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2025/03/27

ジャズ・バラードの森を歩く

去年の11月14日に「こころ旅」の火野正平氏がぽっくりと逝ってしまい、12月7日の追悼記事の後3ヶ月以上このブログの更新もしていなかった。ひょっとして私もぽっくり逝ったか…?と思った人もいるかもしれないが、安心してください。生きてますから。ただし腰痛が続いていて、そこは正平氏と同じだし、もういつ逝っても不思議ではない歳になった。

ここ数ヶ月間ソニー・ロリンズの伝記『Saxophone Colossus』翻訳の仕上げ作業に集中していたのでブログ更新の時間がなかった。前回の正平氏の記事がちょうど200番目になり、キリもいいし、ジャズネタもそろそろ尽きてきたので、もうこのへんでブログも店終いしようかとも思っていた。だが、翻訳がやっと2月でほぼ完了し、多少余裕ができたこともあって、やはりブログも再開してみることにした。NHK-BSの「こころ旅」も、今年の春の旅が、私的ないちオシだった田中美佐子氏に決まり、4月から放映開始するそうだ。きっと面白いと思う。正平氏もたぶんこの人選に異存はないだろう。

大著の翻訳(2年かかった)から解放されて、今は久々にゆったり、のんびりと静かにジャズを聴きたい気分なのだが、最近つくづくと感じるのは、配信、スマホ、SNS時代の今の世の中は何もかも慌ただしくて、余裕というものがない。映像は倍速視聴で楽しみ、Popsもコンピュータを使うせいだろうが、やたらとテンポの速い曲、コードチェンジ、リズムの複雑な曲、歌詞を目いっぱい詰め込んだような曲、ずっと声を張り上げて熱唱するような曲…と、とにかく「行間や余白、余韻の少ない」音楽が溢れている。作る側も聞く側も若い年齢層が中心なので、感覚的にそうなるのは当然でもある。だから趣味の音楽は、供給側任せにしないで、自分の好みや人生のテンポに合った音楽を、自分でセレクトして聞くようにしないと、年寄りには疲れて仕方がない。しかし今は、80年代シティポップや、カラオケで唄う若者にも昭和歌謡が人気のようで、それもよく分かる。現代の速い、複雑な音楽は疲れるし、微妙な感情の揺れや陰翳の表現とか、じわりと心に響くものが欠けているからだ。聴く人にとって分かりやすい、覚えやすい、唄いやすい、というのも音楽の魅力の重要な要素なのだ。

ジャズも同じだ。たとえば漫画『Blue Giant』で描かれているような、血沸き肉躍るがごとき熱いジャズを聴き、かつそれを楽しむためには、聴き手側にも同じくらいの「エネルギー」を必要とするのである。主人公の宮本大だって、あんな熱量の高い演奏ばかりの音楽を続けていたら(…聞こえないが、想像で)、やがて身体がいくつあっても足らなくなるだろう。昔のジャズメンのドラッグ依存も、「同じことは二度とやらない=常に"創造"を求める」「演奏に全開の”パワー”を求める」という、ジャズ特有の要件(=脅迫観念)と大いに関係があるのだ。

他のポピュラー音楽にはないジャズの魅力とは、100年という歴史ゆえの重層性と多様性を持ち、同時に、「変化し続ける現代の音楽」でもあるので、聴き手の様々な嗜好や願望を受け入れるだけの奥行きと懐の深さを持っているところだ。時代が移り変わっても、あまり「古くさくならない」のが、ジャズの持つもう一つの魅力であり特徴だ。1950年代のジャズレコードが、今の音楽よりも、「ずっとモダンに」聞こえるときも多々あるのだ。ソロ、小編成コンボ、ビッグバンド、ヴォーカルというバンド編成も、管楽器、弦楽器、鍵盤楽器など使う楽器の種類も多彩だ。気力、体力のある若者だけが楽しめる速いテンポの演奏だけではなく、歳をとっても楽しめるスローで穏やかなジャズもあるし、個人の嗜好や、その時の気分次第で楽しめる様々なジャズがある。またライヴで聴ける現在進行形のジャズはもちろん、100年前から現在に至るまで、この一世紀の間に録音された数え切れないほどの音源も残されている。そこには熱く激しいジャズもあれば、アブストラクトな前衛的ジャズも、クールに深く沈潜するジャズも、リラックスして気楽に楽しめる穏やかなジャズもある。

「ジャズに ”名演” あって ”名曲” なし」と、昔からよく言われてきた。つまりジャズという音楽では、楽曲はあくまで演奏のための「素材」であり、原曲がどんな曲であれ、それを「どう料理(即興演奏)するか」というところに、ジャズという音楽の魅力と本質があるのだ――という、ジャズの真実の一面を語った言葉だ。確かにそうなのだが、しかし、当たり前だが「ロクでもない曲(素材)」はどう演奏(料理)しようとやはりロクでもない――というのもまた音楽的真実である。クラシックもそうだが、ジャズも「名曲の名演」こそが、普通のリスナーにとってはやはり音楽としていちばん楽しいし、素晴らしいのだ。「名曲」の定義とは何かと言えば、シンプルに、誰が聴いても「美しいメロディを持つ曲」に尽きるだろう。

