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2020/07/16

あの頃のジャズを「読む」 #4:ジャズの変容

油井正一
「アスペクト・イン・ジャズ」
2014 CDジャーナル・ムック
1960年代後半の日本は、戦後生まれの団塊世代が20歳前後となり、ロック、フォーク、ポップスなど軽音楽(死語?)への関心と需要が爆発的に増え、若者を中心に音楽全体の大衆化が一気に進んだ時代だ。それが、マイナーで難しい音楽だったジャズへの関心も増大させた。同時に、アメリカを中心にした海外のジャズやジャズ・ミュージシャンに加えて、日本国内で日本独自のジャズを追求するミュージシャンたちも、ようやく日の目を見るようになった。65年にバークリー留学から帰ってきた渡辺貞夫がボサノヴァ・ブームを巻き起こし、日野皓正のモダンなジャズ・ロックが映画やファッションでも人気となってフュージョン人気の先鞭をつけ、1970年前後からは富樫雅彦や山下洋輔が日本オリジンのフリー・ジャズで日本国内のみならず、世界のジャズ界をも驚かせるようになった。こうして日本におけるジャズはより多彩な音楽となって、限られた聴衆だけが好んでいた60年代の前衛的芸術音楽から、終戦後の50年代的ポピュラー音楽への道を再び歩き出す。ラジオ放送でも、FM東京の油井正一「アスペクト・イン・ジャズ」(1973 - 79)や、渡辺貞夫「マイ・ディア・ライフ」(1972 - 89) などが人気になって、全国にジャズとその情報が流れるようになった。

さらに、1977年からは田園コロシアム(後に読売ランド)の「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」、80年代に入ると、82年から斑尾の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」、86年から山中湖の「マウントフジ・ジャズ・フェスティバル」などがそれぞれ始まり、その模様はTV番組でも放映された。景気が良くなると資金が潤沢になって芸術の芸能化が強まる(エンタメ化する)、というのが資本主義社会の常だ(逆もまた真で、景気が落ち込むと芸能の芸術化が起きがちだ。80年代米国ジャズ界におけるフュージョンからW・マルサリスへの流れはその象徴だ)。70年代から続く好景気に支えられて、マイナーだった日本のジャズ界にもやっと金が回るようになり、ロックやポップスでは普通だった、大資本スポンサー後援による大規模な野外ジャズ・フェス等が開催されるようになった(海外、日本人ミュージシャンともに、これらのコンサート出演者の豪華さは、今振り返るとすごいものだ)。こうしたイベントを可能にするほど聴衆が拡大した背景には、バブル景気と共に、80年代に主流となったフュージョンで、ジャズの大衆化(底辺拡大)がさらに進んだこともあっただろう。もちろん、それでもロック、ポップス、歌謡曲などに比べたら比較にならないほど小さなマーケットと聴衆だったとは思うが、バブル期の80年代末にかけては、(表層的には)おそらく史上もっとも日本のジャズ界が多彩で活気に満ちていた時代だっただろう。

辛口JAZZノート
寺島靖国 / 1987 日本文芸社 
だが1980年代は、日本中のあらゆる分野で、日本人全体が浮かれまくっていたので、後で振り返ると実質的に何も残っていない……という、文字通り泡と消え、祭の後のような空虚さが感じられる時代だったとも言える。ジャズの世界も同じ印象で、実際、個人的に記憶に残るほど印象的なレコードも演奏もほとんどないのだ。ある野外ジャズ・フェスで、最前列で酒を飲んで「踊りまくる」聴衆を見ながら、後方でジャズ仲間と座って聴いていた寺島靖国氏(当時、客が減って経営が苦しくなっていたジャズ喫茶「Meg」の店主で、1938年生まれの戦中派)が、ため息まじりの感想を述べている記事をよく覚えているが、これが80年代日本のジャズの風景を象徴している。寺島氏は、こうしたジャズの変容と、相変わらず黒人や大物ばかり取り上げる権威主義、教条主義のジャズメディアに逆らい、無視されてきたマイナーな50年代白人ジャズを敢えて紹介するなど、あくまで個人の趣味を重視する「分かりやすい」ジャズの聴き方を『辛口JAZZノート』(1987) という処女本で打ち出し、これが(たぶん)当時の風潮に不満を持っていた多くのジャズファンの共感を呼び、大ヒットした(私も吉祥寺駅ビル2Fの本屋で初版を買った)。ジャズ喫茶店主や、他の著者によるいわゆる「ジャズ本」は、この本がきっかけとなって、その頃から90年代にかけて数多く出版されるようになった。私も、その後「テラシマ本」はほとんど読んだと思うし、「Stereo」誌や「オーディオアクセサリー」誌などで、快楽の泥沼オーディオ(?)に踏み込んでからの記事も愛読していたが、クリーン電源確保を目的にしたオーディオ専用ケーブルや屋内トランス設置はともかく、自宅の庭に「マイ電柱」を立てたあたりでさすがに引いた…(面白かったが、我が家には庭がないし…)。しかし、その後も2000年代に入ってプライベート・レーベルの「寺島レコード」を興すなど、常に超個人的趣味優先で、多少の迷走や暴走(?)があったにしても、寺島氏が先頭に立って、ジャズとは多彩な音楽であり、その聴き方も自由だという思想を打ち出して、世紀末におけるジャズとオーディオの世界の楽しみ方を広げてくれたことは確かだ。

吉祥寺 「Sometime」
話は少し戻るが、1970年代になると銀座や青山、六本木のような都心に、ライヴ演奏が楽しめるジャズクラブが何軒も登場し、80年代後半のバブル時代まで、店の数も増加し続けた。ただし増えたのは65年開業の老舗、新宿「ピットイン」のようにコアなジャズをひたすら聴かせる店よりも、ジャズのライヴ演奏と一緒に酒や食事も楽しめる「大人のジャズクラブ」である(バブル期の88年に開業した「Blue Note東京」は、その頂点だ)。さらに都心だけでなく、JR中央線沿線など郊外にも何軒かカジュアルなジャズクラブが出現し、ライヴ演奏がやっと身近で楽しめるようになってきたのも70年代後半だ(吉祥寺の老舗「Sometime」は1975年開店である)。60年代にジャズに熱中した青春時代を送り、その後中堅社会人になって、おまけにバブルで金回りのよくなった(?)団塊世代が、80年代に(カラオケに加えて)これらのジャズクラブの中心的客層になったのは間違いないだろう。

日本におけるジャズは、こうして70年代から80年代にかけて、暗いジャズ喫茶で(煮詰まった)コーヒーをすすりながら、深刻な顔をしてレコードを聴く「小難しい音楽」から、明るい屋外でリラックスして(たまには踊って)「陽気に聴くライヴ音楽」へ、さらに夜はジャズクラブで酒を飲みながら、ゆったりとライヴ演奏を聴く「おしゃれな音楽」へと徐々に変貌していった。そしてバブル到来と共に、80年代終わりに最盛期を迎え(最後のアダ花を咲かせ?)、90年代初めのバブル終焉と共に、1950年代からのいわゆる「モダン・ジャズの時代」も終わりを迎えたと言えるだろう。こうして振り返ると、戦後日本のジャズの盛衰は、良くも悪くも、団塊世代の人生の歩みとシンクロしていることがよく分かる。そしてそれから30年、モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』(2010)からも既に10年が過ぎた今は、演奏者の顔が見えない「匿名ジャズ」が、TVの中でも街中でも便利なBGMとなり、また日本中のクラブやバー、コンサート会場、ジャズ・フェスなどで、プロアマ問わず日本人ジャズ・ミュージシャンによるライヴ演奏が毎日のように聴ける時代になった。1960年代には前衛であり先端音楽だった日本におけるジャズは、今や誰もが自由に聴いて楽しみ、演奏できる普通の音楽の一つになったと言えるだろう。

吉祥寺「A&F」
ところで、インターネットで自由に音源を選べる昨今では、レコード音源を聞かせる昔ながらのジャズ喫茶は、一関「ベイシー」など地方の一部の老舗名店を除くと、今や発見困難なほど稀少かつ貴重な存在となった(客が来ないので当然だ)。たまにあっても、音量を絞ってBGM的に静かにジャズを流す店がほとんどだ。思えば、1970年代は吉祥寺を中心に都内の大方のジャズ喫茶に顔を出したが、当時まだ多かった60年代的な密閉感の強い、暗く、狭いジャズ喫茶が苦手だった私は(それが好きな人はもちろんいた)、吉祥寺の中でも比較的明るくゆったりとした「A&F」によく通った。ネットで調べても「A&F」はファンが多かったようで、新譜がよくかかったこと、音がこもらずにクリーンで気持ちが良かったこと、ママさん(大西店主の奥さん)もいて店の雰囲気が明るかったこと、などが理由にあげられているが、同感だ。他店に比べて敷居が低く、構えずに誰でも気楽に入りやすかったのである。当時は吉祥寺いちばんの老舗だった野口店主の「Funky」も、寺島店主の「Meg」も、まだ60年代の雰囲気が濃厚で、なんとなく空気が重く、店に入るのに勇気がいる感じだった(寺島店主などは、後年のオーディオ狂い時代と違って、暗く神経質な文学青年みたいだったし…。しかし後年アルコールを導入するなど方針転換してジャズクラブ的になったその「Meg]も、2018年についに閉店し、現在は同名の後継店になっている)。一方の「A&F」には普通に会話のできる談話室も階段をはさんで反対側にあり、聴取室側には JBL と ALTEC の2組の大型SPシステムが並んで置かれていた。「A&F」で知った名盤や当時の新譜も数多く、2つのSPシステムから交互に再生される、カラッとした開放的なジャズサウンドを聴きに行ったあの日々は、正直言って本当に楽しかったし、懐かしい(同店は2002年まで営業を続けたようだ)。

現代のジャズ喫茶
神戸・元町「JamJam」
現在、こうした古典的ジャズ喫茶の香りを残しつつ、高度なジャズサウンドを大きなスペースでゆったりと、かつ大音量で楽しめるのは、大都市圏では、私の知る限り神戸・元町の「JamJam」だけだ。昔のジャズ喫茶では普通だったレコード・リクエストは受けない、など店主の哲学も明快だし、店内は多少暗いが、昔のジャズ喫茶と違って広く、天井が高く、空間容量が大きいので、オーディオ的にも理想的な環境だ。また「A&F」と同じく、聴取専用席に加えて会話のできる席もある。2017年3月のブログ記事「神戸でジャズを聴く」で紹介しているが、初めて同店を訪れたときは、まさに70年代にタイムスリップしたのではないかと思えるほど感激したのを覚えている。私的理想とも言えるジャズ喫茶「JamJam」で鳴るジャズは、ライヴ演奏とは別種の、(音響に優れた昔のジャズ喫茶やオーディオショップ等で時々聴けた)ヴァーチャル・リアリティ的次元のジャズサウンドであり、同店は現代の大都市にあって唯一それが楽しめる貴重な「異空間」だ。未体験の人(もちろんジャズやオーディオに興味のある人)は、ぜひ一度訪問してみることをお勧めする。ちまちましたヘッドフォンによる脳内音楽でもなく、単に音がばかでかいだけの「爆音」でもない、スピーカーが実際に大空間の空気を震わせて、過去の名演を立体的に再現するリアルなジャズ・オーディオの世界と、半世紀前からの日本的ジャズの楽しみ方がどういうものだったのか、それらが実際に体感できると思う。同店には関西に出かけるたびに立ち寄ってきたが、今年はコロナ禍で行けないのが残念だ。今は阪神大震災以来の2度目の苦境に直面しているのかもしれないが、「JamJam」には、なんとか頑張って生き残って欲しい。

