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2017/08/30

訳書『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』出版

ロビン・ケリー (Robin D.G.Kelley) 著 "Thelonious Monk: The Life and Times of an American Original" (2009Free Press) の翻訳に取り組んで来ましたが、セロニアス・モンク生誕100年目の誕生日にあたる10月10日を前にして、9月27日に(株)シンコーミュージック・エンタテイメントから『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』(小田中裕次 訳)という邦訳書として発売されることになりました。本書は謎と伝説に包まれた独創のジャズ音楽家、セロニアス・モンクの生涯とその実像を描いた初のノンフィクションの物語です。

マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンのように誰もが知っているジャズの巨人については、邦訳書を含めてこれまでも数多くの本が日本国内でも出版されています。しかし知名度や商業的観点からはマイナーな存在であっても、創造的な素晴らしいミュージシャンはジャズの世界にはまだたくさんいます。アルトサックスの巨匠リー・コニッツ (1927-) の自伝的インタビューから成る私の前訳書「リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡」(DU BOOKS 2015年)もそうですが、日本ではあまり知られていないジャズの世界、あるいはジャズ・ミュージシャンの人生や音楽を取り上げた海外の優れた書籍を日本語で紹介し、日本のジャズファンに読んで楽しんでもらうことには21世紀の今でも意味があると思っています。「即興演奏」が命のジャズには、「出て来た音がすべてだ」という考え方もありますが、一方で「自由な個人」の音楽でもあるジャズは、ミュージシャン個人の音楽思想や人生を知ることで、その人固有の音楽世界をより深く理解しめることもまた事実です。今年90歳を迎えるリー・コニッツは、来る9月初めの「東京ジャズ」(NHKホール)にも出演が決定しているそうです。2013年の出演に続くものですが、おそらく最後になるかもしれない今回の来日実現にも、この本による日本でのコニッツ再評価がいくばくか寄与しているかもしれないと思っています。

ジャズ・ピアニストにして作曲家でもあるセロニアス・モンク(1917-82)は、コニッツに比べると世界的知名度も高く、また日本でも従来からジャズの巨人として認知されています。モンクとその独創的音楽の魅力を描いた伝記やエッセイは、海外ではモンクの没後くつか書かれていますが、一方音楽家、人間としてのモンクは誰よりも多くの神話と伝説に満ちた人物でもあり、信頼性の高い情報が限られていたこともあって、これまでその真の姿はアメリカ国内でも正確に理解されているとは言えませんでした。ロビン・ケリーの原書は、その人間モンクの実像と魅力に迫ることに初めて挑戦した伝記で、モンクの生涯を追った著者の14年間に及ぶ研究過程で発掘した多くの新情報や事実を駆使して、知られざるモンクの姿を浮き彫りにしたことによって、2009年の初版以降米国では高い評価を得て来た書籍です。この興味深い本を日本のジャズファンにもぜひ読んでもらいたいと思い、著者の許諾を得て、約1年かけて600ページの原書を翻訳し、昨年夏にはほぼ完訳していました。しかし、この出版不況下では、長大な書ゆえ大部となった日本語完訳版の出版に挑戦してくれる出版社がなかなか見つからず、やむなく昨秋著者に状況を説明し、一部を割愛した短縮版とすることを承諾していただきました。しかし、それでもその長さゆえに難しいとする出版社が多く、邦訳書の出版は半ばあきらめかけていました。幸いなことに、最終的にシンコーミュージック様がその短縮版を取り上げてくれることになり、ようやく出版の運びとなったものです。この間、出版の世界のことも多少学びましたが、リー・コニッツの本も、今回のモンクの本も、こうした分野や視点に関心を持ち、出版の意義を理解していただける編集者がいなかったら、いずれも邦訳書として世に出ていません。音楽書にとっては厳しいビジネス環境ですが、訳者として、そういう方々がまだ出版界におられることに感謝しています。

原書の概要は本ブログ2月度のモンク関連記事(モンク考)他に書いてありますので、興味のある方はそちらをご覧ください(邦訳版巻末の「解説」は、このブログ記事を基にしています)。著者ロビン・ケリー氏(UCLA教授)は米国史を専門とするアフリカ系アメリカ人の歴史学者ですが、学者とはいえ、自ら楽器も演奏し、またジャズを含めたブラック・ミュージックへの造詣も深く、これまでも様々なメディアに寄稿するなど、深い音楽上の知識を持った人物です。したがって著者は、ジャズ音楽家モンクの個人史に、自身の専門分野でもあり、かつジャズと不可分の米国黒人史を織り込むという基本構想の下にこの本を執筆しています。原書では、かなりの部分をそうした歴史的事例の記述にさいているために、ジャーナリストや作家が書いたジャズ・ミュージシャンの一般的伝記類とは趣が少し異なりますが、あくまで事実を重視した学者らしい豊富な史料と正確な記述で、モンクの実像を描くことに挑戦しています。邦訳版は、読者が日本人であることと、上記出版上の制約もあり、著者のご理解と了承をいただいた上で、原書の意図を損なわない範囲で、主として黒人史に関わる詳細な記述の一部を割愛し、ジャズと、モンクの人生、音楽を中心にした音楽書という性格がより強い本となっています。しかし、それでも全29章、704ページに及ぶ長編ノンフィクションとなりました。

