スチャラカ社員 大坂朝日放送 |
2021/12/28
年末美女映画三昧
2021/12/06
追悼・中村吉右衛門
中村吉右衛門が11月28日に、77歳でついに亡くなってしまった。春先に倒れて救急搬送されて以来、なんとか回復して欲しいと、毎日テレビで『鬼平犯科帳』を見ながら祈っていた。その後ほとんど報道されて来なかったので心配していたが、先日も、その後容態はどうなのだろうかと案じていたばかりだった。
BSフジで毎週放映している二代目中村吉右衛門による『鬼平犯科帳』は、1989年に放送開始されて以降、2001年の第9シリーズまで放送され(以降はスペシャル版)、現在もたぶん何回目かの再放送中で、11月には第4シリーズ(1992- 93年)を放映中だった。これまで各シリーズ、スペシャル版含めてほとんど見てきたし、録画した放送を毎日見るのを楽しみにしてきた。私はとりたてて、いわゆる時代劇のファンでもないし、真面目に見てきた時代劇の番組は、NHKの大河ドラマや人情時代劇を除けば『鬼平犯科帳』だけだ。懐かしい松竹時代劇の、光と影のコントラスト、色彩の濃い独特の映像は、冒頭から一気に江戸時代の鬼平の世界へと引き込まれ、瞬く間に現世を忘れさせてくれる強烈な引力があり、毎週(毎日)見てもまったく飽きることがなかった。おそらく日本中に、私のように時代劇はあまり見ないが『鬼平』だけは別、というファンが数えきれないほどいることだろう。それほど、長谷川平蔵―鬼平は、中村吉右衛門と一体化していた。脇を固める他のキャストがまた素晴らしく、密偵役の江戸屋猫八、梶芽衣子の他、奥方の多岐川裕美、火付盗賊改方の与力、同心のメンバーなど、安心して見ていられる俳優ばかりで、毎回異なる、個性豊かな男女のゲスト出演者の演技も楽しめた。何より、鬼の平蔵の持つ江戸の粋と洒落っ気を、吉右衛門が見事に表現していた。春夏秋冬の江戸情緒あふれる景色(実際の映像は京都だが)を背景にして流れる、ジプシーキングスのギターによるエンディング曲「インスピレイション」が終わるまで、その回が「終わった」という気がしないので、ついつい最後の、雪の夜の立ち食い蕎麦屋のシーンまで見てしまうのだ。中村吉右衛門演ずる『鬼平犯科帳』は、そのヴィジュアル・インパクトが強烈で、はっきり言って池波正太郎の原作小説をはるかに超える面白さがあった。『徹子の部屋』の追悼特番で、1970年代、30歳代から最近の70歳代までの吉右衛門出演の出演回を放映していた。黒柳徹子との対話を通して見る実際の吉右衛門は、言葉も喋りも滑らかで、とても軽やかに生きて来た人物のように見える。歌舞伎役者でありながら、幸か不幸か4人の娘に囲まれたが、やっと後継になれる男子の孫に恵まれて嬉しそうな表情の吉右衛門は、晩年は穏やかな人生を過ごしていたようだ。しかしそれにしても……本当に残念だ。中村吉右衛門さんのご冥福を心からお祈りしたい。
2021/11/14
「モンク没後40年」を前に
私はケリー書の翻訳だけでは飽き足らず、続いて、実際にモンクの身近にいて、モンクをもっともよく知る二人を描いた書籍も邦訳した。一つは、半生を捧げてモンクを支援し続けたニカ夫人の伝記『パノニカ:ジャズ男爵夫人の謎を追う』、そしてモンクから大きな音楽的影響を受け、モンクに私淑していたソプラノサックス奏者、スティーヴ・レイシーのインタビュー集『スティーヴ・レイシーとの対話』だ。私の中では、これら3冊を本人、パトロン、弟子という3者の視点から描いた「モンク3部作」と称している。そして翻訳書を含めて日本語ではこれまで限られた文献や書籍、第三者によるレビュー等しか読めず、依然として謎と伝説に満ちていたモンクというミュージシャンの真実が、これら3冊の訳書でかなり正確にイメージできるようになったと自負している。しかし、中でも2009年に発表されたロビン・ケリーの著書は、その正確で圧倒的な情報量からしても大きな歴史的価値があり、今話題になっている没後40年の各企画の元ネタになったのも、間違いなくケリーの本だろうと思う。
現在日本で公開されている映画『Jazz Loft』は、『MINAMATA』で有名な写真家W・ユージン・スミス他のアーティストたちが、ニューヨークの廃ビルをロフトとして使い、多くのジャズ・ミュージシャンが毎晩そこに集まってジャムセッションを繰り広げていた模様を、スミスが撮影した写真と、ジャズファンであり、オーディオマニアだったスミス自身が録音したテープで描いたドキュメンタリーで、2015年にイギリスで制作された映画だ。この映画の主役の一人がポスター写真にも使われているモンクであり、そのロフト住人の一人で、モンクの大ファンだったジュリアード音楽院の教授ホール・オヴァートンを、モンクが自作曲の編曲者に指名して、モンク作品初となるビッグバンドによる公演を1959年に「タウンホール」で行なうまでのいきさつを、ロフトでの二人の会話を収めた音声テープと写真で初めて描いたものだ。ケリーの著書に詳しく書かれているこの逸話は、私も同書で初めてその事実を知ったが、このやり取りは、二人の関係と、モンクの音楽思想と音楽作りに関わる巷間伝説のベールをはがす、実に貴重な記録なのだ。映画製作の6年前に発表されたロビン・ケリーの本では、デューク大学Jazz Loft Project 所蔵のオリジナル録音テープをケリーが書き起こし、映画のハイライトというべきモンクとオヴァートンの会話の内容を詳しく収載している。もう一つの企画は、モンクの伝記映画『Thelonious』の制作発表だ。ヤシーン・ベイ Yasiin Bey (Mos Def)というラッパー兼俳優が主演し、2022年夏から撮影を開始するという予定らしい (amass 2021年7月情報)。しかし、息子のT.S.モンクが、モンク財団としてこの映画の制作には一切関与していないし、許可もしていない、脚本も嫌いだ…とか明言しているらしいので、どうなることか分からない? いずれにしても、モンクを巡るこうした動きはモンクファンとしては歓迎すべきことだが、21世紀の今頃になって突然脚光を浴びて、草葉の陰でモンクも苦笑いしているかもしれない。あるいはこれは、天才モンクの音楽が、やはり世の中より40年先を進んでいた――という証拠なのか?
