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2021/12/28

年末美女映画三昧

最近、YouTubeやインスタグラムなどを通じてヴィジュアル情報の発信がいとも簡単になって、素人が普通に「グローバルに」顔を晒すようになったが、それに伴ってますます外見の美醜が特に若者の関心ごとになっている。「外見至上主義(lookism)」は内外を問わずトレンド入りするほどのタームで、昔から整形が当たり前で、とにかく今や、誰が誰やら分からなくなるほど同じような顔の俳優やタレントばかりになった韓国がその代表だ。日本でも、少しの間見かけないと思ったら、顎を削ったりして、すっかり顔形が変った女優やタレントが普通にテレビに登場するようになっているが、昔のように「整形した!」と騒いだり、はやし立てるような雰囲気はもうない。化粧と同じになったわけである。美醜で差別するなという主張は、昔からあったミス何とかという美人コンテストを中止に追い込んだように、当然ながら世界的にあるが、世の中は美人、イケメンの方がやっぱり得だ、というのは誰もが生きていて実感している事実なので、いくら道徳的観点で批判したところで表面的なレベルではともかく、個人の内部の価値観は簡単には変わらないだろう。

男女を問わず美しい異性(とは最近は限らないが)には惹かれるものだ。特に男性にとって「美女を見る」というのは、正直言ってやはり単純に楽しいことなのだ(理由などない)。芸術や芸能でも、同じ歌や演奏を聴いても、美人のアーティストの方につい目が行ってしまうのは如何ともしがたい。昔は朝の通勤電車で美女を見かけただけで、なんだか得したような気分になったものだ。これは良いとか悪いとかいうモラルの問題を超えた、哲学的(生物学的?)問題なのだろう。ただ長年生きて来て、「天は二物を与えず」ということもまた真実であるように思うので(最近は、二物も三物も与えられている人も中にはいるが)、美人、イケメンでない人は、外見に無駄なエネルギーをあまり費やすのはやめて、早く自分の強みと価値を知り、それを生かして明るく生きる道を進む方がいいだろう(私の場合、もう遅いが)。

毎年、年末年始になると、昔の映画を見たり、日本の演歌を聞くのが恒例になっている(理由はよく分からないが、人生も残り少なくなって、そうした映像や歌が過ぎ行く年月を思い起こさせ、どこか郷愁を感じるからなのだろう)。昨年末はコロナのせいで、さすがにあまりそういう気分にはならなかったが、今年は録画を整理中に、夏のオリンピックの時期にNHK BSで放映した藤純子(現・富司純子)の『緋牡丹博徒』(1968年・第1作)をたまたま発見したので、初めて「女性の仁侠映画」を見たのだが、若き藤純子の美しさに驚嘆した。そこで、ついでに(?)今や説明不要の定番、オードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』も見て(何度目か)、加えてストーリーやギャグの面白さが好きだった、台湾の女優ジョイ・ウォンの香港映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』もDVDで見た(これも2度目か3度目)。年末らしく豪華に(?)、日本、イギリス、台湾産の3ヶ国美女3本立てである(国の選択に特別な意図はない)。それぞれの国の美女の風情や喋り、演技、動作などを比較して見ることで、国ごとの美意識や、文化的背景などもいろいろと感じるものがあって面白い。ただしこの3本ともに、女ヤクザ、王女様、幽霊という役回りで、リアルな世界とは異なるファンタジー中の美女であるところがミソだ。

スチャラカ社員
大坂朝日放送
藤純子は、大昔(1960年代中頃)の日曜日の昼にTBS(大阪・朝日放送制作)で放送されていた、サラリーマンの事務所を舞台にした藤田まことの舞台喜劇『スチャラカ社員』に登場する美人事務員 ”フジくぅーん” で知った。Wikiによれば、「スチャラカ」とはぶっ飛んだ笑いを、ということで大阪弁のスカタンとアチャラカの合成語を演出家・澤田隆治が考えたらしい。同じ頃東京では、クレージーキャッツの植木等の歌「スーダラ節」も流行っていたが、こちらは青島幸男の作詞のようで、両方とも60年代高度成長期に入って急増していたサラリーマンが主役であるところが共通している。「スーダラ」と「スチャラカ」という言葉の間に何か関係があったのかどうかは知らない(どうでもいいと言えば、いい話だが。ちなみに、その後80年代に「スチャダラパー」という、スチャラカでスーダラなヒップホップ・バンドもできたらしい)。同時期には、同じ藤田まこと主演の舞台コメディ『てなもんや三度笠』も人気で、私はそちらも楽しんでいた(CM「あたりマエダのクラッカー」が懐かしい)。『スチャラカ社員』も6年以上続き、ミヤコ蝶々や南都雄二、白木みのる、中田ダイマル・ラケット、長門いさむなども出演していた(たぶん、みんなもう誰も知らない人の方が多いだろうが…)。この番組で2代目の女子事務員役を演じたのが藤純子で、それが芸能界への実質的デビューだったという。

鶴田浩二や高倉健の仁侠映画は、当時高校生くらいだった私は興味がなかったので(全共闘の大学生には人気だったらしい)、その後、藤を一躍有名にした『緋牡丹博徒』シリーズ(東映、全8作1968年ー72年製作)も見たことがなかった。今回初めてその第1作(1968年公開カラー映画)をテレビで見たわけだが、なるほど、ある意味でよくできた映画だと思った。ヤクザ映画といっても、後の『仁義なき戦い』や『極道の妻たち』のようにハードボイルドな実録ものではなく、テイスト的にはほぼ伝統的な「仇討ち時代劇」に近い仁侠ものだ。高倉健も友情出演している豪華キャストで、仁義を尊ぶストーリーは古風だが、昔の映画らしく作りが丁寧で映像が美しく、何より「緋牡丹のお竜」役の若き藤純子の物腰や表情などが日本的で、本当に奇麗なのだ(熊本弁というのもいい)。女性を主人公にした映画は、文芸ものなどで、それ以前にもあったのだろうが、こうしたキャラの立った女性主人公は、日本映画ではたぶん初めての例だったろうし、全共闘を筆頭に、既成のモノを何でもぶち壊す時代にあっては、大ヒットしたのも頷ける。藤純子は、その後東映の大スターになり、テレビ番組の司会の他、映画やテレビドラマにも数多く出演した。最近では2016年のNHKドラマ『ちかえもん』で見せた、近松門左衛門のとぼけた母親役が、何となく『スチャラカ社員』時代をほうふつとさせて私は好きだった。

『緋牡丹博徒』の15年も前のアメリカ映画、『ローマの休日』(1953年製作ウィリアム・ワイラー監督作品)は言うまでもなく、何度見てもほのぼのとして、どうしても泣ける永遠の名画だが、とにかくオードリー・ヘプバーン (1929-93) の一挙手、一投足の可憐さ、気品、凛々しさが半端なく、このシンプルなおとぎ話に、これ以上似合う女優はいないだろう。当初はエリザベス・テイラー主演で検討されていたらしいが、グレゴリー・ペックが相手役に決まったことで、当時ほとんど無名だったイギリス人女優ヘプバーンが初主演することになったという。ローマの名所めぐりのようなこの映画で、本国アメリカだけでなく、世界中にローマという都市の素晴らしさを映像で知らしめたのも大きな功績だったろう(私も初めてローマへ行ったとき、2千年も前の石造建築物が、普通に現代の街中のあちこちに残されているのを見て、話には聞いてはいたものの、本当にびっくりした)。その名所の一つ「真実の口」にペックが手を突っ込むあの有名なシーンは、ペックのアドリブ演技にヘプバーンが本気でびっくりした「素の反応」だったという。予算の制約でモノクロ映像になって、カラーで撮れなかったことをワイルダー監督はずっと悔やんでいたらしい。確かにあの美しいオードリー・ヘプバーンがローマ中を動き回る数多くの名シーンをカラー映像で撮っていたら……とは思うが、むしろモノクロの画面が、逆に作品にある種の懐かしさと温かみを与えていると言えるのかもしれない。それほどこの映画には、あの時代のアメリカ映画なのに、どのシーンにも、どこかイタリア映画的な懐かしさと温かみが感じられて、心が癒される。

ちなみに今はすっかり有名になっている話で、普通の辞書にも書いてあるが、原題『Roman Holiday』とは、「ローマ人の」休日であり――奴隷たちを戦わせて見世物にし、それを見物していた古代ローマ人の娯楽、という意味だという(文字通りの「ローマの休日」なら、たとえば「A Holiday in Roma」)。このタイトルは、真の原作者で、当時マッカーシーの赤狩りの標的にされて投獄された共産主義者の作家ダルトン・トランボ(1905-76)という人の脚本に込められた、アメリカという享楽的な資本主義国家に対する皮肉だったと言われている。しかし、恋をあきらめて国家への忠誠を選んだ王女ヘップバーン、恋を餌にスクープを取ろうとしたものの、王女の純真さと可憐さに、その野心を捨てた男らしい新聞記者ペック、というある意味、実にアメリカ的な純愛エンディングが、この作品を永遠の名画にしたのだろう。この映画でアカデミー主演女優賞を獲得したヘプバーンは、その後『麗しのサブリナ』(1954)、『ティファニーで朝食を』(1961)などのヒット作を連発して、その美しさに一層磨きをかけた。

『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』は上記2作とはまったく時代が違い、1987年に公開された香港映画で(原題:倩女幽魂、英題:A Chinese Ghost Story)、主役のレスリー・チャンと共演したジョイ・ウォン (王祖賢  Joey Wong) は台湾出身の女優だ。中国怪異文学の最高峰と言われる、清朝時代の小説集『聊斎志異』(りょうさいしい)中の一編『聶小倩』が原作で、1960年に香港で映画化されたが、それをリメイクしたものだという。集金の仕事で旅をする書生が、一夜の旅の宿にした古寺に出没する女幽霊と恋に落ちて――という話で、その後続編や、再リメイク作品が数多く作られるなど、大ヒットした映画だった。香港映画はどれも経費はあまりかけていないが、スピード感があって軽やかで、ユーモアがあり、金より知恵を絞ったエンタメ映画を作るのが得意だった。この映画も香港映画ならではのアクション場面や、全編に散りばめられた小ギャグが笑えて私は好きだ。古寺のゾンビのギャグや、前年のエイリアン2へのオマージュ(パクリ?)のような妖怪SFXも楽しめて、かつ大いに笑える。女幽霊役の当時20歳くらいだったジョイ・ウォンは、美人なだけでなく、妖艶でありながら、日本的な “はかなげな” 風情が普通の中国系女優にはない魅力だ。ジョイ・ウォンも、藤純子やオードリー・ヘプバーンと同じく、この映画の大ヒットでアジアでも有数の女優になった。彼女自身は引退して今はカナダへ移住しているらしいが、香港そのものが変わってしまった今、自由で独創的なアイデアで、こういう面白い映画をたくさん作って一時代を築いた香港映画人たちはどうしているのだろうか?

2021/12/06

追悼・中村吉右衛門

中村吉右衛門が11月28日に、77歳でついに亡くなってしまった。春先に倒れて救急搬送されて以来、なんとか回復して欲しいと、毎日テレビで『鬼平犯科帳』を見ながら祈っていた。その後ほとんど報道されて来なかったので心配していたが、先日も、その後容態はどうなのだろうかと案じていたばかりだった。

BSフジで毎週放映している二代目中村吉右衛門による『鬼平犯科帳』は、1989年に放送開始されて以降、2001年の第9シリーズまで放送され(以降はスペシャル版)、現在もたぶん何回目かの再放送中で、11月には第4シリーズ(1992- 93年)を放映中だった。これまで各シリーズ、スペシャル版含めてほとんど見てきたし、録画した放送を毎日見るのを楽しみにしてきた。私はとりたてて、いわゆる時代劇のファンでもないし、真面目に見てきた時代劇の番組は、NHKの大河ドラマや人情時代劇を除けば『鬼平犯科帳』だけだ。懐かしい松竹時代劇の、光と影のコントラスト、色彩の濃い独特の映像は、冒頭から一気に江戸時代の鬼平の世界へと引き込まれ、瞬く間に現世を忘れさせてくれる強烈な引力があり、毎週(毎日)見てもまったく飽きることがなかった。おそらく日本中に、私のように時代劇はあまり見ないが『鬼平』だけは別、というファンが数えきれないほどいることだろう。それほど、長谷川平蔵―鬼平は、中村吉右衛門と一体化していた。脇を固める他のキャストがまた素晴らしく、密偵役の江戸屋猫八、梶芽衣子の他、奥方の多岐川裕美、火付盗賊改方の与力、同心のメンバーなど、安心して見ていられる俳優ばかりで、毎回異なる、個性豊かな男女のゲスト出演者の演技も楽しめた。何より、鬼の平蔵の持つ江戸の粋と洒落っ気を、吉右衛門が見事に表現していた。春夏秋冬の江戸情緒あふれる景色(実際の映像は京都だが)を背景にして流れる、ジプシーキングスのギターによるエンディング曲「インスピレイション」が終わるまで、その回が「終わった」という気がしないので、ついつい最後の、雪の夜の立ち食い蕎麦屋のシーンまで見てしまうのだ。中村吉右衛門演ずる『鬼平犯科帳』は、そのヴィジュアル・インパクトが強烈で、はっきり言って池波正太郎の原作小説をはるかに超える面白さがあった。

「歌舞伎」の中村吉右衛門こそが本来の役者としての姿なのだろうが、残念ながら私はその世界をついに生で見ることはできなかった。だが、昔(1960年代末)から映画で知っていて、その当時は、実兄の6代目市川染五郎(現2代目白鷗)が、テレビのバラエティ番組出演、ブロードウェイ公演、大河ドラマなど、派手な活動で目立っていて、吉右衛門はどちらかと言えば地味で目立たない側だった。しかし映画で見た、長身痩躯で、男らしく、いかついのに優しい風情を全身から醸し出す吉右衛門が当時から私は大好きだった。大学入学後に見たATG映画、篠田正浩監督の『心中天網島』(1969)、新藤兼人監督の『藪の中の黒猫』(1968)という二本の映画で、初めて吉右衛門という役者を知った。岩下志麻と太地喜和子という名女優を相手に、片や大坂天満の情けない若旦那・紙屋治兵衛を、片や東国の夷敵征伐を終えて意気揚々と都へ帰還した源頼光配下の若侍・藪の銀時という対照的な役柄を演じた、まだ本当に若い20歳代前半の中村吉右衛門の姿が今も鮮明に瞼に焼き付いている。両映画ともに、後にDVDを購入して何度も見て来たので、リアルタイムで前後者どちらを先に見たのかはっきりとは覚えていないが、1970年あたりだったことは間違いない。両映画ともにモノクロームの時代劇だが、『心中天網島』は近松門左衛門の有名な人形浄瑠璃が原作の前衛的映画で、あの時代の傑作映画の一つだ(『心中天網島』については、本ブログ2020/2/7付けの記事「近松心中物傑作電視楽」で詳細を回想しているので、興味のある人はそちらをご参照ください)。

もう一作、新藤兼人監督の『藪の中の黒猫』は、1966年に2代目吉右衛門襲名後の初主演映画だった。カンヌ映画祭出品を意識して日本色を強く打ち出した怪異譚で、平安時代の源頼光配下の四天王の一人、渡辺綱(わたなべのつな)の「一条戻り橋」の鬼退治伝説を核に、「雨月物語」、「羅生門」の怪奇と悲哀、さらに野武士に殺され、その復讐ゆえに化け猫になった母娘という、ストーリー的には日本的情緒、妖怪、怪異伝説のてんこ盛りミックスの怪作(?)だ。見どころは、やはりモノクロの凝ったカメラワークと美しい映像、太地喜和子の妖艶な美しさ、まだ初々しささえ残る若き中村吉右衛門の演技だろう。特に化け猫になって、羅生門を通る武士を誘い込んで殺す太地喜和子が、漆黒の闇を背景にして、門の二階部分(実際の撮影地は、京都・東福寺の山門)に白く光る妖怪として右手から滑るように登場するシーンは、初めて見たときには本当にぞくっとするほど怖く美しかった。妖怪になった実母と妻の退治を命ぜられ、その運命を知って苦しむ当時20歳代前半の中村吉右衛門は、50年以上前のこの映画のときから、その後の鬼平役に通じる、男らしく朴訥でいながら色気のある風情をすでに醸し出している。その1年後の『心中天網島』では、正反対ともいえる、遊女(岩下志麻)に溺れる情けない大坂商人という、いわば非常にふり幅の広い両極の役柄だったが、あの若さでいずれの役も見事に演じていた。

『徹子の部屋』の追悼特番で、1970年代、30歳代から最近の70歳代までの吉右衛門出演の出演回を放映していた。黒柳徹子との対話を通して見る実際の吉右衛門は、言葉も喋りも滑らかで、とても軽やかに生きて来た人物のように見える。歌舞伎役者でありながら、幸か不幸か4人の娘に囲まれたが、やっと後継になれる男子の孫に恵まれて嬉しそうな表情の吉右衛門は、晩年は穏やかな人生を過ごしていたようだ。しかしそれにしても……本当に残念だ。中村吉右衛門さんのご冥福を心からお祈りしたい。

2021/11/14

「モンク没後40年」を前に

今年は向田邦子の没後40年で、あちこちの書店やテレビで記念企画を見かけるが、セロニアス・モンクが亡くなったのが1982年2月17日なので、来年2022年はモンク没後40年にあたる。そのせいか最近ネットやSNSを眺めていると、モンクがらみの企画や、モンクに関する記事やコメントが妙に目につく。現在公開中の写真家W・ユージン・スミスWilliam Eugene Smith (1918-78) を描いた映画『ジャズ・ロフトJazz Loft』に出て来るモンクに加え、来年はクリント・イーストウッド制作の傑作映画『ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser』(1989)の大元になった2本のドキュメンタリー映画の公開、さらにモンクを描いた伝記映画まで制作される予定だという。世界中がモンクでこんなに盛り上がっている(?)のはモンクの死後初めてではないか。2017年に、私がロビン・ケリーの著書(2009年)の邦訳版『セロニアス・モンク : 独創のジャズ物語』を出版したのは、モンク生誕100年、ジャズ録音史100年にあたる年だったが、多少のイベントはあったにしても、それほど盛り上がった記憶もないし、あのときは、なにせモンクの伝記翻訳書を日本で出版するのさえ非常に苦労したのだ(売れない、長い、という理由で)。ちなみに、昨2020年はビル・エヴァンス没後40年、今年2021年はマイルス・デイヴィス没後30年でもあるのだが(もうそんなに経ったのか…という感慨もある)、それほどエヴァンスやマイルスで盛り上がっている気配もない。だから、モンクの没後40年の盛り上がりは、私的には非常に意外なのだ(とはいえ、エヴァンスとマイルスはある意味で、ずっと盛り上がっている数少ないジャズ界のスターなので、世界の違うモンクとの比較はそもそも無理があるのだろう)。