2020/07/03

あの頃のジャズを「読む」 #3:レコード

「幻の名盤読本」
スイングジャーナル
1974年4月
ジョン・コルトレーン(67年)、アルバート・アイラー(70年)の連続死で、1970年代に入ったアメリカでは既にフリー・ジャズもほぼ終わりつつあり、マイルスの電化ジャズが登場しても、ロックに押されてジャズ人気は相対的に下降気味だった。ところが一方、1970年代半ばの日本では、1950/60年代録音のアナログLPレコードが、いわば新譜と同じか、場合によってはそれ以上に価値あるものとして扱われていた。ジャズは、興味を持つと次から次へと聴きたくなる中毒性のある音楽なので、レコード・コレクターと言われる人たち以外の普通のジャズファンでさえ、ジャズ雑誌の「幻の名盤」特集などを、わくわくしながら読んで、当時はあちこちにあったレコード店を何軒も探し回ったりしていた。こうした動きに呼応して、60年代ほどではなかったにしても、アメリカのベテラン・ミュージシャンたちが盛んに来日していた(本国では仕事が減ってきたこともあって)。もちろん、70年代のジャズ新譜や、日本人ミュージシャンの演奏をリアルタイムで聴いて楽しんでいた人もいただろうが、大部分の「普通のジャズファン」は、まずは1950/60年代のマイルスやコルトレーンの名演や、それまであまり知られていなかったミュージシャンたちの名盤と言われるレコードをジャズ喫茶や自宅で初めて聴いて、その素晴らしさに感激していたと思う。都会の一部を除き、海外や日本のミュージシャンのライヴ演奏を聴く場も機会も当時は限られていたので、大方のジャズファンにとっては、たとえ過去のものであっても、ジャズの本場アメリカのレコードという音源が依然として魅力的かつ貴重だったのである。

いずれにしろ、おそらく60年代よりもずっと早く海外の音楽情報が伝わったはずにもかかわらず、70年代の日本には、リアルタイムのジャズシーンとは別に、アメリカと実際10 - 15年くらいのタイムラグがある「レコードを中心にした日本独自のローカルジャズシーン」が存在していたということである。これはやはり、既にあったジャズ喫茶という存在とともに、「スイングジャーナル」誌を中心とするジャズメディアが、レコード業界やオーディオ産業と共に作った特殊な日本的構造と言っていいのだろう。当時まだ若かった私のような新参のジャズファンは、知らずに洗脳されつつ、その世界を大いに楽しんでいたことになる。60年代はよく知らないが、オーディオへの関心を含めたジャズの大衆化、コマーシャル化を推進した1970年代の「スイングジャーナル」誌には、後で振り返れば功罪共にあるのだろうが、ジャズという音楽の面白さ、素晴らしさを、できるだけ多くの音楽ファンに知ってもらおうとする「志」も、同時に感じられたことも確かである(80年代以降は?だが)。特に、私が今でも何冊か所有している70年代に発行されたジャズレコードの特集号は貴重であり、解説付きレコードカタログとして非常にクオリティが高いものだ。

「私の好きな1枚の
ジャズ・レコード」
1981 季刊ジャズ批評別冊
『季刊ジャズ批評』は、当時はコアなジャズファンを対象としたジャズ雑誌で、『別冊』ムック本を定期的に出版していた。1981年の別冊「私の好きな1枚のジャズ・レコード」は、ミュージシャンや、作家他の各界ジャズファンが、それぞれ思い入れの深いジャズ・ミュージシャンのレコード1枚(計110人)について語った文章(1978/80既出文)を収載したもので、日本人がジャズレコードに寄せる独特の思いが全編に溢れている。執筆者の多彩さにも驚くが、中には、ジャズへの愛情のみならず、その人の人生までもが1枚のレコードを通して、しみじみと伝わって来るようなすぐれたエッセイもある。その後も同様の企画があったが、この時代に書かれた文章のような熱さと深みは当然だが望むべくもない。ジャズクラブのように、同一の時空間で演奏者と聴衆が共有する1回性の「ライヴ即興演奏」こそがジャズの醍醐味だ、と考えるモラスキー氏のような普通のアメリカ人(かどうかは分からないが)が、こうした日本人のレコード偏重を奇異に思ったのもまた当然だろう。特に彼は、聴き手(鑑賞側)というだけではなく、自分でもジャズピアノを弾く演奏側という立場でもあるところが視点の違いに関係しているように思う(一般に、ジャズ・ミュージシャンは過去に録音された自分の演奏にあまり興味を持たない人が多いようだ。現在の自分の演奏、前に進むことのほうが大事だからだろう)。

「レコード」に対するジャズファンのこの特殊な姿勢は、日本における明治以来の西洋クラシック音楽の輸入、教化、普及という受容史も大いに影響していると思う。つまり生演奏を滅多に聴けないがゆえに、複製代替物ではあるが、レコードという当時はまだ「貴重な」メディアを通して西洋の音楽を「拝聴する」、という姿勢が学校教育などを通じて自然に形成されてきたからだ。クラシック音楽と同様に、60年代には芸術音楽だと思われていた貴重なジャズのレコードを、つい「鑑賞する」という態度で聴くのも、普通の聴き手にとっては自然なことだった。ジャズを聴きながら「踊る」などとんでもない話で、じっと目を閉じて、音だけを聴いて演奏の「イメージ」を膨らませるわけである(踊らずとも、指や足でリズムはとっていた)。それ以前からあったクラシック音楽の「名曲喫茶」がそうだったように、たとえ再生音楽であっても「高尚な場と音楽」を提供する側(ジャズ喫茶店主)が、何となく偉そうで権威があるような立ち位置になるのも、クラシックの世界と同じ構造なのだ。「店内での会話・私語厳禁」という信じられないような「掟」を標榜していたジャズ喫茶があったのも、咳払いや、何気に音を立てることにもビクビクする、あのクラシックのコンサート会場で現在でも見られる光景と根は同じである。(行ったことがないので知らないが、アメリカのクラシックのコンサート会場でも同じなのだろうか? それともお国柄で、みんなリラックスして例の調子で聴いているのだろうか?)

Cool Struttin'
Sonny Clark / 1958 Blue Note
もう1点は「オーディオ」の役割とも関わることで、何度も繰り返し再生し、鑑賞できるレコードだからこそ、音や演奏の持つ「細部の美」に気づき、そこに「こだわり」が生まれる。これは芸術評価における日本的繊細さや美意識の伝統(特に陰翳美に対する)から来るもので、既にクラシック音楽鑑賞でこうした文化的伝統は形成されていた(アメリカ文化はダイナミックだが、基本的に何事も平板で大雑把だ)。そのためには再生される「音響のクオリティ」が大事で、生演奏を彷彿とさせるレベルのサウンドが望ましい。趣味のオーディオが際限なく泥沼化しやすいのも、この「高音質へのこだわり」のせいであり、本来ダイナミックでオープン、つまりどう展開するのか分からない「アメリカ的な大雑把さ」が魅力であるジャズという音楽と、スタティックで「整然としたミクロの美」にとことんこだわる日本的嗜好の融合が、日本におけるジャズの風景を独特なものにしてきた最大の理由だと言えるだろう。

特に1950年代後半のジャズレコードは、単なる1回性の即興演奏を録音したものだけではなく(プレスティッジの多くはそうだったらしいが)、ブルーノートやリバーサイドの名盤のように、スタジオに特別編成のメンバーを集めたり、ヴァンゲルダーのような優れた録音エンジニアによって高い録音クオリティを確保したり、プロデューサーのいる場で何度もリハを重ね、総合的にじっくりと作り込んだ「作品」という性格が強いアルバムも多かった(たとえば、1956年のセロニアス・モンクのアルバム同名曲<Brilliant Corners>の演奏は、リバーサイドのプロデューサーだったオリン・キープニューズが、25回の「未完成」録音テイクをテープ編集して完成させたものだ、という話は極端な例として有名だ。これはその後のマイルス/テオ・マセロ合作を経て、音楽ジャンルに関わらず、今では当たり前に行なわれている録音手法である。)。それらは確かに1回だけの「生演奏」とは違うが、繰り返して聴く価値のある演奏が収録された「ジャズ作品」と考えられていたし、事実優れた演奏やアルバムも多かった。だからソニー・クラーク Sonny Clarkというピアニストとその作品『クール・ストラッティン Cool  Struttin'』(1958 Blue Note) の存在を知らない、あるいはそのレコードに聴ける、翳のある独特のピアノの音色の魅力が分からないアメリカ人は、「本当にジャズを聴いているのか?」と思う日本人が多かったのである。

LPレコードに今でも人気がある理由の一つは、そうした時代の演奏とサウンドを再現するには、音源をデジタル化したり、圧縮したりして加工された音ではなく、当時のアナログ録音手法に則った再生方式の方が原理的に「より忠実で再現性が高い」、という考え方があるからだ。そして、たとえ疑似体験と言えども、それを最大限楽しむには、ジャズという音楽が持つエネルギーが聴き手に十分に伝わり、同時に演奏の細部も聞き取れるような高音質で、かつ音量を上げた再生が望ましいのである。こうした日本人の持つ嗜好や美意識、つまりは「オタク文化」を、米国のジャズ文化との比較を交えた日米文化論としてもっと掘り下げたら、モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』はさらに深いレベルの議論になったようにも思う。

Waltz for Debby
Bill Evans / 1961 Riverside
 
ジャズとは常に「生きている」音楽であり、毎回の演奏に「想定外」のことが起こるところがその魅力と醍醐味なのに、レコードという缶詰音楽は、いかに名演、素晴らしい録音であっても、同じ音が繰り返し聞こえてくるだけの、所詮は「想定内」のいわば過去の音楽にすぎない、という見方の違いが根本的な部分だろう。「ジャズ(音楽)はライヴがいちばん」という認識は、「音源」が簡単に、自由に入手でき、貴重なものではなくなった現代では当然ながら高まっているが、生演奏を聴く機会がまだ少なく、西洋音楽鑑賞法の伝統が濃厚で、芸術鑑賞に独特の視点があった半世紀前の日本の時代状況を考えれば、聴き手がジャズという音楽に向き合う姿勢(ジャズ観)という点で、(ジャズの歴史的背景云々は別としても)そもそも日米間には大きな相違があったのではないかと思う。だから上記日本側の見方とは反対に、「日本人はジャズが分かっていない…」という見方が米国側の一部にあった(今もある?)のもまた当然なのだろう。しかし、面白くもない下手くそなジャズライヴを100回聴くより、好きなミュージシャンが演奏する1950年代の名盤を、ジャズ喫茶や自宅の優れたオーディオ装置でじっくりと聴いて楽しんだ方がよっぽどいい、という考え方が一方にあることも確かだ。ビル・エヴァンスのライヴ録音『Waltz for Debby』のレコードを、エヴァンス好きな日本人が耳を澄ませてじっと聴き入っているときに、「ヴィレッジ・バンガード」の(たぶん)アメリカ人女性客がバカ笑いする大声がスピーカーから響きわたる……という絵柄も、よく考えると、ある意味で実にシュールだ。

2020/06/20

あの頃のジャズを「読む」 #2:1970年代

現代ジャズの視点
相倉久人 / 1967 東亜音楽社
私は1960年代の前半、田舎の中学生時代にビートルズ、レイ・チャールズ、ボサノヴァ等で洋楽の洗礼を受けた世代に属する。ジャズに興味を持つようになったのは高校に入ってからで、他のポピュラー音楽とは違う、そのサウンドのカッコよさに夢中になった。東大入試が中止になった1969年に大学に入った頃には、もう学生運動もピークを過ぎつつあったが、その後も学内は2年間バリケード封鎖されて授業もなかった。おかげで時間だけはたっぷりとあったので(金はなかったが…)、ジャズ好きな先輩から借りたり、自分で買ったわずかな枚数のLPレコードを毎晩繰り返し聴いたり、「ジャズ喫茶」に連れて行ってもらったりしていた。当時のジャズには、何より反体制、伝統破壊というアナーキーなイメージと、大人っぽい知的な音楽という魅力があり、学生運動に関わる一部の若者に特に人気がある音楽でもあった。左翼思想の強い先輩が多かったので、その影響を受けて、自分でも米国黒人史やジャズ関連の本を、わけもわからず何冊か読んだりしていた。たとえば生まれて初めて買ったジャズ本、相倉久人の『現代ジャズの視点』(1967 東亜音楽社)など、レベルが高すぎて当時は読んでも面白くも何ともなく、ちんぷんかんぷんだった(単に頭が悪かったせいかもしれないが、ジャズは、とにかくたくさん聴かないと分からない音楽だということを学んだ)。