2021/10/29
天才 !? 清水ミチコの世界
【祝!】第13回 (2021年度) 伊丹十三賞・受賞 (7/28)
都知事から祝辞も |
あらゆる文化活動に興味を持ちつづけ、新しい才能にも敏感であった伊丹十三が、「これはネ、たいしたもんだと唸りましたね」と呟きながら膝を叩いたであろう人と作品に「伊丹十三賞」は出会いたいと願っています》
最近、自分があまりテレビを見なくなったせいだと思うが、清水ミチコは、森山良子との例の「ポン、ポン」というカツラのCMくらいしかテレビでは見かけない。しかし、特にモノマネファンでもない私だが、なぜか時々、禁断症状のように無性に清水ミチコの芸を見たくなることがある(濃い芸なので、たまに見る程度がちょうどよい)。今となっては、まさに夢のような伝説のバラエティ&コント番組『夢で逢えたら』(フジテレビ)で、売り出し中のダウンタウン、ウンナン、野沢直子という強力なギャグ芸人を相手に、30年前のバブルに浮かれる若い女性の一断面を活写(?)した、人格&顔面破壊キャラ「伊集院みどり」を創作。その強烈なコスプレを演じきって、女優としての才能の片鱗も示し、単なるモノマネ女芸人を超えた存在になって以来、私は清水ミチコの大ファンなのだ。当時「渋谷ジァンジァン」のライヴまで見に行ったくらいだ。
伊集院みどり嬢 こんな感じでした |
ショーグン様の某国アナも (タモリとの共演熱望) |
本当はこんな感じの人らしい 後ろのCD,LPの量がすごい |
YouTube 『シミチコチャンネル』 |
2021/10/10
英語とアメリカ(8 完)妄想的未来展望
昨年夏のジャズ本に関する話の連載もそうだったが、今年の夏も、終わらないコロナ禍でヒマにまかせて書いてきたので、ジャズとは直接関係ない話がいつの間にかどんどん広がって収拾がつかなくなってきた。本テーマもこのへんで終わりにしたい。最後に「まとめ」として未来展望についての「妄想話」を一つ。
1990年代以降、バブル崩壊による金融破綻と産業界の低迷、デジタル化の遅れによる国際競争力の低下、さらには阪神淡路大震災や東日本大震災、原発事故のような大災害がこれでもかと連続し、まるで呪われたかのような平成の30年だった(安倍晴明でも呼び出したいくらいだ)。おまけに国全体の高齢化も加わって、日本の国家としての活力は明らかに低下しているが、その「とどめ」となったのが、1960-70年代の高度成長期に、東京オリンピック(1964)、大阪万博(1970)、札幌オリンピック(1972) と国際的大イベントを連続開催し、それを国家事業の成功譚と記憶している老人たちが中心になって、あの夢よもう一度と、莫大な資金を投入して誘致し、コロナ禍で反対する多くの国民の懸念をよそに、今年強行開催したオリンピック/パラリンピックという世界的イベントだ。
インバウンド需要をきっかけにして、ほぼ30年間落ち込んできた経済を一気に盛り上げようと目論んでいたが、初めからスタジアム設計、パクリロゴマーク、組織委問題、開会式演出等々と問題が相次ぎ、あげく世界的なコロナ禍に見舞われ、結局は内外から誰も来ない、見ない、「無観客」という前例のない環境下で縮小開催せざるを得なくなり、国家として、ある意味ダブルパンチを喰らうという悲惨な結果に終わったのが2020/2021である。コロナもなかなか収束せず、おおっぴらに酒も飲めず、国のリーダーたちは頼りにならず、いったい日本は今後どうなるのかと不安に思っている人も多いだろうし、中にはもうお先真っ暗だと思っている人もいるかもしれない――しかしながら、これもまた「国家の運命」と考え、悲観しすぎないことだろう。あまり嘆いたり不平を言わずに、日本はあらゆる面で、今は終戦以来の「どん底」状態にあって、逆に言えば「これ以上悪くなることはないだろう」くらいに開き直って、楽観的に将来を見た方が健康にも良いと思う。人生も国家も、急がず慌てず長い目で俯瞰してみると、意外なことに気づくものだ。なんだかんだ言っても、日本はまだ今のところは良い国なのである。
1870-1900(沈=明治維新後の混乱と近代化模索期)、 1900-1930(浮=日清日露戦勝利による国威発揚と大正デモクラシー期), 1930-1960(沈=日中戦争、太平洋戦争、原爆、敗戦、戦後混乱期), 1960-1990(浮=高度経済成長期を経て80年代の ”Japan as #1”、バブルへ), 1990-2020(沈=バブル崩壊、阪神・東日本大震災などの大災害、デジタル敗戦)、2020-2050 (浮=?)
さらに、ヒマなのでPCスキルを駆使して(?)、おおよその図を描き、各期間を大きなイベントを中心に埋めてみたのが以下のチャートだ。これを眺めていると、何となく、もっともらしい説に思えてくるような気がしないでもない……
また30年周期ということは、60年で「1サイクルの浮沈」ということになり、平均寿命80歳とすれば、これは成人後の人生の長さに相当する。つまり、日本人のほとんど誰もが、時期のずれはあっても「人生で、1サイクルの世の中の浮沈」(これは不可抗力)を経験するということであり、これはこれで神の公平な配材といえるのかもしれない。中高年なら、上図に自分の生年の位置を置いてみれば、おおよその世相の浮沈を過去の経験から想像できる。また、たとえば就職氷河期(90年代後半)を経て現在に至るまでツイていない世代(団塊ジュニア)にも、やがては「明るい時代」がやって来るという希望が(せめて)持てるかもしれない(?)
実は、面白いのは同じ期間に、ほとんど似たような周期で(国力と浮沈の程度の差はあるが)アメリカが日本とほぼ「真逆の浮沈」を繰り返しているように見えることだ。たとえば過去100年間に限っても、第二次世界大戦期(戦後はアメリカ最盛期)、ヴェトナム戦争時代(日本は高度成長期、1975年のヴェトナム敗戦時のアメリカは底?)、90年代に始まるデジタル革命時という各30年は、浮沈サイクルが日本と真逆の傾向にあるようにも見える(そうすると、アメリカの次の30年は「沈」ということになる?)。ただし繰り返すが、あくまでこれは私個人の単なる妄想であり、まったく根拠はない。ところが、念のためにネットで調べてみたら、何と日本のこの景況浮沈の30年周期について、同じような説を既に唱えている人が日本にいることを知った(私の妄想よりは信用できるだろう)。経済学では昔から短期、中期の景気変動説に加え、コンドラチェフの長期波動説等、景気循環論が提唱されているので、今の時代、データに基づいた科学的な検証を行えば、何かしら新しい傾向が得られているのではないかと思う。やがてはAIが、ビッグデータを駆使した総合的分析で、こうした人間の社会経済活動や国家の浮沈周期の存在、その理由等を解説してくれるかもしれない。
