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2017/08/04

ジャズ映画を見る (1)

私は映画ファンとは言えないのであまり詳しくは知らないのだが、ジャズを効果的BGMに使った映画は、MJQの「大運河」、マイルスの「死刑台のエレベーター」、モンクとアート・ブレイキーの「危険な関係」、マーシャル・ソラールの「勝手にしやがれ」など、1950年代のフランス映画の名作をはじめとして、古くから数多くあるのだろう。一方、ジャズそのものを題材にした映画もあって、それには「ドキュメンタリー」と、いわゆる「普通の映画」の2通りあり、さらに普通の映画にはおおまかに言えば、ジャズ・ミュージシャン個人を描いた伝記的映画と、ジャズという音楽を題材にしたフィクション映画の2種類がある。 

ドキュメンタリー映画は、ジャズの場合、ミュージシャンたちの古いテレビ番組他の映像記録を集めたものが大部分で、昔からミュージシャン別のそうしたビデオ映像は数多く残されているが、中にはそうではなく、最初から映像作品として制作されたものもある。そうしたドキュメンタリー映画として、古くからいちばん有名なのは「真夏の夜のジャズ」(公開1960年)だ。原題は‟Jazz On a Summer’s Day” (夏の日のジャズ)で、映画としては昼間の屋外シーンがほとんどなのだが、日本的にはこの邦題の方が「いかにも」という感じで受けると考えたのだろう。これはジャズ・プロモーターのジョージ・ウィーンGeorge Wein (1925-) が企画し、1954年から米国ロードアイランド州の保養地ニューポートで始めた野外ジャズ祭、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」の1958年のコンサートの模様を記録した映画である。ジョージ・ウィーンはその後ニューヨークに場所を移したり、世界各地で「ニューポート」と冠したバンドやジャズ祭を数多く企画しており、バブル時代の日本で流行った野外ジャズ・フェスも、ニューポート・ジャズ祭が基本モデルだ。この映画は、マリリン・モンローの写真などで有名なファッション・カメラマンで、映画監督に転じたバート・スターンBert Stern (1929-2013) が撮影した美しい映像と、登場する数々のジャズ・ミュージシャンたちの演奏、それを聞く聴衆の姿や表情を、ナレーションなしでクールに描いた斬新な演出が光るジャズ映画の傑作である。チコ・ハミルトン、エリック・ドルフィー、セロニアス・モンク、ジェリー・マリガン、ジミー・ジュフリー、ボブ・ブルックマイヤー、ソニー・スティット、ジョージ・シアリングなど当時の新進ジャズ・ミュージシャンに加え、アニタ・オデイ、ダイナ・ワシントン、マへリア・ジャクソンといった女性ジャズ・ヴォーカルやゴスペル歌手、さらにスウィング時代のベテラン大スター、ルイ・アームストロングや、当時人気が高まっていたロックンロールのチャック・ベリーまで登場する。

言うまでもなく、この時代はアメリカという国家の最盛期であり、それはつまり当時のアメリカを代表するハイカルチャーとしての音楽モダン・ジャズの最盛期でもあった。豊かな経済に支えられ、数多くの名盤と呼ばれるレコードが作られ、音楽的にも高度化し、多くのジャズ・ミュージシャンの創造力が最も高まっていた1950年代後半は、あらゆる意味でジャズの黄金時代だった。多くのジャズ・ミュージシャンが一堂に会した貴重なライヴ映像というだけでなく、この映画は、上流階級の保養地だったニューポートの美しい自然、豊かな聴衆の姿とファッション、そして当時最先端の音楽だったモダン・ジャズの3つを融合した、幸福なアメリカとその豊かな文化を象徴的に描いた作品でもある。まだ国外のベトナム戦争も、国内の公民権闘争も激化する前で、差別はあっても黒人と白人が分相応に棲み分け、白人中産階級がゆったりと暮らせ、少なくとも表面的にはまだ穏やかだった最も幸福な時代のアメリカの空気が、この映画の中に封じ込められているのである。映像の素晴らしさに加えて映画のハイライトはいくつもあるが、やはり一番人気はアニタ・オデイ(1919-2006)のヴォーカルだろう。衣装、仕草、表情、そしてもちろんその歌声も歌唱力も素晴らしく、まさにあの時代のアメリカを象徴する映像だ。おそらく当時世界中のジャズファンが、この映画でのアニタには痺れたことだろう。そしてもう一人は短い出演だがセロニアス・モンク(1917-82)だ。モンクは3年前の55年のニューポートに初出演してマイルス・デイヴィス他と共演していたが、この映画はようやくスターとして頭角を表し始めたモンクの実際の姿と音楽を初めて映像で捉えたものだ。特にモンク・グループが演奏する<ブルー・モンク>をBGMに、湾内を競走するアメリカズ・カップのヨットレースとラジオ実況放送、という映像、音楽、実況音声の組み合わせは、ドキュメンタリー映画史に残る斬新な演出であり、この印象的なシーンによってモンクもまた世界的に有名になった。 