本書はまたモンク個人の人生と音楽だけでなく、1940年代初めのニューヨークのジャズクラブ「ミントンズ・プレイハウス」に始まるモダン・ジャズの歴史を俯瞰する視点でも書かれており、特にモンクがその歴史上果たした役割と音楽的貢献にも光を当てています。これはチャーリー・パーカーを中心とした従来のモダン・ジャズ創生史では見過ごされて来た側面であり、音楽家として苦闘し続けたモンクの真の独創性をおそらく初めて具体的に描いたものです。また、その過程で生まれたモンクと多くのジャズ・ミュージシャンたち(エリントン、ホーキンズ、ガレスピー、パウエル、ロリンズ、ブレイキー、マイルス、コルトレーン他)との様々な人間的、音楽的交流も描いており、これらの中には従来日本ではあまり知られていない興味深い事実や情報も数多く含まれています。そして何よりも、モンクの魅力と同時に、本書は一人の天才音楽家を支えていた家族、親族をはじめとする周囲の人たちも描いた温かい人間の物語でもあり、歴史的、客観的視点を貫きながらも、本書の行間からは、人間セロニアス・モンクに対する著者の深い尊敬と愛情が滲み出ています。長い読み物ですが、モンクファンのみならず、ジャズに興味のある人たち誰もが楽しめる物語ですので、ぜひ読んでいただけると嬉しく思います。

  • 以下は邦訳書「セロニアス・モンク 独創のジャズ物語」全29章の目次です。
ノースカロライナ州における19世紀奴隷制時代のモンクの曽祖父の話から始まり、誕生から死に至るまで、モンクの生きた年月に沿ってその波乱に満ちた生涯を辿った物語です。

ノースカロライナ / ニューヨーク / サンファンヒル / 伝道師との旅 / ルビー・マイ・ディア / ミントンズ・プレイハウス / ハーレムから52丁目へ / ラウンド・ミッドナイトビバップ / ブルーノート / キャバレーカード / 何もない年月 / 自由フランス / プレスティッジ / リバーサイド / コロンビーとニカ / クレパスキュール・ウィズ・ネリー / ファイブ・スポット / 真夏の夜のジャズ / タウンホール / アヴァンギャルド / 再びヨーロッパへ / スターへの道 / コロムビア / タイム誌と名声 / パウエルと友情 / アンダーグラウンド / ジャイアンツ・オブ・ジャズ / ウィーホーケン

2017/08/25

ジャズ漫画を読む (2)ブルージャイアント考

注目されているジャズ漫画のもう1作は「ブルージャイアント」(石塚真一/2013-16)だ。単行本は10巻で第1話が完結したが、こちらはまだ続編「ブルージャイアント SUPREME」が「ビッグコミック」に継続連載中である。この作品もジャズを描いているが、女性作者による「坂道のアポロン」が持つどこか抒情的で、文学的な雰囲気とは正反対の熱い男の熱血物語で、「静」に対して「動」のイメージだ。また時代設定のおかげで「アポロン」がいわばファンタジーの世界でジャズを描いているのに対して、「ジャイアント」は現代を背景に、ジャズ・プレイヤーを主人公に据えて真正面からジャズを取り上げているのも対照的だ。常にポジティブだが、ジャズのジャの字も知らない田舎(仙台だが)の高校生・宮本大が、ゼロからスタートしてテナーサックスを学び、世界一のジャズサックス奏者を目指してひたすら猛練習しながら様々な仲間や人間と出会い、徐々に成長してゆくという、いわゆるスポ根ものに近い物語である。

ロックやポップスならいざしらず、ジャズの世界でそんなに熱く一直線の人間とか成功物語が今どき存在するのか、そんなに簡単にジャズサックスが吹けるようになるものか…等、常識的的疑問を含めて突っ込みどころがないではないが、おそらく作者はデフォルメという漫画の特技を駆使して、そういう常識や思い込みにも挑戦したかったのではないかと推察する。確かにジャズを題材にして、音の出ない漫画でここまでストレートな描き方をしたのは画期的なことだし、物語もわかりやすく、この種の熱い話が好きな人には魅力があるだろう。とっつきにくいジャズを、若い世代により身近に感じさせることになるだろうし、多分ジャズに限らず自分で実際にバンドをやったり、楽器を演奏する人たちにはきっと響くものがいろいろあるのだと思う。しかし私は楽器は少々やったことがあるが、そもそも人間が熱血型ではないので、物語も画風も最初はいささか暑苦しいなと思っていた。

100年以上の歴史を持つジャズは多彩で奥の深い音楽だ。熱くハードでストレートなジャズもあれば、クールでソフトだが複雑なジャズもあり、また枠に囚われないフリージャズもあるように、様々なスタイルがあって、それぞれ好む聴き手もいる。ジャズの魅力は、エモーション一発ではなく、冷静さ、知性、知識、技術という多面的要素を持った即興演奏が要となった高度で複雑な音楽であるというところにある。時代と共にジャズ演奏のイディオムも、流行も、奏者と聴き手の感性も変わるので、表層的な部分は変化してきたが、優れたジャズに古いも新しいもなく、ジャズが持つ音楽としての本質に変わりはない。ジャズのバンドもメンバーを固定して活動するケースが多いが、通常は短命であり、メンバーは頻繁に入れ替わるのが普通だ。なぜなら、「みんなで仲良く一緒に」ではなく、つまるところジャズが「個人」の音楽だからだ。あくまで独立した「個」と「個」が演奏を通じて互いを理解し、刺激し合い、時には挑戦しながら、より高い次元で他者と音楽的に繋がる瞬間にこそジャズの醍醐味があるわけで、何よりも、それを支える「自由な精神」をリスペクトすることがジャズという音楽の最大の魅力なのだ。何をどう演奏しようが聞こうが基本的には自由であり演るのも聞くのも行き着く先はあくまで個々人の自由な価値観と嗜好である。こうあらねばならない、こうすべきだ、という硬直した思想は最もジャズから遠いものだ。だから一般的に言って、真のジャズ好きが単一価値観のスポ根風を嫌うのは当然であり、当初「ブルージャイアント」にどことなく感じた違和感は、たぶんそのあたりが理由だと思う。

