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2025/06/29

ジャズ・バラードの森(3) For All We Know

"フォー・オール・ウィ・ノウ For All We Know" は、1934年に書かれた古い曲で (J. Fred Coots曲/ Sam M. Lewis詞)、短く、どちらかと言えば歌詞もメロディも地味だが、別れゆく男女の、やむにやまれぬ切ない気持ちが込められた非常に美しいラヴソングである(70年代にカーペンターズが唄ったのは同名異曲)。だが単に陳腐でセンチメンタルな恋歌ではなく、曲に品格があり、いかにもアメリカン・バラード的な温かさ、やさしさが歌詞とメロディ全体から伝わってくる名曲だ。だから唄い上げるよりも、哀切さと共に、歌の底に流れる、相手を思いやるやさしさが、さりげなく表現されている穏やかな歌唱や演奏が曲想に合っていると思う。『Lady in Satin』(1958) のビリー・ホリデイBillie Holiday の歌唱はこの点でまさに完璧だ。

Lady in Satin 
Billie Holiday 
(1958)
ホリデイは ”Sweetheart, the night is growing old/ Sweetheart, my love is still untold……" というヴァースから唄っている。    

    For all we know / We may never meet again
    Before you go / Make this moment sweet again
    We won't say "Good night(bye)" until the last minute
    I'll hold out my hand and my heart will be in it…… 

この曲のタイトル "For All We Know"(=as far as we know たぶん、おそらく) の適切な和訳は意外と難しい。歌詞の内容に即して、ふさわしい日本語タイトル名をいろいろ考えてみたが、なかなか良い案が出ない。やはり「分かってはいるけれど……(たぶん二人はもう二度と会えないだろう)」という哀切さと、諦念のニュアンスのこもった短い日本語が適切だろう。どうにもならない運命には逆らえず、二人の未来はもうあきらめるしかない、というニュアンスが欲しい。思い切り意訳すれば、「今宵限りの」という訳も可能かもしれない。つまりは「今日でお別れ」である(古いが…原曲も古いので)。

私有の女性ジャズ・ヴォーカルでは、ニーナ・シモン (1957)、とドーリー・ベイカー(1993)があるし、男声ではナット・キング・コール (1958) も有名だ。しかし上述した理由から、ゴスペル調でドラマチックに唄い上げるニーナ・シモンや、高らかな美声のナット・キング・コールよりも、最晩年(亡くなる前年)、人生を知り尽くし、彼岸に向かって歩き始めたかのように、ストリングスをバックに仄かな暗さを湛えて唄う『Lady in Satin』のビリー・ホリデイの枯れた歌唱が、私的にはやはりいちばん心に響く。声や技術の衰えとか、年齢による歌唱の質の問題はあるだろうが、そんなことなど超越した、歌に込めた情感の素晴らしさがこのアルバムのホリデイにはある(それは、バド・パウエルやモンクといったジャズの巨人たちの、最晩年の演奏にも感じることだ。)"I'm a Fool to Want You" をはじめ、 ホリデイのこのレコードは全曲が素晴らしいが、特にこの曲は短く、シンプルで、美しいがゆえに、なおさらだ。

The Art of the Trio Vol.3
 Brad Mehldau 
(1998)
インストではピアノ・ヴァージョンが多く、私が持っているピアノ盤では、デイヴ・マッケンナ Dave McKenna の相変わらず味わいのあるソロピアノ(1955 『Solo Piano』)、ギルド・マホネス Gildo Mahoness の古風だが技巧を凝らした華麗なトリオ演奏(1990 『Gildo Mahoness Trio』)、ブラッド・メルドー Brad Mehldauの端正でモダンなトリオ演奏 (1998 『The Art of the Trio Vol.3』)もあって、それぞれに美しい。ピアノ・トリオとしては、ラリー・グレナディア (b), ホルヘ・ロッシィ(ds)というメルドー・トリオの演奏が、ホリデイ盤と並んで曲想をもっとも美しく表現し、完成度が高いように思う。このアルバムは、冒頭の "Song-Song" をはじめ、他の曲も20代の若きメルドーのロマンチックで繊細な表現が美しく、名演ぞろいの傑作CDである。20世紀末の録音、あれから、もう30年近く経ったのか…という感慨もひとしお感じるレコードだ。

Jasmine 
Keith Jarret &
Charlie Haden
(2010)
原曲の持つ、哀しいが、素朴で温かな別れ歌のイメージをもっともよく表現しているもう1枚のピアノ演奏は、病から回復途上にあったキース・ジャレット Keith Jarretが、ベースのチャーリー・ヘイデン Charlie Hadenと久々にデュオで共演した『Jasmin』(2010) 中の1曲だ。キースが他のアルバムで演奏したこの曲の音源を私は聞いたことがないので、想像だが、これはアメリカン・バラードを好むチャーリー・ヘイデンの選曲かもしれない。ECMの他のキースのライヴ・アルバムのような、きらびやかで、きれいに余韻が響き渡る録音ではなく、キースの自宅スタジオでいわば私家録音されたかのような音源は、響きが抑え気味で地味だが、ピアノとベースの質感はよく捉えており、病を経たキースの訥々とした丁寧な演奏が、逆にこの曲の持つ素朴な美しさと哀切さをよく表現しているように思う。このCDは、他の演奏も同じムードを感じさせ、キースの他のレコードとはどこか異なる、しみじみと枯れた味わいを持ったレコードだ。

Guitar On the Go
Wes Montgomery
 (1961)
私が保有しているこの曲の唯一のギター盤が、Wes Montgomeryの『Guitar On The Go』(1961)で、メル・ラインのハモンド・オルガンとウェスのギターによるデュオによる演奏で、ホリデイ盤から3年後の録音だ。インディアナ・ポリスの盟友であるこの二人の、ブルージーでリラックスしたサウンドは、他のレコードのような哀切さはあまり感じられないが、この曲のメロディの美しさを別の視点で捉えた、さらりとした "For All We Know" を聞かせてくれる。実は、この曲を初めて聴いたのも、良い曲だとメロディを覚えたのも、高校生時代に生まれて初めて買ったジャズ・レコード、ウェスのこのアルバムだった。他の曲もすべてスムーズかつブルージーな気持ちの良い演奏で、私の愛聴盤の1枚だ。

Live in Tokyo
Chet Baker
 (1987 King)
そして、この曲のヴォーカルとインスト(トランペット)両方の極めつけが、ホリデイから30年後に録音されたチェット・ベイカーChet Bakerの『Live in Tokyo』(1987)ではないかと思う。オランダで不慮の死を遂げる前年の、最晩年の「東京」でのライヴ公演であり、チェット唯一の日本録音である。独特のアンニュイでブルージーなヴォーカルとトランペットが、「未来のない恋人たち」という曲想にピタリとはまって、私的にはビリー・ホリデイ盤と並ぶこの曲のベスト・トラックだ。私は行けなかったが、1987年、昭和女子大・人見講堂でのチェット最後の来日公演は、バブル真っ盛りで浮き立っていた一方で、どこかに「これでいいのか…?」と漠然とした不安や疲労も感じていた日本のジャズファンを癒し、魅了したことだろう。この2枚組CD(Memorial Box) は録音も非常に良く、音の粒立ちがきれいで、ハロルド・ダンコ Harold Danko (p), Hein van de Geyn (b), John Engels (ds)というトリオをバックにしたカルテットだが、当時ヨーロッパでリー・コニッツと双頭カルテットを率いていたダンコの、チェットに寄り添うような知的で控え目なピアノも美しい。リー・コニッツはチェット・ベイカーのことを、唄うがごとく自然にトランペットでメロディを生み出す真正のインプロヴァイザーだと評していたが、この曲を聴くと、まさにその通りだと思う。ヴォーカルとトランペットが、切れ目なく自然に流れてゆくようなチェットのサウンドは実に見事で美しい。

