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2022/05/31

さらば「オンキョー」

連休明けの5月13日に、『元JASDAQ上場の音響機器名門、オンキョーホームエンターテイメント(大阪)が破産』というニュース記事をYahooで読んだ。「オンキョー」の不振は以前から聞いていたが、ついに……というべきか。1990年代にオーディオ不況と言われるようになってから四半世紀が過ぎ、オンキョーも21世紀に入って以降、PCやデジタル機器、配信事業など、いろいろ手を打って来たようだが、いかんせん日本の産業構造の問題、世界的競争力の低下、消費者の嗜好変化などに加え、デジタル化による「音楽産業」そのものの急激な変質の結果、一企業の努力ではどうにもならない事業環境上の負荷が重くのしかかってきたのだろう。オーディオ好きという立場だけでなく、個人的にいろんなことを考えさせるニュースだった。

1970年代から80年代にかけての日本のオーディオ全盛期には、サンスイ、パイオニア、トリオ(ケンウッド)という御三家、当時からのハイエンドで今も存続しているアキュフェーズ、ラックスマンに加え、ソニー(Sony)、松下/パナソニック(Technics)、東芝(Aurex)、日立(Lo-D)、三洋(Otto)、三菱(Diatone)、NECという総合電機メーカーも各社独自の「オーディオブランド」を持ち、アンプやスピーカー、レコードプレーヤーを販売するなど、まさに百花繚乱の様相を呈していた。大手企業のブランドは、ソニーとパナソニックの一部機器を除いて消滅し、音楽系のブランドだったTEACはEsoteric、パイオニアはスピーカーのTADと、プロ用や高級機器ブランドを立ち上げて生き残った。「オンキョー」は、ヤマハ、デンオン(現デノン)、ビクター(現JVCケンウッド) という音楽系企業と並んで、派手さはないが、専門技術をベースにした信頼性の高い製品を送り出すオーディオ専業メーカーというイメージがあって、スピーカーやアンプで、いくつも名器を生んできた会社だ。

   ONKYO M6
     1976年頃
個人的にいちばん記憶に残っているオンキョー製品は、1970年代後半に販売された「ONKYO M6」というスピーカーだ。35cm2wayバスレフ型の、当時としても大型のスピーカーで、黒いバッフルとグレーの塗装という、JBLライクな男っぽいデザインが特徴だった。もちろんハイエンドとは違うコンシューマー機器だが、日本オーディオ史に残るほどインパクトのある製品だったし、私にとっても初めて買った大型スピーカーだった。長岡鉄男氏の推薦通り、強力な磁気回路を積んだ大口径・高能率ウーファーのおかげで、日本のスピーカーにありがちな、精緻だが、こじんまりしたところがなく、とにかく豪快かつ伸びやかに、ストレスなく鳴りまくり(出力音圧レベル95dB!)、カートリッジSHURE M44Gを付けたレコードプレーヤーで、ジャズのLPを大音量で聴くと最高だった(今なら近所から苦情必至の音量で聴いていた。あの頃はなぜあんな音量が出せたのか、今考えると不思議だ。近所にはさらに、私とは比較にならないほどの爆音を出している人もいたし……)。

ウーファーから軽々と出て来るウッドベースの低音、チタン振動板とコーンの複合4cmドーム・ツイーターの明るくキラキラした高音がシンバルの音を際立たせて、これぞジャズサウンドと感激していたことを思い出す。好みに応じて3段階にモード切替ができるレベルコントローラーが下部に付いていて、しかも上部に配置されたツイーター部とバスレフポート部が取り外し可能で、簡単に左右入れ替えできるところも「マニアごころ」(まだ初心者だったが)をくすぐった。確か5万円/台くらいだったと思うが(当時のサラリーマン平均給与の約30%)、私はまさにこのスピーカーで「オーディオ」に目覚めたと言っても過言ではく、実に気持ちよくジャズが鳴り、本当に楽しめるスピーカーだった(近所は迷惑だったろうが)。