この時代を振り返ってみて、また以降に挙げるような本を読んであらためて思うのは、ジャズを真に「同時代の音楽」だと感じていたのは1960年代半ばに青春時代を送っていた、私より少々年長の60年安保世代だということだ。だからジャズに強いノスタルジーを感じ、こだわりを持っているのは、やはりこの世代の人たちなのだろうと思う。私の世代は、「生き方」や「行動」と関連付けてジャスを捉えるようなことはもうなかったし、単にカッコいい大人の音楽、という見方でジャズと接していたように思う。とはいえ、自分の世代を含めたその後の聴衆もそうだが、いずれにしろジャズは、いつの時代も、ほんの一握りの人たちだけが熱中していたマイナーな音楽だったことに変わりはないだろう。

Return to Forever
Chick Corea / 1972 ECM
しばらくは全国どこの大学でも、まだ全共闘運動がくすぶるように続いていたが、それも70年安保と連合赤軍事件(1971-72)を境に一気に下火になった。ジャズ喫茶へ行くと、それまでの重いハードバップやフリー・ジャズに代って、カモメ(?)が飛ぶきれいな水色のジャケットに入った、穏やかで軽いチック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』(1972 ECM) がしきりに流れていた。もう政治の時代ではなく、この間までヘルメットをかぶってデモに出かけていた学生も、就職活動に精を出していた。ファッションのように政治思想とジャズを結び付けて語っていた人たちも、大抵は何事もなかったかのようにジャズから離れて行った。だから、半世紀前のチック・コリアのこのアルバムは、ジャズファンにとっては公民権、ベトナム、沖縄、安保など学生運動で世界中が騒然としながらも基調は「暗く重い」シリアスな60年代から、平和な時代を求める「明るく軽い」ポップな70年代への転換点を象徴するレコードだった(当時はクロスオーヴァーと呼んでいた)。どことなく世の中に「緊張感が漂っていた」60年代から、いわば「戦い済んで気の抜けたような」70年代へと日本は移行して行った。そして戦後の繁栄を謳歌していた時代が終焉し、ベトナム戦争がボディブローとなって徐々に落ち目になったアメリカ経済とは対照的に、80年代後半のバブルがはじけるまで、その後の20年間、日本はほぼひたすら明るく軽い時代へと邁進する。ジャズを含めた音楽全体への嗜好も、当然こうした時代の風潮を反映したものだった。

今になって振り返ると、1970年代の日本はジャズの最盛期だったようにも見えるが、戦後の50年代に輸入ポピュラー音楽、ダンス音楽として大衆化し、続く60年代になると新しい前衛音楽芸術として認知され、思想や文化としても大いに盛り上がった 「モダン・ジャズ」が、徐々に芸術から芸能(商業音楽)へと再び変質してゆく過渡期(あるいは、いわゆるジャズが終わりつつあった時期)だったとも言えるだろう。私の世代は、60年代と違って若者音楽の中心は既にジャズではなく、ロックやフォーク、ポップスに移行しつつあった。つまりジャズが完全に「大人の音楽」として定着し、多様化し始めた微妙な時期に、遅れてジャズの洗礼を受けた世代なので、この「芸能か芸術か」という問題には妙に敏感なのだ。何もかもがエンタメ化し、カネにならない芸術、カネに換算できない芸術は無価値だとすら思われるようになった現代から見ると信じられないような話だが、あの時代は、「芸術」を食い物にしていると思われていた「商業主義 commercialism」への反発が強く、ジャズはもちろん、フォークやロックの一部ミュージシャンですら、商業主義、画一主義の象徴であるテレビには背を向けていたほどなのである。(昨今のWHOやIOCのような世界的機構の動きが露骨に示しているように、半世紀後の21世紀となった今は、分野にかかわらず、もはや設立時の20世紀的理念や使命は消え失せ、ひたすらカネ、カネ…で動く利権集団や国際興行主のような世界組織ばかりが支配する、究極の資本主義に到達した。)

1970年代の日本のジャズ界は、マイルスが先鞭をつけ、ウェザー・リポートやハービー・ハンコックが後を継いだエレクトリック楽器を使ったフュージョンやファンク、60年代の政治的余韻をまだ残していたフリー・ジャズ、50年代のモダン・ジャズ黄金期を回顧するビバップ・リヴァイヴァル、チック・コリアやキース・ジャレットのような新世代ミュージシャンの登場、日本人ジャズ・ミュージシャンの活躍……等々、情報源たるジャズ雑誌と、ジャズ喫茶という空間を核にして、あらゆるジャンルのジャズが溢れていた時代で、聴き手はそれらを自由に選んで聴いていた。とりわけ、70年代の大方の聴き手にとっては、ジャズがもっと熱かった60年代には限られた場所でしか聞けなかった1950/60年代の「本場アメリカ」のジャズを、立派なオーディオ装置のあるジャズ喫茶だけでなく、自宅のステレオで気軽に聞け、黄金時代のジャズとその時代を「追体験」できるということが単に楽しくて仕方がなかったのだ。やっと手に入れたLPレコードに針を降ろした瞬間、まるで缶詰を開けたときのように、その時代(主として50年代アメリカ)の空気が一気に部屋中に広がるあの快感は(前に書いたタイムスリップ感覚である)、ジャズファンなら誰しも覚えていることだろう。

ジャズ喫茶広告
1976年「スイングジャーナル」
私の場合、毎月そうしたLPレコードを何枚も買って自宅で聴いたり、ジャズ喫茶に通って聴くようになったのは、1973年に大学を卒業して就職してからだ。銀座や新宿を中心とした60年代に有名だった老舗ジャズ喫茶に加え、吉祥寺をはじめとする都内の各所や、地方の有名ジャズ喫茶の多くが開店したのも70年代前半である。それまで高価だった輸入盤に代る比較的安価な国産レコードの発売と、それを再生するオーディオ機器の隆盛が、ジャズ喫茶の増加と国産レコードの販売にはずみをつけた。この流れを「スイングジャーナル」のようなジャズ雑誌が作り、また煽った。ジャズ評論家とは別に、菅野沖彦、岩崎千明のようなオーディオ評論家がジャズ雑誌にも登場し、ジャズとオーディオの魅力を語り、音響ノウハウを伝え、読者を啓蒙した。また当時の有名ジャズ喫茶店主なども雑誌に登場して、自店のオーディオ装置を紹介したり、解説したりしていた。1950年代を源流とする、この「ジャズ(ソフト)とオーディオ(ハード)の組み合わせ」こそが、70年代以降のジャズの普及と大衆化を促進し、同時に日本独特のジャズ文化を創り上げた最大の要因であり、需要と供給両面でそれを後押ししたのが当時の日本の経済成長だった。

ジャズとオーディオは、録音再生技術の進化と呼応して、歴史的に海外でももちろんワンセットで発展してきた(クラシック音楽と同じく、1960年代までは、ジャズが主としてアコースティック楽器による音楽だったことが要因の一つである)。しかし、一般人の趣味としてのオーディオが、主として富裕層のものだった欧米に対し、日本では富裕層ばかりか、私のような普通のサラリーマンまで含めた「大衆的な趣味」になったところが大きな違いだろう。もちろんこれには、安価で高品質なオーディオ機器を製造する日本の電機メーカーの発展が寄与していたし、それを支えた購買力を生んだ日本の経済成長が背景にあった。その一方で、高額な海外の有名ブランド・オーディオ機器への強い憧れもあった。ジャズ喫茶がそのショールーム的役割も果たし、当時のジャズ&オーディオファンを啓蒙し刺激した。壁の薄い六畳一間のアパートに、JBLの大型マルチウェイSPやALTEC の劇場用大型PAシステムを持ち込んで、少音量でジャズを聴く……という、海外では想像もできないシュールな楽しみ方をするなど、まさしく日本的、ガラパゴス的趣味世界だろう(趣味なので、人に迷惑さえかけなければ、何だっていいと個人的には思う)。正直言って私の場合も、もしもオーディオにまったく興味を持たず、単に音楽としてのジャズを聴くだけだったら、たぶん80年代初めには完全にジャズから離れていたと思う。70年代後半からフュージョン全盛時代になって、つまらないと思いつつも、また音源がLPからCDへ、さらにデータへと移行し、ジャズの活力もさらに失われて行って、何度か聴くのをやめた期間があっても、聴き手としてジャズと関わり続けて今日に至っているのは、オーディオを介して「黄金期のジャズレコード」(音源)を再生し、その素晴らしさと奥深い世界を味わうことを趣味としてずっと楽しんできたからだ。そして、オーディオの世界もジャズに劣らず深く、「聴くー読むー考えるー(また聴く)」というループにはまりやすいので、ジャズとオーディオというコンビは、この点でも非常に相性が良いのである。

ジャズ喫茶論
マイク・モラスキー

2010 筑摩書房
マイク・モラスキーは『戦後日本のジャズ文化』(2005)の中で、アメリカのライヴ演奏重視のジャズの世界に対し、レコード再生を主とする日本独特の奇妙なジャズ喫茶文化を、意図して挑発的な視点で取り上げた。その後、関係者の話を直接聴取すべく、日本各地のジャズ喫茶を現地取材したり、当時を知る人たちにインタビューするといったフィールドワークを通して、更に議論を深めた『ジャズ喫茶論』(2010 筑摩書房)を発表した。そのモラスキー氏が初来日したのが1976年ということなので、彼はまさにこの時代に東京他のジャズ喫茶を巡って驚いていたわけである。この本はアメリカ人が書いているので、当然だが、よくある「ノスタルジー」としてのジャズ喫茶回顧という視点ではなく、レコード再生音楽を提供する当時のジャズ喫茶が、いかに日本独特の「非ライヴ・ジャズ空間」を創出し、ジャズの普及や理解を深める機能と役割を担っていたか、それが日本の特殊なジャズ文化の形成にどんな影響を与えたのか、その背景には何があったのか……等を分析、考察したユニークな文化論的エッセイである。ジャズ喫茶に通った経験のある我々さえ知らないような細かな情報を拾い集め、それを日本人には難しい客観的視点で分析しているので、興味深い指摘が多く、本書も非常に楽しめた。ただし、著者自身オーディオ音痴を自認しており、また話を複雑にするので、あえてオーディオ的な細部にはあまり触れようとしなかったようだが、日本独特の、このジャズとオーディオの関わりについての考察が文化論的に少々浅い、というのが私的印象だ(演奏する音楽家と、一般的な女性は、オーディオ的なものにあまり興味を示さないようである。これも実は、考察に値するテーマだと思っている)。それと、『ジャズ喫茶論』で指摘されている、ジャズレコードに対する日本人の強いフェティシズムの背景としては、「ジャズ」と「レコード」という要素以外に、歴史的に「欧米の異文化」や「繁栄の50年代アメリカ」に憧れていた当時の日本人の持つ本質的、潜在的性向も大きく影響していたと思う。