最晩年のチェット・ベイカーの他のスタジオ録音は、それなりに魅力があるが、時どきあの世に一緒に連れて行かれそうなほど暗いイメージがあるのであまり聴かない。だが、このCDはライヴ録音ということもあってそこまでの暗さはなく、むしろはかなく美しい。若い頃に比べると声に瑞々しさが欠けているのは仕方がないが、それでも持ち前の、囁くように深くどこまでも沈みこむヴォーカルと、底知れない孤独を表現するチェットのトランペット・サウンドには唯一無二の魅力があり、この名曲の最高の解釈と演奏の一つだと思う。東京公演を収めたこの2枚組CD(愛蔵版)には、他のスタンダード曲と共に、"Almost Blue" 、"My Funny Valentine"、 "I'm a Fool to Want You"などチェットの得意なバラードも収録されており、彼が最晩年に、それも東京で残した傑作だ。

2025/06/13

ブラッド・メルドーを聴きに(観に)行く

 5月11日(日)に、ブラッド・メルドーBrad Mehldau を聴きに「サントリーホール」へ出かけた。クリスチャン・マクブライド Christian McBride (b)、マーカス・ギルモア Marcus Gilmore (ds)という新トリオでの初の日本公演である。メルドー来日は2023年のソロ公演以来らしい。コロナ前は私も「東京ジャズ」や小曽根真など、年1回程度は大きなホールでのジャズ・コンサートに出かけていたが、コロナ以降の大ホールでのジャズ・ライヴは初めてで、しかも初の「生」メルドーである。そう言えば、ジャズのライヴ自体も、1年前の中牟礼貞則のソロ・ギター以来だ。音楽の性質上、ジャズ・ライヴの「ハコ」は小さい方がいいに決まっているが、大ホールにはお祭り的な華やいだ要素もあるので、それはそれで楽しめる。

この1-2年、腰の調子が悪く、都心へ出かけることもほとんどないので、東京都心の風景の変貌ぶりに驚いたが、もっと驚いたのはコンサートの客層だ。普通のジャズ・ライヴやコンサートではおよそ見かけない、若い観客、特に女性が多いのにびっくりした。私がこれまで出かけたジャズ・コンサートでは、中高年層、それもたぶん60代以上の人たち(ほとんどオッサン)が大半で、平均年齢も60から70歳くらいだった。今回は、満員(2000人?)の客層が老若男女万遍なくいることが何より驚きだった。都心の変貌と言い、まるで浦島太郎になったような気がした。コロナを境に(年寄りが減って) 客層が変わったということなのだろうか? 全体としてジャズ人気が高まったわけでもないだろうし、やはり「現役」メルドーの人気を反映しているのだろう。30年前の90年代キース・ジャレットの来日コンサートを思い出した。ビル・エヴァンス(70年代)→ジャレット→メルドー…と、特に女性は、やはりジャズと言えば白人ピアニストなのだと改めて実感した。

それとメルドーはクラシックの影響も濃く、しかもプログレッシヴ・ロック(プログレ)にも並々ならぬ愛着を抱いているので、普通のジャズ・ファンに加えて、クラシック・ファン、ロック・ファン層も相当来場していたと思われる。今回のトリオは東京で計4回(オペラシティ、紀尾井ホール2回、サントリーホール)、大阪(サンケイホール)で1回と、1週間で都合5回のコンサートをほぼ1000人以上収容の大ホールで開いたわけで、単純計算でもそれだけで五千人以上の観客を動員したことになる。1日で万単位のロックやポップスには到底及ばないが、ジャズでこの観客動員は異例だろう。まさに21世紀の多様性を象徴するジャズ界のスター、メルドーならではということだろう。5回のコンサート演目は後に発表された資料によると、各回9ー10曲だが、重複は数曲しかないので、このトリオは計50曲前後のレパートリーを準備していたことになる。

実は私はメルドーの「大ファン」とは言えない。90年代後半の初期のトリオ以降、出るCDはそこそこ購入してきたが、どうもこれまでロクに(真剣に)聴いて来なかったからだ。理由はおそらく、彼のバンドの特徴である独特のリズム(変拍子、複合拍子)のゆえに、メロディ重視のバラード曲を除くと、少なくともレコードでは20世紀のジャズ的グルーヴ、ジャズ的カタルシスがあまり感じられないからだった。クラシックも人並みには聴いているが、ファンというほどでもないし、ロック・ファンでもないし、当然プログレの特徴もよく知らないので、演奏の中に共感できる部分が少ないからだろう。総体としては、ウェイン・ショーターのモダンなサックスを聴いたときに感じたものと似ている。斬新で、すごいとは思うのだが、どうも没頭して聴く気が起きないのだ。やはり20世紀半ばのビバップ系モダン・ジャズ体験がデフォルトなので、少なくとも前進するリズムのメリハリが欲しいのだろう。とはいえ、今回のコンサートは久しぶりのライヴということもあって、もちろん楽しんだ。

「サントリーホール」のコンサートの演目(左表)で、いちばん気に入った曲は3曲目の "#26" という、メルドーのオリジナル曲だ。#26の意味はよくわからないし、まだ名前がない曲なのか?と思って調べたら、『Ode』(2012)というアルバムに収録されていた。曲の中盤で高速インプロに入ってからのトリオの疾走感は素晴らしかった。これはレコードでは決して味わえない快感で、ハイウェイ上を「地を這うように」疾走するかのような、重心の低い高速サウンドには興奮した。バラード以外のメルドーの演奏で初めてグッときた曲で、なるほどこういう魅力もあるのだと感心した。"East of the Sun" "The Nearness of You" などのジャズ・スタンダードは普通に楽しめた。アンコールでやったモンクの "Think of One" も意外で、よかった。

特に大ホールでのジャズのライヴ・コンサートというのは「夢」と似ている。聴いているときは結構盛り上がって、感激することもあるのだが、終わって時間が経つにつれて、いったい具体的に演奏のどこが、何が良かったのかよく覚えていないことが多いからだ。ライヴ録音CDなどを冷静に聴いていると、演奏後の聴衆の熱狂ぶりに「どこがそんなに良かったんだ?」と、思わず突っ込みたくなるようなケースが時どきあるが、あれも同時体験という現場の空気が生むものだろう。サウンドと時間が同時に流れているので、その最中には忘我の状態にすらなれるが、逆に後で思い出そうとしてもその流れそのものが思いだせないこともある。これは私が大雑把な人間なのと、多分歳のせいもあるが、ジャズの場合演奏する曲も、クラシックやポップスのように曲名がすぐに分かるとは限らないし、演奏自体もその場で生まれる即興演奏であり、音楽として複雑なので、素人は細部の記憶が曖昧になることが多い。それにレコードと異なり、ライヴの場合、見た目(ヴィジュアル情報)とサウンド両方を、同時に脳が追いかけて処理するので、メモリー上はインパクトが強いヴィジュアル情報が勝って、サウンド側の記憶が相対的に弱くなる。だから当日のステージ上の映像イメージは鮮明でも、演奏そのものの記憶が相対的に薄まるのではないか、という気がする。