  ONKYO Integra M506
    パワーアンプ 1979年
当時は日本中で、音楽の楽しさに目覚めた大量の団塊世代がオーディオ機器の購入者となり、サラリーマンになった彼らの給料も右肩上がりで安定していたので、汎用的なオーディオ機器も作ればいくらでも売れ、各メーカーもM6のように特長のある製品作りができた夢のような時代だった。オンキョーもスピーカーに加えて、コンシューマー向け高級セパレートアンプIntegraシリーズなども投入していた。高度成長期を象徴する「いつかはクラウンに……」というトヨタの宣伝文句と同じくステータス的な意味もあったオーディオは、マニア層だけではなく普通の音楽好きも、出世と給料に応じて徐々に高級機器に目を向け、買い替えていた時代だ。SDGsの昨今では考えられない消費行動だが、ただし、憧れの「超」がつく高級製品は、クルマ同様に海外オーディオ製品が中心だった。何事も、これが日本の消費者と市場の特徴であり限界だったとも言える。

  アメリカの巨大スーパー
しかし、その後も経済成長を続けた日本がバブルに浮かれ、CD登場から10年ほど経った今から30年前のアメリカの田舎の「スーパーマーケット」で、日用品売り場の横で音楽CDが雑然と山積みになって、1枚数ドル(10ドル以下)で売られている様子にびっくりした記憶がある(円/ドル=約150時代)。当時日本ではまだCD1枚が2,000円から3,000円という時代で、アナログに対するCDの高音質信仰も生きていたし、都会でも田舎でも「レコード店」で正価でしか売られていなかった(元々アメリカでは、日本ほど「レコード」をあがめる文化はなく、単価も安い。日本市場が高すぎたのだ)。だが今にして思えば、当時のアメリカのこの光景が「音楽産業の未来」を暗示していたのだろう。ネット空間で、台所用品とか日用品といったモノのすぐ隣のページで、CDや、DVDというソフトを安価に売っているAmazonの手法こそ、30年前に私が目撃したスーパーマーケットに象徴される伝統的なアメリカの小売りマーケティングそのものである。ある意味クソみそ一緒に、何もかも大量に陳列して、あとは消費者に自由に選ばせる、というこのアメリカ式のスーパーマーケットは、今や日本でも普通になった。

90年代に本気でデジタル化へ舵を切ったアメリカでは、2001年にハードディスク(HDD)を積んだ小さく軽いAppleの「iPod」が、音楽再生・管理ソフト「iTunes」と共に登場し、メディアとしての音楽テープやディスクを駆逐し始めた。同時に、CDデータをPC/HDDへリッピングして再生するPCオーディオも広まり、続いてMP3など音楽データの圧縮技術が徐々に開発、改良されて、インターネットを通じて購入した音楽データを直接PCへダウンロードできる時代になり、もう音楽メディアとしてのCDを買う必要もなくなった。さらに2007年に登場した「iPhone」は、電話に加えてメール、オーディオ、カメラというマルチ機能を搭載して進化を続け、音楽ソースのディスク・メディアからデータへの移行を加速し、結果的に「音楽情報」の価値の下落を決定的なものにした。そして今や老若男女を問わず「スマホ」で、いくら聴いても見ても「ただ」のYouTubeや、サブスクリプションというインターネット上の有料デジタルサービスを通じて、ストリーミングという名の「グローバル垂れ流し音楽」から簡単に見つかる「好みの曲」だけを、好きなだけ適当に「つまみ食い」しながら、そこそこ音も良くて、安価で軽いワイアレス機器で聴くともなしに聴く……という具合に、この30年間に出現したデジタル社会は、世界中の人間のライフスタイルそのものを完全に変えてしまった。