ジャズ・ドキュメンタリー映画のもう一つの傑作が、そのセロニアス・モンクの生の姿を映像で捉えた「ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser」(1988年制作)である。ドイツ・ケルンの放送局に勤務していたブラックウッド兄弟が1967年にモンクの許可を得て、6ヶ月にわたって日常、クラブ・ライヴでの演奏、スタジオ録音、ヨーロッパ・ツアー時などにおけるモンクの姿を映像に記録し、それをその後ヨーロッパでテレビ放映した2本のモノクロ・フィルムを中心に編集したものだ。当時のモンク・カルテットのメンバーの他、ツアーに参加したジョニー・グリフィン、フィル・ウッズ、さらにネリー夫人やニカ男爵夫人、当時コロムビアのプロデューサーだったテオ・マセロなどの映像と肉声も記録されている。そこに、それ以外のモンクの記録映像や、モンクの死後80年代に新たに撮影したカラー映像を加えたもので、バンドメンバーだったチャーリー・ラウズ(ts)、モンクのマネージャーだったハリー・コロンビー、息子T.S.モンク等のインタビュー、モンク同様ニカ邸で当時暮らしていたバリー・ハリスがトミー・フラナガンとピアノ・デュオでモンクの曲を演奏する映像(その後ろにはアート・ファーマーとミルト・ジャクソンの姿も見える)、さらにウィーホーケンのニカ邸内のモンクの部屋とピアノ、そこからのマンハッタンの遠景、そして1982年のモンクの葬儀の模様などが追加されている。映画化はモンクの存命中から計画されていたようだが、紆余曲折あって、モンクの死後になって最終的にクリント・イーストウッド(1930-)が製作を引き受け、女性監督シャーロット・ズワーリン(1931-2004)が映画を完成させて配給にこぎつけたという。1967年のモンクは全盛期を過ぎ、肉体的、精神的にも苦しんでいた時期で、特にこの撮影は前年のバド・パウエルに続き、エルモ・ホープ、ジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失った直後であり、精神的には落ち込んでいたはずだが、ピアノを弾き、踊り、くるくる回り、喋り、歩くモンクの動く姿はとにかくファンにとっては面白く興味が尽きない。この映画の素晴らしさは、全編に流れるモンクの代表曲の演奏に加え、演奏中であれ、会話中であれ、街を歩く様子であれ、ほとんど演出、脚色なしの“素の”モンクが捉えられていることだ。ジャズ映画も様々だが、ジャズ・ミュージシャン、それも伝説の人物をこれほど身近な視点でストレートに捉えた映画は歴史上皆無だ。また80年代に撮影されたカラー映像でモンクを語る人たちのインタビューや演奏も、モンクという音楽家を理解するための貴重な証言になっている。モンクファンのみならず、ジャズファンすべてが楽しめる傑作ドキュメンタリー映画である。

この他に、破滅的人生を送ったトランぺッターのチェット・ベイカーを描いた「Let’s Get Lost」(1988)というドキュメンタリー映画もあるが、音楽はともかくとして、人間チェット・ベイカー自身が個人的にあまり好きではないこともあって、私は見ていない。今やインターネット上で、多くの映像が自由に見られる時代となっている。作品としてのジャズ・ドキュメンタリー映画は、古い映像記録そのものに限りがあり、これからジャズを主題に描こうにも時代が違うし、材料(人材を含めて)が手に入らないなどの理由もあって、今後ここに挙げたような傑作映画が作られることは永遠にないだろう。

2017/04/02

英語を「読む」(2)

ところで、英語を読んで「理解」するのと、それを日本語に変換する「翻訳」という作業では脳の使い方がまるで違う。読んで理解するのに、いちいち頭の中で翻訳していたのでは効率が悪い。英文のまま、英語の論理のまま、頭の中で意味を理解するのが一番良い。一方、翻訳という作業は、英語と日本語の言語構造の違いを絶えず強く意識しながら進めなければならない。それと同時に日本語の複雑さ、難しさをあらためて知る作業でもある。しかし英語で読んだものは、その場では理解したように思っても、後で細部が記憶に残っていないことが多い。日本語に翻訳して、日本語で読んで理解したものは、簡単には忘れないのである。歳のせいかと思っていたが、そればかりでなく、これも民族伝来の脳の情報処理機能とメモリーの特性にあるのだろう。ただし、これも脳の訓練次第かとも思う。

英語はドイツ語やラテン語など、多言語を起源にしている「含意」が非常に広く多彩な言語だ。辞書を見れば、同じ単語や語句が実に様々な意味を持っていることがわかる。中にはこんな意味もあったのか、とびっくりするような単語や言い回しもある。したがって、英語のある単語や語句を日本語に変換する際には、まずそうした様々な意味の中から、文全体の主旨から見ていちばん適切だと判断される意味を選択し、次にそれをその「文脈」にいちばん適した日本語に変換しなければならない。ところが、他民族国家ではなく、同種の人間が集まってできた日本という国の起源から、日本語は名詞の持つ「含意」が相対的に小さい言語で(誰が見ても同じものは、一つの単語で通じ合ってきたので)、ある物を表現する語彙数はさほど多くない。また動詞も、主語や目的語に応じて同じ動詞を自在に使い分けるため、目的によって多彩な動詞を使う英語に対応した語句選択が難しい(どれも同じような、単調な日本語訳になってしまう傾向がある)。したがって、そこを補うために修飾する形容詞や副詞がどうしても増えがちだ。他方、たぶん狭い共同体の仲間内の摩擦や争いを避け、円滑なコミュニケーションを優先するために、直接的表現をできるだけ使わないようにしてきた歴史があるからだと思うが、日本語は漢字と仮名という独特の表記に加えて、文の構造と言い回しも複雑になった。洗練されたという言い方もあれば、曖昧で回りくどいとも言える。また敬語や、1、2人称(I=私、俺、僕、YOU=あなた、お前、あんた)など立場や相手によって呼び方を変えるのもそうだ。結果的に、英語の文章を同じ意味の日本語に普通に翻訳すると、経験上、英語の分量よりも1.5倍から2倍くらいの長さの文章になる。これを原意を損ねずに、できる限り簡潔な表現にして、かつ日本語としてきちんと意味が通るようにするための言語上の工夫が必要になる。だから英日翻訳の技術の大半は、結局のところ日本語の表現能力にあるのだ