さて30年後に私はたぶん生きていないので、まさに無責任な話になるが、2021年という時点で推測される、次の30年間に日本が再浮上するための「唯一ポジティブなシナリオ」とは――《 独創性はあまりないが、特定の「プラットフォーム」(ここではデジタル技術、サービスを含む21世紀デジタル社会の基盤)がひとたび構築された後の、 日本人の学習・分析能力、創意工夫、実行スピード、高い品質は歴史的に実証済みなので、日本が今後、本気で社会の(再)デジタル化(DX)に取り組めば、その過程でもそうした能力が発揮される可能性がある 》ということだろう。その可能性を高めると予想される重大な「ファクト」は―― これまで年功序列をベースにした会社や組織など、社会の中枢にいて、20世紀の成功体験と意思決定権を持つが、デジタルに関する知識とスキルが欠けていたために、業務のデジタル化転換を主導できず、むしろ直接、間接両面でそれを妨げ、結果として過去30年間の日本社会全体のデジタル化への構造転換を遅らせてきた大きな要因と思える――我々のような「情弱中高年以上の年齢層」が、向こう30年間で徐々に退場してゆくことだ(アジアなど新興国のデジタル競争力の強さの要因の一つは、この生産年齢人口の若さであるのは明白だ)。
これは、戦後半世紀の日本の発展に尽力してきた年寄りにもっと敬意を払え――とかいう話ではなく、デジタル革命の勃興期(1990年代)から、残念ながら戦後の日本を牽引してきた世代(1930-50年生まれ?)の「高齢化」がたまたま重なったために、組織や意思決定プロセスの迅速なデジタル体制への転換が「より難しくなった」――すなわち、これも日本の「歴史的運命」だったという話である。しかし、次の30年間は、この世代交代によって日本社会の人口構成も変わり、新たなデジタル技術やサービスの開発、提供者のみならず、その利用者や、政治や企業活動の意思決定の中心を成す層が、遅ればせながらデジタル・リテラシーの高い若い世代に徐々に移行してゆく。過去30年間の出遅れが逆に幸いして、デジタル庁が唱える日本流の「人に優しいデジタル化社会実現」のための施策を基礎から積み上げ、それが社会に根底から浸透し、技術、サービス分野で他国にはない「日本ならでは」の知恵を使ったデジタル活用策が実際に生まれ、機能すれば、この国の産業や社会を根本的に作り変える可能性は十分にあると思う。それが30年周期説という「妄想」に基づく、唯一の希望的観測だ(そうなれば我々年寄りも、火野正平氏の名言「人生下り坂サイコー!」と叫びながら、残された人生を楽しく送れるかもしれない?)。
ただし、いずれにしろ今後の日本は、20世紀のようにデファクト化して「世界市場で主導権を握る」というような大それたことを目指すのではなく(太平洋戦争とデジタル戦争で懲りたはずだし、そもそも似合わない)、産業や文化など、あらゆる分野で世界に類のない価値創造を目指す「ガラパゴス・ジャパン」(英語だとSpecialty Japan?) という独自の道を、自虐的にではなく、世界の趨勢を俯瞰しつつ「戦略的に選択して」前進すべきだと思う。すなわち、総人口は減るが、団塊以上が徐々にいなくなり平均年齢は若返るという要素も含めて、国家も産業も「ダウンサイジング」してゆくというイメージ――つまり得意とする小宇宙化(盆栽化、弁当化)をさらに深化、洗練させて、国家のサイズに適した領域で生き残ってゆくことである。日本的伝統工芸などに限らず、ゲーム、マンガ、アニメの例に見られるように、声高に叫ぶことなく独自文化や技術を掘り下げ、それを控えめに発信しつつ、「世界に発見、認知してもらう」ことによって逆に自らの価値を高めることを、日本の基本的国家戦略にすべきだ。そしてこれは、日本人の特性と国家としての歴史的文脈にも合致した方向性だと思う。デジタル化はあらゆる分野で、そのコンセプトを支える有効な柱となり得るだろう。
最後に日米関係に関して言えば、大雑把だが常に前進し、変化している「ダイナミック・アメリカ」と、保守的で細部にこだわる「ガラパゴス・ジャパン」は、ある意味で水と油のようなものだが、「イノベーション」は、それを得意とするアメリカに任せて、日本はそこから生まれた技術やアイデアを「選別、洗練」させることに特化するというように、「競争」ではなく、お互いに得意とする分野で棲み分けて「協業する collaborate」こと、つまり従来の基本的枠組みの戦略的強化が、やはり両国にとっていちばん良いことなのだろうと思う。幕末の黒船以来の歴史的運命が示しているように、太平洋をはさんだ日本とアメリカの両国は、いろいろあっても基本的には相性が良く、これからも互いを補い合う良きパートナー足り得る可能性が大きいと個人的には信じている。加えてもう一つは、一党独裁化をさらに進めている中国の動向を睨みつつ、アジアでもっとも日本に友好的な人々から成り、かつ中華文化圏の歴史と本質を理解している台湾と、より密接な関係を築き上げてゆくことが、日本にとって政治、経済両面できわめて重要な選択肢になると思う。
*
本稿(1)冒頭の、菅総理(当時)のG7写真から受けた印象(世界における日本の立ち位置)と英語問題から思いついた話だったが、つい長い論文(回顧録?)のようになってしまった。その菅総理も、国民の不満を察知した自民党による「ガースー抜き」戦略(文字通り)のゆえに、あっという間に退陣してしまい、岸田新総理になった。
本稿もこれにて終了です。(完)
2021/09/26
英語とアメリカ (7)アメリカ文化
特に「多民族による人工国家」という認識をベースにして、文明(普遍性)と文化(個別性)という切り口でアメリカを語った本は、今はともかく当時はまだなかったように思う。19世紀までのヨーロッパの近代文明に続き、アメリカは20世紀に生まれた「文明の国」であり、その文明は「多民族性、多文化性」という、この国が創建された時から内包する複雑なフィルターを経て、濾過されてきたものであるがゆえに、本質的にグローバル(当時はまだ、この言葉は使われていなかったが)に受容され、拡散されるという普遍性を持っている、という指摘はまさしくその通りだ。日本も、戦後の半世紀でアメリカ化されることが当たり前の日常となり、戦後生まれの我々は、子供時代から映画やテレビドラマ、飲食物、自動車、電化製品等を通して、便利で快適なアメリカ文明(=アメリカ文化)を体の芯から刷り込まれた世代だ。こうした国民レベルでの、日常生活の「アメリカ化」という蓄積があったからこそ、アメリカという手本に追いつけ追い越せ、という具体的目標とモチベーションが生まれ、日本の産業も経済も発展したのである。
90年代以降のデジタル時代になっても、「さらに便利で快適な生活」を提案するGAFAのようなビジネスを通じて、世界中で絶えず「アメリカ化」が進行してきた。私もコロナ禍の最近などは、気づくと毎日家の中で何の抵抗もなくAppleのスマホやWin PCを使って交信し、MacやWinのOS上でGoogleで検索し、MS/Wordで翻訳原稿を書き、Macオーディオで音楽を聞きながらGoogle Bloggerでブログを書き、YouTubeで動画を見たり、音楽を聴いて楽しみ、普通にAmazonであれこれ買い物をしている。そうこうしているうちに、GAFAは世界中の国や人々の日常生活の奥深くまで浸透し、知らず知らずのうちに(個人情報を収集しながら)、それらの国や地域固有の思想や文化に影響を与えているのである。その圧倒的な影響力、支配力と、今や自分がほぼ無自覚にそれらの「サービス」を日常的に利用していることに、正直言って時に恐怖すら覚えることがある。