モンクはとにかく喋らないことで有名だったので(相手にも依ったらしいが)、音楽も、人間としてもとっつきにくくて謎が多く、普通のジャズ・ノンフィクションの骨格となるべき本人のインタビュー記録もほとんど残されていない。またバド・パウエルと同じく、特に晩年になると精神的に不安定なことが多くなったので、どこまでが事実なのか、本気なのか分からないといった情報の真偽に関わる問題もあって、分析したり、文章にするのが難しいという側面もあっただろう。そこが、豊富なレコードやライヴ演奏、映像記録に加え、自叙伝まで出版し、よく喋り、第三者による文献も含めて虚実入り乱れた情報がたっぷりと残されている大スター、マイルス・デイヴィスや、現代ジャズ・ピアノの原型ともいえるサウンドで、たぶんジャズ界の永遠のアイドル的存在、ビル・エヴァンスと違うところで、これまでモンク情報の絶対量が世界的に少なかったこともあって、今回没後40年を期に、その希少性からくる価値を売り込もうという商業的背景もあるのだろう(誰が仕掛けているかは知らないが)。いずれにしろ最近、YouTubeをはじめ、ヴィジュアル情報が比較的容易に公開、視聴できる時代になって、20世紀のジャズ・ミュージシャンたちの動く映像が数多く見られるようになったのは、ジャズファンとしては非常に嬉しいことだ。

虚々実々だったモンクの人生に初めてメスを入れ、息子のT.S.モンクが主催するモンク財団とモンク家、さらにパトロンだったニカ夫人の実家ロスチャイルド家を通じて、事実と思われる信頼すべきモンク情報を可能な限り収集、選別し、さらにモンクを知る親族、友人、ミュージシャン仲間から直接得た新規情報をそこに加え、14年にわたってモンクの人生の足跡を辿った上で発表したのが、UCLA教授だったロビン・ケリーが書いた長大な原書『Thelonious Monk: The Life and Times of an American Original』(2009年)だ。米国黒人史を背景にしつつ、ジャズ・ミュージシャンとしてのモンクの人生を詳細に辿った本で、モンクを描いた伝記類で(あるいは全ジャズ・ミュージシャンの伝記類を含めても)、これ以上正確で信頼すべき情報を基にした書籍はなく、モンクを語る際に、まずリファレンスとすべき本がロビン・ケリーの書いたこの伝記なのだ(ただし日本語版は原書の長さのために、全体の約85%の訳文量にせざるを得なかった)。そしてその正確さと情報量ゆえに、モンク個人のみならず、20世紀半ばを生きたジャズ・ミュージシャンたちの生きざまを描いたモダンジャズ物語として、新たな視点を加えた書籍でもある。

私はケリー書の翻訳だけでは飽き足らず、続いて、実際にモンクの身近にいて、モンクをもっともよく知る二人を描いた書籍も邦訳した。一つは、半生を捧げてモンクを支援し続けたニカ夫人の伝記『パノニカ:ジャズ男爵夫人の謎を追う』、そしてモンクから大きな音楽的影響を受け、モンクに私淑していたソプラノサックス奏者、スティーヴ・レイシーのインタビュー集『スティーヴ・レイシーとの対話』だ。私の中では、これら3冊を本人、パトロン、弟子という3者の視点から描いた「モンク3部作」と称している。そして翻訳書を含めて日本語ではこれまで限られた文献や書籍、第三者によるレビュー等しか読めず、依然として謎と伝説に満ちていたモンクというミュージシャンの真実が、これら3冊の訳書でかなり正確にイメージできるようになったと自負している。しかし、中でも2009年に発表されたロビン・ケリーの著書は、その正確で圧倒的な情報量からしても大きな歴史的価値があり、今話題になっている没後40年の各企画の元ネタになったのも、間違いなくケリーの本だろうと思う。

現在日本で公開されている映画『Jazz Loft』は、『MINAMATA』で有名な写真家W・ユージン・スミス他のアーティストたちが、ニューヨークの廃ビルをロフトとして使い、多くのジャズ・ミュージシャンが毎晩そこに集まってジャムセッションを繰り広げていた模様を、スミスが撮影した写真と、ジャズファンであり、オーディオマニアだったスミス自身が録音したテープで描いたドキュメンタリーで、2015年にイギリスで制作された映画だ。この映画の主役の一人がポスター写真にも使われているモンクであり、そのロフト住人の一人で、モンクの大ファンだったジュリアード音楽院の教授ホール・オヴァートンを、モンクが自作曲の編曲者に指名して、モンク作品初となるビッグバンドによる公演を1959年に「タウンホール」で行なうまでのいきさつを、ロフトでの二人の会話を収めた音声テープと写真で初めて描いたものだ。ケリーの著書に詳しく書かれているこの逸話は、私も同書で初めてその事実を知ったが、このやり取りは、二人の関係と、モンクの音楽思想と音楽作りに関わる巷間伝説のベールをはがす、実に貴重な記録なのだ。映画製作の6年前に発表されたロビン・ケリーの本では、デューク大学Jazz Loft Project 所蔵のオリジナル録音テープをケリーが書き起こし、映画のハイライトというべきモンクとオヴァートンの会話の内容を詳しく収載している。

来年2022年初めに「没後40年 セロニアス・モンクの世界」と称して公開予定の2本のドキュメンタリー映画、『モンク』と『モンク・イン・ヨーロッパ』は、クリント・イーストウッド製作、シャーロット・ズワーリン監督が編集した傑作ドキュメンタリー映画『ストレート・ノー・チェイサー』(1989)で使われている、2本のオリジナル・ドキュメンタリー・フィルムを映画化したものだ。ドイツのテレビ局の社員だったマイケル・ブラックウッドとクリスチャン・ブラックウッド兄弟が、モンクの許可を得て、1967年にニューヨークまで出かけてモンクの日常を撮影し(前者)、ジョニー・グリフィンやフィル・ウッズも加わったヨーロッパ公演の模様を追いかけた(後者)経緯についても、ロビン・ケリーの本に詳しく書かれている。映画『ストレート・ノー・チェイサー』は、その2本のオリジナル・フィルムと、他のモンクやニカ夫人等の記録映像を編集して制作したものだ。オリジナル・フィルムが撮影された1967年はモンクの晩年期にあたり、モンクの状態は精神面、音楽面ともに微妙だったとはいえ、画面から伝わってくるモンクの存在感は圧倒的で、素晴らしいジャズ・ドキュメンタリーにもなっているので、映画では未収録だった当時の「動くモンク」や、ネリー夫人、ニカ夫人をとらえた映像が他にどれだけあるのか(ないのか)、非常に楽しみではある。

もう一つの企画は、モンクの伝記映画『Thelonious』の制作発表だ。ヤシーン・ベイ Yasiin Bey (Mos Def)というラッパー兼俳優が主演し、2022年夏から撮影を開始するという予定らしい (amass 2021年7月情報)。しかし、息子のT.S.モンクが、モンク財団としてこの映画の制作には一切関与していないし、許可もしていない、脚本も嫌いだ…とか明言しているらしいので、どうなることか分からない? いずれにしても、モンクを巡るこうした動きはモンクファンとしては歓迎すべきことだが、21世紀の今頃になって突然脚光を浴びて、草葉の陰でモンクも苦笑いしているかもしれない。あるいはこれは、天才モンクの音楽が、やはり世の中より40年先を進んでいた――という証拠なのか?

2021/10/29

天才 !? 清水ミチコの世界

【祝第13回 (2021年度) 伊丹十三賞・受賞  (7/28)  

都知事から祝辞も
《伊丹十三賞とはデザイナー、イラストレーター、俳優、エッセイスト、テレビマン、雑誌編集長、映画監督……さまざまな分野で才能を発揮し、つねに斬新、しかも本格的であった仕事によって、時代を切り拓く役割を果たした伊丹十三の遺業を記念し、「伊丹十三賞」を創設いたしました。

あらゆる文化活動に興味を持ちつづけ、新しい才能にも敏感であった伊丹十三が、「これはネ、たいしたもんだと唸りましたね」と呟きながら膝を叩いたであろう人と作品に「伊丹十三賞」は出会いたいと願っています》

…ということで(遅くなりましたが)、受賞の知らせに、「振り込め詐欺かと思った」とコメントした清水ミチコさん、おめでとうございます!

最近、自分があまりテレビを見なくなったせいだと思うが、清水ミチコは、森山良子との例の「ポン、ポン」というカツラのCMくらいしかテレビでは見かけない。しかし、特にモノマネファンでもない私だが、なぜか時々、禁断症状のように無性に清水ミチコの芸を見たくなることがある(濃い芸なので、たまに見る程度がちょうどよい)。今となっては、まさに夢のような伝説のバラエティ&コント番組『夢で逢えたら』(フジテレビ)で、売り出し中のダウンタウン、ウンナン、野沢直子という強力なギャグ芸人を相手に、30年前のバブルに浮かれる若い女性の一断面を活写(?)した、人格&顔面破壊キャラ「伊集院みどり」を創作。その強烈なコスプレを演じきって、女優としての才能の片鱗も示し、単なるモノマネ女芸人を超えた存在になって以来、私は清水ミチコの大ファンなのだ。当時「渋谷ジァンジァン」のライヴまで見に行ったくらいだ。

伊集院みどり嬢
こんな感じでした
そういうわけで、久々にネットであれこれ情報を見ていたら、清水ミチコが主催しているYouTube『シミチコチャンネル』を発見した。既に開設後1年以上経っているらしいが、即チャンネル登録もして、これでやっと、あの芸を見たくなったらいつでも見られるようになって安心した。『夢で逢えたら』も、以前ネットで探したときはまったく見当たらなかったので、動画ではもう見られないと思って諦めていた。ところが最近はもうYouTubeで一部の動画を見ることができる(著作権がどうなっているのか知らないが)。いや、30年ぶりにあの動く「みどり」と対面して感激(?)した。はちゃめちゃ傑作コント「いまどき下町物語」も見られるし(清水ミチコは母親役)、今見ても、どのコントも本当にワイルドで面白い。出演者もまだ全員が若くてエネルギッシュで、芝居のテンションも高いので、この番組は今の普通のテレビ放送ならそれこそNG連発だろうし、「みどり」のキャラ造形も、いかに面白くても今ならまずNGか、炎上必至だろう(女性蔑視とかで)。ただ、「みどり」のメイクが最初に登場したときから、どんどん変わって(激しくなって)行くのに気づいて、また笑ってしまった。

ショーグン様の某国アナも
(タモリとの共演熱望)
清水ミチコは巷間「女タモリ」と呼ばれているそうで、本人もタモリからの影響を広言しているが、確かにこの二人には共通点が多い。師匠もいないし弟子も取らない、というピン芸人としてのストイックな矜持が感じられるし、普通の芸人と違って媚びない自然体のキャラも、どんな相手でもフラットに受け入れる包容力と姿勢もそうだ。芸のインパクト、独創性という点で、ビッグになる前のタモリのデビュー芸「4ヶ国語麻雀」に匹敵するのが、清水ミチコの「伊集院みどり」になるのだろう。モノマネも声帯、形態、顔面模写に加え、創作キャラ造形(いかにも本人が喋りそうな言葉や歌などを、デフォルメしてパロディとして表現する)を面白おかしく加えるところが芸としてのオリジナリティの源で、単なるモノマネ芸人と違うところだ。タモリの、今や古典とも言える寺山修司や「一関ベイシー」のマスターがそうだが、清水ミチコも高校時代の「桃井かおり」から既に、マネではなく「本人に同化する、なり切る」というコンセプトで取り組んで(?)いたそうだ。それにしても、女ピン芸人がほとんどいなかった30年前の「渋谷ジァンジァン」時代から、ほとんどその種の演目(基本的にはテレビ放映できないような ”密室芸” )だけで構成して、今や「武道館」で単独ライヴ公演を毎年開催する清水ミチコの天才ぶり、躍進ぶりは本当にすごいと思う。

本当はこんな感じの人らしい
後ろのCD,LPの量がすごい
二人に共通のバックボーンはジャズだ。早稲田のモダンジャズ研究会に所属していたタモリのジャズ通は周知のことだし、一方清水ミチコも、父親が元ジャズベース奏者で、実家は飛騨高山でジャズ喫茶を経営しているという。タモリはトランペットを(ピアニカも!)、清水ミチコはピアノを演奏し、タモリが恩人・山下洋輔と共演すれば、清水ミチコは早くからファンだった矢野顕子と共演するなど、二人ともプロ並みの半端ない知識と技量を持っている。ジャズは素材となる楽曲がまずあり、それを即興的にデフォルメ(インプロヴァイズ)してゆき、そのデフォルメという行為の中でいかに自分の「個性」を表現するかという音楽だ。そして自分の「話し言葉」をそのまま「楽器の音」に変換した音楽である(語るように演奏する)。だからジャズ・ミュージシャンの究極の目標とは、誰が聞いても分かる「自分固有の声(voice)」 を楽器で表現できるようになることだ(タモさんの有名な早稲田時代のギャグ話「マイルスのトランペットは泣いているが、お前のトランペットは笑っている……と言われてMCに転向した」は、ある意味、実にこのジャズの真理をついた言葉なのだ)。だが実は昔から、どんなジャズマンであれ、最初は先人や自分の好きなアーティストなど、「他人のコピー」(マネ)から入るわけで(昔はもちろん耳コピ)、ジャズの巨人たち、パーカーであれマイルスであれ、そこはみな同じだ。ジャズ全体はいわば、そうして過去の名人たちから延々と連なるコピーの連鎖で出来上がった音楽なのである(モンクの音楽は極めて独自性が強いが、それはモンクが単なる奏者ではなく、デューク・エリントンと同じく、70曲ものオリジナル曲を創作したジャズ界では稀有な「作曲家」でもあったからだ)。

したがってジャズ・ミュージシャンは、まず耳がよくなければならないし、他人の音を聞き分ける能力が重要だ。ガチガチに決められた音楽ではなく、即興でやる以上、ある程度の適当さ、いい加減さ、ユルさも必要で、その芸能的「自由さ」と、その対極にある即興演奏を極めるという芸術的「厳しさ」、すなわち緊張 (tension)と弛緩 (relaxation) が常に同居しているところがジャズの魅力だが、タモリ、清水ミチコの芸には常にその両方が感じられる。また音であれ言語であれ、どんな場でも「即興で反応できる」という能力、デタラメ外国語などを「それらしく聞かせる」ための自在なリズム、イントネーション技術もジャズゆずりだ。加えて清水ミチコが、音を即座に正確にとらえる「絶対音感」を持っていることが、そこに生かされているのはもちろんで、そうでなければ、あの矢野顕子と一緒にピアノを弾いて歌は唄えないだろう(タモさんについては知らないが、当然すぐれた音感の持ち主のはずだろう)。ユーミンから美輪明宏まで、「様々な声を生み出す」 驚くべき発声法も、声楽のプロ並みの技術はもちろんだが、その基になる音を精密に聞き分ける(分析する)能力がまずあるから可能なのだ。

笑いのプロなのだが基本的に「真面目にふざける」素人的なところ、笑いが乾いていてカラッとしているところ、社会人としてきちんとしているが、家庭の匂いをまったく感じさせないところ、など他にも共通点は多い。だがやはり、いちばん大きな共通点は、タモリの名言「やる気のある者は去れ!」という、常に肩の力を抜いて力まない態度であり、そこから生み出す笑いの中に感じさせる「イヤミのない知性」だと思う(すぐれたジャズにも、知性とユーモアが共存しているものだ)。これは他の芸人の中にはあまり見られない種類の「笑いと知」のバランスなのである。たぶん二人の唯一の違いは、タモリの笑いには、ある種のユニヴァーサル性があって毒気がないが、清水ミチコの芸は一種の冷やかし芸というべきもので、乾いているが、ギリギリの線を超えないレベルで、その底に「女性特有の毒(意地悪)」があって、それが独特の笑いのスパイスとして効いているところだろう(ただしモノマネの対象はほとんど、自分が好きな人や、ある分野で既に権威を確立した、たとえからかっても問題ないような人たちを選んでいる)。

YouTube
『シミチコチャンネル』
『シミチコチャンネル』は百面相と言うべき傑作モノマネ動画でいっぱいで、見ていると止まらなくなって笑いっぱなしになるが、対談動画もおかしい。中でも私が好きなのは黒柳徹子との傑作トーク『師に学ぶ』と『大竹しのぶさん対談』だ(清水ミチコは非常に聞き上手でもある)。黒柳さんのエジプトの駱駝のモノマネとか、カンボジアの迎賓館(宿泊所)の部屋で体験したという、壁を這うヤモリ夫婦と殺虫剤で対決した話、そのときの黒柳流「ヤモリ語通訳」や、平野レミさんの結婚式キンカクシ談、哀しくもおかしいお父さんの葬式の話(お父さんの引き出し…)等は、何度見ても笑いすぎて涙が出る。黒柳さんは、タモリや、清水ミチコが相手のときは本当に楽しそうで、本来のお喋り全開のまま止まらないといった感じ(トットちゃん状態)になるところが面白い。大竹しのぶとは、どっちが本人か分からなくなるような「魔性の女・大竹しのぶ」のイジリ方、突っ込み方と、天才女優同士(?)の「絶妙な」駆け引きも楽しめ、これも名作だ(特に大竹しのぶの表情は必見。ラジオでやっていた桃井かおりと大竹しのぶの対決も傑作)。

モノマネ動画は、今や古典となったユーミ "ソ” に始まり、以前は歌手が多かったが、最近は「however=しかしながら」の小池百合子「で・ござ・い・ます」のヒット(?)以来、また自民党が豊富なネタを提供している昨今の政治状況を敏感に察知し、笑える政治家ネタが増えてきて、最近では安倍晋三以下、河野太郎や、麻生副総理、さらに高市早苗などの顔面模写入り新ネタも披露している(麻生氏の「な!」には笑った)。どれも相変わらずシャープなイジリと突っ込みぶりがすごい。『シミチコチャンネル』では、他にも清水ミチコがモンゴルへ行って、動物を癒すという本場の歌唱法「ホーミー」を習得して、それを現地の駱駝や羊に試すが逃げられるなど(動物園のアルパカとかカピバラは成功)、清水ミチコの過去の名人芸、名作も、これでもかというくらい楽しめるので、お好きな人はぜひ一度(たまに)視聴することをおすすめしたい。

清水ミチコ氏は、これからみんなが歳をとって、段々モノマネする対象がいなくなる…という懸念を表明しているが、個人的な願望として清水さんに何とかお願いできないかと思うのは、(過去にやっているのかもしれませんが)「黒柳徹子、平野レミ、清水ミチコ」という強力女性トリオで、延々と(たぶん止まらないので)トークバトルを繰り広げるという企画です(当然ながら話の内容は何でもいい)。もちろん仕切り役は清水ミチコで、そこに、桃井かおり、大竹しのぶ、室井佑月、デビ夫人、瀬戸内寂聴、美輪明宏、小池百合子等(某国の女性アナ、「みどり」も可)が次々に参入し、場がぐちゃぐちゃになったところに、イグアナならぬヤモリになったタモリ(本物)まで乱入してきて、カンボジアでの黒柳さんの蛮行を「ヤモリ語」で非難して口論になり、そのまま抱腹絶倒のめちゃめちゃトークとモノマネ合戦になって、最後はめでたく4人による、文字通りの「ほぼ4ヶ国語(全員が勝手に喋る)」麻雀大会に流れ込む……という非常に分かりやすい企画です。若者はともかく、少なくとも中高年層には受けること間違いなしの、これぞ天才芸の集大成というべき企画案だと思いますが、早くしないと、みなさん誰もいなくなる可能性があるので、元気でおられる(生きている)うちに、できればぜひとも実現していただけないかとお願いする次第です。

