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2017/04/28

鈍色(にびいろ)のピアノ: バリー・ハリス

1970年代後半セロニアス・モンクの晩年に、モンクと同じくニュージャージー州ウィーホーケンのニカ夫人邸で暮らしていたのがピアニストのバリー・ハリス Barry Harris (1929 -) だった。この二人の音楽的交流についての記録は見当たらないが、1976年にモンクがニューヨーク市内で最後に聞いたのが、ピアノ・バー「ブラッドリーズ」に出演していたバリー・ハリスであり、ニカ邸で最後に一緒にピアノを弾いたのも、19822月に自室で倒れていたモンクを発見したのもハリスだった。だから晩年のモンクをいちばん身近で見ていたジャズ・ミュージシャンがバリー・ハリスだったのだ。1988年のモンクのドキュメンタリー映画「Straight No Chaser」には、トミー・フラナガンと共に登場し、モンクの曲を二人で演奏している。ハリスはジャズ教育者、指導者としても著名な人物であり、88歳の今も健在で、ニューヨークでピアノ教師として指導を続けているという。

Breakin' It Up
1959 Argo
バリー・ハリスは十代でビバップの洗礼を受けているので、パド・パウエルの直系バップ・ピアニストと一般によく言われているが、パウエルのようなきらびやかさや情感の表出はあまり感じられない、どちらかと言えば地味なピアニストだ。トミー・フラナガンの華麗さや洗練とも違うし、デューク・ジョーダンの哀愁や抒情とも違って、もっと土臭くブルージーであり、そういう点ではハンク・ジョーンズに近いものを感じるが(人ともデトロイト出身だ)、ハリスのピアノの音色はもっとくすんでいて、湿り気があるような気がする。私の愛聴盤、1959年のデビュー・アルバム「ブレイキン・イット・アップ Breakin’ It Up」(Argo/ William Austin-b, Frank Gant-ds)から既にして、(アルバム・ジャケットそのままの)いぶし銀のような独特のシブい音色が聞こえてくる。ピアノの音に色があるかどうかは知らないが、たとえて言えば「鈍色(にびいろ―濃灰色)」だ。そして聴けば聴くほど味の出てくるその演奏は、場末のジャズクラブで一杯やりながら、肩の力を抜いて聴くともなしに聴いているうちに、いつのまにか引き込まれて聴き惚れてしまうようなすぐれたB級名人芸の味わいがあるのだ。だから何度聴いても飽きない独特の魅力がある。

Plays Tadd Dameron
1975 Xanadu
ハリスはキャノンボール・アダレイとの共演を経て、「At The Jazz Workshop」(1960 Riverside)のようなライヴ演奏をはじめ、60年代以降トリオ作品を何枚か録音しているが、バラードでもアップテンポでも、このシブい印象は変わらない。その後1970年代半ばにバップ・リバイバルが盛り上がった当時にリリースされた、タッド・ダメロンの曲を取り上げた「プレイズ・タッド・ダメロンPlays Tadd Dameron」(1975 Xanadu/ Gene Ramey-b, Leroy Williams-dsというアルバムも、若干こもり気味の録音(LP)だが、上記名人芸の味わいが強くて私は好きだ。ハリスの演奏はバド・パウエルのようにあまり肩肘張って正面から聴いてはいけない。本でも読みながら、あるいは軽く酒でも飲みながら「聴くともなしに聴く」のが正しいバリー・ハリスの楽しみ方だろう。

Barry Harris in Spain
1991 Karonte
 
私はバリー・ハリスのライヴ演奏を生で聞いたことがないので、音色についての印象はあくまでレコードから聞こえる音のことなのだが、1991年にリリースされたアルバム「Barry Harris In Spain」(Nuba, Chuck Israels-b, Leroy Williams-ds)を聴いて一番嬉しかったのは、ハリス的シブさは変わらないものの、楽器の音、余韻、空気感ともに録音が現代的で素晴らしく、それまで演奏はいいけれどもっと音が良かったら(つまり昔のジャズ音ではなく)…という唯一の不満が初めて解消され、ハリスのいつものブルージーで、ゆったりと深みのある演奏すべてがとても気持ちのいいクリアーな音で楽しめたことである。これによりハリス的聴き方の楽しみが倍加した。やはりいい奏者にはいい録音が必要だ(この後に吹き込んだ日本制作盤も音は良い)。このアルバムは冒頭の〈Sweet Pea〉をはじめ、どのトラックもメロディアスで実に聞かせるが、「At The Jazz Workshop」でのバラードの名演 〈Don't Blame Me〉を長年愛聴してきた者としては、円熟したハリスによるこの曲の再演もまた嬉しい。もっともっと長生きしてほしいものだ。

2017/04/25

誇り高きジャズピアノ職人:トミー・フラナガン

星の数ほどいるジャズ・ピアニストの中でも、デューク・ジョーダンと並んでイントロの見事さとメロディ・ラインの美しさで挙げられる双璧の一人がトミー・フラナガン Tommy Flanagan (1930-2001)だ。ジョーダンには素朴で温かくシンプルな美が、フラナガンの演奏には都会的で洗練された華麗な美が感じられる。二人とも、その辺のピアニストでは逆立ちしても弾けない、美しくて分かりやすいメロディと音を次から次へ紡ぎ出す。

