Thelonious Monk Robin DG Kelley |
アメリカ人の伝記好きの理由はいろいろと想像できるが、一つには、国としての歴史が短いので、余計に自分たちの「歴史」を大事にして、「国家としてのアイデンティティ」を共有したいという社会的なニーズが強いことだと思う。もう一つは移民による国家なので、自身の「ルーツ」を知りたいという強い潜在的願望を多くのアメリカ人が個人として持っているからだろう。そして3番目が、その個人が新世界で闘って生き抜くという、建国以来の「個人主義」とそこから派生した「ヒーロー像」という伝統だろう。創造性と革新性が米国型ヒーローの特徴であり、デジタル時代以降の創造的ビジネス変革者なら、ビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブズ、今なら最近評伝が出たイーロン・マスク(南ア出身)などが、そういうヒーローだ。
ジャズミュージシャン個人の伝記もたくさん書かれていて、調べてみると大物ミュージシャンにはほとんど自伝とか評伝がある。しかし「読み物」として、外国のジャズファンが読んでも興味を持てるような普遍性のある本はそれほど多くはないだろうと思う。パーカー、ホリデイ、マイルスやコルトレーンのような大物、あるいはモンクのような謎多き人物(インタビュー記録がほとんどない)を除けば、よほどの個人的ファンでもないかぎり、有名ジャズマンといえども、単に事実を並べただけのような伝記類はそう面白いものではない、というのが個人的な感想だ。ジャズ・アーティストの誰もが、魅力的で立派な人物なわけでもないし(むしろその逆の人が多い?)、また伝記に書いて面白いような人生を送ったわけでもないだろう。もう一つは、やはり音楽家やその人生に対する「著者」独自の視点と洞察が、文章の底に常に流れていなければ、異文化圏の人間が読んで感動したり、興味を抱くことはないだろう。伝記には物語性もないと面白くない。したがって著者の「筆力」も当然ながら重要だ。
The Baroness Hannah Rothchild |
英国ロスチャイルド家出身のニカ男爵夫人(パノニカ)は、当時のジャズ界全体の大パトロンで、パーカーとモンクの最後を自宅で看取ったという伝説的人物だ。『パノニカ(原題:The Baroness)』はノンフィクション伝記なのだが、破天荒な人生を歩んだ謎の大叔母(祖父の妹)の誰も知らなかった人生の足跡を、ハナ・ロスチャイルド氏が親族ならではの視点と情報で辿りつつ、著者の一人語りで、ある種「20世紀小説的な」筆致で描いているので、翻訳中は小説を訳しているような気がしていた。実話とは思えないような圧倒的スケールの人生もあって、読後感も伝記というより、小説を読んだような気がする作品である(著者は女性映像作家であり、小説家でもある)。特に、ニカがNYに移る前の前半生部分は、ヨーロッパにおけるロスチャイルド家の謎の歴史や実態を描いた貴重な情報も含まれている。この2冊ともに、謎多き個人の伝記であると同時に、20世紀という時代の深層、アメリカという国家、20世紀半ばのジャズ界とそこで生きるミュージシャンたちの暮らしや、相互の人間的、音楽的なつながりが生き生きと浮かんで来るところが、私的には読んでいて非常に面白く、日本語に翻訳してみたいと思った理由だ。
Miles: The Autobiography Quincy Troupe |
自分で訳した上記2冊を除けば、私がこれまで日本語で読んで「面白い」と思ったジャズマン伝記は、『マイルス・デイヴィス自叙伝』(クインシー・トループ 1989/中山康樹・訳 1991)だけだ。なんといっても、ジャズの本流中の本流であるマイルスの「一人語り」という形式がいい。そして上記モンク本もそうだが、こうしたジャズ史上に残る大物ミュージシャンの伝記は、本人だけでなく、ジャズの時代的、音楽的背景、周辺の人物との様々な関係なども同時に描かれているので、それがまさに「ジャズ史そのもの」になっているのである。それも事実だけでなく、裏面史や、人生や、微妙な人間関係が具体的に見えてくる。だから、マイルスの人生と音楽に加えて、登場人物も含めてジャズ史的な読み方をしても面白くないはずがないのだ。
ただし、この本は「ノンフィクション」としては原書、訳書ともに少し問題(?)があったようだ。原書はクインシー・トループのマイルスへの「インタビュー」に基づく聞き書き(共著)だが、「自叙伝」と呼ぶには情報引用の出所、編集の問題(内容のどこまでが著者とのインタビューに基づくものか?)があり、訳書は翻訳者による無断改編が多いという。昔はこのへんは寛容で、かなり手を加えた訳書も多かったようだが、今はいずれも出版にあたって普通は厳しくチェックされる。原著の「引用」部分は出典を明示することが求められるし、訳書の「改編」は原著者、版元の承諾が前提である。私は自分の訳書はすべて基本的に原書通りに完訳(パラグラフの変更や、テキスト抜粋なし)しているが、『セロニアス・モンク』の場合、長すぎてどこも出版してくれないので、やむなく一部をカットして短縮したし、他の訳書も含めて、一部の章タイトル名など日本人には分かりにくい部分を変更しているが、いずれも「事前に著者の了承」を得たうえで行なっている。しかし、そうした点を別とすれば、中山康樹・訳のマイルス自叙伝は、ジャズファンが読んで楽しめる日本語ジャズ伝記の筆頭だろう。
