ところで第1シリーズは常盤貴子と団時朗主演の主軸ドラマと併行して、毎回短いオムニバス・ドラマが挿入されていた。8月の再放送では、その中から「私の大黒さん」、「桐たんすの恋文」、「逢瀬の桜」など京都らしいしっとりした作品が放映されていた。これらの中で、個人的に特によくできていると思ったドラマは、夏向きの異色編「眞名井の女」だ。豊かで良質な京都の「水」と、「井戸」にまつわる伝説(能、謡曲になっている)をモチーフにしたファンタジック・ホラーで、貴船神社への7日間の丑の刻参りで浮気夫を呪い殺そうとして果たせず、満願前日に井戸(鉄輪-かなわーの井)の前で死んだ女の幽霊が憑りついた井戸掘り業の青年を、名水・天之眞名井(あめのまない、市比賣神社)の女神が救う、という筋立ても各出演者の演技もとても良かった。この伝説の両井戸は、五条通りをはさんで南北に今も実在している。
1,200年の歴史を持つ古都に、因縁やいわれのある場所が多いのは当然だ。そもそも京都は ”怨霊” の都市なのである。なにしろ平安京そのものが、弟・早良親王の怨霊の祟りを恐れた桓武天皇が長岡京から再遷都した都市であり、よく知られているように、厄災から都を守るべく風水思想を導入して秦氏に設計させたものだ。菅原道真を祀った北野天満宮、崇徳天皇の白峯神社、あちこちにある御霊(ごりょう)神社も、元はと言えば、ほとんどが非業の死を遂げた人物を祀ったものであり、その祟りを鎮めるために、怨霊を御霊と読み替えて創建されたようなものだ。厄災をもたらす祟りという<負>のパワーを封じ込め、手厚い信仰によって祀り上げ、ご利益をもたらす<正>のパワーに転化させてきたわけである(祇園祭など、多くの祭の由緒もそうだ)。そうした歴史から生まれ、支配者から重用されてきたのが陰陽師であり、24節気のような京都独自の年中行事と約束事の起源もそういうことだろう。したがって、1,000年以上にわたって時代ごとに堆積してきた伝説や因縁話が街じゅう散在する京都は、魔界、心霊、パワースポットと呼ばれる不思議な場所には事欠かないし、それぞれの伝承が持つ歴史的背景のリアリティと重さという点で、他所の怪しげな因縁話とはわけが違うのだ。だから、そういう世界が好きな人にとっては、まさしくワンダーランドである。それらを解説した本は、それこそピンからキリまであるが、中では今やこのジャンルの古典とも言うべき『京都魔界案内』(2002 小松和彦 知恵の森文庫)が、写真や詳細な解説もあって、『怖いこわい京都』(2007 入江敦彦 新潮文庫)と並んで、読んで面白くまた信頼感がある本だ。その後もたくさん出ているこの種の本は、だいたいは似たような内容なので、この2冊を読めば、有名どころと有名話のあらすじはほぼわかる。
こうしたスポットを訪ねることも含めて、昼の京都の街歩きには、やはり喫茶店(カフェ)での休憩が欠かせない楽しみだ。安価だが、狭くて、こ忙しくて、落ち着かないコーヒーチェーン店ばかりになった東京ではほとんど絶滅したかに思える 「昔ながらの喫茶店」 も、京都をはじめとする関西圏ではまだまだ生き残っているように思う。関西人はまず人と喋ることが好きだし、多少価格が高くても時間を気にせずに会話を楽しめ、飲み、食す場所として、「喫茶店」 という空間への社会的・文化的ニーズが今も高いのだと思う。'70年代に私が学生時代を過ごした神戸にも、”にしむら” や ”茜屋” といった珈琲名店が当時からあったが、クラシック音楽をカーテン越しのステレオで聞かせる “ランブル” というゆったりとした、こぎれいな音楽喫茶がトア・ロードにあって、そこへよく行った。三宮の ”そごう” で買った ”ドンク” のフランスパンを、昼食がわりに友人とその店に持ち込んで、コーヒーだけ注文してテーブルをパンかすだらけにして、長時間名曲を聴きながら食べていたが、店の経営者だったお姉さんは、常連だった我々には文句も言わず、いつもにこにこと笑って迎えてくれた(あの時代の日本は、街も人も、何だかもっとずっとやさしかったような気がする)。