ところが読み進めるうちに、作者の強引なストーリー展開と、これまた主人公の強引な行動(と人間味)につい感情移入して引き込まれてしまい、徐々になかなか面白いと思うようになってしまった(ただしジャズ云々よりも人間ドラマとしてなのだが、自分が意外に単純な人間だということもわかった)。ほとんどセリフのない場面とコマが延々と続いたり、もちろん絵から音は出ないので、楽器の音を表現する擬音とスピード感や迫力を伝える線のオンパレードで、こちら側で想像するしかないのに、なぜか「ジャズ」が聞こえて来るような気がするから不思議だ。演奏中のジャズ・ミュージシャンの一瞬の姿や表情を捉えた昔のスティル写真と同じで、写真を見ただけでその人の音が聞こえて来る、あの感覚と同じなのだろうが、この場合は、そのミュージシャンの演奏を実際にレコードなどで聞いた記憶があって、そこから音楽が脳内イメージとして聞こえて来るわけである。「アポロン」でも同じように、有名なジャズ・スタンダード曲の記憶から湧いてくるイメージがあったのだが、「ブルージャイアント」では、若いミュージシャンの卵たちがオリジナル曲をただひたすら熱く演奏している画が延々と続くだけで、それが具体的にどういう演奏なのかは誰にも想像がつかないはずなのだ。たぶん読者全員がそれぞれ勝手なジャズのイメージを思い浮かべているのだろうが、それでも聞こえて来るイメージは確かにジャズである(私の場合、どちらかと言えばフリー系だが)。

作者は当然ジャズを良く知っている人のようだし、昔から小難しい蘊蓄ばかり語ってきた中高年の世界(私も含めて)とか、知識と情報をやたらと詰め込んだ頭でっかちな奏者や、あれこれごった煮のように混ぜ合わせたジャズが増えてきた現状を一度ご破算にして、「熱くひたむきな」主人公の成長物語を通じて、音楽としてのジャズが本来持っていたはずの激しさやパワーという根源的魅力をダイレクトに伝えるために、敢えてわかりやすい物語とシンプルな表現を選択したのだろう。考えてみれば、ジャズをまったく知らない人からしたら、有名曲だろうがオリジナル曲だろうが、伝統的演奏だろうがフリージャズだろうが、多分どのジャズもみんな同じようにぐちゃぐちゃに聞こえるかもしれない。しかし奏者の真剣さや情熱や演奏の持つエネルギーは、聴き手にジャズの知識があろうとなかろうと、誰にでも伝わって来るはずだというメッセージのようにも思える。

ダンスの伴奏が主だった1940年代半ばまでのジャズを別にすれば、即興演奏の技術が高度化し、多様化したビバップ以降のモダン・ジャズには「万人が楽しめるジャズ」というものはなく、ジャズは本質的に自由な個人の音楽となり、また「知と情」を併せ持つ独特の音楽となった。他のポピュラー音楽と違うジャズだけが持つ魅力と深みは、単に聴き手の感情に訴えるだけではなく、同時に知性を刺激し、知的な美しさを感じさせるという「知と情」の独自の音楽的バランスにある。ロックやポップスなどのポピュラー音楽にも「知」の要素はあるが、それは主として言語(歌詞)から想起されるものであり、楽器演奏による音だけで「知」を感じさせる音楽は、クラシックとジャズだけだ。マイルス・デイヴィスの音楽は、この「知と情」が高度にバランスしたジャズの代表である。また後期コルトレーンのように、考え抜いた末に行き着いた熱狂的でエモーション全開の演奏もあれば、一方、頭で考えたジャズの典型のごとくかつて批判されたアルト奏者リー・コニッツのようなクールな演奏もある。だがコニッツが自伝の中で述べているように、出て来た音がいかに頭で考えたようなクールで複雑な音楽に聞こえても、演奏している奏者をつき動かしているのはあくまで自身の内部から湧き出るエモーションであり、彼の内側は熱く燃えたぎっているのである。

このようにプレイヤーによって表現の形は様々だが、黄金期の優れたジャズでは、「知と情」が音楽の中で高い次元で見事にバランスしていたのだ。しかし、ジャズが「知」の領域で生み出した、ハーモニーやリズムにおける独自の音楽概念や複雑な演奏技法の多くは、この半世紀の間に他のあらゆるポピュラー音楽の中に見えない形で拡散、浸透し、今や当たり前のものとして吸収されており、かつてジャズと他の音楽を隔てていた境界線はもはや曖昧だ。大衆の感情に直接訴えかける音楽上のパワーとエモーションも、今やもっとシンプルで聞きやすいポピュラー音楽が席捲している。したがって音楽上「ジャズ」だけに残されている核の部分、ジャズをジャズたらしめているものがあるとしたら、それはモダン・ジャズ以降のジャズが獲得した「知」の象徴である「即興演奏」による高度で抽象的な音楽表現だけだとも言えるだろう。だがそれだけでは音楽として多くの聴き手の心を掴むことは難しいのだ。ジャズはこうして一種のジレンマを抱えながら、過去半世紀、芸能と芸術との狭間を漂い続けてきた音楽なのである。「ブルージャイアント」は、ジャズから失われてしまったかのように見える純粋なエモーション、すなわち「情」の持つパワーを再提示し、ジャズを本来の「知と情」の音楽という原点にもう一度回帰させたい、という作者の願望が込められた作品だ――というのが「これまでの」物語を読んだ私の勝手な解釈である。