ギリシア、ローマ、中国などの古代文明から19世紀の西ヨーロッパまで、「文明」とはそもそも、ある国や地域固有の「文化」が政治、経済、軍事等のパワーを背景にして、周辺地域に徐々に浸透し、その過程でそれら周辺文化も吸収しながらさらに深化、拡散する、という普遍化プロセスを経て成立するものだ。ところが20世紀の「アメリカ文明」は、国家の成立時から既に普遍性を内包しており、その下で形成された「アメリカ固有の文化」が、国力を背景に短期間にそのまま世界に拡散したところがユニークなのだ。20世紀の情報伝播速度が飛躍的に上がり、デジタル化によってさらにそれが加速されているという時代背景も違う。本稿中でも挙げたように、そうしたアメリカ文化を象徴するコンセプトないしキーワードは――ヴィジョン(理想)、ミッション(使命)、フロンティア(最前線)、リモート(遠隔)、チェンジ(変化)、スピード(速度)、チャレンジ(挑戦)――等、本稿で挙げてきたアメリカ人が好む概念や行動を表す特質だが、中でも「Change(変化)」こそが、これらの特質に通底するアメリカ文化の本質ではないかと思う。司馬本にも出て来るが、何年かすると「街の様子」がすっかり変わってしまう、というのも「Change」の象徴で(田舎は別だが)、資本主義社会の非情と移ろいやすさを表している。その例として、廃墟のようになったドック群を見て、フィラデルフィアの造船業の盛衰史を語っているが、ピッツバーグの鉄鋼も、私が90年頃に実際に見たデトロイトの自動車も同じだ。栄えていた街や地域が急速に廃墟化する様は、日本のように穏やかな文化を持つ国の人間からすると、本当に強烈なショックなのだ。20世紀後半に、これらの産業はみな日本に一度主役の座が移ったが、その次に鉄鋼、造船が韓国へ、さらに中国へと生産の主力が移ったのは歴史が示すとおりだ。半導体や電子機器の歴史も同じである。1980年代のアメリカ人が感じた、身の回りから国産品 (Made in USA) が徐々に消えてゆくという喪失感を、21世紀になって感じているのが我々日本人なのだ。それが資本主義であり、それもわずか数十年という期間にその変遷が起きているのである。日本に追いつかれた(表面的に、だが)アメリカは、半世紀の間、世界を主導していたそれらの国内製造業をある意味でスクラップ化し、それに代わる新たな産業をまた生み出したが、それが(80年代の準備段階を経て)90年代から始まった、インターネットとコンピュータを駆使したデジタル革命による産業のIT化だ。実物経済ではなく「カネがカネを生む」というウォール街の投機ビジネスを目にした司馬は、「モノ」を作らなくなったアメリカはいずれ亡びるのではないか……と80年代的に危惧しているが、一度沈んだかに見えても、再浮上するための資本と人材(リソース)を常に潤沢に維持し、次の成長を支える戦略と制度を常に見直している真正の資本主義国家アメリカは、90年代以降は「サービス」で復活を遂げたのである。
新聞紙や包装紙を再利用して大事に使っていた昭和30年代の日本に、アメリカ生まれの「使い捨て」ティッシュペーパーが初めて登場したときは本当に驚いたものだ。米国は他の国と違って、土地も資源も豊富なので「eco」という概念がそもそも稀薄だ。地球規模で「大量生産と大量消費」という概念とシステムを広め、その効用と利便性と引き換えに環境危機を生み出した最大の要因は、我々の生活を欲望の赴くままに、世界規模でひたすら便利に快適にしてきた「アメリカ文明」にあると思う。程度の差はあれ、世界のどこでも便利で快適な生活がひとたび実現すると、人間はもう元に戻れない。しかも90年代以降のデジタル化で、モノだけでなくサービスまでが自在に利用できるようになると、さらにその先の便利さが欲しくなる。1日かかっていた仕事が1時間ですむようになると、もっと短くできないかと考えるようになる。人間の欲望には際限がないので、ますます便利で快適な生活を求める。結果として、貧しかったがゆったりしていた生活から、便利で快適だがあわただしく、小忙しい毎日へと人間の世界が変わってゆく。低コストで大量に生み出したモノがあふれてゴミになり、地球規模で環境を汚染し、生産活動に大量に消費していたエネルギーゆえに天然資源は枯渇する。脱炭素もSDGsも、こうした地球規模の問題を解決しなければ、もうやっていけない状態に近づいているという危機感から生まれたものだ。最近になって、マルクスの『資本論』やマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のように、根源的な問いに答えてくれそうな(懐かしの)思想がまた注目を集めているのも、人々がこの状況に本当に危機感を抱き始めたからだろう。こうした功罪両面を持つアメリカ文化(文明)を生み出してきた「アメリカ人」に関しては、人それぞれのイメージを持っていることだろう。複雑な背景を持つ国なので、一言で「アメリカは…」とか「アメリカ人は…」とかはもちろん言えない。私が長年経験したと言っても、アメリカの中のほんの一部の企業、地域のコミュニティに関することにすぎず、それをもって一般化できないのももちろんだ。だから、あくまで限られた体験に基づく個人的感想だが、あえて言えば、アメリカ人からは、異民族や植民地統治の長い歴史を持つイギリス等、ヨーロッパ各国のような思想的複雑さや、ある種の狡猾さ(「思慮深い」「洗練された」とも言う)は感じられない。アメリカ人は「総じて」シンプルで、フランクで、フェアな人たちだという印象を持っている(人種差別の問題は、米国の基礎疾患のようなものなので別の話だ)。
私はアメリカのドタバタ喜劇映画が昔から好きで、シリアスな局面でも、事態や自分を茶化す乾いたアメリカン・ユーモアが好きだ。日本人もそうだが、何かあっても、しつこく恨みを抱いたりしないおおらかさもいい。アメリカとアメリカ人についての、全体としてポジティブな私の見方は、幸運にもこれまでの長い交流の中で、本当にイヤな体験をほとんどしてこなかったせいなのだろうと思う。ただし、群れることを嫌い、オフィスでも個室やパーティションで区切られた世界を好む彼らは、自由の国にいながら、どこか孤独に見えるのも事実だ。それとどこかでも書いたが、アメリカ人は成長してアメリカ人「になる」のであって、一方、日本人は生まれながらに日本人「である」、という両国民のアイデンティの認識は、基本的価値観の違いを知る上で重要だと感じることが多い。
一方、移民国家としての米国には、他国から見ればおかしな点や欠点もたくさんあるだろう。私が気づいたその一つは、トランプ時代が象徴しているように、アメリカが世界の中心だという意識が強く、歴史の短い自国のことしか知らない、関心がない、という人間が総体として多いので、異国の歴史や文化、そこに住む外国人がどのような存在なのか、その多彩さに思いを巡らせる「想像力」を欠いている人が多いことだ。その結果、何ごとも「自分たちが良いと思うこと」は世界中のどこでも通用する、と楽天的に(傲慢にとも言えるが)信じ込んでいるところが「普通の」アメリカ人にはある。だから国や民族、文化の微妙な違いなどは無視して、自国の価値観を強引に押し付けたり、大雑把に「アメリカ人」がいるように「アジア人」もいるというような、ある意味で「雑な」思想や姿勢が、政治問題、企業の事業戦略や運営から現在のアジア系ヘイト問題に至るまでの背景にあるように思う。