2021/10/10

英語とアメリカ(8 完)妄想的未来展望

昨年夏のジャズ本に関する話の連載もそうだったが、今年の夏も、終わらないコロナ禍でヒマにまかせて書いてきたので、ジャズとは直接関係ない話がいつの間にかどんどん広がって収拾がつかなくなってきた。本テーマもこのへんで終わりにしたい。最後に「まとめ」として未来展望についての「妄想話」を一つ。

1990年代以降、バブル崩壊による金融破綻と産業界の低迷、デジタル化の遅れによる国際競争力の低下、さらには阪神淡路大震災や東日本大震災、原発事故のような大災害がこれでもかと連続し、まるで呪われたかのような平成の30年だった(安倍晴明でも呼び出したいくらいだ)。おまけに国全体の高齢化も加わって、日本の国家としての活力は明らかに低下しているが、その「とどめ」となったのが、1960-70年代の高度成長期に、東京オリンピック(1964)、大阪万博(1970)、札幌オリンピック(1972) と国際的大イベントを連続開催し、それを国家事業の成功譚と記憶している老人たちが中心になって、あの夢よもう一度と、莫大な資金を投入して誘致し、コロナ禍で反対する多くの国民の懸念をよそに、今年強行開催したオリンピック/パラリンピックという世界的イベントだ。

インバウンド需要をきっかけにして、ほぼ30年間落ち込んできた経済を一気に盛り上げようと目論んでいたが、初めからスタジアム設計、パクリロゴマーク、組織委問題、開会式演出等々と問題が相次ぎ、あげく世界的なコロナ禍に見舞われ、結局は内外から誰も来ない、見ない、「無観客」という前例のない環境下で縮小開催せざるを得なくなり、国家として、ある意味ダブルパンチを喰らうという悲惨な結果に終わったのが2020/2021である。コロナもなかなか収束せず、おおっぴらに酒も飲めず、国のリーダーたちは頼りにならず、いったい日本は今後どうなるのかと不安に思っている人も多いだろうし、中にはもうお先真っ暗だと思っている人もいるかもしれない――しかしながら、これもまた「国家の運命」と考え、悲観しすぎないことだろう。あまり嘆いたり不平を言わずに、日本はあらゆる面で、今は終戦以来の「どん底」状態にあって、逆に言えば「これ以上悪くなることはないだろう」くらいに開き直って、楽観的に将来を見た方が健康にも良いと思う。人生も国家も、急がず慌てず長い目で俯瞰してみると、意外なことに気づくものだ。なんだかんだ言っても、日本はまだ今のところは良い国なのである。

そこで、本記事の最後に、まったく何の根拠もない私の「個人的な勘」に基づく無責任な妄想的未来展望を申し上げれば、日本の「次の30年間は明るい」ものになるのではないかと「漠然と予測」している。というのは以下のように、明治維新以降、日本はどうも約30年周期で「浮沈(上げ・下げ)」を繰り返しているように思えることに最近気づいたからだ。ただし、いずれも主として景況感や政治状況から、その期間を総じて見れば「社会的テンション(世相)」が「ハイ(明るい)」だったか「ロー(暗い)」だったか、という観察にすぎず、何か裏付けデータがあるわけではないことをお断りしておきます(ただ、「景気」というように、その時代に生きる「人々の気分や空気」は、社会全体の動向にも、個人の人生にも大きな影響を及ぼすことがある)。

1870-1900(沈=明治維新後の混乱と近代化模索期)、 1900-1930(浮=日清日露戦勝利による国威発揚と大正デモクラシー期), 1930-1960(沈=日中戦争、太平洋戦争、原爆、敗戦、戦後混乱期), 1960-1990(浮=高度経済成長期を経て80年代の ”Japan as #1”、バブルへ), 1990-2020(沈=バブル崩壊、阪神・東日本大震災などの大災害、デジタル敗戦)、2020-2050 (浮=?)

さらに、ヒマなのでPCスキルを駆使して(?)、おおよその図を描き、各期間を大きなイベントを中心に埋めてみたのが以下のチャートだ。これを眺めていると、何となく、もっともらしい説に思えてくるような気がしないでもない……


生命体にはバイオリズム(bioとrhythmの合成語、身体ー感情ー知性の周期的変化)があるという仮説があり、人間の活動にも、その人生にも「周期的な浮沈のリズム」があると(占いなどで)言われている。企業の寿命と盛衰にも昔から30年説があり、たとえば芸能としてのジャズの歴史は100年以上と長いが、最盛期だったモダン・ジャズ時代は1945 - 75年と、これも30年間という寿命だったようにも見える(頂点は1960年前後)。まあ俗説にすぎないことは分かっているが、宇宙が一定のリズムで動いていることを考えると、地球という天体で生きる生物である人間がそのリズムに影響され、その人間の集団的活動もまた、あるリズムで変化するという考えも、別段、頭ごなしに否定するようなことではないか――とも思う。

また30年周期ということは、60年で「1サイクルの浮沈」ということになり、平均寿命80歳とすれば、これは成人後の人生の長さに相当する。つまり、日本人のほとんど誰もが、時期のずれはあっても「人生で、1サイクルの世の中の浮沈」(これは不可抗力)を経験するということであり、これはこれで神の公平な配材といえるのかもしれない。中高年なら、上図に自分の生年の位置を置いてみれば、おおよその世相の浮沈を過去の経験から想像できる。また、たとえば就職氷河期(90年代後半)を経て現在に至るまでツイていない世代(団塊ジュニア)にも、やがては「明るい時代」がやって来るという希望が(せめて)持てるかもしれない(?)

実は、面白いのは同じ期間に、ほとんど似たような周期で(国力と浮沈の程度の差はあるが)アメリカが日本とほぼ「真逆の浮沈」を繰り返しているように見えることだ。たとえば過去100年間に限っても、第二次世界大戦期(戦後はアメリカ最盛期)、ヴェトナム戦争時代(日本は高度成長期、1975年のヴェトナム敗戦時のアメリカは底?)、90年代に始まるデジタル革命時という各30年は、浮沈サイクルが日本と真逆の傾向にあるようにも見える(そうすると、アメリカの次の30年は「沈」ということになる?)。ただし繰り返すが、あくまでこれは私個人の単なる妄想であり、まったく根拠はない。ところが、念のためにネットで調べてみたら、何と日本のこの景況浮沈の30年周期について、同じような説を既に唱えている人が日本にいることを知った(私の妄想よりは信用できるだろう)。経済学では昔から短期、中期の景気変動説に加え、コンドラチェフの長期波動説等、景気循環論が提唱されているので、今の時代、データに基づいた科学的な検証を行えば、何かしら新しい傾向が得られているのではないかと思う。やがてはAIが、ビッグデータを駆使した総合的分析で、こうした人間の社会経済活動や国家の浮沈周期の存在、その理由等を解説してくれるかもしれない。

さて30年後に私はたぶん生きていないので、まさに無責任な話になるが、2021年という時点で推測される、次の30年間に日本が再浮上するための「唯一ポジティブなシナリオ」とは――《 独創性はあまりないが、特定の「プラットフォーム」(ここではデジタル技術、サービスを含む21世紀デジタル社会の基盤)がひとたび構築された後の、 日本人の学習・分析能力、創意工夫、実行スピード、高い品質は歴史的に実証済みなので、日本が今後、本気で社会の(再)デジタル化(DX)に取り組めば、その過程でもそうした能力が発揮される可能性がある 》ということだろう。その可能性を高めると予想される重大な「ファクト」は―― これまで年功序列をベースにした会社や組織など、社会の中枢にいて、20世紀の成功体験と意思決定権を持つが、デジタルに関する知識とスキルが欠けていたために、業務のデジタル化転換を主導できず、むしろ直接、間接両面でそれを妨げ、結果として過去30年間の日本社会全体のデジタル化への構造転換を遅らせてきた大きな要因と思える――我々のような「情弱中高年以上の年齢層」が、向こう30年間で徐々に退場してゆくことだ(アジアなど新興国のデジタル競争力の強さの要因の一つは、この生産年齢人口の若さであるのは明白だ)。

これは、戦後半世紀の日本の発展に尽力してきた年寄りにもっと敬意を払え――とかいう話ではなく、デジタル革命の勃興期(1990年代)から、残念ながら戦後の日本を牽引してきた世代(1930-50年生まれ?)の「高齢化」がたまたま重なったために、組織や意思決定プロセスの迅速なデジタル体制への転換が「より難しくなった」――すなわち、これも日本の「歴史的運命」だったという話である。しかし、次の30年間は、この世代交代によって日本社会の人口構成も変わり、新たなデジタル技術やサービスの開発、提供者のみならず、その利用者や、政治や企業活動の意思決定の中心を成す層が、遅ればせながらデジタル・リテラシーの高い若い世代に徐々に移行してゆく。過去30年間の出遅れが逆に幸いして、デジタル庁が唱える日本流の「人に優しいデジタル化社会実現」のための施策を基礎から積み上げ、それが社会に根底から浸透し、技術、サービス分野で他国にはない「日本ならでは」の知恵を使ったデジタル活用策が実際に生まれ、機能すれば、この国の産業や社会を根本的に作り変える可能性は十分にあると思う。それが30年周期説という「妄想」に基づく、唯一の希望的観測だ(そうなれば我々年寄りも、火野正平氏の名言「人生下り坂サイコー!」と叫びながら、残された人生を楽しく送れるかもしれない?)。

ただし、いずれにしろ今後の日本は、20世紀のようにデファクト化して「世界市場で主導権を握る」というような大それたことを目指すのではなく(太平洋戦争とデジタル戦争で懲りたはずだし、そもそも似合わない)、産業や文化など、あらゆる分野で世界に類のない価値創造を目指す「ガラパゴス・ジャパン」(英語だとSpecialty Japan?) という独自の道を、自虐的にではなく、世界の趨勢を俯瞰しつつ「戦略的に選択して」前進すべきだと思う。すなわち、総人口は減るが、団塊以上が徐々にいなくなり平均年齢は若返るという要素も含めて、国家も産業も「ダウンサイジング」してゆくというイメージ――つまり得意とする小宇宙化(盆栽化、弁当化)をさらに深化、洗練させて、国家のサイズに適した領域で生き残ってゆくことである。日本的伝統工芸などに限らず、ゲーム、マンガ、アニメの例に見られるように、声高に叫ぶことなく独自文化や技術を掘り下げ、それを控えめに発信しつつ、「世界に発見、認知してもらう」ことによって逆に自らの価値を高めることを、日本の基本的国家戦略にすべきだ。そしてこれは、日本人の特性と国家としての歴史的文脈にも合致した方向性だと思う。デジタル化はあらゆる分野で、そのコンセプトを支える有効な柱となり得るだろう。

最後に日米関係に関して言えば、大雑把だが常に前進し、変化している「ダイナミック・アメリカ」と、保守的で細部にこだわる「ガラパゴス・ジャパン」は、ある意味で水と油のようなものだが、「イノベーション」は、それを得意とするアメリカに任せて、日本はそこから生まれた技術やアイデアを「選別、洗練」させることに特化するというように、「競争」ではなく、お互いに得意とする分野で棲み分けて「協業する collaborate」こと、つまり従来の基本的枠組みの戦略的強化が、やはり両国にとっていちばん良いことなのだろうと思う。幕末の黒船以来の歴史的運命が示しているように、太平洋をはさんだ日本とアメリカの両国は、いろいろあっても基本的には相性が良く、これからも互いを補い合う良きパートナー足り得る可能性が大きいと個人的には信じている。加えてもう一つは、一党独裁化をさらに進めている中国の動向を睨みつつ、アジアでもっとも日本に友好的な人々から成り、かつ中華文化圏の歴史と本質を理解している台湾と、より密接な関係を築き上げてゆくことが、日本にとって政治、経済両面できわめて重要な選択肢になると思う。

本稿(1)冒頭の、菅総理(当時)のG7写真から受けた印象(世界における日本の立ち位置)と英語問題から思いついた話だったが、つい長い論文(回顧録?)のようになってしまった。その菅総理も、国民の不満を察知した自民党による「ガースー抜き」戦略(文字通り)のゆえに、あっという間に退陣してしまい、岸田新総理になった。

本稿もこれにて終了です。(完)

2021/09/26

英語とアメリカ (7)アメリカ文化

アメリカに関するこの記事を書いていて、昔、司馬遼太郎が書いたアメリカ紀行のような本を読んだことを思い出した。その本のタイトルが『アメリカ素描』だったことも思い出し、今は文庫本になっていることを知って、先日それを買ってあらためて読んでみた。今から35年も前の1986年に読売新聞社から出版された本で、1985年から86年にかけて司馬遼太郎が初めてアメリカを訪問し、西海岸、東海岸の主要都市を40日間ほど旅行したときの観察を基に、紀行文として書いたものだ。80年代半ばといえば、私が米国親会社の内部で仕事をやり始めた頃であり、また日本経済がバブルに向かって絶好調だった時代だ。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』とか『NOと言える日本』とか、威勢のいい本も出版されていて、戦後の対米劣等感から解き放たれて、もうアメリカとは対等だというような空気があふれていた。逆に当時のアメリカは、自動車や半導体で日本に追い抜かれるかもしれない、というプライドとあせり両面が背景となって、ジャパン・バッシングが全米各地で起きていた。

したがって、そうした時代背景も前提にして読むべき本なのだろうが、司馬遼太郎らしい、表層ではなく、常に「歴史の深層」を掘り下げようとする筆致は、初めて、それも短期間だけ訪れたアメリカを対象にしても同じで、わずか数週間、数都市の滞在とは思えないような深みのある洞察と表現で、アメリカという国家の本質を探り出そうと試みている。何を見ても、常に一度、日本や世界の歴史がどうであったかという背景や事実と結び付けてから考察する姿勢と、その作業を可能にする深く広範な知識に驚く。遠くの対象にカメラのピントを徐々に合わせていくように、ある種の臨場感と生理的快感を常に感じさせる文章なので、今読んでも古くささのない、すぐれた文明論になっている。この本は、デジタル時代が到来する前の80年代までのアメリカを観察したものだが、アメリカという国家の本質をとらえようとしているので、その後私が経験上感じたり、考えてきたことを多くの点で裏付けている。同時に、イギリスのピューリタンに始まり、ヨーロッパ各国からの移民や、アジア系移民の歴史等、米国史の常識というべき事実を、おさらいのようにあらためて思い出すことも多く、WASPを頂点とする移民の重層性とヒエラルキーなども、なるほどと頷くことが多い。

特に「多民族による人工国家」という認識をベースにして、文明(普遍性)と文化(個別性)という切り口でアメリカを語った本は、今はともかく当時はまだなかったように思う。19世紀までのヨーロッパの近代文明に続き、アメリカは20世紀に生まれた「文明の国」であり、その文明は「多民族性、多文化性」という、この国が創建された時から内包する複雑なフィルターを経て、濾過されてきたものであるがゆえに、本質的にグローバル(当時はまだ、この言葉は使われていなかったが)に受容され、拡散されるという普遍性を持っている、という指摘はまさしくその通りだ。日本も、戦後の半世紀でアメリカ化されることが当たり前の日常となり、戦後生まれの我々は、子供時代から映画やテレビドラマ、飲食物、自動車、電化製品等を通して、便利で快適なアメリカ文明(=アメリカ文化)を体の芯から刷り込まれた世代だ。こうした国民レベルでの、日常生活の「アメリカ化」という蓄積があったからこそ、アメリカという手本に追いつけ追い越せ、という具体的目標とモチベーションが生まれ、日本の産業も経済も発展したのである。

90年代以降のデジタル時代になっても、「さらに便利で快適な生活」を提案するGAFAのようなビジネスを通じて、世界中で絶えず「アメリカ化」が進行してきた。私もコロナ禍の最近などは、気づくと毎日家の中で何の抵抗もなくAppleのスマホやWin PCを使って交信し、MacやWinのOS上でGoogleで検索し、MS/Wordで翻訳原稿を書き、Macオーディオで音楽を聞きながらGoogle Bloggerでブログを書き、YouTubeで動画を見たり、音楽を聴いて楽しみ、普通にAmazonであれこれ買い物をしている。そうこうしているうちに、GAFAは世界中の国や人々の日常生活の奥深くまで浸透し、知らず知らずのうちに(個人情報を収集しながら)、それらの国や地域固有の思想や文化に影響を与えているのである。その圧倒的な影響力、支配力と、今や自分がほぼ無自覚にそれらの「サービス」を日常的に利用していることに、正直言って時に恐怖すら覚えることがある。

ギリシア、ローマ、中国などの古代文明から19世紀の西ヨーロッパまで、「文明」とはそもそも、ある国や地域固有の「文化」が政治、経済、軍事等のパワーを背景にして、周辺地域に徐々に浸透し、その過程でそれら周辺文化も吸収しながらさらに深化、拡散する、という普遍化プロセスを経て成立するものだ。ところが20世紀の「アメリカ文明」は、国家の成立時から既に普遍性を内包しており、その下で形成された「アメリカ固有の文化」が、国力を背景に短期間にそのまま世界に拡散したところがユニークなのだ。20世紀の情報伝播速度が飛躍的に上がり、デジタル化によってさらにそれが加速されているという時代背景も違う。本稿中でも挙げたように、そうしたアメリカ文化を象徴するコンセプトないしキーワードは――ヴィジョン(理想)、ミッション(使命)、フロンティア(最前線)、リモート(遠隔)、チェンジ(変化)、スピード(速度)、チャレンジ(挑戦)――等、本稿で挙げてきたアメリカ人が好む概念や行動を表す特質だが、中でも「Change(変化)」こそが、これらの特質に通底するアメリカ文化の本質ではないかと思う。

私は昔から、アメリカ人には常に 「Change」への脅迫観念(=常に変化し続けなければならない)があるのではないかと思ってきた。アメリカ人はよく働くが、それは日本人が美徳とする「勤勉」とはまた違うもので、「じっとしていると競争相手に負ける、置いて行かれる」という、資本主義の権化のような国に生きる人間特有の恐怖心のようなものだと思う。これは産業界だけでなく、たとえばマイルス・デイヴィスが米国音楽界で「芸術音楽としてのジャズ」というジャンルだけでなく、「ジャズ・ビジネス」の世界でも成功した稀なミュージシャンだった理由の一つでもあると推測している。第二次大戦後からマイルスは、ビバップ/クール/ハードバップ/モード/フュージョン/ファンク……と、演奏スタイルを時代に応じて(約5年ごとに)意図的に変化させ続けたが、これほど自身の音楽上のスタイルを変え続け、それでいながらジャズ界のリーダー的地位を確保し続けたジャズ・ミュージシャンは他にいない。もちろん才能あってのことで、芸術上の理由もあるだろうが、聡明なマイルスはむしろ、そうし続けないと「米国人聴衆に飽きられるのではないか」と恐れ、あるいはそれを見抜き、先手を打っていたのではないかというのが私の想像だ。