Overseas
1957 Mtronome
特にフラナガンのピアノ・タッチの美しさからは、強い美意識を持つがこれ見よがしにしゃしゃり出ることはなく、しかし決して手を抜かず、いつでも最善を尽くし、最良の仕事をしようとする日本の誇り高い職人気質と相通じるものを強く感じる。端正なその演奏には、ある意味「日本的」気品すら漂っているかのようだ。しかもあれだけ数多くのセッションに参加しながら常に新鮮な聞かせどころがあり、その手のピアニストにままある「どれを聴いても一緒」というマンネリの印象が全くないところがすごい。リズムは勿論、いかに音とフレーズの引き出しが多いか、そしてその使い方にいかに優れたジャズ・センスと高い技術を持っているか、ということだろう。だからフラナガンのリーダー作にハズレはない。どのアルバムも80点以上で、文句のつけようがない。またサイドマンとしてジャズで言う “versatileなプレイヤーという呼称はまさしく彼のためにある。いかなる相手であろうと破綻なく合わせ、サイドで参加したどの演奏でも(アップテンポでもスローでも)、思わず膝を叩きたくなるようなリズムと旋律でピアノを唄わせる部分が必ず出てきて、ジャズの醍醐味を味あわせてくれる。特に惚れぼれするような上品で洗練されたメロディ・ラインはフラナガンの真骨頂だ。

Confirmation
1977 Enja
1950年代にあまたのジャズ名盤に名を連ね、名脇役として知られている一方、自己のリーダー作はウィルバー・ウェア(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)とのピアノ・トリオ「オーバーシーズOverseas」(1957 Metronome)が最初で、それ以降60年代からはジャズ・ビジネス環境の変化もあり、70年代前半にはエラ・フィッツジェラルドの歌伴を中心とした時期を送るなど10年間ほどは寡作だった。しかし77年に再びエルヴィン・ジョーンズ (ds) を迎えてドイツEnjaレーベルに吹き込んだ、「Overseas」の再演とも言える「エクリプソEclypso」で主役としての登場機会が一気に増加し、その後2001年に亡くなるまでコンスタントに上質なリーダー作をリリースし続けた。特に再び脚光を浴びた70年代後半はバップ復興の流れと、フラナガンもまだ40代で経験、気力、体力ともに充実していたためだろう、全盛期とも言える演奏が目白押しで、Enjaレーベルでの諸作の他、「Montreux ’77 ライヴ」(Pablo)での名演など、どのアルバムも非常に質が高い。

Jazz Poet
1989 Timeless
「コンファメーション Confirmation(1977 Enja) はジョージ・ムラーツ (b)、エルヴィン・ジョーンズ (ds) という上記「Eclypso」と同じメンバーによる演奏で、別take 2曲と、同日録音の他2曲、それに翌78年録音の2曲で編集した言わば「裏Eclypso」である。したがってタイトル曲〈Confirmation (take)〉 などエルヴィンの煽る躍動感溢れる演奏も勿論楽しめるが、全体に歯切れのよい動的な「Eclypso」に比べ、フラナガンのバラード・プレイが美しい 〈Maybe September〉、〈It Never Entered My Mind〉 などの印象から、静的なイメージの強いアルバムだ。ジョージ・ムラーツの深々としたよく唄うベースも聴きどころで、フラナガンの70年代を代表する作品の一つとして誰もが楽しめる優れたピアノ・トリオだ。また80年代以降も何枚もの秀作をリリースしているが、中でも「ジャズ・ポエト Jazz Poet」(1989 Timeless)では、ジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)と、タイトル通りフラナガンの美的センスが生かされた素晴らしい演奏が聴ける。特に 〈Lament〉  〈Glad to be Unhappy〉のようなバラード演奏はイントロからして溜息が出るほど美しく、さらにルディ・ヴァン・ゲルダーによる録音がフラナガンの美しいピアノの音色を見事にとらえている。

2017/04/21

優しき伴走者:デューク・ジョーダン

バド・パウエルやケニー・ドリューと並んで、アメリカからヨーロッパに移住したピアニストの一人がデューク・ジョーダン Duke Jordan(1922-2006)だ(ジョーダンは1978年にコペンハーゲンに移住)。1940年代後半にチャーリー・パーカーのグループで活動し、パーカーのダイアル盤では短いが実に美しいイントロを弾く初期のジョーダンの演奏が聞ける(その当時に知り合った白人歌手、シーラ・ジョーダンと1952年に結婚している。1962年離婚)。ボクサーになろうかというくらい腕っぷしが強かったようだが、反対に性格は優しく人柄の良い人だったようだ。彼の音楽を聴けばそれは誰でもわかる。映画「危険な関係」の作曲者の件でダマされた(?)のも、そういう人物だったからなのかもしれない。50年代前半にはテナー奏者スタン・ゲッツ (1927-1991)の伴奏者として多くのアルバムに参加しているが、絶頂期だったゲッツの当時の名盤の1枚「スタン・ゲッツ・プレイズ Stan Getz Plays」(1952 Verve/ Jimmy Raney-g, Bill Crow-b, Mousie Alexander-ds)で、美しく流麗なゲッツのソロの背後で、目立たずに優しく抒情的な雰囲気を作り出しているのは、間違いなくジョーダンのピアノである。

