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2018/07/13

Macオーディオを再構築する(1)

ジャンルに関わらず、音楽は何といってもライブ演奏を聴くのがいちばんだ。今はどんなジャンルでも音楽ライブが日常的なものになって、昔のように貴重な機会というほどでもなくなった。しかしエリック・ドルフィーがいみじくも言ったように、残念ながら生の音楽は1回限り、その場限りで空中に消えてしまう(そこがいいわけでもあるが)。一方、古今東西の名演や名曲を、時空を超えていつでも好きな時に、繰り返し再現したいという人間の願望を叶えてくれるのが、それらを「録音」したレコード(SP-LP-CD-data、テープ)であり、それを「再生」するためのオーディオ装置だ。だが「モノ」としてのステレオ再生機器を手に入れたらそれでお終いということではなく(普通の人はそこで終わる)、その装置からどういうサウンド(自分にとっての良い音、理想の音)を、どうやって引き出すか、手間をかけ楽しみながらあれこれ試行錯誤する過程が、プロは別として一般人の趣味の世界としての「オーディオ」で、音楽そのものだけでなく、出て来る「音」そのものに興味を持ち、それにこだわる限られた人間の特殊な世界である。今はスマホなどで誰でも普通にステレオ音楽を楽しんでいるが、ほとんどイヤフォンやヘッドフォン経由のいわば脳内音楽だ。だがスピーカーによって物理的に空気を振動させる音を聴くと、まったく同じ音楽(録音)が再生機器の違いによってここまで別モノに聞こえるのか、というような体験をする。それに感動し、結果として音の虜になるのがオーディオファンやマニアだが、一方で何も差を感じない人もいるわけで、要は人それぞれの感性によって異なる極私的世界なのだ。

芸術や趣味というのはすべからくそうだが、そもそも昔から金も時間もたっぷりある王侯貴族や大金持ちだけが暇つぶしに楽しんでいた特殊な、マニアックな世界であり、それが長い時代を経て、社会や個人の経済力が増して楽しむ余裕ができ、徐々に庶民の領域に降りて来るわけである。日本のオーディオも大衆的な趣味になったのは1970年代以降だ。だから上を見て金をかけたらきりがない世界で、バブル時代のように日本の景気が良かった頃はモノとしての機器も高額になり、勘違いして分不相応なほどの金を投じて身を滅ぼした人もいたくらいだ。今はデジタル化の恩恵で低価格再生機器のレベル全般が向上し、日本の経済力と個人所得も相対的に低下したこともあって、かつてのような熱狂は消え、分相応の楽しみ方をしている人がほとんどだろう。趣味も多様化したし、何より「音楽」が特別なものではなくなり、誰でも、いつでも、どこでも聴ける日常の消耗品になった。それに今は抽象的な音の世界より、わかりやすく、記憶に残りやすい、派手なヴィジュアル情報に大半の人間の興味は移っている。しかしいくら素晴らしい作品でも、同じ映画や映像は何度か見たらすぐに飽きるものだが、同じレコードは何度聴いても飽きないように、刺激の強い視覚情報と違って、すぐに空中に消えてしまう音というのは抽象的で、聴く人が毎回あれこれ感性や想像力を使わざるを得ないからこそ、飽きずにいつまでも楽しめるのである。その音楽がすぐに飽きる単純なものではなく、複雑であればあるほど、それを聴き、楽しむ時間も長くなるということだ。

しかし録音・再生方法がアナログであれデジタルであれ、またどんなジャンルの音楽であれ、「好きな音楽を、良い音で聴きたい」と願う人は音楽がある限りいつの時代でも必ずいる。音の楽しみ方は多様化するにしても、大人の趣味としてのオーディオも地味に、かつディープに存在し続けるだろう。それには、聴きたい音楽が存在することがまず必要だが、最近も1963年(55年前)のジョン・コルトレーンの未発表音源が発見・発表されたように、とりわけ20世紀に生まれて頂点を極めたジャズは、録音技術の進化と共に歩んだ音楽でもあり、死ぬまで聴いても聴き切れないほどの良質のアナログ音源がまだ無尽蔵に残されている。現代の音楽や演奏は、当然ながら一般的にはそれなりのクオリティで録音されているが、人工的に手を加え過ぎたものが多くて、きちんとした装置で再生すると不自然な音の録音が結構ある(特にJ-Pop)。ジャズの場合、黄金期の1960年代半ばまでの古い録音は、時代なりのテクニックはもちろん使っていても、複雑な音源加工をせずにシンプルな手法で録音されたアルバムが多いので、音が自然で、想像以上に生々しい音が聞こえてくる好録音も数多い。こうした古い録音をできるだけリアルな音で再生することが、ジャズ&オーディオファンにとっては大きな楽しみの一つなのだ。ただいずれにしろ、昔も今も、機械で再生されるサウンド(音の聞こえ方)に興味のない大部分の人にとっては訳の分からない世界とも言える。したがって特に女性オーディオファンというものが、昔からほとんどいないのもよくわかる。