2020/06/06

あの頃のジャズを「読む」 #1:ジャズ本

以前から探していたラングストン・ヒューズ Langston Hughes (アメリカの詩人・作家 1902-67) の『ジャズの本』(1968/98 晶文社 木島始・訳)が中古本で最近入手できたので、楽しく読んだ。原書は1955年の『The First Book of Jazz』と、そこにいくつか他のエッセイ等を加えたもの。本書の訳者、木島始さん(1928-2004) は自身も詩人で童話作家なので、日本語訳もやさしく自然だ。ヒューズはハーレム・ルネッサンスを実質的に主導した黒人知識人の一人であり、本書は啓蒙書として、アフリカ、ニューオリンズ、ブルースの歴史を含めた「ジャズの起源」、「ジャズとは何か」を構えずに、子供にも分かる「絵本」のように、やさしく、短く、分かりやすく解説しているのがいちばんの特徴だ。どうしても知識偏重になりがちな日本のジャズ本のように、ごちゃごちゃとした情報や能書きのないシンプルな表現だけに、かえって素直に頭に入る(日本にはこういうジャズ入門書はない)。数多く挿入された、クリフ・ロバーツ Cliff Roberts (1929-99) の温かみのある、精密で洒落たイラストを見るだけでも楽しい(表紙絵も)。1955年出版の本がベースなので内容的には今や古典だが、ビバップ時代まではカバーしているし、「目からうろこ」といった意外な事実も書いてあるので、ジャズの何たるかを知りたい初心者から、頭の中を一度整理したいベテラン・ジャズファンまで、誰もが楽しんで読める素晴らしい「ジャズの本」である。

ド素人ながら長年ジャズを聴いてきたので、内外の「ジャズ本」の類もたくさん読んできた。今はインターネットで調べれば、「事実」に関してはほぼ何でも分かる時代だが、それらは出所不明の情報も多く、また所詮は断片情報なので、何かをまとめたり、ある観点で理解しようとすると、結局のところかなりの時間と労力を要することが多い。その点「本」というのは初めから、あるコンセプトに基づいて情報を集め、整理した知的パッケージになっているわけで、信頼できる著者や出版社が手掛けた良書なら、一読しただけで、著者や編者の観点でまとめた情報なり思想なりが読者に正確に伝わってくる。椅子に座っても読めるし、寝る前にベッドに寝転んで読み続けることもできる。電気もいらず省エネだし、PCやスマホの明るいディスプレイより目も疲れない。長い歴史のある紙媒体の本は、いくら電子情報時代になっても、やはり捨てがたい有効性と魅力を持っている。

もっとも、ジャズに限らず、音楽に関する本など読む必要はないし、音楽について考えたり語ったりする必要もない、ただ聴いて楽しめばいいという意見の人もいることだろう。音楽が日常の消耗品となり、まともに本も読まなくなった現代では、むしろそういう考えが主流なのかもしれない。しかしジャズは、「聴く」と知り(読み)たくなる、「知る(読む)」と考えたくなる、「考える」とまた聴きたくなる……という不思議な魅力を備えている音楽で、ジャズファンは昔から、自然にこの「聴くー読むー考えるー(また聴く)」というループにはまり、またそれを楽しんできたのではないだろうか(3回楽しめる)……というより、むしろ話は逆で、「そうなりやすいタイプの人」がジャズを好きになる、と言ったほうがいいのかもしれない。音楽は聴いて楽しけりゃそれでいい、というこだわりのない人は、たぶんジャズ好きにはならないからだ。

以前「ジャズを考えるジャズ本」というタイトルのブログ記事を書いたことがある(2018年2月)。そのときは (1) ジャズ史や伝記類(2) 有名レコード等の解説情報  (3) ジャズの聴き方の類、という一般的なジャズ本の私的分類に加えて、(4)番目として、「ジャズという音楽そのものを考える」、というコンセプトで、1990年代以降に出版された興味深い本を何冊か取り上げた。コロナ騒ぎのおかげで時間がたっぷりあるので、最近手持ちのジャズ本を読み返す機会があったが、そこで少々古い本を含めて何冊か面白い本をまた「発見」したので(歳のせいで、以前読んだ内容を忘れているのだ)、あらためてそれらを紹介してみたい。今回の選択コンセプトも前回と同じで、基本的には回想や、聞き書きではなく、あくまでその時代に書き手がリアルタイムで観察し、思考し、書いた文章で、いずれもジャズの面白さや奥深さを感じさせる本を中心にしている。

ところでタイトルの「あの頃の」とはいつ頃のことだ?と疑問を持つ人もいると思うが、本記事でいう「あの頃のジャズ」とは、日本でジャズがもっとも熱かった1960年代後半から、私が個人的にもっともジャズに熱中した1970年代を指す。それも単なるド素人ジャズファンという立場から見た状況と実体験をもとにしている。1960年代から70年代にかけて、ジャズについて日本で書かれた一部の本や文章には、当時は前衛芸術だったジャズに対する熱意と理解が想像以上に深いレベルにあったことを示すものがたくさんある。また様々な視点、角度からジャズやジャズ・ミュージシャンを描いた興味深い読み物も数多く、それらもまた捨てがたいので、今回は少々長いシリーズ記事になるが、そうした本も紹介してみたい。(ただし、どんな話をしたところで、所詮は「むかし話」になるので、これ以降は興味のある人だけ読んでください)。

戦後日本のジャズ文化
マイク・モラスキー
2005/17 岩波現代文庫
今回手持ち本をいろいろ読み返すきっかけになったのが、マイク・モラスキー(Michael Molasky  1956-)が書いた『戦後日本のジャズ文化』(2005青土社 /2017岩波現代文庫)という本である。この本は著者が初めて日本語で書いて発表した本だという。ジャズを通して戦後の日本文化の諸相を観察、分析したアカデミックな内容の本(論文)だが、いくらジャズピアノも弾くジャズ好きな学者(現在は早稲田大学教授・日本文化研究)とはいえ、米国(セントルイス)生まれのアメリカ人が、これだけの質と量の日本語の文章(しかも論文)を書けるというところに、英日翻訳に携わる人間としてはまず素直に感服する。日本人が、同じような議論と言語レベルを持つ英語の文章を書けるものか想像してみると、(アメリカ人が日本語で書く方がずっと難しいので)これがいかにすごい仕事か理解できる。進駐軍時代に始まる戦後日本のジャズ史を、音楽面だけでなく、文学や芸術全般へジャズが与えた思想的影響も含めて多面的に考察しており、それまで日本人が書いてきたジャズ本にはない対象の多彩さと文化論的、社会学的視点が新鮮だ。ここで観察、指摘されていることには、そうした時代を生きてきた日本人なら、なるほどと頷かざるを得ない点が多々ある。

米国では1950年代に、ビバップをさらに先鋭化したアヴァンギャルド(前衛)ジャズに触発された 「ビートニク (Beatnik)」 と呼ばれる一群の作家、詩人、画家、ダンサーなどの前衛芸術家が現れ、斬新な文学、美術、演劇等が誕生した(ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグなどの作家や詩人がその代表。その当時、前衛ジャズ側の中心にいたのがセロニアス・モンクとセシル・テイラーである)。その時代のジャズには、異分野の芸術家さえ触発し、作品への創作意欲を喚起するパワーが確実にあった。戦後の復興期を経て経済成長を始めた日本でも、50年代末のフランス・ヌーベルバーグ映画で使われたジャズと、61年(昭和36年)のアート・ブレイキーの来日に始まる本場のジャズ・ミュージシャンの来日ラッシュで、ダンスの伴奏音楽だったそれまでのスウィング・ジャズとは違う、(座って聴く)知的な「モダン・ジャズ」への関心がインテリ層や芸術家の間で一気に高まり、米国と似た文化現象が1960年代前半から遅れて起きた。モラスキーの本が普通のジャズ本と異なるのは、音楽やミュージシャンだけでなく、批評家(相倉久人、平岡正明)、作家(石原慎太郎、五木寛之、倉橋由美子、大江健三郎、中上健次、村上春樹等)、映画人 (黒澤明、足立正生、若松孝二)、詩人(白石かずこ他)、演劇人(唐十郎)たちが、当時ジャズに対してどのような反応を示し、行動したのか、その実例を挙げながら、ジャズが戦後の日本文化に与えた直接的、間接的影響も射程に入れて分析しているところだ。

日本人には当たり前すぎて、あるいは内部にどっぷりと浸りすぎて気づかない文化面での特徴を、外国人が外部からの視点で指摘するのは比較文化論の古典的手法であり、日本人はまた、昔からそれを好んできた(今や、テレビでもそうした番組だらけである)。しかしジャズという「米国原産の音楽」の日本における特殊な受容史を対象にして、自らジャズピアノも弾くアメリカ人学者が文化論として考察し、それを日本語で発表したところに、何よりも本書のユニークさと価値があるのだろう(サントリー学芸賞受賞)。この本を読んで「先を越された」と嘆いた人もいるそうだが、これは、日本人にも書けそうでいて、なかなかできないことなのだ。普通のアメリカ人には、米国文化の特質が実はよく見えていないのと同じことである。分かっていると思っている人が、実はいちばん分かっていないということはよくある。文化的事象の客体化、相対化は難しい。既に自分の身に起きてしまった変化、血肉として既に自分の一部となってしまった文化的影響を抽出し、本人がそれを上手に説明するのは想像以上に難しいことだからだ。その意味で、日本のジャズ受容史とその特殊性を、たぶん初めて可視化してくれたモラスキー氏の仕事には大いに感謝すべきだろう。

2020/04/11

モンクとニカとフランス

セロニアス・モンクとニカ夫人(パノニカ)の物語は、アメリカの天才黒人ミュージシャンと、イギリスのユダヤ系大富豪ロスチャイルド本家出身の男爵夫人が、20世紀アメリカで生まれた新しい音楽ジャズを介して、人種、貧富、地理的制約を超えた不思議な友情を生涯にわたって築いてゆくという、「事実は小説よりも奇なり」を地で行く実話である。活字でノンフィクション・ノベル化もできるだろうし、あるいは、ジャズを愛する映像作家とかコミック作家が、この壮大で不思議な物語を何とかヴィジュアル化してくれないものだろうか……とノンフィクションである『パノニカ』を翻訳中から思っていた。ところが、それをヴィジュアル化したコミックが実際に2018年に登場していた。

ユーセフ・ダウディ Youssef Daoudi というフランス在住の漫画家兼イラストレーター(モロッコ出身らしい)が、モンクとニカ夫人の人生と友情、当時のジャズの世界を、世界で初めて「コミック」として描いたのが、『Monk!: Thelonious, Pannonica, and the Friendship Behind a Musical Revolution』(2018 First Second /US) だ。英語では Graphic Novelと呼ぶらしい「大人向けのストーリー漫画」で、日本の漫画に比べるとセリフが少なく、絵でイメージを表現する傾向が強い抽象的な漫画と言えようか。私が買ったのは英語版の立派なハードカバー製の本で(電子版も、フランス語版もあるようだ)、素人目で見ても、金色を入れた2色刷りの美しくオシャレなコミックで、表紙絵に見るように、モンク独特の動き、ダンスを捉えたアーティスティックな絵もなかなか素晴らしい。海外のコミックと日本のコミックとの画風、作風の本質的違いはよく分からないが、この作品は絵柄が緻密で、大人っぽい。日本のジャズ漫画というと、昔はまずラズウェル細木のジャズマニア系ギャグ漫画があったし、ストーリー漫画としては『坂道のアポロン』(小玉ユキ)、現在も連載中の『Blue Giant』(石塚真一)などがあるが、この『Monk!』のようにグラフィック系の絵柄で、かつノンフィクション・ノベルのように実在のモデルを描いたストーリー系ジャズ漫画はこれまでなかっただろう。

物語は、マンハッタンからリンカーン・トンネルを抜けてウィーホーケンの自邸に向かうニカのクルマ(ベントレー)のカーラジオから、1981年のレーガン大統領暗殺未遂事件のニュースが聞こえてくるシーンから始まる(ニカは60歳代後半、モンクが亡くなる1年前という設定だ)。ニカ邸の自室ベッドで、きちんとスーツを着たまま相変わらず天井を見つめて横たわっているモンクに、帰宅したニカが「ピアノを弾いたら…」と勧める短い会話から、徐々に二人の回想シーンへと移って物語が展開してゆく。私が翻訳した『セロニアス・モンク』、『パノニカ』他のノンフィクション作品で描かれてきた事実や、逸話や、言葉から主要部分を抽出してストーリーとして上手にまとめ、それを詩的な絵と文学的な表現でヴィジュアル化している。したがって個人的には既視感と共に、伝記による活字の記憶と絵が一体となって、イメージしていたモンクやニカ夫人の姿が立ち現れ、あたかも実際に動き出したような気がして、読んでいて非常に楽しかった(ただしセリフは短いが英語なので、微妙な意味は翻訳しないと分からないが)。人間モンクとパノニカの苦悩、二人の友情も抽象的ながらよく表現されていると思う。またニューヨークの風景や、ジャズクラブの喧騒、ミュージシャンたちの姿と表情、演奏しているサウンド……など、画面からジャズがそのまま聞こえてくるようなリアルな描写も素晴らしい(このへんは、先輩格の『Blue Giant』の画風の影響もあるのか?)