数多いジャズ・ピアニストの中でも、デューク・ジョーダンはトミー・フラナガンと並ぶイントロの名人である。2人とも長い活動期間を通じて数多くの作品に参加しているが、しゃしゃり出ずいつも控えめでいながら、そのイントロやメロディ・ラインの美しさで必ず聴く者をはっとさせ、そしてどの演奏も常にジャズのフィーリングに満ちているところも同じだ。そこに日本の優れた職人気質と共通の美意識を感じることから、私はトミー・フラナガンを「誇り高きジャズピアノ職人」と称しているが、同じ理由でデューク・ジョーダンもその職人仲間である。けれどフラナガンの近寄りがたいほどの「誇り」と都会的洗練に対し、美しいがもっと親しみやすく、素朴でどこか人肌の温かさを感じるのがジョーダンなのだ(日本の職人さんにもいますね、両方のタイプが)。早いパッセージでもスローな曲でもそれは変わらず、いつでも人間味の感じられる演奏がジョーダンの魅力だ。フラナガンもジョーダンも、ピアニストとしてジャズ史に残るような芸術家ではないが、2人のどの演奏からも、誰もがジャズの魅力を感じとることのできる素晴らしいジャズ演奏家だ。

デューク・ジョーダンがリーダーのアルバムも数々聴いてきた。Blue NoteSignal1978年のデンマーク移住後の多くのSteeple Chase盤、後年の日本での何作かの録音など(「Kiss of Spain」他)、ジョーダンは70年代以降非常に多くのトリオ・アルバムを吹き込んでいるが、ピアノ・トリオとしてのアルバム完成度は、初のヨーロッパ録音で、印象的なアルバム・ジャケットで知られる「フライト・トゥ・デンマーク Flight To Denmark」(1973 Steeple Chase/ Mads Vinding-b、Ed Thigpen-ds)がやはり一番だろう。アルバム全体から聞こえてくる哀愁とでも呼びたい抒情と優しいメロディは、いかにも日本人が好むもので、他のピアニストには決して出せない類の情感だ。このアルバムはどの演奏も耳に心地よいが、特に「バルネ」でのウィランとの共演や、その後もジョーダンが何度も弾いている愛奏曲〈Everything Happens to Me〉は、実にしみじみとして美しく、このアルバムでのエレガントな演奏が最高だと思う。マット・デニス (vo) の曲で、本人を含めて様々なミュージシャンがインストでカバーしているが、私はデューク・ジョーダンの演奏がいちばん好きだ。ジョーダンはこのレコードの評価によって、タクシー運転手をするなど苦しかった60年代の生活からやっと抜け出してジャズ・シーンに復帰し、その後はデンマークに移住してSteeple Chaseに多くのアルバムを残すのである。

とはいえ、どうしても最後に私が戻ってくるのは、フランスのSwing/Vogueレーベルからリリースされた初リーダー作「デューク・ジョーダン・トリオ」(1954/ Gene Ramey-b, Lee Abrams-ds)である。この素朴なピアノ・トリオには、上に述べたジョーダンの資質が見事に凝縮されていて、シンプルで美しく、どことなく哀愁の漂う、そしてよく歌うメロディ…とジョーダンの原点のような演奏ばかりだ。チャーリー・パーカーも絶賛したイントロで有名な〈Embraceable You〉、そして美しいバラード〈Darn That Dream〉 など、何度聴いてもしみじみするいい演奏なので、ジョーダンを聴いていると結局最後はいつもこの地味なアルバムに戻ってくるのだ。”しみじみしたい”人は、ぜひデューク・ジョーダンを聴いてみてください。

2017/04/18

フレンチの香り:バルネ・ウィラン

ジャズはアメリカの音楽と思われているが、実はその生い立ちにはフランスの血が混じっている。ジャズ発祥の地と言われるニューオリンズは、元はフランス植民地であり、移入されたヨーロッパの音楽と、そこで生まれたクリオールと呼ばれるフランス系移民と黒人との混血の人たちによってニューオリンズ・ジャズが生まれたとされている。アジアの植民地でもそうだったが、異人種の隔離にこだわるアングロサクソン系と異なり、植民地支配にあたって現地人と融合することを厭わないフランスは、結果としてジャズの生みの親の一人になったのである。ジャンゴ・ラインハルト(ベルギー人ギタリスト)に代表されるように20世紀前半からフランスでもジャズが盛んだったが、1950年代に入って,そのジャズが ”モダン” になって言わばフランスに里帰りした。

ジョン・ルイスやマイルス・デイヴィスなどのアメリカのジャズプレイヤーがフランスを訪れ、「死刑台のエレベーター」や、モンクとアート・ブレイキーの「危険な関係」など、映画音楽の世界を通じて折からのヌーベルバーグの文化、芸術活動とも大きく関わった。マイルスなどはシャンソン歌手ジュリエット・グレコとのロマンスまで残しているほどだ。1950年代以降ケニー・クラーク、バド・パウエル、デクスター・ゴードン等々、数多くのジャズ・ミュージシャンが、黒人差別が根強く、生きにくいアメリカを離れてパリに移住した。上に書いたようなジャズとの歴史的関係もあり、フランスは日本と同じく、ジャズとそのプレイヤーを差別なく受け入れ、芸術と認めた国と民族であり、だから彼らはこの二つの国が好きだったのである。サックス奏者バルネ・ウィラン Barney Wilen (1937-1996)も、実はアメリカ人(父)とフランス人(母)を両親に持つハーフということだ。20歳の時に「死刑台のエレベーター」(録音1957)の音楽でマイルス・デイヴィスと、22歳の時に「危険な関係」(1959)でセロニアス・モンク、アート・ブレイキーらと共演している。マーシャル・ソラール(p)やピエール・ミシュロ(b)のようなプレイヤーと並んで、ホーン奏者としてフランスでは当時もっともよく知られたジャズ・ミュージシャンだった。当時のウィランの映像を見ても、アメリカの一流ミュージシャンたちにまったく引けを取らず、堂々と渡り合ってプレイしている。