司馬本にも出て来るが、何年かすると「街の様子」がすっかり変わってしまう、というのも「Change」の象徴で(田舎は別だが)、資本主義社会の非情と移ろいやすさを表している。その例として、廃墟のようになったドック群を見て、フィラデルフィアの造船業の盛衰史を語っているが、ピッツバーグの鉄鋼も、私が90年頃に実際に見たデトロイトの自動車も同じだ。栄えていた街や地域が急速に廃墟化する様は、日本のように穏やかな文化を持つ国の人間からすると、本当に強烈なショックなのだ。20世紀後半に、これらの産業はみな日本に一度主役の座が移ったが、その次に鉄鋼、造船が韓国へ、さらに中国へと生産の主力が移ったのは歴史が示すとおりだ。半導体や電子機器の歴史も同じである。1980年代のアメリカ人が感じた、身の回りから国産品 (Made in USA) が徐々に消えてゆくという喪失感を、21世紀になって感じているのが我々日本人なのだ。それが資本主義であり、それもわずか数十年という期間にその変遷が起きているのである。日本に追いつかれた(表面的に、だが)アメリカは、半世紀の間、世界を主導していたそれらの国内製造業をある意味でスクラップ化し、それに代わる新たな産業をまた生み出したが、それが(80年代の準備段階を経て)90年代から始まった、インターネットとコンピュータを駆使したデジタル革命による産業のIT化だ。実物経済ではなく「カネがカネを生む」というウォール街の投機ビジネスを目にした司馬は、「モノ」を作らなくなったアメリカはいずれ亡びるのではないか……と80年代的に危惧しているが、一度沈んだかに見えても、再浮上するための資本と人材(リソース)を常に潤沢に維持し、次の成長を支える戦略と制度を常に見直している真正の資本主義国家アメリカは、90年代以降は「サービス」で復活を遂げたのである。

新聞紙や包装紙を再利用して大事に使っていた昭和30年代の日本に、アメリカ生まれの「使い捨て」ティッシュペーパーが初めて登場したときは本当に驚いたものだ。米国は他の国と違って、土地も資源も豊富なので「eco」という概念がそもそも稀薄だ。地球規模で「大量生産と大量消費」という概念とシステムを広め、その効用と利便性と引き換えに環境危機を生み出した最大の要因は、我々の生活を欲望の赴くままに、世界規模でひたすら便利に快適にしてきた「アメリカ文明」にあると思う。程度の差はあれ、世界のどこでも便利で快適な生活がひとたび実現すると、人間はもう元に戻れない。しかも90年代以降のデジタル化で、モノだけでなくサービスまでが自在に利用できるようになると、さらにその先の便利さが欲しくなる。1日かかっていた仕事が1時間ですむようになると、もっと短くできないかと考えるようになる。人間の欲望には際限がないので、ますます便利で快適な生活を求める。結果として、貧しかったがゆったりしていた生活から、便利で快適だがあわただしく、小忙しい毎日へと人間の世界が変わってゆく。低コストで大量に生み出したモノがあふれてゴミになり、地球規模で環境を汚染し、生産活動に大量に消費していたエネルギーゆえに天然資源は枯渇する。脱炭素もSDGsも、こうした地球規模の問題を解決しなければ、もうやっていけない状態に近づいているという危機感から生まれたものだ。最近になって、マルクスの『資本論』やマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のように、根源的な問いに答えてくれそうな(懐かしの)思想がまた注目を集めているのも、人々がこの状況に本当に危機感を抱き始めたからだろう。

こうした功罪両面を持つアメリカ文化(文明)を生み出してきた「アメリカ人」に関しては、人それぞれのイメージを持っていることだろう。複雑な背景を持つ国なので、一言で「アメリカは…」とか「アメリカ人は…」とかはもちろん言えない。私が長年経験したと言っても、アメリカの中のほんの一部の企業、地域のコミュニティに関することにすぎず、それをもって一般化できないのももちろんだ。だから、あくまで限られた体験に基づく個人的感想だが、あえて言えば、アメリカ人からは、異民族や植民地統治の長い歴史を持つイギリス等、ヨーロッパ各国のような思想的複雑さや、ある種の狡猾さ(「思慮深い」「洗練された」とも言う)は感じられない。アメリカ人は「総じて」シンプルで、フランクで、フェアな人たちだという印象を持っている(人種差別の問題は、米国の基礎疾患のようなものなので別の話だ)。

私はアメリカのドタバタ喜劇映画が昔から好きで、シリアスな局面でも、事態や自分を茶化す乾いたアメリカン・ユーモアが好きだ。日本人もそうだが、何かあっても、しつこく恨みを抱いたりしないおおらかさもいい。アメリカとアメリカ人についての、全体としてポジティブな私の見方は、幸運にもこれまでの長い交流の中で、本当にイヤな体験をほとんどしてこなかったせいなのだろうと思う。ただし、群れることを嫌い、オフィスでも個室やパーティションで区切られた世界を好む彼らは、自由の国にいながら、どこか孤独に見えるのも事実だ。それとどこかでも書いたが、アメリカ人は成長してアメリカ人「になる」のであって、一方、日本人は生まれながらに日本人「である」、という両国民のアイデンティの認識は、基本的価値観の違いを知る上で重要だと感じることが多い。

一方、移民国家としての米国には、他国から見ればおかしな点や欠点もたくさんあるだろう。私が気づいたその一つは、トランプ時代が象徴しているように、アメリカが世界の中心だという意識が強く、歴史の短い自国のことしか知らない、関心がない、という人間が総体として多いので、異国の歴史や文化、そこに住む外国人がどのような存在なのか、その多彩さに思いを巡らせる「想像力」を欠いている人が多いことだ。その結果、何ごとも「自分たちが良いと思うこと」は世界中のどこでも通用する、と楽天的に(傲慢にとも言えるが)信じ込んでいるところが「普通の」アメリカ人にはある。だから国や民族、文化の微妙な違いなどは無視して、自国の価値観を強引に押し付けたり、大雑把に「アメリカ人」がいるように「アジア人」もいるというような、ある意味で「雑な」思想や姿勢が、政治問題、企業の事業戦略や運営から現在のアジア系ヘイト問題に至るまでの背景にあるように思う。

当然だが、逆にそれが「歴史や伝統にとらわれない」という自由、進取、革新の国民性、文化という長所を生み出してきたわけで、科学技術の発明、市場創造、起業精神のみならず、20世紀の映画やジャズのように、まったく新しいアートやエンタメ産業を生み出す土壌にもなっている。バラバラな出自の移民をまとめるために、まず共有すべき理想(Vison) を掲げて前進しつつ、人類がかつて経験したことのない社会を作ろうと、失敗もリスクも容認しながら、今も挑戦し続ける真に「実験的な国家」がアメリカなのだ。一方、同じ人種で長い歴史を持ち、互いを良く知り、和を重んじるための約束事が多く、変化やリスクを避け「何事にも慎重な」日本は、文化的にその対極にある国と言えるだろう。(続く)

2021/09/10

英語とアメリカ(6)デジタル化

世界のデジタル競争力
スイスIMD調査
日本経済新聞 2020年10月
日本のデジタル化が、世界の趨勢から見てどの程度遅れているのかは、5Gとかスマホの進歩とか、表層的話題で覆われているので日常的に実感するのは難しいが、世界では様々な指標を用いて分析されている。何を指標にするかで当然評価は変わるし、左表(スイスIMD)の「デジタル競争力ランキング」はその一つだが(知識、技術、将来への準備、の3項目で評価)、1位の米国は当然として、他のどの分析を見ても、日本の順位にそれほど大差はないので、この表の順位(27位/63ヶ国中)あたりが世界における客観的な立ち位置だと考えていいのだろう。見ての通り先進国はおろか、アジア主要国の中でも最低で、途中が省略されているがマレーシアより下、しかも、さらに沈下中だ(IMDの分析データ詳細はネット上で見られるが、中でも知識/国際的人材、技術/法規制の枠組み、将来/企業の俊敏性などの評価が最下層に近い)。コロナ禍のワクチン接種の問題等によって、従来から(大昔から)指摘されていた縦割り行政に起因する中央、地方官庁のデジタル化のお粗末さ(いまだにFAX、各地でばらばら)が顕在化したこともあって、菅内閣による「デジタル庁」という役所が異例の速度で創設され、今月からスタートした。

そこで、とりあえずホームページを一読してみた。まず気になったのは「ミッション(Mission)」と「ビジョン(Vision)」だ。ミッションが上に書かれていて『誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化を。』で、次にビジョンが来ていて『Government as a Service』、『Government as a Startup』と2つが書いてあるが、どうもミッション、ビジョンの順序と内容が逆のような気がする(それに、なぜビジョンだけ英語なのかも謎)。本稿の(2)で書いたが、Vision/Mission (/Strategy or Value) は、元々はP・ドラッガーが、20年くらい前に米国で提案したビジネス戦略の立案プロセスを概念図化したものだ。詳しくは知らないが(親会社もそうだったので)本場(?)のアメリカでは当然「Vision」が上位概念(ピラミッドの頂点部分)だろうと思う。例によってそれを輸入加工した日本では、Web上の企業のホームページやコンサルタント会社の記事も、半分以上はMissionが上位に来ていて、しかもVisionと内容的に区別がつかないケースが多い。読んでもよく分からないような曖昧な表現も見受けられる。借り物の概念を使って、日本人の思想、視点で作ると、どうもそうなるようだ、と理解した。これが、あらゆる日本型組織の方針設定等に見られる特徴であり(総花的で焦点が曖昧)、運営上の混乱の源のような気がする。

(3) で書いたように、ものごとを見ている視点、視界が違うからだろう。まず、長期的に「あるべき未来図」(Vision)を常に思い浮かべるのが習性になっている(歴史が極小のフロンティア志向の)民族と、まず自らを律する「使命(任務)」(Mission)を先に思い浮かべる(長い過去を引きずり、その延長線上に生きている)民族の差ということなのだろう。ほとんどのアメリカ人がまず「現在から見た未来」に目を向けがちなのに対し、日本人が常に「過去から始まる現在を見る」傾向があり、相対的に未来に目を向ける比率がアメリカ人より圧倒的に低いという分析があって、私も実際にその実験に米国親会社の研修で参加したことがあるが、実にその通りの傾向が見られた。つまり過去へのこだわりの強さ(日本)、未来へ託す希望の強さ(米国)、の差とも言える。また翻訳の仕事をしてあらためて分かったのは、英語と日本語における過去形、現在形の表現にもその違いが表れていることだ。英語の文章や会話では、過去ー現在完了ー現在ー未来の「時制表現」は文法上ほぼ明確だが、日本語では、同じ文章や会話の中で過去と現在を行ったり来たりして、過去のことなのに、あたかも現在のことのように現在形で表現していることが多い。これは「歴史的現在」と呼び、英語にもあるが頻度が違う。特に小説や会話で頻出するが、英→日翻訳の場合は日本語を工夫して、過去のことではあっても部分的にあえて現在形にした表現で訳さないと、みんな「…た」で終わってしまい、単調でおさまりが悪い文章になる(意識して日本語の文章を読んでみたら分かります)。

何が言いたいのかというと、社会全体のデジタル化のような根本的変革は、過去(アナログ思想)の延長線上で徐々にやろうとしても、うまく行かないということである。つまりアメリカ型の、未来を見据えたラディカルな「Change」思想が必要で、昔の日本が得意とした徐々に前進させてゆく「カイゼン」思想ではうまく行かないということで、それが過去30年間の日本のデジタル化失敗から得られた教訓だろう。それを打破すべく、遅ればせながら「デジタル庁」を創設したことは一歩前進と評価したいが、それにしても上記ミッション、ビジョンの設定はどうもしっくりと来ない。国家として2021年のフェーズで重要なのは、「行政手続き」のデジタル化とか、「紙からデータへ」というデジタル化の初期(20年以上も前だ)に期待されたスピードと効率向上という単純な効果(digitization or digitalization) ではなく(もちろんそれすら実現できていないのだが)、むしろ社会的ツールとしてのデジタルを、国としていかに活用して、社会の在り方そのものを変えてゆくかという構想 (digital transformation; DX) の方だろうし、もちろんそのことはデジタル庁の中でも議論されている。

ただし社会のデジタル化は万能ではないし、移行の過程である程度の歪や痛みも伴う。アナログ世界の何をどこまでデジタル化したら国家として最も望ましいかは、当然ながら各国の歴史や文化に関わってくる問題なので、その最適解は国ごとに違うと思う(やがては各国が、その国に適したバランスで落ち着くのだろう)。だから日本における「デジタル化の理想」を協議した結果が、いかにも日本らしい『人に優しいデジタル化社会の実現』だという結論に至ったなら、それこそをデジタル庁が音頭を取って日本国民が共有し、目指すべき「ビジョン」とすべきではないか。「誰一人…」は情報弱者、高齢者等への配慮だろうが、「人にやさしい」で表現されていると考えれば(標語は短い方がいいので)言葉としては不要だろう。そのためにデジタル庁が担うべき使命(ミッション)が、『Government as a Service』=「国、地方公共団体、民間事業者、その他あらゆる関係者を巻き込みながら有機的に連携し、ユーザーの体験価値を最大化するサービスを提供します」、と『Government as a Startup』=「高い志を抱く官民の人材が、互いの信頼のもと協働し、多くの挑戦から学ぶことで、大胆かつスピーディーに社会全体のデジタル改革を主導します」であるべきだろう(ただし、文章が長いし、もっと他に重要な仕事や、簡潔な表現がある気もするが)。

懸念するのは、デジタル庁がデジタル・インフラのさらなる整備・強化や、デジタル・ビジネスの自由な発展を支援し、促進する――ならいいが、民間の仕事に横から口を出し、利権がらみで上から規制したがる恐れがあることで(担当大臣のこれまでの言動、デジタル監の人事問題に既にその兆候が表れている)、その行動と成果を注視してゆく必要があるだろう。だから、この役所創設の「目標」設定と「任務」の定義は重要で、それが曖昧だと、従来の「日本的役所」がまた一つ増えるだけの話になって、デジタルによる効能「スピードと効率アップ」どころか、相変わらず利権を貪る輩の餌食となって、税金の無駄使いに終わる可能性もある。上図のように世界的に見て明らかに遅れていること(ほぼ手つかずであること)と、コロナ禍の混乱や制約の問題(社会的にニーズが高まっていること)が「逆に幸いして」、今はデジタル技術やサービスを駆使して、ほぼゼロベースで日本を変革できる千載一遇のチャンスであり、その「変革プラン」の策定は日本の未来にとって極めて重要だからだ。成功すれば、沈みっぱなしの過去30年間から脱却し、日本ならではの新たな価値創造を通じて、日本が真に生まれ変われる可能性さえあるのだ。

たとえばデジタル技術や機器による通信インフラが整備され、その有効性がようやく実証されつつある今、個人レベルでも「地方への移住」という選択肢の可能性がかつてなく高まっている。従来から指摘されていることだが、社会全体として見ても、「人口密度」と「地価」が異常に高い大都市圏に国や企業のリソースを集中させ続けることは、日本の産業構造の持つ「宿命的コスト高」から逃れられず、かつ今回のコロナや地震のような災害時の「社会的リスク」が増大するだけで、もはやプラスの要素は何もない。コスト(地価)の安い地方に拠点を分散し、従業員はゆったりとした地方で、広い居住スペースと安い生活費(住居費)で暮らし、容易になったホームオフィスやオンライン会議、満員電車から解放された短時間通勤等で家庭と仕事をバランスよく両立する、そして、そうしたリソースの分散・移動によって地方に雇用を創出して地域を活性化する、また観光客も呼ぶなど過疎化対策にも寄与する、さらに、これまで制約の多かった女性や障がい者が、家にいながら、もっと自由に働けるような条件や環境を整備する――等々、デジタル技術の社会的活用は、これまで日本では克服するのが困難だったそれらの課題を実現するためのインフラ、ツールとして強力な潜在能力を秘めている。そのための法整備や既存の慣行の改革も必要だ。それらの結果として社会の在り方、価値観そのものを変えてゆく力もある(transformation)。単に「テレワーク化をもっと進めましょう」とお願いするのではなく、その変化を強力に推進するための政治的指針と、支援のための施策が重要なのだ。

もっと言うなら、「長期的視点」から国土全体への人や資源のバランスの取れた「再分配」を最優先課題とし、その「大構想の下で」、デジタル技術とシステムを最大限活用して抜本的改革を目指す『21世紀型の日本列島改造論』こそを国家戦略として官民共同で策定し、計画的に実行すべきではないか。そこでの「デジタル庁」最大の任務は、その「長期戦略策定と実行」を、省庁を横断的に統括して推進する司令塔であるべきだ。そして、上に立ってその大改革を主導し、「1億人の国民」が将来も安定した生活を送れるような施策を提案、実行することが、国政を担う政治家の最大使命だろう。日本国内だけでなく、「台湾」のようにデジタル化が進んでいる海外の「友好国」と密接に協業し、その知見やリソースも活用するなど、国際的視野を拡げ、柔軟に取り組む政治的リーダーシップも必要だ。

政策より政局好きで、派閥間の権力闘争にしか興味もなく、頭の中は「昭和」のままで、デジタル世界の ”デ” の字も分からず、80歳を越えてなお反社のボスさながらの言動で権力にしがみつく老人たちや、金と利権にしか興味のない無為・無策・無能の3無の政治家たちにはとっとと引退してもらって、古い制度を大胆にスクラップ化し、同時に未来の「グランド・デザイン(大きな絵)」を描き、主導できる新たな政治家やリーダーが現れることを一国民として切望する。無用・無能な国会議員の数を半減させ、定年制を導入して全体を若返らせ、一人あたりの議員報酬レベルを上げ、その待遇に見合う能力とプライドを持った、真に優秀な議員を「厳重に選別」するための制度構築が必要だろう。また現代の日本に存在する、もっとも有効な「未開拓リソース」は女性だ。たぶん、この国の未来を救うのは、過去のしがらみに縛られ、忖度しながら生きる常に内向きな「日本の男」ではなく、広い視野で世界を知る、真に優れた女性リーダーではないかと思う(ただし、男中心の政治世界で生き抜いてきた老獪な女性政治家とか、反対を声高に叫ぶだけの古臭い左翼的女性ではない)。いずれにしろ、世界を知らず、また知る努力もしない、狭い日本の、そのまた一地方や一団体の利益代弁者とその後継者が国政を担えるような時代はもうとっくに終わっているのである。(続く)

2021/08/28

英語とアメリカ(5)リモート

英語の会議では「テーマ」が前述のように、具体的<<<抽象的というレベルの順で難しくなるし、「相手の数」が1人< 少人数<< 大人数、 という順で当然難易度も上がる。1対1なら、質問しながらでも何とかして議論できる可能性は高いだろう。しかし相手の人数が増えるにつれて、通常は会話のスピードが上がり、やり取りが複雑化するので、徐々に質問するのさえ難しくなる。また議論そのものの難度だけでなく、長時間ずっと英語で聞き、考え、喋るという頭脳の疲労がそこに加わるので、「普通の日本人」では疲れ切ってしまって、とても議論などついて行けなくなることが多い(そこに、やたらと長い夜の会食まで加わると、もうへとへとになる。ただし、いずれも「場数と慣れ」の問題でもある)。