当然だが、逆にそれが「歴史や伝統にとらわれない」という自由、進取、革新の国民性、文化という長所を生み出してきたわけで、科学技術の発明、市場創造、起業精神のみならず、20世紀の映画やジャズのように、まったく新しいアートやエンタメ産業を生み出す土壌にもなっている。バラバラな出自の移民をまとめるために、まず共有すべき理想(Vison) を掲げて前進しつつ、人類がかつて経験したことのない社会を作ろうと、失敗もリスクも容認しながら、今も挑戦し続ける真に「実験的な国家」がアメリカなのだ。一方、同じ人種で長い歴史を持ち、互いを良く知り、和を重んじるための約束事が多く、変化やリスクを避け「何事にも慎重な」日本は、文化的にその対極にある国と言えるだろう。(続く)
2021/09/10
英語とアメリカ(6)デジタル化
世界のデジタル競争力 スイスIMD調査 日本経済新聞 2020年10月 |
2021/08/28
英語とアメリカ(5)リモート
英語の会議では「テーマ」が前述のように、具体的<<<抽象的というレベルの順で難しくなるし、「相手の数」が1人< 少人数<< 大人数、 という順で当然難易度も上がる。1対1なら、質問しながらでも何とかして議論できる可能性は高いだろう。しかし相手の人数が増えるにつれて、通常は会話のスピードが上がり、やり取りが複雑化するので、徐々に質問するのさえ難しくなる。また議論そのものの難度だけでなく、長時間ずっと英語で聞き、考え、喋るという頭脳の疲労がそこに加わるので、「普通の日本人」では疲れ切ってしまって、とても議論などついて行けなくなることが多い(そこに、やたらと長い夜の会食まで加わると、もうへとへとになる。ただし、いずれも「場数と慣れ」の問題でもある)。
Blues People LeRoi Jones (Amiri Baraka) |
そのロジックを鍛えるのにいちばん良い方法は、メール、レポート、論文、何でもいいが、下手でもいいから「英語の文章をたくさん書く」ことだと思う。自分の考えを、「簡潔に、論理的に」英語の文章として書き出す訓練を続け、仮に重要な議論の機会があれば、事前にその「文章」を相手に渡して説明しておく。口頭だけの議論だと、瞬時に良い言葉やフレーズが見つからないケースがよくあるが(語彙が少ないのでアドリブがきかない)、こうしておけば、こちらの基本的な考えは事前に理解されるので、会議では互いの疑問点だけに絞って議論できるし、文章での表現が会話時のフレーズにもロジックにも自然と生きてきて、説得力が増す。この手法は経験上も非常に有効だった。
……とまあ、エラそうに書いてきたが、実を言えば、私も当初は英語の会議に出席するのが本当にイヤで仕方がなかった。何せ実際に英語中心の仕事になったのは40歳を過ぎてからで、読み書きはともかく、もっと若い時から英会話を学習しておけば、と何度思ったかわからない。たぶん100%外資なら諦めもついて、言語も思想も思い切ってすべて米国流に従えば、それほど躊躇したり悩むこともなかったのだろうが、日米双方に片足を置いて、両親会社や日本人の上司や社員に忖度しながら仕事を進める合弁会社は本当にややこしいのである。
合弁会社勤務で身に付けたもう一つの個人的スキルが「PC」だ。米国親会社は、まだ郵便と電報による海外交信が普通だった1980年代(インターネットが普及する前)から、至急案件の場合に専門オペレーターに原稿を渡し、文章で交信したそれまでの通信方式「テレックス (telegraph-exchange) 」に代わって、IBMの「PROFS」という、コンピュータ画面にキーボードで文字を直接入力して、「瞬時に」海外と英文で交信できるEメールの前身ツールを使い始めていた。電話や自動車、さらにインターネットと、長距離通信や移動のための機器をアメリカが次から次へと発明したのは、日本の狭い国土とは正反対の「広大すぎる国土」という地理的制約のゆえだったのは明らかだろう。「見える顧客」よりも、「見えない市場」というビジネス上の視点や概念も同じだ。つまり建国時代から、先のよく見えない「フロンティア」と「リモート」への挑戦こそが、アメリカ文化や産業のキーワードであり、やがてこれがインターネットとデジタル革命という、国境を超えたグローバル化思想へとつながる。もちろん次は宇宙がその対象である(これらの技術開発の大前提に、軍事があることは自明だ)。その後'90年代になると、親会社では事業のグローバル展開とインターネットの普及に合わせて、部長や役員といった役職とは関係なく、英語のメールは当然として、PCをツールとして使った仕事を要請されるようになった。米国企業では、日本と反対で一般的に上に行けば行くほど管理職がよく働くというのは本当だ。若い部下や秘書任せではなく、自分でWord、Exel、PowerPointなどの使い方を勉強し、資料を作り、それを使ってプレゼンするのである。もちろん、これは’90年代のデジタル革命後の、すべてが忙しくなってからの話だ。また給与体系も年功序列の日本と違って、リーダー層の地位、労働量と給与がシンクロしている。つまり忙しいが、給料も高い。さらに「SAP」のような、コンピュータによる先進的な全社的業務&リソース・マネージメント・システム(ERP)も'90年代後半から導入していたし、20年以上も前から、PCで作成したプレゼン資料をインターネットを通じてリアルタイムで画面表示する普通のPC端末と、複数参加者が互いの発言をやりとりできる国際電話だけを使った「グローバル電話会議」を、世界各地(米、欧、アジア)を直結して毎日のように実施していた。「リモート」が普通の彼らは、日本人のように「相手の顔が見える、見えない」、ということにはあまりこだわらないので、コスト高だったテレビ会議ではなくとも、業務コミュニケーション上はそれで十分だったのである。
もちろん会議はすべて英語なのでこちらは疲れるし、米国中心なので時差の問題はアジアがいちばん不利だが(夜間、深夜になる)、その点を除けば、まったくシームレス、タイムレスな国際会議が可能だった。もちろん会社だけでなく、インターネット環境と普通のPCと電話さえあれば自宅からも参加できたので、夜中に会社にいる必要もない。つまり、世界(日本)のどこに住んでいようと会議参加はできた。だからグローバル電話会議が終わった時点(日本では真夜中が多かった)で、普通はネットにつながったPC画面上で会議要点をまとめた資料や議事録(WordやExel) はもう完成していた。もちろん、それを稟議書にまとめてハンコをついて回して承認する、というような日本的プロセスも必要ない。
これは最近の話ではなく、今から10年、20年も前のアメリカの会社の「実話」である。デジタル時代になってから随分時間が経っているにもかかわらず、いまだに全員顔を合わせる「対面協議」を重視し、だらだらと続ける日本の会議や打ち合わせ、意志決定プロセスの非効率さとスピードの遅さは、信じ難いほどである(そこがいい、という意見があることは承知の上で)。コロナ禍のおかげで現在、日本でもやっと普及しつつあるテレワークやオンライン会議(飲み会含む)もそうだが、たとえば「電話では失礼だ」というビジネス上の慣例にも見られるように、声や資料だけでなく「相手の顔が見えないと、どこか落ち着かない」という対面重視の日本文化、日本的感覚が、(それが良い悪いという問題とは別に)これまで日本における業務のデジタル化を遅らせてきた大きな要因の一つだろう(今はヴィジュアル情報の通信技術が劇的に進化したので改善されつつあるが、これまではトータルで、どうしてもコスト高になった)。