ウィランは1956年にジョン・ルイス(p)やMJQとの共演盤でメジャー・デビューしていたが、初リーダー・アルバムとなったのは翌1957年、19歳の時に出したLP「ティルト Tilt」(Swing/Vogue)である。このアルバムは別メンバーによる2回のセッションからなり、興味深いのは、ハードバップ・スタンダードの4曲(A面)に加え、セロニアス・モンク作の4曲(B面)を取り上げていることだ。その4曲とは〈ハッケンサック〉、〈ブルー・モンク〉、〈ミステリオーソ〉、〈シンク・オブ・ワン〉で、後にリリースされたCDには、さらに〈ウィ・シー〉、〈レッツ・コール・ディス〉という2曲のモンク作品が追加されている。さらに驚くのは、録音日時が1957年1月であり、ということはモンクが同年コルトレーンと「ファイブ・スポット」に登場する7月より前、また傑作「ブリリアント・コーナーズ」(Riverside)のリリース前、すなわちモンクがアメリカでもまだあまり注目を浴びていなかった時だったことだ。モンクは1954年にパリ・ジャズ祭に出演してヨーロッパ・デビューしていたものの、その時はフランスでも散々な評判で、唯一ソロ・ピアノを評価したVogueに非公式に録音した(ラジオ放送用。Prestigeと契約中だったため)ソロ・アルバムを残しただけだ(これは名盤)。ウィランがここでモンク作品を取り上げたということは、彼がその時点で既にモンクのことをよく知り、その作品を評価していた証であり、フランスでもモンクを評価する動きが既にあったことを意味している。これが、1959年の「危険な関係」サウンドトラックでのモンクとウィランの共演につながっていったと解釈するのが妥当だろう。同時に、フランスが当時いかにジャズに対する興味と慧眼を持つ国だったか、ということも意味している。確かにパリはジャズの似合う街なのだ。

1959年に「危険な関係」撮影のためにパリを訪問していたケニー・ドーハム(tp)、デューク・ジョーダン(p)他とのクインテットで、パリのジャズクラブ「クラブ・サンジェルマン」にウィランが出演したときのライヴ録音盤が「バルネ Barney」(RCA)というレコードだ。フレンチ・ハードバップの香りのする若きウィラン、躍動感に満ちたドーハムやジョーダンのプレイ、またウィランとジョーダンの歌心あふれるバラード〈Everything Happens to Me〉など、聴きどころ満載の素晴らしいレコードだ。モノラルではあるが、当時のパリのジャズクラブの空気まで感じられるようなクリアな録音が演奏を一層引き立てていて、まさに「危険な関係」の時代にタイムスリップしたかのようなライヴ感が味わえる。その後このライヴ録音からは、モンクの〈ラウウンド・ミドナイト〉を含む未発表曲を加えた「モア・フロム・バルネ」もリリースされている。

ウィランは60年代にはフリー・ジャズに接近したり、一時演奏活動を休止した時期もあったようだが、その後復活し、90年代には日本のレーベルにも多くの録音を残していて、それらはいずれも評価が高い作品だ。「フレンチ・バラッズ French Ballads」(1987 IDA)は、復活後のバルネ・ウィラン50歳の時のフランス録音で、フランス人ミュージシャンとフランスの歌曲を演奏したレコードだが、ここではテナーとソプラノを吹いている。ウィランの演奏には太くハード・ボイルド的にブローする部分と、包み込むような柔らかい音色による陰翳の深い表現が混在している。若い時から彼のバラード演奏にはフランス風のある種独特の香気・味わいが備わっていた。その演奏にはやはりアメリカのジャズ・ミュージシャンとはどこか違うテイスト、フランス風の抒情と男性的色気のようなものが漂っていて、バラード演奏にそれが顕著だ。このアルバムでも〈詩人の魂〉,〈パリの空の下で〉,〈枯葉〉 などの有名なシャンソン、あるいはミッシェル・ルグランの作品を演奏しているが、いずれも本場ならではの解釈と、フランス風の香気に満ちた演奏である。

2017/04/14

仏映画「危険な関係」サウンドトラックの謎

ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(1957)にはマイルス・デイヴィス、ロジェ・ヴァディム監督の「大運河」(1957)にはMJQ、エドゥアール・モリナロ監督の「殺られる」(1959)にはアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズというように、当時ヌーベルバーグと呼ばれた新潮流の象徴だったフランス映画には盛んにジャズが使われていた。映画「危険な関係」は、ロジェ・ヴァディム監督による1959年制作の作品である。フランスの貴族を描いた18世紀の官能小説が原作で、舞台を20世紀のパリに置き換え、退廃的な上流階級の恋愛模様をジェラール・フィリップとジャンヌ・モローが演じている映画だ(後年何度かリメイク映画化されている)。小説と同じく映画も反社会的だと物議をかもし、フランスやイギリスでは当初上映禁止になったらしい。ロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に、この「危険な関係」のサウンドトラックとモンクにまつわる面白い裏話が出て来る。私は映画そのものを見ておらず、映画にモンクが関係していることも知らず、この映画に関係する所有ジャズ・レコードは、デューク・ジョーダン(p)がリーダーの「危険な関係のブルース」(1962) だけだったこともあり、この話は意外だった。そこで、この映画と音楽の背景について調べたのだが、映画、音楽ともにネット上でも様々な説明があって、どこにもはっきりしたことが書いていないので、自分でさらに詳細な情報に当たり整理してみた。すると驚くような事実(おそらくだが)が浮かび上がったのである。