Blues People
LeRoi Jones
(Amiri Baraka)
私がいた米国系企業がそうだが、上司や経営者層と重要案件を協議する場合、現地社員は自分の言葉(ネイティヴ言語)ではなく、「支配階層の言語」しか使えない。ということは、いくらこちらの意見が正しいと思っても相手の方が(当然ながら)英語がうまい(?)ので、結局は議論でも負ける可能性が高くなる(もちろん力関係もある)。相手にも優秀な人もいれば、そうでない人もいる。どう考えてもこちらの言い分の方が妥当だと思えるのに、単に相手の方が英語がうまいというだけで、結局は議論に負けて不本意な決定になるのは本当に悔しいものだ(人にもよるのだろうが、私の場合)。戦後日本の進駐軍時代や、世界各地の植民地時代の被統治民もおそらく同じような心境だっただろう――もっと言えば、西アフリカから奴隷としてアメリカ大陸に連れて来られた黒人たちは、こうして自分たちの唯一のアイデンティティだった「言語」を剥奪され、隷属させられたのか……とまあ、大袈裟に言えば、ついジャズのルーツにまで思いを馳せるような苦しい経験を何度もした。バイリンガル環境で育った日本人、あるいは若い時から英会話を徹底して訓練してきた人たちを除けば、100%の英語環境の中に一人で置かれた大方の日本人は、一度はきっと、こうした自己に対する無力感、無能感、ついには諦念(もう、しょうがないか…)に近い心情を抱くのではないだろうか。

私の場合もっとも必要だったのは、社外の人(顧客など)と交流、交渉するための英語ではなく、また(ずっと日本勤務だったので)外人上司や同僚との世間話でもなく、あくまで社内における「業務上のコミュニケーション」(協議、会議等)のための英語だ。したがって「目指した英語」とは、日常会話などは二の次で、とにかく英語ネイティヴと「普通に協議でき」、重要テーマなどにおける「議論で負けない、説得力のある英語」だった。そして、いろいろと試した結果、それを可能にするのは、結局のところロジック(論理)しかない、と思うに至った。ただし日本語で頭の中で考えたことを、そのまま英語に変換して説明しても彼らには理解しにくい。表音文字アルファベットを一つ一つ組み立てる、という英語圏的ロジックに置き換えて説明しなければならない。そのロジックさえしっかり組み立てれば、英語の表現自体が多少下手でも十分に意思は伝わるし、西欧人は、そうしたロジックに沿ってさえいれば、少なくともこちらの言い分を聞こうとするし、理解できるからだ。

そのロジックを鍛えるのにいちばん良い方法は、メール、レポート、論文、何でもいいが、下手でもいいから「英語の文章をたくさん書く」ことだと思う。自分の考えを、「簡潔に、論理的に」英語の文章として書き出す訓練を続け、仮に重要な議論の機会があれば、事前にその「文章」を相手に渡して説明しておく。口頭だけの議論だと、瞬時に良い言葉やフレーズが見つからないケースがよくあるが(語彙が少ないのでアドリブがきかない)、こうしておけば、こちらの基本的な考えは事前に理解されるので、会議では互いの疑問点だけに絞って議論できるし、文章での表現が会話時のフレーズにもロジックにも自然と生きてきて、説得力が増す。この手法は経験上も非常に有効だった。

……とまあ、エラそうに書いてきたが、実を言えば、私も当初は英語の会議に出席するのが本当にイヤで仕方がなかった。何せ実際に英語中心の仕事になったのは40歳を過ぎてからで、読み書きはともかく、もっと若い時から英会話を学習しておけば、と何度思ったかわからない。たぶん100%外資なら諦めもついて、言語も思想も思い切ってすべて米国流に従えば、それほど躊躇したり悩むこともなかったのだろうが、日米双方に片足を置いて、両親会社や日本人の上司や社員に忖度しながら仕事を進める合弁会社は本当にややこしいのである。

合弁会社勤務で身に付けたもう一つの個人的スキルが「PC」だ。米国親会社は、まだ郵便と電報による海外交信が普通だった1980年代(インターネットが普及する前)から、至急案件の場合に専門オペレーターに原稿を渡し、文章で交信したそれまでの通信方式「テレックス (telegraph-exchange) 」に代わって、IBMの「PROFS」という、コンピュータ画面にキーボードで文字を直接入力して、「瞬時に」海外と英文で交信できるEメールの前身ツールを使い始めていた。電話や自動車、さらにインターネットと、長距離通信や移動のための機器をアメリカが次から次へと発明したのは、日本の狭い国土とは正反対の「広大すぎる国土」という地理的制約のゆえだったのは明らかだろう。「見える顧客」よりも、「見えない市場」というビジネス上の視点や概念も同じだ。つまり建国時代から、先のよく見えない「フロンティア」と「リモート」への挑戦こそが、アメリカ文化や産業のキーワードであり、やがてこれがインターネットとデジタル革命という、国境を超えたグローバル化思想へとつながる。もちろん次は宇宙がその対象である(これらの技術開発の大前提に、軍事があることは自明だ)。

その後'90年代になると、親会社では事業のグローバル展開とインターネットの普及に合わせて、部長や役員といった役職とは関係なく、英語のメールは当然として、PCをツールとして使った仕事を要請されるようになった。米国企業では、日本と反対で一般的に上に行けば行くほど管理職がよく働くというのは本当だ。若い部下や秘書任せではなく、自分でWord、Exel、PowerPointなどの使い方を勉強し、資料を作り、それを使ってプレゼンするのである。もちろん、これは’90年代のデジタル革命後の、すべてが忙しくなってからの話だ。また給与体系も年功序列の日本と違って、リーダー層の地位、労働量と給与がシンクロしている。つまり忙しいが、給料も高い。さらに「SAP」のような、コンピュータによる先進的な全社的業務&リソース・マネージメント・システム(ERP)も'90年代後半から導入していたし、20年以上も前から、PCで作成したプレゼン資料をインターネットを通じてリアルタイムで画面表示する普通のPC端末と、複数参加者が互いの発言をやりとりできる国際電話だけを使った「グローバル電話会議」を、世界各地(米、欧、アジア)を直結して毎日のように実施していた。「リモート」が普通の彼らは、日本人のように「相手の顔が見える、見えない」、ということにはあまりこだわらないので、コスト高だったテレビ会議ではなくとも、業務コミュニケーション上はそれで十分だったのである。

もちろん会議はすべて英語なのでこちらは疲れるし、米国中心なので時差の問題はアジアがいちばん不利だが(夜間、深夜になる)、その点を除けば、まったくシームレス、タイムレスな国際会議が可能だった。もちろん会社だけでなく、インターネット環境と普通のPCと電話さえあれば自宅からも参加できたので、夜中に会社にいる必要もない。つまり、世界(日本)のどこに住んでいようと会議参加はできた。だからグローバル電話会議が終わった時点(日本では真夜中が多かった)で、普通はネットにつながったPC画面上で会議要点をまとめた資料や議事録(WordやExel) はもう完成していた。もちろん、それを稟議書にまとめてハンコをついて回して承認する、というような日本的プロセスも必要ない。

これは最近の話ではなく、今から10年、20年も前のアメリカの会社の「実話」である。デジタル時代になってから随分時間が経っているにもかかわらず、いまだに全員顔を合わせる「対面協議」を重視し、だらだらと続ける日本の会議や打ち合わせ、意志決定プロセスの非効率さとスピードの遅さは、信じ難いほどである(そこがいい、という意見があることは承知の上で)。コロナ禍のおかげで現在、日本でもやっと普及しつつあるテレワークやオンライン会議(飲み会含む)もそうだが、たとえば「電話では失礼だ」というビジネス上の慣例にも見られるように、声や資料だけでなく「相手の顔が見えないと、どこか落ち着かない」という対面重視の日本文化、日本的感覚が、(それが良い悪いという問題とは別に)これまで日本における業務のデジタル化を遅らせてきた大きな要因の一つだろう(今はヴィジュアル情報の通信技術が劇的に進化したので改善されつつあるが、これまではトータルで、どうしてもコスト高になった)。

コロナ禍で、通信とPCのインフラ、その活用方法が日本でもようやく一般化し、今後リモートワークの環境はさらに改善されてゆくだろう。住環境の面から見ても、狭い国であるにもかかわらず、毎日、満員電車で何時間もかけて一斉に定時に出勤して一箇所に集まり、顔を合わせて仕事をした後(しかも残業までして)、また何時間もかけて帰宅する、という慣習を変え(られ)ない大都市圏のサラリーマンの膨大な、無駄と思えるエネルギーも大きな問題だ。米国親会社のほとんどの社員は、(田舎ということもあって)遠くても車でせいぜい30分以内の通勤時間であり、残業もほとんどしない。一方の日本人は、通勤も含めて毎日の生活に時間的ゆとりがないので、疲れ切ってしまい、どうしても目の前のことにしか関心が向かわず、長期的なこと、根本的なこと(観念的、抽象的なこと)をじっくりと考える余裕も、習慣もなくなるのではないだろうか(その分、憂さ晴らし的な業務後の飲食が増える)。おまけに昔と違って今や国も貧乏になり、給料もまったく上がる気配のない日本の勤労者の生活(QL)は、つくづく貧しいと思う。

だが民間企業レベルはまだマシで、コロナ、ワクチン、オリンピック等の国家的課題への取り組みのトップで旗を振るべき日本政府、政治家、官公庁のデジタル化への意識と体制は、もはや手遅れと言ってもいいくらい世界的に見て遅れている。ワクチン接種のドタバタが示すように、コロナ禍が、昔ながらのモノ作り優先思想で、デジタル技術とソフトを「社会的ツール」として真に活用してこなかった日本の立ち遅れを一層目立たせているが(米国どころか中韓台にも遅れを取っている)、これを多少改善する効果があるなら、災い転じて……になるのかもしれない。しかしデジタル技術そのものではなく、ソフトや活用面、制度設計における日本の(意識を含めた)立ち遅れは明らかで、その改善策を本気で講じない限り、この国の将来は本当に危ういだろう。(続く)

2021/08/12

英語とアメリカ(4)英語を使う

ところで、日米の合弁企業にもいろいろとタイプがあるだろうが、その一つだった会社で働いた経験からすると、普通はダブルスタンダード、アイデンティティ不鮮明、二重人格的……すなわち「どっちつかず」という中途半端な企業に陥る可能性が高いように思う。私がいた会社は’90年代になって米国型に変身後、常にそうした問題を抱えながらも、幸いなことに事業としてはまずまずの結果を残し続けたが、この「日本法人の日米合弁企業だが、実質的にアメリカ側株主が事業を主導する」という特殊な(?)会社の業務で「学習」したことは多い。ネガティヴな面は(複雑すぎて)書きにくいので、ポジティヴな面だけを挙げれば、大きな個人的財産になったスキルはやはり「英語(読み書き、英会話)」で、もう一つは、日本の普通の会社より今でも10年は進んでいると思われる経営、業務上ツールとしてのコンピュータの利用と、それに支えられた「個人用パソコン(PC)」の使用だ。特に英語は社員共通の体験だったが、私のように当初「外資」を意識していたわけではない世代にとっては、いわば後付けの強制課題であり、誰しもが非常に苦労したが、そのおかげで身に付いたスキルと言える。

ただし英語もPCも、仕事上の必要性からあくまで実用本位で習得しただけなので、正直言って大したレベルではない。だが少なくとも、同世代の普通の日本人に比べたら多少はマシだろうと思う。それと、何十年もの間、米国企業とその組織内部で「生きた英語」に接してきた体験は、机に向かって本やテキストだけで学習する英語とは少し違うものだろうという気がする。おかげで世界中に知人、友人もでき、この歳で、今もこうしてPCに向かってブログや翻訳原稿を書いている。定年後はジャズ本の翻訳を趣味を兼ねて始めたが、原書の著者をインターネットでアドレスを調べて探し、英語メールで直接やり取りして翻訳を許可してもらい、また原文の意味を確認したりもしている。Macを使ったPCオーディオを20年来楽しんできたのも、PCの基礎知識を一応は身に付けているからだ。米国親会社は、携帯電話からスマホ系へつながるモバイル機器のグローバル業務への導入も圧倒的に早かった(もっとも私は、SNSは必要ないのでやらないし、今のスマホは小さすぎて、見にくいし使いにくいので、少ない外出時とオーディオ用リモコン以外はあまり使わないが)。

グローバルな事業展開をしていた米国親会社は、アメリカや日本以外に、ヨーロッパにも研究開発や生産の拠点があったので、ヨーロッパ各国の社員も相当数いたし、アジアの各国にもかなりの数の社員がいた。製造業という米国では古い業態の会社であったにも関わらず、こうして米・欧・アジアという世界中の人たちと共同で、グローバルな視点で、アメリカ流の自由な流儀で仕事をする解放感と面白さは、狭い日本で、日本型組織と人脈のしがらみの中で、あれこれ気を使いながら、ちまちま進める仕事とは雲泥の差があった。’90年代後半の5年間ほどは、アジア各国にいた部下たちと一緒にアジア市場を対象にした仕事をしていたが、個人的にはこの時代が会社員生活でいちばん楽しかった。海外で仕事をした経験のある人なら誰もが感じると思うが、互いに英語さえ使いこなせたら、相手がどの国の誰であろうとコミュニケーションができるという「実感」は、絶大な意識改革を人間にもたらす。非ネイティヴのアジア人同士だと、英語はコミュニケーションのための単なる実用的「変換記号」と同じで、お互い怪しげな発音でも文章でも、下手なりに十分に意思疎通ができるのである。当時のアジアの仲間とは今も交流が続いているし、一言でいうと、英語を通じて文字通り「世界」が広がる。

しかし上司や同僚など、英語ネイティヴの欧米人相手の場では、単純な意思疎通レベルではなく、時には意見(価値観)の異なる相手を説得して、自分の「主張」を通すことができるレベルの英語スキルが必要になる。たとえば、日本市場の実情に合わない米国流事業戦略を、強引に押し進めようとするときなどがそうだが、当然そこには緊張も摩擦も生まれ、互いに納得するのは簡単ではない。普通の日本人からすると、何よりも、複雑で微妙なテーマであるがゆえに、「自分の言語」で自由に相手に考えを伝えられない歯がゆさ、もどかしさ、苦しさをつくづく味わうことになる。私の場合こうした議論では、口頭の日本語を100とすれば、英語だと、せいぜい頑張っても70-80くらいしか、自分が真に言いたいことを伝えられなかった気がする。自分なりの考えや意見を持ち、日本語の弁舌にも優れている人ほど、それを伝える「英語能力」が足らないと、言語表現上のギャップを強く感じ、フラストレーションを感じるだろう。

当たり前だが、「外国語の習得」とは、言語を自分の頭で考えて「創作」できるようになることではない。結局のところ、言語上の約束事(文法)を「学習し」、目(reading)と耳(hearing)を「訓練」しつつ、「意味を理解し」それを「記憶し」、いかにしてネイティヴの正しい書き方 (writing) と話し方 (speaking) の「マネをするか」ということだ。だから「習うより慣れろ」、つまり言語スキルとは頭ではなく体験して身に付けることで、当然ながらそれには時間がかかる。「あっと言う間に聞き取れる、喋れる…」とかいう英会話学校の宣伝などウソもいいところで(もちろん、どんなレベルの会話かによる)、文字通り「語学に王道はない」のである。だから地道な努力が苦手な人は、なかなか外国語を習得できないだろうと思う。「読み書き」は一人でもなんとか学習できるが、物理的な対人接触時間に比例する聞き(hearing)、話す (speaking) 能力は、今ならいくらでも教材があるが、当時は海外駐在でもしない限り本当には身に付かない時代だったので、ずっと東京勤務だった私の場合、会議や出張を通じて「場数」を積み、学習するしかなかった。

しかしコミュニケーション技術という観点からすれば、何と言ってもいちばん重要なのは、「読む」能力と、「聞く」能力だろう。当たり前だが、まず相手が何を言わんとしているのか分からなかったら、どうにもならないからだ(最初の頃の会話では頓珍漢な返事をして、ずいぶんと恥をかいたりしていた)。「相手の話の主旨」さえきちんと把握できれば、非ネイティヴとして「書く、話す」は、仮に表現力が多少拙くても、相手のネイティヴ側はなんとか理解できるものだ。昔から言われているように、「読む」こと、特に「多読」「速読」こそが外国語習得にはもっとも効果的方法だと経験上も思う。それが「聞く」能力も同時に高める、という相乗効果が期待できるからだ(文芸作品などの「精読」は、さらにその先にある)。

英語を「話す」能力も、ただペラペラと英語だけ流暢ならいいわけではなく、ビジネスでも、個人的なことでも、内容の伴った会話(自分の頭で考えたこと)でなければコミュニケーションとしての意味がない(すぐに人格上のメッキがはがれる)。また欧米人は、言語上の有利さだけでなく、会議(conference/meeting;日本流の "儀式" ではなく、文字通りの "議論 discussion" や "討論 debate" )を延々と、何時間でも、さらに泊まり込みで何日間でも続けられる体力(?)と技術を身に付けている。日本人にはそもそもそういう習慣も文化もないし(せいぜい「朝までナマ…」程度だ)、何でも口に出すお喋りは「はしたない」という美意識と思想がある。むしろ互いの腹をさぐりながら着地点を目指す「阿吽の呼吸」的対話を好むので、「多弁」を要する長時間協議は精神的にも肉体的にも苦痛で、苦手なのだ。

おまけに企業でも上層部になればなるほど、当然ながら会議の議題は日本人好みの分かりやすく具体的なテーマよりも、企業理念、ビジネスコンセプト、戦略、リーダーの R&R といった、日本人がもっとも苦手とする(時に中身がない、空論だと軽蔑さえする)「観念的で抽象的な」テーマ中心になる。特に米国のビジネス・リーダー層は、細部のあれこれに詳しい人よりも、まず「大きな絵」 (grand design, big picture) を描ける人、つまり全体を俯瞰し、長期的視点で基本的コンセプトを考え出し、それを人に分かりやすく説明し、説得できる能力を持つ人でなければならないので、大手企業のマネージャークラスなら、誰でも滔々と(内容は別として)自分のアイデアを語れる。またそうしたコンセプトを実際に効果的にプレゼンする技術も、若い時から訓練し、身に付けている。

いかにも役人が書いたような、中身のない気の抜けた原稿を棒読みするだけの日本の首相挨拶や答弁と、アメリカ大統領のスピーチを比較するまでもなく、これは政治の世界でも同じだ。あるいは今回のオリンピック開会式と閉会式の、(物悲しくなるほど)残念な演出に見られるように、全体的コンセプトと伝えるべきキー・メッセージをいかに表現するかということよりも、超ローカル視点の「細部へのこだわり」ばかり優先し、演目相互の関係性がまるで感じられない細切れシーンの寄せ集め、といった表現方法における文化的差異も同じだ。