コロナ禍で、通信とPCのインフラ、その活用方法が日本でもようやく一般化し、今後リモートワークの環境はさらに改善されてゆくだろう。住環境の面から見ても、狭い国であるにもかかわらず、毎日、満員電車で何時間もかけて一斉に定時に出勤して一箇所に集まり、顔を合わせて仕事をした後(しかも残業までして)、また何時間もかけて帰宅する、という慣習を変え(られ)ない大都市圏のサラリーマンの膨大な、無駄と思えるエネルギーも大きな問題だ。米国親会社のほとんどの社員は、(田舎ということもあって)遠くても車でせいぜい30分以内の通勤時間であり、残業もほとんどしない。一方の日本人は、通勤も含めて毎日の生活に時間的ゆとりがないので、疲れ切ってしまい、どうしても目の前のことにしか関心が向かわず、長期的なこと、根本的なこと(観念的、抽象的なこと)をじっくりと考える余裕も、習慣もなくなるのではないだろうか(その分、憂さ晴らし的な業務後の飲食が増える)。おまけに昔と違って今や国も貧乏になり、給料もまったく上がる気配のない日本の勤労者の生活(QL)は、つくづく貧しいと思う。
だが民間企業レベルはまだマシで、コロナ、ワクチン、オリンピック等の国家的課題への取り組みのトップで旗を振るべき日本政府、政治家、官公庁のデジタル化への意識と体制は、もはや手遅れと言ってもいいくらい世界的に見て遅れている。ワクチン接種のドタバタが示すように、コロナ禍が、昔ながらのモノ作り優先思想で、デジタル技術とソフトを「社会的ツール」として真に活用してこなかった日本の立ち遅れを一層目立たせているが(米国どころか中韓台にも遅れを取っている)、これを多少改善する効果があるなら、災い転じて……になるのかもしれない。しかしデジタル技術そのものではなく、ソフトや活用面、制度設計における日本の(意識を含めた)立ち遅れは明らかで、その改善策を本気で講じない限り、この国の将来は本当に危ういだろう。(続く)
2021/08/12
英語とアメリカ(4)英語を使う
グローバルな事業展開をしていた米国親会社は、アメリカや日本以外に、ヨーロッパにも研究開発や生産の拠点があったので、ヨーロッパ各国の社員も相当数いたし、アジアの各国にもかなりの数の社員がいた。製造業という米国では古い業態の会社であったにも関わらず、こうして米・欧・アジアという世界中の人たちと共同で、グローバルな視点で、アメリカ流の自由な流儀で仕事をする解放感と面白さは、狭い日本で、日本型組織と人脈のしがらみの中で、あれこれ気を使いながら、ちまちま進める仕事とは雲泥の差があった。’90年代後半の5年間ほどは、アジア各国にいた部下たちと一緒にアジア市場を対象にした仕事をしていたが、個人的にはこの時代が会社員生活でいちばん楽しかった。海外で仕事をした経験のある人なら誰もが感じると思うが、互いに英語さえ使いこなせたら、相手がどの国の誰であろうとコミュニケーションができるという「実感」は、絶大な意識改革を人間にもたらす。非ネイティヴのアジア人同士だと、英語はコミュニケーションのための単なる実用的「変換記号」と同じで、お互い怪しげな発音でも文章でも、下手なりに十分に意思疎通ができるのである。当時のアジアの仲間とは今も交流が続いているし、一言でいうと、英語を通じて文字通り「世界」が広がる。
しかし上司や同僚など、英語ネイティヴの欧米人相手の場では、単純な意思疎通レベルではなく、時には意見(価値観)の異なる相手を説得して、自分の「主張」を通すことができるレベルの英語スキルが必要になる。たとえば、日本市場の実情に合わない米国流事業戦略を、強引に押し進めようとするときなどがそうだが、当然そこには緊張も摩擦も生まれ、互いに納得するのは簡単ではない。普通の日本人からすると、何よりも、複雑で微妙なテーマであるがゆえに、「自分の言語」で自由に相手に考えを伝えられない歯がゆさ、もどかしさ、苦しさをつくづく味わうことになる。私の場合こうした議論では、口頭の日本語を100とすれば、英語だと、せいぜい頑張っても70-80くらいしか、自分が真に言いたいことを伝えられなかった気がする。自分なりの考えや意見を持ち、日本語の弁舌にも優れている人ほど、それを伝える「英語能力」が足らないと、言語表現上のギャップを強く感じ、フラストレーションを感じるだろう。
当たり前だが、「外国語の習得」とは、言語を自分の頭で考えて「創作」できるようになることではない。結局のところ、言語上の約束事(文法)を「学習し」、目(reading)と耳(hearing)を「訓練」しつつ、「意味を理解し」それを「記憶し」、いかにしてネイティヴの正しい書き方 (writing) と話し方 (speaking) の「マネをするか」ということだ。だから「習うより慣れろ」、つまり言語スキルとは頭ではなく体験して身に付けることで、当然ながらそれには時間がかかる。「あっと言う間に聞き取れる、喋れる…」とかいう英会話学校の宣伝などウソもいいところで(もちろん、どんなレベルの会話かによる)、文字通り「語学に王道はない」のである。だから地道な努力が苦手な人は、なかなか外国語を習得できないだろうと思う。「読み書き」は一人でもなんとか学習できるが、物理的な対人接触時間に比例する聞き(hearing)、話す (speaking) 能力は、今ならいくらでも教材があるが、当時は海外駐在でもしない限り本当には身に付かない時代だったので、ずっと東京勤務だった私の場合、会議や出張を通じて「場数」を積み、学習するしかなかった。
しかしコミュニケーション技術という観点からすれば、何と言ってもいちばん重要なのは、「読む」能力と、「聞く」能力だろう。当たり前だが、まず相手が何を言わんとしているのか分からなかったら、どうにもならないからだ(最初の頃の会話では頓珍漢な返事をして、ずいぶんと恥をかいたりしていた)。「相手の話の主旨」さえきちんと把握できれば、非ネイティヴとして「書く、話す」は、仮に表現力が多少拙くても、相手のネイティヴ側はなんとか理解できるものだ。昔から言われているように、「読む」こと、特に「多読」「速読」こそが外国語習得にはもっとも効果的方法だと経験上も思う。それが「聞く」能力も同時に高める、という相乗効果が期待できるからだ(文芸作品などの「精読」は、さらにその先にある)。
英語を「話す」能力も、ただペラペラと英語だけ流暢ならいいわけではなく、ビジネスでも、個人的なことでも、内容の伴った会話(自分の頭で考えたこと)でなければコミュニケーションとしての意味がない(すぐに人格上のメッキがはがれる)。また欧米人は、言語上の有利さだけでなく、会議(conference/meeting;日本流の "儀式" ではなく、文字通りの "議論 discussion" や "討論 debate" )を延々と、何時間でも、さらに泊まり込みで何日間でも続けられる体力(?)と技術を身に付けている。日本人にはそもそもそういう習慣も文化もないし(せいぜい「朝までナマ…」程度だ)、何でも口に出すお喋りは「はしたない」という美意識と思想がある。むしろ互いの腹をさぐりながら着地点を目指す「阿吽の呼吸」的対話を好むので、「多弁」を要する長時間協議は精神的にも肉体的にも苦痛で、苦手なのだ。おまけに企業でも上層部になればなるほど、当然ながら会議の議題は日本人好みの分かりやすく具体的なテーマよりも、企業理念、ビジネスコンセプト、戦略、リーダーの R&R といった、日本人がもっとも苦手とする(時に中身がない、空論だと軽蔑さえする)「観念的で抽象的な」テーマ中心になる。特に米国のビジネス・リーダー層は、細部のあれこれに詳しい人よりも、まず「大きな絵」 (grand design, big picture) を描ける人、つまり全体を俯瞰し、長期的視点で基本的コンセプトを考え出し、それを人に分かりやすく説明し、説得できる能力を持つ人でなければならないので、大手企業のマネージャークラスなら、誰でも滔々と(内容は別として)自分のアイデアを語れる。またそうしたコンセプトを実際に効果的にプレゼンする技術も、若い時から訓練し、身に付けている。