それに対し、英語は論理的な構造を持つ言語なので、一般的に言って、文全体は比較的シンプルな構造でできていて、とんでもない意味に受け取られるような複雑な構文はあまりない(文芸作品は別である)。つまり,日本語と比べて曖昧さがなく、直接的で明快な表現がしやすい。英日変換による翻訳と逆で、たとえば同じ内容のことを、文書やメールで日本語で書くのと、英語で書くのとでは、英語の方がずっと少ない語数で表現できる。(もちろん、そもそも使える語彙が少ないこともあるし、その人の英語力にもよるのだが、英語は比較的簡単な単語の組み合わせでも、十分意味や意図が通じるのだ)。また英語でプレゼンテーション資料を作るのと、日本語で作るのとでは、経験的に英語の方がずっと労力が少なくてすむ。いずれの場合も、余計な言葉の修飾や言い回しをあまり気にせずに(敬語や気遣いも含めて)、少ない語数で論理的に積み上げてシンプルに表現することができるからで、特に相互の意志疎通が第一に優先されるビジネスの場では、英語の持つ明快さと論理性が非常に有効だ。

外来文化を貪欲に取り入れて来た日本は、他国に比べ歴史的に海外文献や情報の翻訳というものの価値が高く評価されてきた国らしい。一方で、日本語の特殊性が目に見えない壁となって、ある意味で日本文化や日本経済を外部の圧力から守ってきたのも事実である。確かにそういう歴史を考えると、翻訳は一つの文化であったとも言えるし、その言語上の技術は価値あるものだったと言えるだろう。今やインターネットによって、百科事典以上の情報や外国語辞書は簡単に見ることができるし、昔は困難だった難しい語句や、珍しい固有名詞の意味も今はあっという間に確認できる。だがスピードが求められる現代にあっては、特にビジネスの場では会話でも文書でも悠長に翻訳しているヒマなどない。また英語がデフォルト(国際標準)言語になってしまった以上、昔ならいざ知らず、相手の方が日本語を勉強したらどうだ、とももはや言えない(言いたいが)。しかし、まだまだひどい翻訳も多いが、現在のAIの進歩から予測すると、既に行なわれている定型文の自動翻訳をはじめとして、近い将来ほとんどの文章の英日翻訳は、コンピュータで処理できるようになるのではないだろうか・・・と思っていた矢先、昨年末に発表された新しいGoogle翻訳を(遅ればせながら)最近試してみたところ、これはコンピュータによる機械翻訳の次元を一気に変えた革命的な」システムだと思った。従来のぶつ切り単語変換ではなく、上に書いたようにコンテクスト(文脈)を把握した上で、適切な訳に変換するという人間の作業に近いプロセスをAIが行なう仕組らしいが、まさかここまで一気に進化するとは思わなかった。

驚いたのは、英日ばかりか日英翻訳の質も飛躍的に向上していることだ。他の言語はどうか知らないが、日本語を対象にここまでの変換ができるのはすごいことだと思う。それを普通のコンピュータ画面上で、テキストもファイル全体も瞬時に変換してしまうところも驚異的だ(まだ未体験の人は、一度試してみることをお勧めします。多言語対応で、音声による変換もできるし、行ったり来たりの変換を繰り返したりとか結構遊べます。カメラで写した文字の変換ができるアプリまで登場した)。我々が日本語訳を見て不自然に思うところもまだまだあり、日英変換も英語ネイティブが読めばそうなのだろうが、これだけの英語を日本人が書くことがどれだけ大変かを考えると、まさしくドラえもんの「ほんやくこんにゃく」の世界である。特に英語による世界への発信の少なさが大きなハンディになっている日本(国、団体、個人)にとって、この日英翻訳技術の進化は大変な効果をもたらすだろう。この世に完璧な翻訳というものは存在しないし、実世界では「ほどほどの」翻訳ですむケースが大部分なので、文芸や、正確な翻訳を必要とする分野を除く大半の文章(簡単な通信文や、論理的に書かれたビジネス文書、論文等)の翻訳は、学習を続けるコンピュータがいずれほとんど代替するようになるだろう。さらに音声認識システムが並行して進化すれば、文書のみならず会話でも同じことが実現できる。複数言語による文書の「同時」作成も可能になるし、もっと先には、AIが「複数言語で同時に<小説>を執筆する」という世界ももはや夢物語ではない。

ただし、誰もが簡単に、異言語(外国語)のおおよその意味が理解できるようになるということは、逆に、高度な言語能力を有した人の価値(需要?)だけがさらに高まるという可能性も示唆している。その点では、インターネットの普及による情報と知識レベルの平準化によって、実業や芸術など、既に他の分野で起きていることと同じだ。しかしながら、AIによるこの言語を扱う革命的技術が世界をどう変えるのかは想像を超えている。「モノ」造り、「IT」、「IoT]と来たこれまでの技術革新とは「質が違う」からだ。単純に、便利で楽になったと喜んでばかりいられない気もする。語学の習得を含めて、人間が手や足のみならず「自分の頭」を使う機会までますます減っていくのも、良いことなのかどうかはっきりしない(もちろん人間は、そうした新技術を利用しながら生き続けてゆくのだろうが)。インターネットが既に世界中の情報交信の壁を取り払い、さらに難しいと思われていた民族や国家間の言語の壁まで取り払われることになると、これから先いったいどういう世界が到来するのだろうか?……などと妄想しつつ、今日も「人力」英日翻訳に悪戦苦闘している私であった。

