーミンも出ている年末の『紅白』には、「恥ずかしいから」という理由で出場しないところもおかしい。
陽水の独創性をもっとも象徴しているのは、独特の歌声とメロディに加え、世代を超えて日本人の心の琴線に触れる「歌詞」であり、その言葉が喚起する文学的、詩的、哲学的イメージである。時に呪文のようにも、単なる語呂合わせ(?)とも聞こえることもあるが、ありきたりの言語表現が生む月並みな世界とは縁のない歌詞、そこから生まれるイメージの抽象性こそが、陽水の楽曲がいつまでも古びず、時代に縛られないオールタイム性を維持してきた最大の理由だろう。どこにでもありそうでいて実は存在しない世界を、日本的情緒と、時にシュールなイメージにくるんで描くファンタジーが陽水ワールドなのだ。ある意味で、これほど文学的、哲学的な雰囲気が濃厚な歌手、楽曲は、日本のポピュラー音楽界には他に存在しない。しかも、それでいながらほとんどの曲に、ヒットに必須の要素、日本の大衆にアピールする要素がかならずあるところが陽水の音楽の魅力だ。ただし、諧謔、言葉遊びの要素もあるその歌詞に、過剰に深い意味を見出そうとするのは、本人も本意ではない(恥ずかしい?)だろうという気がする。基本的に「はぐらかし」が好きなので、聴き手側が抱くイメージが(歌詞の抽象性ゆえに)多彩、多様であればあるほど、喜ぶ人ではないかと思う。
歴史の長い陽水のベストアルバム、ベスト曲は、人によって様々だろう。シングル盤の名曲もたくさんあるし、数多いヒット曲からセレクトしたベスト曲コンピ盤もある。ダウンロードやストリーミングという曲のバラ聞き時代には、「アルバム=作品」という意識も稀薄になって、今後はアルバム単位で歌手の世界を語ることもさらに減ってゆくだろう。しかしジャズがそうだが、陽水のように単発のヒット曲云々を超えて、時代を代表するような楽曲を数多く残してきた20世紀のポップ・アーティストは、やはり時代を切り取るようなアルバム単位で、いつまでも語る意味も価値もあると思う。古い時代のアルバムから順次聞き返すと分かるが、何より陽水のアルバムは、あたかも一人の作家が発表してきた詩や短編小説を集めた作品集のように、一作ごとにアルバム・コンセプトが背後にきちんと存在することを感じさせる。陽水の楽曲はそれぞれが一編の詩か小説(物語)であり、だから各アルバムには一つのムードを持った詩集あるいは短編小説集の趣がある。
ベストアルバムは初期3作を挙げる人が多いそうだが、やはり70年代のアルバムにある陽水的な斬新さこそがいちばん魅力的だ。デビュー盤『断絶』(1972) は、〈傘がない〉などまさに陽水を代表する歌もあるが、アルバム全体としてまだ60年代フォーク色が強く、さすがに今聴くと曲想もサウンドも多少古臭く感じる部分がある。『陽水IIセンチメンタル』(1972) は、タイトル通り、若さとメランコリー感に満ちた名曲、佳曲が並ぶ文字通りの名盤だが、中でも〈能古島の片思い〉などは、永遠の青春ラヴソングだ。アルバム全体の完成度という点からいえば、次の『氷の世界』(1973) が70年代と言わず、陽水の全作品の中でもダントツだろう。日本初のミリオンヒットとなったこのアルバムには、若き陽水のあふれるような才能が凝縮されている。タイトル曲の他、〈心もよう〉〈白い一日〉〈帰れない二人〉など名曲も満載であり、1970年代初頭の時代の風景と我々の記憶を、もっとも鮮明に甦らせるレコードだ。続く『二色の独楽』(1974) は結婚後のハッピー感とLA録音のせいもあったのか、陽水の作品ではもっとも「明るい」アルバムだ。ただし充実しているが、明る(軽)すぎて、どこか陽水的な深みや謎という「風味」が薄い気がする(この盤は録音もいまいちだ)。70年代で個人的に好きなもう1作は、フォーライフ設立後の初アルバム『招待状のないショー』(1976) だ。〈結詞〉(むすびことば) のような名曲の他、どの曲も編曲も、一皮むけたようなモダンさ、シンプルさ、味わいがある(以上、あくまで個人的感想です)。