近所のスーパーのチラシのような、テレビワイドショーのごちゃごちゃとした、あれもこれも詰め込んだ、やたらと細かなボード資料を見るたびにそう思う。「盆栽」や「弁当」に代表されるように、小さなスペースにぎゅっと詰め込んだ小宇宙――これこそが、やはり日本的文化や美意識の根底にあるものなのだろう。だから、唯一言語を超えたユニバーサルな会話が可能な「科学技術」の世界を除くと、他のカルチャーのほとんどが、珍しがられることはあっても、他民族にはほぼ理解不能であり、世界の主流になることは難しい。個々のコンテンツとして見れば、世界に誇れるユニークな文化や、斬新なアイデアを持つ有能なクリエイターが数多く存在するにも関わらず、一つのコンセプトの下でこれらを束ねて、それを効果的にプレゼンするという思想と技量が日本には欠けているのである。

日本人は、「知識」(分かっていることをまとめる力)はあっても、「観念的、抽象的議論」(よく分かっていない、目には見えないものを想像する力が必要)に慣れていないし訓練もされていない。要はプラグマティック(実用本位)で、「哲学や思想を語る」ことに価値を置かない(たいてい「時間の無駄」「変人」だとして一蹴される)。学校や会社でも、ほとんどそうした議論をする機会がないし、日本語そのもの、その日本語に適応した我々の「脳」も、どうもそういう構造になっていないような気がする。きちんと論理で組み立てて行く手間をすっ飛ばし、刹那的「単語」を記号のように並べて交信する現代の短文SNS文化がその傾向をさらに助長している。日本人が国際的な場でほとんどリーダーになれない最大の要因は、言語能力だけではなく、こうした思考と表現方法にあるように思う(本ブログ2017年4月「英語を読む」ご参照)。(続く)

2021/07/28

英語とアメリカ(3)イノベーション

あくまで化学メーカーでの経験に基づく視点だが、日米の「ビジネス開発」の一般的手法を比較すると、限られた数の「重要顧客」に焦点を絞って、そこへピンポイントで集中的にリソース(営業、研究開発)を投入することで「新技術・新製品・新用途」等を開発し、次にそれを横に展開してゆくのが伝統的な日本の「戦術的営業」手法だ。そこでは昔から、目に見えている顧客と直接接触して具体的ニーズを掴み、それを掘り下げてゆく前線(ライン)こそビジネス開発の要であり、後方支援(スタッフ)はあくまで前線を支える縁の下の力持ち的役割だ、という思想が根強い。

一方アメリカは、需要の有無はまだ定かではないが、共通のニーズを持つ可能性がある「不特定の潜在顧客群」を新たな「市場 (Market)」と定義し、常にその市場に対して仕掛けることで需要を喚起しビジネスを開発する「マーケティング (Marketing) 」と、それに加えて、新たな発想で、これまでなかったまったく新しいビジネスを創出する 「イノベーション (Innovation) 」という、「戦略的ビジネス開発」の手法を両輪とする国だ。つまり人間の持つ「潜在的欲望」がどこにあるのかを探り、そこを常に刺激し続けることによって、新たな需要(市場)を生み出し経済を発展させるという、現代資本主義の典型モデルである。電話、自動車、テレビ、冷蔵庫……と20世紀にアメリカが開発し、世界に提供してきたモノは、最初「あればいいのに…」という素朴な願望に応えて作られ、次に「使ってみたら便利だった」という満足感を生み出し、さらに「これがないと困る」という欲望へと変化し、その後もコンピュータやスマホを始め、もう「これがないと、どうにもならない」という世界へ徐々に人間を導いてきたのである(このことの本質的問題はここでは問わない)。

したがってアメリカでは、まずマクロ市場分析を行ない、どこにビジネスの可能性がありそうか、そこをどう攻めて行くのか、という中長期的視点に基づく「基本戦略立案」こそが最重要で、そこから先の短期局地戦とその実行計画はラインの仕事だ、という思想が根本にある。だから米国企業では、日本とは反対に、普通は「市場戦略立案」を担当するマーケティング部門等のスタッフがもっとも重要で力を持っていて、「顧客」を担当する営業ライン職の地位が相対的に低い構造になっていることが多い。日本の営業手法は、いわば「頭脳と手足」が常に一体化していて、無駄がないので効率が良いが、どうしても短期的な目標中心になりやすい。一方アメリカでは、常に全体を見渡し、先を見通す「頭脳」と、既に見えているものに対して行動する「手足」の機能を分業で行なっている、という言い方もできる。あるいはまた、どちらかと言えば、限られた数の主要顧客層から成る川上市場(生産材)に重点を置く日本型と、不特定マス顧客から成る川下市場(消費材)に重点を置くアメリカ型のビジネス開発の特徴を表しているとも言える。こうした両国の思想、伝統の違いが、長期的なビジネス開発(技術だけではない)の成果に影響を及ぼすように思える。

日本の「短期戦術型」とアメリカの「長期戦略型」思考は、一般的な見方をすれば、国の成り立ち、地理的条件の違い、文化、国家観、価値観、国民性の違い等々、両国間に本質的に存在する相違点に由来するものだと言えるのだろう。とはいえ歴史的に見れば、日本にも戦国末期や幕末・明治初期には、全体的、長期的視野で状況を俯瞰できる優れた戦略的思想を持ったリーダーたちが実際にいたことを考えると、かならずしもそうとばかりとは言えない気もする。むしろ太平洋戦争を敗戦に導いた「大本営」の参謀たち――後方で机上の空論ばかり書いて前線部隊に指示するエリート集団――に対する、ある種のアレルギー反応というべきものが戦後の日本人に植え付けられたのかもしれない。あるいは戦後、「戦略的頭脳」を日本では育成しないという、進駐軍の深謀遠慮による国民洗脳策があったのか、それとも明治以来の、西洋に追いつけ、追い越せという性急な近代化思想が遠因となって、先のことよりまずは見えていること、目の前の問題解決を優先して、そこに集中するという思想と姿勢を日本人に定着させたのか――とか、様々な分析が可能な、興味深い比較文化論的テーマのように思える(誰か、もうこうした分析を行なった人はいるのだろうか?)。

アメリカ生まれの "リストラ" (restructuring=事業再構築、再編成) という言葉が、今や日本では「人員整理=クビ切り」と解釈されているように、 ”イノベーション"(innovation)という言葉も、日本では、(誰が使い出したかは知らないが)いまだに判で押したように「技術革新」という「訳語」で解説している大手新聞の記事や雑誌等を時々見かける。これは誤訳とは言えなくとも、一部の意味しか伝えていない、読者をミスリードする危険がある訳語だ。きちんと辞書で調べれば「新機軸、刷新」という訳語表現が多いように、「新たな発想で、制度や仕組みを変えること」が本来の意味であり、たとえ既存の技術やアイデアであっても、それらの「組み合わせ方」次第で新たな市場や価値が生み出せる、という発想がその本質だ。日本のモノ作りの伝統に見られる、特定の技術をより深く追求すべく、手の内にあるアイデアを活用しながら川上→川下へと垂直統合的に製品開発を進める(閉じられた)思想に対し、横に幅広く展開する市場を視野に入れながら、水平分業的にアイデアを柔軟に取り入れて仕事を進める(開かれた)アメリカ型思想、という両者の特徴を反映しているとも言えるだろう。

21世紀に入ったわずか20年で急成長し、今や独占による弊害が指摘されているアメリカの「GAFA」はどれも、Intel や Microsoft が先鞭をつけたデジタル技術(ハード&ソフト)の持つ潜在能力を長期的視点で掘り下げ、「インターネット空間におけるサービス」という新しい概念を、デジタル技術の外縁に位置付けるという発想で、新たな市場を生みだしたビジネス・イノベーションと言えるだろう(Googleはグローバル情報検索と広告、Appleはモバイル機器と音楽情報の組み合わせ、Facebookは個人の情報発信とコミュニケーション、Amazonはネット空間スーパーマーケットと宅配サービス、というように)。20世紀の「テクノロジー(モノ)」が、世界共通の普遍的需要(欲望)に応えたものだったように、21世紀には、ネット空間におけるデジタル技術をベースにした「サービス」にも同じ機能と価値、すなわちビジネスチャンスがあるという、1990年代の米国による「先駆的市場概念」が、21世紀のイノベーションを先取りしていたと言える。このビジネスモデルのコンセプトを、最初から「グローバル市場(世界)」を射程に入れてデファクト・スタンダード化すべく、技術だけではなく「政治力」と (英語という)「言語支配力」を利用しながら、他国に先駆けて戦略的に推進したアメリカが主導権を握ったのは当然だ(いずれも日本が、グローバル的に見てもっとも相対的に弱い能力である)。

最近NHKが『プロジェクトX』を再放送している。主に、20世紀に日本がどれだけ優れた技術や製品を世界に先駆けて生み出したかを見直すことで、バブル以降低迷していた20年ほど前の日本を、中島みゆきの応援歌「地上の星」と共に元気づけようと企画された番組だ(当時のカラオケバーを思い出す…)。その後も一向に浮上する気配が見えないどころか、さらに沈み続け、すっかり自信をなくした今の日本を再び元気づけようとするのが番組の意図なのかもしれないが、今見ても確かに感動的なエピソードが多く、昔の日本人の「生真面目さ」を懐かしく思い出す(バブル時代を経た価値観の転換で、日本人が失った最大の財産がこの属性だ。その後の「志」なき日本人リーダー層の人材劣化はここから始まった)。しかし上記の「イノベーション=技術革新」という図式と同じく、こうしたメディアの感覚も、デジタル革命に乗り遅れただけでなく、その後も過去の成功体験に縛られたまま、無意識のうちに「技術(=モノ)の革新」にばかりこだわり、デジタル技術を利用した情報(ソフト)やサービス、制度の改革に目を向けてこなかった日本人の発想をさらに狭めて「技術のガラパゴス化」へと向かわせ、本来の「イノベーション」を生まれにくくしてきた遠因とも言えるだろう。

コロナ禍で街中を走りまわる宅配員の背中の "Uber" のロゴを見るにつけ、「これって日本の蕎麦屋が昔からやってきたことだよな…アート・ブレイキーの 〈Moanin'〉 を口ずさみながら…(古いが)」と思う。調べてみると、アメリカでもっとも一般的な出前である「宅配ピザ」は1960年(昭和35年)創業のドミノ・ピザらしいし(〈Moanin'〉の頃だ)、海外で一般的な「ケータリング・サービス」も明治時代のイギリス発生らしいので、いずれも江戸時代からあったという日本の「蕎麦屋の出前」や「京都の仕出し」の歴史とは比較にならない。その「出前サービス業務」の対象食品の種類を拡大し、ネットでの受注を前提に "Food Delivery Service" という一括外注ビジネスにしたのが Uber Eats (2014年創業)なわけで、発想の転換でビジネスを創出すること(=innovation) が、アメリカ人は本当に上手だとつくづく思う。新しいビジネスのネタは日本にだっていくらでも転がっているはずだが、それを見つける視点、視角がどこか違うのだ。(続く)

2021/07/15

英語とアメリカ(2)米企業

私が勤務した合弁会社の仕組みと運営は、当初の20年間はほとんど普通の日本企業のものだったが、折半だった出資比率が米国側の株主主体に変更された1980年代後半からは、ほとんど別の会社に変貌していった。前述した米国の産業政策全体の転換もあって、「グローバル化」を志向した米国親会社の主導で、組織、事業運営、人事などすべてが、それまでの伝統的な日本企業から「米国型」へと徐々に移行していったからだ。日本側親会社は事業運営、人事には一切口をはさまなくなり、'90年代になってSAPを導入した米国親会社は、事業運営をグローバルに一括管理するようになった。従来からの日本型組織も解体され、米国親会社の組織の一部に編入され、人事権も米国側へと移行し、ほとんどの管理職の直属上司も、日本人から海外にいる外国人ボスへと変更になった。その後20年間に交代した10人近い私の直属上司も、当然ながら全員が外国人で(アメリカ、イギリス、カナダ、ベルギー人)、そのうち約半数が東京駐在の上司で、それ以外はアメリカやイギリスにいたリモート上司である。

私は80年代から、いくつかのグローバル・プロジェクトの日本代表として、特にアジア市場向けビジネスに関わっていたが、当時はあくまで日本の合弁会社からの特別参加的な扱いだった。しかし90年代になって、会社全体が米国親会社の傘下に編入されて行くと、上司も、仕事も、仕事上の人間関係も、完全に米国に重心を置いたものにならざるを得なかった。'90年代半ばからしばらくは、私の担当分野の部下も全員がアジア各国(台湾、香港、中国、韓国、他)にいたので、上司、部下ともに業務上のコミュニケーション(読み、書き、聞く、話す)は基本的にすべて英語になった。何ごともアメリカ中心、ビジネス中心なので、正確さよりもスピード第一であり、メールも電話も文書も会話も会議も、通訳や翻訳などといった、まどろっこしいことをやっているヒマはなく、仕事上はすべて否も応もなく英語だった(いかに下手くそでも)。

海の向こうにいるリモート上司とは年に何回か顔を合わせるだけで、あとはメールと電話会議だけの関係になった。こうして会社全体が徐々に米国型に再編されてゆくと、仕事の延長のように、毎晩居酒屋で(日本語で)議論したり、愚痴るという、懐かしの昭和のサラリーマン上司/部下の関係も当然ながら薄れていった。それまで普通の日本企業の感覚でいた社員全員が、この大変化に戸惑い悪戦苦闘したことは言うまでもない。社員の大部分は、英語や米国流のやり方を学習して適応しようと努力したと思うが、中にはこうした変化に馴染めず、会社を去る人たちもいた。こうして徐々に会社がアメリカ化されてゆく過程で、英語の問題をはじめ、日本とアメリカの文化の違い、考え方の違い、企業活動や仕事のやり方の違い等、普通の日本企業の内部で働くだけでは知りえない様々なことを経験し、観察し、また学習した。

アメリカの企業はたぶんどこもそうだろうと思うが、この親会社の社風も上下感が稀薄で風通しが良く、常に「自由にものを言える」雰囲気があった。だから、そこでは「ものを言わない」人間は評価されない。自己主張しない、控えめで大人しい人は、競争社会アメリカでは評価されないのだ(外国人社員が、たとえ英語のハンディゆえに「黙っている」ことが多くても、理不尽と思うがそこは同じだ。かならず "speak up!" と促される)。しかし、課長や部長といった「ポジション(地位)」ではなく、どういう仕事をするか、どれだけ目標を達成したか、という業務内容と成果で「個人」としての評価(給料)が決まる米国流人事制度は、日本式に比べて基本的にオープンで、密室的要素が少ない、分かりやすいシステムだと思う。転職も容易で、人事の流動性も確保しやすい。ただし昔ながらの、地位を目指して生きてゆくような日本人には、目標とやりがいが感じられない制度に思えることだろう。

米国親会社は(日本側親会社と同じく)有力な化学メーカーだったので、いわゆる今のハゲタカ外資と呼ばれるようなアメリカ金融業界の企業イメージとはまったく違う、歴史あるきちんとした制度と組織を持つ製造業だった。事業運営という点では、日本と米国の企業文化や企業戦略はどちらがより優れているとは言えないし、いずれも一長一短があるように思う。米国流が優れているのは、合理的かつ論理的な考え方と行動基準に貫かれているところで、それが「経営システム」として世界に通じる普遍性を持っていることだろう。だが、それを根本で支えているのは、あくまで「アメリカ的価値観」だ。アメリカ人が好むのは、何よりも「速さ(speed)」、「変化(change)」、そして「挑戦(challenge)」であり、決断せずに、うろうろ、まごまごして、前進しないこと(つまりは、よくある日本的行動パターン)を一番嫌う。だから事業戦略も当然そうした志向を反映したものになる。

特にこの親会社は先進的なことが好みで、まるでビジネス・スクールのように、常に新しいビジネス・モデル、マーケティング戦略を導入し、研修を通じて幹部社員に徹底して教育していた(またかよ…と言うほどに)。むろんこれらの研修は英語だったが、しばらく経ってから日本の書店へ行くと、同じ内容を日本語に翻訳・解説した最新ビジネス書が棚によく並んでいたりした(この種のビジネス本のオリジナル出典は、ほとんどがアメリカ発だ)。好業績だった親会社は、ビジネス・コンサルティング会社が新しい企画、コンセプトをまず最初に売り込む、良いお得意様だったようだ。こうした、いわばまだ「ナマ煮え」の既成コンセプトを積極的に導入(購入)し、それを「カスタマイズ」しながら実際の経営に応用しようとするアメリカ的実験精神には本当に驚く。

この親会社では、テーマに関わらず新しいプロジェクトを始めるときの協議手順はほぼ決まっていて、まず何を目指すのか、やるべきことは何か(Vision & Mission) という高次目標を参加者全員で議論して意思統一することから始め、徐々にそれを具体的アクションにブレイクダウンしてゆく。今はこうしたプロセスに関しては、様々なコンセプトをネット上でも見かけるが、左図ピラミッドはそこで見つけた一例で、20年くらい前に我々が教育を受けた当時のものとほぼ同じシンプルなチャートだ(今はさらに工夫され、洗練されたコンセプトになっているだろうが、基本的思想は一緒だろうと思う)。この図はアメリカ流の「トップダウン」、すなわち頂点から下方へ向かって読む。ピラミッド頂上にある "Vision"(理念、理想) という「抽象概念」からスタートして、下方へ行くにつれて、徐々にそれを現実の行動に具体化してゆくのが、一般的なビジネス計画立案プロセスだ。日本では、経営思想や事業運営手法は各企業が歴史的に独自のものを作り上げているのが普通だが、コンサルティング会社から提案されるこの種の既成コンセプトを導入し、実際の経営手法として内部システム化するのが米国親会社のやり方だった(米国の他の会社が、どうやっていたかは知らないが)。

しかし、どんなテーマでも、どんなプロセスを採用しようと、いちばん重要なのは常に頂上にある ”Vision” である。「Vision=どうあるべきか、どうありたいか」は、どの国でも集団でも重要だろうが、様々な出自と背景を持った人間の集まりである移民国家アメリカを「束ねる」ためには、もっとも重要な「共有すべきイメージ」であり、すべての議論の原点なのだろう。何千年も同じ場所で、同じ言語を使って自然に暮らしてきたような国々、たとえば日本人には自明のことすぎて、そもそも基本的にこうしたことを考える必要性も、問題意識もないので、(頭では理解しても)この議論には常にどこか違和感があった。この微妙な違和感は、国家として長い歴史を有するヨーロッパ諸国出身の社員もたぶん同じだっただろうし(これは想像だ。だが「米国企業」で働く「ヨーロッパ人」というのも結構微妙な立ち位置だろう)、やはりアメリカ固有の文化ではないかと思う。しかし様々な背景を持った国々が、同じ土俵で活動するグローバル化した現代世界(これも推進したのはアメリカなので=アメリカ化した世界)を今後「束ねてゆく」ためには、このアメリカ的なアプローチがやはり必要なのかもしれない。