第10巻で少年期を終えて、物語のベクトルは徐々に「個人」と「自由」というジャズのキーワードに向かいつつあるように思える「世界一」のサックス奏者を目指す主人公が、「個人」と「自由」に常に見えない足枷をはめようとするローカル日本を離れて、まずは一人でグローバルな世界に向かうという展開は当然のことだろう。最初の行き先がジャズの本場アメリカではなく、クラシック音楽の厚い土壌を持ち、ジャズを芸術と認め、様々な音楽を受け入れる知性と懐の深さがあり、歴史的に独自のジャズ、フリージャズ、さらにはジャズを超えたフリー・インプロヴィゼーションの世界を生んで来たヨーロッパ、中でもドイツを選んだことに、主人公が今後体験する「知」の部分に関する何がしかの意味があるのかもしれない。そしてもう一つのキーワードは、アーティストとしてのジャズ・ミュージシャンにとって究極の目標であり、主人公が物語の最初からその片鱗を見せている「独創」(originality) だろう。続編「SUPREME」(2017-) の中で、今後これらをどう描いてゆくのか興味深いが、物語の最後には、様々な体験を経てミュージシャンとして成長しながら自己表現の手法を確立し、真に「独創的な」ジャズテナー奏者となった主人公が、本場アメリカで勝負する舞台が当然用意されているのだろう。いずれにしろ、今までのところ、この作品がジャズの魅力の一面を描いていることは確かで、これまでジャズにあまり馴染みのなかった人たちにも支持されているなら、それはとても良いことだと思う。私的には、今後の展開の中で、作者が考えるジャズの真の魅力を描き切ってくれることを期待したい。

音楽の世界を漫画で描くのは難しいことだろうが、ジャズをテーマにした「アポロン」や「ジャイアント」のような優れた作品が登場したことを思うと、まだまだ「ジャズ漫画」の将来には可能性がありそうだ。ジャズというユニバーサルな音楽をテーマにしながら、紙の上に創作物語、それもヴィジュアルな世界が描けるのは世界中で日本のコミックだけだろう。これからもさらに魅力的で斬新な作品や、それらを生み出す新しい作家が登場することを一ジャズファンとして楽しみにしている。

2017/08/18

ジャズ漫画を読む (1) 坂道のアポロン

昔はジャズ漫画と言えば、ラズウェル細木の『ときめきJAZZタイム』くらいしか思い浮かばなかった。ラズウェル細木の漫画は、ジャズ史やジャズ・ミュージシャンのエピソード、ジャズマニアのおかしな生態などを、コアなジャズファンが思わず吹き出してしまうような画風とユーモアで描いた、いわばプロフェッショナル・ジャズ漫画だ。したがって読む側にもかなりのジャズ知識がないと、どこが面白いのかさっぱりわからないという特殊な世界である(ただしジャズファンが読むと、自虐的なギャグ漫画のようで大いに笑える)。だが普通の漫画(コミック)の世界だと、クラシック音楽を描いた『のだめカンタービレ』や『ピアノの森』といった有名な傑作漫画が既にあるが、その種の「ジャズ漫画」というのは読んだことがなく、そうしたジャンルがあるのかどうかも知らなかった。クラシック音楽もジャズと同じで最近は聴く人が減っているようだが、クラシックファンだけでなく、日本人は基本的に誰でも学校でクラシックを習うし、自然に耳に入る機会も多く馴染みがあるので、それほど敷居の高さを意識せずに抵抗なく物語に入っていける「潜在読者」の数も多いのではないかと思う。何より、音の出ない絵だけを見ても、記憶されたクラシックの名曲が頭の中で聞こえて来るので、イメージが喚起しやすいのである。しかしジャズはそうはいかず、昔からまず聞く人が限られているし、今は基礎知識もなくジャズを聞いた経験もない人がほとんどなので、まずジャズという音楽そのものを知らないと、漫画といえども、なかなかすんなりと読んで楽しむわけにはいかないだろうと思っていた。そういうわけで、数年前に娘から教えてもらうまで、ジャズをテーマにした普通の漫画作品があるなど夢にも思わなかった。当然その種の(売れそうもない)漫画を書く作家など出て来るはずもないし、たとえいたとしても、どうせたいしたものじゃないだろうと勝手に思い込んでいて、まったく興味もなかった。ところが、遅ればせながらだが、ジャズをテーマにした漫画にも素晴らしい作品があるということがわかったのだ(知っている人はとっくに読んでいたわけではあるが)。