昔のジャズファンは、いまほど潤沢に本物のサウンドに触れる機会もなかったので、それこそ真剣に「音そのもの」と対峙して聴いていた。あの1960/70年代のジャズ喫茶時代を生きた平岡正明氏などは、「ジャズは生がいちばんだが、ライヴは演奏している人間が邪魔、家で聴くと自分が邪魔だ。だからジャズ喫茶で聴け」という、名言(?)を残しているほどだ。だが普通の聴き手にとっては、ジャズのライヴ演奏はやはり、その場でパフォーマンス自体を楽しむもので、音や演奏内容の細部をあれこれ云々する場ではないのだろう。昔の山下洋輔Gのフリー・ジャズなどはその典型で、今でもサウンドを含めた「身体経験」として記憶している。これは観衆も受け身ではなく、奏者と共に場を構成するメンバーの一員だという意味でもあり、元々ロック・コンサートなどはまさにそういう場になっているが、日本の普通のジャズ・ライヴの場合、なかなかそこまで盛り上がるケースは少ないだろう。どうしても分析的に(頭で)聴く傾向が強いのが日本の伝統的ジャズファンで、そこがまたジャズの魅力でもあると思うのだが、今回のメルドーはそういう意味でも「観客」の反応がいつもと違い、スタンディング・オベーションもごく普通に自然に起きていた。

そういうわけで、例によって演奏内容はあまり鮮明に覚えていないが、気づいたのは、この新トリオはベースのクリスチャン・マクブライドの存在感が非常に大きいということだ。選曲(半分はスタンダードやポピュラー曲)も含めて演奏は基本的にはオーソドックスで、ベースをフィーチャーする場面も多く、逆に言うと以前のメルドー・トリオのサウンドとは違う方向性を感じた(ある意味では聴きやすい)。どんなバンド・セッティングにも柔軟に対応できるのがメルドーの特色でもあるので、今回のトリオはそういうコンセプトなのだろう。コンサート冒頭では、多分そのマクブライドのウッドベースのアンプ増幅が大きすぎて、ピアノにかなりかぶっているようで、メルドーのピアノの音がぼやけて聞こえた(私の駄耳のせいか?)。紀尾井ホールで山中千尋のエレクトリック・ピアノを聴いたときも感じたが、アコースティックなクラシック音楽向けに設計されたホールは音の響き(残響)が強いので、エレクトリック楽器だと、それが強調されすぎて会場の音が飽和 (クリップ)する傾向があるように思う。ホールのPAシステムの設定がどうなっていたのか分からないが、今回の座席の位置(1F中央よりやや後ろ右側)も関係しているのかもしれないし、こちらの耳が慣れたのか、PA調整したのか、徐々にそれも気にならなくはなったが…。マクブライドのプレイそのものは、相変わらずダイナミックで、ヴァーチュオーソぶりも遺憾なく発揮していた。ロイ・ヘインズ(昨年99歳で死去)の孫だというマーカス・ギルモアのドラムスは初めて聴いたが、マクブライドのベースとは対照的に、終始軽く漂うような浮遊感がある独特のプレイだ。メルドーのピアノには合っているように思った。ただしソロ部分では、もう少しメリハリをつけてアピールしても良いのでは、と個人的には感じた。

私はソニー・ロリンズの人生を描いた長編伝記『Saxophone Colossus』(Aidan Levy著) の翻訳を2月に終え、現在はブラッド・メルドーの自伝というか回顧録というか、第三者でもゴーストライターでもない、メルドー本人が書いて、2023年に英国で出版した書籍『Formation』の翻訳作業をしている。これはVol.1で、26歳までのメルドーの前半生を振り返っている。この邦訳版はおそらく来年に、そしてたぶんVol.2の原書もいずれ出版される予定だ。今回メルドーの実物(?)を聴きに(観に)行ったのも、どういう人物なのか、ミュージシャンなのか、この目と耳で確認したいと思ったからだ。私はジャズほどミュージシャン個人の思想や人格がストレートに表現される音楽はないと思っていて、それを演奏するジャズ・ミュージシャンという人たちの「頭の中」がどうなっているのか昔から興味がある。直接の演奏から受ける印象を補填する最良の情報が本人インタビューやライヴで、そこでリー・コニッツ、 スティーヴ・レイシーなど、本人が生で喋るインタビュー本を優先して楽しみながら翻訳してきた。以前メルドーが書いた、短いが印象的なエッセイを読んだことがあるが、そのとき、この人は普通のジャズマンと異なり、哲学的、作家的な文章を書く資質があるという印象を受け、興味を引かれた。これまで著名な海外ジャズ・ミュージシャン本人が、(本当に)自筆で自伝を書いたケースは限られていると思えるので、そういう意味でも非常に興味深い本だ。まだ20%くらいの進捗だが、これまでのところ、メルドーの「音楽」とこの「自伝」は、(当然ながら)構成、表現内容共に、まさに「相似形」だと感じているところが多々ある。

2025/05/31

ジャズ・バラードの森 (2)Soultrane

Mating Call
Dameron/Coltrane
(1957 Prestige)

日本語で「ソウルトレーン」 をネット検索すると、ジョン・コルトレーンJohn Coltrane が1958年2月にPrestigeレーベルに録音した初リーダー作のアルバム『Soultrane』がまず出て来る。だが、そのレコードにはここで言う曲・演奏 である "Soultrane" は収録されていない。また1970年代に日本でもTV放送されていた、米国のソウル・ダンス番組『ソウル・トレイン(こちらのスペルは "Soul Train")』とも関係ない。ややこしいが、これはピアニストで作曲家のタッド・ダメロン Tadd Dameron (1917-65) がリーダーのアルバム『Mating Call』(1957 Prestige) 中の1曲で、ダメロンが作曲し、カルテット(+ John Simmons-b, Philie Joe Jones-ds)で1956年にコルトレーンが初演した曲だと知ったのは、かなり後になってからのことだ。

"Soultrane" という曲名は、たぶん"Soul"と"Coltrane" からの合成語だろう(確認していないが)。アルバム『Mating Call』の録音は1956年11月なので、コルトレーンがドラッグ問題でフィリー・ジョーと共にマイルス・バンドをクビになった頃だろうが、いずれにしろ翌1957年7月から「ファイブ・スポット」で、モンクが初リーダーとなったカルテットの一員として誘われ、そこでモンクの下で修行・開眼する前、まだほぼ無名時代のトレーンの演奏だ。1956年と言えば、コルトレーンより一足早くドラッグを克服したソニー・ロリンズが『Saxophone Colossus』(Prestige) をはじめとして一気に何枚もレコーディングし、飛ぶ鳥を落とす勢いで台頭した年で、コルトレーンもロリンズの『Tenor Madness』(1956 Prestige) では一部共演しているが、当時ロリンズには大きく水をあけられていた。だからこの時代の演奏は、堂々としたロリンズに比べると、まだどこかぎこちない部分もあるが、逆にこの "Soultrane" などでは、後の名盤『Ballads』(1961 Impulse!) に通じる、飛躍前のコルトレーンの素朴で美しいバラード演奏が聴ける。

