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2022/09/24

椎名林檎・考(3)

デジタル時代になり、見えなかったもの、知らなかったものがどんどん可視化されるようになって、何でもかんでも精緻に「分析」するのが昨今の流行りだ。芸術の世界も例外ではなく、今はPCさえあれば誰でもそこそこの絵が描け、作曲さえできる「一億総アーティスト」時代なので、美術や音楽も「鑑賞者」による単なる印象批評ではなく、「作り手」側の視点で、技術的な角度から作品を細かく分析することが多くなっている。クラシックでもポピュラー音楽でも、「音楽を熱く語る」のは、もはやダサいという時代なので、一言「イイネ!」とか「刺さる!」「エモい!」で済ますか、それとも逆に、クールかつ技術的に、きれいに分解してみようという流れなのだろう。ただし楽曲の構造や、コード進行や、似た曲の存在等をいくら分析したところで、その曲の素晴らしさは説明できないし、「普通の聴き手」はコードはもちろん、歌詞の意味もいちいち解釈しながら聴いたり、唄ったりしているわけでもない。作品を全体として「一瞬で」受け止め、感じ、楽しんでいるわけで、音楽家もそうして聴かれることを望んでいるだろう。

ド素人ながら、私もジャズを聴いて分析まがいのことはする。ただしそれは技術的な分析ではなく(やりたくともできないが)、ジャズ・ミュージシャが「何を考えて」、そういう「サウンド」の演奏をするのか――そこに興味があるからだ。つまり音楽を作り出す人間の思想とか人間性に関心がある。ジャズはヴォーカルもあるが、基本はインスト音楽なので、演奏から感じ取るイメージは抽象的で、どう感じるかは聴き手の感性次第だ。楽器の「音」そのものには何の意味もないからである。だが本来ジャズは、演奏者の話し言葉――「語り口」を楽器の音で表現する音楽芸術なので、当然そのサウンド表現には奏者なりの意味やメッセージが込められている。半世紀もジャズを聴いていれば、ド素人でも、サウンドから奏者がどういうタイプの人間なのか、何となく推量できるようになるものだ。ただし、セロニアス・モンクのような「真の天才」が創り出す音楽は、プロの音楽家でも分析できない。彼らは凡人には手が出せない領域にいるからだ。ただ一言「素晴らしい!」としか言えないだろう。日本のポップス界では、椎名林檎がその領域に近いところにいるアーティストだと思う。

私は記事でも映像でも、音楽家の「インタビュー」とか「対談」ものが好きで、よく読んだり見たりするし、自分の翻訳書も4冊のうち2冊はインタビュー本だ。それは、音だけでは見えてこない音楽家の思想を、本人が直接語る言葉からある程度聞き取ることができて、音の世界とは別に、それが楽しいからだ。椎名林檎の場合も、ブログで書き始めた後に、YouTubeでこれまで見ていなかったインタビュー動画をいくつか見た。面白かったのは、向井秀徳との『僕らの音楽』対談(2005 フジ)、もう一つは『トップランナー』(2008 NHK) だった。前者での向井に対する態度(完全にファン目線でデレデレだが、向井とのデュオKIMOCHIの歌唱は最高)、後者でのアーティストとしてのよく整理された明快な発言が印象的だ。その結果、2004年の「東京事変」のスタートに関して、(1)で書いたような私のまったくの想像とは、異なる心境や考えの変化が当時の椎名林檎の内部で起きていたことをよく理解した。

Queen's Fellows (2002)
ところで音楽界ではトリビュートやカバーが相変わらず流行っているが、「トリビュート」アルバムの傑作の一つは、今から20年前の2002年に発表されたユーミンへの初のトリビュート『Queen's Fellows』だ。意表をつくような、鬼束ちひろの「守ってあげたい」で始まり、ユーミンの名曲を集めたこのアルバムは、参加した男女ミュージシャンの人選、選曲、編曲、歌唱のクオリティがすべて素晴らしく、ユーミンのデビュー30周年にふさわしい、これぞ女王へのトリビュートと言うべきアルバだ(tribute: 感謝/尊敬を込めた「捧げもの」であり、単なる歌の「カバー」ではない)。はっきり言って本家より歌がうまいとか、そういうことではなく、高い質を持った「原曲」と各アーティストの「個性」の間で化学反応が起きて、別の作品として見事に仕上がっている曲が多いということである。

1960年代という重く暗い政治の季節の反動もあって、軽やかで明るい70年代という時代を象徴するユーミンの楽曲の底に流れているのは、基本的に健全でhappyな気分であり、同時代を生きた誰もが、今でも「あの日に帰りたい」と理屈抜きに反応してしまう何かがどの楽曲にもある。このトリビュート作全体に漂っているムードもそこは同じで、曲想は違っても、どこか温かなムードが、どの歌の底にも流れている。そこに椎名林檎も参加しているが、唄っているのが「翳りゆく部屋」である。荒井由実時代最後のシングル(1976年)だったこの曲は、歌詞もサウンドも、もっとも「ユーミンらしからぬ」曲だ。1970年代のユーミンの曲に、「死」という語句まで含む、こんな「暗い歌」は他にない。当時20歳の椎名林檎が(録音は1999年)、なぜこの歌を選んだのか理由は分からないが、おそらく当時の彼女には、ユーミンの曲の中でいちばん共感できる歌だったからなのだろう。アルバム中で異彩を放つ(浮いている)その歌は、完全に椎名林檎バージョンの「翳りゆく部屋」であり、オルガンを使った荘厳な本家のサウンドとは別種の、バックにエレキギターの乾いたサウンドがずっと物憂げに響く、どこか90年代的な哀感が滲む名唱だ。