MacBook Pro 2015
というわけで、「より良い音」を求めておよそ6年ぶりに多少の投資をして、これまでのMacを使ったPCオーディオ・システムを再構築した。正直、「再構築」と言うほど大層なことではないが、私的には結構な手間と時間がかかったので、あえて大げさな表現にした。また投資とは言っても、今回はデジタル化した音の入り口部分だけで、DAC以降のアンプもスピーカーも変えていないので、それほどの金額ではない。長年(10年近く?)オーディオ用に使ってきたMacBook (Snow Leopard、以下MB)に(自分と同じく)さすがに老化の気配が見えてきたので、壊れた時の予備に昨年買っておいたMacBook Pro (Sierra、以下MBP)に入れ替えることにしたのだ。Mac miniも考えたが、ディスプレイ付きのノート型の方がやはり何かと使いやすいのと、AC雑音の入らないバッテリー駆動が可能なこともあって、こちらにした。(アナログもデジタルも、経験的にやはり高周波ノイズを制御する電源管理は重要で、理想は外部ノイズをシャットアウトできる専用の屋内バッテリーだろうが、まだ低価格のそういう製品は見当たらないようだ。)買ったのは最新のMBPではなく、ネットで見つけた2015年のモデルなのだが、その理由はコンピュータとしての性能ではなくオーディオ上の使い勝手で、Macがノートの新機種のインターフェイスにUSB3端子を搭載しなくなったために、これまでの外付けHDDや、DDC、DACなどの機器と接続するのに何かと不便だからだ。この2015年モデルにはさすがにFireWireはないが、USB3端子が2個、Thunderbolt2端子が2個ついているので、オーディオ的には避けたいアダプターやコネクターをかませた接続を最小限にできそうなのでこちらにした(こういう話をしても、何がなんだかわからない人もいると思うが)。

しかしAppleはそういう事情のある人(特殊な少数派なので)にはお構いなしに、ノート型にはどんどん新しい技術を投入するので、周辺機器と接続して使うオーディオ好きには非常に困るのだ。オーディオ好きだったスティーヴ・ジョブズ亡き後、この傾向は止まらない(かどうかはよくわからないが)。今度のMBPにもThunderbolt22個ついているが、いくら高速でもこの端子のついた据え置きHDDやオーディオ機器は今やほとんど売っていないし、あっても価格がやたらと高い。FireWireUSBなどへの各種変換コネクターもあるが、これも高額だ。そして今やUSB3USB-Cになり、Thunderbolt2から3になっているし、コンピュータ好きには楽しいのかもしれないが、いくらモバイル性と伝送速度が向上しようと、私のように単に家庭で、便利に、かつ良い音で聴きたいと思って使っているだけのオーディオファンには迷惑な話なのだ。機器間の接続について言えば、アナログやCD時代はバランスかRCAだけ、プラスかマイナスだけで、シンプルで混乱することもなく、安定していて本当によかったと思う。Macも昔はオーディオ接続はFireWireだけでシンプルだった。もっとも今や何でもWi-Fiが主流なので、なおさらそんなことには構っていられません、ということなのだろう。

Macはシステムの設計上Windowsより音が良く、オーディオ的には有利だということだったので(なぜなのか、という技術的理由は詳しくは知らない)Macシステムでやってきたのだが、私には特にコンピュータの知識があるわけでもなく、それにそもそも大雑把で細かい作業は苦手なので、雑誌やネットで見聞きしたあれこれの情報の中で、自分で納得できた方法をそのまま拝借して、素人でも可能なシンプルな設定と接続で済む今のシステムを組んだだけだ。世の中にはもっと複雑な機器を使い、高度な方法でMacオーディオを楽しんでいる人もいると思うが、私の場合、簡単なチャートで示すように、要はアナログ・レコードプレイヤーやCDプレイヤーの代わりに、外付けHDDに取り込んだ非圧縮AIFFのCDデータ(by XLD/iTunes) をMBを介して読み込み、再生し (by Audirvana)、DDCを経由してDAC/プリ/パワーアンプ/スピーカーにその信号を送り込むというだけの方法である。つまり古典的オーディオとPCオーディオのハイブリッドだ。アナログ・プレイヤーの場合のアーム、カートリッジ、配線、MCトランス、フォノイコライザーといったパーツで遊ぶのを、上記コンピュータシステムに置き換えたものと言える。この6年間ほとんどオーディオ誌も読まず、ひたすら聴くだけになったのは、何と言ってもiTunesによる大量のアルバム、楽曲データ管理がアナログLPやCD時代に比べて圧倒的に便利で、好きな時に好きな曲を自由に聴けて楽しいことと、Audirvana のようなMac専用の優れた再生ソフトウェアの出現で、時にはアナログにひけをとらないような音が実際に出て来るからだ。高度なアナログLP再生は確かに素晴らしいが、誰にでもできるわけではなく、何より良い機器と技術(経験と腕)、根気と根性が必要だし、それにどうしても高価になる。かなりのLPも所有しているので、ほどほどのアナログ機器でたまには再生しているが、不器用でものぐさなうえ根気も根性もないので、できるだけ簡単に操作でき、メインテナンスも楽で、しかしできるだけ良い音でたくさん音楽を聴きたい、という私のような横着な人間にPCオーディオはぴったりの方法なのだ。