それが『坂道のアポロン』(小玉ユキ/2007-12)で、1960年代後半の長崎県・佐世保を舞台にしてジャズと恋、友情を描いた爽やかな青春物語である。まさに団塊の世代ど真ん中の時代設定もあり、当時夢中になった若者がたくさんいたモダン・ジャズをテーマとBGMにして、昭和的ノスタルジーを強く感じさせる出色のオールタイム・ジャズ漫画だ。そもそもは少女漫画月刊誌に掲載されていたということだが、題材からして作者が若い(かどうかはよく知らないが)女性というのも驚きだ。物語全体に漂う静謐感、詩情が秀逸で、登場人物の造形、物語の展開、ジャズの描き方など、実際に音が聞こえなくとも紙の上でこういう世界が描けるものかとびっくりした。だが文化祭のシーンが象徴するように、当時の日本はジャズの「全盛」時代だったにもかかわらず、若者の間で人気のあったロックやポップスやフォークの陰に隠れたマイナーな存在だったことも、昨日のことのように思い出す。当時はファッションで聞く人もいたので、本当のジャズ好きはさらに一握りの人たちだけだったのだろう。70年代、張り詰めたような政治の時代が終わり、世の中が軽く明るく(?)なって、ジャズもわかりやすいフュージョンに変容し、聴き手も大学を卒業して普通のサラリーマンになると、ポップスばかりか演歌や歌謡曲ファンに「転向」した人も多かった。これには楽器ができなくても誰でも自分で歌えるカラオケ登場の影響も大きかったと思う。そうした大衆とは縁のない音楽、何をやっているのかわからない音楽、金にならない音楽、精神がとんがった連中(変わり者)が好む音楽…という日本におけるジャズのイメージは昔も今も基本的にはそう変わらないのだろう。ただし、気取った大人が聞くお洒落な音楽というスノッブなイメージが付加されたのは、日本が80年代に入って金回りが良くなり、若い時にジャズを聞いた客層を中心にジャズクラブがあちこちにできたりして、ジャズがそこそこ大衆化したバブル期以降である。それまで、つまり「アポロン」前後の時代は、ショービジネスが出自ではあっても、基本的にはシリアスな音楽芸術、難しいが深い大人の音楽、という受け止め方の方が日本では主流だったと思う。つまりジャズが本当にカッコいい時代だったのだ。

この作品はTVアニメ化もされたのでこれも見たが、菅野よう子が手がけた音楽の出来も良く、しかも漫画では想像するしかなかった「ジャズの音」が、ドラマの中では実際に聞こえてくることもあって、放映中は年甲斐もなく嵌った。若手ミュージシャンによるジャズのサウンドトラックも新鮮で、若者だけでなく、おそらく多くの中高年ジャズファン層が支持したこともあって、番組終了後にはアニメ中のジャズをモチーフにしたライヴ公演の企画まであった(残念ながら聞き逃したが)。そして、来年2018年にはついに映画まで公開されるらしい(現在制作中)。予定キャスティングは、私のような年寄には知らない若い人も多いが、脇役のディーン・フジオカ(桂木先輩役)や中村梅雀(律子の父、ベースを弾くレコード店主役。この人は実際にベースを弾くようだ)など、なるほどと思わせる人たちだが、主人公の一人、迎律子役の小松菜奈(この人はなぜか知っている)は漫画とイメージがちょっと違うのかな、という気がする(原作はもっと素朴で地味なイメージ。ただしそれも映画を見てみないと何とも言えないが)。映画の中でジャズをどう描くか、誰がどういう演奏をするのか等楽しみだが、同時に、この映画の観客層がいったいどういう年齢構成や男女比になるのかということにも非常に興味がある。まさか中高年のおっさんばかり、ということはないだろうと思うが…。

2017/08/10

ジャズ映画を見る (2)

一般的にジャズ映画と呼ばれている中で一番多いのは、ジャズ・ミュージシャン本人を描いた伝記的映画だ。「グレン・ミラー物語」(1954や「ベニー・グッドマン物語」(1956など白人ビッグバンドのリーダーを描いた映画が古くからあって、私も昔テレビで見た程度だが、いかにも往時のハリウッド的な作りの映画だった記憶がある。我々の世代だと、一番記憶に残っているのは、やはり1980年代の「ラウンド・ミッドナイトRound Midnight」(1986年)と、「バードBird」(1988年)だろうか。(しかし、これらの映画も既に30年も前の作品だと思うと、つくづく時の流れを感じる。当時の日本はバブル真只中で、一方でアメリカはまだIT革命前の不況に喘いでいた時代だった。)

