「演る」人は増え、「聴く」人は徐々に減り、「語る」人が大幅に減ったために、「読む」人も減った、というのが現在のジャズの楽しみを巡る構造と言えるのだろう。
私の洋書と翻訳書への興味は、ジャズには本当にもうこれ以上「語る」べきことはないのだろうか?という単純な疑問から始まった。日本で、日本人が、日本人のために語ってきたこと――それはそれで勿論価値のあることだが――それとは別の、これまで知られていない、もっと面白い世界が、ジャズという音楽にはまだあるのではなかろうか?という疑問である。
それまでにナット・ヘントフ(今年1月に91歳で亡くなった)が書いた何冊かの優れたジャズ・エッセイや村上春樹氏の翻訳書などを読んではいたが、海外で出版されたジャズ・ミュージシャンの伝記類はマイルスの自叙伝を除き、あまり熱心に読むことはなかった。しかしアンディ・ハミルトンの「リー・コニッツ」に出会って、これこそまさに自分が読みたいと思っていた本なのだと思った。そして大作の伝記ではあるが、次に読んだロビン・D・G・ケリーの「セロニアス・モンク」もそうだった。二人とも際立つ個性を持つ独創的音楽家だが、日本では一部のコアなファンはいても、いわゆる「人気のある」ジャズ・ミュージシャンではなく、これまであまり深く紹介されたこともない人たちである。自分が長年二人のファンだったこともあって、この2冊の本をじっくり読んでみたが、何よりジャズという音楽とそれに挑戦する人間をリアルに描いていて、まず読み物として実に面白かった。同時にそこで、輸入音楽として主に「レコード」という記録媒体を通して、抽象的に音だけを「聴く」文化が築かれてきた日本のジャズの世界からは見えないもの、知られていないこと、語れないことも、まだまだあるのだということを実感した。
古典としてのモダン・ジャズの楽しみ方は様々だが、音楽的印象や分析以外に、その時代にジャズマン個人がどう生きていたのか、という演奏の背後にある人生や人間模様を知るとジャズをより深く楽しめる。Prestigeでのマイルスとモンクの有名なケンカに関する伝説もそうだが、ジャズという音楽には「音や演奏が全てだ」とは簡単に言い切れない何かがある。音楽的構造や技術面ではすっかり解体、分析されて、基本的な演奏技術について言えばジャズは今や誰でも習得可能な音楽になったかのようにさえ見える。学習したAIが、人間を凌ぐようなそれらしいジャズを演奏をする時代も間もなくやって来るだろう。しかしジャズとは詰まるところ自由な「個人」の音楽であり、ジャズの本当の面白さは、一定の約束事の範囲ではあるが、予定調和ではなく、次に何が起こるかわからない(何をしでかすかわからない)という人間の持つ予測不能性と、そこに生じる緊張感にこそあるのだと思う。多数のサンプルの平均値だけでは導き出せない、演奏者個々人の瞬時の判断の組み合わせと、時間軸に沿ったその積み重ねによって創られる音楽だから面白いのである。時間と空間を奏者と聴き手が濃密に共有するジャズ・ライヴ、特にジャズクラブでの演奏に尽きない変化と面白さがあるのはそのためだ。だがどんな名人でもその演奏は人生と同じで、いい時もあれば悪い時もあり、特に一発勝負のライヴは、メンバー間の相性、場所、楽器、その日の体調や気分などの「可変要素」が多くまたその影響も強い。だから有名プレイヤーが集まればいつも立派な演奏ができるとは限らない。名演もあれば駄演もある。しかしだからこそジャズは面白いのだ。現代のジャズもそこは同じだが、モダン・ジャズ全盛期のプレイヤーたちの背後にあった、創造を指向する強烈なエネルギーと濃密な空気はもはや望めないだろう。
私の洋書と翻訳書への興味は、ジャズには本当にもうこれ以上「語る」べきことはないのだろうか?という単純な疑問から始まった。日本で、日本人が、日本人のために語ってきたこと――それはそれで勿論価値のあることだが――それとは別の、これまで知られていない、もっと面白い世界が、ジャズという音楽にはまだあるのではなかろうか?という疑問である。
ジャズ・イズ (ナット・ヘントフ) 白水社 1982/1991/2009年 (原著初版1976年) |
古典としてのモダン・ジャズの楽しみ方は様々だが、音楽的印象や分析以外に、その時代にジャズマン個人がどう生きていたのか、という演奏の背後にある人生や人間模様を知るとジャズをより深く楽しめる。Prestigeでのマイルスとモンクの有名なケンカに関する伝説もそうだが、ジャズという音楽には「音や演奏が全てだ」とは簡単に言い切れない何かがある。音楽的構造や技術面ではすっかり解体、分析されて、基本的な演奏技術について言えばジャズは今や誰でも習得可能な音楽になったかのようにさえ見える。学習したAIが、人間を凌ぐようなそれらしいジャズを演奏をする時代も間もなくやって来るだろう。しかしジャズとは詰まるところ自由な「個人」の音楽であり、ジャズの本当の面白さは、一定の約束事の範囲ではあるが、予定調和ではなく、次に何が起こるかわからない(何をしでかすかわからない)という人間の持つ予測不能性と、そこに生じる緊張感にこそあるのだと思う。多数のサンプルの平均値だけでは導き出せない、演奏者個々人の瞬時の判断の組み合わせと、時間軸に沿ったその積み重ねによって創られる音楽だから面白いのである。時間と空間を奏者と聴き手が濃密に共有するジャズ・ライヴ、特にジャズクラブでの演奏に尽きない変化と面白さがあるのはそのためだ。だがどんな名人でもその演奏は人生と同じで、いい時もあれば悪い時もあり、特に一発勝負のライヴは、メンバー間の相性、場所、楽器、その日の体調や気分などの「可変要素」が多くまたその影響も強い。だから有名プレイヤーが集まればいつも立派な演奏ができるとは限らない。名演もあれば駄演もある。しかしだからこそジャズは面白いのだ。現代のジャズもそこは同じだが、モダン・ジャズ全盛期のプレイヤーたちの背後にあった、創造を指向する強烈なエネルギーと濃密な空気はもはや望めないだろう。
マイルス・デイヴィス自伝 クインシー・トループ共著 シンコーミュージック (JICC原著初版1990年) |
私は自分で「語る」ほどのジャズ体験も知識もないド素人なのだが、せめて海外で書かれた優れた書籍を紹介し、少なくなったとは言え、自分も含めてジャズを「読む」日本の人たち(特に英語嫌いな人たち)に多少の楽しみを提供するくらいのことはできるかもしれないと思って翻訳を始めた。村上春樹氏のような大作家は、自ら創作するためのエネルギーを内部に蓄積するために、敢えて翻訳という制約のある「枠内」作業に定期的に取り組んでいる、という話をどこかで読んだことがある。しかし特殊で、難儀で、時間はやたらとかかるが、金にならないジャズの翻訳書を世に送り出そうとする一般人がこの時代そうはいるはずもなく、その手の仕事は誰かヒマで、モノ好きな人間がやるしかないだろう。そういう「ジャズな人」の楽しみと喜びは、自ら手つかずの分野を探り当て、そこを掘り起こして新たな視点を見つけ、まだいるはずの「ジャズを読む」人と、その楽しみを分かち合うことである。