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2017/03/15

吉祥寺でジャズを聴いた頃

<Monk in Tokyo>
1963 CBS
ロビン・ケリーの「セロニアス・モンク」の中に、1963年のモンク・カルテット初来日時のことが書かれている。日本のミュージシャンとの交流の他に、京都のジャズ喫茶(さすがに店名までは書かれてはいないが「しあんくれーる」)の店主だった星野玲子さんが、ツアー中のモンクやネリー夫人一行に付き添って、色々案内した話が出て来る(モンクと星野さんが、店の前で一緒に並んで撮った写真も掲載されている)。その後星野さんはモンク来日のたびに同行し、夫妻にとって日本でいちばん親しい知人となったということだ。この63年の初来日時、コロムビア時代はいわばジャズ・ミュージシャンとしてのモンクの全盛期でもあり、この東京公演でのモンク・カルテットを録音したCBS盤は、お馴染みの曲を非常に安定して演奏していて、初めて動くモンクを見た日本の聴衆の反応も含めて、モンクのコンサート・ライヴ録音の中でも最良の1枚だと思う。またこの時の全東京公演の司会を務めたのが相倉久人氏だったことも、氏の著作全集を読んで知った。

京都「しあんくれーる」広告
1975 Swing Journal誌
「しあんくれーる」がその後どうなったのか興味があったので、調べてみようと、手元に残しておいた今はなきスイング・ジャーナル誌の「モダン・ジャズ読本’76」(197511月発行)を久しぶりに開いてみた。当時売り出し中のキース・ジャレットの顔の画が表紙の号だ。SJ誌は毎月買って読んでいたが、年1回発行の主な特集号を残して、あとはみな処分してしまった。70年代、つまりバブル前までのSJ誌は、ジャズへの愛情とリスペクトが感じられる、きちんとした楽しいジャズ誌だったと思う。その号の中を読むと、ジャズとオーディオの熱気が溢れている。全体の3割くらいはオーディオ関連の記事と広告である。まだ前歯のあるチェット・ベイカーや、犬と一緒になごむリー・コニッツの写真他で飾られ、巻頭にはビル・エヴァンス、ロン・カーター、ポール・ブレイによるエレクトリック・ジャズを巡る三者対談があり、「SJ選定ゴールド・ディスク100枚」の紹介があり、75年発売のレコード・ガイド、それに4人のジャズ喫茶店主の座談会も掲載されている。4人とは野口伊織(吉祥寺ファンキー他)、大西米寛(吉祥寺A&F)、高野勝亘(門前仲町タカノ)、菅原昭二(一関ベイシー)各氏である。全員がたぶん30代から40代だったと思われるので、見た目も若い。驚くのは、当時のオーディオ・ブームを反映して、この号には全国(札幌から西宮まで)の主要ジャズ喫茶で使用されている再生装置(アナログ・プレイヤー、カートリッジ、アンプ、スピーカー)を記載した一覧表が掲載されていることだ。しかも使用スピーカーは、ウーハーやツィーターなどユニット別に記載されている。40年以上前のこうした記事を読むと、日本ではジャズとオーディオが切っても切れない関係だったこと、また現在の一関「ベイシー」の音が一朝一夕にできたわけではないことがよくわかる。その一覧表の中に京都「しあんくれーる」の名前もあった。そして広告も掲載されていた。当時はまだ健在だったのだ。

ジャズ喫茶広告
1975 Swing Journal誌
その表を見ても、吉祥寺には特にジャズ喫茶が集中していることがわかる。私は長年JR中央線沿線に住んでいたので、当時よく行ったジャズ喫茶はやはり吉祥寺界隈だった。「Funky」,「Outback」,「A&F」,「Meg」などに通ったが、荻窪の「グッドマン」、中野の「ビアズレー」あたりにもたまに行った。だがいちばん通ったのは吉祥寺の「A&F」で、JBLとALTECという2組の大型システムが交互に聴けて、会話室と視聴室が分かれていて、音も店も全体として明るく開放的なところが気に入っていたからだ。こうした店の雰囲気は店主の性格が反映しているのだろう(大西氏はよく喋るという評判だった)。今の吉祥寺パルコのところにあった「Funky」には、JBLのパラゴンが置いてあり、コアなジャズファンが通う店といったどこかヘビーな印象がある(実業家肌の野口氏は若くして亡くなった)。「Meg」は寺島靖国氏の店で今も健在だが、当時の寺島店主は神経質でどこか近寄りづらい雰囲気があった。だがその後80年代終わり頃から相次いで出版した氏のジャズとオーディオ本は、個性的でどれも楽しく読んだ。文壇デビュー前の村上春樹氏が、JR国分寺駅近くに「ピーター・キャット」というジャズ・バーを開いていたのもこの時期だったようだ(197477年)。

70年代中頃というのはヨーロッパではフリーが、アメリカではフュージョンが主役の時代になりつつあり、日本ではフュージョンも台頭していたが、まだまだ伝統的モダン・ジャズが盛り上がりを見せていて、SJ誌の紙面でもわかるがLPレコードの発売も非常に盛んだった。一方でバップ・リバイバルという流れもあって、アメリカでフュージョンやエレクトリック・ジャズに押されて食い詰めた大物ミュージシャンも続々来日したし、高度成長で豊かになった日本のジャズファンがコンサートに出かけたり、まだ高価だったLPレコードやオーディオ装置に金をつぎ込めるようになったという経済的背景も大きいだろう。しかしマイルス・デイヴィスが1975年の来日公演の翌年、体調不良のために約6年間の一時的引退生活に入り(1981年復帰)、1973年以降同じく体調不良で半ば引退同然だったセロニアス・モンクも、19766月のカーネギーホール公演の後は、ウィーホーケンのニカ夫人邸に引きこもってそのまま隠遁生活に入ってしまった。ナット・ヘントフが、モダン・ジャズ黄金時代へのオマージュのような名著「ジャズ・イズ…」を書いたのも1976年である。ビル・エヴァンスはその後1980年に、そしてモンクも1982年に亡くなっている。アメリカにおけるモダン・ジャズの歴史が、当時一つの終わりを迎えつつあったことに間違いはあるまい。それから40年、当時あれだけあった日本全国のジャズ喫茶も、一部の店を除き今はほとんどなくなってしまった。