2017/04/01

英語を「読む」(1)

ジャズの本でもなければ、今更こんな分厚い本を読むこともなかっただろうが、「Lee Konitz」や「Thelonious Monk」の英語の分厚い原書を読んだり翻訳したりしているうちに、合弁企業の社員時代に米国の親会社とのコミュニケーションで苦労していたことを色々思い出した。海外との合弁企業というのは、グローバルな視点、文化の違い、多面的な考え方を学習するには非常に有益な部分もあるが、一方で異文化間の摩擦と絶えず向き合い、それを解消するためのアイデアと努力が必要で、それには異言語による複雑なコミュニケーション技術が日常的に要求される。そういう場では英語だけいくら上手でも限界があるし、また日本人同士が、日本語だけで議論したり交渉できる世界とは別の知識や技術がどうしても必要で、そうした過程で感じたり考えたことも数多い。いっそのこと、どちらか一方の資本100%にしてくれた方が、どんなに気楽かと何度思ったかわからないし、それだけで一冊本が書けるほどの経験をしたと思う。世の中には数多くの英語や翻訳の達人がおられると思うし、私の英語レベルなど所詮たいしたことはないので、えらそうに語るのも気がひけるのだが、そうした会社員時代の体験と現在の翻訳作業を通じて、「言語」というものに関して思ったことがいくつかある。

アメリカ人はとにかく「活字」好きだと思う。26文字のアルファベットだけで、あらゆる「言葉」を組み立てるというある意味非常にシンプルな言語構造と、言語によるコミュニケーションの道具としての活字の利便性、それに対するある種の偏愛(?)が、タイプライターから始まって、ワープロ、コンピュータ・ソフト、Eメール、ツイッターに至るまでの文書作成とその利用技術の発達を促してきたことに間違いないだろう。学生もそうらしいが、とにかく文書を読み、書く量は一般の会社でも半端ないほどである。昔よくプールサイドで日光浴しながら横になって、「分厚い」本を読んでいるアメリカ人の姿を映画やTVドラマなどで目にしたものだが、まさにあのイメージである。日本人はあんな分厚い本を、しかも屋外で読むことはないだろう(普通は文庫だ。というか、今の日本人はますます本を読まなくなっているが)。アメリカでも今はきっと軽く小さな端末で読む人が多いのだろうが、コンピュータの発達も、インターネットの情報洪水も、その大元は、アルファベットと数字だけで何もかも表現できるシンプルな文字文化があったからこそだろう。

26文字のアルファベット(表音文字)だけを組み合わせて、ある「意味」を表現する言語と、日本語のような象形文字由来の輸入漢字(表意文字)と、ローカル言語である音(おん)読みのひらがなや、カタカナを組み合わせて表現する複雑な言語とでは、そもそもその言語を使う民族の脳の機能(情報処理プロセス)に与える影響が違うのは当然だろう。たとえば対象全体を漠然としたイメージでまず捉えて(「山」とか「川」とかの象形)、徐々に細部の認識に降りてゆく文化と、単独では意味のない文字(a,b,c…)をブロックのように並べることだけで、ある事物の意味を表す文化では、脳が「意味」を認識するプロセスが違うと思う。日米の郵便の住所表記順の違いが、そうした認識の順序をよく表している。大きな地域から、徐々に狭い地域に順に表記して、最後にいちばん小さな番地を書く日本の住所に対して、いちばん小さな番地から始まって徐々に大きな地域を表記してゆくアメリカの住所表記の違いが、発想の違いを示す典型的な例だろう。年月日の表記順もそうだ。つまり細かな事実(情報)を一つ一つ積み上げることによって、全体像を把握するという論理思考が彼らの根底にはある。

コンピュータで「0と1」という2つの数字だけを組み合わせて複雑な意味を伝えるデジタル信号の世界も同じだ。英語という言語が構造的に持つ論理性もそこから来ているのだろう。まずは大雑把に全体を捉えることで直観的にほぼ結論が見えていることを、一つ一つ論理で積み上げてたどり着くこの認識方法は、時として大方の日本人には面倒で非常に頭が疲れるものなのだ。アメリカ人は大雑把なところもあるが、こうしたプロセスは非常に細かいし妥協しない。白か黒か(Oか1か)をはっきりさせないと気が済まない(論理的)文化と、どちらとも言えない曖昧なグレーゾーンにもある種の意味を認める(情緒的)文化との違いも、突き詰めるとそこに行き着くのではないだろうか。言語はその民族の「思考」方法に大きな影響を及ぼすと思う(あるいはその種の思考方法を持つ民族だから、それに適合した言語を作り上げた、と言えるのかもしれないが)。これはあくまで個人的体験に基づく私見だが、おそらくこの民族の思考方法と言語の関係を学問的に研究している人たちもいるのだろう。