普段はWindowsのコンピュータを使っているので、MBは音楽再生専用に特化して、これも見よう見まねで、背後で動いているOSやソフトに向けられるCPUやメモリーなど、システム・リソースへの負荷をできるだけ減らして、Macの作業を音楽の再生だけに集中する設定にしてある。おまじないみたいにも思えるが、Macの場合この効果は結構大きいようにも感じる。つまり「音源データ管理ソフト付き音楽再生専用プレイヤー」としてMacを使っているわけである。コンピュータとしての普通の機能が無駄と言えば無駄になるが、それらはWindowsで処理できるし、オーディオ上の機能、性能、利便性を考えたら決して高い買い物ではないと長年使った今では思っている。Mac自体も余計な仕事をしない単純作業で済むので疲労度(?)も少ないはずで、寿命も長いだろう(…かどうかはよくわからないが)。そういうわけで、これまでのMBの音で結構満足してきた。ただし、LANWi-Fiを使うNAS的システムは信号経路とデータの質がどうも信用できないので、あくまで古典的鉄則、アナログとデジタル電源管理を配慮した短距離有線接続によるクローズド・システムである。ハイレゾもこれと言って聴きたい新録音がないので、今のところは手付かずだし、ストリーミングにも興味はない。そもそも聴くのはほとんど手持ちの20世紀アナログ録音のジャズを中心にしたCD音源で(それすら聴き切れないほどの量がある)、それらをいかに気持ちの良い音で鳴らすかが私的オーディオの目的だからだが、リマスターされた(加工された)古いアナログ音源のハイレゾ盤がどんな音になるのかという興味はある。特にHDDにリッピング済みの初期(80年代)のCDの中には音がスカスカのものもあるので、改善効果は期待できるのかもしれない。ただし要はオリジナル・アナログマスタ-のクオリティ次第だろう(当然、演奏内容がまず第一だが)。新たに録音したものではない旧譜のハイレゾ盤とは、単にこのオリジナル・アナログ録音に入っている音をどこまで再生できるか、ということだけの話だからだ。だがそれにしても、その種の旧録音のハイレゾ盤の価格はまだ高すぎると思う。自分でアップサンプリングしたりして遊んだ方が楽しめるかも知れないとも思うが、どうしてもどこか不純(?)な気がするのと、面倒なのもあってこれもやっていない。(続く)

2017/12/07

映画館の音はなぜあんなに大きいのか

先日、新聞の投書欄で、今の映画館の音はどうしてあんなに大きいのかと、70歳の女性が投稿している記事を読んだ。アニメ映画なのに小さな子供は怖がり、途中で出てゆく子供もいて、自分も疲れて、あれでは難聴になりそうだと訴えていた。同感である。私は滅多に映画には行かないのだが、今年の初めに「ラ・ラ・ランド」の封切り上映を観るために久しぶりに映画館に行ったところ、そのあまりの爆音に耳が痛くなり、気持ちが悪くなるくらいだったからだ。後半はほとんど耳を半分塞いで見ていたが、あれでは興味も半減してしまう。コツコツという靴の足音が異様に大きな音で響きわたり、車のドアを閉める衝撃音の大きさにビクッとし、踊りや演奏の場面では耳をつんざくような音が流れている。いくら年寄は耳が遠くなるので丁度いいとか言われても、やり過ぎだろう。あの調子で昔のように何本も続けて見たら、それこそ耳がおかしくなる。たまたまその映画や映画館がそうだったのかと思い、ネットで調べてみたら、同じ疑問と悩みを訴えている人が実際にたくさんいるということがわかった。見に行きたくても、あれでは怖くて行けないという人もいる。小さな子供にとっては拷問に等しく、危険ですらある。日付を見ると、ずいぶん前からそういう訴えが出ているが、その後改善されたという話は掲載されていないし、現に私も今年になって体験しているので、あまり変わっていないということなのだろう。

昔のジャズ喫茶でも結構な大音量でレコードをかけていて(今でもそういう店はある)、一般の人がいきなり聞いたらびっくりするような音量ではあった。しかし、それはオーディオ的に配慮した「音質」が大前提であり、機器を選び、再生技術を磨き、耳を刺激する歪んだ爆音ではなく、再生が難しいドラムスやベースの音が明瞭かつリアルに聞こえる音質レベルと、家庭では再生できない音量レベルで、きちんと音楽が聴けることに価値があったわけで、「音がでかけりゃいい」というものではなかった。もちろん個人の爆音好きオーディオ・マニアは昔からいるし、一般にオーディオ好きは、普通の人たちに比べたら大音量には慣れているはずなのだが、一方で音質にも強いこだわりを持っている。そういう人間からみたら、今の映画館の、あのこけおどしのような音は、ひとことで言って異常である。マルチチャンネルやサラウンド効果を聞かせたいとかいう商業的理由もあるのだろうが、パチンコ屋やゲームセンターじゃあるまいし、静かに「映画」を見たい普通の人間にとってはそんなものは最低限でいい。密閉された空間では、爆音やそうした人工的なイフェクトはやり過ぎると聴覚や平衡感覚をおかしくするのだ。座る場所を選べ、とかいうアドバイスもあるが、そういうレベルではない。耳栓をしろ、とかいう意見もあるが、これもなんだかおかしいだろう(音に鈍感な人間からアドバイスなどされたくもないし)。とにかく空間に音が飽和していて、耳が圧迫されるレベルなのだ。大画面で迫力のある音を、という魅力があるので映画館に足を運ぶ人も多いのだろうが、大画面はいいとして、あの爆音は人間の聴力を越えた暴力的な音だ。だから映画を見たいときは、家の大画面テレビで、オーディオ装置につないでDVDやネット動画を見る方がよほど快適なので、今では大方の人がそうしているのだろうが、封切り映画だけはそうもいかないので、見に行くという人も多いのだと思う。

