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2017/03/03

ジャズを「読む」(1)

その昔、ジャズには「演(や)る」、「聴く」、「語る」、「読む」という4つの楽しみがあった。

「演る」は、当時はプロのミュージシャンや、ジャズ演奏家を志す限られた人たちだけの特権だったので、一般のジャズファンの楽しみはもっぱら残りの3つだった(当時の「聴く」はもちろんほとんどがLPレコードだ)。あれから半世紀、今やそうした世代が年をとり、ジャズファンの絶対数が減ってゆく中、昔ジャズ喫茶や、飲み屋や、書物という場で繰り広げられた「語る」という光景と楽しみは、もはやほとんど消え去ったようだ。
油井正一 
<ジャズの歴史物語>
初版1972年(これは2009年復刻版)
アルテスパブリッシング
「読む」楽しみも、当時のジャズファンにとっては必須のものだった。あの時代はみなジャズを「勉強」していたので、見たこともない海外のミュージシャン(当時はレコードだけで、実物はもちろんのこと映像を見ることも稀だった)のレコード案内や新譜情報、ジャズの歴史や評論を、ジャズ喫茶の暗がりの中で雑誌や本で読んで知ることは知的、感覚的な興奮を得るために不可欠だった。「権威」の匂いがするクラシック音楽に対して、既成の体制への「反逆」の香りがするジャズは、1970年前後の日本の若者の心に響き、学生運動のBGMにもなった。ジャズの「複雑さ、難しさ」もその魅力の一つであり、よく分からないもの、深遠なものに対する知的憧れも、モダンなカッコ良さとともに一部の若者の心を掴んだ。昔は音楽に限らず美術でも文芸でも、この分からないこと、難しいものに魅力と畏敬を感じる人が多く、ジャズという音楽もその一つだった。その後1960年代の反動として、70年代は社会そのものの空気が「難しい、暗い」ものから「分かりやすい、明るい」ものへと転換し、80年代のバブル騒ぎを経て、90年代のITの出現によってその流れが決定的となった。

21世紀の現代は「分かりやすさ」と「断片(fragment)」の時代だ。あらゆるものが断片化して、全体がどうなっているのかさして思いを巡らせることもなく、クリックという指先のアクション一つであっという間に諸々の断片情報を入手し、ツイッターに代表されるこれも断片的な短い言葉による交信が、毎秒世界中を洪水のように行きかっている。音楽も断片化し、ポップスのみならず、ジャズと言えども1クリックだけでネットから1曲をダウンロードして消費され、ジャズファンの記憶にレコード名として当然のごとく定着していた、アルバム単位の「作品」という概念も、もはやとっくに消え失せたようだ。「分かりにくい」ものは敬遠され、モノも文化も、誰にとってもフレンドリーなものがもてはやされている。みんな物分かりが良くなって、人の言うことをよく聞き、難しいことを言う人は、ヘンな人だと敬遠される。

1954年の論稿から始まる
<相倉久人著作大全上巻>
DU BOOKS
だから現在進行形のジャズの苦境(?)は当然だろう。分かりやすいジャズは、そもそも「いわゆるジャズ」ではないと言う世代もいれば、分かりにくい音楽など音楽ではない、という立場もあるからだ。「ジャズ」というジャンルさえも、もはや無いと言えば無い。その一方で今や溢れる情報で、現代のジャズファンは昔の世代に比べたら圧倒的な量の音楽上の知識を持っている。身近になったジャズを「聴く」代わりに自ら「演る」人たちも増え、ジャズの演奏技術を解説するジャズ教則本が巷には溢れている。ラーメン屋でも牛丼屋でもジャズがBGMで流れている時代だ。そのBGMが聞こえた途端、誰が演奏している、どのレコードだと、瞬時に頭が反応するのがオールド・ジャズファンである。

1970年代でも、ジャズファンというのは数百人に1人くらいの感覚だったので、今となってはたぶん千人に1人くらいではなかろうか?(絶滅危惧種に近い)自分も含めて彼ら「聴く」ジャズファンというのは、「演る」ジャズ・ミュージシャンと思考も、嗜好も、価値観も近いところにいる人たちではないかと思う。金や地位といった普通の人が求めるものに拘泥せずに、自分が信じることに第一の価値を置く、という人間的にはある意味変わり者が多い。だいたい経験的に言って、真っ当な人(世間で言う)はジャズなど聞かない。そういう人は、もっと大衆的で、皆が好む無難なものを選ぶ。複雑そうなもの、よく分からないもの、おかしなもの、変なものに惹かれる人がジャズを好むのであり、存在そのものがどこかおかしな人もそうだ(タモリ氏の言う「ジャズな人」)。だから、そういう人が千人に1人というのは、何となく納得がいく話ではある。そしてジャズを「読む」人というのは、さらにそういう人たちの中の一部だろう。 (続く)