今の京都でも、”イノダ” の本店や三条店、”前田珈琲” など有名な喫茶店には何度も行ったし、京大前の ”進々堂” や、京大構内のレストランにも、山中伸弥教授に会えるかと思って(?)行ってみたが、どこも良い雰囲気だ。『京都カフェ散歩―喫茶都市をめぐる』(2009 川口葉子 祥伝社黄金文庫)で紹介されているように、レトロな雰囲気を持った名店、ユニークな哲学のある喫茶店、斬新な発想のカフェが京都にはまだまだたくさんある。この本は著者による写真に加え、地図もあるので、これからも探して訪ねてみたいと思う。ただし、喫茶店や飲み屋の寿命は一般的には短いので、中にはもう閉店してしまった店もあるかもしれない。京都にも昔('70年代まで)は本格的ジャズ喫茶がたくさんあって、マイルス・デイヴィスやセロニアス・モンクまで顔を出したらしい、名物マダムのいた ”しあんくれーる”(荒神口)のような有名店もあったが、今はほぼ普通のカフェになった “YAMATOYA” など数軒だけになってしまったようだ。神戸元町の “jamjam” のような、伝統的かつ本格的ジャズ喫茶はもうなさそうなのが残念だ。この街は、学生が多いこともあって新しいもの好きなので、”流行りもの” の盛衰には敏感なのである。
夜の京都もゆっくり楽しみたい。京都通いの最初のころは、名店と言われる何軒かの料亭にうれしそうに行ってみたが、すぐに、その世界はもう十分だという気がした(何せ高いし)。もっとリーズナブルな値段で、うまい料理や酒を味わいたいと思うのが人情だろう。今は情報としてのグルメ本は山ほどあるが、『ひとり飲む、京都』(2011 太田和彦 新潮文庫)は、そうした世界を文章でじっくり語っているので、読んで楽しい本だ。それも年に2回、各1週間だけ、京都に一人で住み、暮らすように毎晩気に入った店を何軒かはしごして酒を飲む、というコンセプトである。実は私も数年前に、真面目に移住を検討していて、下調べもかねて1ヶ月ほど京都に滞在する計画を立てたことがある(この本を読む前だ)。京都で暮らすようにして、観光客の少ない真冬の京都をじっくり歩いて楽しもうという魂胆だった。ウィークリーマンションとかも検討したが、根が面倒くさがりなので、結局は駅近くの手ごろなビジネスホテルに、一人でとりあえず2週間滞在することにした。だが真冬の京都の寒さは想像以上で、あっという間に風邪をひいて高熱を出してしまい、情けないことに1週間ももたずにあえなく撤退した。そのとき思ったのは、昼はともかく夜の食事の大変さ(と寂しさ)だ。ろくに下調べもしなかったこと、また真冬ということもあって、わざわざ外に出かけて一人で飲んだり食べたりする気にならないのだ。一人暮らしをしていたり、一人飲みに慣れていたり、あるいはそれが好きな人はいいが、自分には不向きだということがよくわかった。考えてみたら、相手もなく外で一人酒を飲む、という習慣がそもそもない。というわけで移住計画も頓挫し、その代わりJRの宣伝通り、「そうだ…」と、思ったときに行くことにした(やっぱり、それが正解だった)。