カー・オーディオを積んで、特にウーファーの低音をドスドス響かせながら爆音で走っている車を時々見かけるが、あれと似たようなものだ。あの狭い空間であの音量を出して、よく耳がおかしくならないものだといつも感心しているが、迷惑だし、公道を走っているとはいえ、車の中は一応個人の空間なので、耳を傷めようとどうしようと勝手だが、映画館は不特定多数の人たちがお金を払って集まるパブリック・スペースであり、全員があの拷問のような爆音を無理やり聞かされるいわれはないだろう。画面サイズと音量との適切なバランスについては、昔からAV界(オーディオ・ヴィジュアルの方だ)に通説があるが、そういうバランスをまったく無視したレベルの音量なのだ。いったい、いつからこんな音量になったのだろうか? なぜあれほどの音量が「必要」なのだろうか? ひょっとして、昔アメリカで流行った野外のドライブイン・シアター時代の音の効果の名残が基準にでもなっているのだろうか? 屋内の狭い空間であの異常な音量を出すのは、何か別の理由でもあるのだろうか? 誰があの音量を決めているのだろうか? 映画関係者に一度訊いてみたいものだ…と思って調べていたら、何と以前から「爆音上映」なるものがあって、むしろ爆音を楽しむ映画館や観客がいるらしい。家では楽しめない音量で、爆音愛好家(?)が映画館で身体に響くほどの音量を楽しむ企画ということのようだ。遊園地のジェット・コースターとか3Dアトラクション好きや、耳をつんざく大音量音楽ライヴが好きな人と一緒で、要は体感上の迫力と刺激を映画にも求めているのである。映画によってはそうした爆音が音響効果を生んで、リアルな体験が楽しめるという意見を否定するつもりはないが、それもあくまで映画の内容と音量の程度次第だろう。 

思うに、昔は「音に耳を澄ます」という表現(今や死語か?)にあるように、外部から聞こえる虫の声や微妙な音に、じっと感覚を研ぎ澄ます習性が日本人にはあった。虫の出す「音」を、「生き物の鳴き声」として認識するのは、日本を含めた限られた民族特有の感覚らしく、西洋人には単なる雑音としか聞こえないという。日本人の音に対するこの繊細な感覚は、音楽鑑賞においては世界に類をみないほどすぐれたものだった。ところがそれが仇になって、今の都会では近所の騒音とか、他人の出す音に対してみんなが神経質になっていて、近所迷惑にならないようにと誰もが気を使って毎日生きている。これが普通のスピーカーで音を出して聴くオーディオ衰退の理由の一つでもある。ところが、そういう環境で育った今の若者は、携帯オーディオの普及も一役買って、子供の頃から音楽をイヤフォンやヘッドフォンで聴く習慣ができてしまった。外部に気を使っている反動と、一方で外部の音を拾いやすいイヤフォンなどの機器の特性もあって、常時耳の中一杯に飽和する音(大音量)で思い切り音楽を聴きたいという願望が強くなり、おそらく彼らの耳がそうした聞こえ方と音量に慣れてしまったのだろう。要するに外部の微細な音を聞き取る聴覚が相対的に衰え、鈍感になったということである。映画館の大音量に変化がない、あるいはむしろ増えているのは、供給者側(製作、配給、上映)にそういう聴感覚を持つ人たちが増え、需要者(観客)側にもそういう人が増えたということなのだろう。感覚的刺激を求める人間の欲望には際限がないので、資本主義下では、脈があると見れば、それをさらに刺激してビジネスにしようとする人間も出て来る。最初は感動した夜間のLEDイルミネーションも、どこでもでやり始めて、もう見飽きた。プロジェクション・マッピングも、今は似たようなものになりつつある。テクノロジーを産み、利用するのも人間の性(さが)なので、これからも、いくらでも出て来るだろうし、そのつど最初は面白がり、やがて刺激に慣れ、飽き、次の刺激を求めることを繰り返すのだろう。こうして、かつて芸術と呼ばれた音楽も、映画も、あらゆるものがエンタテインメントという名のもとに、微妙な味や香りはどうでもいいが、大味で、瞬間の刺激だけは強烈な、味覚音痴の食事のような世界に呑み込まれつつある。これはつまり、文明のみならず、文化のアメリカ化がいよいよ深く進行していることを意味している、と言っても間違いではないような気がする。