文法も言語構造によって規定される。英米語と中国語の語順の類似性(SVO)、一方日本語と朝鮮語の類似性(SOV)は明らかで、東洋人の中でも日本人、韓国人の英会話が、中国系の人たちに比べて一般的に流暢さに欠けるように思えるのも、発音の問題(音数が少ない)だけではなく、この文法の違いのせいもあるのだろう。脳が「遠回りして」(ワンクッション置いて)認識し、処理しなければならないからだ。幼少時からバイリンガルで育たない限り、この英米語に対する言語的ハンディキャップは余程の努力をしない限り埋めようがない。どうでもいいような話をしているときにはあまり感じないのだが、特に会議や議論の場などで、同じ土俵でハイレベルの議論を「口頭で」英米人とするときに、この差を強く感じる。「瞬間」の思考と論理の組み立て方が違う。というか「見ている」世界が違う、と感じることもある。日本で育った日本人が、英語を主言語とする国際舞台の議論や交渉で不利なのは当然で、言語表現能力のハンディに加え、頭の中で自然に行なう論理の組み立て方がそもそも違うからである。

若い時から英語圏に身を置いて学習する(脳の訓練をする)のがいちばん良いのは間違いないが、日本の中にいてもある程度はこのハンディを埋めることはできるように思う。それには文書であれ、メールであれ、交渉事や議論にあたって自分の考えを英語の文章で書いて相手に伝えることである。瞬間に反応するジャズの即興演奏はできなくても、譜面に書いたものならなんとか演奏ができる、というようなものだろう。文章によるコミュニケーションでは、何より書く時間があり、言語能力の差を埋める技術がある程度有効なので、対等とまでは言えないまでもハンディはかなり縮まるのではないかと思う。ただしそれには、上に述べたような英語の持つ論理プロセスに基づいた文章を書く、つまり相手の論理に合わせてものを考えることを習慣化することが必要だ。英語の論理と、各語句の持つ広い意味を考慮せずに、日本語的解釈と論理だけで英文を書くと、大抵はやたらと長くて修飾の多い英語になってしまうもので、それは話す場合も同じである。正確で論理的な英語文書を書く技術は、英語でのハイレベル・コミュニケーションにおける日本人のハンディを補う非常に有効な手段だと思う。

その英文ライティングの基盤となるのが「目で読むこと」、つまりリーディングであり、正しい(論理的な)英語を「大量に、速く読む」視覚訓練によって、脳が自然に英語の基本文体と論理、同時に言語としてのリズムも記憶する。さらに声を出して読むことによって聴覚も訓練されるので、その効果も倍増する。異言語の習得とは結局「真似」をすることなので、こうした訓練によって結果的に正しい英語を書ける確率も高まり、同時に耳から入った音声の意味を聞き取るヒアリング能力も高まる。論理的スピーキングの能力も当然その学習量に比例する。昔からよく宣伝されている「英語のシャワーを浴びる」というヒアリング方法も、耳から入った複雑な情報まで脳が瞬時に理解できるように訓練されていなければ、簡単な会話以外効果はないだろう。これは古くから英語の達人たちの多くが提唱してきたことなのだが、最近の中学英語の教科書を見ると、これまでの反動からリーディングを軽視し、どうやら「聞く」、「話す」に非常に偏っているように見えるのは問題だと思う(そうではない教育方針でやっている学校もあると思うが)。「寿司と天ぷら、どちらが好きですか?」というような、実用英会話レベルは確かに上がるかも知れないが、高度なコミュニケーション能力(これが最終的な達成目標だと思うので)を培うためには、英語を大量に「読む」こと、リーディングこそが学習の最大の要なのである。そして、その訓練の開始時期も若ければ若いほど効果が高まることは言うまでもない……ただ私の場合、残念ながらその時期がやや遅すぎたようだ。

2017/03/25

映画「ラ・ラ・ランド」にモンクが・・・

Straight No Chaser
1966/67 CBS
映画は最近ほとんど見ていないし、そもそもミュージカルもあまり興味はないのだが、観に行った妻の「モンクが出てたわよ・・・」という一言で、久々に重い腰を上げて評判の映画「ラ・ラ・ランド La La Land」を観に映画館まで出かけた。正確にはモンクが出ていたわけではなく、映画の冒頭でジャズ・ピアニストを目指す主人公(ライアン・ゴズリング)が、レコード(LP)に合わせてピアノを練習しているシーンが出て来るのだが、その曲というのがセロニアス・モンクが弾く〈荒城の月〉だったのだ。1966年のモンク2度目の日本ツアーで、日本人の誰かが教えた滝廉太郎のこの曲(*)の持つマイナーな曲想をモンクが気に入り、日本公演で披露したところ大受けし、帰国後のニューポート・ジャズ・フェスティバルで初演し、そこでも喝采を浴びたので、その後モンク・カルテットのレパートリーに加えたという話がロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に出て来る。(当時のモンクは曲作りに苦労するようになっていて、新曲がなかなか書けなかったことも背景にある。)

(*追記4/7: 先日Webを見ていたら、ANAの広報ページ<Sky Web 2007年>のインタビューで、1966年のモンク来日時に写真を撮っていた「新宿DUG」のオーナー中平穂積氏が、お礼としてモンクにあげたオルゴールの曲が「荒城の月」だったと語っている。この演奏アイデアの源は中平氏のオルゴールだったようだ。ニューポートで初演したときに中平氏は現地にいて感激して泣いた、という話もしている。)