コルトレーンが吹く "Soultrane" を聴くと、半世紀以上前の学生時代、夜明け前の神戸の夜景を思い出す。大学の封鎖で授業もなく、やることもないので、毎晩、空がうっすらと明るくなるまで起きて本を読んだりしながら当時夢中になっていたジャズを聴いていたからだ。擦り切れるまで聴いたそのLPレコードは、ジャズ初心者だった自分で買ったばかりの、日本編集のコルトレーンのオムニバス盤(コンピレーション)で、コルトレーンの50年代の有名曲だけを集めたアルバムだった。"Soultrane" はその中の1曲で、たぶん私が初めて感動した「ジャズ・バラード」  だった。ジャズ・バラードの美しさというものを初めて感覚的に理解し、ジャズ全体への興味を深めるきっかけになった1曲だ。ダメロンの弾くシンプルで美しいピアノのイントロを聴いただけで、今でもじわりと懐かしさが込み上げてくる。続くコルトレーンのきしむような切ないテナーのサウンドも胸に沁みる。コルトレーンのバラード演奏は、いつ聞いても本当に素晴らしい。だから私にとってコルトレーンの吹くこの "Soultrane"こそが 「 ジャズ・バラード」 のデフォルトなのだ。

Plays Tadd Dameron
Barry Harris (1975 Xanadu)
1970年代半ばには、当時隆盛だったフリー・ジャズやフュージョンへの反動もあって、バップ・リヴァイバルというべき流れが生まれ、多くのベテラン・ジャズ・ミュージシャンたちがビバップ的ジャズを「新譜」で吹き込んでいた。『バリー・ハリス・プレイズ・タッド・ダメロン Barry Harris Plays Tadd Dameron』(1975 Xanadu) もそうしたアルバムの1枚で、多くのバップ曲を作ったダメロンの曲だけを演奏したピアノ・トリオ・アルバムだ(+ Gene Taylor-b、Leroy Williams-ds)。バリー・ハリス (1929-2021) はデトロイトのバド・パウエルと呼ばれていたほど、パウエルの影響を受けていたピアニストで、後進のピアニストたちを長年ニューヨークで指導してきた人としても有名だ。私はバリー・ハリスのファンだったので(本ブログ記事2017年4月「鈍色のピアノ」参照)、そのハリスの弾く "Soultrane"ときたら否も応もなく、当時すぐにこのレコードを入手した(Xanaduの質素なLPジャケットは、まあ置いておくとして…)。相変わらず渋く心に響くハリスのピアノから、ダメロンの美しく印象的なメロディが流れてくるのを聴いているときほど楽しい時間はなかった。このレコードは他にもバップ的名曲が並ぶので、ハリスのピアノが好きな人なら大いに楽しめる。

Gentle November
Kazunori Takeda (1979 Frasco)
もう1枚は、本ブログの別記事(2018年12月、「男のバラード」)でも紹介した日本のテナーサックス奏者で、早逝した武田和命(かずのり、1939-89)の最初にして最後のリーダー作『ジェントル・ノヴェンバー Gentle November』(1979 Frasco) だ。山下洋輔(p)、国仲勝男(b)、森山威男(ds) とのワンホーン・カルテットで、"Soul Trane"(このレコードでは、このスペルで表記されている)を含むコルトレーンにちなむ4曲と、武田の自作曲4曲からなるバラード集である。60年代には山下洋輔Gで活動し、フリー・ジャズの人と思われていた伝説のサックス奏者、武田和命が復帰し、予想を裏切る優しく穏やかなサウンドで演奏している。国や民族に関わらず人間の抱く感情に差はないと思うが、その「表現」の仕方はそれぞれ異なる。日本人奏者のジャズにおける感情表現も、当然日本的になるものだが、それを普遍的な表現にまで昇華させるのは簡単ではない。コルトレーンにはコルトレーンの美と素晴らしさがあるが、武田の吹く "Soul Trane"には、「日本人の男」にしか表現できない哀切さと抒情が満ちているのだ。カムバックした武田を支える山下トリオの控えめで友情に満ちたバッキングもそうだ。この演奏は、日本男児のバラードを見事に表現した名演である。その武田の死後、1989年に山下Gに加わったサックス奏者が菊地成孔だったというのも、今や有名な話だ。

Playin' Plain
Koichi Hiroki (1996 Biyuya)
"Soultrane" は、それほどポピュラーなジャズ曲ではないので、他の楽器で演奏したアルバムとして私が所有しているのは、廣木光一のギターソロ『Playin' Plain』(1996 Biyuya)だけだ。ガット(ナイロン弦)ギターによるジャズ・スタンダードのソロ演奏だけのレコードは、他にはジョー・パスしか私は知らない(ラルフ・タウナーが12弦ギターでやっている)。タイトル通り、原曲をシンプルに弾くというコンセプトを基本に、時に前衛的に、時にオーソドックスに、ガットギター一本だけで、ジャズ・スタンダードに挑戦するという姿勢が素晴らしい。さすがに師・高柳昌行の薫陶を受けた人だけのことはある。ここでの "Soultrane" も、シンプルに、スペースたっぷりの余韻を生かした個性的な演奏だ。他に"Everything Happens to Me", "Over the Rainbow", "Ruby, My Dear" などポピュラーなバラード曲も並ぶが、どれもユニークで聞き飽きない。武田和命と同じく、廣木光一のガット・ギター演奏からも、清々しい抒情という日本的な美が強く感じられる。このCDは私の30年来の愛聴盤だが、残念なことに今はもう入手できないようだ。中古CDのみになるが、探してみる価値はある。廣木光一は他にも、渋谷毅(p)との美しいデユオ・アルバムや、ボッサなどラテンの香りの強いユニークなアルバムも発表しているので、ガットギターのサウンドが好きな人は、是非これらの演奏を聴いてみることをお勧めしたい。

2025/05/11

映画『鑓の権三』を鑑賞する

昨年11月に火野正平が75歳で亡くなって、この4月からNHKの自転車旅『にっぽん縦断こころ旅』を田中美佐子が引き継いだ。私はその人選に大賛成だったが、あまりに自然な、違和感のないその引き継ぎぶりを見て嬉しくもあり、驚いてもいた。だが実は、その後継役が「あいつはいいよ。美佐子は女正平や」と、野生児ぶりが自分と似ているという正平氏の推薦でもあった、という経緯を最近の報道で知って、やっぱりそうだったのか、と納得した。二人の接点が今から約40年前、篠田正浩監督の『鑓の権三(やりのごんざ)』(1986年表現社/松竹)で、兄妹役で共演していたことも分かった。私は篠田監督の1969年の映画『心中天網島』(しんじゅう・てんのあみじま)が好きで、本ブログでもレビューを書いているが(2020年12月「近松心中物傑作電視楽」)、次の近松物でバブル期の『鑓の権三』は、当時まだアイドルだった郷ひろみ主演という派手なイメージもあって、これまであまり観たいという気が起きなかった。篠田正浩は同世代の大島渚、吉田喜重と並んで、1960年代の映画界では松竹ヌーベルバーグの旗手と呼ばれ、またそれぞれが岩下志麻、小山明子、岡田茉莉子という女優と結婚し、独立プロを設立して多くの作品を残している。その大島渚は2013年に、吉田喜重は2022年にそれぞれ亡くなったが、残された篠田正浩もこの3月末に94歳で亡くなってしまった。そこで今さらだが追悼の意も込めて、火野正平、田中美佐子が出演していた映画、『鑓の権三』を改めて観てみようと、ビデオでこの映画を鑑賞してみた。