2017/06/30

オーディオ体型論

オーディオは長年楽しんできたが、ずいぶんと散財もした。ジャズに限らず、我々の世代のオーディオファンはみな同じような経験をしていることと思う。金に糸目をつけないハイエンドに向う人もいれば、できるだけ金をかけず、徹底的に知恵で勝負する人もいるのがオーディオだ。私も振動やノイズ制御、電源やケーブルによる音の変化は体験としては理解したし、コンセントやケーブルなど諸々の小細工も楽しんではいたものの、電気の 基本知識もない文系人間であり、しかも不器用な上に根性もないので、さすがに庭に「自前の電柱」を立てるところまでは行かない中途半端な(?)マニアだった(ジャズもそうだが、どうも自分は中途半端なマニアのようだ)。そして10年ほど前からMacBookをオーディオ専用に使うシステムを構築し始め、その後5年ほど前にやっと行き着いたPCオーディオ・システム(Mac/iTunes/Audirvana/HDD/DDC/DAC/AMP/SP)でほぼ進化(?)も散財も止まった。NASは信号経路が何となく信用できないので、基本的には有線接続機器によるシステムだ。ハイレゾにも今は特に興味はない(何せ昔のジャズには音源そのものがないので)。CDPもアナログプレイヤーもあるが、最近はほとんど使わない。今はCDデータを非圧縮でHDDに取り込んだ手持ちの音源が、できるだけ気持ちよく鳴るようにセッティングしているだけだ。再生ソフトウェアの著しい進化による音質向上も大きいが、PCによる音源情報管理の便利さは、一度味わうともう抜け出せない。大量のレコード(LPCD)から探し出す手間だけでなく、気分によってジャンルやアーティストや曲を自由に選んだり、迅速に並べ替えたりできることは、音楽を聴く上で何より便利で楽しいのだ。特にジャズの場合、素材というべき「曲」を選んで、異なるミュージシャンによる同じ曲の演奏を一気に聴き比べると、意外な発見もあって非常に面白く、この聴き方はPCシステムならではのことだろう。それにアンプとスピーカーさえ決まれば、昔アナログ・カートリッジを替えたように再生ソフトやDACを入れ替えれば、大して金をかけずに音の変化を楽しむこともできる。

アンプはシンプルなデザインが気に入って買ったPRIMAREのプリとパワーで固定されたままだ。スピーカーもJBLやB&Wをはじめ何台入れ替えたか覚えていないくらいだが、これも45年前にTADにしては安い小型モニタースピーカーを手に入れ、Pioneerのリボンツイーターを上に乗せてから、そのクセのない素直な音が気に入ってずっと使っている。もちろん低域は限界があるが、今の環境と耳には丁度良い。(ヘッドフォンはあの閉塞感が嫌いなので使ったことはない。趣味のオーディオとはスピーカーを鳴らすことだと思っているので)。隣家が気にならず、広いリビングのあるマンションに引っ越したのも、大きなスピーカーを大音量で気兼ねなく鳴らすのが半分目的だったのだが、移ってからは聞く音量もむしろ下がってしまった。大型スピーカーの魅力は捨てがたいが、所詮集合住宅では限界があるし、昔はチマチマしているとバカにしていた小型システムによるニアフィールドの音体験をすると、これはこれでいいものだと(歳のせいか)思うようになった。ジャズ=大型スピーカー=大空間という古典的法則は、=大音量というもう一つの条件が加わらないと結局面白くない。昔のジャズ喫茶はこれらの条件をある程度満たしていたがゆえに、音に興味のあるジャズファンは通ったのだ。神戸の “jamjam” のようなジャズ喫茶はその理想で、デフォルメされた仮想空間なのに、リアルに聞こえるジャズの世界を自宅で創り出すことに昔はみな夢中になっていたもので、オーディオの活況もそれが理由の一つだった。

そのオーディオに熱中していた当時に思いついたことがいくつかある。その一つが「オーディオ体型論」だ。あの頃は様々なオーディオ評論家の先生たちが、アンプやスピーカーやCDプレイヤーなど、どの機器が良いとか、どの組合せが良いとか、毎月のように発表されるオーディオ新製品の評価や自身の意見を語っていた。オーディオ誌も色々あって、毎月のように買ってそれらの批評を楽しみに(かつ結構真剣に)読んで、次に何を買おうかと思いあぐねていた。そうした記事をしばらく読んでいるうちにあることに気づいた。それは、それぞれの批評家には、どうも固有の音の好みがあるようだということだった。つまりA氏が素晴らしいという音と、B氏やC氏が素晴らしいという音は違うのではなかろうかという疑問である。そして長年の読書体験からある法則が思い浮かんだ。それは細身の人、筋肉質な人、太目な人…というように、その評論家の体型と彼が好む音との間には、ある種の相関がありそうだということだった。オーディオに興味のない人が聞いたら何を言っているのかチンプンカンプンの、音の感覚的批評語(音がー細い、痩せた、速い、太い、遅い、華やか、芳醇etc.)で語る評論家それぞれの「体型」と、彼らが「好む音」にははっきりと相関があるように思えたのだ。