Solo on Vogue
1954 Paris
アメリカでなかなか売れずに苦労していたセロニアス・モンクが、ヨーロッパ・デビューしたのが36歳のとき、1954年6月のパリ・ジャズ祭だった。フランス人男爵で外交官の夫と、その当時離婚を考えていたニカ夫人は、そのときニューヨークを離れ、実家のあるイギリスに帰省中だった。1951年に、兄ヴィクターのピアノの先生だったテディ・ウィルソンから教えられ、衝撃を受けた<Round Midnight>を作曲し、ブルーノートに録音した男セロニアス・モンクに一目会いたいと、ニカはニューヨーク中のジャズクラブを探したが、キャバレーカードを剥奪され、クラブ出演できなかったモンクに、それまで一度も会えないでいた。パリの「サル・プレイエル」にモンクが初出演することを知ったニカは、友人の著名な女性ジャズ・ピアニストで、モンクとも親しかったメアリ・ルー・ウィリアムズと一緒に急遽ロンドンからパリに飛ぶ。メアリ・ルーを介した、この1954年のパリにおける二人の運命的な出会いをきっかけにして、以降ニカ夫人は1982年にモンクが亡くなるまで、彼を支援し続けることになる。このとき、モンクのファンだったフランス人プロデューサーのシャルル・ドロネー (1911-88) が、フランス放送協会のラジオ番組向けに急遽現地録音したソロ演奏が、後にリリースされたモンク初のソロ・アルバムにして名盤『Solo on Vogue』である。ドロネーはその後も、モンク作品を中心にしたレコードをバルネ・ウィラン(ts)を使って制作するなど、モンクの音楽を好んでいた。

フランスとジャズの結びつきはニューオーリンズ植民地時代以来の歴史的なものである。1950年代になると、シドニー・ベシェ、ケニー・クラーク、デクスター・ゴードン、バド・パウエルなどが、人種差別の激しいニューヨークを離れて、彼らを芸術家として遇してくれるパリに次々と移住する。その後ヌーベルバーグと呼ばれた斬新な手法のフランス映画が、ジャズをサウンドトラックとして使用するようになり、MJQ、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、そしてモンク(1959『危険な関係』)も広く知られるようになる。さらに、シドニー・ベシェに憧れてソプラノサックス奏者となり、モンクの音楽を徹底的に研究して全曲モンク作品のアルバム『Reflections』(1959) を録音し、ついにニカ夫人の推薦でモンクのグループに一時期在籍していたのがスティーヴ・レイシー Steve Lacy (1934-2004) である。フリー・ジャズ時代の1965年に、米国を離れてヨーロッパへと向かったレイシーは、1970年にパリに移住すると、そのまま30年以上にわたってパリに住み続け、その間モンク作品を何度も取り上げた。このように、ジャズ全体とフランスの関係はもちろんのこと、モンクとフランスも歴史的、音楽的、運命的に奇妙に深いつながりがある。そして、上記のコミックや、以下の伝記、レコードのように、その後もモンクとフランスの不思議な関係は続くのである。

セロニアス・モンク
ローラン・ド・ウィルド
1997 音楽之友
謎多きモンクを描いた最初の評伝は、1987年のドイツ人批評家トーマス・フィッタリングのドイツ語版の本(英語版は1997年)である(ただし、この本の半分はモンクのレコード評だ)。次に出版されたのがフランス人ジャズ・ピアニスト、ローラン・ド・ウィルド Laurent de Wilde (1960-) による、フランス語版の『MONK』(1996 L'Arpenteur /Gallimard)である。ド・ウィルドは、米国のワシントンDCで生まれたフランス人で、幼少時からフランスで育ち、パリの名門高等師範学校で哲学、文学を専攻して卒業した後、米仏を行き来しながらジャズ・ピアニスト、作曲家として演奏活動を行なってきたミュージシャンだ。そのド・ウィルドが崇拝するモンクを描いたこの本は、パリのカフェ「ドゥ・マゴ Les Deux Magots」主催の音楽書籍賞である第1回ペレアス賞を受賞し、多言語に翻訳されている(邦訳版は『セロニアス・モンク:沈黙のピアニズム』1997年 音楽之友社/水野雅司訳)。本国アメリカ人による英語版評伝は、1997年に女性伝記作家レスリー・ゴースが書いた『Straight, No Chaser』が最初だが、英語版の決定版というべき本は、歴史学者ロビン・ケリーによるモンク伝記『Thelonious Monk』(2009年) である。この本は、膨大な事例や史料を学者らしく一つ一つ検証し、それらをジグソーパズルのパーツのように埋め込みながら、人間モンクとその生涯、彼を支えた周囲の人たちを、アメリカ黒人史を背景とした大きな物語として描いた典型的な伝記だ。それに対して、音楽家モンクを「100年に1人の天才」と呼ぶド・ウィルドの作品は伝記的部分を織り込みながらも、モンク・フリークのジャズ・ピアニストである著者が、主として芸術的、技術的、美学的視点から観察、分析したモンクの天才性を、賞賛を込めて描いた「私的モンク論」というべき内容の本だ。

モンクの「音楽」をここまで詳細に語った本は他にないと思われるが、本書(邦訳版)は絶版なので、私が読んだのは中古本を入手したつい最近のことである。フランス語的表現のゆえか、あるいは著者の原文の特徴のせいなのか、少し直訳的な硬い表現、文章ではあるものの、ジャズの演奏、技術、魅力を伝える独特の文学的筆致には、対象に近接したマクロ写真を見るように細部を浮かび上がらせる不思議な味わいがある。伝記としてモンクの全体像を本書に求めるのは無理があるが、ジャズ音楽家としてのモンクの天才性と、彼が創出した独創的音楽の「本当のすごさ」が具体的に伝わってくる緻密な表現は、モンクを敬愛するジャズ・ピアニストなればこそだろう(上記コミック『Monk!』にも、ド・ウィルドが分析したモンクのピアノ奏法の特色と思われる部分が登場している)。読んでいると、斬新ないくつかのモンク解釈に加え、ド素人的にも著者の考えに同意できること、頷ける点がたくさんあって、たぶんそうだろうと思っていたモンクのすごさとその美点が、ジャズ・ピアニストによる詳細な説明で再確認できる。したがってジャズをよく知り、モンクの音楽が好きな人にとっては非常に楽しめる本だ。ロビン・ケリーの実証的モンク伝記と併せて読むと、人間モンクの芸術家としてのイメージがより立体的に浮かび上がる。

New Monk Trio
Laurent de Wilde
2017 GAZEBO
ローラン・ド・ウィルドは、エレクトリック・ピアノによる演奏を含めて、これまでモンク作品を何曲か取り上げてきたが、崇拝するモンク作品の扱いにはずっと慎重だったようだ。しかし自著出版から20年、モンク生誕100年を記念する2017年に、モンク作品だけ(1曲のみ自作)を選んで制作したトリビュート・アルバム『New Monk Trio』をようやくリリースした。Jérôme Regard (b)、Donald Kontomanou (ds)というピアノ・トリオでは、全曲アコースティック・ピアノで以下のモンク作品に挑戦している。スローからアップテンポまで、バラエティに富む選曲だが、モンク作品らしく全体に空間を生かしたモダンな解釈で、やはりどこかフランス的香りのするエレガントな演奏を披露している。
Misterioso /'Round Midnight /Monk's Mood /Thelonious /Pannonica /True Fort /Monk's Mix /Four In One /Reflection /Coming On The Hudson /Locomotive /Friday The 13th

モンク、ニカ夫人とフランスの関係、そしてモンクに対して示してきた「フランス語圏」からの関心とその表現をこうして並べてみると、モンクは、ニューヨークはもちろんだが、背景としてのパリが誰よりもよく似合うジャズマンだという気がする。完璧な構造なのに、全体の造形がどことなく歪んで見え、予期せぬハーモニーや不思議なリズムで構成された「当たり前でない」モンクの音楽、モンクの自由、モンクの美は、アメリカよりも、むしろフランス的美意識、フランス的価値観こそが真に理解し、愛することができる世界なのかもしれない。

2019/09/07

京都を「読む」(2)

8月の『京都人の密かな愉しみーBlue修業中』の新作(#3.祇園さんの来はる夏)は、「1,200年早いわ!」と有名陶芸家の父にいつも怒鳴られ、その父親をオッサン呼ばわりする結構強烈なキャラだった見習い中の娘役が交代していた(結婚・出産のためらしい)。それに、大原で京野菜を作っていた江波杏子が昨年秋に急逝したために、劇中の設定でも亡くなっていた。たぶん微妙な物語がこれから展開するはずだった、同居する死んだ孫の友人との関係も、説明的になってしまった。両方とも突然のことなので、脚本を元から練り直したり大変だったと思うが、個性的な役者が急にいなくなると、ドラマ全体として、バランスや展開上どうしても違和感があるのは仕方がないだろう。新しい陣容と設定で2作目となる回に期待したい。

ところで第1シリーズは常盤貴子と団時朗主演の主軸ドラマと併行して、毎回短いオムニバス・ドラマが挿入されていた。8月の再放送では、その中から「私の大黒さん」、「桐たんすの恋文」、「逢瀬の桜」など京都らしいしっとりした作品が放映されていた。これらの中で、個人的に特によくできていると思ったドラマは、夏向きの異色編「眞名井の女」だ。豊かで良質な京都の「水」と、「井戸」にまつわる伝説(能、謡曲になっている)をモチーフにしたファンタジック・ホラーで、貴船神社への7日間の丑の刻参りで浮気夫を呪い殺そうとして果たせず、満願前日に井戸(鉄輪-かなわーの井)の前で死んだ女の幽霊が憑りついた井戸掘り業の青年を、名水・天之眞名井(あめのまない、市比賣神社)の女神が救う、という筋立ても各出演者の演技もとても良かった。この伝説の両井戸は、五条通りをはさんで南北に今も実在している。