アダムとイヴの林檎 (2018)
その椎名林檎本人への初のトリビュート・アルバムが、デビュー20周年に発表された『アダムとイヴの林檎』(2018) である。「普遍性」と「幸福感」が根底にあるユーミンの音楽は、普通の歌手にとってそれほど唄うのが難しいとは思えないし、素人でもカラオケで楽しく唄えるだろう。一方、一部の曲を除けば、超個性的で、複雑で、常に不穏な気配が漂う、陰翳の濃い椎名林檎の音楽を、現代のミュージシャンがどう料理するかが、このアルバムの見もの(聴きもの)だった。選曲は予想通り『無罪』から6曲、『日出処』から4曲、『勝訴』から2曲他と、いわゆる唄えるヒット曲が中心で、孤高の傑作(?)『カルキ』の曲は一つも入っていない。これは、ビジネス的に考えれば当然の選択だろう。それにユーミンの曲と異なり、椎名林檎の楽曲は、(MVの映像も含めて)彼女固有の歌唱表現と一体化した世界なので、やはり彼女にしか唄えない曲が多く、カラオケならともかく、第三者のプロ歌手が唄うと単なるモノマネになるか、まったく似て非なるものになる可能性があるからだ。

そういう前提で聴いたこのトリビュートだが、個人的にまずまず印象に残ったのは(オッサン的嗜好になるのはやむを得ない)、草野マサムネ他(正しい街)、宇多田ヒカル&小袋成彬(丸の内サディスティック)、レキシ(幸福論)、AI(罪と罰)、エビ中(自由へ道連れ)などだ。知らない人だがMIKA(ミーカ。レヴァノン人?)の、レトロなフレンチ・ラテン風「シドと白日夢」は、どうしても歌詞が注目されがちな椎名林檎の楽曲の「メロディ」が持つ魅力と普遍性を示唆していると思う。ユーミン・トリビュートにも参加している井上陽水(カーネーション)と田島貴男(都合のいい身体)は、本作でも完全に自分の世界に持ち込んで唄っている(陽水はさすがに声が苦しそう。田島貴男は往年の「憂歌団」と並び、日本で最高のブルース表現者の一人だ)。全曲とは言えないまでも、椎名林檎的世界をあまり損なうことなく、各アーティストやバンド独自の個性をきちんと加えたアレンジや演奏が予想以上にあったのには正直言って驚いた。これは、この20年間で、あの強烈な個性とインパクトを持った椎名林檎の音楽が、少なくともJ-POPの世界では、もはや「スタンダード」(classic)というべき領域に入ったことを意味していると考えていいのだろう。

ニュートンの林檎
初めてのベスト盤  (2019)
翌2019年には、『ニュートンの林檎~初めてのベスト盤』が2枚組CDでリリースされた。収録された30曲は代表曲ばかりで、まあ、そうなるだろうなという選曲だ。椎名林檎というと、難解な曲や激しくシャウトする強烈な曲が目立つが、着物姿で唄うシュールな曲(積木遊び、やっつけ仕事、神様、仏様等)もあるし、ピュアなラブソングも、やわらかで、みずみずしい抒情を湛えた佳曲、名曲もたくさんある。私が個人的にいちばん好きな曲は「茜さす 帰路照らされど…」(『無罪』収録)だ。作詞・作曲をするミュージシャンは誰でもそうだと思うが、デビュー当時の若い時代にしか書けない「ラブソング」というものがある。50年前の井上陽水の「帰れない二人」や長谷川きよしの「歩き続けて」などがそうした永遠の名曲だ。「茜さす…」もまさしくその一つで、彼らから30年後で、時代背景も(まだスマホなどない)、恋愛のシチュエーションも違うが、たぶん十代の女性にしか書けない、みずみずしさと切なさが見事に表現されている名曲であり、名唱だ。他にも、「同じ夜」「おだいじに」「映日紅の花」「手紙」「黄昏泣き」「夢のあと」「茎」「意識」「おこのみで」「ポルターガイスト」等が、私の好きな曲だ。 長谷川きよしをイメージして提供した「化粧直し」(『大人』収録)というボサノヴァ曲にも、そうした彼女の感性の一部が表れていると思う。

このベスト盤には収録されていないこれらの曲は、いわゆる椎名林檎的パンチには欠けるが、音楽的装飾をできるだけ控え目にして、いわば彼女の「素」あるいは「静」の部分を、素直な歌詞とメロディで美しく表現した作品のように私には聞こえる。そして、どれも時代や世代を超えて受け入れられる名曲ばかりだと思う。『カルキ』中の曲や、これらの名曲だけを選んで、(もちろん椎名林檎が唄うからいいのだという面はあるだろうが)本家とは異なる個性と魅力を持った歌い手を選び、別の角度から「作曲家・椎名林檎」の音楽世界を描いたトリビュートを作ったら、それはそれで素晴らしいアルバムになるのではないだろうか。