たとえば私が好きだった長岡鉄男氏の体型は見たところ小柄で筋肉質だったが、好む音も竹を割ったような、と言われるシャープでハイスピードの音だった。やや小太り気味の菅野沖彦氏は豊潤な音を好んでいそうだった。「ステレオ」誌に登場していたブチルゴム制振の金子英男氏もそうだ。一方、中肉中背の人は、バランスの取れたあまり個性の強くない音が好みのようだ、ということが批評(感想)文をずっと読んでいるとわかってくる。私も痩せていた若い頃は細身でシャープな音が好みだったが、歳を経て体重が増すにつれ、比較的肉厚で豊かな音を徐々に好むようになった。大人になって性格が丸くなったとか、聴覚が徐々に衰えたとかそういうことではなく、単純に物理的に体重が増して体型が変わったことの方が、影響が大きいと思ったのだ。つまり「良い音」というのは人によって異なる。そしてその人の「体型」(骨格と肉付き)と、音を聞いて感じる「快感」には相関がありそうだ、ならばその時の自分と体型の近い人の意見を参考にすれば、求めている音に近づけるかもしれない、というのが結論だった(と言うほど大それた話ではないが、まあヒマだったのだろう)。おそらくスピーカーによる空気の振動と、それが自分の肉体に伝わる骨伝導(共振?)によって、聴覚だけではない自分が肉体的に感じる心地良さが関連しているものと推測されるが、この仮説(?)は今でも有効だと自分では思っている。もう一つ思いついたのが「オーディオマニア短命論」だが、これは差し障りがあるので書くのはやめておく。

音楽を聴くためのオーディオには可変要素が多過ぎるし、良くなるか悪くなるかは別にして、「何をいじっても音は変わる」ことは実感した(駄耳の私にもわかる程度に)。また良い機器というものは確かにあるが、機器単体の物理的性能や科学的測定データと、聞く側にとっての「良い音」にはほとんど何の関係もない…と言えなくもない。アナログだろうがデジタルだろうが、PCを使おうが、それは同じだ。音に興味のない一般人には感知できない変化に一喜一憂するオーディオの世界がオカルトと呼ばれる所以だが、(上述の仮説が有効なら)聴く側の人間の肉体と感覚がそもそも千差万別なのだから、ある意味当然と言えば当然だ。あるのは「自分にとって良い音」だけである。その「自分」に近い感覚を持つ人の数が相対的に多ければ、それがマジョリティになるし、機器やシステムの評価も相対的に高いということになるのだろう。しかし考えてみれば、抽象芸術である音楽の評価とはすべからくそういうものであり、ジャズレコードの「自分にとっての名盤」も同じことだろう。自分にとって良い音、理想の音を目指しながら「微妙な音の変化を楽しむ過程」こそがオーディオという趣味の本質だと思うが、それがたとえ自分にしか感知できない変化であっても、むしろ自分にしか感知できない変化であればなおさら楽しい、というところが問題(?)なのだ。おまけに自分の体型、肉体、つまり五感も年齢と共に刻々と変化しているわけで、それはつまり(再び上述の仮説が有効なら)自分にとって良い音、理想の音も実は変化しているということに他ならない。つまりキリのない作業が死ぬまで続くということである。それに人間は飽きっぽいし、物欲もある。昔のように、機器を次から次へと買い替える中毒症状に陥る人が出るのもそれが理由だろう。(大金持ちの人は別にして)これを承知で、身を滅ぼさない程度に分相応の金をつぎ込む限り、良い音楽を良い音で聴きたいと願う音楽好きにとって、オーディオという終わりなき趣味はやはり面白い。

2017/03/15

吉祥寺でジャズを聴いた頃

Monk in Tokyo
1963 CBS
ロビン・ケリーの「セロニアス・モンク」の中に、1963年のモンク・カルテット初来日時のことが書かれている。日本のミュージシャンとの交流の他に、京都のジャズ喫茶(さすがに店名までは書かれてはいないが「しあんくれーる」)の店主だった星野玲子さんが、ツアー中のモンクやネリー夫人一行に付き添って、色々案内した話が出て来る(モンクと星野さんが、店の前で一緒に並んで撮った写真も掲載されている)。その後星野さんはモンク来日のたびに同行し、夫妻にとって日本でいちばん親しい知人となったということだ。この63年の初来日時、コロムビア時代はいわばジャズ・ミュージシャンとしてのモンクの全盛期でもあり、この東京公演でのモンク・カルテットを録音したCBS盤は、お馴染みの曲を非常に安定して演奏していて、初めて動くモンクを見た日本の聴衆の反応も含めて、モンクのコンサート・ライヴ録音の中でも最良の1枚だと思う。またこの時の全東京公演の司会を務めたのが相倉久人氏だったことも、氏の著作全集を読んで知った。