『鑓の権三』の原作は、近松門左衛門の世話物・人形浄瑠璃『鑓の権三重帷子(やりのごんざ・かさねかたびら)』(1717年初演)で、これは『心中天網島』より3年早い作品だ。篠田監督としては、岩下志麻と中村吉右衛門を起用した『心中天網島』(1969年表現社/ATG)に次ぐ近松もので、スタッフも富岡多恵子(脚本)、武満徹/琵琶・鶴田錦史(音楽)、粟津潔(美術)と『天網島』と同じで、『天網島』が成島東一郎のモノクロ、『権三』が宮川一夫のカラーという撮影(カメラ)だけが違う。主役「鑓の(笹野)権三」は郷ひろみで、火野正平、田中美佐子に加えて岩下志麻、大滝秀治、河原崎長一郎、加藤治子などそうそうたる俳優が出演している。

『天網島』もそうだが、『権三』も享保時代の実話を元にして、近松が書き下ろした作品。実際の事件は、松江・松平家の茶道役・正井宗味が江戸詰中に、小姓役・池田文次(24歳)が妻のとよ(36歳)と密通し、享保2年(1717年)6月に駆け落ちした。正井が二人を追跡し、7月に大坂高麗橋上で「妻敵討」(めがたきうち:姦通相手の男を殺すことは公認されていた)したというもの。翌8月には、近松の作品を竹本座で初演したというから、デジタル時代も顔負けのものすごいスピード制作と上演だ。

原作は実話に沿い、映画も『天網島』と同様、ほぼ近松の原作に沿って作られている。戦のない開幕後100余年間に、武士の出世競争もすっかり様変わりして、武芸のうち茶道もその有力な要素となっていた。出雲の国・松江藩を舞台に、鑓の名手で、茶道にも通じ、しかも城下の俗謡で唄われるほど美男子で有名だった「笹野権三」を郷ひろみが演じ、出世争いのライバルだった「川側伴之丞」(かわづらばんのじょう)を火野正平が、その妹で、兄に内緒で権三と言い交わしていた「お雪」役を田中美佐子が演じている。権三と伴之丞の茶道の師で、松江藩の茶道の筆頭師範・浅香市之進(津村隆)が藩主と共に江戸詰の留守中であり、藩主の世継ぎ誕生を祝う殿中饗応の席で披露する「真の台子(だいす)」という最高峰の茶の作法を弟子の誰かに努めさせよと指示し、市之進の妻おさゐ(おさい、岩下志麻)を仲立ちに、その役目と秘伝の伝授を巡って郷と火野が争う。一方、女として権三に惹かれていたおさゐは、伴之丞(火野)から何度も色仕掛けで迫られていたが断り続けていた。だが自分の娘を権三がめとれば秘伝も家中のものとして自然に授与できると考えていた。

ところが、お雪の乳母(加藤治子)のおさゐへの仲人依頼の訪問で、実は…と二人の仲を知ったおさゐは嫉妬に狂い……と、そこから先の展開は近松独特のお家と武士の体面、義理の世界がややこしくて現代人にはよく分からない。懲りずにおさゐに近づこうと、夜半こっそりと浅香邸の庭に忍び込んだ火野正平が、秘伝の伝授のために、真夜中におさゐを訪れていた権三の二人を盗み見して誤解する。一方の二人もあれこれ嫉妬と誤解が元で争い、カッとしてほどいて庭に投げ捨てた二人の帯を、その正平が奪って、不義密通の証拠だとして城下中で大声で触れ回る。ついに二人は出奔せざるを得なくなり、誤解から生じたその逃避行の途上、晴れて(?)夫婦となる。二人は追っ手に京の伏見で見つけられ、最後は京橋上で(実際は岩国・錦帯橋)「女敵(めがたき)」として両人ともに市之進に切られる……とまあ、そういう話である。

印象に残ったのは、モノクロの『心中天網島』では、ほとんどがスタジオ内での制作で、屋外ロケは最後の道行場面だけだったのに対し、『権三』では、各地のロケ(出雲、松江、萩、彦根、奈良、京都、岩国…)を含めて、絵葉書のような美しいカラー映像と豪華な衣装美がこれでもか、と続くことで、鑑賞上これは文句ない。ロケだけでも大変なコストがかかっただろうが、これはバブル期ならではだろう。また乗馬シーンでの郷ひろみの馬さばきも見事だ。ダンスもそうだが、この人は本当に運動神経がいいのだと思う。ただし美男を強調するために、眉を含めて「化粧」が濃すぎではないか?(火野正平がよけいにウスく見えてしまう)。海岸を馬で走るシーンはおそらく萩の菊ヶ浜で、田中美佐子が先週くらいの「こころ旅山口編」で訪れていたはずだが、番組中では特にコメントはなかった。

当時40代の岩下志麻は容姿、所作、台詞ともに相変わらずの美しさで(監督もそこだけは手抜きがない…どころか一番力が入っている)、夫の留守を守るその岩下志麻に言い寄る火野正平の女好きぶりは、まあお約束かもしれないが、ライバルの権三には嫁がせまいと反対しつつ、自分の妹にまであわや手を出そうとするあぶないシーンがある。あれは台本なのか、アドリブなのか、演技の勢いなのか? あげく、二人の密通(濡れ衣)を城下に言いふらしたために、最後はおさゐの兄(河原崎長一郎)に討たれて、生首(これがよくできている?)になって戻ってくる。火野正平は侍よりも、やはりひとクセある町人とかワル役が似合いそうだが、正平氏自身は『権三』の役どころをどう思っていたのだろうか? 田中美佐子はたまたまこの映画の舞台だった(隠岐の島生まれ)松江が出身だそうで、40年前(20代半ば)は当然若くてきれいだが、郷ひろみとの濡れ場での大胆な演技には驚いた。それと竹中直人がちょい役で出ていたが、いつものギャグがなくて残念だった。

『心中天網島』は、いわば市井の商人と遊女の不義の物語で、ある意味普遍的なテーマなので、義理人情の部分を含めて、まだ現代人にも分からないことはない。だが『鑓の権三』は戦のない日本の武家社会が舞台で、しかも茶道の伝統とその価値がわからないと皆目話の道筋が見えない……2回見てやっとある程度理解したくらいだ。相当の予備知識がないと、話の筋も面白さも分からないだろう。この映画はベルリン国際映画祭で「銀熊賞」を受賞したそうだが、日本人ですらよく分からない、この大昔、封建時代の日本的価値観と倫理(論理)を、本当に西洋人が映画を観て分かるものなのだろうか? おそらく映像から見えて来る侍と日本的情緒、その美が、選考の一番の理由ではないかという気がする。

1969年の『心中天網島』は、リアルタイムで観たせいもあって、私は心底感動して何度も観た。ほぼ同じスタッフで制作した17年後の本作と何が違うのか、考えてみたが、やはり時代だろう。1969年の日本は高度成長下とはいえまだ貧しく、全共闘運動をはじめ社会は騒然として緊張感が高かったが、一方で、不確かとはいえ、まだ「未来」に対する希望もあった。戦後生まれの世代が20歳を過ぎ、そのエネルギーが音楽や映画など芸術の世界でも爆発的な勢いで創造的な作品を生んでいた。そうした社会状況の下で、ほぼ全員30代の若いスタッフが、制作資金の制約のために、あえてミニマルな表現を目指した実験的な構成、展開と、モノクロによる映像を駆使した『天網島』からは、若さと熱意と創意、芸術性があふれている。一方、高度成長後の熟れ切った日本のバブル最盛期に、功成り名を遂げたスタッフが、たっぷり金と時間をかけて制作したエンタメ的なこの映画の質と出来は、やはり前作とは比較にならない。『天網島』から17年後の日本は豊かになったが、映画を取り巻く状況も変化していたし、69年の制作者たちが持っていたエネルギー、渇望、表現意欲…そういうものも間違いなく変貌していただろう。