「ラウンド・ミッドナイト」は、フランス人のベルトラン・タヴェルニエ (1941-) が監督・脚本、ハービー・ハンコック (1940-) が音楽を担当した米仏合作映画である。基本はピアニスト、バド・パウエル  (1924-66) がパリに移住していた時代 (1959-64) に、パトロンとしてパウエルを支え続けたフランス人、フランシス・ポードラ (1935-97) が書いた評伝 “Dance of The Infidels”(異教徒の踊り)で描かれたパウエルの物語だが、そこにテナーサックスのレスター・ヤング (1909-59) の生涯の逸話もミックスしている。この二人のジャズの巨人をモデルにした主人公、テナー奏者デイル・ターナー役を、パウエルと同時期にパリに住み、共演もしていたデクスター・ゴードン (1923-90) が演じている。ハンコック(p)とボビー・ハッチャーソン(vib)も実際に役を演じ、またフレディ・ハバード(tp)、ウェイン・ショーター(ts)、ロン・カーター(b)、ビリー・ヒギンズ(ds)、トニー・ウィリアムズ(ds)、ジョン・マクラフリン(g)、さらにチェット・ベイカー(tp)など、当時の錚々たる現役ジャズ・ミュージシャンたちが、ジャズクラブの演奏シーンに登場している。そしてもちろん、映画のタイトル「ラウンド・ミッドナイト」によって、この曲の作曲者であるもう一人のジャズの巨人で、パウエルを兄のように支え続けたセロニアス・モンクへのオマージュも表現している。フランス人監督が、落ちぶれた晩年のジャズの巨人を1960年前後のパリを舞台に描いた世界なので、ジャズ映画とはいえ、映像、演出ともに陰翳の濃い映画全体のトーンはやはりフランス映画的で、ほの暗く、しっとりしていて、アメリカ映画的な乾いた単純明快な描き方ではない。パリ時代のバド・パウエルは様々に語られてきたが、実際はこの映画で描かれた以上に悲惨な状態だったのだろう。しかし、その時代にパウエルが残したどのレコードからも、演奏技術の衰え云々を超えて、天才にしか表現できない味わいと寂寥感が伝わって来る。この映画で描かれているのも、まさに沈みゆく夕陽のような晩年の天才の最後の日々だ。主演のデクスター・ゴードンは、この映画での枯れた演技を高く評価されたが(地のままだという説もあるが)、ハッチャーソンやハンコックも含めて、即興で生きるジャズメンというのは、やはり演技力もたいしたものだと思う。なおデイル・ターナーが娘チャンに捧げた印象的なメロディを持つ曲は、ハンコックがこの映画のために書いた ”Chan’s Song (Never Sad)” という曲である。映画オープニングのモンクの曲 ”Round Midnight” と同じく、ミュート・トランペットのような音でこの曲がエンディングで流れるが、これは両方ともボビー・マクファーリンによる高音スキャット・ヴォーカルなのだそうである。この曲は今やジャズ・スタンダードになっていて、私が好きなのは、マイケル・ブレッカー(ts)のアルバム  ”Nearness of You:The Ballad Book” (2001 Verve) 冒頭の演奏で、ハンコック自身のピアノの他、パット・メセニー(g)、チャーリー・ヘイデン(b)、ジャック・デジョネット(ds)が参加している。この演奏は美しくまた素晴らしい。

映画「バード」は、言うまでもなく天才アルトサックス奏者チャーリー・パーカー (1920-55) の生涯を描いたもので、製作・監督は筋金入りのジャズファンであるクリント・イーストウッドだ。1930年サンフランシスコ生まれのイーストウッドは、少年時代に西海岸にやって来たパーカーの演奏を実際に聴いている。映画中の演奏シーンでは、パーカーの録音から、パーカーのソロ部分だけを抜き出し、その音(ライン)に合わせて、レッド・ロドニー(tp. 1927-94. 実際にパーカーと共演し、映画でも 南部ツアー時の “アルビノ・レッド” として描かれている)、チャールズ・マクファーソン(as)、ウォルター・デイヴィス・ジュニア (p)、ロン・カーター(b)などが実際に演奏した音楽を使うという凝りようである。したがってパーカーの演奏シーンの音楽はもちろん素晴らしい。物語はパーカーの少年時代からの多くの逸話や、相棒だったディジー・ガレスピー (1917-93) との交流も出て来るが、ほとんどはドラッグによって破滅に向かう天才パーカーの苦悩と、それを支えるチャン・パーカー夫人 (1925-99) との夫婦の情愛を描いたもので、映画は当時存命だった彼女の監修も経て制作している。パーカー役のフォレスト・ウィテカーは、演技はともかく、外見(顔や体型や仕草)がパーカーの私的イメージと違い過ぎて、正直どうもピンと来ない。鶴瓶に似ているとかいう話もあったが、実際のパーカーは、もっと凄みもあって(鶴瓶にもあるが)、もっとカッコ良かったんじゃなかろうか、と思う(ジャズに限らないが、いつの時代も人気の出るカリスマ的ミュージシャンは、何と言ってもカッコ良さが大事なはずなので)。それと、チャン夫人の回想が中心になっているためだと思うが、映画全体のムードと流れが暗く、重苦しい。パーカーがドラッグまみれだったのは確かだろうが、本当はもっとあっただろう、ジャズとパーカーの音楽の持つ明るく陽気な部分があまり描かれていないのが残念なところだ(印象に残ったのは、ユダヤ式結婚式のシーンくらいだ)。クリント・イーストウッドのジャズへの愛情の深さは伝わって来るものの、一方で彼の基本的ジャズ観が表れているのかもしれない。