京都「しあんくれーる」広告
1975 Swing Journal誌
「しあんくれーる」がその後どうなったのか興味があったので、調べてみようと、手元に残しておいた今はなきスイング・ジャーナル誌の「モダン・ジャズ読本’76」(197511月発行)を久しぶりに開いてみた。当時売り出し中のキース・ジャレットの顔の画が表紙の号だ。SJ誌は毎月買って読んでいたが、年1回発行の主な特集号を残して、あとはみな処分してしまった。70年代、つまりバブル前までのSJ誌は、ジャズへの愛情とリスペクトが感じられる、きちんとした楽しいジャズ誌だったと思う。その号の中を読むと、ジャズとオーディオの熱気が溢れている。全体の3割くらいはオーディオ関連の記事と広告である。まだ前歯のあるチェット・ベイカーや、犬と一緒になごむリー・コニッツの写真他で飾られ、巻頭にはビル・エヴァンス、ロン・カーター、ポール・ブレイによるエレクトリック・ジャズを巡る三者対談があり、「SJ選定ゴールド・ディスク100枚」の紹介があり、75年発売のレコード・ガイド、それに4人のジャズ喫茶店主の座談会も掲載されている。4人とは野口伊織(吉祥寺ファンキー他)、大西米寛(吉祥寺A&F)、高野勝亘(門前仲町タカノ)、菅原昭二(一関ベイシー)各氏である。全員がたぶん30代から40代だったと思われるので、見た目も若い。驚くのは、当時のオーディオ・ブームを反映して、この号には全国(札幌から西宮まで)の主要ジャズ喫茶で使用されている再生装置(アナログ・プレイヤー、カートリッジ、アンプ、スピーカー)を記載した一覧表が掲載されていることだ。しかも使用スピーカーは、ウーハーやツィーターなどユニット別に記載されている。40年以上前のこうした記事を読むと、日本ではジャズとオーディオが切っても切れない関係だったこと、また現在の一関「ベイシー」の音が一朝一夕にできたわけではないことがよくわかる。その一覧表の中に京都「しあんくれーる」の名前もあった。そして広告も掲載されていた。当時はまだ健在だったのだ。

ジャズ喫茶広告
1975 Swing Journal誌
その表を見ても、吉祥寺には特にジャズ喫茶が集中していることがわかる。私は長年JR中央線沿線に住んでいたので、当時よく行ったジャズ喫茶はやはり吉祥寺界隈だった。「Funky」,「Outback」,「A&F」,「Meg」などに通ったが、荻窪の「グッドマン」、中野の「ビアズレー」あたりにもたまに行った。だがいちばん通ったのは吉祥寺の「A&F」で、JBLとALTECという2組の大型システムが交互に聴けて、会話室と視聴室が分かれていて、音も店も全体として明るく開放的なところが気に入っていたからだ。こうした店の雰囲気は店主の性格が反映しているのだろう(大西氏はよく喋るという評判だった)。今の吉祥寺パルコのところにあった「Funky」には、JBLのパラゴンが置いてあり、コアなジャズファンが通う店といったどこかヘビーな印象がある(実業家肌の野口氏は若くして亡くなった)。「Meg」は寺島靖国氏の店で今も健在だが、当時の寺島店主は神経質でどこか近寄りづらい雰囲気があった。だがその後80年代終わり頃から相次いで出版した氏のジャズとオーディオ本は、個性的でどれも楽しく読んだ。文壇デビュー前の村上春樹氏が、JR国分寺駅近くに「ピーター・キャット」というジャズ・バーを開いていたのもこの時期だったようだ(197477年)。

70年代中頃というのはヨーロッパではフリーが、アメリカではフュージョンが主役の時代になりつつあり、日本ではフュージョンも台頭していたが、まだまだ伝統的モダン・ジャズが盛り上がりを見せていて、SJ誌の紙面でもわかるがLPレコードの発売も非常に盛んだった。一方でバップ・リバイバルという流れもあって、アメリカでフュージョンやエレクトリック・ジャズに押されて食い詰めた大物ミュージシャンも続々来日したし、高度成長で豊かになった日本のジャズファンがコンサートに出かけたり、まだ高価だったLPレコードやオーディオ装置に金をつぎ込めるようになったという経済的背景も大きいだろう。しかしマイルス・デイヴィスが1975年の来日公演の翌年、体調不良のために約6年間の一時的引退生活に入り(1981年復帰)、1973年以降同じく体調不良で半ば引退同然だったセロニアス・モンクも、19766月のカーネギーホール公演の後は、ウィーホーケンのニカ夫人邸に引きこもってそのまま隠遁生活に入ってしまった。ナット・ヘントフが、モダン・ジャズ黄金時代へのオマージュのような名著「ジャズ・イズ…」を書いたのも1976年である。ビル・エヴァンスはその後1980年に、そしてモンクも1982年に亡くなっている。アメリカにおけるモダン・ジャズの歴史が、当時一つの終わりを迎えつつあったことに間違いはあるまい。それから40年、当時あれだけあった日本全国のジャズ喫茶も、一部の店を除き今はほとんどなくなってしまった。