複雑化しすぎた現代の音楽が「分かりやすいメロディ」を失って久しいが、どんなに時代が変わっても、人間にとって美しいメロディは永遠だ。煎じ詰めたら「音楽の価値」とはそこにこそある。ビバップ以降、曲のテンポを上げて、コードで分解して音楽を複雑化し、さらにモードやフリーを経て、記憶に残るようなシンプルなメロディの美をポピュラー音楽から喪失させた責任の一端はジャズにあるのだろうが、そのジャズにも、モンクのように「コードなど忘れろ。メロディこそが大事だ」と、常にメロディを重視していた音楽家はいるし、幸いなことに、録音と共に歩んできた20世紀の音楽ジャズにはそうした演奏の記録も山ほど残されている。昔は盛んだった「ジャズ・ヴォーカル」が(私は今も好きだが)、ジャズにもあったシンプルで美しいメロディを、分かりやすく世の中的につなぎとめていたのだが、今はそうした曲が演奏され唄われる機会も減って、聴く人も減り、美しいメロディを持つジャズ演奏の「記憶」が世の中から失われつつあるのは残念なことだと思う。

派手な即興演奏や、時代の先端を行ったり、難しく前衛的な演奏だけにジャズの美や価値があるのではない。「普通の音楽好き」が聴いて、普通に美しいと感動するような曲や演奏もジャズにはたくさんある。基本的にゆったりと穏やかな、それらの曲と演奏を総称して「ジャズ・バラードJazz Ballads」と呼ぶが、限られた数のジャズファンだけが、ひっそりと聴くだけでは惜しいような演奏、世代や時代を超えて、引き継がれてゆく価値のある美しいジャズ・バラードはたくさんあったし、今もある。しかも「ジャズ」なので、それらは基本的に「一回こっきり」の演奏であり、クラシックやポップスのように、いつも「同じ音符とリズム」が聞こえてくるわけではない、というジャズ特有の音楽上の変化を楽しむこともできる。

ひと口でジャズ・バラードと言っても様々だが、大きく分ければ、一般に 「スタンダード」 と呼ばれる、耳に馴染みやすい、よく知られたポップ曲(たとえば「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」等)を、そのままジャズ流に唄ったり、演奏するものが一番多く、次に 「ジャズ・オリジナル」 と言われる、ジャズ・ミュージシャンや作曲家が「ジャズ曲」として作曲したオリジナル曲(モンクの「ラウンド・ミッドナイト」等)という2種類がある。ジャズのバラード演奏は、昔から1枚のアルバム中にこうしたスローないしミディアム・スローの曲を1曲ないし2曲くらい、息抜き的にはさむケースが多い。これはライヴの場でも同じだ。ミュージシャンも聴き手も急速調ばかりでは疲れるし、かと言ってバラードばかりでは客も飽きるし、場もダレる。ジャズは小難しいとか、敷居が高いとか思っている人は今もいるだろうが、ジャズ・バラードにはコアなジャズファンだけでなく、音楽好きなら誰でも楽しめる万人むけの名曲、名演がたくさんある。ジャズはよく分からない、難しいと敬遠する普通の音楽ファンにこそ、そういう曲や演奏があることをもっと知ってもらい、聴いて楽しんでもらいたいと思ってきた。ジャズファンが息抜き的に聴くだけでは、もったいないほど美しい未知の曲や、素晴らしい演奏がたくさんあるからだ。

バラードの演奏も、上述のように、取り上げる原曲の出来の良さと大いに関係がある。「スタンダード」と一般に言われる楽曲は、1930年代から60年代にアメリカで作られたミュージカルや映画音楽用の古い歌曲がほとんどだ。あるいは「エスターテ」のようなイタリアのポピュラー曲、「枯葉」のようなフランスのシャンソン等、ヨーロッパのポピュラー音楽由来の有名曲もある。当然唄いやすく覚えやすい歌詞とメロディを持った曲が多く、それらをジャズ・ヴォーカルの素材としてジャズ歌手が唄うようになったケースが多い。インストのジャズ・バラードは、それを楽器演奏のみで行なったもので、原曲の美しい旋律を強調するために、一般的なジャズ曲に比べると即興演奏 (improvisation) の比率が相対的に少なく、中にはほとんど原曲のメロディをなぞるだけで終わるような演奏もある(それでも見事な演奏はたくさんある)。基本的にはメロディアスで大衆的な曲が元歌なので、歌詞を含めて曲自体はシンプルなものが多く、しかもスローな演奏が多い。それだけにジャズに馴染みのない人でも、曲の美しさがそのまま楽しめる。