陽水のアルバムのもう一つの特徴は、時代を問わず、どれも「録音」のクオリティが高いことだ。1970年代のレコードは、完成されたアナログ技術とそれに習熟した音響技術者が録音していることもあって、ニューミュージックと呼ばれていた当時の他のレコードも総じて録音は良いが、陽水のアルバムはそれらに比べてもサウンドのナチュラルさが際立っている。ヴォーカルも楽器の音もレンジが広く、非常に深みのある音で録られているので、オーディオ的にも再生する楽しみが大きい。上記の主要アルバムは、70年代発売当時に買ったLPと、80年代以降のリマスターCDの両方を持っているが、考えてみれば当時買ったLPなどは、ジャズで言えばオリジナル盤に相当するわけで、サウンドの鮮度が高いのも当然だ(だが、アルバムのCD版も音は非常に良い)。陽水自身が、どれだけ自作アルバムの録音クオリティにこだわりがあるのかは分からないが、「音楽耳」が異常に優れた人のはずなので、コンサートやテレビ番組でのサウンドから想像できるように、質の低いサウンドや録音を許すとは思えない。だから陽水自身が、作品の録音の質には相当深く関わっているのだろうと想像する。すべて好録音の70年代の陽水作品の中でも、私の装置で聴いた限りは『招待状のないショー』が最も音質的に優れた録音のように思う。これはLPでも、CD版で聴いても同じである。やはりオリジナル・アナログ録音そのものの質が高かったのだろう。1970年代の、特にアコースティック・サウンドをナチュラルに捉えたアナログ録音は、技術レベルの点でも、やはり日本の録音史の頂点だったのだろう。そしてほぼ同世代の大瀧詠一や山下達郎などもそうだが、音と響きへの繊細な感性を持ち、妥協せずに録音の質にこだわるアーティストは、当然だがヴォーカルだけでなくアルバム全体の「サウンド」も素晴らしいのである。
80年代以降で私が好きなアルバムの筆頭は『Lion & Pelican (ライオンとペリカン)』(1982)で、次に『ハンサム・ボーイ』(1990)、『アンダー・ザ・サン』(1993) という3枚だ。時代を超える陽水の楽曲だが、当然ながら創作行為はその時代の空気の中で行なっているわけで、これら3枚を<before/ mid/ after "バブル">という視点で聴いてみると、曲想と時代の関係も透けて見えてきて面白い。『ライオン…』は、タイトル曲の他、〈リバーサイド・ホテル〉〈背中まで45分〉、個人的に好きな〈チャイニーズ・フッド〉〈約束は0時〉他の名曲揃いの傑作アルバムで、30歳を過ぎた陽水による洗練された大人の音楽という印象だ。バブル全盛期の『ハンサム・ボーイ』には〈最後のニュース〉〈少年時代〉というメガヒット曲に加えて、個人的に大好きな〈自然に飾られて〉という名曲がある。そして『アンダー・ザ・サン』には、〈5月の別れ〉〈Make-up Shadow〉〈カナディアン・アコーディオン〉という、これも大ヒット曲が収録されている……が、こうしていくつか曲を挙げてみたところで、これらは陽水が書いた数多くの名曲のほんの一部にすぎないことをあらためて感じる。それほど陽水には名曲が多い。
そしてコンサート・ライヴに出かけると、陽水が唄うどの曲も、我々の世代の身体と心の奥底に深く沁みこんでいることがつくづく分かる。'00年代以降になってから、都内で行なわれた陽水のライヴ・コンサートに何度か出かけたが、それは陽水が60歳頃に行なった年齢を感じさせないコンサートの素晴らしさに感激して、つい何度も出かけるようになったからだ。テレビで見るより遥かにエネルギッシュで、しかも毎回アレンジに工夫を凝らしたサウンドをバックに唄いまくる陽水のステージは、その年齢を考えたらまさに驚異的だ。高域は徐々に苦しくなってはきたが、オリジナルのキーは維持しているし(たぶん)、声量はまだ十分で、ピッチは常に安定して決して音を外さず、リズムには融通無碍というべき柔らかさがあり、バックのサウンドも毎回シンプルでいながら新しい。天性の資質があるとはいえ、年齢的に見て、体力はもちろんのこと、事前に相当量のボイス・トレーニングをこなすことなしに、あの2時間近い濃密なパフォーマンスを維持することはできないだろう。そして何より、陽水がステージで唄う数多い曲のほとんどを、聴き手であるファンが鮮明に記憶しているという点にこそ、アーティストとしての井上陽水のすごさがある。
70歳を越えてなお現役で活動を続ける陽水は、時空を超えて、音楽の持つ不思議な力を実感させてくれる稀有なアーティストだ。どんなジャンルの音楽もそうだが、ライヴ・コンサートでは、その場にいるアーティストと聴衆だけが共有できる真に幸福な瞬間が時として生まれる。ジャズにもそういう瞬間はあるが、陽水のようなポピュラー歌手の場合は、聴衆のほとんどが名曲の記憶と共に生きる同時代人であることが聴く喜びを増幅するので、会場のボルテージがまったく違う。ステージ上の陽水も、そうした聴衆側の思いや感動を直接感じ取り、インスパイアされながら唄っているはずだ。昨年来のコロナ禍を最悪の厄災と呼ぶしかないのは、音楽産業や演奏活動への経済面の打撃ばかりでなく、アーティストと音楽ファンをつなぐ、人生におけるこうした至福の瞬間も奪ってしまったからである。