「死刑台のエレベーター」にマイルス・デイヴィスを起用した音楽監督、マルセル・ロマーノからモンクに打診があったのは1958年である。モンクは不評だったヨーロッパ・デビュー(1954年のパリ・ジャズ祭に出演した)後はヨーロッパを訪問していなかったが、1957年夏に「ファイブ・スポット」にジョン・コルトレーンと共に登場し、ようやく注目を浴び始めていた当時のモンクをニューヨークで直接見たロマーノが、モンクの音楽をサウンドトラックとして使いたいと申し入れてきたのだ。しかし当時ボストンのクラブ「ストーリーヴィル」出演時に奇妙な行動をし、その後一時行方不明になったりしていたモンクは情緒不安定な状態にあり、なかなかその申し入れを受諾しなかった。ロジェ・ヴァディムもニューヨークまでやって来て、何とかモンクの了承を取り付けようとしたが、モンクはなお首を縦に振らなかった。1959年の夏、映画が完成した後にモンクはやっと承諾したものの、映画のサウンドトラックための新曲は結局書けず、その代わりに当時アメリカ・デビューをしたばかりのフランス人テナー奏者バルネ・ウィランを自分のカルテットに加えて、〈オフ・マイナー〉、〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉、〈パノニカ〉など、当時リバーサイドに吹き込んでいた既存曲をあらためて映画用に録音した。ところがロマーノは、万が一モンクがダメだった場合に備えて、デューク・ジョーダン(p)にも作曲を依頼しておいたのである。そこでモンクのグループ(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)と同じ時に同じスタジオで、バルネ・ウィランを加えたアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによるジョーダン作の曲も録音したのだ。

この映画の音楽担当は確かにセロニアス・モンクとクレジットされているのだが、上映後大ヒットしたのは、当時人気絶頂だったアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのサウンドトラック・レコード「危険な関係」(1960 Fontana)であり、しかも作曲者名としてクレジットされているのは、デューク・ジョーダンではなく全曲ジャック・マーレイ(Jaques Marray)という人物だった。一説によれば、映画中に出て来るナイトクラブでの演奏シーンには、デューク・ジョーダン(p)、ケニー・ドーハム(tp)、バルネ・ウィラン(ts)、ポール・ロベール(b)、ケニー・クラーク(ds)が登場するが、実はそのシーンの音楽は、アート・ブレイキー(ds)、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)にバルネ・ウィラン(ts)が加わった演奏で置き換えられているというのだ。それはニューヨークで、モンクのカルテットと同じ時に録音された演奏ということである。つまりドーハム、ジョーダンやクラークは映画に顔だけは出したが彼らの演奏は使われず、一方ブレイキーのグループは映画には登場しなかったが演奏は使われ、かつそのサウンドトラック・レコードは大ヒットしたというわけである。そしてフランスの当時の新人スタープレイヤー、バルネ・ウィランは3つのセッションいずれにも参加しているのである。

ジャック・マーレイという人物はデューク・ジョーダンの仮名だという説もあるが、ジョーダンは1962年になって「危険な関係のブルース」という映画で使用された曲 ("No Problem")を演奏したレコードを出している(私が持っているもの)。そしてそれはチャーリー・パーカー夫人だったドリス・パーカー所有のパーカー・レコードがリリースしたもので、夫人自身が書いたそのライナー・ノーツには、ブレイキーのオリジナル・サウンドトラックにはジョーダンの作曲にもかかわらず別人の名前が誤って使われており、このレコードこそ本当の作曲者による演奏だとはっきり書いてある。このレコードのメンバーは、ソニー・コーン(tp)、チャーリー・ラウズ(ts)、エディ・カーン(b)、アート・テイラー(ds)である。ジャック・マーレイは確かに実在の作曲家らしく、この映画の音楽も一部担当していたようだが、なぜジョーダンではなく彼の曲としてクレジットされていたのかは調べたがわからなかった。パーカーが可愛がっていたジョーダンを、夫人が当時の経済的苦境から救うためにリリースしたものだと言われているので、この話が真実だった可能性は高い。

ところでモンクの音楽は実際にどう使われたのだろうか? オリジナル映画を確認したところ、映画冒頭のチェスの盤面を使ったタイトルバックの音楽はモンクの〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉である。音楽担当としてのモンク、ジャック・マーレイ、バルネ・ウィラン、モンクのグループ、ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダン、ケニー・クラークの名前は全員が出て来る。だがケニー・ドーハム他の名前はない。バルネ・ウィランを加えたモンク・グループの演奏が〈パノニカ〉他計7曲と、モンクによるゴスペル聖歌のピアノ・ソロ1曲で、これらが映画のほぼ全編に使われている。特に〈クレパスキュール…〉と〈パノニカ〉がメインテーマ曲で、この2曲は何度も聞こえてくる。ブレイキーのグループの演奏が主としてパーティやクラブなど華やかな場面で使用されているのに対して、モンクの音楽は大部分が男女間の微妙な情景の背景音楽として挿入されている。アブストラクトでどことなく不安なムードを醸し出すモンクのサウンドが、このフランス映画のアンニュイで危なげなムードにぴたりとはまって、ロジェ・ヴァディムがなぜモンクの音楽を使いたかったのかがよくわかる。一方ケニー・ドーハム、バルネ・ウィラン、ケニー・クラーク、デューク・ジョーダン(背中だけ?)は確かに画面に登場している。その演奏は明らかにボビー・ティモンズのピアノやリー・モーガンのトランペットなどメッセンジャーズ側のものだが、そこでの音楽「全部」がアート・ブレイキー側の音源なのかどうかはわからなかった(ケニー・ドーハムの顔とトランペット・プレイは何度かアップになっているので、一部はその音をそのまま使っている可能性もある。それが全部リー・モーガンの音だとしたらひどい話なので…)。またモンクが演奏したサウンドトラックは映画中だけで使われ、レコード化されなかった(おそらく映画用新曲が書けなかったために、当時リバーサイドに吹き込んだばかりの曲だけを使ったからだろう)。