ただし、火野正平と田中美佐子が、この映画の兄妹役を通じて親しくなったことはよく分かった。再スタート後1ヶ月を過ぎた今は、もう完全に田中美佐子の「こころ旅」になっているが、自転車で毎朝出発する時に、空に向かって「行ってきまーす!」と、手を挙げて明るく大声で叫ぶ田中美佐子の「兄」火野正平への挨拶がとてもいい。従来からの撮影スタッフも、やさしく彼女を支えているのがよく分かる。春に続いて「秋の旅」も田中美佐子がやることが決まったようでよかった。火野ー田中と「兄妹バトン」でつないだこの番組が、今後も長く続くことを願っている。(ただし、いくら電動アシストでも、65歳の女性に長い山登りルートはきつすぎる。難しいだろうが、ほどほどにしておかないと、正平氏のように腰を痛めますよ。)

2025/04/30

ジャズ・バラードの森(1)Spring Can Really Hang You Up the Most

Clap Hands, Here Comes Charlie!
Ella Fitzgerald (1961 Verve)
『ジャズ・バラードの森』は、まず季節柄、「春」にちなんだ名曲 "Spring Can Really Hang You Up the Most" で始めたい。長ったらしいタイトルだが、歌詞も長い。Wikiによればフラン・ランデスマンという女性詩人の詩に、トミー・ウルフという人が曲をつけたという(1955)。タイトルは、T.S.エリオットの詩『荒地 (The Waste Land)』の冒頭の "四月は最も残酷な月 (April is the cruellest month)" という一節を、ジャズ風にアレンジしたものだという。この "hang (you) up" は、「人を悩ませる、困らせる」の意。要は「春は良い季節だが、どうしても憂鬱になる」という洋の東西を問わない「春先の嘆き、ぼやき」の歌。歌詞も長いが、女性の作者でもあり、メロディが魅力的なので、ジャズでは特に女性ヴォーカルで取り上げられることが多く、またこの曲のファンも多いようだ。ネット上で見ると、「訳詞案」もずいぶんと目にするので、興味のある人はどうぞ。この曲は声を張り上げず、抑え気味に囁くように唄うのが正解かと思う("ぼやき" なので)。近年(2022年)ノラ・ジョーンズの、デビュー前の未発表録音がリリースされて話題を呼んだようだが、私の所有レコードの中では、まずエラ・フィッツジェラルドElla Fitzgeraldのアルバム『Clap Hands, Here Comes Charlie!』(1961 Verve) が挙げられる。ルー・レヴィー(p)、ハーブ・エリス(g) 他が共演したこのレコードでは、エラがしっとりと美しく唄いあげている。エラは高速スキャットだけでなく、やはりこういう曲も非常にうまいことがよく分かる。

Where is Love?
Irene Kral (1975 Choice)
囁きという点では同じく、アイリーン・クラール Irene Kral が癌で亡くなる数年前に録音した名盤『Where is Love?』(1975 Choice) 中の1曲だ。このレコードは、全ジャズ・ヴォーカルのレコード中でも名盤と言えるほど、ジャズ・ヴォーカルのエッセンスが詰まった名作で、”Spring Can…" はもちろんのこと、1曲目の "I Like You, You are Nice" から始まるどのトラックも実に素晴らしい。カーメン・マクレーはビリー・ホリデイを、アイリーン・クラールはカーメン・マクレーを尊敬して手本としていたそうだが、3者に共通するのは歌唱の上品さで、きれいに発音する歌詞と、そこに込められた得も言われぬ微妙な情感が素晴らしい(ちなみに歌手&ピアニストのダイアナ・クラールの手本はアイリーン・クラールだそうで、このアルバム中の ”When I Look in Your Eyes" を自身の持ち歌として何度かカバーしている)。こうしたスロー・バラードを唄うと、単に歌がうまいとかいうことを超越した、「ジャズの歌い手」としての真の技量が分かる。本作はニュージーランド出身で、レニー・トリスターノに師事したという変わったキャリアのピアニスト、アラン・ブロ-ドベントのピアノだけが伴奏のデュオであり、小さな会場で語りかけるように唄うアイリーンのシャンソン風の名唱が堪能できる。

Pop Pop
Rickie Lee Jones(1991 Geffen)
3枚目は、まったく世界の異なる1作だが、私の大好きなアルバム、リーッキー・リー・ジョーンズRickie Lee Jones (1954-)の『Pop Pop』(1991) 中の1曲だ。この人はジャズの人ではないが、このアルバムでの歌唱は素晴らしくユニークで、時どきどうしても聴きたくなる中毒性がある。ロベン・フォードのガット・ギター、チャーリー・ヘイデンのベースの他、バンドネオン、ヴァイオリンなど多彩なアコースティック楽器による伴奏をバックに、ジャズ・スタンダードやロック曲を、ブルースやカントリー風の味付けを加えてジョーンズが鼻づまり気味(?)の声で唄う。まるで「あのちゃん」が唄っているように聞こえるが、この唯一無二のけだるい世界に嵌ると病みつきになる。メロディ・ガルドー(1985-)の世界は、ある意味この延長線上にあるような気もする(違うか?)。このCDは、さるオーディオ紙にも取り上げられたほどだったので、特にロベン・フォードのナイロン弦ギターをはじめ、アコースティックな響きを見事にとらえた録音も素晴らしい(しかし、ここで紹介している4枚のレコードはどれも録音が良い)。

Zoot Sims in Paris
(1961 UA)
この曲のインストものは少ないが、唯一私が保有しているのは、ズート・シムズ Zoot Sims (ts) がパリでライヴ録音した『Zoot Sims in Paris』(Live at Blue Note 1961 UA) だ。実を言えば、この曲を美しい曲だなと感心したきっかけは、このレコードのズートの演奏なのだ。米国ジャズメンのパリ録音、特にライヴ演奏は、なぜか名盤と呼ばれるレコードが多い。大衆音楽ではなく、ジャズを初めて芸術だと認めたフランスとパリの持つ独特の空気が、彼らの精神をインスパイアするのだと思う。ズートのパリ録音にも『デュクレテ・トムソン』(1956)など他にも何枚か名盤と呼ばれているレコードがあるが、この密室感の強いクラブ・ライヴも何度も聞き返したくなるような魅力がある名作だ。ズートがアンリ・ルノーのピアノ・トリオをバックにしたカルテットの演奏で、他のバラード曲 "These Foolish Things" や " You Go to My Head" も、しっとりと唄うズートのテナーが、曲想にぴたりと合ってどの演奏もしみじみして素晴らしい。ズート・シムズの演奏の魅力は、テクニックだけでなく、人柄の滲み出たその温かなサウンドにある。このパリでのライヴ・アルバムでも、短いプレイだが、"Spring Can..." の持つ春の憂鬱を表現しつつ、そのサウンドにはどこか春の温かさも感じられる、とてもいい演奏だ。