その後、この曲はモンクのアルバム「ストレート・ノー・チェイサーStraight, No Chaser」(CBS 1966/67)に〈Japanese Folk Song〉という(大雑把な)曲名で収録されているので、主人公が聞いていたのはたぶんこのレコードだろう。妻がなぜモンクの演奏だと気づいたかというと、家で私がずっとかけていたモンクの音源の中にこの〈荒城の月〉があり、妻もそれを何度も耳にしていて覚えてしまったからだ。このアルバムは、モンクの有名なブルースであるアルバム・タイトル曲や、冒頭のいかにもモンク的な〈ロコモーティヴ〉、デューク・エリントンのバラードをチャーリー・ラウズ(ts)が美しく演奏した〈I Didn’t Know About You〉、モンクのピアノ・ソロによる賛美歌など、全体として非常にリラックスした演奏が楽しめるレコードだ。監督のデミアン・チャゼルが、なぜその場面で「モンクの荒城の月」をあえて選んだのか、その意味や意図は不明だ(日本の観客に受けると思ったのだろうか?)。

A Celebration of
Hoagy Carmichael
1982 Concord
 
同じく映画の最初のところで、主人公のアパートを訪ねた姉が椅子に座っていると、帰宅した主人公が「その椅子は(ホーギー)カーマイケルが座った貴重な椅子なんだから・・・」と言って、姉から椅子を取り上げるシーンがある。たぶんカーマイケルが何者なのか知らない人がほとんどだと思うが、Hoagy Carmichael1899年生まれの白人のジャズ・ピアニスト、歌手で(デューク・エリントンと同じ生年)、ビックス・バイダーベック(白人でクール・ジャズの始祖と言われている)、ルイ・アームストロングなどと共演したが、何より作曲家として有名な人だ。〈Stardust〉,〈Georgia On My Mind〉,Slylark〉など、どことなく哀愁のある数々の名曲を作曲しており、これらはジャズ・スタンダードとして、白人、黒人を問わず多くのミュージシャンに取り上げられている。私は彼のレコードそのものは持っていないのだが、その名曲をデイヴ・マッケンナDave Mckennaという白人ピアニスト(ソロピアノの名人)が、ピアノソロでライヴ録音したレコードは持っている。それがConcordレーベルの「Celebration of Hoagy Chamichael」(1982)というレコードである。

このレコードは私の愛聴盤でもあり、マッケンナがとにかくゆったりと、次々に奏でるカーマイケルの名曲は、目の前で演奏されているような臨場感のある録音の生々しさもあって、1人でじっくり聴いていると本当にリラックスして聴き入ってしまう素晴らしいレコードだ。その中でも特に好きな曲は、1938年作曲の〈ザ・ニアネス・オブ・ユーThe Nearness Of You〉で、ネド・ワシントンによる歌詞を含めて原曲はいかにもアメリカを感じさせる甘いバラードだが、枯れた風情のマッケンナのピアノが実にしみじみとして味わい深いのだ。マイケル・ブレッカーの文字通りの「ニアネス・オブ・ユー」(2001 Verve)というアルバムで、ジェイムズ・テイラーがこれも味のある歌を聞かせるヴォーカル・バージョンもあり、他にもノラ・ジョーンズやダイアナ・クラールもカバーしている。映画「ラ・ラ・ランド」中のオリジナル曲は、冒頭の〈Another Day of Sun〉 や、主演女優エマ・ストーンがシャンソン風に歌う〈Audition(夢追い人)〉など、全体として優れた楽曲が多いとは思うが、主役の2人を結ぶロマンスの鍵となる肝心のソロ・ピアノ〈Mia & Sebastian’s Themeという曲らしい〉が、ジャズでもなければクラシックでもないような中途半端な曲で、これだけは「何だかなあ・・・」と思った。私なら、ここにマッケンナがソロで演奏する〈ザ・ニアネス・オブ・ユー〉をかぶせるのになあ、とつくづく思った。こちらは正真正銘のジャズ・ピアノであり、しかもアメリカ的ロマンチシズムに溢れる美曲だからだ。(映画を見た人は、騙されたと思って、ぜひこのレコードのこの曲を一度聴いて比較してみてください。)

映画<La La Land>
Soundtrack
ハリウッドで作り、しかもロサンジェルスを舞台にしたミュージカル映画なので、「ジャズ」がモチーフになってはいても、その扱いが浅く、全体として「白人が作りました感」は否めない。しかし私には、(そんなもんだと思っているので)そこは別に気にならない。「ラウンド・ミドナイト」も「バード」も見たが、何せ映画でジャズをテーマにして描くのは難しいのだ。ジャズの演奏をうまく使った古いフランス映画(「死刑台のエレベーター」とか「危険な関係」)もあるが、最高の「ジャズ映画」と言えばやはり「真夏の夜のジャズ」(1958)と、セロニアス・モンクの「ストレート・ノー・チェイサー」(1988)という2つのドキュメンタリー映画だろう。とはいえ、私はミュージカルについてはたいした知識もなく、過去の作品へのオマージュやパロディと思われる部分の面白さ等が理解できたわけではないが、主役は男女ともに良かったし、踊りも楽曲も良く(上記ソロピアノを除き)、映画としては十分に楽しめた。