1,200年の歴史を持つ古都に、因縁やいわれのある場所が多いのは当然だ。そもそも京都は ”怨霊” の都市なのである。なにしろ平安京そのものが、弟・早良親王の怨霊の祟りを恐れた桓武天皇が長岡京から再遷都した都市であり、よく知られているように、厄災から都を守るべく風水思想を導入して秦氏に設計させたものだ。菅原道真を祀った北野天満宮、崇徳天皇の白峯神社、あちこちにある御霊(ごりょう)神社も、元はと言えば、ほとんどが非業の死を遂げた人物を祀ったものであり、その祟りを鎮めるために、怨霊を御霊と読み替えて創建されたようなものだ。厄災をもたらす祟りという<負>のパワーを封じ込め、手厚い信仰によって祀り上げ、ご利益をもたらす<正>のパワーに転化させてきたわけである(祇園祭など、多くのの由緒もそうだ)。そうした歴史から生まれ、支配者から重用されてきたのが陰陽師であり、24節気のような京都独自の年中行事と約束事の起源もそういうことだろう。したがって、1,000年以上にわたって時代ごとに堆積してきた伝説や因縁話が街じゅう散在する京都は、魔界、心霊、パワースポットと呼ばれる不思議な場所には事欠かないし、それぞれの伝承が持つ歴史的背景のリアリティと重さという点で、他所の怪しげな因縁話とはわけが違うのだ。だから、そういう世界が好きな人にとっては、まさしくワンダーランドである。それらを解説した本は、それこそピンからキリまであるが、中では今やこのジャンルの古典とも言うべき『京都魔界案内』(2002 小松和彦 知恵の森文庫)が、写真や詳細な解説もあって、怖いこわい京都』(2007 入江敦彦 新潮文庫)と並んで、読んで面白くまた信頼感がある本だ。その後もたくさん出ているこの種の本は、だいたいは似たような内容なので、この2冊を読めば、有名どころと有名話のあらすじはほぼわかる。

こうしたスポットを訪ねることも含めて、昼の京都の街歩きには、やはり喫茶店(カフェ)での休憩が欠かせない楽しみだ。安価だが、狭くて、こ忙しくて、落ち着かないコーヒーチェーン店ばかりになった東京ではほとんど絶滅したかに思える 「昔ながらの喫茶店」 も、京都をはじめとする関西圏ではまだまだ生き残っているように思う。関西人はまず人と喋ることが好きだし、多少価格が高くても時間を気にせずに会話を楽しめ、飲み、食す場所として、「喫茶店」 という空間への社会的・文化的ニーズが今も高いのだと思う。'70年代に私が学生時代を過ごした神戸にも、”にしむら” や ”茜屋” といった珈琲名店が当時からあったが、クラシック音楽をカーテン越しのステレオで聞かせる “ランブル” というゆったりとした、こぎれいな音楽喫茶がトア・ロードにあって、そこへよく行った。三宮の ”そごう” で買った ”ドンク” のフランスパンを、昼食がわりに友人とその店に持ち込んで、コーヒーだけ注文してテーブルをパンかすだらけにして、長時間名曲を聴きながら食べていたが、店の経営者だったお姉さんは、常連だった我々には文句も言わず、いつもにこにこと笑って迎えてくれた(あの時代の日本は、街も人も、何だかもっとずっとやさしかったような気がする)。今の京都でも、”イノダ” の本店や三条店、”前田珈琲” など有名な喫茶店には何度も行ったし、京大前の ”進々堂” や、京大構内のレストランにも、山中伸弥教授に会えるかと思って(?)行ってみたが、どこも良い雰囲気だ。『京都カフェ散歩―喫茶都市をめぐる』(2009 川口葉子 祥伝社黄金文庫)で紹介されているように、レトロな雰囲気を持った名店、ユニークな哲学のある喫茶店、斬新な発想のカフェが京都にはまだまだたくさんある。この本は著者による写真に加え、地図もあるので、これからも探して訪ねてみたいと思う。ただし、喫茶店や飲み屋の寿命は一般的には短いので、中にはもう閉店してしまった店もあるかもしれない。京都にも昔('70年代まで)は本格的ジャズ喫茶がたくさんあって、マイルス・デイヴィスやセロニアス・モンクまで顔を出したらしい、名物マダムのいた ”しあんくれーる”(荒神口)のような有名店もあったが、今はほぼ普通のカフェになった “YAMATOYA” など数軒だけになってしまったようだ。神戸元町の “jamjam” のような、伝統的かつ本格的ジャズ喫茶はもうなさそうなのが残念だ。この街は、学生が多いこともあって新しいもの好きなので、”流行りもの” の盛衰には敏感なのである。

夜の京都もゆっくり楽しみたい。京都通いの最初のころは、名店と言われる何軒かの料亭にうれしそうに行ってみたが、すぐに、その世界はもう十分だという気がした(何せ高いし)。もっとリーズナブルな値段で、うまい料理や酒を味わいたいと思うのが人情だろう。今は情報としてのグルメ本は山ほどあるが、『ひとり飲む、京都』(2011 太田和彦 新潮文庫)は、そうした世界を文章でじっくり語っているので、読んで楽しい本だ。それも年に2回、各1週間だけ、京都に一人で住み、暮らすように毎晩気に入った店を何軒かはしごして酒を飲む、というコンセプトである。実は私も数年前に、真面目に移住を検討していて、下調べもかねて1ヶ月ほど京都に滞在する計画を立てたことがある(この本を読む前だ)。京都で暮らすようにして、観光客の少ない真冬の京都をじっくり歩いて楽しもうという魂胆だった。ウィークリーマンションとかも検討したが、根が面倒くさがりなので、結局は駅近くの手ごろなビジネスホテルに、一人でとりあえず2週間滞在することにした。だが真冬の京都の寒さは想像以上で、あっという間に風邪をひいて高熱を出してしまい、情けないことに1週間ももたずにあえなく撤退した。そのとき思ったのは、昼はともかく夜の食事の大変さ(と寂しさ)だ。ろくに下調べもしなかったこと、また真冬ということもあって、わざわざ外に出かけて一人で飲んだり食べたりする気にならないのだ。一人暮らしをしていたり、一人飲みに慣れていたり、あるいはそれが好きな人はいいが、自分には不向きだということがよくわかった。考えてみたら、相手もなく外で一人酒を飲む、という習慣がそもそもない。というわけで移住計画も頓挫し、その代わりJRの宣伝通り、「そうだ…」と、思ったときに行くことにした(やっぱり、それが正解だった)。

太田和彦の盟友・角野卓造(近藤春奈ではない)も、『予約一名、角野卓造でございます。【京都編】』(2017 京阪神エルマガジン社)という本を出していて、そこでも同様の店を紹介している。この人も相当な京都好きらしく、しかも夜だけでなく、洋食、中華も含めた朝、昼食も楽しむグルメでもある。二人の対談も収録されていて、これも楽しい。ただ、この人たちは名前も顔も知られている有名人であることに加え、いわば一人飲みの達人でもあり、それに京都でこうした楽しみ方をするには、事前に相当の下ごしらえ(時間をかけ、金をかけ、人間関係を作る)をしておかなければ無理である。したがってこの種の本の一般人(たぶん男だけだろうが)の楽しみ方は、「読んで、ただ妄想する」ことである。写真も使わずに文字だけで、目に浮かぶように(すぐにでも行きたくなるように)酒や料理のうまさ、店のムードを描写する太田和彦の文才はさすがだ。角野卓造の大きめの本には地図に加えカラー写真が載っているので、こうした世界の雰囲気を実際に垣間見ることができる。また人物としての味わいもある人のようなので、こちらもやはり楽しそうだし、かつ食事はどれもうまそうだ

ここに挙げてきたような京都本をより楽しむためにも、都市としての京都の歴史を解説した信頼できる本を読んで、正確な基礎知識を身に付けておいた方がいいと思って何冊か読んでみた。京都〈千年の都〉の歴史』(2014 高橋昌明 岩波新書) はその中の1冊だ。この本は京都研究の学術書ではないが、遜色のない厳選情報を格調のある文体で綴った都市の歴史書であり、新書という限られたヴォリュームの中でコンパクトに京都の歴史をまとめている。ただし平安京から幕末まで約1,000年にわたる都市設計、支配者、社会制度、文化、宗教、民衆などの歴史的変遷を網羅しているので、どうしても浅く広く、かつ急ぎ足になるのと、次々に登場する固有名詞の数が多いので、歴史の苦手な人には読むのが大変かもしれない。私は元々歴史好きなので、高校時代以来忘れていた日本史を復習するいい機会になった(ただし読むそばからまた忘れているが)。特に平安京以来の洛中都市域が、支配者(藤原氏、平家、源氏、足利氏、秀吉など)によって本拠地、町割り、町名などが変遷する様が面白かった。また現在我々が目にしている京都の街並みや寺社の姿が、ほとんど豊臣秀吉、江戸幕府以降の改造、投資、整備、保護によって形成されたものであることもあらためて理解した。それ以外にも、たとえば京野菜の名高さと、その味の秘密が、大都市としての京都の糞尿処理の歴史と深く関わりがあること、パリやロンドン市中の道路が、18世紀ですらまだ糞尿にまみれていたのに対し、京都ではその何百年も前から肥料を通した循環処理プロセスがほぼ機能していたことなど、日本社会や文化の源泉を見るような目からうろこのトリビアもある。著者も硬い話におり混ぜて、時々息抜きのような個人的コメントを入れたりして、読みやすく工夫しているところも良い。大都市として1,000年以上の歴史を持ち、かつ首都として幕末まで天皇が居住し、20世紀には、米軍の原爆投下の第一候補地だったにもかかわらず、それを免れた強運を持つ京都は、やはり奇跡の都市と言うしかない。

2019/08/01

京都を「読む」(1)

京都では祇園祭も終わり、次の夏の大イベントは、お盆の ”五山の送り火” だ( ”大文字焼き” ではない)。元々京都好きだったこともあり、時間のある最近は毎年京都に行くようになって、もうかなりの回数になる。名所旧跡を含めた京都市街地の地図はおおむね頭に入ったし、JR、地下鉄、京阪、阪急、嵐電、叡電などを乗りこなせば、もう大体どこへでも行ける(バスはまだよくわからない)。「よく飽きないね」とか言われることもあるが、これはディズニーランドや USJ 好きの人が何度も通うのと同じことだ。京都は、「日本」を主題にしたテーマパークだと指摘した人がいるが、その通りである。何度行っても、見ても、1,200年の重層的な日本の歴史を背景にした尽きない面白さと魅力が京都にはあるからだ。こんな都市は、日本には(世界にも)他にない。京都は日本の宝である。名所旧跡や寺社巡り、食事処で、たとえボッタくられようと、時にはダマされようと、観光目的でたまにやって来る非京都人(よそさん)にとっては、”時空を超えた京都” というイメージ の中で、いっとき楽しい時間を過ごせたらそれでいいのである(地元で普通に暮らす京都人にとっては迷惑だろうが)

最近では、高台寺に登場した般若心経を読経するアンドロイド観音(写真:京都新聞)もその象徴だが、結構高い料金を払いながら、あちこちのアトラクションを巡って楽しむというシステムも、テーマパークと一緒なのだ。TV番組に登場する血色の良い胡散臭そうな坊さんの説教や解説もそうしたイメージを助長しているが、寺社に限らず、各スポットのもっともらしい「物語」が、そもそも歴史的にどこまでが事実で、どこから先が後付けの作り話の類(伝説、神話、宣伝等)なのか、実のところはっきりしないケースが非常に多い。だから眉に唾をつけながらウソとホントの境目を見極めるのも、”よそさん” 流京都の楽しみ方の一つである。とは言うものの、よく観察すれば、人工のテーマパークには望むべくもない本物の歴史と、そこで生きてきた人間の存在もリアルに感じられることも確かだ。このフィクション(ウソ、ホラ)とノンフィクション(ホント)が、至るところで違和感なく不思議に溶け合っているのが京都という街であり、その魅力なのだと思う。(だが、そのキモである日本の歴史や文化という共同幻想と、それに対するある種のリスペクトを持たない外国人観光客の急増で、この絶妙なバランスを保ってきた都市イメージは急激に崩れつつあり、今や単なる観光テーマパーク都市への道を邁進しているようにも見える。)