社内プロジェクトの協議では、次に徐々にピラミッドの下部構造へと向かい、まず理念実現のための「具体的目標」を設定し (Goal Setting) 、その目標達成のための「基本戦略」を策定し (Strategy Development) 、次にその戦略の「実行計画」を立て (Operation Planning)、さらに各実行レベルでの「段階的目標」(Key Milestones) 設定と具体行動計画(Action Plan) を策定する(下部へ行けば行くほど、日本人にも分かりやすい領域へ入ってゆく)。そのための各部門・部署の「役割と責任」(Roles&Responsibilities)を明確にして各リーダーの裁量の範囲も決め、実行時の「意思決定プロセス」(Decision Making) は、明快かつ迅速であることを優先して設計する。社員の「人事評価制度」も民主的かつオープンにして、上司との「合意に基づく目標設定」とその「達成度の相互確認」というプロセスを経て、業務の最終成果が自身の評価(収入)に直結する――それらすべてをSAPによる全社業務運営システムが合理的に支える――とまあ、もちろんすべてがこうした理念やコンセプト通りに進んだわけではないが、このピラミッド構造と思考プロセスは、感覚的に言うと、当時の伝統的な日本企業の「実態」とはいわば真逆の世界だった。

それから20年経った現在ではこうした手法は既に一般化し、実際に導入している日本企業もあるだろうし、一方で、こんな七面倒くさい定型プロセスはやはり日本人には合わないと考えている人も多いかもしれない。しかし過去や伝統にこだわらず、周囲(上司とか既存組織)への余計な忖度抜きで、「プロジェクト参加者」が一つ一つステップを踏んで合意しながら、目標と行動計画を決定してゆく「理詰めの世界」で仕事をすることに慣れると、頭の中が常にすっきりと整理され、仕事上の優先順位も自然にはっきりしてくる。そして、意味不明の慣習や規則だらけでもやもやとした、伝統的日本企業の年功序列ヒエラルキーに基づく仕組みや業務プロセスが、いかに古臭く、無駄が多く、効率が悪いかあらためて身に沁みて分かる。

ところが逆に、年齢(seniority) という人間誰しもが平等に持っている自然な指標を尊重し、ガチガチの決め事は避けて、柔軟で、適度に曖昧さを残した玉虫色の制度と手法が、(必ずしも「優れている」とは言えないだろうが)実は伝統的な日本社会の在り方と、日本人の心性、行動様式には、やはり適しているのだ――と再認識させられることもたびたびあった。合弁企業の理想とは、両親会社の「良いとこ取り」であるべきだとずっと信じていたのだが、こうした経験から、やはり鍵となるのはパワーバランスであり(当然だが)、異種文化や思想の融合は不可能ではないだろうが、そう簡単には行かないものだという現実も思い知った。(続く)

2021/06/27

英語とアメリカ(1)G7にて

G7   sankei.com
今月イギリスで開催されたG7における菅総理の影の薄い、浮いた立ち位置(蚊帳の外)が、ネット上で取り沙汰されていた。4月訪米時の米国側の態度といい、一国の首相たるもの、英語ができないと国際舞台ではロクに相手にもされず、こうなるのだ、みっともない、ああ恥ずかしい……的な批判(嘆き?)が多く見られた。まあ、コロナ禍のオリンピックでは、うわ言のように「安全安心」を繰り返すだけで、理由の説明もエヴィデンスも何も示さず、結局のところ、強引に開催ありきで進めていることへの不満がくすぶっているので、なおさらの反応なのだろう。「言語より人間性だ」とかいう擁護意見もあるが、わずか数日の会議の場で人間性も何もないだろう。一生、日本から外へ出る気はない、出たくないという人を除けば、やはり今の時代、国際的標準語である英語ができた方が何かといいに決まっている。特に国を代表するような立場の人たちには、mustとされるスキルだと思う。

とはいえ、歴代総理では宮澤喜一氏以外、通訳なしでOKなほど英語が堪能だった人はいないようだ。日本人政治家は、海外の要人との会議や交流の場では昔から大体似たようなものだし、こちらも期待してこなかったので、菅総理も今更…の話だろうと思う。カメラの前では、そう見えないように振舞っていた演技(ハッタリ)上手な首相も中にはいたが、今回は確かに映像で見ても、見事に(?)ひとりだけ浮いているように見える。人付き合いが苦手だと公言し、実際に口べたで、日本語でさえあまり「自分の言葉」で喋らないので(身内は別なのだろうが)、こうした会議の場でも、通訳付きとはいえ、おそらくまともな議論はできなかっただろう――と「推測」されても仕方がない気もする。

ただ初の国際舞台でもあるし、G7の写真や映像だけで見るなら、菅総理の場合は英語の能力云々よりも、むしろ社交性を含めた本人のキャラ(パフォーマンスが苦手)と、「場慣れ」しているかどうかの問題だろう。同じ日本人でも、グローバル化した現代の実業界とかスポーツ界には、言葉も含めて国際的な場で堂々と振舞える民間人はいくらでもいるが、国内の有権者しか見ていない昔ながらの日本の政治家の多くは、そうした訓練もされていないので当分無理だろう。若くて、優秀で、広い視野と国際感覚を持った次世代政治家が育つのを待つしかないが、まるで江戸時代かと思えるような、時代錯誤も甚だしい金まみれの最近の若手(?)議員や、税金を掠め取るキャリア官僚のお粗末さで分かるように、政治家と役人はセットで人材劣化が激しい分野なので、それも期待できないかもしれない。

しかしこの件(海外における日本人の立ち位置)では、英語と、特にアメリカにまつわる会社員時代の(結構厳しい)個人的体験を、久々にあれこれ思い出した。私は日本とアメリカの「合弁企業」(化学メーカー)に約40年間勤務した。おかげで普通の日本企業で働いただけでは経験できないような、様々な体験(良いことも、そうではないことも)をしてきた。その会社を定年退職後、「ジャズ本の翻訳」という仕事を半分趣味で始めたのも、業務を通じて身に付けた英語やパソコンといった実務的スキルに加え、アメリカという国、企業、アメリカ人等を長年にわたって観察してきた経験が、単に音楽としてのジャズを楽しむだけでなく、「アメリカ固有の文化としてのジャズ」を多面的に考え、理解するための現実的背景やヒントを提供してくれると考えたからだ。

といっても、日米折半出資のこの会社は、技術は米国から、人材は日本から、という当時の典型的な合弁企業だったので、前半の20年間ほどは、いわゆる外資という雰囲気はまったくなく、確か外人役員が一人いただけで、あとは社員全員が日本側親会社からの出向でスタートしたごく普通の日本企業だった。英語がうまい人も結構いたが、入社後しばらくは、とにかく酒とゴルフの接待でお客と仲良くなれと言われるような、典型的な日本流の営業の仕事だった。おそらくまだ日本の企業内では、米国流マーケティングの「マ」の字もなかったような時代で、一般に「営業とはそういうものだ」と思われていた。もちろん日本の顧客相手なので英語も英会話の必要もなく、英会話といっても "How do you do?" くらいしか言えなかった。

ところが、米国側の親会社が提唱した、ある市場に関する初めての ”グローバル会議” へ日本代表として出席しろと、いきなり初出張を命ぜられた1981年を境に人生が変わった。米国親会社の本社と工場は、当時シカゴから1時間ほどローカル便でミシガン湖を横切って飛んだミシガン州の町にあり、今で言う中西部ラストベルト(Rust Belt) の一部だ。米国有数の化学企業の本拠地だったので、町の住人のほとんどがその関連企業に勤めていて、'80年代初め頃は、雰囲気もまだゆったりのんびりしていて、出張で訪問した英語の下手くそな日本人も、遠路はるばるやって来た客人扱いだった。まだ成田へは箱崎からリムジンバスで行き、成田からシカゴやデトロイト直行便など飛んでいなかった時代で、アメリカ東部へは時差調整も兼ねて、西海岸で一度乗り継いで行くのが普通だった。

その初出張では、一応OHPスライドを使って日本市場を紹介する英語の ”プレゼンまがい” のことをやったように思うが、何十人もの大会議ということもあって、相手が何を言っているのかもよく聞き取れず、英語の喋りは下手ときているので、ロクな質疑応答も議論もできなかった記憶がある。ただしまだ若く元気だったので、1週間ほどの滞在中に知り合った人たち(米、欧、アジア)とは、その後もずっと仕事を通じて付き合ってきたし、親会社内の人間関係という面では在職中の大きな財産となった。この出張がきっかけで、その後の30年間、主として親会社のマーケティングを中心とした部門の窓口的業務を日本で担当するようになり、会議や研修等のためにアメリカやアジア、ヨーロッパに出張する機会が徐々に増えた。1回きりの懇親の場とかなら適当にやり過ごせるが、最低でも1週間近く朝から晩まで続く、そうした会議や研修の場では、相手の言うことを聞き取り、喋れない限りコミュニケーションができないので、英語力を向上させる必要性を痛感した。そこで30歳代半ば近くになってから、やっと英会話の勉強を本気で始めたのだ。しかし、慣れがすべての英会話(特にhearing) は、やはりもっと若く、耳が鋭敏なときからやっておくべきだったと後悔した。

荒廃するデトロイト
その頃の米国親会社は、運営も、組織も、雰囲気も、日本の会社と大差なかったように思う。国土が広いアメリカでは、たいていの大企業がそうだが、とにかく片田舎にあって、人口がせいぜい数万人の町も、会社も、人も、のんびりした実にアメリカンな良い雰囲気だったのをよく覚えている。だが1980年代は米国全体としては景気が低迷し、一方、オイルショックを乗り越え、経済が絶好調だった日本が半導体や自動車で米国を追い上げ、不動産会社がニューヨークのロックフェラーセンターを買収するなど、米国における日本の存在感が急速に増してきたために、日本に対する反感(ジャパン・バッシング)も全米で徐々に強まっていた時代でもあった。その日本がバブル景気の頂点で沸き立っていた1990年頃の出張時に目撃したのは、治安の悪化で白人層が逃げ出し、黒人しか見かけなくなった州都デトロイト中心部や郊外の、ビルや住宅の廃墟が立ち並ぶ荒廃ぶりで、あの衝撃的光景は今でも忘れられない。アメリカの誇りであり、製造業の象徴でもあったデトロイトの自動車産業が壊滅的な打撃を受けていたからだ。ドライブに誘ってくれたオーストラリア人と、街の中心部から逃げ出すように離れたことを憶えている。繁栄していた都市が信じられないほどの速さで廃墟化する様は、アメリカという資本主義国家の本当の厳しさをまざまざと思い起こさせる。デトロイトの衰退と人口減はその後も続き、州や市が様々な対策を講じてきたが、今なお歯止めがかからないという

だが日本が平成に入った1989年から、ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊、天安門、湾岸戦争…など一連の世界的大変動を経た'90年代に入ると、東西冷戦に勝利し景気回復の軌道に乗ったアメリカは、”モノ→ 情報” へと国家戦略を転換し、インターネットと情報通信技術(IT)を基盤にした「デジタル革命」を強力に推進し始めた。企業レベルでも、リストラ(事業再構築)とIT、世界市場を対象にした ”globalization" を合言葉に、コンピュータを使った事業戦略やオペレーションを強化し、第二次大戦後から半世紀にわたって続いていた「モノ」中心の戦略、組織、活動から脱却しようとしていた。後になって振り返ると、化学会社ではあったが、当時の米国親会社が様々な事業変革に取り組んでいた背景にはこうしたアメリカ全体の流れがあったということがよく分かる。単体でも十分な規模を持つアメリカ国内市場を主対象にした、高い技術力を基盤とする化学メーカー、というそれまでの企業イメージを転換し、いかにして世界市場に向けて製品を開発、販売し、そこから安定した収益を生み出すグローバル企業に変身させるか――という典型的な米国型ビジネスモデルを目指し、そのために日本を含め世界各地に散在していた自社リソース(施設、人材、技術)を、最大限活用する戦略に舵を切ったのである。

アメリカがそうしてゲーム・チェンジしていたにもかかわらず、'90年代初めにバブルがはじけた後も、相変わらず高コストの「モノ作り優先」思想と産業構造から抜け出せなかった日本は、完全に世界のデジタル革命に乗り遅れた。そればかりか'90年代半ばからの不況で、主に年齢を理由にリストラされた電子材料・機器分野等の人材の多くが基幹技術情報と共に韓国や中国へ流出し、その結果それらの分野ではやがて両国に追いつかれ、追い越されたまま現在に至っている。一方のアメリカはその後、常に日本より10年先を進み続け、9.11やリーマンショックも乗り越えて、現在のGAFAに象徴されるように、デジタル・イノベーションによって新市場を開発するビジネス戦略を柱に、30年かけて世界経済の覇権を再び取り戻し、今は中国を念頭に、さらにそれを強固なものにしようとしている。現代の超格差社会を招いた遠因など、資本主義国家として批判すべき点も多々あるだろうが、トップが基本戦略を立案、提示し、それを下部構造を貫いて国をあげて徹底的に遂行するという、トップダウン型の米国の政治・産業システムが持つ強靭さと底力は、日本にはとても真似できないだろう。(続く)

2021/05/29

(続々)シブコのおかげでマリオにハマる

4月の松山英樹選手のマスターズ制覇は、世界で勝てない、選手のマナーが悪いなど、鳴かず飛ばずだった男子ゴルフ界に活を入れ、日本中のゴルフファンに感動と勇気を与えた快挙だった。何よりも7年前から米国に腰を据えて戦ってきた結果であること、さらにゴルフ界における一大目標達成の具体的イメージを、後に続く若い日本人選手に印象づけたことに大きな意味がある(ただし優勝スピーチは、短くてもいいから英語でやってもらいたかった)。昔と違って、今はどんなジャンルのプロスポーツでも、日本国内だけでなく、世界の舞台で勝利するヒーローやヒロインが当たり前に望まれている時代だ。サッカー、野球、テニス、水泳……どのジャンルでもそれは同じで、彼らのようなスターの登場なくして、ビジネスも含めてジャンルとして盛り上がるのは不可能だと言っても過言ではない。一方、その偉業を2年前にあっさりと達成し、近年韓国勢に席巻されていた日本の女子ゴルフ界に活況をもたらし、忘れていたゴルフの面白さを久々に思い出させてくれた渋野日向子選手は、昨年に続き今年も苦しいスタートを切っているようだ。

全米の渋野日向子(写真AP)
2020全米女子OP の渋野日向子
写真:AP
2019年の全英に続くメジャータイトルこそ惜しくも逃したが、渋野選手は昨年末のメジャー大会、全米女子オープンゴルフで4位という立派な成績で2020年をフィニッシュし、やはりただものではないことを証明した。世界への挑戦を念頭に置いた一昨年オフのパワー志向の改善計画が裏目に出て、年初から不調で国内、英国、米国と予選落ちや、パッとしない成績が続いていた。しかし徐々に改善して、昨年最後の大舞台では初日から前年の全英を思い起こさせるような、見違えるように切れのあるパワフルなスイングとショットで2日目にはトップに立ち、完全に復調したかのように見えた。しかし決勝ラウンドに入った3日目からは、全体にプレーが重くなり、好調だったパットにも影響が出始めた。一日順延の影響がどれだけあったのかは不明だが、最終日は寒さと風の中、残念ながら16番Hで実質的に優勝はギブアップした。4日間もの間、一打ごとに緊張して、たった一人で勝負を続けるプロゴルフは、精神的にも肉体的にも本当にタフなスポーツであることもあらためて実感した。しかしマスターズの松山選手と同じく、気の滅入るコロナ禍が続く中、格の違うメジャー大会で首位争いを演じ、毎夜、朝まで見入ってしまったほど楽しい時間を過ごさせてくれた渋野選手には本当に感謝している。

そのシブコを応援する人間が多い一方で、昨年の全米女子OP前は不調が続いた彼女に対するネット上の非難じみたコメント、あるいは一部メディアの執拗に彼女をディスるタイトルと空疎な記事をずいぶんと目にした。渋野という名前さえ載せれば何でもいいという、クリック目的の炎上商法としか思えないようなひどい記事もたくさんあった。年初から、前年オフの身体やスイング改造策の失敗だとか、実績のないコーチなど代えろとか、まるで小姑のように言いたい放題の、足を引っ張る匿名ド素人コメントもネット上に飛び交い、彼女も悩んでいたようだが、年末の上記全米OPで、彼女は見事にそれら的外れな素人衆を黙らせた。

そのシブコが今年もまた不調のままシーズンをスタートし、今月のシンガポール、タイともに不振で、トレードマークだったあの笑顔も最近はだいぶ減ったようだ。ヤフコメなどを見ると、待ってましたとばかりに、青木コーチと別れたせいだとか、彼氏ができたせいだとか、石川遼のアドバイスだというスイング改造が裏目に出たとか、オリンピックは無理だとか、帰って国内で鍛え直せとか、ニヤニヤ笑うなとか、もう終わったとか…相変わらず外野席のド素人が勝手なことを言っている。去年の不調は青木のせいだと言っていたのに、もう一度青木に頼めとか、男と別れろとか……「大きなお世話だ。うっせぇわ!」と、私がシブコなら思わず言い返しそうな誹謗中傷コメントが連日のように書かれている。

タレントみたいにテレビのバラエティに出るなとか言っている連中もいるが、それこそ大きなお世話である。私も一部のテレビ局による女子ゴルフのエンタメ化は好きではないが、プロゴルファーである彼女たちは、いわば個人事業主であり、自分の人生を自分の腕一本で生きているのである。昔とは時代が違うし、人気商売でもあるわけで、本人がその方がいいと思ってやっていることなら、外野がとやかく口を出すことではないだろう。プロは結果がすべてで、しかも何もかも本人の責任だからだ。それと日本人は「コーチ」というと、すぐに昔ながらのスポ根体育会系にありがちな「師弟関係」をイメージするようだが、そういう要素があることは否定しないが(日本のゴルフの場合、尾崎軍団や、より濃密な「親子」というケースも多いので)、どの分野であれ、欧米流の「コーチング」はそういう精神的な一体感を強調する手法とはまったく違う。あくまで目的、ゴールを共有した上で、同じレベルに立って、選手に対する技術面、精神面のサポートとアドバイスを専門的・客観的視点から行なうという「仕事」であり、日本人がイメージする上下関係を前提にした「指導」とは異なる。だから十代の若い選手は別として、主体はあくまで選手側にあり、コーチを依頼すべきかどうか、誰を選ぶか、何をアドバイスしてもらうのか、それらは選手側の選択だ。背景を詳しくは知らないが、女子テニスの大坂選手のコーチ解任の例なども、こうした見方から解釈すべきことだろう。

私は2019年の全英女子OPで渋野が見せた、女子らしからぬ胸のすくような豪快なスイングを見て、プロゴルフの楽しさを思い出し、すっかりシブコファンになった。一般的に韓国人選手も、日本の強い女子選手もそうだと思うが、基本的に女子ゴルファーのスイングに共通するのは、練習を重ねて型にはめたような、破綻はなく正確できれいだが、ダイナミックさに欠ける印象があるところだ。ところが全英時の渋野選手のスイングは、しなやかでいながら非常にダイナミックだった。岡本綾子さんと同じく、これは彼女のソフトボール経験のおかげだろうと思う。ゴルフは止まった球を打つわけだが、野球やソフトボールは自分に向かってくる球、動いている球を「打ち返す」という反射的な体の動きが基本で、スイングのリズムとタイミングが非常に重要だ。全盛期の岡本さんや全英時のシブコのスイングは、止まったボールを打ちながらも、そうした内部の動的リズムを強く感じさせる。それによってクラブヘッドにウェイトが乗り、ヘッドスピードも上がるので、腕力だけで力まかせに飛ばすより飛距離も安定して出るだろう(と、素人ながら思う)。