同時期のもう一作は、スパイク・リー (1957-)監督・制作の「モ・ベター・ブルースMo’Better Blues(1990)で、実在のモデルはいないが、1960年代後半にニューヨーク・ブルックリンで生まれたジャズ・トランペッターとその仲間たちの音楽、友情、恋愛、挫折を描いた映画である。フランス人、白人アメリカ人による重厚な上記2本の映画とは違って、もっと若い(当時30歳代初め)アフリカ系アメリカ人の監督が、ジャズとミュージシャンたちをテンポ良く、比較的軽く明るく描いた作品だ(制作費も安かったらしい)。当時スパイク・リーが、クリント・イーストウッドの「バード」に刺激されて制作したという話もあって、リー監督本人も、主人公デンゼル・ワシントンの幼なじみの小男マネージャー役(ジャイアントというあだ名)で、準主役的に登場してコミカルな演技を披露している(田代まさし、みたいだが)。当時まだ30歳台の主役デンゼル・ワシントン (1954-) は実にセクシーでカッコ良く、ジョン・コルトレーンの風貌と、ソニー・ロリンズの外見を足して2で割ったような雰囲気があるし、特にトランペットの演奏シーンでの男っぽい立ち姿は若き日のロリンズのようで本当にサマになっている。音楽も、リー監督とほぼ同世代のブランフォード・マルサリス(sax)、テレンス・ブランチャード(tp)といった一流ミュージシャンが制作に関わっているので演奏シーンでは本格的なジャズが聞ける。クラブにジャズを聴きに来るのは今や(1980年代)日本人とドイツ人ばかりで、黒人はまったく来ないと主人公が嘆くセリフとか、ピアニストの面倒をあれこれと見るフランス人女性のパトロンがフランス語でまくしたてたり、ミンガスの自伝タイトルから取ったジャズクラブ名(Beneath the Underdog)が出て来たり、パーカーやコルトレーンのレコードを偏愛する姿、さらに後半からは疾走するコルトレーンの「至上の愛」をバックに物語が進み、最後に主人公がやっと結婚して、生まれた子供の名前をマイルスにするというオチもあって、ジャズへのオマージュが全編に溢れている。カラフルなエンドロールのバックに流れるジャズ讃歌のような(たぶん)ラップも非常に楽しい。話としては単純だが何よりテンポが軽快なこともあって、同時代の3本の映画の中で、私的に一番ジャズを感じさせたのはこの「モ・ベター・ブルース」だった(もちろん人それぞれの好みによると思うが)。やはり各監督の資質、ジャズ観に加え、過去を振り返るのと、今 (1980年代当時) を描こうとする作り手の姿勢が、映画全体の印象と関係しているのだろう。 

この他、ジャズを取り上げた最近の洋画は、今年封切り時に映画館で見た「ラ・ラ・ランド」で、この映画についてはブログの別の記事で書いている。同じ監督の「セッション」や、一時引退時のマイルス・デイヴィスを描いた「マイルス・アヘッド」(2016)、チェット・ベイカーを描いた「ボーン・トゥー・ビー・ブルー」(2015) などはまだ見ていないが、いずれ機会があれば見てみたいと思う。ミュージシャンの伝記系以外の映画なら、日本でも上野樹里の「スウィング・ガールズ」(2004) があったし、先日テレビでは筒井康隆原作の「ジャズ大名」(1986)をやっていたが、時代劇とジャズという奇想天外な組み合わせ、お遊びたっぷりの演出で非常に面白かった。タモリや山下洋輔まで出演していたのでびっくりした(知らなかった)。こういうジャズを題材に取り上げた映画は、漫画「坂道のアポロン」もついに映画化されるように、すぐれた作者がいて、良いテーマがあれば、これからも作られてゆくだろう。

2017/08/04

ジャズ映画を見る (1)

私は映画ファンとは言えないのであまり詳しくは知らないのだが、ジャズを効果的BGMに使った映画は、MJQの「大運河」、マイルスの「死刑台のエレベーター」、モンクとアート・ブレイキーの「危険な関係」、マーシャル・ソラールの「勝手にしやがれ」など、1950年代のフランス映画の名作をはじめとして、古くから数多くあるのだろう。一方、ジャズそのものを題材にした映画もあって、それには「ドキュメンタリー」と、いわゆる「普通の映画」の2通りあり、さらに普通の映画にはおおまかに言えば、ジャズ・ミュージシャン個人を描いた伝記的映画と、ジャズという音楽を題材にしたフィクション映画の2種類がある。 

ドキュメンタリー映画は、ジャズの場合、ミュージシャンたちの古いテレビ番組他の映像記録を集めたものが大部分で、昔からミュージシャン別のそうしたビデオ映像は数多く残されているが、中にはそうではなく、最初から映像作品として制作されたものもある。そうしたドキュメンタリー映画として、古くからいちばん有名なのは「真夏の夜のジャズ」(公開1960年)だ。原題は‟Jazz On a Summer’s Day” (夏の日のジャズ)で、映画としては昼間の屋外シーンがほとんどなのだが、日本的にはこの邦題の方が「いかにも」という感じで受けると考えたのだろう。これはジャズ・プロモーターのジョージ・ウィーンGeorge Wein (1925-) が企画し、1954年から米国ロードアイランド州の保養地ニューポートで始めた野外ジャズ祭、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」の1958年のコンサートの模様を記録した映画である。ジョージ・ウィーンはその後ニューヨークに場所を移したり、世界各地で「ニューポート」と冠したバンドやジャズ祭を数多く企画しており、バブル時代の日本で流行った野外ジャズ・フェスも、ニューポート・ジャズ祭が基本モデルだ。この映画は、マリリン・モンローの写真などで有名なファッション・カメラマンで、映画監督に転じたバート・スターンBert Stern (1929-2013) が撮影した美しい映像と、登場する数々のジャズ・ミュージシャンたちの演奏、それを聞く聴衆の姿や表情を、ナレーションなしでクールに描いた斬新な演出が光るジャズ映画の傑作である。チコ・ハミルトン、エリック・ドルフィー、セロニアス・モンク、ジェリー・マリガン、ジミー・ジュフリー、ボブ・ブルックマイヤー、ソニー・スティット、ジョージ・シアリングなど当時の新進ジャズ・ミュージシャンに加え、アニタ・オデイ、ダイナ・ワシントン、マへリア・ジャクソンといった女性ジャズ・ヴォーカルやゴスペル歌手、さらにスウィング時代のベテラン大スター、ルイ・アームストロングや、当時人気が高まっていたロックンロールのチャック・ベリーまで登場する。