ジャズ・バラードの中には、じっと聴いていると、こんなに単純な元歌を、ここまで洗練された音楽に仕上げ、美的に昇華させる演奏技術・能力は本当にすごい…と思わせるような驚くべき演奏もたくさんある。テンポの早い妙技をひけらかす即興演奏だけでは分からない、ジャズ・ミュージシャンの「歌心」と、音楽家としての真の「力量」を示すのもバラード演奏なのだ。特に原曲の「歌詞」をどう解釈してインストだけの演奏で表現するかは、チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスをはじめ、ジャズの巨人たちの多くが昔から心掛けていたことだ。それらの演奏をじっと聴けば、歌詞がないのに、彼らの表現が、あたかも唄っているがごとき見事なバラード演奏になっていることが非常によくわかる。そして、ゆったりした曲が多いので、「同じ曲」をそれぞれのミュージシャンがどう解釈して演奏しているのかも容易に聞き取れる。「同じ曲の解釈と演奏の違い」こそが、1930年代以降、”ヴァリエーション”(変奏)の技と多彩さを競ったジャズという音楽の原点であり、高度化したモダン・ジャズは、その違いの「質」を競うことで発展してきた音楽だ。だから聴き手にとっても、ジャズとはある意味でその「違い」を楽しむ音楽でもあるのだ。

LP時代も「この名曲を、あの人が演奏したら、どうなるのだろうか?」という曲別の聴き方は、ジャズの基本的楽しみ方の一つではあったが、実際に比較して聴くには手間も時間もコストもかかった。私はアナログ時代には、LPレコードからカセットテープに好みの演奏だけを録音した私家版コンピレーション・テープを作って聴いていたが、これは作るのも、聴くのも結構な手間と時間がかかる作業だった。CD時代になっても、アナログ時代と同様にCD-Rに焼いた私家版コンピレーションCDを自分で作っていた(大分進化して便利にはなった)。さらに自由に選曲し、簡単に編集できるようになったのは、iTunes/iPodを中心にしたPCオーディオ時代になった21世紀に入ってからで、CDからPCにリッピングしたiTunesの音源データベース上で、好きな奏者別、ジャンル別、曲別…とか自由に編集して、自分好みの「プレイリスト」が自在に作成でき、それを自由に並べ変えて聴けるようになった。これはまさにジャズ・レコード鑑賞上の「革命」であり、この便利さと楽しさは、アナログ時代を思えば夢のようである。

今は、ここに挙げている昔ながらのジャズ・バラードの名盤やコンピ盤CDに加え、ネット上にはYouTubeをはじめとして「夜の…」「癒しの…」「雨の夜の…」…と、至れり尽くせりの「バラード選集」がキリもなく見つかる。しかし自分の音楽的嗜好と、私のようにオーディオ上の音質へのこだわりなど、趣味として楽しむなら、遊び方の自由度を考えると、既にCD音源を持っている人なら、自前の音楽データベースを使った方がはるかに楽しめるだろう。第一私の場合、自分の好みで購入した大量のCD、LP音源さえ死ぬまでに聴けないほどの量なので、サブスクで何億曲聞けますとか言われても、これ以上は結構です…と言うしかない。こうしてPCで作成した私家版データベース/iTunes上で「曲/奏者別」で聞けば、上述した「同じ曲の奏者による演奏の違い」を連続して比較しながら聞ける。こうして広い森を散歩するように、ぶらぶらと適当に手持ちの音源を聴いて行くと、まったく知らなかった(忘れていた)素晴らしい演奏などに出会ったりする楽しみがあり、それが面白い(要するに、レコードを持ってはいても、ロクに聞いていなかったわけだ。ジャズファンの場合、これはよくある)。私はLP 時代から変わらず、自分で実際に「購入」して、「愛聴」してきた「アルバムCD」の音源を、自分のPCに「リッピング(高音質で)」して、そこから自分で選んだ好みのジャズ・バラードの「極私的」名曲、名演奏リストを作っている。面倒くさいと言えば面倒くさいが、オーディオ的な音質へのこだわりもあるので、その作業は楽しみでもある。

というわけで本ブログの新ネタとして、普段自分でやっている「同曲の奏者別バラード演奏」の聴き比べを、今後『ジャズ・バラードの森』というシリーズで、ブログ上で気の向くままに紹介していきたいと思う。ただし、あくまでド素人が限りある手持ち音源だけを対象にして、まったくの個人的好みだけで選んでいるので、有名な曲や名演奏もあれば、そうでないものもあるし、これが…?と言われるような曲や演奏もあるだろう。しかし音楽は、どんな講釈を並べたところで結局は自分が「好きか嫌いか」という世界であり、特にジャズは、演るのも聴くのも基本的に「個人の自由な」音楽なので、それでいいのだと思っている。趣味の近い人もいれば、違う人がいるのも当然だ。いずれにしろ、そうやって残されているジャズ・バラードの名曲、名演を実際に聴き比べることで、ジャズの持つ素晴らしさ、奥深さを、一人でも多くの「音楽好き」の人たちに楽しんでもらえればと思っている。もし興味を持った曲や演奏があれば、LPやCDを購入するか、ダウンロードするか、あるいはYouTubeをはじめ、今は簡単にネット上でアクセスできるので、そこは自分で探しあてて、実際に音を聴いて楽しんでいただきたいと思います。