音楽は、人類が発明した「史上最高の薬」である。元気なときには活力が増し、辛いときには癒しを与えてくれる特別な薬だ。ほんの一握りの独創的「先発薬」があり、続く数多いコピー薬「ジェネリック」の集合体という構造も、薬の世界とよく似ている(ジェネリックにもきちんと薬効があるところも同じだ)。デジタル化でコピーが容易になり、サブスクも広まって市場構造も変化し、今は音楽の価値そのものが揺らいでいる。そこにコロナ禍が加わり経済的にも打撃を受け、音楽家にとってはまさに苦難の時代だ。しかし景気が悪かろうと、未来が見えにくかろうと、いつの時代も人間にとって音楽そのものが持つ力は不可欠であり、かつ不変だと思う。だから大変だとは思うが、「志」ある音楽家には何とか頑張って生き抜いてもらいたい。

元気のない今の日本も、音楽の未来にはまだまだ希望はあると思っているが、それは、アジアの辺境で生き、伝統を維持しながら、数千年にわたって海外の文物を輸入し、吸収し、内在化しながら、「日本独自の文化」を生み出してきた日本人ならではの資質――すなわちポジティヴな意味での「ガラパゴス化」という能力がこの島国にはあるからだ。「ガラパゴス化」を卑下し、世界標準に決してなれないローカル世界の限界だとネガティヴに捉えているようでは、日本の未来はない。そうではなく、民族が持つ固有の文化であり能力だと考えたら、別の未来が見えてくる。「似たようなもの」だけを大量に生産し、消費し続けたら、便利だがつまらない世界、しかもいずれ誰も生き残れないような世界になる――と、日本人がデジタル競争の敗因として「ガラパゴス化」を反省しているうちに、外の世界ではとっくに逆の価値観へとパラダイムシフトが起きているのである。

ボカロPとコラボした
Adoの1stアルバム『狂言』
(2022)
音楽の世界でも、民謡、長唄、端唄、浪曲、演歌、歌謡曲といった日本古来の音楽的伝統と感性を基盤にしながら、日本人は明治以降150年にわたって、クラシック、ジャズ、ロック、R&B、フォーク、シャンソン、ボサノヴァ、タンゴ、カンツォーネ、フラメンコ、カントリー&ウェスタン、ハワイアン、ヒップホップなど、「ありとあらゆる洋楽」を貪欲に取り入れ、吸収してきた(こんな国が他にあるだろうか?)。そして最新の「ボカロP」(ボーカロイドxプロデューサー)のように、コンピュータ技術、アニメーション技術を駆使した仮想空間思想さえもそこに加えて、固有の音楽と多様な洋楽を、日本という「るつぼ」で溶融して作り出した現代のJ-POPは、いわば新たに創造された「音楽の合金」である。J-POPは、今や世界レベルの魅力と独自性を獲得した音楽となりつつあり、一部アーティストたちの音楽的洗練度と創造性は、今やワールド・クラスだと思う。そして私の耳には、その中から様々な「椎名林檎的なもの」が聞こえてくる。

20世紀と現代との違いは、今はクラシックやジャズなど高度な専門的音楽知識や技術を習得した多くの若者が、音楽ジャンルを超越して、J-POPシーン内部を横断してソロやグループ活動を行なっていることだ。21世紀になってアートとエンタメが融合したように、もはや音楽にジャンルも境界線もない。とりわけ、昔は言語的に不可能だと思われていた「日本語の歌詞」が、まったく違和感なく、速くて複雑なメロディ、ハーモニー、ビート、リズムに見事に乗せられていることには、本当に驚く(年寄りにはほとんど聞き取れないが)。ヒップホップ、ラップの影響はもちろんだが、高い質を備えた日本産の音楽に、独自の日本語の歌詞を適用する「言語技法」を最初に用いた音楽家の一人が椎名林檎だ(先人には桑田佳祐がいるが)。さらに言えば、1世紀以上にわたる洋楽のコピー、モノマネという歴史を経て、真に日本的オリジナリティを有する音楽合金を、20世紀末の日本のポップス界で初めて具現化したのが椎名林檎であり、彼女こそ比類のない「ガラパゴス・ジャパン」を音楽の世界で初めて実現したアーティストだと思う。

「うっせぇわ」でデビューしたAdoを聴いて、その衝撃(斬新さ、面白さ)に「椎名林檎の再来か」と私は喜んでいた。2002年生まれのそのAdoが、新作映画『カラダ探し』向けに椎名林檎が書いた曲「行方知れず」を唄うという、まさに親子のような二人のコラボが実現することになったそうだ。Adoについて、『無罪』を全曲唄ってもらいたかったほどの「理想的な "どら猫声" だ」と絶賛する椎名林檎のコメントも笑える。こうして独創の林檎DNAが、21世紀生まれの若いアーティストたちに脈々と受け継がれて行くことを願っている。
(完)

2022/09/14

椎名林檎・考(2)