当然ながら、京都に関する本もいろいろ読んできた。京都はとにかくネタが豊富なので、ネット時代の今でも、学術書以外に数え切れないほどのいわゆる「京都本」が出版されている。大きく分けると、普通の観光ガイド的な総花本、特定の地域や裏ネタに関する中級者向けガイド本、食を中心にしたグルメ本、歴史や文化遺産を中心にした正統的な都市ガイド本、日々の伝統行事や祭事を網羅した本(『京都手帖』など)、京都人気質や文化を語った ”京都論” 的な本、独特の差別の歴史を描いたタブー本、地理・地学本、怪しげな魔界・心霊本……といった具合でキリもなくある。しかし読む人のニーズによってもちろん違うだろうが、「京都本」はやはり京都ネイティヴの人が書いた本がいちばん参考になるし、読んで面白いと思う。単なる知識、情報の伝達だけでなく、ホメてもケナしても、たぶん行間に地元京都への愛情が感じられるからだろう。穴場や、地元の人が楽しむグルメ・スポットの案内など、かつて中心だった ”事実” に関する情報は、ネットとスマホ時代になって、しかも変化が激しいので、あまり有難味はなくなった。むしろネット情報だけでは見えて来ない、歴史、人間や文化面での面白み、深み、謎、といった知的情報を如何にして読者に提供するかが、紙媒体としての「京都本」の今後の存在価値だろう。当然だが、この種の本は出版時期や情報自体が新しければ良いというものでもない。京都伝統(?)の ”イケズ” の様相と分析などは、日本文化論として永遠に続くだろうし、江戸・東京という中央政権に対する怨嗟や対抗意識と歴史認識、大阪・神戸という関西近隣都市への競争意識や優越感もそうだろう。今はそれがさらに細分化されて、京都市と京都府、さらには京都の洛中と洛外の格差、ヒガみとか、目くそ鼻くそ的自虐ネタまで出て来て、まさしくケンミンショー並みの面白さだ。ただし、総じてこの種の「京都本」の語り口は、特に男性著者だと、いわゆる ”京男” らしさ(細かい、まわりくどい、しつこい、喋りすぎ……)が目立つ場合が多いような気がする。京都人が書いた本の中で、実際に京都巡りや、京都のことを知り、考える上で、個人的に参考になったり、読んで面白いと思った本をこのページで挙げてみた。いずれも今から10年以上前、2000年代に入って間もなくの本で、「京都検定」の開始など当時は京都ブームだったようだ。だが、今読んでも内容の価値と面白さは変わらない、つまり私的名著である。

街歩きガイドの類もずいぶん買ったが、結局これまでいちばん役に立っているのは、『京都でのんびり―私の好きな散歩みち』(2007)、『京都をてくてく』(2011  祥伝社黄金文庫, 小林由枝という同じ著者の文庫本2冊だ。ひと通り名所には行った人が、街歩きのときに持ち歩くのにとても適していて、コンパクトだが2冊でほぼ京都市内をカバーし、普通は観光客が歩かないルートや場所、地元の店なども紹介されている。何よりイラストレーターでもある著者(下鴨出身の優しく、きめ細かな心づかいが伝わって来るような地図イラストと、京都愛を感じるほんわかした手書きの文章がとても良い。両方とも出版されて大分経つが、情報的には今でもまったく問題ない(何せ相手は1,200年の歴史がある街なので)。

これも同じく女性の著者だが、こちらは壬生出身(亀岡在)の漫画家で、旅歩きコミックの元祖グレゴリ青山が、地元民ならではの視点と経験から、京都人や京都のおかしさを描いた何冊かのコミックだ。というか、そもそも私が京都本をあれこれ読むようになったキッカケが、確か “グさん” のコミック『ナマの京都』(2004 メディアファクトリー)の笑いがツボにはまったせいだったのだ。その後『しぶちん京都』、『ねうちもん京都』、『もっさい中学生』、最近の『深ぼり京都散歩』など、京都がらみの本は全部読んだが、どれも笑える。面白さの理由は、京都や京都人を観察する距離感、視点が、他の京都本と比べて段違いに普通で、対象に接近しているからだろう(近すぎて、デフォルメされているとも言える)。ただ漫画は人それぞれ好みがあるので、かならずしも笑いの保証はできないが、著者独特の画風とギャグ、ユーモアの世界に波長が合う人なら、間違いなく大笑いしながら、地元民の語る京都の裏話のあれこれを楽しめるだろう。特に初期の何作かは、”京都本・史” に残る傑作ではないかと思う(もう絶版かもしれないが…)。京都は、かしこまっったり、辛気臭い顔で語ったり、持ち上げるだけでなく、「笑い飛ばすもの」でもある、という見方が当時は非常に新鮮だった。

普通の読み物として、これまで個人的に面白いと思った本は、今や定番に近い本なのだろうが、やはり『秘密の京都』(2004)、『イケズの構造』(2005)、『怖いこわい京都』(2007 新潮文庫)など、多くの京都本を書いている入江敦彦の本だ。著者は西陣出身で、ファッション関係の仕事をしつつロンドン在住というエッセイスト・小説家だが、この代表作とも言える3冊は、それぞれ京都の散策ガイド、言語文化考察、京都にまつわる恐怖譚集で、いずれも楽しく読めた。特に『イケズの構造』では、京都ならではの言語文化、京都人ならではの視点を、京男ならではの語り口で開陳している。これを京男っぽい面倒くさくてイヤみな本と取るか、ユニークで興味深い本と取るかは読者次第だろう。”京都語” をそもそも外国語として捉えることや、『源氏物語』やシェイクスピアまで ”京都語” で翻訳してその真意を知ることなどで、単なる意地悪ではない、言語文化としての「イケズ の神髄」を伝えようとする視点や解説は、私的にはとても新鮮で面白かった。ロンドンで暮らし、イギリス人の文化や言語との共通点に気づいたり、京都を地球の向こう側から俯瞰するという経験は大きいと思う。その後現在まで、くだらない本も含めて似たような京都本が数多く出ているが、15年も前に、京都人独特のものの見方や考え方の世界を、学術的な読み物でも売れ線狙いの内容でもなく京都人自身が初めて真面目に語ったという意味で、その後の京都本の原点のような本である。併載されている、同じく京都人のイラストレーター・ひさうちみちおのイラストも、おかしい。

もう1冊は、同時期に出版され、今は文庫化されている『京都の平熱―哲学者の都市案内』(2007 鷲田清一 講談社)だ。こちらは下京区で生まれ育った、現象論・身体論というファッション世界を研究する哲学者である著者の視点から、市中を一巡する市バス206系統の周辺地区を巡りつつ、京都という都市と文化を読み解く試みである。らーめん、うどん、居酒屋など、普通の街の食事処から、通り、建物、寺社、学校、人物に至るまで、観光地とは別の素の京都を、普段の京都市民の目線で考え、語るエッセイだ。併せて写真家・鈴木理策(この人は京都人ではない)によるモノクロ写真が、普段の京都視覚イメージとして提供している。山ほどある京都本の中でも、京都という懐の深い都市を内側から捉えた知的な一冊である。たまたまだが、私的好みでここに挙げた4人の京都出身の著者のうち、女性2人がイラストレーターと漫画家であり、男性2人が共にファッションの世界に関連した仕事をしている――というように、伝統美術工芸に限らず、ヴィジュアル表現の世界と京都文化には常にどこか深いつながりを感じる。「京の着倒れ」とは、舞妓さん(装飾の極限)と修行僧(質素の極限)を両極とする、他所にはない振れ幅の大きいファッションの自由を許容する伝統が生んだものだ、という著者の説を読んで、その理由が分かった気がした

古典を含めて、京都を舞台にした「小説」は読まないが、そもそも今や存在の半分はフィクションである京都に、さらにフィクションを上塗りするような物語にはあまり興味を引かれないからだ。しかしNHKの『京都人の密かな愉しみ』は、フィクション(常盤貴子主演のドラマが軸)とノンフィクション(京都で今も続く伝統行事や文化の紹介)が同時に進行してゆくというユニークな構成で「京都人」という不思議な存在を描くテレビ番組で、こちらは2015年の初回放送以来、毎回楽しみに見てきた。ドラマと一体化した、阿部海太郎の美しいサウンドトラックのCD『音楽手帖』も買って楽しんでいるし、番組を書籍化し、背景や裏情報などをまとめた同名の本 (2018 宝島社)も読んだ。ドラマ編の主人公、「老舗和菓子屋の一人娘、跡継ぎで、いつも美しい着物姿の常盤貴子」という ”イメージ” が象徴するように、またドラマと併行して、今も生きている京都の様々な伝統行事等が紹介されるように、このフィクションとノンフィクションの絶妙な融合こそが「京都の実体」だと思ってきたので、この番組は実によく考えて作られているなと、放映中ずっと感心しながら見ていた。監督・源孝志のアイデア、脚本、演出は素晴らしいし、他の出演者たちも全員がとても良い味を出している。今はシリーズ2「Blue修業中」という別のドラマの途中で(常盤さんはもう出演していない)、今月はNHK BSで久々に新作の放送があり、また過去の放送分も集中的に再放送する予定らしいので、京都好きだが、これまで見逃していた人は、そのユニークな物語、美しい映像と音楽をぜひ楽しんでみては如何だろうか。

2019/03/15

ニカ男爵夫人を巡る4冊の本

The Baroness
Hannah Rothschild
2012
1955年、スタンホープ・ホテル自室でのチャーリー・パーカー変死事件の後、タブロイド紙やゴシップ記者に常に追い回されるようになったニカ夫人は、インタビューを含めて公の場から姿を隠すようになった。以降ニカ夫人への直接インタビューを公表した記録は、1960年の「エスクワイア」誌でナット・ヘントフが書いた記事 "The Jazz Baroness" だけで、それ以外で公に残されているのはモンクのドキュメンタリー映画『Straight, No Chaser』(1988年)の中で話す本人の姿と音声だけである。ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』にも、ニカ夫人はあちこちに登場するが、この本はあくまでモンクの人生を中心に、アメリカ黒人史とジャズ史、ネリー夫人や親族、マネージャーなど、モンクを支えた周辺の人々を描いた物語なので、当然ながらパトロンとしてその一人だったニカ夫人の人物としての造形にそれほど記述を費やしているわけではない。一方、今回出版したイギリスのハナ・ロスチャイルドの『The Baroness; The search for Nica, the rebellious Rothschild』(2012年)は、原書タイトルからもわかるように、ニカ夫人の実家であるイギリス・ロスチャイルド家、彼女の出自、経歴などを初めて詳細に語った本で、前半部で主としてロスチャイルド家に関わる物語、後半部でニューヨーク移住後のジャズとモンクとの関係を描いている。著者がロスチャイルド家の一員であることから、厳格な秘密主義を貫く同家情報へのアクセス上の有利さを生かして、ケリーのモンク伝記にはあまり書かれていなかったニューヨーク移住に至るまでのニカ夫人の半生と、その背景がよくわかる構成と内容になっている。またロスチャイルド・アーカイブから引用した幼少期のニカ夫人や家族を撮影した多くの初出写真は非常に貴重だ(残念ながら、邦訳版にはすべてを収載できなかったが)。海外の読者の反応を見ると、やはり前半のロスチャイルド家に関する部分により興味を感じている様子がうかがえる。これは物語としての新鮮さと面白さもあるが、謎多き同家に対する西欧世界の関心の高さを示すものと言ってもいいのだろう。しかし一方で、後半のニューヨーク移住後のニカ夫人とジャズやモンクとの関わりについて言えば、情報の絶対量が少なく、ケリーのモンク伝記など既存文献と重複した部分や引用が多いことと、著者のジャズに関する知識に限界があるという背景もあって、コアなジャズファンの見方からすると、やや物足りなさを感じる可能性はあるだろう。合わせ鏡のように両書を読めば、モンクとニカ夫人の実像が更に見えて来ることに間違いはないが、実はアメリカでは、この2冊の他にもニカ夫人を取り上げた書籍がほぼ同時期に出版されている。