本来なら、新曲によるサウンドトラックはもちろん、ナイトクラブでの演奏シーンにはモンクが登場したはずで、また撮影に合わせてパリでのコンサート、クラブ・ライヴも別途企画されていたのだが、モンクの不調でこうした企画はすべてお流れとなってしまったのだ。どうなるかはっきりしなかった当時のモンクを不安視したヴァディムとロマーノが、とにかくバルネ・ウィランをフィーチャーして企画を練り直し、結果として安全策として準備していたジョーダンの曲と、ブレイキーのグループの演奏が脚光を浴びたということなのだろう。この映画の日本公開は1962年で、モンクの初来日は翌1963年だった。映画と完全に一体化したマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」とは対照的に、「危険な関係」の音楽として普通に思い浮かべるのは華々しいブレイキーかジョーダンであり、この映画をモンクの音楽と共に記憶しているジャズファンもほとんどいないのではないだろうか(少なくとも私の世代では)。しかしこのエピソードも、いかにもモンクらしいと言うべきか。

(追記 2017 7/5)
知らなかったのだが、気が付いたら、何とこのとき以降お蔵入りになっていたと思われる、モンクのカルテットにバルネ・ウィランが加わった上記演奏(1959) が、今年になってCD/LP「Les Liaisons Dangereuses 1960」(SAM RECORDS/SAGA) として発売されていた。映画中で聞こえるモンクの演奏はこれが音源である。

2017/04/06

バド・パウエルとモンク

ロビン・ケリーの「Thlonious Monk」 を読んで、セロニアス・モンクとバド・パウエル(Bud Powell 1924-1966)の実際の関係がどのようなものだったのかを初めて知った。7歳年長のモンクがパウエルの師匠のような存在だったという話はこれまでも聞いていたが、2人の具体的な関係や、ジャズ・ミュージシャンとして生きた時代、ニューヨークと、パウエルが一時移り住んだパリ時代の2人の関係など、自分の中で情報が整理できていなかったので、そうだったのかと驚くことも多かった。何より、2人がピアニストとして単なる先輩、後輩の関係だっただけではなく、兄弟のような愛情と絆で結ばれていたことも知った。パウエルの友人だったもう一人の優れたピアニスト、エルモ・ホープも加わって、この3人は生涯の友となるのである。

バド・パウエルは疑いなくモダン・ジャズ・ピアノの開祖であり、パウエルなくしてその後のジャズ・ピアノの発展はなかったと言われているが、和声やリズム面のコンセプトにおいて、初期のパウエルにもっとも大きな影響を与えたのがモンクであり、若きパウエルのジャズ界での成長を後押しし、生涯を通じて彼を支え続けたのもモンクだった。パウエルはピアニスト兼アレンジャーとして初の職場となったクーティ・ウィリアムズ楽団時代に、当時仕事に恵まれず苦労していたモンクの曲<ラウンド・ミドナイト>を、楽団の演目に取り上げて欲しいとボスを説得している。そして、1945年にクーティ・ウィリアムズ楽団によって<ラウンド・ミドナイト>が初録音された。一方のモンクは、1947年に<イン・ウォークト・バド(In Walked Bud)>という、パウエルに捧げた曲を作っている。

パウエルはその後ビバップの中心人物として、全盛期だった1940年代後期から50年代半ばにかけてブルーノート、ルーレット、ヴァーブ等で天才としか言えない別格のレコードを何枚も残した後、徐々に閃きを失い、精神の病も進行していった。その後1959年から5年間をパリで過ごしたが、ジャズ・ミュージシャンを芸術家として温かく迎え入れた当時のパリは、アメリカで苦労していた彼らにとっては救いの都だった。そのパリ時代のパウエル(とレスター・ヤング)のイメージを元にして描いたのが映画「ラウンド・ミドナイト」(1986年)で、落ちぶれた天才テナーマンをデクスター・ゴードンが実際に演じていることで有名だ。アルコールと抗精神病薬の影響もあって、半ば廃人のようになったパリ時代のパウエルを、大江健三郎が目撃している(「危険な綱渡り」)。パリ時代の最後になって結核で倒れたパウエルに送金して助けたのも、1964年にニューヨークに帰還した後、どん底状態にあったパウエルを支えていたのもモンクだった。