いかにも役人が書いたような、中身のない気の抜けた原稿を棒読みするだけの日本の首相挨拶や答弁と、アメリカ大統領のスピーチを比較するまでもなく、これは政治の世界でも同じだ。あるいは今回のオリンピック開会式と閉会式の、(物悲しくなるほど)残念な演出に見られるように、全体的コンセプトと伝えるべきキー・メッセージをいかに表現するかということよりも、超ローカル視点の「細部へのこだわり」ばかり優先し、演目相互の関係性がまるで感じられない細切れシーンの寄せ集め、といった表現方法における文化的差異も同じだ。
近所のスーパーのチラシのような、テレビワイドショーのごちゃごちゃとした、あれもこれも詰め込んだ、やたらと細かなボード資料を見るたびにそう思う。「盆栽」や「弁当」に代表されるように、小さなスペースにぎゅっと詰め込んだ小宇宙――これこそが、やはり日本的文化や美意識の根底にあるものなのだろう。だから、唯一言語を超えたユニバーサルな会話が可能な「科学技術」の世界を除くと、他のカルチャーのほとんどが、珍しがられることはあっても、他民族にはほぼ理解不能であり、世界の主流になることは難しい。個々のコンテンツとして見れば、世界に誇れるユニークな文化や、斬新なアイデアを持つ有能なクリエイターが数多く存在するにも関わらず、一つのコンセプトの下でこれらを束ねて、それを効果的にプレゼンするという思想と技量が日本には欠けているのである。
2021/07/28
英語とアメリカ(3)イノベーション
日本の「短期戦術型」とアメリカの「長期戦略型」思考は、一般的な見方をすれば、国の成り立ち、地理的条件の違い、文化、国家観、価値観、国民性の違い等々、両国間に本質的に存在する相違点に由来するものだと言えるのだろう。とはいえ歴史的に見れば、日本にも戦国末期や幕末・明治初期には、全体的、長期的視野で状況を俯瞰できる優れた戦略的思想を持ったリーダーたちが実際にいたことを考えると、かならずしもそうとばかりとは言えない気もする。むしろ太平洋戦争を敗戦に導いた「大本営」の参謀たち――後方で机上の空論ばかり書いて前線部隊に指示するエリート集団――に対する、ある種のアレルギー反応というべきものが戦後の日本人に植え付けられたのかもしれない。あるいは戦後、「戦略的頭脳」を日本では育成しないという、進駐軍の深謀遠慮による国民洗脳策があったのか、それとも明治以来の、西洋に追いつけ、追い越せという性急な近代化思想が遠因となって、先のことよりまずは見えていること、目の前の問題解決を優先して、そこに集中するという思想と姿勢を日本人に定着させたのか――とか、様々な分析が可能な、興味深い比較文化論的テーマのように思える(誰か、もうこうした分析を行なった人はいるのだろうか?)。
アメリカ生まれの "リストラ" (restructuring=事業再構築、再編成) という言葉が、今や日本では「人員整理=クビ切り」と解釈されているように、 ”イノベーション"(innovation)という言葉も、日本では、(誰が使い出したかは知らないが)いまだに判で押したように「技術革新」という「訳語」で解説している大手新聞の記事や雑誌等を時々見かける。これは誤訳とは言えなくとも、一部の意味しか伝えていない、読者をミスリードする危険がある訳語だ。きちんと辞書で調べれば「新機軸、刷新」という訳語表現が多いように、「新たな発想で、制度や仕組みを変えること」が本来の意味であり、たとえ既存の技術やアイデアであっても、それらの「組み合わせ方」次第で新たな市場や価値が生み出せる、という発想がその本質だ。日本のモノ作りの伝統に見られる、特定の技術をより深く追求すべく、手の内にあるアイデアを活用しながら川上→川下へと垂直統合的に製品開発を進める(閉じられた)思想に対し、横に幅広く展開する市場を視野に入れながら、水平分業的にアイデアを柔軟に取り入れて仕事を進める(開かれた)アメリカ型思想、という両者の特徴を反映しているとも言えるだろう。
21世紀に入ったわずか20年で急成長し、今や独占による弊害が指摘されているアメリカの「GAFA」はどれも、Intel や Microsoft が先鞭をつけたデジタル技術(ハード&ソフト)の持つ潜在能力を長期的視点で掘り下げ、「インターネット空間におけるサービス」という新しい概念を、デジタル技術の外縁に位置付けるという発想で、新たな市場を生みだしたビジネス・イノベーションと言えるだろう(Googleはグローバル情報検索と広告、Appleはモバイル機器と音楽情報の組み合わせ、Facebookは個人の情報発信とコミュニケーション、Amazonはネット空間スーパーマーケットと宅配サービス、というように)。20世紀の「テクノロジー(モノ)」が、世界共通の普遍的需要(欲望)に応えたものだったように、21世紀には、ネット空間におけるデジタル技術をベースにした「サービス」にも同じ機能と価値、すなわちビジネスチャンスがあるという、1990年代の米国による「先駆的市場概念」が、21世紀のイノベーションを先取りしていたと言える。このビジネスモデルのコンセプトを、最初から「グローバル市場(世界)」を射程に入れてデファクト・スタンダード化すべく、技術だけではなく「政治力」と (英語という)「言語支配力」を利用しながら、他国に先駆けて戦略的に推進したアメリカが主導権を握ったのは当然だ(いずれも日本が、グローバル的に見てもっとも相対的に弱い能力である)。2021/07/15
英語とアメリカ(2)米企業
2021/06/27
英語とアメリカ(1)G7にて
G7 sankei.com |
ところが、米国側の親会社が提唱した、ある市場に関する初めての ”グローバル会議” へ日本代表として出席しろと、いきなり初出張を命ぜられた1981年を境に人生が変わった。米国親会社の本社と工場は、当時シカゴから1時間ほどローカル便でミシガン湖を横切って飛んだミシガン州の町にあり、今で言う中西部ラストベルト(Rust Belt) の一部だ。米国有数の化学企業の本拠地だったので、町の住人のほとんどがその関連企業に勤めていて、'80年代初め頃は、雰囲気もまだゆったりのんびりしていて、出張で訪問した英語の下手くそな日本人も、遠路はるばるやって来た客人扱いだった。まだ成田へは箱崎からリムジンバスで行き、成田からシカゴやデトロイト直行便など飛んでいなかった時代で、アメリカ東部へは時差調整も兼ねて、西海岸で一度乗り継いで行くのが普通だった。