太田和彦の盟友・角野卓造(近藤春奈ではない)も、『予約一名、角野卓造でございます。【京都編】』(2017 京阪神エルマガジン社)という本を出していて、そこでも同様の店を紹介している。この人も相当な京都好きらしく、しかも夜だけでなく、洋食、中華も含めた朝、昼食も楽しむグルメでもある。二人の対談も収録されていて、これも楽しい。ただ、この人たちは名前も顔も知られている有名人であることに加え、いわば一人飲みの達人でもあり、それに京都でこうした楽しみ方をするには、事前に相当の下ごしらえ(時間をかけ、金をかけ、人間関係を作る)をしておかなければ無理である。したがってこの種の本の一般人(たぶん男だけだろうが)の楽しみ方は、「読んで、ただ妄想する」ことである。写真も使わずに文字だけで、目に浮かぶように(すぐにでも行きたくなるように)酒や料理のうまさ、店のムードを描写する太田和彦の文才はさすがだ。角野卓造の大きめの本には地図に加えカラー写真が載っているので、こうした世界の雰囲気を実際に垣間見ることができる。また人物としての味わいもある人のようなので、こちらもやはり楽しそうだし、かつ食事はどれもうまそうだ。
太田和彦の盟友・角野卓造(近藤春奈ではない)も、『予約一名、角野卓造でございます。【京都編】』(2017 京阪神エルマガジン社)という本を出していて、そこでも同様の店を紹介している。この人も相当な京都好きらしく、しかも夜だけでなく、洋食、中華も含めた朝、昼食も楽しむグルメでもある。二人の対談も収録されていて、これも楽しい。ただ、この人たちは名前も顔も知られている有名人であることに加え、いわば一人飲みの達人でもあり、それに京都でこうした楽しみ方をするには、事前に相当の下ごしらえ(時間をかけ、金をかけ、人間関係を作る)をしておかなければ無理である。したがってこの種の本の一般人(たぶん男だけだろうが)の楽しみ方は、「読んで、ただ妄想する」ことである。写真も使わずに文字だけで、目に浮かぶように(すぐにでも行きたくなるように)酒や料理のうまさ、店のムードを描写する太田和彦の文才はさすがだ。角野卓造の大きめの本には地図に加えカラー写真が載っているので、こうした世界の雰囲気を実際に垣間見ることができる。また人物としての味わいもある人のようなので、こちらもやはり楽しそうだし、かつ食事はどれもうまそうだ。
ここに挙げてきたような京都本をより楽しむためにも、都市としての京都の歴史を解説した信頼できる本を読んで、正確な基礎知識を身に付けておいた方がいいと思って何冊か読んでみた。『京都〈千年の都〉の歴史』(2014 高橋昌明 岩波新書) はその中の1冊だ。この本は京都研究の学術書ではないが、遜色のない厳選情報を格調のある文体で綴った都市の歴史書であり、新書という限られたヴォリュームの中でコンパクトに京都の歴史をまとめている。ただし平安京から幕末まで約1,000年にわたる都市設計、支配者、社会制度、文化、宗教、民衆などの歴史的変遷を網羅しているので、どうしても浅く広く、かつ急ぎ足になるのと、次々に登場する固有名詞の数が多いので、歴史の苦手な人には読むのが大変かもしれない。私は元々歴史好きなので、高校時代以来忘れていた日本史を復習するいい機会になった(ただし読むそばからまた忘れているが)。特に平安京以来の洛中都市域が、支配者(藤原氏、平家、源氏、足利氏、秀吉など)によって本拠地、町割り、町名などが変遷する様が面白かった。また現在我々が目にしている京都の街並みや寺社の姿が、ほとんど豊臣秀吉、江戸幕府以降の改造、投資、整備、保護によって形成されたものであることもあらためて理解した。それ以外にも、たとえば京野菜の名高さと、その味の秘密が、大都市としての京都の糞尿処理の歴史と深く関わりがあること、パリやロンドン市中の道路が、18世紀ですらまだ糞尿にまみれていたのに対し、京都ではその何百年も前から肥料を通した循環処理プロセスがほぼ機能していたことなど、日本社会や文化の源泉を見るような目からうろこのトリビアもある。著者も硬い話におり混ぜて、時々息抜きのような個人的コメントを入れたりして、読みやすく工夫しているところも良い。大都市として1,000年以上の歴史を持ち、かつ首都として幕末まで天皇が居住し、20世紀には、米軍の原爆投下の第一候補地だったにもかかわらず、それを免れた強運を持つ京都は、やはり奇跡の都市と言うしかない。