獣ゆく細道(2018)
90年代末から約10年間、ほとんどジャズと主従逆転するほど椎名林檎を聴いていた私だが、『平成風俗』(2007) 以降は彼女の音楽から離れていた(理由はよく覚えていないが、仕事の関係とか、「東京事変」のテイストがオッサン好みではなくなったのか、あるいはたぶん歳のせいで、ついて行けなくなったのかもしれない)。ただしNHK紅白とか、ニュース番組、ドラマ、CMのタイアップ曲などは時々耳にしていたし、本当に大物アーティストになったものだと感心はしていたが、ほぼ10年近く、新作やDVDも買っていなかったので、いわば浦島太郎に近かった。だが最近になって、YouTubeで久々に近年の椎名林檎のMVやライヴ映像を見たり、歌を聴いたりして、相変わらず衰えることのないアーティストとしての挑戦意欲と創造性に改めて感動した。

2012年の「東京事変」解散後も、時代のニーズに応えて、ヴィジュアルを中心にした「エンタメ度」をさらに高めて、聴き手を楽しませる多彩な映像やショーを次から次へとプロデュースしている。当然だが20代に比べたら外見も作品も成熟し、近年はまさに「姐御」(あねご)と言うべき風格まで漂っていて、バンドやダンサーの統率はもちろんだが、コラボ・ゲストで呼んだエレカシの宮本浩次(獣ゆく細道)や、トータス松本(目抜き通り)のような先輩(一回り年長)男性ミュージシャンまで手玉に取る(?)かのような派手な舞台パフォーマンスを演出している。ステージ上の全員が椎名林檎に「奉仕」しているかのような様相は、もはや姐御どころか「女王様」で、それも歌舞伎町どころか日本のJ-POP界の女王である。東京五輪という世界的イベントのセレモニーへの椎名林檎の参画は、彼女の創造性とプロデュース能力の真価をグローバル・レベルで発揮する大きなチャンスだったと思うが、残念ながらああいう結果になった(今の贈収賄騒動を見ていても、やはり参加しなくてよかったとも言える。国や政治がからむイベントにアーティストが関わると、基本ロクなことにならないからだ)。

ところで、「アーティスト」という語を、今は私も普通に使っているが、とても「アート」とは呼べない活動をしている人間まで指す、この気取った日本語に以前は抵抗があった。音楽界では、昔は単に「歌手」とか「ミュージシャン」と呼んでいたと思うが、今はそのへんのタレントもYouTuberも、みんなアーティストだ。この語はいつ頃から日本で使うようになったのだろうか? そう思って、翻訳者でもあることだし、初心に帰って英語の「artist」を英日や英英辞典で調べてみた。「アート(art)」 はラテン語系で「人工のもの=技術」が原義で、日本語では昔から(と言っても明治以降だが)高度な技術という意味で「芸術」と訳されてきたので、どの辞書でも最初の意味は (1)「芸術家」で、ものを創造する人、特に画家、彫刻家、次に音楽家、作家などである。ヨーロッパでは画家のイメージがいちばん強い。次いで (2) 「一芸に秀でた人」という意味が時代と共にそこに加わり、デザイナー、イラストレーター、舞台芸術家、ダンサー、芸能人、ミュージシャンといった人たちが続く。そこからいわゆる (3)「名人、達人」という意味が加わり、ついには (4)「ペテン師、いかさま師」まで意味が広がってゆく(ある意味で「なるほど」とも思うが)。たぶん昔は一部の人の特殊技能だったものが徐々に社会全体に普及し、資本主義の発展と共にそれを商売にする人も増えてきて、経済規模も大きくなり、職種も多彩になり、中にはその特殊技能を使って悪事を働く人間まで出てくる (?) ――など、歴史的にその範囲も意味も拡大してきたのだろう。1960年代以降、アメリカではロックを中心に、大衆音楽に関わる人間の数が爆発的に増え、徐々にその社会的ステータスも、ミュージシャンとしての意識も向上していったこともあって、メディアが、それまでの高度な芸術創作(creation) を行なう人たちだけでなく、芸事全般に携わる人たちを、(面倒なので)まとめて「アーティスト」と総称するようになったのではないかと推察する(おそらく80年代頃から)。例によって、その英語をそのまま輸入した日本の音楽業界やメディアも、(大昔、洋楽を何でもかんでも「ジャズ」と一言で呼んだように)便利に使える「芸能人の総称」として90年代頃から使い出した――ということのようだ。

椎名林檎は言うまでもなく、上記「アーティスト」の定義をほとんどすべて満足する「代表的」アーティストの一人だ (ただし(4)の意味は除く)。20年以上にわたり、時代の変化に合わせて(その先を行きながら)様々なパフォーマンスを創作し、提供してきたが、思うに、彼女のように独自の「コンセプト」を突き詰めていくタイプのアーティストにとっては、絶えざる「自分への挑戦」こそが音楽的モチベーションを維持し、高めるための最善の方法なのだろう。私はロック方面には詳しくないので、比較するとしたらジャズのミュージシャンしか思いつかないのだが、サウンド云々ではなく音楽家としての資質的に、ジャズで言うならマイルス・デイヴィスと似たタイプではないかと思う。椎名林檎の「音楽」にはセロニアス・モンク的独創(「定型」を打ち破ろうとする意志と、それを可能にするオリジナリティ)を感じるが、彼女の音楽家としての「姿勢と思想」から感じるのは、むしろクールなマイルス的合理性だ。椎名林檎の中には、この両者が共存しているように思う。