その初出張では、一応OHPスライドを使って日本市場を紹介する英語の ”プレゼンまがい” のことをやったように思うが、何十人もの大会議ということもあって、相手が何を言っているのかもよく聞き取れず、英語の喋りは下手ときているので、ロクな質疑応答も議論もできなかった記憶がある。ただしまだ若く元気だったので、1週間ほどの滞在中に知り合った人たち(米、欧、アジア)とは、その後もずっと仕事を通じて付き合ってきたし、親会社内の人間関係という面では在職中の大きな財産となった。この出張がきっかけで、その後の30年間、主として親会社のマーケティングを中心とした部門の窓口的業務を日本で担当するようになり、会議や研修等のためにアメリカやアジア、ヨーロッパに出張する機会が徐々に増えた。1回きりの懇親の場とかなら適当にやり過ごせるが、最低でも1週間近く朝から晩まで続く、そうした会議や研修の場では、相手の言うことを聞き取り、喋れない限りコミュニケーションができないので、英語力を向上させる必要性を痛感した。そこで30歳代半ば近くになってから、やっと英会話の勉強を本気で始めたのだ。しかし、慣れがすべての英会話(特にhearing) は、やはりもっと若く、耳が鋭敏なときからやっておくべきだったと後悔した。
荒廃するデトロイト |
2021/05/29
(続々)シブコのおかげでマリオにハマる
2020全米女子OP の渋野日向子 写真:AP |
2020年の不調は、国内から海外挑戦への方針転換に基づくオフの体幹強化によって筋肉がつき、体が大きくなって、本来の美点だったしなやかな身体の回転と体重移動に影響が出て、結果としてヘッドスピードが落ちたり、インパクトが不安定になったからだろうと推測する。ところが年末の全米女子OPでは体もスリムになって、そこが改善され、初日、2日目などは完全に全英時の素晴らしいスイングに戻っていた。だから初日を見ただけで、今回は優勝するかもしれないと思ったほどだ。その作年末のメジャーで、優勝こそ逃したが4位と言う結果を残したのに、なぜ今年になってあのフラットなスイングに変えたのかは確かに謎だが、おそらく彼女なりに今後の世界挑戦を見据えた戦略を描き、あれこれ試行錯誤することを前提にして、「今年の課題」として取り組んでいることなのだろうと思う。だから照準はあくまでメジャーにあり、たぶんオリンピックも国内試合も、ノーマルLPGAも今の彼女の眼中にはなく、今年の「メジャー大会」のどれかで優勝することを第一目標に置いているのではないかと推測する。彼女は頑固そうだが、逆に言えば信念の強い人とも言える。だから、いずれシブコはかならず復活すると私は信じている(実際、先週末の米国内戦ではその兆しが出て来た)。
しかし渋野日向子の秀でたところは、ゴルフの技術だけではなく、明るく、聡明で、周囲に気配りもできるすぐれた人格も同時にそなえているところだ。世界の超一流のスポーツ選手はどの分野でもみなそうだと思うが、単に技術が上手いだけでは本物の一流にはなれない。常に自分のプレーを冷静に分析し、改善し、進化させるという内部モーメントを意識して持ち続け、しかもそれを実行しなければならないし、特に現代のプロ選手は、メディアやファンなど周囲に対してきちんとそれを表現できる言語能力、コミュニケーション能力も重要だ。シブコには何よりそうした姿勢と能力があり、そこが彼女の素晴らしいところで、だから見る人間を引き付けるのだと思う。全米女子OP最終日の17番Hでパットをはずし、しばらくの間、帽子を深くかぶってうつむいていたとき、最終18番Hで、「来年も頑張れ」という神様のご褒美のような長いバーディパットを沈めたときは、こちらまでもらい泣きしそうになった。涙をこらえながら、誠実に応答する試合後のインタビューもそうだ。観戦する側が思わず感情移入してしまうような何かが彼女にはあるのだ。
チマチマして、狭く、小うるさい雑音の多い日本ではなく、開放的でスケールの大きな舞台こそ彼女には似合っている。スポーツに限らないが、日本人として海外で戦うということは、異文化の下での厳しい個人勝負の場には違いないが、そこで「ものをいう」のは、知識や技術ばかりではなくマナーを含めた人間性である。ゴルフの性格上、まず孤独に強いということが他のスポーツ以上に要求されるだろうが、一方でスタッフやキャディ、他の選手とのコミュニケーションを積極的に行なって、内に閉じこもらないことが大事で、それが結果として世界で戦えるメンタルの強さと安定性を生むことにつながる。ゴルフに限らず、才能ある日本人スポーツ選手がなかなか海外で成功しない理由の一つは、そこにあり、その解決には英語が必須なのだ。難しい話ができるほどの英語力は必要ないし、簡単な対人コミュニケーションに必要な程度の英語など、まだ若く優れた言語能力を持つ渋野選手がその気になれば、あっという間に身に付くスキルだろう。
それにしても、ネット上の一部メディアや匿名投稿による悪意のある批判的記事が、シブコを筆頭に女子ゴルフ選手たちに向けられることが多いようだ(昔からそういうものなのか、よく知らないが)。必要以上にシブコばかり追い回すメディアへの反感や、商業上のクリック数稼ぎが背景にあるのだろうし、有名税だと言えばそうなのだろうが、海外への挑戦意欲を持ち、まだ若く(みんな20歳そこそこだ)未来のあるスポーツ選手を貶めるようなことを、なぜ大の大人がするのだろうか。世界レベルで戦っている現役プロ選手に対して、何者でもない素人や半素人が、スイングがどうのこうのと、技術に関して上から目線で語るようなスポーツがゴルフ以外にあるだろうか。テニスの大坂選手や、サッカーの沢穂希選手に向かって、あれこれプレー内容や技術の欠点を上から目線で「公の場で」批判する素人がいるだろうか。他の女子スポーツでは、若い選手に対して、こうした非礼な、あるいは陰湿なゴシップ的ジャーナリズムとか批判はあまり見られないように思う。これはシブコの特別な人気が理由でもあるのだろうが、「昔からゴルフやってます」的な特権意識を持って若者や女性を見下す、オヤジ中心の古臭い日本のゴルフの世界特有の空気が生む行為としか思えない。
渋野日向子はまぎれもなく、世界に開かれた日本女子ゴルフ界の未来を担う、岡本綾子以来の逸材であり、コロナに苦しみ、夢のない今の日本に輝く数少ない希望の星だ。だから、その星の足を引っ張って地上に引きずり降ろすような愚行を、大の大人がすべきではないと思う。私はド素人なので、批判などせずに前途ある彼女たちを応援したい。個人的には、それぞれ個性は違うが笹生優花と原英莉花の二人は、畑岡や渋野と並んで世界で十分通用するポテンシャルを持つ選手だと思う。少なくともシブコや彼女たちは、一部の偏った批判など気にせず、今年もまた世界に向かって挑戦し、明るく伸び伸びとしたプレーで我々を楽しませて欲しい。
(*6/9 追記 …と、書いていたら、その笹生優花が6/6の全米女子OPで本当に優勝した。びっくりした。彼女も強いだけでなく、人格が素晴らしい選手だ。これで、渋野選手も多少肩の荷が下りて、期待と裏腹の無言の圧力から解放されるだろう。)
ところで「マリオオープンゴルフ」だが……Hawaiiコースの15番までは何とか進んだものの、そこで止まったままなかなか前に進めないので、しばらく遠ざかっている。しかし、このHawaiiとUKコースは(年寄りには)難しすぎる。パットがスコアメークのキーになるところも本物のゴルフと同じで、その意味でも本当によくできた名作ゲームだとは言える。そのうち、またやる気が出てきたら改めて挑戦したい(死ぬまでに冥途のみやげに何とかクリアできればいいと思っている)。