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2017/03/17

「ジャズはかつてジャズであった」

1970年代のことを調べているうちに、本棚から出てきた懐かしい本と再会した。今から40年前に出版された、中野宏昭という人が書いた「ジャズはかつてジャズであった」という本だ(1977年 音楽之友社)。中野氏は1968年に大学を卒業後スイング・ジャーナル社編集部に入社した人で、数年後に体調を崩して同社を辞めた後も評論活動を続けていたが、1976年に病気のためにわずか31歳で夭折している(まったくの偶然だが、今日317日は彼の命日である)。この本は1970年からの短い6年間に、中野氏が雑誌などに寄稿した評論と、当時のLPレコードのライナーノーツとして書いた文章を、野口久光、鍵谷幸信、悠雅彦氏らが故人を偲んでまとめた遺稿集である。この本のタイトルは、「ユリイカ」の19761月号で発表された記事の表題からとったものだ。チャーリー・パーカー以来のジャズの伝統を受け継いできたキャノンボール・アダレイの死(1975年)が象徴するものと、マイルス・デイヴィスが当時模索していた新たな方向が示唆するものを対比しつつ、かつてプレイヤーが自らの身を削って生み出した、その場限りの瞬間の肉体的行為であったジャズが、エレクトリックの導入や、レコーディングという「作品」を指向する創作の場が主体となったことによって、かつて持っていた始原的創造行為という特性をもはや失った、という70年代の混沌としたジャズの情況を表現したものだ。とはいえ、ここで彼はジャズが終わったと言っているわけではなく、ジャズの持つ強靭さを信じ、新たな道筋を歩み出すジャズの未来をマイルスの当時の活動の中に見出そうとしている。

読んでいると、こうして駄文を書き連ねているのが恥ずかしくなるような、ジャズに対する深い愛情と真摯な態度に満ちた珠玉の言葉の連続だ。時代状況を反映して、企図された集団表現に舵を切ったマイルス・デイヴィスのエレクトリック・ジャズと、ジョン・コルトレーンの死後もなお伝統的な個人のインプロヴィゼーションを追求する継承者たちの対比に関する論稿なども書かれているが、今読んでも、透徹した視点と深い洞察で貫かれた素晴らしい文章である。おそらく死と向き合っていたこと、また自ら詩もたしなんでいたこともあるのだろう、言葉の隅々にまで繊細さと抒情が浸みわたる研ぎ澄まされた文章と固有の美学は、これまでの日本のジャズ批評がついに到達し得なかった最高度の領域に達していると思う。しかも過去のジャズに拘ることに価値を認めず、70年代の新進のミュージシャンについても、幅広い音楽的視点から未来への期待を込めて取り上げている。日本のジャズ史上稀な、このような優れたジャズ批評家が生きていたら、以降の日本のジャズシーンもひょっとしたら違ったものになっていたかもしれないと思わせるほどだ。しかしながら、その後に続く80年代のアメリカの経済的停滞と、日本のバブル騒ぎという商業主義の時代に巻き込まれたジャズの変遷を振り返ってみると、こうした知性と豊かな感性を備えた批評家がジャズの世界で生きてゆくのは結局難しかったのかもしれないとも思う。 

ビル・エヴァンスの「エクスプロレーションズ Explorations」(1961 Riverside)は、70年代にLPを入手して以来、CDを含めておそらく私がもっとも数多く聴いたジャズ・レコードだ。エヴァンスの他のRiverside作品に比べると一聴地味なスタジオ録音だが、当時のエヴァンス・トリオ(スコット・ラファロ-b、ポール・モチアン-ds)の究極のインタープレイがアルバム全体を通して収められた、芸術の域にまで達した稀有なジャズ・レコードの1枚だと個人的には思っている。<イスラエル>から始まり、<魅せられし心>、<エルザ>、<ナーディス>…等流れるように名演が続き、何より他のアルバムにはない深い陰翳とアルバム全体から醸し出される芸術的香気が素晴らしい。そして、そのLPのライナーノーツを書いていたのが中野宏昭氏だった。 

60年代までは、当時貴重だったレコードに関する史料的情報と、有名ライターのジャズ審美眼ゆえに読む価値があったライナーノーツは、LPが大量に発売され比較的簡単に入手できるようになった70年代に入ってからは、それほど重要でも、価値のあるものでもなくなっていた。しかし、このエヴァンス盤のライナーノーツだけは違っていた。中野宏昭という名前を初めて知ったのもこのライナーノーツを通じてであり、ビル・エヴァンスの真髄を捉えた知と情のバランスが見事なその解説は、エヴァンスの傑作ピアノ・トリオにまさにふさわしいもので、以来このLPと共にずっと私の記憶から離れずにきた。ジャズとは奏者にとっても聴き手にとっても、基本的に「個」の音楽であり…レコードにも誰もが認める名盤というものはなく、あるのは一人ひとりに固有の名盤だけだ…という本書中の中野氏の言葉に深く同意する。エヴァンスのこのレコードは、私にとって真の名盤なのである。