Misterioso
(1958 Riverside)
椎名林檎の言語センスには唯一無二の独創性があるが、ユニークなのは歌詞だけでなく、アルバム名や曲名という「タイトル」もそうだ。ジャズの世界ではモンクが数々の「名言」を残しているが、モンクは言葉遊びも好きで、「MONK」と名前を彫った指輪を逆から「KNOW」と相手に読ませて、「MONK always KNOW」(いつだって分かってる)と言ったり、音楽の中にも常にユーモアとウィットを感じさせるのがモンクの魅力の一つだ。そして歌詞こそ書いていないが、モンクが自作曲に与えたタイトルにも天才的言語センスを感じる。ほとんどのジャズ・スタンダード曲は(愛だの恋だのといった)月並みなティンパンアレーの曲名がついているし、ジャズ・オリジナル曲のタイトルも、デューク・エリントンの曲など一部を除けば変哲もないものがほとんどだ。しかし70曲ものオリジナル作品を書いたモンクは、曲名のセンスも素晴らしく、<Round Midnight><Ruby, My Dear><Straight, No Chaser>などの名曲を筆頭に、<Ask Me Now><Well, You Needn't><Bright Mississippi><Brilliant Corners><Ugly Beauty><Criss Cross><Epistrophy><Reflections><Evidence><Functional><Misterioso>…等々、短い普通の単語を用いながら、曲のイメージとジャズ的フレーバーを瞬時に感じさせ、しかも哲学的な余韻まで残す独創的なタイトルが並ぶ。椎名林檎のアルバム名『無罪モラトリアム』『勝訴ストリップ』『教育』『大人』『平成風俗』『日出処』…など、また特に初期の曲名「正しい街」「丸の内サディスティック」「本能」「ギブス」「罪と罰」「浴室」「迷彩」「茎(STEM)」「ドッペルゲンガー」「意識」…などから感じるのも、モンクと同種の言語センスである(ちなみに、モンクの曲もほとんどが20歳代に作られている)。

Kind of Blue
(1959 Columbia)
モンクは自由人で天才だが、マイルスは育ちの良い秀才である。モンクはピアニストであり「作曲家」だが、マイルスはトランペッターであり「バンドリーダー」である。演奏者(パフォーマー)である点は同じだが、「楽曲のワンマン創作者」と「演奏集団の統率者」とでは見ている世界が違う。音楽家としてのモンクは、常に制約を打ち破る「自由な音楽」を創造していたが、マイルスはジャズ演奏上の一定の制約を認めた上で、その中でバンドとして到達可能な「最高度の音楽美」を追求した。そうした個性の違いはあったが、1950年代に二人が見ていたジャズは、まだビバップを起源とする「アート」だった。それが変質し始めた1960年代になっても、モンクはまだ従来のまま「独自の曲」を書き続けようとしていた(ドラッグの影響と体力の低下で徐々にそれができなくなる)。一方、マイルスは最初から常に「次に何をやるか」を冷静に考えていた音楽家だった。1940年代後半からビバップ、クール、ハードバップ、モード、ファンク……と、ほぼ5年おきに自身の音楽をあえて変化させて「新たなスタイルのジャズ」を創ることへの挑戦を続け、そのつどそれを成功させて「本流」としてジャズ界をリードし続けた。

ジャズの「芸術的」頂点と言われるモードの傑作『Kind of Blue』(1959) を発表した後、60年代のマイルスはモードを洗練させることに注力し、オーネット・コールマンの登場後、主潮流になったフリー・ジャズへは向かわず、むしろ大衆音楽として新たに台頭してきたロックやR&Bの特徴や動向を冷静に観察し、分析していた。音楽的な理由もあっただろうが、何よりフリー・ジャズでは「金(ビジネス)にならない」ことが聡明なマイルスには分かっていた。音楽家として、アメリカという国で「生き残る」には、一部の聴衆にしか理解できない難しいことだけやっていてはだめで、一定数の「大衆」の支持が不可欠だと考えていたからだろう。大衆に受け入れられ、彼らに飽きられず、なおかつジャズ・アーティストとして自らの「芸術上の基準」も満たす音楽を創造すべく、常に「次の目標」へ向けて挑戦を続けていたのである。

ジャズの宿命だったコインの表裏であり、資本主義の発展と共に1960年代に顕著になったこの「芸術(アート)と芸能(エンタメ entertainment)の相克」は、やがて資本主義下のアーティストの誰もが向き合わざるを得なくなる問題だが、マイルス・デイヴィスという人は、60年代当時最先端の「アート」だったジャズ界のリーダーとして、その問題を「止揚」(aufheben) すべく苦闘していた音楽家だったと私は考えている。そして60年代後期に行き着いたマイルスの答えが、電子楽器とポリリズムを導入した『Bitches Brew』(1969)に代表されるエレクトリック・ジャズである。マイルスは、それまでのホーン奏者を中心とする「個人の即興演奏」から、ギターやキーボードという電子楽器を使った「集団即興」へとジャズのスタイルをシフトさせた。同時にステージ上ではヒップさを強調し、ロックを意識した派手な衣装ばかりか、演奏時の見栄え、振舞いなど、音楽以外のパフォーマンスも含めてエンタメ志向を強めていった。それが70年代以降、ファンク、フュージョンという、より大衆寄りの新しいジャズのスタイルと流れを生み出し、その歴史的転換によって、ジャズと、ロック、R&B、ポップスという他のポピュラー音楽との「境界線」も、その後さらに薄れてゆくのである(これをジャズの「拡張」と言うか、「衰退」と見るかは意見が分かれる)。ジャズ出身のアレンジャー、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの80年代におけるコラボは、いわばその総仕上げと言えるだろう。