パウエルの天才はビバップ高速奏法の技術だけではない。時折垣間見せるロマン派的な情感の表出が並外れているのだ。「ジャズ・ジャイアントJazz Giant」(1949-50 Verve/ Ray Brown &  Curley Russel-b, Max Roach-ds)は、全盛期のそうした両面のパウエルの演奏が楽しめる傑作レコードだ。とりわけ最後に続くスタンダードのバラード3曲(YesterdaysApril in ParisBody & Soul)に聴ける抒情と美は言語を超越する素晴らしさで、まさに芸術の域に達している。そしてパウエルがパリに移住した後は、モンクのヨーロッパ・ツアー時のパリ訪問を楽しみにしていて、現地での2人の再会も友情に満ちたものだったという。そのパリ時代にパウエルが録音したトリオ作品の1枚が、モンクの曲を中心にした「ポートレート・オブ・セロニアス A Portrait of Thelonious」だ1961/ Pierre Michelot-b, Kenny Clarke-ds)。実際このレコードに収録されているモンクの曲は、<ルビー・マイ・ディア>、<オフ・マイナー>、<セロニアス>、<モンクス・ムード>の4曲だけだが、異郷にあったパウエルの、モンクへの友情がそれぞれの演奏から溢れているような、とても温かいアルバムだ。このレコードがCBSからリリースされたのは1965年で、収録された<ルビー・マイ・ディア>についてのレナード・フェザーの皮肉な質問と、パウエルへの慈愛に満ちたモンクの返答が聞ける2人の対談も行なわれている。そして、印象的なこのレコードのジャケットを飾る画は、ジャズ・ミュージシャンの守護天使であり、最後までモンクを支え続けたパトロンであり画家でもあった、ニカ男爵夫人が描いたものである。この画にはやはり、モンクの音楽とどこか相通ずるものを感じる。

バド・パウエルは、その翌年1966年の夏に41歳で短い生涯を終える。そして翌1967年5月にはエルモ・ホープも43歳で急死し、さらにその直後7月のジョン・コルトレーン40歳の死という盟友3人の連続死が、既に肉体と精神を病みつつあったモンクに決定的な打撃を与える。同じ年に、モンクと共にあった伝説のジャズクラブ「ファイブ・スポット」もついに閉店し、モンクをはじめとするミュージシャンたちを苦しめた悪名高いキャバレーカードも廃止され、いわゆる「モダン・ジャズの時代」はここにある意味終焉を迎えた。そして、ベトナム戦争と公民権問題で揺れるアメリカを象徴するように、フリー・ジャズ、ジャズ・ロック、ファンク、エレクトリック、フュージョン等々、その後に続く混沌の70年代に入ってゆくのである。

2017/04/02

英語を「読む」(2)

ところで、英語を読んで「理解」するのと、それを日本語に変換する「翻訳」という作業では脳の使い方がまるで違う。読んで理解するのに、いちいち頭の中で翻訳していたのでは効率が悪い。英文のまま、英語の論理のまま、頭の中で意味を理解するのが一番良い。一方、翻訳という作業は、英語と日本語の言語構造の違いを絶えず強く意識しながら進めなければならない。それと同時に日本語の複雑さ、難しさをあらためて知る作業でもある。しかし英語で読んだものは、その場では理解したように思っても、後で細部が記憶に残っていないことが多い。日本語に翻訳して、日本語で読んで理解したものは、簡単には忘れないのである。歳のせいかと思っていたが、そればかりでなく、これも民族伝来の脳の情報処理機能とメモリーの特性にあるのだろう。ただし、これも脳の訓練次第かとも思う。

英語はドイツ語やラテン語など、多言語を起源にしている「含意」が非常に広く多彩な言語だ。辞書を見れば、同じ単語や語句が実に様々な意味を持っていることがわかる。中にはこんな意味もあったのか、とびっくりするような単語や言い回しもある。したがって、英語のある単語や語句を日本語に変換する際には、まずそうした様々な意味の中から、文全体の主旨から見ていちばん適切だと判断される意味を選択し、次にそれをその「文脈」にいちばん適した日本語に変換しなければならない。ところが、他民族国家ではなく、同種の人間が集まってできた日本という国の起源から、日本語は名詞の持つ「含意」が相対的に小さい言語で(誰が見ても同じものは、一つの単語で通じ合ってきたので)、ある物を表現する語彙数はさほど多くない。また動詞も、主語や目的語に応じて同じ動詞を自在に使い分けるため、目的によって多彩な動詞を使う英語に対応した語句選択が難しい(どれも同じような、単調な日本語訳になってしまう傾向がある)。したがって、そこを補うために修飾する形容詞や副詞がどうしても増えがちだ。他方、たぶん狭い共同体の仲間内の摩擦や争いを避け、円滑なコミュニケーションを優先するために、直接的表現をできるだけ使わないようにしてきた歴史があるからだと思うが、日本語は漢字と仮名という独特の表記に加えて、文の構造と言い回しも複雑になった。洗練されたという言い方もあれば、曖昧で回りくどいとも言える。また敬語や、1、2人称(I=私、俺、僕、YOU=あなた、お前、あんた)など立場や相手によって呼び方を変えるのもそうだ。結果的に、英語の文章を同じ意味の日本語に普通に翻訳すると、経験上、英語の分量よりも1.5倍から2倍くらいの長さの文章になる。これを原意を損ねずに、できる限り簡潔な表現にして、かつ日本語としてきちんと意味が通るようにするための言語上の工夫が必要になる。だから英日翻訳の技術の大半は、結局のところ日本語の表現能力にあるのだ