この映画の主題を簡単に言うと、「常に進化しなければ」という脅迫観念に捉われているアメリカ人が、絶え間ない進化の陰で捨ててきた「古き良きもの」(映画では、ジャズはその象徴として描かれているにすぎない)に対してどことなく感じているある種の罪悪感と、「頑張れば夢はいつか叶うものだ」という、楽天的な古来のアメリカン・ドリームの2つを組み合わせたごく月並みなものだと思う。アメリカ人が無意識のうちに共有しているこの2つの要素を、これもアメリカ伝統のロマンスを軸にしたミュージカル映画というパッケージにくるんだ見事な3点セットになっているからこそ、多くの「アメリカ人」の心の琴線に触れ、支持されたのだろう。グローバリゼーション(アメリカ化)によって、今やその2つとも世界共通の普遍的なモチーフなので世界中で受け入れられているのだろうが、この映画を称賛する他の国の人たちが、アメリカ人ほど「切実に」そこに共感しているのかどうか、それはわからない。

2017/03/21

アメリカ人はジャズを聴かない

Bill Evans
Waltz for Debby
1961 Riverside
・・・と言うと身も蓋もないように聞こえるが、勤めていた合弁企業の親会社がアメリカ北部の田舎町にある企業だったので、これは私の非常に狭い体験から出てきた結論である。1980年代までは、親会社には黒人や南米系の従業員やマネジャーもいたのだが、90代以降になってからは、数百人はいた本社事務所はほぼ米国系、ヨーロッパ系(駐在)の白人ばかりになった。その間付き合ったアメリカ人でジャズを聴いていた人は知る限り1人だけで、あとはヨーロッパ系の人間が2人だけいた。一般にヨーロッパ系の人間の方が、ジャズ好きが多いように思う。そのうちの1人(ベルギー人)の家に行って、彼のステレオでジャズのCDを一緒に聴いたりした。田舎町で隣家を気にする必要がまったくないので、イギリス製ステレオ装置のボリュームをいくら上げても構わないというのが実に爽快だったことを覚えている。それと、ビル・エヴァンスのライヴ盤「Waltz for Debby」も聴いたのだが、自分の家で聴くのとまったく違う音楽に聞こえるという不思議な体験をした。「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、グラス同士がカチカチとぶつかり合うあの音も妙にリアルだった。たぶん再生装置だけでなく、周囲の静寂(SN比)と、家の広いスペースがそう感じさせたのだろう。

彼らは何を聴いているのか、というと大抵はポピュラー音楽か、カントリー音楽だった。若い人たちは当然ロックを聴いていたのだろう。田舎町ということもあって、ジャズクラブなど無論ないし、ジャズのコンサートなどもほとんどなかったようだ(知る限り)。小さなライヴ・ハウスのようなものもあったが、そこでは主にカントリーが演奏されていたようだ。その町にカラオケが登場したのもずいぶん後になってからで、日本で一緒に出掛けた経験からすると、音感も含めて大抵の人の歌は下手くそだった。日本人の足元にも及ばない。だがこれをもって、アメリカ人は歌が下手だ・・・とは一概に言えないだろう。子供の頃からしょっちゅう歌っている日本人と違って、そういう場と訓練がないのだから仕方がない。ひょっとして生バンドが伴奏したら、アメリカ人の方が乗りもよく、上手いということだってあるだろう(ないか?)。日本のジャズファンが千人に1人だとすると、アメリカ(あくまでこの地方)では、5千人から1万人に1人くらいの感覚だろうか(まったく根拠はないが)。ニューヨークやシカゴのような都会に行けば、人種構成も多彩になるし音楽環境もあるので、もっと数は多いのだろうが、それでも人口比はあまり変わらないのかもしれない。若い人がジャズを聴かないのは日本と同じだろう。毎日、世界で起きていることが瞬時にわかるような、世の中全体が蛍光灯で隅々まで明るく照らし出されたような時代にあっては(これはアメリカナイズと同義だ)、「陰翳」(もはや死語か)というものを感じ取る感性がまず退化するだろうし、クラシックであれジャズであれ、それを魅力の一つにしてきた音楽への関心も薄れるのは当然か。

Lennie Tristano
Tristano
1955 Atlantic
アメリカにおけるモダン・ジャズの物語を読んだり、見たりしても、主役の黒人ミュージシャンたちを除くと、登場するのはほぼユダヤ系かイタリア系の白人だけだ。レニー・トリスターノのような天才やジョージ・ウォーリントンのようなイタリア系の有名ピアニストも何人かいるが、イタリア系はたとえばジャズクラブ「ファイブ・スポット」のオーナーだったテルミニ兄弟とか、やはりビジネス業界側が中心のようだ(「ゴッドファーザー」の世界)。一方ユダヤ系の白人はリー・コニッツやスタン・ゲッツのような有名ミュージシャン、ブルーノートのアルフレッド・ライオンのようなプロデューサー、レナード・フェザーのような批評家、その他ショー・ビジネスの関係者など各分野にいる。とりわけ映画も含めて、アメリカの芸術、音楽、ショー・ビジネス全般におけるユダヤ系の人たちの影響力は、我々の想像をはるかに超える範囲に及んでいる。一方のアメリカの中枢、いわゆるWASP系は、そういう世界では影が薄いようだ。ちなみに親会社があった北部の町は、調べた限り、現在その地域の住民の95%は白人であり、そのおよそ半分はドイツ系、イギリス系の祖先を持つ。しかしモンクのパトロンだったニカ男爵夫人が、イギリス生まれのユダヤ系(ロスチャイルド家)の人物であり、マネージャーだったハリー・コロンビーがドイツ系のユダヤ人移民だったことを考えると、こうした統計の意味も単純ではない。今更だが、「日本人は・・・」と言うように、一言で「アメリカ人は・・・」とは言えない複雑な背景がアメリカという国にはある。ジャズはそういう国で生まれ育った音楽なのである。にしても、大統領がトランプとは・・・。