三毒史 (2019)
こうして20世紀の代表的アートの一つだった、アコースティック楽器による「モダン・ジャズ」が終わりを迎える頃(1978年)に生まれ、バブル後の90年代日本のポピュラー音楽界に現れたのが椎名林檎である。音楽ビジネスも当時は不況の影響を大きく受けていたことだろう。その経済環境下で登場した椎名林檎は、生来「アート志向」が非常に強いミュージシャンだったがゆえに、マイルスと同じく、この「アートとエンタメ」という問題を最初から強く意識し、音楽家としてのアーティスティックな目標とビジネスの成功を「両立」させるための手法を、冷静に考え抜いてきたのではないかと思う。

この「アートかエンタメか」という二元論は、「ジャズか否か?」あるいは「ロックか否か?」、という大昔の音楽ジャンル議論と同じく1990年代まではかろうじて存在していた。しかし90年代以降、情報と経済のグローバル化の進展が社会の価値観を変えた。「アート」を真剣に追及することよりも「カネになるか、ならないか」という2択のエンタメ(=商業主義)全盛となった21世紀の今は、この二元論は完全に消え失せたと言っていい(「アーティスト」という言葉だけは残ったが)。現在クラシック、ジャズを含めてあらゆる音楽ジャンルで進行しつつあり、この20年間の椎名林檎の音楽・映像作品、ステージ演出の推移が如実に示しているように、21世紀の今は、アートとエンタメは、完全に一体化された「パフォーマンス」として「止揚」されつつあると言っていいのだろう。そうした見方からすると、2003年の椎名林檎のアルバム『カルキ』は、マイルスの『Kind of Blue』と同じく、「アート」の価値がまだかろうじて残されていた時代に、アート志向が強かった若き椎名林檎が挑戦し、到達した「頂点」と言うべきアルバムだったと言えるだろう。(続く)

2022/09/04

椎名林檎・考(1)

山本潤子の正統的かつ清々しい歌も好きだが、正反対のような椎名林檎の予定調和を覆す、超個性的な歌も私は好きだ。ジャズで言うと、トリスターノやリー・コニッツの破綻のないストイックなサウンドもいいが、モンクの自由で独創的な音楽にも惹かれるというようなものだろう。この両極とも言うべき音楽嗜好は、ある意味節操がないが、自分が椎名林檎の音楽に惹かれる理由は、たぶんモンクと同じく、既成の枠組みを乗り越えようとする強靭な「意志」と、それを支える唯一無二の「オリジナリティ」を感じるからだろうと思う。

    歌舞伎町の女王
1990年代末に椎名林檎がデビューしてから10年間ほど、彼女のCDとDVDのほとんどを購入して聴いたり見たりしていた。当時は、なんだかもうジャズにあまり魅力を感じなくなっていて、何か他に面白い音楽はないものかと、J-POP含めてあれこれ聴いていた。しかし打ち込みとサンプリングで、似たような曲だらけになっていた90年代J-POPの中で、偶然耳(目)にした強烈な「歌舞伎町の女王」(1998) にあっという間にやられた。日本的で、猥雑で、まるで昭和ど真ん中のような歌と映像の世界があまりに面白くて、すぐにカラオケでも唄っていたくらいだ。こうして椎名林檎はデビュー2曲目(シングル)にして、ロック好きの同世代の若者だけでなく、ママやチーママがひしめく夜の歓楽街で、いかにも実際にありそうな話をファンタジーとして描いたこの曲によって、中高年オヤジ層もファンの一部として「取り込む」ことに見事に成功した。続くナース姿の『本能』での、ワイルドかつ官能的世界もそれを加速したことだろう。若い人たちは気づかないかもしれないが、椎名林檎の音楽にはそもそも、基本的要素としてのロックやジャズの他に、日本人中高年層の体内に刷り込まれた昭和的体質が「つい反応」してしまうような、演歌や歌謡曲、シャンソンその他諸々の大衆音楽の要素が散りばめられているのだ。大衆的どころか、とんがったアブないイメージが強い楽曲にもかかわらず、性別や世代を超えた、椎名林檎の全方位的人気の理由の一つはそこにあるのだと思う。

   無罪モラトリアム
手持ちのiTunesのデータを調べてみたら、1999年の『無罪モラトリアム』から『勝訴ストリップ』(2000)『唄ひ手冥利〜其ノ壱〜』(2002)『加爾基 精液 栗ノ花』(2003) 、さらに「東京事変」の『教育』(2004)『大人』(2006) 、斎藤ネコとの『平成風俗』(2007) までのCDが入っている。他にDVDとして『性的ヒーリング壱、弐、参』『短編キネマ 百色眼鏡』『賣笑エクスタシー』などを所有している(当時よほど嵌っていたのだろう)。'00年代に入るとテレビ出演などメディアへの露出も増え、特に3作目の『加爾基 精液 栗ノ花』のリリース前後には、筑紫哲也や久米宏とのニュース番組での対談等を通じて、中高年インテリ層の認知度もさらに高まった。こうして椎名林檎は、デビュー当時のアングラ的イメージが強いキワモノ・ロック歌手扱いから、完全に「メジャー・アーティスト」の一人へと「昇格」したのである。