2025/03/27

ジャズ・バラードの森を歩く

去年の11月14日に「こころ旅」の火野正平氏がぽっくりと逝ってしまい、12月7日の追悼記事の後3ヶ月以上このブログの更新もしていなかった。ひょっとして私もぽっくり逝ったか…?と思った人もいるかもしれないが、安心してください。生きてますから。ただし腰痛が続いていて、そこは正平氏と同じだし、もういつ逝っても不思議ではない歳になった。

ここ数ヶ月間ソニー・ロリンズの伝記『Saxophone Colossus』翻訳の仕上げ作業に集中していたのでブログ更新の時間がなかった。前回の正平氏の記事がちょうど200番目になり、キリもいいし、ジャズネタもそろそろ尽きてきたので、もうこのへんでブログも店終いしようかとも思っていた。だが、翻訳がやっと2月でほぼ完了し、多少余裕ができたこともあって、やはりブログも再開してみることにした。NHK-BSの「こころ旅」も、今年の春の旅が、私的ないちオシだった田中美佐子氏に決まり、4月から放映開始するそうだ。きっと面白いと思う。正平氏もたぶんこの人選に異存はないだろう。

大著の翻訳(2年かかった)から解放されて、今は久々にゆったり、のんびりと静かにジャズを聴きたい気分なのだが、最近つくづくと感じるのは、配信、スマホ、SNS時代の今の世の中は何もかも慌ただしくて、余裕というものがない。映像は倍速視聴で楽しみ、Popsもコンピュータを使うせいだろうが、やたらとテンポの速い曲、コードチェンジ、リズムの複雑な曲、歌詞を目いっぱい詰め込んだような曲、ずっと声を張り上げて熱唱するような曲…と、とにかく「行間や余白、余韻の少ない」音楽が溢れている。作る側も聞く側も若い年齢層が中心なので、感覚的にそうなるのは当然でもある。だから趣味の音楽は、供給側任せにしないで、自分の好みや人生のテンポに合った音楽を、自分でセレクトして聞くようにしないと、年寄りには疲れて仕方がない。しかし今は、80年代シティポップや、カラオケで唄う若者にも昭和歌謡が人気のようで、それもよく分かる。現代の速い、複雑な音楽は疲れるし、微妙な感情の揺れや陰翳の表現とか、じわりと心に響くものが欠けているからだ。聴く人にとって分かりやすい、覚えやすい、唄いやすい、というのも音楽の魅力の重要な要素なのだ。

ジャズも同じだ。たとえば漫画『Blue Giant』で描かれているような、血沸き肉躍るがごとき熱いジャズを聴き、かつそれを楽しむためには、聴き手側にも同じくらいの「エネルギー」を必要とするのである。主人公の宮本大だって、あんな熱量の高い演奏ばかりの音楽を続けていたら(…聞こえないが、想像で)、やがて身体がいくつあっても足らなくなるだろう。昔のジャズメンのドラッグ依存も、「同じことは二度とやらない=常に"創造"を求める」「演奏に全開の”パワー”を求める」という、ジャズ特有の要件(=脅迫観念)と大いに関係があるのだ。

他のポピュラー音楽にはないジャズの魅力とは、100年という歴史ゆえの重層性と多様性を持ち、同時に、「変化し続ける現代の音楽」でもあるので、聴き手の様々な嗜好や願望を受け入れるだけの奥行きと懐の深さを持っているところだ。時代が移り変わっても、あまり「古くさくならない」のが、ジャズの持つもう一つの魅力であり特徴だ。1950年代のジャズレコードが、今の音楽よりも、「ずっとモダンに」聞こえるときも多々あるのだ。ソロ、小編成コンボ、ビッグバンド、ヴォーカルというバンド編成も、管楽器、弦楽器、鍵盤楽器など使う楽器の種類も多彩だ。気力、体力のある若者だけが楽しめる速いテンポの演奏だけではなく、歳をとっても楽しめるスローで穏やかなジャズもあるし、個人の嗜好や、その時の気分次第で楽しめる様々なジャズがある。またライヴで聴ける現在進行形のジャズはもちろん、100年前から現在に至るまで、この一世紀の間に録音された数え切れないほどの音源も残されている。そこには熱く激しいジャズもあれば、アブストラクトな前衛的ジャズも、クールに深く沈潜するジャズも、リラックスして気楽に楽しめる穏やかなジャズもある。

「ジャズに ”名演” あって ”名曲” なし」と、昔からよく言われてきた。つまりジャズという音楽では、楽曲はあくまで演奏のための「素材」であり、原曲がどんな曲であれ、それを「どう料理(即興演奏)するか」というところに、ジャズという音楽の魅力と本質があるのだ――という、ジャズの真実の一面を語った言葉だ。確かにそうなのだが、しかし、当たり前だが「ロクでもない曲(素材)」はどう演奏(料理)しようとやはりロクでもない――というのもまた音楽的真実である。クラシックもそうだが、ジャズも「名曲の名演」こそが、普通のリスナーにとってはやはり音楽としていちばん楽しいし、素晴らしいのだ。「名曲」の定義とは何かと言えば、シンプルに、誰が聴いても「美しいメロディを持つ曲」に尽きるだろう。

複雑化しすぎた現代の音楽が「分かりやすいメロディ」を失って久しいが、どんなに時代が変わっても、人間にとって美しいメロディは永遠だ。煎じ詰めたら「音楽の価値」とはそこにこそある。ビバップ以降、曲のテンポを上げて、コードで分解して音楽を複雑化し、さらにモードやフリーを経て、記憶に残るようなシンプルなメロディの美をポピュラー音楽から喪失させた責任の一端はジャズにあるのだろうが、そのジャズにも、モンクのように「コードなど忘れろ。メロディこそが大事だ」と、常にメロディを重視していた音楽家はいるし、幸いなことに、録音と共に歩んできた20世紀の音楽ジャズにはそうした演奏の記録も山ほど残されている。昔は盛んだった「ジャズ・ヴォーカル」が(私は今も好きだが)、ジャズにもあったシンプルで美しいメロディを、分かりやすく世の中的につなぎとめていたのだが、今はそうした曲が演奏され唄われる機会も減って、聴く人も減り、美しいメロディを持つジャズ演奏の「記憶」が世の中から失われつつあるのは残念なことだと思う。

派手な即興演奏や、時代の先端を行ったり、難しく前衛的な演奏だけにジャズの美や価値があるのではない。「普通の音楽好き」が聴いて、普通に美しいと感動するような曲や演奏もジャズにはたくさんある。基本的にゆったりと穏やかな、それらの曲と演奏を総称して「ジャズ・バラードJazz Ballads」と呼ぶが、限られた数のジャズファンだけが、ひっそりと聴くだけでは惜しいような演奏、世代や時代を超えて、引き継がれてゆく価値のある美しいジャズ・バラードはたくさんあったし、今もある。しかも「ジャズ」なので、それらは基本的に「一回こっきり」の演奏であり、クラシックやポップスのように、いつも「同じ音符とリズム」が聞こえてくるわけではない、というジャズ特有の音楽上の変化を楽しむこともできる。