言うまでもなく、この時代はアメリカという国家の最盛期であり、それはつまり当時のアメリカを代表するハイカルチャーとしての音楽モダン・ジャズの最盛期でもあった。豊かな経済に支えられ、数多くの名盤と呼ばれるレコードが作られ、音楽的にも高度化し、多くのジャズ・ミュージシャンの創造力が最も高まっていた1950年代後半は、あらゆる意味でジャズの黄金時代だった。多くのジャズ・ミュージシャンが一堂に会した貴重なライヴ映像というだけでなく、この映画は、上流階級の保養地だったニューポートの美しい自然、豊かな聴衆の姿とファッション、そして当時最先端の音楽だったモダン・ジャズの3つを融合した、幸福なアメリカとその豊かな文化を象徴的に描いた作品でもある。まだ国外のベトナム戦争も、国内の公民権闘争も激化する前で、差別はあっても黒人と白人が分相応に棲み分け、白人中産階級がゆったりと暮らせ、少なくとも表面的にはまだ穏やかだった最も幸福な時代のアメリカの空気が、この映画の中に封じ込められているのである。映像の素晴らしさに加えて映画のハイライトはいくつもあるが、やはり一番人気はアニタ・オデイ(1919-2006)のヴォーカルだろう。衣装、仕草、表情、そしてもちろんその歌声も歌唱力も素晴らしく、まさにあの時代のアメリカを象徴する映像だ。おそらく当時世界中のジャズファンが、この映画でのアニタには痺れたことだろう。そしてもう一人は短い出演だがセロニアス・モンク(1917-82)だ。モンクは3年前の55年のニューポートに初出演してマイルス・デイヴィス他と共演していたが、この映画はようやくスターとして頭角を表し始めたモンクの実際の姿と音楽を初めて映像で捉えたものだ。特にモンク・グループが演奏する<ブルー・モンク>をBGMに、湾内を競走するアメリカズ・カップのヨットレースとラジオ実況放送、という映像、音楽、実況音声の組み合わせは、ドキュメンタリー映画史に残る斬新な演出であり、この印象的なシーンによってモンクもまた世界的に有名になった。 

ジャズ・ドキュメンタリー映画のもう一つの傑作が、そのセロニアス・モンクの生の姿を映像で捉えた「ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser」(1988年制作)である。ドイツ・ケルンの放送局に勤務していたブラックウッド兄弟が1967年にモンクの許可を得て、6ヶ月にわたって日常、クラブ・ライヴでの演奏、スタジオ録音、ヨーロッパ・ツアー時などにおけるモンクの姿を映像に記録し、それをその後ヨーロッパでテレビ放映した2本のモノクロ・フィルムを中心に編集したものだ。当時のモンク・カルテットのメンバーの他、ツアーに参加したジョニー・グリフィン、フィル・ウッズ、さらにネリー夫人やニカ男爵夫人、当時コロムビアのプロデューサーだったテオ・マセロなどの映像と肉声も記録されている。そこに、それ以外のモンクの記録映像や、モンクの死後80年代に新たに撮影したカラー映像を加えたもので、バンドメンバーだったチャーリー・ラウズ(ts)、モンクのマネージャーだったハリー・コロンビー、息子T.S.モンク等のインタビュー、モンク同様ニカ邸で当時暮らしていたバリー・ハリスがトミー・フラナガンとピアノ・デュオでモンクの曲を演奏する映像(その後ろにはアート・ファーマーとミルト・ジャクソンの姿も見える)、さらにウィーホーケンのニカ邸内のモンクの部屋とピアノ、そこからのマンハッタンの遠景、そして1982年のモンクの葬儀の模様などが追加されている。映画化はモンクの存命中から計画されていたようだが、紆余曲折あって、モンクの死後になって最終的にクリント・イーストウッド(1930-)が製作を引き受け、女性監督シャーロット・ズワーリン(1931-2004)が映画を完成させて配給にこぎつけたという。1967年のモンクは全盛期を過ぎ、肉体的、精神的にも苦しんでいた時期で、特にこの撮影は前年のバド・パウエルに続き、エルモ・ホープ、ジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失った直後であり、精神的には落ち込んでいたはずだが、ピアノを弾き、踊り、くるくる回り、喋り、歩くモンクの動く姿はとにかくファンにとっては面白く興味が尽きない。この映画の素晴らしさは、全編に流れるモンクの代表曲の演奏に加え、演奏中であれ、会話中であれ、街を歩く様子であれ、ほとんど演出、脚色なしの“素の”モンクが捉えられていることだ。ジャズ映画も様々だが、ジャズ・ミュージシャン、それも伝説の人物をこれほど身近な視点でストレートに捉えた映画は歴史上皆無だ。また80年代に撮影されたカラー映像でモンクを語る人たちのインタビューや演奏も、モンクという音楽家を理解するための貴重な証言になっている。モンクファンのみならず、ジャズファンすべてが楽しめる傑作ドキュメンタリー映画である。

この他に、破滅的人生を送ったトランぺッターのチェット・ベイカーを描いた「Let’s Get Lost」(1988)というドキュメンタリー映画もあるが、音楽はともかくとして、人間チェット・ベイカー自身が個人的にあまり好きではないこともあって、私は見ていない。今やインターネット上で、多くの映像が自由に見られる時代となっている。作品としてのジャズ・ドキュメンタリー映画は、古い映像記録そのものに限りがあり、これからジャズを主題に描こうにも時代が違うし、材料(人材を含めて)が手に入らないなどの理由もあって、今後ここに挙げたような傑作映画が作られることは永遠にないだろう。