Nica's Dream
David Kastin
2011
その1冊は、デヴィッド・カスティン (David Kastin) が書いた『Nica’s Dream; The Life and Legend of the Jazz Baroness』(2011年) である。カスティンはニューヨークの名門スタイベサント高校(モンクが中退した学校)で、英語教師をしながらジャズやアメリカ音楽に関する記事を書いてきた人で、2006年に「Journal of Popular MusicSociety」誌にニカ夫人に関する記事(Nica's Story) を寄稿し、それが好評だったこともあって、その後もインタビューや調査を続けながら、5年後の2011年にこの本を出版している。この本は未邦訳だが、その一部が村上春樹の翻訳アンソロジー『セロニアス・モンクのいた風景』(2014年 新潮社) の中に収載されている。ニューヨーク在住の米国人音楽ライターであるカスティンの本は、イントロをパーカー変死事件で始め、ニューヨークのジャズシーンにおけるニカ夫人の存在に比重を置いており、ハナ・ロスチャイルドの本に比べると、当然ながらジャズ関連情報の量、洞察の質の両面で、よりジャズ寄りだが、一方でニューヨークに来る前のロスチャイルド家側を中心にした彼女の来歴情報は、同家の強固な秘密主義によって入手するのが難しかったと著者自身が語っている。カスティンのアプローチは、ジャズとニカ夫人の関係を、ケリーと同じくノンフィクション作品として正攻法で正確に描こうとしている。一方、ハナ・ロスチャイルドの本はカスティンの淡々とした筆致とは対照的でニカ夫人本人や彼女の兄姉をはじめ、ロスチャイルド家の親族たちと実際に面識があり、彼らに対する情愛と一族の異端児の物語としてのロマンを常に感じさせるが、ノンフィクション作品としては細部が多少甘い部分がある。残されている記録の大元は同じなので、両書で取り上げているエピソードに大きな違いはないが、事実関係についての細部の語り口が違う。ハナは次作では小説 (『The Improbability of Love』2015) を発表しているように、映像作家でもある彼女は、細かな事実を積み上げてゆくことよりも、むしろストーリー・テラーとしての資質が強い人なので、ハナの本は物語性が強く、ノンフィクションというよりも小説を読んでいるような気がしてくるのが特徴だ。したがって、このへんは読者側の好みもあるだろうと思う。あるいは、ロスチャイルド家を中心としたニカ夫人の前半生とその人物像はハナの本で、ジャズやモンクの音楽との関係を中心とした後半生はカスティンの本で、という読み方もできるだろう(掲載写真も前者は主としてロスチャイルド家関連、後者はニューヨーク時代が中心である)。私がハナの本を邦訳した理由は、やはりロスチャイルド家側を核にしたニカ夫人の人物と経歴描写の具体性と物語性が新鮮で、そこにより強い興味を抱いたからだ。

Three Wishes
Nadine de Koenigswarter
2006 (仏) / 2008 (米)
もう一冊『Three Wishes; An Intimate Look at Jazz Greats』(2008年) は、文章ではなく、写真と短いインタビュー回答文によるユニークな構成の作品で、ニューヨーク時代のニカ夫人とジャズ・ミュージシャンたちの交流が、いかに広範かつ親密で、想像以上にものすごいものだったかという事実を衝撃的に示す、いわばジャズ・ドキュメンタリー書籍だ。上記の本では想像するしかなかった彼らの実際の交流の模様と関係が、ニカ夫人自らがポラロイド・カメラで撮影した数多くのジャズ・ミュージシャンの写真の中にリアルに残されているからである。そして、"If you were given three wishes, to be instantly granted, what would they be?"  (今すぐかなえてもらえる3つの願い事があるとしたら、それは何かしら?) というニカ夫人の質問に対して、セロニアス・モンクに始まる約300人のジャズ・ミュージシャンの回答(1961年から66年)をニカ夫人が書き留め、それが上記写真群と併せて掲載されている。中にはバド・パウエルのパトロンだったフランシス・ポードラの写真や回答(フランス語風の英語発音をニカ夫人がそのまま綴っている)や、秋吉敏子の名前もある。超有名人から無名のミュージシャンまで、おふざけから真摯なものまで、バラエティに富むそれらの回答は実に示唆に富んでいて、当時のジャズが置かれた状況から、個々のミュージシャンの性格、人生観、理想、悩み、苦しみまでが短い答の中から見事に浮かび上がっている。モンクやコールマン・ホーキンズ、ソニー・ロリンズ、アート・ブレイキー、ソニー・クラーク、ホレス・シルヴァーといったニカ夫人と特に親しかったミュージシャンをはじめ、マイルス、コルトレーン、フィリー・ジョー、ミンガスなど、綺羅星のようなモダン・ジャズのレジェンドたちの言葉と、大部分がウィーホーケンのニカ邸(Cathouse あるいは Catville)で撮影された、素顔をさらけ出してリラックスしている多くのミュージシャンたちのスナップショットが渾然一体となって、この本自体がまさにモダン・ジャズの世界そのもののようだ。ジャズファンにとっては、今にもそこから音が聞こえてきそうな文字通り夢のような本である。生前出版しようとして果たせなかったニカ夫人の遺志を継いで、ナダイン・ド・コーニグズウォーター(英語読み)という、ハナ・ロスチャイルドと同じくニカ夫人を大叔母とする、フランスのコーニグズウォーター家(ニカ夫人の元夫側)のヴィジュアル・アーティストが、ニカ夫人の子供たちの協力を得て編纂し、2006年にフランスで出版して好評を博し、その後英語版としてゲイリー・ギディンズの序文を加えて2008年に米国で出版されている。私が読んだのはこの英語版だが、仏語版も含めて編集した邦訳版も出版されている(2009年、P-Vine Books)。ただミュージシャンたちの英語の回答はほとんどが短いもので、イメージを膨らませながら彼らの生の言葉を原文で味わうのも楽しいので、興味のある人はぜひ英語版を読まれてはどうかと思う。掲載されているカラーとモノクロ写真の多くは構図も質もプロの撮った写真とは違うし、保存状態も様々だが、何よりミュージシャンたちの飾り気のない姿がどれも生きいきとしていて美しく、彼らを見つめるニカ夫人の眼差しがどのようなものだったか、ということが実に鮮明に伝わってくる。ちなみに、この英語版の表紙に使われている写真は、セロニアス・モンクと、モンクを長年支えたテナー奏者チャーリー・ラウズである。

Thelonious Monk
Robin D.G. Kelley
2009
ハナ・ロスチャイルドが制作したドキュメンタリー映画『The Jazz Baroness』(2008年)も含めて、これらはいずれもニカ夫人の没後20年(2008年)という節目前後に発表されており、おそらく関係者の多くが既に物故したことなどもあって、ロスチャイルド家からの資料提供や使用許諾などが以前より得やすい段階に入り、公表できる環境が整ってきたことが背景にあるのだろう。デヴィッド・カスティンは、ロビン・ケリーとは執筆中から交流していて、互いに情報や意見をやり取りしていたという。またカスティンの本には、ハナ・ロスチャイルドとのインタビューから聞き取った事例も引用されているが、ハナの本でも同じ話が本人の語り口を通して書かれている。またハナ自身もロビン・ケリーにインタビューしている。今回私が邦訳したハナの本『The Baroness』は、長い取材期間を経て、ロビン・ケリーのモンク伝記の3年後、カスティンの本の1年後、2012年に出版されているので、この当時3人のライターが、それまで神話と伝説に包まれていたセロニアス・モンクとニカ夫人の真の姿を描き出そうと、それぞれの視点からほぼ同時期にチャレンジしていた様子が伝わってくる。二人が生きた20世紀半ばという時代、あまりに個性的な彼らの破天荒な生き方、そして両者にまつわる謎を、ジャズという音楽を介して掘り起こし、捉えなおす作業は、3人のライターにとってはさぞかし刺激的かつ魅力的なものだっただろうと想像する。3冊の本には当然ながら重複する部分も多いが、実際どの本もジャズファンなら楽しんで読める内容であり、ニカ夫人に対するそれぞれの著者の視点、力点も違う。たとえば、ケリーは「モンクとニカ」、カスティンは「ジャズとニカ」、ハナは「私とニカ」というそれぞれ固有の視点で描いており、ノンフィクション作品として対象としているニカ夫人との距離感が異なる。しかし事実に関する情報という点からは、相互に補完し合う関係にもなっているために、これら3冊の本によってニカ夫人の実像がより立体的に浮かび上がって来る。そして第三者の文章では決して描ききれない世界を、ニカ夫人自身が捉えたミュージシャンの肉声とヴィジュアル情報でストレートに伝えている『Three Wishes』は、3冊の本が描く物語を補完し、そこに一層のリアルさを付加している本だが、それと同時に単独書として、ジャズ書史上でも唯一無二とも言うべき圧倒的な存在感と魅力を放っている。

これら4冊の本が2008年以降5年ほどの期間に相次いで発表されたことによって、モンクとニカ夫人にまつわる神話や謎が完全に解明されたとまでは言えないまでも、二人の実像らしきものがようやく見えてきたことは確かだろう。しかし、ハナも自著で触れているように、公に報道されたものを除き、故人の生前記録はすべて抹消するというロスチャイルド家の家訓と、伝記を含めて彼女に関するいかなる企画にも協力しない、とニカ夫人の子孫たちが合意していることもあって(『Three Wishes』の写真とインタビューは唯一の例外である)、今後彼女に関する新たな情報が出て来るかどうかは疑問だ。モンクとニカ夫人と特に親しく、いちばん身近で二人を見ていた存命のジャズ・ミュージシャンは、おそらくウィーホーケンのニカ邸で一緒に暮らしていたバリー・ハリスと、二人といちばん親しかったソニー・ロリンズだと思われるが、調べた限りハリスがこれまで二人について詳しく語ったことはないようだ。ロリンズも知人について語ることを基本的に拒否してきた人物のようなので、この可能性も低いだろう。またニカ夫人が、モンクを中心に幾多のジャズレジェンドたちの演奏をジャズクラブ、コンサートホール、ホテル自室、ウィーホーケン自邸で収録していた数百時間に及ぶとされる未公開の私家録音テープも存在するが、それらも依然としてロスチャイルド家の管理下にあって、門外不出と言われている。仮にこれらの録音がいずれ陽の目を見ることになれば、まさにロスチャイルド家が間接的に支援したツタンカーメン王墓発見並みの、ジャズ史上最大の未発表音源発掘となることだろう。それと同時に、音によるドキュメンタリーとして、上記4冊の本の世界にさらなるリアリティと深みを付加することは間違いない。これは20世紀のジャズを愛するジャズファンに残された、最大にして最後の夢というべきものだろう。

1982年にモンクが亡くなった後、予想外の死亡原因となった1988年の心臓手術の前日に、ニカ夫人は病室のベッドで、その少し前に亡くなった姉のリバティとモンクの二人がすぐそこにいるような気がする、と子供たちに語ったという。またモンクを長年献身的に支えたテナー奏者で、ニカ夫人とも親しく交流してきたチャーリー・ラウズが、ニカ夫人と同年同日の11月30日に肺癌のためにシアトルで亡くなっている。同じ年1988年に制作されたモンクのドキュメンタリー映画『Straight, No Chaser』には、ニカ夫人、ラウズの二人も登場しており、「そろそろ、このへんで…」と、まるでモンクが二人一緒に迎えに来たかのようである。知れば知るほどニカ夫人にはまだまだ謎と伝説が多く、その人物と人生に興味は尽きない。