ひと口でジャズ・バラードと言っても様々だが、大きく分ければ、一般に 「スタンダード」 と呼ばれる、耳に馴染みやすい、よく知られたポップ曲(たとえば「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」等)を、そのままジャズ流に唄ったり、演奏するものが一番多く、次に 「ジャズ・オリジナル」 と言われる、ジャズ・ミュージシャンや作曲家が「ジャズ曲」として作曲したオリジナル曲(モンクの「ラウンド・ミッドナイト」等)という2種類がある。ジャズのバラード演奏は、昔から1枚のアルバム中にこうしたスローないしミディアム・スローの曲を1曲ないし2曲くらい、息抜き的にはさむケースが多い。これはライヴの場でも同じだ。ミュージシャンも聴き手も急速調ばかりでは疲れるし、かと言ってバラードばかりでは客も飽きるし、場もダレる。ジャズは小難しいとか、敷居が高いとか思っている人は今もいるだろうが、ジャズ・バラードにはコアなジャズファンだけでなく、音楽好きなら誰でも楽しめる万人むけの名曲、名演がたくさんある。ジャズはよく分からない、難しいと敬遠する普通の音楽ファンにこそ、そういう曲や演奏があることをもっと知ってもらい、聴いて楽しんでもらいたいと思ってきた。ジャズファンが息抜き的に聴くだけでは、もったいないほど美しい未知の曲や、素晴らしい演奏がたくさんあるからだ。

バラードの演奏も、上述のように、取り上げる原曲の出来の良さと大いに関係がある。「スタンダード」と一般に言われる楽曲は、1930年代から60年代にアメリカで作られたミュージカルや映画音楽用の古い歌曲がほとんどだ。あるいは「エスターテ」のようなイタリアのポピュラー曲、「枯葉」のようなフランスのシャンソン等、ヨーロッパのポピュラー音楽由来の有名曲もある。当然唄いやすく覚えやすい歌詞とメロディを持った曲が多く、それらをジャズ・ヴォーカルの素材としてジャズ歌手が唄うようになったケースが多い。インストのジャズ・バラードは、それを楽器演奏のみで行なったもので、原曲の美しい旋律を強調するために、一般的なジャズ曲に比べると即興演奏 (improvisation) の比率が相対的に少なく、中にはほとんど原曲のメロディをなぞるだけで終わるような演奏もある(それでも見事な演奏はたくさんある)。基本的にはメロディアスで大衆的な曲が元歌なので、歌詞を含めて曲自体はシンプルなものが多く、しかもスローな演奏が多い。それだけにジャズに馴染みのない人でも、曲の美しさがそのまま楽しめる。

ジャズ・バラードの中には、じっと聴いていると、こんなに単純な元歌を、ここまで洗練された音楽に仕上げ、美的に昇華させる演奏技術・能力は本当にすごい…と思わせるような驚くべき演奏もたくさんある。テンポの早い妙技をひけらかす即興演奏だけでは分からない、ジャズ・ミュージシャンの「歌心」と、音楽家としての真の「力量」を示すのもバラード演奏なのだ。特に原曲の「歌詞」をどう解釈してインストだけの演奏で表現するかは、チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスをはじめ、ジャズの巨人たちの多くが昔から心掛けていたことだ。それらの演奏をじっと聴けば、歌詞がないのに、彼らの表現が、あたかも唄っているがごとき見事なバラード演奏になっていることが非常によくわかる。そして、ゆったりした曲が多いので、「同じ曲」をそれぞれのミュージシャンがどう解釈して演奏しているのかも容易に聞き取れる。「同じ曲の解釈と演奏の違い」こそが、1930年代以降、”ヴァリエーション”(変奏)の技と多彩さを競ったジャズという音楽の原点であり、高度化したモダン・ジャズは、その違いの「質」を競うことで発展してきた音楽だ。だから聴き手にとっても、ジャズとはある意味でその「違い」を楽しむ音楽でもあるのだ。

LP時代も「この名曲を、あの人が演奏したら、どうなるのだろうか?」という曲別の聴き方は、ジャズの基本的楽しみ方の一つではあったが、実際に比較して聴くには手間も時間もコストもかかった。私はアナログ時代には、LPレコードからカセットテープに好みの演奏だけを録音した私家版コンピレーション・テープを作って聴いていたが、これは作るのも、聴くのも結構な手間と時間がかかる作業だった。CD時代になっても、アナログ時代と同様にCD-Rに焼いた私家版コンピレーションCDを自分で作っていた(大分進化して便利にはなった)。さらに自由に選曲し、簡単に編集できるようになったのは、iTunes/iPodを中心にしたPCオーディオ時代になった21世紀に入ってからで、CDからPCにリッピングしたiTunesの音源データベース上で、好きな奏者別、ジャンル別、曲別…とか自由に編集して、自分好みの「プレイリスト」が自在に作成でき、それを自由に並べ変えて聴けるようになった。これはまさにジャズ・レコード鑑賞上の「革命」であり、この便利さと楽しさは、アナログ時代を思えば夢のようである。

今は、ここに挙げている昔ながらのジャズ・バラードの名盤やコンピ盤CDに加え、ネット上にはYouTubeをはじめとして「夜の…」「癒しの…」「雨の夜の…」…と、至れり尽くせりの「バラード選集」がキリもなく見つかる。しかし自分の音楽的嗜好と、私のようにオーディオ上の音質へのこだわりなど、趣味として楽しむなら、遊び方の自由度を考えると、既にCD音源を持っている人なら、自前の音楽データベースを使った方がはるかに楽しめるだろう。第一私の場合、自分の好みで購入した大量のCD、LP音源さえ死ぬまでに聴けないほどの量なので、サブスクで何億曲聞けますとか言われても、これ以上は結構です…と言うしかない。こうしてPCで作成した私家版データベース/iTunes上で「曲/奏者別」で聞けば、上述した「同じ曲の奏者による演奏の違い」を連続して比較しながら聞ける。こうして広い森を散歩するように、ぶらぶらと適当に手持ちの音源を聴いて行くと、まったく知らなかった(忘れていた)素晴らしい演奏などに出会ったりする楽しみがあり、それが面白い(要するに、レコードを持ってはいても、ロクに聞いていなかったわけだ。ジャズファンの場合、これはよくある)。私はLP 時代から変わらず、自分で実際に「購入」して、「愛聴」してきた「アルバムCD」の音源を、自分のPCに「リッピング(高音質で)」して、そこから自分で選んだ好みのジャズ・バラードの「極私的」名曲、名演奏リストを作っている。面倒くさいと言えば面倒くさいが、オーディオ的な音質へのこだわりもあるので、その作業は楽しみでもある。

というわけで本ブログの新ネタとして、普段自分でやっている「同曲の奏者別バラード演奏」の聴き比べを、今後『ジャズ・バラードの森』というシリーズで、ブログ上で気の向くままに紹介していきたいと思う。ただし、あくまでド素人が限りある手持ち音源だけを対象にして、まったくの個人的好みだけで選んでいるので、有名な曲や名演奏もあれば、そうでないものもあるし、これが…?と言われるような曲や演奏もあるだろう。しかし音楽は、どんな講釈を並べたところで結局は自分が「好きか嫌いか」という世界であり、特にジャズは、演るのも聴くのも基本的に「個人の自由な」音楽なので、それでいいのだと思っている。趣味の近い人もいれば、違う人がいるのも当然だ。いずれにしろ、そうやって残されているジャズ・バラードの名曲、名演を実際に聴き比べることで、ジャズの持つ素晴らしさ、奥深さを、一人でも多くの「音楽好き」の人たちに楽しんでもらえればと思っている。もし興味を持った曲や演奏があれば、LPやCDを購入するか、ダウンロードするか、あるいはYouTubeをはじめ、今は簡単にネット上でアクセスできるので、そこは自分で探しあてて、実際に音を聴いて楽しんでいただきたいと思います。