「音楽」は、もはや特別なものではなく、レコード店を探しまくってやっと手に入れた「貴重なディスク」に格納された芸術作品とも呼べる「愛着のある音楽」や、1枚ごとに深いコンセプトが込められた「アルバム」を、家に鎮座した高音質オーディオシステムで再生して、じっくりと「鑑賞する」ものではなく、いつでもどこでも「好きな曲だけ」選んで気軽に聞ける、日常の娯楽として「消費する」対象になった。ビデオ映像の「倍速視聴」が急増しているように、「映像」分野でもこれは同じで、安価なDVDや、録りためたTV録画、ネット配信で溢れかえる手元の映像情報を消費するのに忙しくて、早送りして、ひたすらストーリーを追うだけで、作品や物語の意味、微妙な細部の表現をいちいち吟味したり鑑賞したりする余裕(興味)がない。異常に音の大きい爆音映画の流行等は、その裏返しだろう。デジタル化によるアニメやゲームの進化も、20世紀に音楽市場を牽引していた若者の娯楽の選択肢を多様化させ、音楽離れに拍車をかけた。

デジタル化による利便性は、「文化」の大衆化と劣化を同時にもたらした。それを加速しているのは、もちろんアメリカ的商業主義だが、加えてあっという間に世界中に普及した、「SNS」という誰でもネット上で「自由にものを言える」コミュニケーション・ツールと、それを提供する新しいビジネスだ。「文芸」という文字芸術の世界でも、ネットやこのSNSの影響で「書くこと」「発信すること」が大衆化し(このブログもそうだが)、音楽や映像世界と似たようなことが起きつつある。爆発的に「増殖」する膨大な文字情報を前にして、時間がない現代人は内容を深く考えるヒマもなく、またそのエネルギーも興味も失せて、とにかく早急にそれらを「消費」しようとして、結果として、さっさと読める「短くて軽い」読み物ばかりがもてはやされている(売れている)。芸術作品の評価は「いいね!」の一言で済まし、メールなどは絵文字1文字だ。要は、高速、高効率のデジタル化によって、あらゆる情報の「断片化」が急激に進行し、20世紀には有機的に統合されているかのように見えていた世界と、それを支えていた、共通の価値観に基づく仮想ヒエラルキーが瓦解しつつあるということなのだろう。だから昔ながらのオーディオという、「再生音楽」に特化し、「微妙な音の違い」を「抽象的に評価」したり、その過程を時間をかけて楽しむ、のんびりとした特殊な世界の意義や価値も薄まり、今後ますます限られた人たちだけの、真にディープな趣味の世界へと向かって行くのだろう(これはこれで面白いのだが)。

こうして、いわば世界的に「文化の総体」が、雑でレベルの低い次元へと均質化してゆき(下方収斂)、世界中の人間の行動や価値観、ニーズも際限なく均質化(単純化、似たり寄ったり)してゆく、何もかも「コスパ」(cost-performance) 優先の消費市場では、日本的モノ作りが得意としてきた、価格(コスト)は高いが、「一つで何でもできます」「細部の洗練度が違います」「分かる人には分かります」的、すなわち「ガラパゴス的」進化を遂げて獲得した微妙な品質上の有意差だけでは、もはや勝負にならない。国内市場でそれを享受し、自慢とさえ思ってきた日本人も、この30年でどんどん貧乏になって(団塊は年金生活者へ、中堅層は給料が上がらず、若者は仕事そのものがない)、その優位性を付加価値として甘受する経済的余裕がなくなった。

際限なく続く日本企業の世界市場における存在感の低下、身の回りから「Made in Japan」がどんどん消えて行く薄ら寒さ、その流れを食い止めたり、対抗すべき未来の国家や産業ヴィジョンが見当たらない不安、等々――GAFAのような巨大ビジネスや低コスト品しか生き残れない時代になった今、「オンキョーの破産」は、往年のオーディオファンにとっては寂しいニュースだが、残念ながら、過去30年間の日本のデジタル敗戦のツケが、ますます顕在化しつつあることを示しているだけであり、「ゲームチェンジした世界」の敗者を象徴する一例にすぎないとも言える。