2020年の不調は、国内から海外挑戦への方針転換に基づくオフの体幹強化によって筋肉がつき、体が大きくなって、本来の美点だったしなやかな身体の回転と体重移動に影響が出て、結果としてヘッドスピードが落ちたり、インパクトが不安定になったからだろうと推測する。ところが年末の全米女子OPでは体もスリムになって、そこが改善され、初日、2日目などは完全に全英時の素晴らしいスイングに戻っていた。だから初日を見ただけで、今回は優勝するかもしれないと思ったほどだ。その作年末のメジャーで、優勝こそ逃したが4位と言う結果を残したのに、なぜ今年になってあのフラットなスイングに変えたのかは確かに謎だが、おそらく彼女なりに今後の世界挑戦を見据えた戦略を描き、あれこれ試行錯誤することを前提にして、「今年の課題」として取り組んでいることなのだろうと思う。だから照準はあくまでメジャーにあり、たぶんオリンピックも国内試合も、ノーマルLPGAも今の彼女の眼中にはなく、今年の「メジャー大会」のどれかで優勝することを第一目標に置いているのではないかと推測する。彼女は頑固そうだが、逆に言えば信念の強い人とも言える。だから、いずれシブコはかならず復活すると私は信じている(実際、先週末の米国内戦ではその兆しが出て来た)。

しかし渋野日向子の秀でたところは、ゴルフの技術だけではなく、明るく、聡明で、周囲に気配りもできるすぐれた人格も同時にそなえているところだ。世界の超一流のスポーツ選手はどの分野でもみなそうだと思うが、単に技術が上手いだけでは本物の一流にはなれない。常に自分のプレーを冷静に分析し、改善し、進化させるという内部モーメントを意識して持ち続け、しかもそれを実行しなければならないし、特に現代のプロ選手は、メディアやファンなど周囲に対してきちんとそれを表現できる言語能力、コミュニケーション能力も重要だ。シブコには何よりそうした姿勢と能力があり、そこが彼女の素晴らしいところで、だから見る人間を引き付けるのだと思う。全米女子OP最終日の17番Hでパットをはずし、しばらくの間、帽子を深くかぶってうつむいていたとき、最終18番Hで、「来年も頑張れ」という神様のご褒美のような長いバーディパットを沈めたときは、こちらまでもらい泣きしそうになった。涙をこらえながら、誠実に応答する試合後のインタビューもそうだ。観戦する側が思わず感情移入してしまうような何かが彼女にはあるのだ。

チマチマして、狭く、小うるさい雑音の多い日本ではなく、開放的でスケールの大きな舞台こそ彼女には似合っている。スポーツに限らないが、日本人として海外で戦うということは、異文化の下での厳しい個人勝負の場には違いないが、そこで「ものをいう」のは、知識や技術ばかりではなくマナーを含めた人間性である。ゴルフの性格上、まず孤独に強いということが他のスポーツ以上に要求されるだろうが、一方でスタッフやキャディ、他の選手とのコミュニケーションを積極的に行なって、内に閉じこもらないことが大事で、それが結果として世界で戦えるメンタルの強さと安定性を生むことにつながる。ゴルフに限らず、才能ある日本人スポーツ選手がなかなか海外で成功しない理由の一つは、そこにあり、その解決には英語が必須なのだ。難しい話ができるほどの英語力は必要ないし、簡単な対人コミュニケーションに必要な程度の英語など、まだ若く優れた言語能力を持つ渋野選手がその気になれば、あっという間に身に付くスキルだろう。

それにしても、ネット上の一部メディアや匿名投稿による悪意のある批判的記事が、シブコを筆頭に女子ゴルフ選手たちに向けられることが多いようだ(昔からそういうものなのか、よく知らないが)。必要以上にシブコばかり追い回すメディアへの反感や、商業上のクリック数稼ぎが背景にあるのだろうし、有名税だと言えばそうなのだろうが、海外への挑戦意欲を持ち、まだ若く(みんな20歳そこそこだ)未来のあるスポーツ選手を貶めるようなことを、なぜ大の大人がするのだろうか。世界レベルで戦っている現役プロ選手に対して、何者でもない素人や半素人が、スイングがどうのこうのと、技術に関して上から目線で語るようなスポーツがゴルフ以外にあるだろうか。テニスの大坂選手や、サッカーの沢穂希選手に向かって、あれこれプレー内容や技術の欠点を上から目線で「公の場で」批判する素人がいるだろうか。他の女子スポーツでは、若い選手に対して、こうした非礼な、あるいは陰湿なゴシップ的ジャーナリズムとか批判はあまり見られないように思う。これはシブコの特別な人気が理由でもあるのだろうが、「昔からゴルフやってます」的な特権意識を持って若者や女性を見下す、オヤジ中心の古臭い日本のゴルフの世界特有の空気が生む行為としか思えない。

渋野日向子はまぎれもなく、世界に開かれた日本女子ゴルフ界の未来を担う、岡本綾子以来の逸材であり、コロナに苦しみ、夢のない今の日本に輝く数少ない希望の星だ。だから、その星の足を引っ張って地上に引きずり降ろすような愚行を、大の大人がすべきではないと思う。私はド素人なので、批判などせずに前途ある彼女たちを応援したい。個人的には、それぞれ個性は違うが笹生優花と原英莉花の二人は、畑岡や渋野と並んで世界で十分通用するポテンシャルを持つ選手だと思う。少なくともシブコや彼女たちは、一部の偏った批判など気にせず、今年もまた世界に向かって挑戦し、明るく伸び伸びとしたプレーで我々を楽しませて欲しい。

(*6/9 追記 …と、書いていたら、その笹生優花が6/6の全米女子OPで本当に優勝した。びっくりした。彼女も強いだけでなく、人格が素晴らしい選手だ。これで、渋野選手も多少肩の荷が下りて、期待と裏腹の無言の圧力から解放されるだろう。)

ところで「マリオオープンゴルフ」だが……Hawaiiコースの15番までは何とか進んだものの、そこで止まったままなかなか前に進めないので、しばらく遠ざかっている。しかし、このHawaiiとUKコースは(年寄りには)難しすぎる。パットがスコアメークのキーになるところも本物のゴルフと同じで、その意味でも本当によくできた名作ゲームだとは言える。そのうち、またやる気が出てきたら改めて挑戦したい(死ぬまでに冥途のみやげに何とかクリアできればいいと思っている)。

2021/05/14

井上陽水の50年

ジャズ以外の音楽を聴くとなると、年末に聴く演歌系とは別に、年に何回か集中して聴きたくなる日本人アーティストがいる。私の場合、長谷川きよしと並んで頻度が高いのはやはり井上陽水だ(他には、ほぼ夏限定だが山下達郎、大瀧詠一、サザン)。いつもはレコードを聴くのだが、たまには映像でもということで、先日は「陽水の50年」という、井上陽水のデビュー50周年となる2019年末にNHKが放送したテレビ番組の録画をしばらくぶりに見た。もちろん陽水の歌も久々に堪能したが、松任谷由実、玉置浩二、奥田民生、宇多田ヒカル、リリー・フランキーという陽水と交流のある5人のゲストが、旧友、師匠、弟子、同業者、先輩、ダチ…といった各視点で陽水を語る趣向も面白かった。玉置浩二、奥田民生との懐かしいデュエット、宇多田ヒカルの〈少年時代〉のカバー映像(一部だが)なども楽しめた。

ユーミンが「ヨースイ」と呼び捨てにしたり、奥さんの石川セリと親友だ…とかいう話も初めて聞いた(前に一度見たはずなのだが、演奏部分は記憶にあっても、このコメントは憶えていなかった…)。奥田民生の、陽水のカニ好きの話も面白かったが、興味深かったのは、宇多田ヒカルがソングライターとしての彼女との同質性を語った、特に歌詞に関する分析で、陽水の詩の本質を見事に捉えていたように思う(さすがに天才同士)。相変わらず掴みどころのない、陽水のシニカルでおネェな喋りも久々に楽しんだ。昔から、思い切り力の抜ける「みなさん、お元気ですかー」という日産セフィーロのバブル時代(1988年)のCMといい、時々テレビで見たタモリとのサングラス漫談のようなやり取りといい、最近では『ブラタモリ』の脱力系エンディング・テーマ〈女神〉といい、清水ミチコのモノマネのネタになるほどキャラの立った陽水には、唯一無二の存在感がある。今やユーミンも出ている年末の『紅白』には、「恥ずかしいから」という理由で出場しないところもおかしい。

それにしても70歳を越えてなお(1948年生まれだ)衰えを見せずにあの高音域を駆使し、しかも50年も前の自作曲を、まったく古臭さを感じさせずに唄いこなす井上陽水は間違いなく天才だが、その尋常ではない才能とバイタリティからして、「怪物」とさえ呼べそうな気がする。「アンドレ・カンドレ」 という、"いかにも" な芸名で陽水がデビューした1969年前後は、20歳前後になった団塊世代に支えられ、あらゆる新しい音楽が爆発的な勢いで出現した日本の音楽市場の「ビッグバン時代」だった。今はもう当たり前だが、自作自演の「シンガーソングライター」という言葉が生まれたその時代に、鮮烈なオリジナリティを持って現れ、その後半世紀にわたって楽曲創作を続け、唄い続け、しかも時代ごとに、誰もが今でも記憶している大ヒット曲をコンスタントにリリースしてきた陽水ほど、その呼称にふさわしい日本人歌手はいないだろう。吉田拓郎、小椋佳、小田和正、長谷川きよし…など、あの時代に現れた自作曲を唄う素晴らしい歌手はたくさんいるが、この50年をあらためて振り返ってみると、陽水はやはり別格のアーティストなのだということがよくわかる。

陽水の独創性をもっとも象徴しているのは、独特の歌声とメロディに加え、世代を超えて日本人の心の琴線に触れる「歌詞」であり、その言葉が喚起する文学的、詩的、哲学的イメージである。時に呪文のようにも、単なる語呂合わせ(?)とも聞こえることもあるが、ありきたりの言語表現が生む月並みな世界とは縁のない歌詞、そこから生まれるイメージの抽象性こそが、陽水の楽曲がいつまでも古びず、時代に縛られないオールタイム性を維持してきた最大の理由だろう。どこにでもありそうでいて実は存在しない世界を、日本的情緒と、時にシュールなイメージにくるんで描くファンタジーが陽水ワールドなのだ。ある意味で、これほど文学的、哲学的な雰囲気が濃厚な歌手、楽曲は、日本のポピュラー音楽界には他に存在しない。しかも、それでいながらほとんどの曲に、ヒットに必須の要素、日本の大衆にアピールする要素がかならずあるところが陽水の音楽の魅力だ。ただし、諧謔、言葉遊びの要素もあるその歌詞に、過剰に深い意味を見出そうとするのは、本人も本意ではない(恥ずかしい?)だろうという気がする。基本的に「はぐらかし」が好きなので、聴き手側が抱くイメージが(歌詞の抽象性ゆえに)多彩、多様であればあるほど、喜ぶ人ではないかと思う。

歴史の長い陽水のベストアルバム、ベスト曲は、人によって様々だろう。シングル盤の名曲もたくさんあるし、数多いヒット曲からセレクトしたベスト曲コンピ盤もある。ダウンロードやストリーミングという曲のバラ聞き時代には、「アルバム=作品」という意識も稀薄になって、今後はアルバム単位で歌手の世界を語ることもさらに減ってゆくだろう。しかしジャズがそうだが、陽水のように単発のヒット曲云々を超えて、時代を代表するような楽曲を数多く残してきた20世紀のポップ・アーティストは、やはり時代を切り取るようなアルバム単位で、いつまでも語る意味も価値もあると思う。古い時代のアルバムから順次聞き返すと分かるが、何より陽水のアルバムは、あたかも一人の作家が発表してきた詩や短編小説を集めた作品集のように、一作ごとにアルバム・コンセプトが背後にきちんと存在することを感じさせる。陽水の楽曲はそれぞれが一編の詩か小説(物語)であり、だから各アルバムには一つのムードを持った詩集あるいは短編小説集の趣がある。

ベストアルバムは初期3作を挙げる人が多いそうだが、やはり70年代のアルバムにある陽水的な斬新さこそがいちばん魅力的だ。デビュー盤『断絶』(1972) は、〈傘がない〉などまさに陽水を代表する歌もあるが、アルバム全体としてまだ60年代フォーク色が強く、さすがに今聴くと曲想もサウンドも多少古臭く感じる部分がある。『陽水IIセンチメンタル』(1972) は、タイトル通り、若さとメランコリー感に満ちた名曲、佳曲が並ぶ文字通りの名盤だが、中でも〈能古島の片思い〉などは、永遠の青春ラヴソングだ。アルバム全体の完成度という点からいえば、次の『氷の世界』(1973) が70年代と言わず、陽水の全作品の中でもダントツだろう。日本初のミリオンヒットとなったこのアルバムには、若き陽水のあふれるような才能が凝縮されている。タイトル曲の他、〈心もよう〉〈白い一日〉〈帰れない二人〉など名曲も満載であり、1970年代初頭の時代の風景と我々の記憶を、もっとも鮮明に甦らせるレコードだ。続く『二色の独楽』(1974) は結婚後のハッピー感とLA録音のせいもあったのか、陽水の作品ではもっとも「明るい」アルバムだ。ただし充実しているが、明る(軽)すぎて、どこか陽水的な深みや謎という「風味」が薄い気がする(この盤は録音もいまいちだ)。70年代で個人的に好きなもう1作は、フォーライフ設立後の初アルバム『招待状のないショー』(1976) だ。〈結詞〉(むすびことば) のような名曲の他、どの曲も編曲も、一皮むけたようなモダンさ、シンプルさ、味わいがある(以上、あくまで個人的感想です)。

陽水のアルバムのもう一つの特徴は、時代を問わず、どれも「録音」のクオリティが高いことだ。1970年代のレコードは、完成されたアナログ技術とそれに習熟した音響技術者が録音していることもあって、ニューミュージックと呼ばれていた当時の他のレコードも総じて録音は良いが、陽水のアルバムはそれらに比べてもサウンドのナチュラルさが際立っている。ヴォーカルも楽器の音もレンジが広く、非常に深みのある音で録られているので、オーディオ的にも再生する楽しみが大きい。上記の主要アルバムは、70年代発売当時に買ったLPと、80年代以降のリマスターCDの両方を持っているが、考えてみれば当時買ったLPなどは、ジャズで言えばオリジナル盤に相当するわけで、サウンドの鮮度が高いのも当然だ(だが、アルバムのCD版も音は非常に良い)。陽水自身が、どれだけ自作アルバムの録音クオリティにこだわりがあるのかは分からないが、「音楽耳」が異常に優れた人のはずなので、コンサートやテレビ番組でのサウンドから想像できるように、質の低いサウンドや録音を許すとは思えない。だから陽水自身が、作品の録音の質には相当深く関わっているのだろうと想像する。すべて好録音の70年代の陽水作品の中でも、私の装置で聴いた限りは『招待状のないショー』が最も音質的に優れた録音のように思う。これはLPでも、CD版で聴いても同じである。やはりオリジナル・アナログ録音そのものの質が高かったのだろう。1970年代の、特にアコースティック・サウンドをナチュラルに捉えたアナログ録音は、技術レベルの点でも、やはり日本の録音史の頂点だったのだろう。そしてほぼ同世代の大瀧詠一や山下達郎などもそうだが、音と響きへの繊細な感性を持ち、妥協せずに録音の質にこだわるアーティストは、当然だがヴォーカルだけでなくアルバム全体の「サウンド」も素晴らしいのである。

80年代以降で私が好きなアルバムの筆頭は『Lion & Pelican (ライオンとペリカン)』(1982)で、次に『ハンサム・ボーイ』(1990)、『アンダー・ザ・サン』(1993) という3枚だ。時代を超える陽水の楽曲だが、当然ながら創作行為はその時代の空気の中で行なっているわけで、これら3枚を<before/ mid/ after "バブル">という視点で聴いてみると、曲想と時代の関係も透けて見えてきて面白い。『ライオン…』は、タイトル曲の他、〈リバーサイド・ホテル〉〈背中まで45分〉、個人的に好きな〈チャイニーズ・フッド〉〈約束は0時〉他の名曲揃いの傑作アルバムで、30歳を過ぎた陽水による洗練された大人の音楽という印象だ。バブル全盛期の『ハンサム・ボーイ』には〈最後のニュース〉〈少年時代〉というメガヒット曲に加えて、個人的に大好きな〈自然に飾られて〉という名曲がある。そして『アンダー・ザ・サン』には、〈5月の別れ〉〈Make-up Shadow〉〈カナディアン・アコーディオン〉という、これも大ヒット曲が収録されている……が、こうしていくつか曲を挙げてみたところで、これらは陽水が書いた数多くの名曲のほんの一部にすぎないことをあらためて感じる。それほど陽水には名曲が多い。

そしてコンサート・ライヴに出かけると、陽水が唄うどの曲も、我々の世代の身体と心の奥底に深く沁みこんでいることがつくづく分かる。'00年代以降になってから、都内で行なわれた陽水のライヴ・コンサートに何度か出かけたが、それは陽水が60歳頃に行なった年齢を感じさせないコンサートの素晴らしさに感激して、つい何度も出かけるようになったからだ。テレビで見るより遥かにエネルギッシュで、しかも毎回アレンジに工夫を凝らしたサウンドをバックに唄いまくる陽水のステージは、その年齢を考えたらまさに驚異的だ。高域は徐々に苦しくなってはきたが、オリジナルのキーは維持しているし(たぶん)、声量はまだ十分で、ピッチは常に安定して決して音を外さず、リズムには融通無碍というべき柔らかさがあり、バックのサウンドも毎回シンプルでいながら新しい。天性の資質があるとはいえ、年齢的に見て、体力はもちろんのこと、事前に相当量のボイス・トレーニングをこなすことなしに、あの2時間近い濃密なパフォーマンスを維持することはできないだろう。そして何より、陽水がステージで唄う数多い曲のほとんどを、聴き手であるファンが鮮明に記憶しているという点にこそ、アーティストとしての井上陽水のすごさがある。

70歳を越えてなお現役で活動を続ける陽水は、時空を超えて、音楽の持つ不思議な力を実感させてくれる稀有なアーティストだ。どんなジャンルの音楽もそうだが、ライヴ・コンサートでは、その場にいるアーティストと聴衆だけが共有できる真に幸福な瞬間が時として生まれる。ジャズにもそういう瞬間はあるが、陽水のようなポピュラー歌手の場合は、聴衆のほとんどが名曲の記憶と共に生きる同時代人であることが聴く喜びを増幅するので、会場のボルテージがまったく違う。ステージ上の陽水も、そうした聴衆側の思いや感動を直接感じ取り、インスパイアされながら唄っているはずだ。昨年来のコロナ禍を最悪の厄災と呼ぶしかないのは、音楽産業や演奏活動への経済面の打撃ばかりでなく、アーティストと音楽ファンをつなぐ、人生におけるこうした至福の瞬間も奪ってしまったからである。