2017/03/10

神戸でジャズを聴く

関西に出かける機会があると必ず立ち寄るのが、神戸のJR元町駅から大丸方向に数分歩いたところにあるジャズ喫茶 「jamjam」 だ。今回は約1年ぶりの訪問である。

いかにもジャズ酒場の入り口といった感じの、地下に向かう薄暗い階段を降りてゆくと、比較的広いスペースの右手に店の白いドアが見える。ドアを開けて中に入ると、左手側には長いカウンターとその前にいくつかテーブル席があり(ここは会話可)、右手側は正面に置かれた大型スピーカー(確かUREI)と正対するように、真ん中に椅子とテーブルが並んでいて、そこは往年のジャズ喫茶伝統の会話禁止の「聴く」専門のスペースである。左手には壁に沿って、こちらは横向きにクラシックな椅子とテーブルが置かれている。ほとんどが一人客で、じっと音に聴き入るか、本を読んでいる(昔のジャズ喫茶の風景そのままだ)。

初めて jamjam の音を聞いたときに本当に驚いたのはその "爆音" だ。オーディオに興味のない人が聞いたら腰を抜かすほどの音量でジャズが鳴っている。田舎の一軒家ならともかく、住宅事情で大きな音で聴けない欲求不満のジャズファンの多くが、ある種のカタルシスを得るために昔ジャズ喫茶に通ったのもこうした音量の魅力があったからだ。だが昔のこの手のジャズ喫茶といちばん違うのは、店の空間のボリュ-ムである。昔の店は、たいていは音量だけ大きくても店の空間が小さいので、音がこもったり、再生帯域のピークが出たりして伸び伸びとした音で鳴らすのは至難の業だったのだ。だがjamjamではちょっとしたスタジオ並みの広い床面積と、何より高い天井高もあって(5mはある?)、空間いっぱいに "爆音" が響きわたって、ひとことで言えば豪快かつ爽快なのである。そしてスピーカーに対峙して置かれた椅子もゆったりとして大きく、昔のようなちまちました椅子ではないところも素晴らしい。ここで一人ゆったりと座って、コーヒーを飲みながら、全身に浴びるようにひたすらジャズを聴く時間は、往年のジャズファンにとってはまさに天国だ。

アナログLPを音源にしてスピーカーから再生される音なので、ヴァーチャル・リアリティの音空間には違いないのだが、各楽器の質感、演奏の場の空気感、奏者の息使いのようなものが実にリアルに再生されている。特にベースやドラムスの音は、これ以上望めないほどの音量と歯切れ良さで腹に響き、しかもヘッドフォン並みの音の輪郭で、シンバルの微妙な打音や音色まで再現している。この全身で感じるオーディオ的快感は、ヘッドフォンや小型スピーカーでは絶対に味わえないだろう。

学生時代を神戸で過ごしたが、1970年前後には、(京都にはあったが)神戸には学生が行けるような、こうした本格的ジャズ喫茶は私が知る限りなかったように思う。よく行ったのは「さりげなく」という小さな店だったが、そこは場所を変えて今でも営業しているらしい。しかし地方ではなく、神戸のような都会の真ん中に、これだけのスペースと音響を提供するジャズ喫茶が今でも存在するというのはほとんど奇跡に近い。有名人の常連も多いと聞くが、それも当然だろう。ただしリクエストは受け付けない。様々なジャズを選り好みしないで聞いて欲しいというマスターの哲学があるからだ。5月以降は禁煙になる予定とのこと。オーディオ、コーヒー、紫煙はジャズ喫茶の3点セットだったが、時代の流れには逆らえないということだろう。jamjamは、いつまでも存続してもらいたいと心から願う店だ。

夜はJR三ノ宮駅から山側へ歩いて10分ほどの中山手通りを越えたところ、北野にある老舗ジャズクラブ「ソネ」に行った。震災から20年以上が経って、三ノ宮駅から山側にかけてのこのあたりもすっかり様変わりして、昔はほの暗い通りだったところが今は明るいネオンの店がひしめいている。「ソネ」は1969年に開店したらしいので(私が入学した年だが、当時の学生には高級過ぎただろう)、もう半世紀近い歴史がある。近くにあったもう一軒の老舗ジャズクラブ「サテンドール」(1974年開店)は残念ながら昨年閉店したらしい。jamjamのハードなジャズとは打って変わって、ピアノ・トリオと女性ヴォーカルという小粋なライヴ演奏をアルコールと料理付きで楽しんだ。客層はだいぶ違うが、この店も広々として、せせこましくなく、味、雰囲気、サービスともに良く、しかもリーズナブルな料金という素晴らしい大人のジャズクラブだ。この店もいつまでも残って欲しいものだと思う。

神戸では町をあげてのジャズ・イベントも毎年開催されているようで、今やジャズの町だ。震災で深い傷を負ってしまったが、今は、半世紀前のどこまでもカラッと明るかった神戸の街が戻って来たようで嬉しい。おしゃれで都会的なのに、北側にすぐそびえる六甲山が四季を感じさせ、高台からはいつも海が見え、街はコンパクトで、中心地から歩いて行けるところにこうしたジャズを楽しめる店をはじめ、何でもある。よそ者を受け入れる開放的な文化がある一方で、関西らしい人情もまだ残されている。神戸は本当に良い街だと思う。神戸に住む人たちは幸せだ。