日本のポップス史上、松任谷由実 (1954-) と並ぶ最高の「女性アーティスト」はやはり椎名林檎 (1978-) だろう。以前にも本ブログで書いたことがあるが、その音楽的スケールと影響力、独創性、作詩・作曲能力、プロデュース能力、性別・世代を超えたパフォーマーとしてのポピュラリティ等――全ての点においてこの二人の才能は傑出している。さらに、ユーミンの歌や曲はいまだに古びず、単なるナツメロではなく時代を超えて愛され続けている。そのユーミンから四半世紀後に登場した椎名林檎は、デビューした年齢も、十代から曲を作ってきた点でもユーミンとほぼ同じだが、若者のほとんどが音楽そのものに熱狂した「70年代」ではなく、音楽がモノと同じように日常の中で消費され捨てられるようになった「90年代」という時代に現れたために、この点では不利だ。しかし'00年代に入ってからもコンスタントに新曲やアルバムをリリースし続け、十代に作った自作曲を20年後のライヴの場で唄い、まったく古くささを感じさせないどころか、そこにさらに新鮮な魅力を加えている椎名林檎も、この「時間」という試練を完全に乗り超えた本物のアーティストになったと言えるだろう。

1970年代という、高度成長期の活力に満ちた日本、希望に満ちた未来へと成長を続けた明るい日本を象徴していたユーミンの楽曲の背景には、バブルに向かって日々変貌していた「モダンな都会」というイメージが常にあった。それに対し、そのバブルがはじけて「昭和」的世界が文字通り終焉を迎え、不況とリストラで先の見えない世紀末の日本であがく団塊ジュニア、氷河期世代の一人として登場したのが、1978年生まれの椎名林檎である。さらに90年代半ばには阪神大震災やオウムのテロが続き、堅牢で安定していたはずの世界が脆くも崩れてゆく様を目撃し、喪失感、孤独感を募らせていたこの世代の音楽家に、自分の思いや感情をてらいなく表現したり、皆で一緒に唄える希望に満ちた歌など、もはや作れるはずがなかった。それまでの日本のポップスにはおよそ見られなかった、椎名林檎の楽曲が持つ深い陰翳と屈折には、個人的資質だけでなく、疑いなくこうした時代背景が投影されていると思う(「スピッツ」の楽曲にも同種のものを感じる)。そして2001年、追い打ちをかけるように、テレビの画面を通してリアルタイムで目撃した米国9.11テロが、アーティスト椎名林檎にさらなる衝撃を与える。

   賣笑エクスタシー
椎名林檎のコスプレ的表現、芝居(演劇)や芝居小屋(劇場)好きは、初期の頃からのMV (Music Video) や映像作品が示す通りだ。残念ながら、私は彼女の本物のライヴの舞台を見たことがないが、DVDなどの映像で見るかぎり、MVやライヴステージは音だけのCDよりも圧倒的に魅力的だし、面白い。テレビ番組では制約があって、その魅力が出せないだろうが、本物のライヴは、きっと芝居小屋のような幻想的かつ猥雑な面白さで一杯だっただろう。MVは80年代からあったが、歌だけでなく、最初からその強烈な「ヴィジュアル・イメージ」を意図的に前面に打ち出して登場した新人アーティストは、日本のポップス史上、おそらく椎名林檎が初めてだろう。90年代からのデジタル技術の進化によって、映像作品の制作が容易になったこともあって、今では当たり前になった映像込みの歌のプロモーション(PV) を、既に90年代の後半に彼女は始めていた。当然ながら、背景にはレコード会社を含めた周到な戦略的マーケティングがあっただろうし、女子高生や新宿系やナース姿などの映像は確かにインパクトがあったが、ある意味で「あざとい」印象を一部の人たちに与えたことも事実だろう。

初期からのMVや映像作品をずっと見ていると分かるが、彼女は最初から「素顔」をほとんど見せない。新作のたびに、まず楽曲の背景になる独自の「物語(シナリオ)」を創作し、その設定に基づいて変幻自在の「椎名林檎」というコスプレ(主演女優)を演じる「出し物」を上演している。歌手にとって自らの存在を象徴する「声と歌唱」も、ドスのきいた巻き舌によるワイルドな歌唱から、幼女のようなあどけない声に至るまで、その「出し物」に応じて千変万化する。まるでカメレオンのように、衣装はもちろんこと、自分の「顔」ですら、新曲を発表するたびに、同じ人物かどうか分からないほど毎回「変えて」いたのが椎名林檎なのだ。女性に人気がある理由の一つは、このパフォーマンスが彼女たちの変身願望を刺激するからだろう。