それに対し、英語は論理的な構造を持つ言語なので、一般的に言って、文全体は比較的シンプルな構造でできていて、とんでもない意味に受け取られるような複雑な構文はあまりない(文芸作品は別である)。つまり,日本語と比べて曖昧さがなく、直接的で明快な表現がしやすい。英日変換による翻訳と逆で、たとえば同じ内容のことを、文書やメールで日本語で書くのと、英語で書くのとでは、英語の方がずっと少ない語数で表現できる。(もちろん、そもそも使える語彙が少ないこともあるし、その人の英語力にもよるのだが、英語は比較的簡単な単語の組み合わせでも、十分意味や意図が通じるのだ)。また英語でプレゼンテーション資料を作るのと、日本語で作るのとでは、経験的に英語の方がずっと労力が少なくてすむ。いずれの場合も、余計な言葉の修飾や言い回しをあまり気にせずに(敬語や気遣いも含めて)、少ない語数で論理的に積み上げてシンプルに表現することができるからで、特に相互の意志疎通が第一に優先されるビジネスの場では、英語の持つ明快さと論理性が非常に有効だ。

外来文化を貪欲に取り入れて来た日本は、他国に比べ歴史的に海外文献や情報の翻訳というものの価値が高く評価されてきた国らしい。一方で、日本語の特殊性が目に見えない壁となって、ある意味で日本文化や日本経済を外部の圧力から守ってきたのも事実である。確かにそういう歴史を考えると、翻訳は一つの文化であったとも言えるし、その言語上の技術は価値あるものだったと言えるだろう。今やインターネットによって、百科事典以上の情報や外国語辞書は簡単に見ることができるし、昔は困難だった難しい語句や、珍しい固有名詞の意味も今はあっという間に確認できる。だがスピードが求められる現代にあっては、特にビジネスの場では会話でも文書でも悠長に翻訳しているヒマなどない。また英語がデフォルト(国際標準)言語になってしまった以上、昔ならいざ知らず、相手の方が日本語を勉強したらどうだ、とももはや言えない(言いたいが)。しかし、まだまだひどい翻訳も多いが、現在のAIの進歩から予測すると、既に行なわれている定型文の自動翻訳をはじめとして、近い将来ほとんどの文章の英日翻訳は、コンピュータで処理できるようになるのではないだろうか・・・と思っていた矢先、昨年末に発表された新しいGoogle翻訳を(遅ればせながら)最近試してみたところ、これはコンピュータによる機械翻訳の次元を一気に変えた革命的な」システムだと思った。従来のぶつ切り単語変換ではなく、上に書いたようにコンテクスト(文脈)を把握した上で、適切な訳に変換するという人間の作業に近いプロセスをAIが行なう仕組らしいが、まさかここまで一気に進化するとは思わなかった。

驚いたのは、英日ばかりか日英翻訳の質も飛躍的に向上していることだ。他の言語はどうか知らないが、日本語を対象にここまでの変換ができるのはすごいことだと思う。それを普通のコンピュータ画面上で、テキストもファイル全体も瞬時に変換してしまうところも驚異的だ(まだ未体験の人は、一度試してみることをお勧めします。多言語対応で、音声による変換もできるし、行ったり来たりの変換を繰り返したりとか結構遊べます。カメラで写した文字の変換ができるアプリまで登場した)。我々が日本語訳を見て不自然に思うところもまだまだあり、日英変換も英語ネイティブが読めばそうなのだろうが、これだけの英語を日本人が書くことがどれだけ大変かを考えると、まさしくドラえもんの「ほんやくこんにゃく」の世界である。特に英語による世界への発信の少なさが大きなハンディになっている日本(国、団体、個人)にとって、この日英翻訳技術の進化は大変な効果をもたらすだろう。この世に完璧な翻訳というものは存在しないし、実世界では「ほどほどの」翻訳ですむケースが大部分なので、文芸や、正確な翻訳を必要とする分野を除く大半の文章(簡単な通信文や、論理的に書かれたビジネス文書、論文等)の翻訳は、学習を続けるコンピュータがいずれほとんど代替するようになるだろう。さらに音声認識システムが並行して進化すれば、文書のみならず会話でも同じことが実現できる。複数言語による文書の「同時」作成も可能になるし、もっと先には、AIが「複数言語で同時に<小説>を執筆する」という世界ももはや夢物語ではない。

ただし、誰もが簡単に、異言語(外国語)のおおよその意味が理解できるようになるということは、逆に、高度な言語能力を有した人の価値(需要?)だけがさらに高まるという可能性も示唆している。その点では、インターネットの普及による情報と知識レベルの平準化によって、実業や芸術など、既に他の分野で起きていることと同じだ。しかしながら、AIによるこの言語を扱う革命的技術が世界をどう変えるのかは想像を超えている。「モノ」造り、「IT」、「IoT]と来たこれまでの技術革新とは「質が違う」からだ。単純に、便利で楽になったと喜んでばかりいられない気もする。語学の習得を含めて、人間が手や足のみならず「自分の頭」を使う機会までますます減っていくのも、良いことなのかどうかはっきりしない(もちろん人間は、そうした新技術を利用しながら生き続けてゆくのだろうが)。インターネットが既に世界中の情報交信の壁を取り払い、さらに難しいと思われていた民族や国家間の言語の壁まで取り払われることになると、これから先いったいどういう世界が到来するのだろうか?……などと妄想しつつ、今日も「人力」英日翻訳に悪戦苦闘している私であった。