2017/02/26

モンク考 (4) 米国黒人史他について

著者ロビン・D・Gケリー氏はニューヨーク・ハーレム生まれで、現在カリフォルニア大学教授を務める歴史学者である。米国黒人史を専門とし、これまでに同分野の多くの著書も発表していて、2冊の邦訳版もある。(自ら楽器も演奏し、またジャズを中心としたブラック・ミュージックについての造詣も深く、関連誌に多くの論稿も寄稿している。)著者はモンクの物語を貫く縦糸として、米国黒人史を織り込むことを最初から意図して本書を執筆しており、その点があくまで音楽を主体とした従来のジャズマン個人史や評伝との違いだろう。ノースカロライナ州における19世紀奴隷制時代の米国の状況と、そこで生きたモンクの曽祖父から物語を始め、セロニアス・モンクという姓名の由来、少年時代からの逸話、伝聞、発言等を整理し、そこにモンクの演奏記録、また当時の様々なレビュー等を引用した上で、それぞれの情報を徹底的に検証している。そしてその作業から得られた「事実」として確度の高い情報を、いわばジグソーパズルのように時系列に沿って丹念に配置してゆくことによってモンクの実像に迫ろうとしている。

したがって、物語の途上では米国黒人史で起きた悲惨な事件や政治的事例が数多く挿入されている。モンク自身は、共感するところはあったにしても政治活動には直接関与しなかった純粋な音楽家だったことが本書からわかるが、日本人が知らない、あるいはよく理解していない、そうした歴史的背景とジャズという音楽は不可分なのだという思想はもちろん理解できる。実際モンクを始め、多くのジャズ・ミュージシャンが警察の暴力の被害に会っており、そして近年のアメリカにおける、一世紀前と変わらぬ警察による黒人への暴力事件の報道を見聞きすると、残念ながら本書に書かれているエピソードが一層リアリティを増して感じられることも確かだ。数多いそれらの事例と、長期にわたって収集された膨大な資料に拠る克明な記述とが相まって、結果的に原著は長大な本となった。

しかし著者は、敢えてそうした手法を取り入れることで、これまでのジャズ評論やジャズ個人史の問題でもあった主観とイメージ(想像、時に妄想)、間接情報中心の記述をできるだけ排し、より客観的な視点で事実を積み上げることによってリアルなモンク像を描くことに挑戦している。「リー・コニッツ」の著者アンディ・.ハミルトンの場合は、存命の人物への直接インタビューによって、コニッツの演奏思想、哲学とジャズ即興演奏の本質を明らかにしようというアプローチだったが、両著者ともに曖昧な間接情報と脚色を排し、事実に重きを置くという点でまったく同じ姿勢だと言える(二人とも大学教授という共通の職業柄もある)。その点が、ジャズ・ミュージシャンの伝記として本書がアメリカで数々の賞を受賞し高く評価された理由の一つだろう。結果として非常に長い本となったが、細部の事実を含めてこれまで日本では知られていない情報も多く、何よりもジャズ好きであれば、1930年代以降のアメリカとモダン・ジャズ史を新たな視点で俯瞰するノンフィクション読み物としても非常に面白く読める。 

記録映画
<Straight No Chaser>
1988
おそらくモンク・ファンの多くは既に見ておられると思うが、本書中に出て来るドイツのブラックウッド兄弟が1967年に撮影したドキュメンタリー・フィルムを中心にして、1988年に再編集された傑作記録映画がある。それが「ストレート・ノー・チェイサー」(クリント・イーストウッド総指揮、シャーロット・ズワーリン監督――この人も女性である)で、あの 動くモンク“――ピアノを弾き(あるいはピアノにアタックし)、踊り、くるくるつま先立ちで回り、煙草を吸い(時にピアノや床を灰皿代わりにしながら)、話し、道を歩くモンクの姿が捉えられている。ネリー夫人も、ニカ男爵夫人も、息子トゥートも、マネージャーのハリー・コロンビーも、チャーリー・ラウズも、テオ・マセロも、その他本書に登場する多くの人たちの映像と肉声の記録もそこに残されている。そして1960年代後半のニューヨーク、アムステルダム・アベニューも、ヨーロッパ・ツアー中のモンク一行も、モンクが晩年のほとんどを過ごしたウィーホーケンのニカ邸内部のモンクの部屋とピアノ、そこから見えるハドソン川とマンハッタンの遠景、おまけに ”キャットハウス” ニカ邸の住人だった多数の猫たちも登場する。モンクが晩年を過ごし、最後を迎えたニカ邸で当時暮らしていたバリー・ハリスが、トミー・フラナガンとピアノ・デュオでモンクの曲を弾くシーンもある。そして最後に、正装で棺に納められたモンクの葬儀の模様も挿入されている。ジャズ・ファンにとっては幸福なことに、今やインターネット動画でさらに多くの動くモンクの映像記録も見ることができる。この本を読み、モンクのレコードや音源をあらためて聴き、さらにこれらの映像を見ることで、モダン・ジャズの歴史と、セロニアス・モンクという唯一無二の天才ジャズ音楽家を再発見する楽しみを、多くの人にぜひ味わっていただきたいと思う。