そこにあるのは、舞台上で観客の視線を一身に浴びる「椎名林檎」をどう演出するか――すなわち、冷静かつ複眼的な視点で「アーティスト椎名林檎をプロデュースする」というコンセプトである。椎名林檎は最初から、単なる作詞・作曲家でも、歌手でも、女優でもなく、それらを統合した「アーティスト」だった。おそらく彼女が最もやりたかったのは、単純な歌手・椎名林檎のショーではなく、「椎名林檎一座」による現代の見世物としての「芝居」(パフォーマンス)であり、彼女は最初から一座の座長(総合プロデューサー)だったのだろう。椎名林檎の、あるときは和風であり、あるときは洋風でもあるという和洋ごちゃまぜ、またあるときはレトロであり、あるときはモダンでもあるという時代交錯感を醸し出す唯一無二の音楽表現に散りばめられたロック、ジャズ、歌謡曲、シャンソンなどの諸要素は、彼女の体内に蓄積され、形成されてきた並はずれた量のデータベースから生まれてくるものだが、アルバムであれ、コンサートであれ、映像作品であれ、それらはすべてこの「芝居」を構成し、娯楽として提供するためのパーツにすぎない。だから2004年に立ち上げたバンド「東京事変」は、この「芝居」の幕間の「音楽ショー」という位置付けなのだろう、と当時の私は勝手に推測していた。

     加爾基 精液 栗ノ花
ド素人の私見だが、このように基本的に「アート志向」の音楽家だった椎名林檎のデビュー後10年間のアルバムを振り返ると、その「芸術的頂点」は、やはり2003年に発表した3作目の『加爾基 精液 栗ノ花』(=カルキ)だろう。十代に作ったという名曲が並ぶ『無罪』『勝訴』は文句なしに素晴らしいアルバムだったが、正直に言って、『カルキ』はまず不思議なタイトルも含めて、最初にそのダークなサウンドを聴いたとき、椎名林檎は頭がおかしくなったのかと思ったほどだ。多重録音を多用していて、一度聴いただけでは掴み切れないほど複雑なサウンドの曲が多いので、何度聴き返したか分からないほど聴いた。しかし繰り返し聴いているうちに、これは本当にすごい作品だと徐々に思うようになった。今も時どき聴くが、まったく飽きないし、古さを感じない(つまり、そこはジャズの名盤と同じである)。冒頭の「宗教」から終曲「葬列」まで、隙のない、緻密に作り上げた曲だけで構成され、詩集、あるいは短編小説集のような文芸色を感じるこの作品も、全てが名曲だ(ただし、ほとんど素人には唄えないような曲ばかりだ。これは「聴く」ための作品なのだ)。しかし今でも、このアルバムを全曲通して聴くと「頭が疲れる」ので、直後に分かりやすいJ-POPでも聴いて頭を休めたくなる。

この「凝りに凝った」アルバムで、椎名林檎はその才覚を駆使して、やりたいことを全てやりつくしている感がある。作詩、作曲、歌唱、編曲、録音、さらに写真、ジャケットデザイン、詩のフォント、シンメトリーにこだわった曲名や言葉の配置、アルバム全体の構成に至るまで、アルバム・コンセプトへの徹底したこだわりぶりは怖いほどだが、それを20代前半という年齢で実現してしまった早熟ぶりと、作品プロデュース能力、それを可能にするアーティスティックな才能は恐るべきものだ。デビュー後、結婚、出産、離婚を経て「大人」になった椎名林檎が、時代性や商業性よりも、「アーティスト椎名林檎」として本当にやりたいことを、とことん突き詰めて作ったアルバムが『カルキ』だったのだろう。そして、個人的体験である出産の「生」、さらに9.11テロが与えた社会的な「死」のイメージも、この作品全体のトーンに影響を与えているように感じる。

      平成風俗
『カルキ』は、タイトル(人前で口に出しにくい)、録音・制作手法(手作り感、多重録音の多用、曲間のつなぎ、音が聴き取りにくい、CCCD等々) に関する物議をかもし、前2作との印象の違いに、ファンの意見を二分したアルバムだったようだが、この『カルキ』のすごさが理解できないと、椎名林檎の半分しか楽しめないことになるだろう。『カルキ』はCDだけでなく、同時期に発表した『短編キネマ 百色眼鏡』『賣笑エクスタシー』他の一連のDVD群と共に、「音と映像」によるマルチメディア作品の一部として鑑賞することで、その世界観のスケールと奥行がさらに理解でき、楽しめる。そしてもう一つ、ライヴ映像を見れば明らかだが、これらの作品は「斎藤ネコ」の超アバンギャルドでグルーヴィーなヴァイオリンとアレンジ、アコースティック楽器によるジャズ演奏という音楽コンセプトなしには表現できない世界だ。「迷彩」のライヴ演奏の後半などは、ほとんどフリー・ジャズだ。

その後、映画『さくらん』の音楽を手掛けるにあたって斎藤ネコと再度共作する。そして今度はホーンとストリングスのフル・オーケストラを編成して、「大人」の鑑賞にも耐えるジャジーなアレンジと聴きやすい録音で、セルフカバー曲を含めて仕上げた『平成風俗』(2007) は、傑作『カルキ』のいわば続編であり、変奏曲であり、別テイクでもある(『カルキ』の原曲を中心に、「商業的に」磨き上げた作品と言ってもいい)。サウンドが激しくないので、高齢者でも(?)何度も聴いて楽しめる奥深さを持ったこの2作は、今も椎名林檎の私的ベストアルバムである。陰翳の濃い曲ばかりで、個人的には優劣がつけ難いが、強いて言えば、編曲を含めた好みは「迷彩」「やっつけ仕事」「意識」「ポルターガイスト」「ギャンブル」「浴室」などだ。名作「夢のあと」も、東京事変『教育』の初出バージョンよりも、『平成風俗』版の方が好みだ。(続く)