ところで、今年出版した私の訳書『カンバセーション・イン・ジャズ』の中で、ラルフ・J・グリーソンが行なった12人のミュージシャンへのインタビューのうち、他は「です、ます」調なのに、ディジー・ガレスピーの章だけ口語体に近い表現になっているが、「原文」はどうなっているんだ?と疑問を呈している、さるブログ記事を読んだ。まあ、そう思うのも無理はないし、日本語への翻訳で常に問題になる点だろう。異言語(文化)間には、単語の意味を含めて完全な「等価」表現はない。そこを微妙に「調節」して、違和感なく他言語に置き換える技術が翻訳である。ガレスピーの場合は、二人の「関係性」を日本語の「書き言葉」で表すために、あえてガレスピーだけそういう訳文にしたのである。原書の英語は、録音したインタビューの口語表現を著者(トビー・グリーソン)が文字起こしする際に、ほとんどすべて普通の文体に編集して書いている。だからガレスピーの章も、多少くだけた表現が多いが、基本的には他と同じ会話文体だ(口語表現をそのまま文章にすることは普通はない)。この二人は同年齢であり(1917年生まれ、モンクとも同じ生年)、家族ぐるみの付き合いをしていて、グリーソン家が1964年のガレスピーの米大統領選出馬の応援までしていた仲なので、グリーソンの「自宅」で行なったプライベートな対話時に、堅苦しい表現で「話すはずがない」からだ。
一方、他のインタビュイーはTV出演時のデューク・エリントン(1998年生まれ)を除き、これもグリーソンの自宅での対談だが、全員グリーソンより「年下」で、なおかつジャーナリスト、ジャズ評論家として当時のグリーソンは当然それなりの人物として尊敬されていた。だから、いくらフランクなアメリカといえども、一流ミュージシャンたちが「タメ口で話す」はずもなく、当然それなりの態度と言葉遣いをしていただろう。つまり、そこも「想像」である。英語には日本語のようなあからさまな敬語表現が少ないが(あるにはある)、会話の場合、話し手の「トーン(話しぶり、短縮表現など)」がかなりそこを表現している。だから「書き言葉」としての日本語訳の文章は、性別、年齢や、上下関係など、「日本文化的に見て」違和感のない表現にするのが望ましいと思う。そこは、不自然にならない限り訳者の裁量範囲なのだ。私は原テキストに忠実に、逐語的に翻訳することを心掛けているが、マイルス自叙伝も含めて「作家的な」翻訳者だと、このへんはかなり表現に幅が出てくるだろう。個々の人格や個性に関しても、原書テキストのトーンを大きく逸脱することなく、訳文の表現で、ある程度は違いが出せると思う。この本の場合、12人のミュージシャンは、ジャズ界での実績や演奏の個性、原文のリズムや使用する言葉(短縮など)を勘案して、それぞれの「人物の雰囲気」が感じられる訳文になるように心がけた。たとえばジョン・コルトレーン、ジョン・ルイス、ビル・エヴァンスのような生真面目な雰囲気のある人たちと、クインシー・ジョーンズやフィリー・ジョー・ジョーンズのようなやんちゃな感じのタイプとでは印象が違うと思う。今はヴィジュアルやオーディオの記録も簡単に視聴でき、リズムを含めた話し方、話しぶりの情報も、実際に目や耳で確認できるので、それも参考にしてできるだけ訳文に反映させるようにしている。特にリズムには話し手の個性が出る。この本で面白かったのは、12人の発言を訳してみて、レコードなどで聞ける彼らの「音楽」と、インタビューでの「語り口」に、明らかに「相関がある」のを感じたことで、そこにジャズという音楽の本質がよく表れていると思う。
もう一点、英日翻訳者にとっては当たり前のことだが、英語では、大統領もホームレスも、男も女も、大人も子供も、1人称の主語「私」は「I」しかない。「私、アタシ、俺、オレ、僕、ボク、ワシ、自分、おいら、おいどん、拙者……」などと多様な表現で、その人の性別、立場、地位とか性格まで表す日本語のような豊富な語彙は英語の主語にはない(複数のweも、2人称youも、3人称he/sheも同様)。上述した中山康樹氏訳の『マイルス・デイヴィス自叙伝』では、独白するマイルスはずっと「オレ」で通している。第三者も「奴」が多い。もちろん原書はすべて「I, (my, me)」であり、「he (his, him)」である。共著者クインシー・トループとの対話とはいえ、品のない「マザファッカー」という語を連発するジャズマン・マイルスが、「私は」とか「僕は」とか言ったらやはり妙なので、ここは「俺」でもなく、視覚的にも「オレ」がいちばんぴったりだ、と訳者が判断したのだろう。これを「私」で始めたら、全体のトーンがまったく違う物語になったことだろう。そのいかにも「らしい」マイルスの語り口のおかげもあって、この本は面白い「日本語」の読み物になったのである。ただそのイメージがあまりにハマりすぎて、それ以降(私もそうだが)マイルスはいつも「オレ」と言わないとサマにならないのが困ったところでもある。当然だが、マイルスが「私は」と真面目な顔(?)で言っていたときも彼の人生にはあったはずだ(実際の人間マイルス・デイヴィスは知的で、シャイで、繊細な人だったと言われている)。今の生成AI翻訳は、このへんも、「主語」を選択することで、訳文はどうにでも書き分けられるようだ。ただし周知のように、日本語は「私は」とか、「それが」とかの「主語」なしでも文章が成立するところが、英語と異なる。(続く)